奥羽地方のシシ踊りと鹿供養

喜田貞吉




一 緒言


 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、大体において獅子頭を頭につけた青年が、数人立ち交って古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞或いは越後獅子などの類で、獅子奮迅踴躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態な事にはその旧仙台領地方に行わるるものが、その獅子頭に鹿の角を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角が生えているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭の我が国に伝わった事は、すでに奈良朝の頃からであった。降って鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地に行われた事が少からず文献に見えている。そしてかの越後獅子の如きは、その名残りの地方的に発達保存されたものであろう。獅子頭は謂うまでもなくライオンを表わしたもので、本来角があってはならぬ筈である。勿論それが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を附加するという事は考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来龍頭と呼ばれて二本の長い角が斜めに生えているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるという事は、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだしもと鹿供養の意味から起った一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるる事から遂に獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日に及んでいるものであろう。以下そのしかる所以を説明してみる。

二 シシ踊りは鹿踊り


 今日ではシシと云えばただちにライオンを連想する。したがってシシ踊りがただちに獅子踊りであるとして解せられるに無理はないが、古くは猪及び鹿もまた普通にシシと呼ばれたものであった。そしてそれを区別すべく、前者をイノシシ、後者をカノシシと呼んだのであったが、今日ではカノシシの称呼は普通に失われて、イノシシの方のみが各地に保存されている状態である。
 案ずるにシシはシシすなわち肉の義である。古代野獣肉が普通に食用に供せられた時代において、猪鹿が最も多く捕獲せられ、したがって食膳に供せられるものは、主としてしし鹿ししであった、かくてその称呼が世人の口に、耳に親しくなった結果として、遂にそれがただちに猪または鹿そのものの名称の如くに用いられる様になったのである。そしてそれがさらに省かれて、単にシシを以て呼ばれる事になったのは、今日裁縫器械マシーンを単にミシンと呼んで通ずるが如きものである。しかもそのひとしくシシと呼ばれるものについても、地方によって相違があり、関西地方では後世猪がことに多かったが為に、猪にのみイノシシまたは単にシシという語が普通に行われて、鹿に対してはその語の保存せられる事が少なかったが、それと反対に、奥羽地方においては、古来鹿の蕃殖がことに多かったとみえて、為に今に鹿を呼ぶにカノシシの称が保存せられ、古くは単にこれをシシと呼んで、ただちに鹿を意味したものであったと解せられるのである。しかもこれはひとり奥羽地方ばかりではなく、古代において各地鹿の多かった事は、石器時代の遺蹟に鹿角が多く包含せられて、猪牙の極めて少い事からでも想像せられ、記紀の記するところ、日本武尊の焼津の野火の難における、市辺押磐皇子の来田綿の蚊屋野における、或いは允恭天皇の淡路の御狩における、いずれも鹿のことに多かった事を誇大に述べているのである。別して、関東地方の事については常陸風土記信太郡の条に、

風俗諺曰、葦原鹿其味若爛、喫異他宍矣。常陸下総二国大猟、

と云い、また多珂郡の条に、

古老曰、倭武天皇為東陲、頓宿此野。有人奏曰、野上群鹿無数甚多角如芦枯之原其吹気、似朝霧之立

などとも見えているのである。勿論当時これらの地方には猪も少からず蕃殖し、同書行方郡の条には、男高里の池の西の山に「猪猿多住」と云い、当麻郷なる香島香取二神子の社のほとりに、「猪猴狼多住」など見えてはいるが、食用肉としてはやはり鹿の宍がその主なるものであったらしい。
 ここにおいて旧仙台領におけるシシ踊りの事を考うるに、現にその獅子頭に鹿角を附してあるのみならず、古くこれを物に記するところ、いずれも「鹿踊」の文字を用い、また今も路傍に建てる供養碑に、往々鹿踊または鹿供養、鹿踊供養などの文字が刻せられていることを以てみれば、それが本来鹿を表象したものであり、現用の鹿角を有する獅子頭は、それがシシと呼ばるる事から本来鹿であることを忘れて、普通の獅子舞に用うる舞子頭に転訛しつつ、しかもなお旧来の伝統を保存して、今に至って依然鹿角を附しているものであると解せられる。そしてそれは次項述ぶるところの伊予宇和島地方の鹿しか踊りによって、さらに裏書きさるべきものであらねばならぬ。

三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り


 伊予の宇和島地方には鹿の子踊り或いは八つ鹿踊りと呼ばれる一種の郷土舞踊がある。ここ百年来一時中絶して、古式を失っていたのを、大正十一年今上陛下のまだ皇太子殿下にましました際、この地に行啓あり、当時同地出身のお歴々の斡旋で、古式を尋ねてこれを台覧に供し奉り、爾来また行われる事になったのだという。その踊り子はいずれも鹿の頭をかぶり、事実上鹿踊りというべきものなのである。去る大正十二年、京都の都踊りでその手を取り入れるとの事で、宇和島から踊り子の一団入洛して、祇園の歌舞練場でそれを演じた事があったが、踊り子の数八人、その中七人まで雄鹿で、残りの一人が角の無い雌鹿の頭をかぶり、胸には小さい太鼓をつけて、両手でばちを持って緩慢な調子でそれを叩く、その踊りも至って緩やかなもので、大体に妻恋う雄鹿が雌鹿を呼ぼうという様な、優美な感じを与えるものだった。勿論そのほかにもいろいろの所作があるのではあろうが、大体として田楽風のもので、奥羽地方のシシ踊りの勇壮なのとはすこぶるその趣きを異にしている。しかしながら、宇和島のこの鹿の子踊りは、藩祖伊達秀宗がかつて、奥州なる宗家から分れてここに入部した際に、郷土の舞踊を移入したものだと謂われているのみならず、その歌詞にも確かに彼此共通の点があり、ことにその歌詞の中に、

中立なかだちが、腰にさしたるすだれ柳、枝折り揃へて休み中立、/\。

という句の、垂柳しだりやなぎを奥州音によって今に「すだり柳」と歌うところなどは、どうしてもその奥州に起原を有するものたるを思わしめるものがある。けだし奥羽地方の今のシシ踊りなるものも、もとは文字の示す如くすなわち鹿踊りで、徳川時代以前から行われた地方舞踊として、鹿の頭をかぶって踊るものであったのが、それをシシという事から、いつしか獅子舞と混同して、その舞踊にも獅子舞の勇壮なる態を取り入れ、鹿頭の代りに獅子頭を用いて、余程様子の変ったものになってしまったが、しかもなお旧仙台領にあっては、昔ながらの鹿の角が、獅子の頭上に保存されているのであろう。そして奥羽の他の地方において、獅子頭に二本の短い角を付けたものとなっているのは、それが一層鹿から遠ざかったものであると解せられる。しかるに遠く四国に分れた宇和島の舞踊では、今に至ってなお鹿頭時代の旧態を保存しているのである。

四 アイヌの熊祭と捕獲物供養


 北海道のアイヌは今もしばしば熊祭という事を行っている。熊の幼児を捕獲してこれを飼育し、二歳位に達したならば、適当の時を選んで、所謂熊祭を挙行するのである。その行事としては、その熊を祭場に引き出し、その前にてアイヌの第一の嗜好物たる酒を供して神を祭り、結局ここに盛大なる歌舞宴楽を催すのである。されば、その外観は、熊を生贄として神を祭るに似ているけれども、アイヌの解するところでは、それは熊送りというべきもので、平素彼らの食料となる熊を優遇し、これを神の国に送り返すの意義だという。けだし熊は神がアイヌの食料として下されたものなるが故に、これを優遇して再び神の国に送り返すはこれに酬いる所以であり、神はさらにこれに由って一層多くの熊を下してくださるという期待を有するものであるらしい。つまり平素食料として捕獲する動物に対する一種の供養なのである。
 北海道には実際熊が多い。それは狩猟に活きたアイヌの捕獲物として主要なるものであった。そこで自然食用獣の代表的のものとして、熊が選ばるるに至ったものであろう。内地の漁村にては、しばしば魚供養という事が行われる。海岸に祭壇を設けて供物を捧げ、僧を請じて経を読む。これを仏法の方から観れば、平素漁夫によって、捕獲せらるる魚属の頓生菩提の祈りであり、兼ねて漁夫に対しては殺生罪業消滅の願いであるという事であろうが、本来はやはり捕獲物に対する供養にほかならぬ。奥羽地方には往々路傍に庚申、山神、湯殿山、羽黒山などの文字を刻した石碑が建っているが、それらと並んで、前記の鹿踊、または鹿供養、鹿踊供養などと刻したものの存在するを見る。これけだしもと食用として捕獲した鹿に対する供養の示表で、奥羽における鹿はなお北海道における熊の如く、食用獣としての捕獲物の主要なるものであったが為に、自然供養の対象としてそれが選ばれたものであろうと解せられる。津軽浅瀬石川の上流地方には、岩面に鹿の頭を刻したものの存在することを黒石の佐藤耕次郎君が報告せられた。これは前号所載「北海道発見の石面刻文」の末に附記しておいたところであるが、土地の人はそれを獅子岩と呼び、その所在地に獅子が沢の称があるという。これは鹿の事をかつてシシと呼んだ一証であるとともに、今もなお諸所に建てらるる鹿供養の石碑と同じく、捕獲獣に対する供養の意味において、文字なきマタギ等の刻したものであろう。そして同君の最近の通信によれば、同様の石刻が右の獅子が沢以外、他にも二ヶ所で発見されたという。これ以て右の推測に一層の確実性を添加したものと謂わねばならぬ。
 さらにこれも前号論文の末に附記したところであるが、秋田県由利郡及び雄勝郡において、同じく岩面に数尾の魚を条刻したものが発見されたとの深沢多市君の通信は、この地方における古代民衆の食料として重き地位を占めた筈の鮭供養記念の碑として解すべく、右の津軽の獅子岩などとともに、捕獲物に対する供養の所々に行われた例として見るべきものであろう。
 ここにおいてさらに問題のシシ踊りについて考うるに北海道のアイヌが主要捕獲物たる熊の為に熊祭を行い、酒宴を催して多人数歌舞遊興すると同じ意味において、奥羽地方では鹿供養が行われて民衆が相ともに歌舞宴楽したという事は、何人も容易に想像せられうべきところで、これが当時民間に流行した田楽舞と合流して、遂に所謂鹿踊りを見るに至ったものであろう。獅子頭に鹿角を附けたシシ踊りの意義、かくの如くにして解すべきである。

五 附記


 奥羽地方に行わるる所謂シシ踊りなるものは、地方によって多少その趣きを異にし、踊りの手振りにも、またその歌詞にも、地方的差違を示している。旧仙台領においては前記の如く、獅子頭に鹿角を附したものをかぶる例になっているが、旧南部領の獅子は短き双角を附した獅子頭をかぶり、別に長さ数尺に及ぶ細き割竹に、櫛歯形に切り目を入れた紙を巻き、その数条を放線状に束ねて背に負っている。そしてその負物を、土地ではササラと呼んでいるのである。ササラとは本来櫛歯形に木片を連ねた田楽法師の用具の名で舞踊に際してそれを操り、戛々かつかつたる音響を発せしめるものであるが、南部地方の獅子の負物にこの名称のあるのは、或いはその竹条に巻いた紙の切り形から来たものかとも思われないでもないが、おそらく田楽時代の要具の名の名残りを伝えたと解すべきものであろう。
 なお各地のシシ踊りの団体には、往々その由来を記した一種の伝書を相伝している。その謂うところ例によって荒唐無稽の談に充たされてはいるが、しかもなおその因縁を念仏踊りに附会したものの如く、彼らがもと俗法師の一種なる田楽法師の亜流として、その舞踊がやはり供養の法楽に起因したものたることを暗示しているのである。なおこの事については、他日機会を得てその伝書を紹介し、さらに研究を重ねてみたいと思う。(昭六、九、十一)





底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「歴史地理 第五八巻第四号」
   1931(昭和6)年10月
入力:川山隆
校正:しだひろし
2010年10月26日作成
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