「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」

――日本石器時代終末期問題――

喜田貞吉




 惚れた目から見れば痘痕も笑窪に見えるという諺があるが、反対に、いやと思う眼から観れば笑窪も時に痘痕に見えようというもの。余輩が昨年〔(昭和一〇年)〕癌腫保持者たるの宣告を受けて、懇意な人の中には手術をすすめてくれる者もあったが、多数は反対の意見に傾いて、「何分お年がお年だから、それに心臓も丈夫でないようだから」などと、医者からまでも非観説を[#「非観説を」はママ]聞かされてみると、自分もつい臆病になって来る。見舞客から親切に知らせてくれる幾多の先例、自身の記憶から考えてみる若干の見聞、とかく手術の結果のよくなかったもののみがしきりにあらわれて来る。念のために医学者の発表した癌に関する文献などをあさってみても、とかく悲観的のもののみが多く頭に映って来る。結局はあらゆる方法をつくして病勢昂進阻止の手段を取り、そのうえは天命にまかすよりほかなしと覚悟を極めたのであった。しかるにたまたま順天堂八代〔(豊雄)〕博士の自信にみちた勧告によって、その神技に依頼して患部を除去して貰ってみると、思いのほかにその結果がよくて、爾来約十一ヵ月の今日まだ少しも再発の徴候もなく、ともかくもこうして万年筆を走らす身となっているのである。そうなると奇態なもので、今度は手術の結果の善かった実例が盛んに集まって来る。自身書を寄せてその根治の体験を知らせてくださる親切な人もある。そんなに良い成績を挙げた先例がたくさんあることに前から気がついていたのだったなら、自分はなんら顧慮することなく手術をして貰うのだったのにと思ったことだった。
 痘痕も笑窪に見えるとはここのことだ。色眼鏡をかけて見ればすべてのものがその色にうつるのと同様だ。自分の好むところのものがしきりに目について、好まぬところのものはつい軽々に看過してしまうのだ。学者がよほど公平に資料を蒐集しているつもりでいても、とかく先入観が主となって自説に都合のよいことのみがしきりに注意せられ、都合の悪いものはとかく閑却されがちになる。御互いに研究に従事するものの警戒せねばならぬことだ。
 枕が案外長くなったが、さて本文に入って、本誌〔(『ミネルヴア』)〕五月号〔(第一巻第四号)〕所載、山内清男君の「日本考古学の秩序」なる論文について少々述べてみたい。山内君のあの論文は、余輩が四月号に書いた「日本石器時代の終末期について」〔(本巻前章)〕の小論を見られて、それを対象として余輩の啓蒙のために書かれたものらしいからだ。
 もともと余輩のあの小論文は、山内君のいわゆる「怪しいもの」、「いかがわしいもの」を学界に紹介した当の責任者として、いささか釈明を加えたつもりのものだった。しかるに筆が至らなかったがためか、どうもその釈明の主意が山内君には通じなかったらしく、わざわざ余輩のために持論を繰り返されたのに恐縮する。そして余輩がその正確を確認する岩手県大原町〔(大東町)〕の宋銭伴出の事実をもって、「かも知れないであろう」とのきわめて漠然たる想定のもとに、相変らず「怪しいもの」「いかがわしいもの」として、葬ってしまおうとせられるのには閉口せざるを得ぬ。どうもお互いに色眼鏡がかかっているらしい。少くも手術を恐がっていたさいの余輩にとって、とかく不結果であった事例のみがしきりに目につき、成績の良かった場合がとかく閑却されたというようなところがお互いに確かにあるらしい。
 ところで、自分のことは自分にわかりかねる場合が多いから、それは第三者の方々の批判なり御注意なりを願うこととして、まず山内君の場合について観察してみたい。山内君は御自分達で組織せられたいわゆる「日本考古学の秩序」なるものによって、相変らず石器時代の文化状態は全国各地ほぼ並行し、その終末期もほぼ相似たものであるとの持説を固執せられて、それに都合のよくない余輩の提示した石鏃の脚有無の問題などは、全く閑却に附せられているのである。しかしこの問題は確かにわが石器時代文化の著しい一現象なのだから、そう手軽に閑却して貰っては困る。けだし山内君は熱心に土器を調べておられる立場から自然その方に重きを置かれて、伴出石器などはあまり顧慮しておられぬらしい。もちろんわが石器時代の研究対象としては、土器が最も重きを置くべきものであるには相違ない。しかし石器時代の文化は必ずしも土器のみに表現せられているのではない。それと伴って必ず他の伴出遺物にも注意せねばならぬは無論であろう。ところで土器が全国に広く並行して存在し、同一系統の文化がほぼ共通の状態で各地にあらわれているというならば、これと伴う石鏃の問題はどう解すべきか。どちらかといえば土器のごとく比較的形も大きく、かつ毀れやすいものは遠方に移行するのが面倒なはずで、これに比すれば石鏃のごときは、容易に他に移って行くべき便宜を多く有するはずである。したがって一方にすでに石鏃の脚をつけることが始まり、それが使用上便利であることが知られたなら、その風は土器の型式よりもいっそう速やに[#「速やに」はママ]、かつ広く、久しからずして他にもうつり、同じく脚のあるものが各地に造られたはずであると思う。関東地方においては、比較的新しいと認められる土器に有脚鏃が多く伴い、古いと認められる土器に無脚鏃のみが伴うという。この事実はおそらく山内君も認められていることと思う。多くの点において土器に関して山内君と相類した意見を有せられるらしく思われるが八幡一郎君が書かれたものには、立派にこのことを認めておられるのである。しかしてこの現象は余輩の親しく調査した奥羽や北海道地方においても同様にあらわれて、遺蹟によっては全然有脚鏃のないのもあれば、発見石鏃の約八、九割までが有脚鏃だという事実もある。要するに有脚鏃はわが石器時代のある時期以後に始まったもので、それが実用上便利なるがためにその後盛んに製造せられ、前からあった無脚鏃も骨あるいは竹木をもって脚を造りそえ、有脚鏃としてこれを使ったものであったに相違ない。しかるに中国・九州方面では、ある特殊のきわめて少許の例のほかは、全く有脚鏃は存在しないのである。これはまさに事実であるからなんとも仕方がない。研究者はすべからくこの事実に基づいてしかるべく理窟をつけてみねばならぬ。土器は全国ほぼ共通に、同じ年代に同じ型式のものが行われたが、石鏃のみはわれ関せず焉として、西部地方に限って最後まで旧態を持続していたなどとは、まさに山内君も主張せられまいと思う。石器時代文化はあえて土器のみによってあらわされているのではないのだから。しかるに余輩がくだくだしくも述べておいたこの石鏃問題に関して、山内君が一言もそれに触れておられぬのは、手術を恐がっていたさいの自分にとって、その好結果を得た実例が知られていてもつい閑却されがちだったのと同じと見るはいかに。要するに中国・九州方面では、わが石器時代人がいまだ石鏃に脚をつけることを始めぬ前に、すでに石器時代の終末を告げたと見るほかはないのである。それでいてどうして石器時代の終末期が、各地ほぼ同様だなどと言い得られるであろう。
 次に宋銭伴出の問題にうつる。山内君は余輩が単に子供の話を聞いたのみで軽率にこれを盲信し、その以外なんら正当性について検討を加えなかったかのごとく疑われた。恐縮の次第である。いかに「素人考古学者」だからとて、これはあまりにもお手軽く扱われたものだ。この遺蹟は大原町とはいっても、ずんと山間の渓流に沿うた丘陵の麓にあって、石器時代人は確かにそこに聚落を造っていたが、その後になって農民などがそう古く入り込むべき場所ではないのである。またその遺蹟は上み手から流れる土砂にて蔽われて、現在では地下約三尺五寸のところに包含せられているので、もちろんこれと重複した他の遺蹟の存在はその附近に認められるべくもないのである。また問題の銭入土器が発見せられたのは、石器、土器等の多く発見せられた同層位の炉の附近で、むろん土器の脚を灰皿として使用するような好事家が、後世玩弄物としてこれを蓋物に造り上げて、時にその中に銭貨を蔵め、これをわざわざ遺蹟の土を掘って埋めたのが、たまたま炉の側であったなど考うべき余地のあるものではない。しかし単に余輩の言のみではなお不安心であろうから、余輩がかの小論文の載った『ミネルヴア』を所蔵者菅原儀左衛門に寄贈したに対して、同君から寄越された挨拶状の一節を念のために左に摘録する。
 ……日本石器時代終末期に就いての題下に、先生の論説を繰り返し繰り返し再三四度拝読いたし、石器時代遺蹟から宋銭発見の事実、拙者発掘に関する事項に関しては寸毫も相違無之、其の記事の正確さは、伜の明も、孫の靖夫(青年学校在学中)も、只管恐れ入り申て居ります。……
 これも素人の言として無価値だと言われるかも知れぬが、少くもそれが余輩の聞き違いや、観察違いでなかったことだけは御承知ありたい。なお山内君が、これが縄文式と同時代とすれば、この他にも同じ交渉を示す物件が、同じ遺蹟から発見されるであろうという点に余輩の調査の粗漏を疑っておられるようだが、そんなうまいものがそうザラにあるものではない。しかしもしいくらか参考になるものを挙げよとならば、余輩がその実地を踏査した昭和八年十一月二十三日の前日に、例の炉のあった場所の少し上方の斜面地を掘ったところが、地表より四尺の下からこれが出たとて、鉄※[#「金+宰」、U+28AC3、173-13]のやや大きな塊を示された事実を提示することが出来る。しかしかかる物はそう珍らしくもないことゆえに、すでに宋銭発掘の確実なる事実ある以上、それまでにも及ぶまいとかの小論文には書かなかったのだったが、いかに「素人考古学者」だとてそのくらいの注意は払っているつもりであることを幾分御承知置き願いたい。
 要するに事実はどこまでも事実である。学者はすべからくその事実に立脚して合理的説明を試みねばならぬ。石鏃の脚の有無にしてもしかり。いたずらにこれを閑却してはならぬ。この宋銭問題にしてもまたしかり。後世の人が玩弄物として作った蓋物に、たまたま銭貨を入れておいて、それをたまたま地下二尺五寸を穿って埋めたところが、たまたまそれが石器時代住居址のしかも炉の側であって、それがたまたま昭和八年に至って発見されて、喜田がたまたまそれに欺されたのだなどと、そんな廻りくどいことを考える前に、まずその事実に立脚して、かりにこれを是認する側に立って考えてもみて貰いたい。かくのごときの事実の存在は、山内君らのいわゆる「日本考古学の秩序」とか、「土器型式の編年的研究」などいう仮定を少々弛めさえすれば、立派に認め得られることなのである。それはすでに簡単に説明しておいたから繰り返さぬが、どうも近ごろの若い人々は現代の頭をもって古えを判断せんとするから困る。今日のように教育が山間僻陬の地までも普及して、国民いずれも同じ人間たることを自覚し、交通もまた至便になっている時代の頭をもってしては、わずかに六、七十年前のことでも容易に判断し得ない場合が多かろう。鉄が自由に使えるようになったのは近く明治十五、六年以来のことで、田舎の僻地に生れた余輩の幼時には、釘なども竹を削って造り、便所の開き戸などにも金属の蝶つがいの代りに、寺院の観音開きの扉のように、木に孔をあけたものを上下に打ちつけて、戸の枠の一方を長くしてそれにさし込み、それで問に合わした[#「問に合わした」はママ]ものが多かったくらいだった。いわんや蝦夷に対しては刃物はもとより、鉄材をも与うることを国法をもって禁じてあった風習は、後世までも保存せられていたほどだったから、八、七百年前の奥羽の山間僻陬の地に、鉄器を自由に使い得ぬ生蕃状態の生活が保存せられていたとしてなんの不思議があろう。
 なお古銭の出たということはひとりこの大原町山間の例ばかりでなく、多少価値が少いと思っていたかの青森県是川村〔(八戸市)〕堀田の竪穴出土のものも、この大原町の発見によって立派に生きて来る。地面に杭を打って、それを引き抜いた穴にたまたま銭貨が落ち込んだのかも知れぬと理窟をつけてみた人もあったが、地表下五尺五、六寸というような杭がいったいなんのために打ち込まれたであろう。またそれを引き抜くことも容易でないが、かりにそれが出来たとしても、土も崩れ込まずにその穴がソックリあいているだろうか。またよしやあいていたとして、たまたまそこへ銭が底まで落ち込んで、それがまたたまたま竪穴の真ん中だったなどと考えてみる必要がどこにある。その伴出土器が亀岡式よりも古いものならば、その古い時代にすでに宋銭があったという事実に立脚して、これが実年代を考うべきものであると信ずる。
 ついでながらここに新たに宋銭出土の一新例を紹介したい。これは最近に長野県諏訪郡豊平村〔(茅野市)〕、宮坂栄弌氏から報告せられたもので、縄文土器破片の散布している畠地で、石皿・石匙・石鏃・石斧などとともに元祐通宝を採集せられたというのである。もちろん表面採集としてこれのみでは価値は少いが、他にいくつも確かな例がある以上、これまた一例として考慮に上すだけの価値はある。
 縄文式遺蹟から往々鉄製品が出たということについても、あれも疑わしい、これも処女地でないかも知れぬと、自説に都合の悪いものをことごとく手軽に葬り去ることは、憎がる眼に笑窪も痘痕に見える類ではなかろうか。今少し親切に検討を加えて貰いたい。津軽森田村の曲玉のことは余輩には初耳であるが、それがもし是川村中居の出土品と同様のものならば、新たに鉄製石器時代曲玉に一例を加えたものとして尊重したい。よしや表面採集であるとしても、その形態そのものが石器時代曲玉の特徴をきわめて濃厚に保有するものであるから、石器時代において鉄材をもって曲玉を造ったことがあった事実をいかにしても否定し難いのである。いわんや他に鉄製品出土の傍例の少からざるにおいてをやだ。
 最後に山内君は余輩が提示した諸例によって、是川では前期または中期、久栗坂では後期、亀岡では晩期の土器に伴って、鉄製品や宋銭が出たことになるので、これはついに意外な結論を生もうとしているように見受けられると心配しておられるが、何も意外なことではない。かりにそのいわゆる前期・中期・後期・晩期なる仮定が、果してそうであるとすれば、鉄製品や宋銭がそのころにあったという事実に立脚して、さらに合理的説明を下すべきものであろう。自己の仮定説をそのままに置かんとする立場からはなるほど意外であろうが、それならばその仮定説に改訂を加うればよい。西の方ではまだ石鏃に脚をつけることの始まらぬ遠の昔に石器時代から足を洗っても、東北では宋銭のわが国に流通した時代までも石器時代が継続して、そんな土器を作っておったという事実を認めることがなんで意外な結論になるのであろう。
 なお山内君は、余輩がかつて東北地方におそらく漢代以前のシナ文化が輸入せられていたろうとの説を発表したに対して、それでは亀岡式土器文化は西紀二、三世紀のシナ文化を受くるとともに、今から数百年前の日本文化をも取り入れたことになって、それがさらに遠方にまでの進出をも可能となり、誠に神業というほかはないと揶揄された。全く恐縮千万である。しかし誰がそんなことを考えたであろう。よしや東北地方に漢代以前の文化が輸入せられたとしても、その時代からいわゆる亀岡土器文化があったと何故に考えねばならぬだろう。亀岡式土器と硬玉製曲玉とが伴出したからとて、その材料がその時代に輸入せられたと何故に考えねばならぬのであろう。蝦夷はことに古物を珍重し、代々これを持ち伝える風習があり、また好んで古風を尊重して、容易に改めない習慣がある。山内君が亀岡式後半に見らるるという内反り石刀のごとき、その内反りの形は最も古い様式を伝え、またその柄頭の形態文様はわが古墳出土の鹿角製直弧文装飾を有する柄頭に系統を有するものと認むべき理由があるが、さればとてこれによりて内反刀時代と古墳時代とをチャンポンに見る必要はなかろう。また今のアイヌが伝うるハヨクベすなわち鎧は、わが古墳から発見せられる挂甲の系統をそのまま伝えたものだからとて、誰がその実年代をわが古墳時代に持って行こうとする。『津軽藩日記』によると、元禄九年十一月に津軽外浜母衣月の蝦夷チヱヘカインが「代々持来候」陶器の花入を津軽侯に献上し、「高覧に入れ奉り候」ところ、「御機嫌の御事に御座候」とある。いずれ古渡りの陶器だっただろうが、それだからとてそれを元禄時代と誰がゴッチャにするであろう。これもやはり笑窪が痘痕に見えるものといわねばならぬ。自分がかつて発表したところ、十余年後の今日から見れば多少再検討を要するものもあろうが、しかも漢以前の文化の遺物や、その伝統が後まで伝わっていたからとてそこになんらの矛盾を生ずべきではない。
 惚れた目には痘痕も笑窪に見える。これをいやと思う目から見れば笑窪も痘痕に感ぜられる。願わくは先入観の仮定を捨てて虚心坦懐に再検討していただきたい。
(昭和一一・五・一六)





底本:「喜田貞吉著作集 第一巻 石器時代と考古学」平凡社
   1981(昭和56)年7月30日初版第1刷発行
初出:「ミネルヴァ 第一巻第五号」
   1936(昭和11)年6月
※〔 〕内は、底本編者による加筆です。
※本文の雑誌名「ミネルヴア」は底本通りです。
入力:しだひろし
校正:杉浦鳥見
2021年6月28日作成
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「金+宰」、U+28AC3    173-13


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