国栖の名義

喜田貞吉




 大和吉野の山中に国栖という一種の異俗の人民が居た。所謂山人やまびとの一種で、里人さとびととは大分様子の違ったものであったらしい。応神天皇の十九年に吉野離宮に行幸のあった時、彼ら来朝して醴酒を献じた。日本紀には正に「来朝」という文字を使っている。彼らは人となり淳朴で、常に山菓このみを取って喰う。また蝦蟆かえるを煮て上味とする。そのくには京(応神天皇の都は高市郡の南部大軽の地)よりは東南、山を隔てて吉野河の河上に居る。峯峻しく、谷深く、道路狭※(「山+獻」、第4水準2-8-74)であるが為に、京よりは遠からずといえども、古来出て来た事が稀であった。これより後しばしば来朝して、栗菌や年魚の類を土毛みやげとして献上するとある。践祚大嘗会だいじょうえ等の大儀に、彼らが列して、所謂国栖の奏をとなえ、土風の歌舞を演ずる事は儀式上著名な事で、大正御大典の時にも、伶人が国栖代として、これを奏したと承っている。
 久須という名義については、北陸方面の蝦夷を高志こし人と云い、樺太アイヌを苦夷くいと云い、千島アイヌを「クシ」というと同語で、蝦夷の事であろうという説がある。自分はクシ・コシ・クイ皆同語で、「蝦夷」というも、もとはまた「カイ」の音訳であるべきことを承認し、蝦夷名義考と題して、歴史地理(三十一巻二号及び四号)でこれを論じておいた。しかし国栖くずに至っては、いかにもその名称は似ているが、彼らの風俗その他、到底蝦夷らしくないという内容の研究から、かつて土蜘蛛論(歴史地理九巻三号)でも、彼らの異民族たるべき事を論じ、蝦夷名義考においても、国栖の名の説明を保留しておいた。その後名義考の補考を著わすに及んで、簡単にこれに及んで記述したが、今やさらに本誌の余白を借りて、これを纏めてみたいと思う。
 自分は思う。「久須」はもと「クニス」と呼んだもので、国栖または国主・国樔・国巣など書いたのは、その呼び声のままに文字を当てたのであろうと。この事は本居翁も既に古事記伝において疑うておられる。

吉野の国巣、昔より久受くずと呼来たれども、此記の例、若し久受くずならんには「国」の字は書くまじきを、ここにも軽島宮の段にも、又他の古書にも、皆「国」の字をかけるを思ふに、上代には「久爾須くにす」といひけんを、やゝ後に音便にて、「久受」とはなれるなるべし。されどまさしく久爾須といへること物に見江ねば、姑く旧のまゝに、今も「久受くず」とよめり。

 とある。学者の慎重なる態度として、敬服に値する。なるほど『国』の字を『ク』の仮字に用うる事はいかにも無理だ。故吉田博士は、その地名辞書吉野国樔の条下に、諸国に多き栗栖くるす小栗栖おくるすの名は、『クズ』のなまりにあらずやと疑われ、紀伊国栖原浦に久授呂くずろ宮あり、社伝に国栖人の吉野より来りて祭れるものとなし、今国主宮と訛るという事実を引かれた、またその国主くにし神社の条下には、

蓋国主は栗栖の訛なり。湯浅村顕国あきくに神社も此神を勧請せるにて、国津神とも唱ふ、……名所図会云、『国主神社は古くより久授呂宮と云ひ伝ふ。久授は国栖にて、呂は助語なるべし。寛文中の古記に、上古吉野の国栖人来りて此地に祀る所といへり。○按に、国主・栗栖・国栖の三語は古人相通じて同義となせる如し。続紀『天平神護元年、名草郡大領紀直国栖』と云ふは、紀伊国神名帳『名草郡正一位紀氏栗栖大神』と相因む所あらん、云々。

とある。自分は本居翁と、吉田博士との両説に賛意を表して、いささかこれを補ってみたいと思う。
 国栖人の民族的研究の発表は他日を期する。しかし彼らが蝦夷族ではないという事は、十年前と同じく、今もなおこれを信じている。常陸風土記には国巣を俗に土蜘蛛または八掬脛やつかはぎというとある。そして越後風土記には、この国に古く八掬脛というものがいて、土雲の後だとある。そしてその属類は風土記編纂の奈良朝の現実において、なお多く存しているとある。当時蝦夷のなお盛んな越後において、蝦夷とは別に土蜘蛛の後裔と目せらるる人民が多く存していたのであった。この一事のみでも、彼らが蝦夷とは違った民族であることは承知せねばならぬ。したがっていかにクスの名がコシ、クシ、クイ、カイに似ていても、それは偶然の暗合であって、名義はこれを他に求めねばならぬ。
 自分は遺物遺蹟の研究上、国栖人を以て、やはり隼人や、肥人や、出雲民族や、海部・土師部などと言われたものと同じく、石器時代から弥生式土器を使った、先住土着の一民族であると考えている。彼らは古伝説において、国津神または地主神として伝えられたものである。土着民の事を国人くにうどなどと呼ぶ事は、諸所に例が多い。国栖或いはその文字のままに、『クニスミ』すなわち前々から国に住んでいた人の意か。もしくは国主(古事記応神天皇条)とある如く、『クニヌシ』すなわち、地主の民族の義ではなかろうか。『栖』の字が『スミ』の仮名に使われた事は、出雲大社なる天日隅宮を、天日栖宮とも書いてあるので察せられる。この点から云えば、『クニスミ』という方に重きを置きたい。『スミ』が『ス』になるのは、紀伊国伊都郡なる『スミダ』(隅田)八幡宮を、『スダ』と呼んでいるなど、その例が多い。或いは『クスミ』という地名の諸所に多いのは、この『スミ』の語がたまたま保存せられているのかもしれぬ。
『クニス』がまって『クス』になる最好の適例としては、『ハニシ』(土師)が『ハジ』になり、『クヌガ』(陸)が『クガ』になったものを提供したい。やや不適当ではあるが、『オロガム』(拝)が『オガム』、『ミヅマタ』(水派)が『ミマタ』(用明紀)となる様な類に至っては、際限なく多い。
『ナ』行の音と『ラ』行の音とが相転するに至っては、その例ことに多い。『ツヌガ』(敦賀)が『ツルガ』、『イナニ』(稲荷)が『イナリ』、『ツカニ』(束荷)が『ツカリ』(周防地名)、『タカラベ』(財部)が『タカナベ』(高鍋)(日向地名)、『ヲダニ』(小谷)が『ヲダリ』(信濃地名)、『オヲニ』(男鬼)が『オヲリ』(近江地名)など、まだまだ尋ぬれば、いくらもあろう。そしてこれが多く地名であることも面白い。この傍例のみから類推しても、国栖くにす栗栖くるすが同語源であるとの吉田博士の説は承認したい。実地についてみても、栗栖、小栗栖、栗瀬などという地は、玖珠(豊後郡名)、久豆(伊勢地名)などと同じく、いかにもかつて先住民の残存しそうな場所に多い。それから思うと、本居翁が疑われた万葉十の歌の、『国栖等の、春菜わかなまんとしめの野の云々』の、『国栖等』の三字の如きも、仙覚点の通り『クニスラ』とむべきもので、『クスドモ』と訓むのは、古意でないかもしれない。飯田武郷翁は日本書紀通釈において、夫木集の、

遠つ人、吉野のくにすいつしかと、仕へぞまつる年の始に

の歌を提供せられて、『こはたしかなる例ありてよめるにや』と言われたが、やはりこれも『クニス』で差支えないものと思われる。
『クス』がクシ、コシ、カイなどと同語源であるか否かは、自分の民族論に大きな関係のある問題であるから、名義そのものは一向つまらなくとも、他日の発表の予備として、ここに管見を吐露して博識諸賢の叱正を希望する。





底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「史林 第四巻第一号」
   1919(大正8)年1月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年8月7日作成
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