遺物・遺蹟と歴史研究

喜田貞吉




 過去の住民たるわれらの祖先が遺した遺物・遺蹟が、過去におけるわれらの祖先の生活状態を明かにし、その変遷発達の蹟を示すうえにおいて、最も有益なる材料なるべきは言うまでもない。歴史家が史料として取り扱うべきものが、ひとり文字によって伝わった記録ばかりでなく、これら遺物・遺蹟またその重きをなすべきことは、今さらに余輩の贅言を要しないまでに公知の事実である。特に余輩の主として研究しようとする太古・上古の事蹟に関しては、文献きわめて少く、そのわずかに存するものも、多くは後代の思想をもって語られ、あるいは筆にせられたる伝説を主としたもので、ことにそれがある特殊なる階級にのみ関して存するというような時代のことについては、当時のものそのまま伝われる遺物・遺蹟の研究が、最も重要なる地位を占むべきは無論である。余輩が本誌〔(『民族と歴史』)〕の綱領において、ただに古今文献の調査のみならず、あまねく遺物・遺蹟・土俗・伝説・言語・信仰、その他人類学上、社会学上の諸研究に顧慮すべきことを呼号したのは、全くこれがためである。
 ここに遺物とは、主として古人の遺した物品のことであるが、その遺骨のごときも、やはり遺物といううちに数えてよい。また遺蹟とは彼らの住居蹟・墳墓、その他彼らの活動の蹟を止めた一切の場所を示すものである。しかしさらにこれを広くいえば、土俗・伝説・言語・信仰のごとき無形のものも、往々その中から古人の面影を髣髴し得べきものがあって、広義にはまたこれを遺物の一に数えてもよい。かくてそのいわゆる遺物・遺蹟が、今は実物に存せずして、文字によって伝えられているものもまた少くない。遺物・遺蹟研究の資料としては、これまたはなはだ重んずべきものである。しかしながら、今は論旨の散漫に渉るを避けんがために、土俗・伝説・言語・信仰等のことは、問題外としてしばらくこれを措き、もっぱら考古学者の扱ういわゆる遺物・遺蹟にのみ関して、歴史研究上の見地から、いささか管見を述べてみたい。
 遺物・遺蹟は普通に考古学者の研究の対象物として、取り扱われているものである。その考古学者の立場から見た扱い方については、本誌〔(第一巻)〕第二号において、「遺物・遺蹟と民族」の題下に、浜田〔(耕作)〕博士が要領を発表された。簡単ながらもさすがに専門家の所説として、十分傾聴すべきものと認める。しかしながら余輩は、さらに歴史家としての立場から、これらの遺物・遺蹟を、記録文書と同様に、歴史研究上の史料として取り扱ってみたい。
 考古学者はある遺物・遺蹟について、実物そのものの研究上より、その性質を明かにし、他の遺物・遺蹟との関係を尋ねて、その変遷発達の状態を知ろうとするをもって目的とする。しかして歴史家は、その結果をとってこれを自己の研究上に応用し、過去における民族の沿革を知ろうとするのである。
 従来歴史家が史料として取扱ったところは、通例文字をもってその事蹟を記録してある時代以降のことのみであった。なんら記録の徴すべきものなく、もっぱら遺物・遺蹟のみによって当時の事蹟を知るを得るというがごとき時代のことは、これを挙げて考古学者に委任し、自家の研究範囲以外のこととして、顧みなかった場合が多い。したがって有史時代・史前時代などいう称呼さえ一般に行われているのである。なるほど「史」という語の意義から厳密に言わば、記録すなわち歴史で、記録のない時代はすなわち歴史のない時代である。しかしながら学問は日進月歩で、その取り扱う範囲も次第に広くなれば、用語の意義もだんだんと変って来る。今日において何人か記録のみをもって、歴史家の扱うべき研究史料の全部だと信ずるものがあろう。歴史をもって人類社会の過去における変遷発達の蹟を明かにする学問だと解する以上、記録なき時代のことでも、当時の人類の遺したある物によってこれを知り得る限りは、これを研究して闡明ならしめることを努めるのが、すなわち歴史家の任務ではあるまいか。
 世間あるいは歴史とだにいえば、必ず絶対的年代と、その舞台上に活躍した人物とを明かにするを要とするがごとくに考えるものがある。なるほど年代と人物とは、歴史上の一要件であるには相違ない。しかしながら、それが明かでないがゆえに、歴史は存在しないとはいえぬ。『日本紀』に書いてあるように、強いて何年何月何日とまで、※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)ながらでもその日附を明記せねば、歴史は成立しないものではない。『古事記』のようななんら年月の記載のない記事からしても、立派に歴史事実はある程度まで求め得られるではないか。また民族の発展が、ある個人の名のもとにのみ行われたごとく考えるのも、確かに一の迷信である。故乃木大将はかつて国定教科書を※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)閲して、「某将軍は某軍を率ゐて何々を攻囲した」とあるのを、「某将軍の率ゐたる某軍は、何々を攻囲した」というように改めるべく希望されたことがあった。しからば某将軍の名がよしや不明でも、軍の行動の記述は出来るのである。日本民族が東西の夷族に対して、征服の偉業をなしたについても、必ずしも日本武尊という個人的英雄の御名のもとにのみ行われたと信ずる必要はない。なんら記録の伝うるところがなくとも、河内国府衣縫いぬいの遺蹟、越中氷見洞窟内の遺蹟において、最下層にアイヌ式の遺物のみが発見せられ、その上層に弥生式の遺物のみが発見せられたならば、これらの地はかつてアイヌ系の住民によって占領せられていたのが、後に弥生式民族の手に帰したことを明かにすることが出来るではないか。この場合において、アイヌが勝手に退転したか、戦闘によって駆逐せられたのか、その事件が何年何月何日に起ったか、双方の統率者がなんという人であったかを明かにするを得ずとしても、両民族棲息の相対年代を知り、両者交替の事蹟を明かにするを得るだけでも、太古におけるわれら祖先の発展の事情を、歴史的にある程度まで観察することが出来るのである。しかしてかくのごとき遺蹟が多く発見せられ、その研究がますます精緻の域に進むに従って、そのいわゆる相対的年代も、次第に精密の度を加え、両者活躍の舞台の範囲も、ますます明かになって来べき訳である。これは単に一例に過ぎないが、わが日本民族の歴史は、かくのごとき方法によって、その出発点をいわゆる有史以前に求むべきものである。
 しかしながら、遺物・遺蹟そのものの研究は、とうてい考古学者の任務に属する。余輩歴史家はその研究の結果を借りて、余輩の研究に応用すればそれでよいのである。ただ悲しいかなわが考古学界の進歩は、目下なおはなはだ幼稚なものであって、いまだ歴史家の希望するがごとき材料を供給し得るの地位に到達していない。したがって余輩歴史家は、やむを得ずみずから歴史を研究するの傍、ある程度までは進んでこれらの方面に材料を穿鑿し、これを利用しなければならぬ場合が多い。もとより余輩は、考古学のためにこれらの遺物・遺蹟を研究するのではない。必要なる歴史材料として、それに必要なだけの考古学的研究を加えるに過ぎないのである。専門家より見られたならば、徒労も多かろう。見当違いのことも少くはなかろう。これに対しては専門家諸賢の、忌憚なき鞭韃と誘掖とを希望したい。余輩の意見にして毫も採るに足らぬものならば、速かにこれを廃棄せしめよ。余輩の意見にして一面の真理あるものあらば、これを助長するの親切を吝むなかれ。弁難攻撃、切瑳琢磨の間に、物はその落ち付くべきところに落ち付くのである。
 しかるに浜田博士の本誌二月号上に公言せらるるところのごとくんば、博士はその進歩に対してあまりに呑気である。博士は「自己の反対説を論駁するほど短気ではない」と言われた。博士は「永遠の真理の討究者であることを思ふごとに自分の功名のみを争ふべからざることを切に感ずる」と言われた。悠揚逼らざる大人の態度として、敬服の至りではあるが、失礼ながらその所為は、学界の進歩のために忠実なるものとは言い難い。余輩は博士に対して、今少し短気なれと希望したい。積んでは崩し、積んでは崩しするうちに、砂丘はだんだんと高くなる。余輩はわが学の進歩を促すうえにおいて、百年河清を俟つの態度を採るべくあまりに短気である。ひとり浜田博士とのみ言わず、一般斯界の諸賢が、余輩の研究に対して忌憚なき是正を与えられることは、切に希望するところである。躊躇なき意見の発表は決して功名心のためではない。後日の新発見を待って学説の完きを期するは、自分ただ一人が研究の衝に当る場合においてのみ採るべき道である。広く学界に意見を提供し、互いに切瑳琢磨してこそ研究は進歩すべきものである。その発表したる学説が、新資料の発見によって崩壊したならば、それだけ学説は進歩したのである。いたずらに後の発見を顧慮して、発表を差し控うべきものではない。他山の石取ってもって玉を磨くべし。学者はすべからく現時における資料について、常に最良ベストを持しつつ進むべきものである。この点において余輩は、浜田博士とはなはだしく研究の態度を異にすることを、ここに表白せざるを得ぬを遺憾とする。
 余輩の研究はどこまでも歴史的なることを期する。しかしてその研究に際しては、「歴史以前もしくは文献の価値少き原史時代の研究に際して、あらかじめ従来の歴史家が後世の編纂物、あるいは伝説等から研究した結果を、先入主としてこれに囚はれることは、最も避くべきことである」との博士の忠言の趣意をもって、つとに常に警戒服膺しているのである。しかしながら、余輩は実に考古学のために遺物・遺蹟を研究するのではない。単に歴史研究のために、文献の所伝と相啓発すべく、余儀なくその資料なるべき遺物・遺蹟に対して、みずから考古学的研究を加えているに過ぎないのであるから、余輩の遺物・遺蹟の研究は、遺物・遺蹟そのものを知らんとするのではなくして、これによって余輩の歴史研究の当否を検定し、さらに進んでこれが正確なる証明を得んとするのにほかならぬ。もとより文献のために囚われて、遺物・遺蹟を曲解せんとするがごとき態度は、十分避けたいつもりである。もし誤ってこれがために囚われるようなことがあったならば、傍観者は容赦なくこれを警醒するの親切があって欲しい。言うまでもなく文献の研究は、文献の盲信の謂ではない。しかるに世の実物の扱いにのみ慣れた学者の中には、文献の盲信の恐るべきことを知って、その研究の真価を味うの労を吝むものが少くない。いわゆる羹に懲りて膾を吹き、角を矯めて牛を殺すの類である。少しく文献に研究を加えたなら、最も明かに知るを得るがごとき事実に対してまでも、毫もこれを顧みることなく、ことさらに眼をこれに蔽いて、自己の欲するところにのみ盲進するがごときことがないともいえぬ。これいわゆる囚われざるに囚わるるものとして、いかにも惜しむべきことと思う。浜田博士が「従来の研究や因習的学説に囚はれない学者として、〔(中略)〕多大の興味と期待とを有す」と言われる長谷部〔(言人)〕・松本〔(彦七郎)〕両博士の研究についても、失礼ながら余輩は時にこの感あるを禁じ難い。かの長谷部博士が、かつて「蝦夷はアイヌなりや」の学説を『人類学雑誌』上に発表せられ〔4〕、近く「石器時代住民と現代日本人〔5〕(『歴史と地理』二月号)にこれを繰り返されたるごときは、浜田博士のいわゆる、「裸体の皇帝を馬上に見破った、無邪気・無智識の小児」という類かも知れぬが、実をいわばその無邪気・無智識の児童が、裸体の皇帝を馬上に発見するのは、きわめて稀な場合であって、平素は母親の膝を汚物で穢したり、没常識なヤンチャを平気で行って、他人に迷惑をかけているのである。これをしも囚われざる態度と言わんには、余輩はなるべく囚われたる学者ならんことを希望せざるを得ない。もちろん現代のアイヌは史上の蝦夷のままではない。また史上の蝦夷は石器時代の同系統の民族のままでもない。これは歴史上からも証明し、推理上からも論断し得べきところである。しかしながら史上の蝦夷が、今日のアイヌにまで系統を継続していることは、言語(地名)・容貌・土俗・伝説等のみからでなく、間断なき記録の連続が、立派にこれを証明しているのである。さればもし奥羽地方から発見せられる遺骨や、現代の奥羽人の骨相が、今日のアイヌと違ったならば、すべからくその違うに至った理由を研究すべきものではあるまいか。
 余輩といえども、なんら文献の拠るべきものなき遠い古代の遺物・遺蹟については、もちろんその層位的研究や、型式学的研究から得た仮定説に満足するものである。しかしながら、いやしくも文献を存する時代の物にあっては、必ずまずそれによって、文献の示すところの当否を検定することを怠らない。これについては、常に記録の伝うるところと比較することを忘れてはならぬ。余輩がかつて古墳を研究して、棺・槨・壙の問題に少からぬ論弁を費したのも、畢竟これがためであった。古書にいわゆる棺・槨・壙が、現在の遺物・遺蹟についてそのいずれに当るかを明かにすることなしには、とうていこれを文献に引き当てて研究することが出来ないのである。いかに有益な史料がそこに横わっておっても、それを研究上に応用することが出来ないのである。しかるにわが浜田博士は、余輩のこの研究を評して、「問題は槨とか棺とかの定義よりも、其の者の本質にある」(『歴史と地理』第三巻第二号、「日本の古墳に就いて」)と皮肉られた。なんら文献に依頼せず、これを穿鑿研究することなしに、「確実なる文献の拠るべきものの無い我が古墳」(同上)だと頭から極めてしまっての博士の研究態度としては、なるほど名称がなんとあろうと、定義がどうであろうと、それは瑣末の問題であるかも知れぬ。しかしわがいわゆる古墳は、その実シナにおいては前漢末前後から、わが奈良朝前の時代までも継続したものであって、文献上これを考証すべき材料がはなはだ多いのである。ことに棺槨の定義を明かにすることによって、墓制変遷の年代を考定すべき重要なる史料さえもそこに存しているのである。しかるにもかかわらず、その研究が徹底していないがために、往々誤ったる考証が繰り返されるの遺憾がある。現に浜田博士の右の論文を掲載されたと同じ雑誌に、高橋健自君は「遺物上より見たる上古の家屋」を論じて、壙穴をもって依然石槨なりとし、それを説明すべく「四阿あり」の古文を引いておられるではないか。名称や定義はどうでもよいとして、新しい約束で勝手にこれを定めるというならば、過激派が天下を取る世の中においては、それも一の囚われない方法かも知れぬが、いやしくも古書の記事を援引して、これを研究しようとするには、必ずまずその正しい用法を調査して、これに従わねばならぬではあるまいか。
 これを要するに、余輩の遺物・遺蹟研究の態度は、これによって過去の歴史を知ろうとするにあるもので、遺物・遺蹟そのものを明かにしようとするを主要の目的とするのではない。したがって無邪気・無智識の児童をまねて、百年河清を待つ訳には行かぬ。記録上立証し得るものは、言うまでもなくただちにこれに従う。その立証を欠くものについては、すべからく現代の学界の提供せられた一切の材料に基づいて、最良と信ずる仮定説を立案するを要とする。しかしてその仮定説は、文献はもとより、土俗・伝説等からも傍証を求め、一切の材料に当て嵌めてみて、すべてが適当に説明されたならば、これをもってその当時における適当なる学説として保存する。もし新たに発見せられた資料によって、牴触するところがあるならば、容赦なくこれを棄て、もしくはこれを改良すべきである。余輩をもっていたずらに功を急ぐものとなすなかれ、かくのごとくにして真理は次第に近づかるべきものである。冀くば大方の諸賢、特に遺物・遺蹟を重く扱わるる考古学・人類学の専門大家諸賢、幸いに余輩の微衷を憐み、相提携して学のために尽くし給わんことを。

編注

〔4〕 長谷部言人「石器時代住民論我観」(『人類学雑誌』第三二巻第一一号、大正六年一一月)。
〔5〕 長谷部言人「石器時代住民と現代日本人」(『歴史と地理』第三巻第二号、大正八年二月)。





底本:「喜田貞吉著作集 第一巻 石器時代と考古学」平凡社
   1981(昭和56)年7月30日初版第1刷発行
初出:「民族と歴史 第一巻第四号」
   1919(大正8)年4月
※初出時の表題は「遺物遺蹟と歴史研究」です。
※巻末の編注はファイル末に記載しました。
※〔 〕内は、底本編者による加筆です。
入力:しだひろし
校正:杉浦鳥見
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード