日本における史前時代の歴史研究について

喜田貞吉




 闇の夜に、鳴かぬ烏の声聞けば、生れぬ先の父ぞ恋しきということがある。われらがもし史前時代の歴史を研究したいなどとでも言おうものなら、それはあたかも生れぬ前の父を恋しがってみたり、真暗闇の夜に鳴きもせぬ烏の声を尋ねんとするようなもので、歴史家の仕事というよりも、むしろ禅学者の公案にでもした方がよいだろうと言われるかも知れぬ。少くも日本においては、近いころまでいわゆる史前時代の研究は、主として国学者や神道家の仕事として、いわゆる歴史家はあまり構わないものであった。たまに歴史家が下手にそれに手を染めるようなことでもあれば、たちまち飛んでもないお叱りを蒙るというような場合もないではなかった。それもそのはずで、歴史は人間社会の文化の変遷を尋ぬるものであり、日本の史前時代は神の時代であるからである。あるいは神と人間との中間時代であるからである。
 そこで問題はまずもって史前時代の歴史というものが、果してあり得るか否かということから始まらねばならぬ。人間の親が人間であり、その親がまた人間である以上、われらの語り伝えた古伝説において、よしやその遠い遠い大昔の親が神であると語られているとしても、われわれはさらにその神に関するお話の中から人間味のある方面を探し出して、人間としてのいわゆる史前時代の事蹟を考えてみたいという知識欲の要求に責められているのである。しかもそれにはまずもって、そこに果して歴史ともいうべきものがあり得るか否かという問題から解決してかからねばならぬ。
 厳密に文字通りにこれを解決すれば、いわゆる史前時代とはすなわち有史以前の時代である。換言すれば歴史のない時代である。歴史のない時代の歴史はすなわち生れぬ先の父である。それを尋ねるのは闇の夜に烏を探り、その鳴かぬ声を聞かんとするものであると言われてもいちおうは仕方がなかろう。しかしながら、文明の科学はよく箱の中のものをも映し出し、百里の外に談話を交えることも出来るようになっている。その学界進歩の今日において、われわれがこの史前時代の闇の中にもその歴史を尋ねて、これが真相を探らんとすることも必ずしも空想とは言われまい。
 今日の史学の進歩は「歴史」ということの意味を変えて来た。古人の用いた文字の用例から言えば、「史」はすなわち「誌」なりで、その本来の意味は文字をもって書きあらわしたもの、すなわち記録の義であった。したがって記録ある時代のみがすなわち有史時代であり、その以前はすなわち史前時代として、いわゆる歴史家の取り扱うべき範囲以外に置かれたものであった。歴史家のいわゆる史料として取り扱うものは主として文書記録であり、文字を有せざる民族はたといその文化がどうあろうとも、それは歴史を有せざるものとして顧みられなかったものであった。しかしながら、文字が人間社会の文化のすべてでない以上、文字なき社会にもある種の文化は発達し得る。したがってそこに尋ぬべき歴史が存在し得る道理である。ただ従来の歴史家は主として文献的史料に依頼していたがために、文献なき時代に遡ってこれを尋ぬるの方便を有せず、またその必然の結果として、いつ、どこに、誰がというように、年代と地名と人名とを明かにし得るものでなければ歴史ではないというようにまで、自然世人をして誤想せしむるに至ったのであった。たといその年代や地名については幾分の曖昧を許すとしても、歴史にはまずもって人名が必要とせられていたのであった。したがって土蜘蛛という伝統的民族のことに関しても、蜘蛛は足が長いという聯想から、長髄彦とか、八掬脛やつかはぎというような人名らしきものを作ったり、あるいはその住所として伝えられた土地の名によって、兄磯城えしき弟磯城おとしき菟狭津彦うさつひこ八女津媛やめつひめなどと、その地の酋長を呼称したりして、ここに始めて歴史として感を起さしめ得るのであった。
 しかしながら、人間社会の動きは、単に個人の力にのみよるものではない。よしや各個人としての経歴は不明であっても、これらの個人の集合からなれる社会そのものの文化は立派に存在し得るのであって、そこに尋ぬべき歴史がなければならぬはずである。これは単に遠い古代のことのみではない。われらかつて文部省にあって第一期の国定教科書を執筆したさいに、「陸軍大将乃木希典旅順の要塞を包囲して」という風に最初の原稿に書いておいたところが、乃木大将その原稿を一閲せられて、「これはいけない、旅順を包囲したのは乃木ではない、第三軍である。これはぜひ改めるように」との注意を賜わった。そこでさらに「乃木希典第三軍を率いて」と書き改めたところが、「それでもいけない、旅順を包囲したのは乃木ではなくて第三軍である。もしぜひ乃木の名が必要であるとならば、『乃木希典の率いる第三軍は』というように改めたい」と、重ねて懇切な注意を賜わったことであった。さすがに乃木大将はお目が高かった。歴史の研究はこうでなければならぬ。かりにその主動者の個人の名が不明な場合にも、全体としての動きは常に行われていたはずである。記録がなくしてその絶対年代を知るを得ざるような時代にも、その当時の文化は存在していたはずである。しかしてその蹟は遺物・遺蹟として後世に遺されている場合が少からぬのである。ことに記録・文書には時として虚偽もあれば誤謬もあるが、幸いに後世の偽作物に欺かれない以上、遺物・遺蹟には絶対にその虞れがない。もしもその研究が正しきを得たならば、史料としてもこれほど確かなものはないのである。
 学界の進歩は確かに「史」という語の意義をかえている。もとは記録そのものがすなわち史であったが、それが記録によって知ることを得る人間社会の沿革・変遷がすなわち史と呼ばれることとなり、やがては記録以外のものがまた史料として採用せられるようになって、記録のない、いわゆる有史以前の時代の歴史までが研究せられるようになったのである。いわゆる史前時代の研究である。これはシナの「史」という文字の意義の転化ばかりでなく、西洋のヒストリーという語についても同様である。これをわが古代の用例について見るに、わが国において古く史部ふひとべと呼ばれたものは文人部ふみひとべであって、文字ある人々の部族ということであった。なんらいわゆる歴史には関係はない。令制にいわゆる太政官の史官も記録係なるにほかならぬ。有史以後とか史前時代とかいう場合の「史」は畢竟この意味における「史」の有無というにほかならぬのであった。ここにおいてか近時の学界の進歩は、当然史前時代にも歴史の存在を認めしめるようになった。必ずしも生れぬ先の父ではない。これを探るのは決して闇の夜に鳴かぬ烏の声を聞かんとするものではないのである。
 ここにおいてさらに考うべきは、いわゆる史前時代なるものの包括する範囲である。わが国において普通に史前時代といえば、近ごろはただちにいわゆる石器時代を意味するかのごとく考えられているようである。誰が言い出したことかは知らぬが、いわゆる古墳時代が原史時代で、その前につづく石器時代がすなわち史前時代だというのである。これはまことに簡明で、素人にも早わかりがしそうではあるが、実際はそう都合よくは行かぬ場合がないでもない。いうまでもなく原史時代とは、夜明け方の薄明りというようなもので、史前時代と有史時代とが上からと下からと薄ぼかしにぼかされ合って、相重複している時代である。しかるにいわゆる古墳なるものは、確かに有史時代までも立派に築造せられているもので、かの横口式石室を有する普通の円墳のごときは、大化のころには盛んに行われていたと考えられるものである。しかもなお、それにもかかわらず、何人かこのころまでも、いわゆる史前時代の薄ぼかしが継続していると考え得るものがあるであろう。しかしてそれと同じように、一方で石器がなお実用に供せられているような時代にも、いわゆる有史時代の曙光がすでに認められ得る場合がなかったと何人が断言し得るであろう。
 大体から言えばわが国のいわゆる史前時代には、いまだ金属の利器が実用に供せられるほどには至らず、普通は石器をもって用を便じていたというに異議はなかろう。しかしながらわが国の文化の進歩は、独自的の文化進歩の階梯を踏んで、なお暗夜の東空にわずかばかりの曙光を認めて、それから漸次夜が明けて来たという順序のものではなく、例えば闇の夜中に外部から松明を持ち込んで、一部分の階級のものや限られたる地域のものを照らしてくれたようなもので、部分的、地方的に明るいところが出来ていても、その光はまだそう遠方を照らすには至らず、またたとい近い所であっても、たまたまなんらかの物の陰になっているような場合には、その光が届かないで相変らず暗黒世界であったというような時代が、相当長く継続したはずである。かくて一方には立派に有史時代が出現して、はでやかな文化の花が咲き盛っているような同じ年代に、一方にはまだ原史時代どころか、石器時代の遺物・遺蹟を後に止めたという以外、何物をもわれらに遺しておらぬ多数の民衆が、はなはだ多く存在していたのであった。応神天皇、吉野宮に幸し給うや、国栖人始めて来朝した〔(「応神記」十九年条)〕とある。彼らは天皇歴代のお膝元たる大和平野に近く住んでいても、峯嶮しく谷深くして、道路狭くさがしく、ゆえに都に遠からずといえども、本より朝来すること稀なりとある。大和平野にはすでにあれだけの大陵墓を築造し、あれだけの副葬品を埋蔵し、史部なる記録係の官吏もあり、使者をシナ南朝に遣わして技師を招聘したという応神天皇の御代においても、山一つ南にはいまだなんら平地の文化に触れることなく、太古のままの山人生活をなしていた人達が住んでいたのであった。いわんや中央から遠く離れた僻陬の地が、久しく史前時代の状況に取り遺されておろうことは、何人も容易にうなずかれるところであろう。
 幸か不幸かわが国には人類の来り住んだことが遅かったらしい。したがって、もちろんそこに原人などと言われるものの蹟を尋ねてみる面倒もなさそうだ。石器時代遺物・遺蹟の最も古いと思われるものでも、当時の人々は相当他において工芸的進歩をなした後に渡来したものであったことを示している。そこへさらに他の文化を有する人々が渡来して互いに相接触した。さらに海外から新しい文化が輸入された。だんだん松明の光が強くなり、その数も多くなった。百燭光の電燈までが光り出した。しかしまだ容易に隅々にまでは明りが徹底せぬ。物の陰になった所などには久しく闇黒世界が遺されていた。石器を使用している民衆の中へ少数の金属利器が輸入せられても、それは容易に一般の供給を充すに足らず、相変らず石器は製作使用せられている。すなわち有史時代と同時に一方には史前時代が並存していたのである。一方には立派に記録が当時を語っているような時代にも、一方にはまだ遺物・遺蹟以外、なんらの口碑・伝説をも遺さずに消え行ったものが多かったのである。
 しからばこの史前時代なるものが、果していつのころまでわが国土の僻隅に存在していたであろうか。もちろんその絶対年代を確かめることは容易でないが、もし厳格に「史」なる意義を解釈したならば、今の北海道のアイヌ族のごときは明治に至るまでもまだ史前時代にいたと言ってしかるべき場合もある。しかしてそれと同一系統に属する民族が、同じアイヌの名をもって、百二十年ばかり前までもまだ本州の北端津軽半島の一角に取り遺されていたのであった。彼らはもちろんもはや石器時代の状態にはいない。しかしながら彼ら自身としては、ほとんどなんらの記録をも遺さず、ただ不完全なる口碑によって、きわめて貧弱なる過去の事蹟を語っているに過ぎなかった。それを史前時代というのが適当でないとしても、少くも彼らの間には史前時代の薄ぼかしが継続して、いわゆる原史時代の状態を脱却し得ないのであった。しかしてさらに時代を遡るに従って、この状態は次第にそれよりも南方の地方に認められたのであった。なお、さらに厳重にこれを言わば、今もって老人達の間に目暗暦めくらごよみなるものが実用に供せられている南部の地方においては、近いころまでもその民衆限りの間では、少くも原史時代の状態が継続しておったと言われても、強き文句の言えないものであったと言ってもよかろう。
 しかしながら一方にかく史前時代の状態が、少くともその薄ぼかしの状態が、久しく継続していたような地方にも一方には同時に立派に中央文化の風が吹き通っておった。したがってその側の人々によって遺された文献その他の史料によって、多少なりともその状態を窺知することが出来ないでもない。しかしてかくのごときの状態は、さらに時代を遡るに従って、中央に近い地方にも認められ、さらに遠く遡っては、この島国と大陸との間にも、同様の関係が幾分認め得られないでもない。トロヤの遺蹟の発掘によって、その伝統的事蹟の存在が証明し得られたような都合のよいものには容易に出くわし難いとしても、神話・伝説に言うところが、しばしば遺物・遺蹟の調査から出発して裏書きせられ得る場合がないでもない。北見国からおそらく奈良朝時代のものと思われる蕨手刀が出た。しかしてそこには一方で土製の刀剣が模造されておった。日高国から室町時代のものと思われる腰刀が出た。しかしてそこにはなお石銛・石鏃などが作られていた。陸中国からは先秦の刀貨が出たと言われ、羽後からは漢代の半両銭・五銖銭が続々発掘されている。近くは陸奥国是川村〔(八戸市)〕なる石器時代の遺蹟から、種々の漆器や木製品が出土して学界の大問題を引き起している。かくのごとく一方には史前時代と、他方には有史時代とが、かすかながらに、あるにしの糸で結び付けられているような現象も少くはないのである。
 もちろん史前時代の研究としては、遺物・遺蹟がほとんど唯一の対象であると言ってよい。しかしてその研究はもちろん考古学者に御依頼せねばならぬ。しかしながらわれら歴史家として立つものは、その研究範囲をいわゆる有史時代にのみ局限することに満足が出来ないで、さらにいわゆる史前時代に遡って、その歴史の淵源を明かにすることに努力せねばならぬ。今日の歴史家はむろん史料を文献のみに仰ぐような狭い研究法を採っていない。傍ら遺物・遺蹟・地名・土俗・言語・口碑等やその他多くの補助史料の援助を仰いでいるのである。ただその史料とするところが、勢いその研究対象とする時代によって違って来る。近い時代のことには文献的史料が主なるものであり、時代が上るに従って遺物・遺蹟が主なるものとなる。かくてついには全く文献なき時代に到達して、ほとんどすべての史料を遺物・遺蹟に仰がなければならなくなるのである。しかも研究者にとって都合のよいことには、その時代はいわゆる石器時代に属する場合が多く、幸いにして不朽性の石器や、ことに破損しやすいがゆえに特にその破片の遺棄せられたるもの多かるべき当時の土製品が、はなはだ多数に各地の遺蹟に埋蔵保存せられて、各時代の特徴をよくその製作文様の上にあらわし、もって考古学者の努力を待っているのである。しかしてわれら歴史家の輩は、なお古文書学者から史料としてその整理研究に係る古文書の供給を受くると同様に、考古学者からこれら遺物・遺蹟の調査の結果を頂戴して、もっていわゆる史前時代の歴史を研究せんと希望しているのである。
 今度大山〔(柏 )〕公爵の史前学会において、従来に発行せられたる諸報告および幾多のパンフレットのほかに、さらに新たに雑誌〔(『史前学雑誌』)〕を発行せられてその研究調査の結果を発表せられることとなった。われらが希望する史前時代の史料がかくのごとくにして続々供給せらるべきである。これまことに学界の慶事として、われらの欣喜に堪えざるところである。すなわちいささか所見を開陳して、その前途に栄えあらんことを祝福するとしかいう。
(昭和四・二・九)





底本:「喜田貞吉著作集 第一巻 石器時代と考古学」平凡社
   1981(昭和56)年7月30日初版第1刷発行
初出:「史前学雑誌 第一巻第一号」
   1929(昭和4)年3月
※初出時の表題は「日本に於ける史前時代の歴史研究に就いて」です。
※〔 〕内は、底本編者による加筆です。
入力:しだひろし
校正:杉浦鳥見
2021年6月28日作成
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