炭焼長者譚

系図の仮托と民族の改良

喜田貞吉




一 緒言


 東京朝日新聞の初刷に客員柳田國男君の炭焼長者譚という面白い読物の第一回が出ていた。奥羽地方に伝わっている炭焼藤太の出世物語で、津軽領の者は今の津軽伯爵家の四代目の君がすなわちこの人であると謂っているそうである。津軽の殿様の御舎弟の書かれた可足筆記によると、津軽家はもと田原藤太の末で、その先祖の武運にあやかる様にと藤太と名づけられたのであったが、幼少の時にその父は安東勢と戦って討死したので、乳母に抱かれて身を吉次信吉というものに委ね、ついに炭焼にまでなり下ってそれで炭焼藤太と呼ばれ、後に最明寺入道に見出されて本領の安堵を得たのみならず、西海の軍に功を立てて、津軽家中興の英主として名を揚げるに至ったのだと書いてあるという。これがその話の大要で、藤太の奥方は京の近衛家の姫君であるとも云い、或いは藤太の母親は最明寺殿の側室で、藤太も実は時頼の落胤であるのだとか、或いは藤太はかの金売吉次の父親であるのだとか。地方によっていろいろに伝えているそうである。柳田君のこの面白い読物が将来どんな風に発展するかは、神ならぬ身の予想し難いところであるが、自分もかつて九州旅行の際に、豊後臼杵で真野の長者炭焼小五郎の譚を聞いて、田舎の豪族がどんな風に考えられていたかということを民族的に考えてみたことがあるので、この辛酉新年の屠蘇機嫌の筆始めに、その感想を書きとめておくこととする。これが活字によって読者の前に致される頃までには、柳田君の読物は自分がここに書こうという九州にまで飛んで行って、その譚の全体についてももっともっと興味ある解説を与えられることとは思うが、自分はただ民族の方面から自分の感じたところのみを、備忘録位の意味で書きとめておくのであって、あえて柳田君の記述の先廻りをしようというのではない。もしこれが幾分にても同君の御参考ともならば幸いだと思うのである。この筆初めに当って、自分のこの小編が柳田君の読物から思い出して執筆するに至ったことにつき、ここに深厚の敬意を同君に表する。否ただにこればかりではない、自分の過去現在未来にわたっての諸研究が、柳田君からヒントを得た事の甚だ多く、往々同君の発表の跡追いをなすものだとのそしりをも甘受するものである事をここに告白して、同君に敬意を表するものである。

二 真野の長者炭焼小五郎


 豊後臼杵在深田村に、紫雲山満月寺の遺蹟というのがある。山によった所で、かつては大きな寺院があったとみえて、今も彼方此方の山腹の岩壁に彫刻した大小幾多の仏像が、或いは破壊されたり、或いは半ば土に埋もれたりしたのを始めとして、水田の中に立った金剛力士や、その他立派な石の彫刻物が甚だ多く遺っている。昔敏達天皇の御代に当って、真野の長者という金持が百済の僧蓮城を、隋の南岳恵思禅師の許から招聘して、ここに建立したのだと云われている。このほかに同国大野郡の有智山蓮城寺についても、真野の長者と蓮城法師との縁起は伝えられているのである。
 真野の長者は本名小五郎と云い、もとは貧しい炭焼を渡世としたものであったという。いずれこの事は柳田君の炭焼長者譚中に必ず出る事と思うから、その物語の詳しい事はすべて略するが、やはり黄金の中にいて黄金の貴きを知らず、縁あって都からさすろうて来た或るやんごとなき上臈を妻として、その妻から与えられた黄金をつぶてとして池の鴛鴦えんおうほうったので始めて黄金の貴重なことを知らされ、これがそんなに貴いものなら俺の炭を焼く山の谷川には幾らでもあるというお極りの譚の筋で、結局それを採集して大福長者になり、その娘の玉世姫というのは時の帝用明天皇に恋い慕われて、都から使者を遣わしてお招きに預るという様な、竹取物語もどきの噺もそれにからまっているのである。
 真野の長者の炭焼小五郎は古く敏達天皇の頃の人で、津軽の殿様の炭焼藤太は最明寺入道の頃の人だという様に、彼此ひしの著しい時代の相違のあるのは、その噺の主人公となっている人物の時代の相違による事で、或いはそれを平安朝頃の人と伝えている地方もあるらしいが、つまりは或る卑賤な炭焼の下司男が、黄金を発見して俄かに富有になったという同一筋の出世譚で、それが各地方の長者譚にからみあって、いろいろに潤飾せられているに過ぎないのである。そして東北は奥州津軽のはてから、西南は九州豊後のこの真野の長者にまで、その噺が広がっているので、そのお噺としての筋合は極めてたわいもないものであるが、田舎の富豪の富を得た起原を黄金の発見に帰するという古人の思想の反映として、経済史上からこれを観察しても、田舎の富豪が出来たが為に都の文化をいかに田舎に輸入したかという事実を、文化史上から観察してみても、またそれに付随して所謂長者そのものの存在から、古代の都鄙の事情がどうあったかということを観察してみても、いろいろ面白い結果が得られる事であるが、これらはみな現に東朝紙上に連載さるべき柳田君の燃犀なる観察眼にお任せして、また特にこの満月寺の遺蹟[#「遺蹟」は底本では「遣蹟」]については、古代仏教史上から自分に多少考えた事もあるが、それも他日の発表に保留して、今はただ所謂炭焼長者譚なるものが、地方の豪族の家系を名族に仮托し、及び身分の向上に対していかに焦慮したかという道行きを示す一つの例話として、自分の民族的観察を記述して、本年の試筆としようとするのである。

三 炭焼と山人


 長者の由来を説明する伝説には、正直勤勉の報いとして福の神から財産を授かったの、熱誠を籠めて祈願したので毘沙門天や観世音菩薩が特に富貴を授け賜わったのという様な、世間普通の所謂月並式のものが多いが、奥州のはてから九州にまで流布したこの炭焼長者の伝説が、農夫でも、商人でもなくて、特に炭焼だという点に自分は特別の興味を感ずるものである。それは山から黄金を発見したというところから、山を渡世の炭焼が最もふさわしい事であるという意味もあろうが、もし山稼ぎが必要とならば、たまには木樵きこり猟人かりうどがあっても、或いは時に山越えの途に迷った商人が偶然発見した場合があってもよさそうに思われるが、それが必ず炭焼であるから面白い。
 木炭がいつの頃から邦人によって用いられたかは明らかでないが、人類がすでに火の用を知れば自然に炭は出来べき筈であるから、けだし人間あって以来のものだと云ってよいのかもしれぬ。しかしこれはすなわち消炭けしずみで、古くはこれを和炭にこずみと云った。その和炭に対して炭竈で蒸し焼きに焼いた炭を荒炭と云い、荒炭和炭の名は既に天平時代の正倉院文書に往々見えている。石器時代の貝塚などからもしばしば木炭が発見せられるが、それは多く和炭らしい。神武天皇御東征の際に、大和の土人が墨坂に※(「火+赤」、第4水準2-79-74)おこしずみを置いて皇軍を防ぎ奉るべく占拠しておったとあるのは、墨坂という地名から起った俗伝であろうが、しかしその噺の※(「火+赤」、第4水準2-79-74)炭はけだし荒炭の事であったであろう。そして土人が炭火を坂に置いて皇軍を防いだとのこの伝説は、炭を焼くことが古く土人の技であったことを示していると解してよい。崇神天皇神人の夢告によって、赤盾八枚赤矛八竿を以て墨坂の神を祭り給うたとあるのも、畢竟はこの墨坂なる土人の神を祭った伝えであろう。赤色は先住人民の好んだところで、土師はじうつわなる所謂弥生式土器には朱丹を塗ったものが多く、隼人や倭人が赭土を手や顔に塗ったというのも、景行天皇が豊前山間の土賊を誘い給わんとて、赤色の衣や褌などを賜わったとあるが如きも、みなこれら先住人民の好みを知るに足るものである。今もお稲荷様を始めとして、神社に往々その社殿や玉垣や鳥居やを赤く塗る習慣の遺っているのは、もと国津神の社から起ったのではないかと自分は疑っている。しかしそれはまず後の問題に保留することとして、ともかくも炭焼が山間に残存した先住民の業となっていたことは事実であった。山城では小野の炭竈がつとに歌人の口に上っている。また後拾遺集読人知らずの歌には、「心ざし大原山の炭ならば」などとも読み、古く本朝無題詩には大原山の売炭婦を詠じた詩も載っている。そしてこれらの地方が、自ら鬼の子孫だと云った八瀬人などと同じ土俗を有する一と続きの地であることは注意に値する。けだし平地の住民なる里人が早く農業を覚えた後にも、山間の住民なる山人はその地の材料の関係から、炭焼の業に従事するものが多かったことと解せられるのである。もっとも後世には山間にも耕地が開けて、住民は農業片手間に炭を焼くという風の地方が多いが、それでもなお山陰地方では、今も炭焼を「山子」と云い、山村の農民が山へ炭を焼きに行く事を、「山子に行く」などという地方もある。倉光君の伯耆雑記(四巻二号六〇頁)に、「山子は所謂山人の類にて、大山だいせんの如き深山に居※[#「てへん+妻」、U+637F、283-15]し、熊笹を以て鳥の巣にも比すべき名ばかりの家を造り、戸籍もなく、就学せず、風の如く来りて風の如く去り、炭焼を業として転々するものである」とあるのによれば、この地方には往時各地に漂泊生活を営んだ木地屋の仲間の様に、今でもやはり炭焼専門の漂泊民が遺っているらしい。また同じ倉光君の報告(四巻五号四六頁)に、この地方の山子や鍛冶屋は「金屋子かなやごさん」を祀る習慣があって、金屋子さんは鍛冶を発明する前に、まず炭を発明するのが必要であったからだというとある。なるほど鍛冶に炭は必要ではあるが、山子と鍛冶屋とが同じ神を祭るのは、むしろもと彼らが同じ筋の人であった為であろう。鍛冶はカヌチで、今ではもっぱら金を打って刃物やその他の金属具を作る職人ではあるが、昔はそんな分業はなく、同じ仲間で自ら炭をも焼き、その炭で砂鉄を蹈鞴たたらにかけて地金をも作ったものであったに相違ない。そしてそのまもり神を金屋子さんと呼んでいるのであろう。後世は鋳物師いもじの事を多く金屋と呼んでいる。そしてその金屋子さんの氏子の漂泊的山子が、常民から筋の違ったものだと思われているのは無論であるが、今も山陰の或る地方では、鍛冶屋や鋳物師をも筋の違ったものとして、婚を通ずるを忌むところもあるという事である。
 山子とは山人というと同じ意味の語である。なお家人やかびとすなわちケニンを「家の子」とも「」(奴)とも云い、唐人からひとを「唐子」などいう類である。里人が次第に都の文化に親しみ、所謂「公民おおみたから」となった後にも、山間の住民は依然素樸なる原始的に近い生活を営んでいるので、いつしか筋の違ったものの様に思われて来る。その中にも最も時勢に後れたものは、遂に落伍者となって山男・山姥などと呼ばれ、妖怪変化ようかいへんげにも近いものの如くに解せられ、時に鬼として呼ばれる様にもなるのであるが、そこまでにはなくとも一般に山賤やまがつとして区別せられるは免れなかった。しかもその山賤やまがつたる炭焼が、金屋子さんを祭って都合よく金を掘り当てて大福長者となる場合もないではなかろう。そして各地の炭焼長者譚に炭焼が黄金を発見して長者になったという譚の筋の伴っているのは、この関係を語ったものであろう。

四 身分の向上と系図の仮托


 もと炭焼の山子であっても、都合よく金を見付け出して既に富を重ねてみれば、だんだん栄花がほしくなる。なお俘囚の長たる平泉の藤原氏や、東夷あずまえびすと呼ばれた鎌倉幕府が、都の文化を輸入し、都人を使役した様に、その富にまかせて里の文化の輸入をもしようし、気の利いた里人をも使役して大尽になりすます。しかし幾ら大福長者になったからとて、生粋の山子筋であっては幅が利かぬ。ただに配下や近隣の人々に対して威を示すに不足なるのみならず、自分自身の心にも満足が出来なくなる。そこでだんだん家柄をよくしたくなって来る。氏族を改良したくなって来る。系図の一つも附会しうる程の物識りも富の為には買収される。その筋々への運動等も、金が物言う習いは昔も今も変りはない。奥州六郡の長たる俘囚頼時が安倍姓を名乗っているのは、おそらく先祖が運動の結果、夷地に名声の轟く阿倍比羅夫の姓を賜わったものであったであろう。或いはかの奈良朝において夷酋の賜わった多くの安倍姓とは別に、勝手に仮冒していたのであるかもしれぬ。出羽の俘囚の長たる武則は天武天皇の皇胤たる清原姓を名乗っているが、その子の武衡は一時平姓を唱えていたこともあったらしい。尾張の農民出の秀吉は一旦源姓を名乗ろうとして失敗し、後には思い切って豊臣という新家を創立したが、それでも一時は平姓を名乗っていた時代もあった。そのほか戦国時代においていやしくも一城の主と呼ばれた程の地方の豪族のことごとくは、それぞれ源平藤橘等の姓氏を名乗っていた。これらは勿論よい加減な仮托が多かったに相違ない。しかしわざわざそんな古い時代にまで遡るまでもなく、明治初年の職員録を見れば、月給十何円の判任官までがことごとく由緒ある姓氏を名乗り、それが奏任官以上ともなれば、鹿爪らしく何の朝臣あそんだの、何のむらじだの、宿禰すくねの、真人まひとの、県主あがたぬしのと、それぞれ昔の貴族豪族の姓を名乗っていた時代が近く五十年前にあったのである。滑稽といおうか、悲惨といおうか、今から思えば形容の辞もない程の徒事いたずらごとではあるが、試みに某年三月現在のその職員録についてこれをけみするに、姓名を明記するもの総計概算一千六百六十三名の中において、源氏が実に七百二十一名、藤原氏が五百八十名、平氏が百十三名の多きに及び、次に橘氏五十名、菅原氏二十九名、賀茂(鴨)氏十四名、紀氏十二名、小野氏・越智氏各十一名、秦氏十名で、それから下はみな十名未満という数を示している。かくてその一千六百六十三名の有する姓氏の種類は僅かに五十五で、その中でも一姓ただ一名のみのもの実に三十に近い数を示しているのであるから、まず大部分源平藤橘の四姓に限ると云ってもよいのである。今日全国一千万戸以上の住民について、よくその家系を明らかにしうるものが果してその幾割あるであろうか。まことに寥々たるものに相違ないにかかわらず、明治初年の官吏がことごとく古い姓氏を名乗り、しかもその八割八分までが所謂源平藤橘の四氏によって占められているとは、何という馬鹿馬鹿しい事であろう。単にこの一事のみをみても、後世の姓氏なるものの大多数が仮冒であって、殆ど信ずるに足らぬものたることを知るに足ろう。しかもこの仮冒は後世になって始まったものではない。既に允恭天皇の御代において、甘檮あまかしの岡に盟神探湯くがだちして氏姓の詐偽を正す必要があったのである。またこれを正すの目的で出来た筈の平安朝初めの新撰姓氏録にすらも、明らかに夷姓のものが皇胤を称している実例もあるのである。社会に相当の地位を得たものがその家柄をよくしたいというのは古今変らぬ人情で、山子出の炭焼長者も三代五代と経って来るうちには、その祖先についていろいろの由緒を作り出して、炭焼は炭焼でもただの炭焼ではなかった、もとは由緒あるものの末であったとか、その実何某貴人の落胤であったのだなどと云い出す。その附会がとても信ぜられそうもない時には、せめてはその奥方がさるやんごとなき人の胤であったなどという説も出て来る。むかしのエタやしゅく仲間の伝説にも、ある高貴の姫宮が悪疾の為に宮中にいることが出来ず、何の何某がお伴して僻遠の地に隠し奉るうちに、渡世に困って皮剥ぎを業とし、ついに妹背の契りを結んで何々部落の祖先になったのだとか、何某の皇子が悪疾の為に都を去って辺鄙の地に隠れ給い、その王子が渡世の為に遊芸を業として父皇子を養い奉ったのが何々部落の祖先になったのだとか、勿体ないことをも平気で伝えていたものが少くはなかったが、これは世間から賤まれるのに対する弁護から起り、彼は素姓をまでもよくしようとの慾望から出たことで、その現われには多少の相違はあるが素姓を善くしたいという心理は一つである。また実際においては必ずしも仮托ばかりでなく、富が出来て来れば自然と貴が附随して来る。奥州の俘囚の長たる頼時は娘を都下りの散位平永衡に嫁して、累代の蝦夷の酋長はともかくも都人と姻戚の関係を結んだ。頼時の長子貞任はさらに深入りして陸奥権守藤原説貞の娘を妻に申し受けたいと懇望した。これは身分卑しとの故に拒絶せられたが、その為に貞任大いに憤慨し、乱暴を働いたというのが原因で奥州の大乱を惹き起すことにもなった。けだしひなのエビスは一方では、「お種頂戴」によって氏族の改良を希図すると同時に、一方では勢力にまかせて良家の子女と婚し、それによって身分の向上を怠らなかったものである。金屋子さんの氏子の金掘も、金が出来れば手もなく雲の上人を令夫人とすることが出来るのは、必ずしも明治大正の現実ばかりではない。その同類の炭焼にやんごとなき上臈が妻となっても不思議はなかろう。かくしてついには炭焼長者も名と実とをともに具備して、押しも押されもせぬ立派な身分になるのである。

五 炭焼長者譚の成生


 長者物語は各地の長者屋敷と呼ばれる遺蹟に附随して殆ど到る処にあると云ってよい。しかもその中について自分が特に民族上興味を感じたのは、その長者の元祖が職業もあろうにわざわざ炭焼であったという事である。ひなの中にもひななる山にのみ籠って、朝から晩まで本当の真っ黒になって立ち働いて、都の文化は愚かな事、里人との交りすらも殆どなく、山に生れて山に活きて山に死ぬという山賤やまがつの炭焼であったという事である。山上憶良の言い草ではないが、白銀しろがね黄金こがねたまとを人間第一の宝として尊重せられた奈良の御代において、陸奥みちのくから[#「陸奥みちのくから」は底本では「睦奥みちのくから」]黄金が発見されたと聞いては、我も我もとその宝の山に分け入りたくなる。「鳥が鳴くあづまの空に僥倖ふさへしに、行かんと思へど便宜よし旅費さねもなし」との述懐は、当時の都人士の憧憬あこがれるところを露骨に歌ったものであった。砂金を谷川の砂からさぐり出すにしても、岩石をうがって鉱石あらがねを掘り出すにしても、いずれもそれは山からである。大仏造像の功徳によって、仏神感応して始めて我が国に出現した陸奥小田郡の黄金は、その実或いは平地の川の砂中から発見したのであったかもしれぬが、それが歌人の口に上っては、「陸奥みちのくやまに黄金花咲く」となる。山なる哉、山なる哉、山は人間第一の宝を隠している倉庫である。そしてその宝蔵の鍵を握りうるものは山で生れて山で活きて山で死ぬ山賤の身が最も便宜である。事実においてもその山賤なる炭焼が、「そんな物が尊いならば俺の山には幾らでもある」ということを知っておって、しかもこれまで猫に小判と顧みようともしなかったその光る石を、数限りもなく掘り出して大福長者になったという場合も全然なかった訳ではあるまい。少くも都人士の夢にはしばしばそれが上ったに相違ない。
 しかし山に生れて山に活きて山に死ぬという山賤が必要ならば、必ずしも炭焼のみでなく、たまには木樵きこり猟人かりうどがその光る石の所在を知っておってもよかりそうに思われるが、それが必ず炭焼であるには理由がある。炭焼はしずの中にもしずの業とは云いながら、都の華奢な浮世の手ぶりに慣れ慣れて、栄耀栄華に飽きの来た人々には、そこにまた一種のなつかしみを感ぜしむるものがあったのである。「真木立つ山の奥、檜原の蔭、岩の蔭道たど/\しく、谷深き木の間より立ちのぼりたる煙の有様、世にたぐひなきは炭竈の風情なり」などと、人の苦労も知らず顔にゆかしがったものであったのである。炭竈に立ち上るかすかな煙は、藻汐焼く火とともに恋のほむらの譬喩たとえともなった。己が身の果報の程をもわきまえずして、「炭焼の心とすます月を見るかな」などと羨ましがった罰当りも少くはなかった。かくて日ごろ目にも見ぬ炭焼の名は、居ながらにして名所を知るという都の歌人には比較的親しかったのである。ことに山人はすなわち里人の「俗」に対する「仙」であって、凡人の目には一種の気高き思いをなさしめる場合もある。張良の黄石公、牛若丸の鬼一法眼、みな一種の山人であった。彼らは浮世の塵を脱して、松葉を喰い霧を吸って、飛行自在の術をも有していたとまで信ぜられるに至った。そして特に炭焼はその仙人と或る縁を持って伝えられていたのである。和名抄に、

炭蒋魴切韻云、炭、樹木以火焼之。仙人厳青造也。

とあるのは、炭焼の元祖を以て仙人と見なしたものである。これについて狩谷氏は箋注に神仙伝を引いて、

厳清会稽人、家貧常於山中炭。忽遇一人、与清語。不其異人也。臨行以一巻書清云云。謂厳清於山作炭云時、遇神人上レ書也。蒋氏以為厳青始作一レ炭者誤。

と弁じてあるが、それにしても貧乏な炭焼が神仙に近づいて、黄石公もどきに一巻の書を授かったとあってみれは[#「みれは」はママ]、箕でかき集める程の光る石が、浮世を外に床しく暮らす炭焼渡世の藤太や小五郎に、授けられたとあっても不思議はない。黄金が慾しい。山住まいが羨しいと、見ぬ果報に憧憬れる都住まいの慾張り連の夢としては、炭焼長者の物語は恰好の産物である。奥羽の藤太と豊後の小五郎とが、もと一つ筋の譚から分岐した兄弟であることは何人も疑わないところであろうが、それが黄金花咲く陸奥みちのくから起って、遠く九州くんだりまで飛んで行ったと解する必要はない。小石が池の真ん中に投げられて、そこに起った波が四方に広がって真ん中に消えてしまい、その端々の地物を背景として津軽の殿様ともなれば真野の長者ともなる。幕府の執権最明寺入道も出れば百済僧蓮城も出て来る。そこへひなのエビスの成功者が氏族の改良身分の向上を希図する慾望から、系図を仮托し良家の婦を迎えるというお極りの道行きが加わって来たのがこの炭焼長者譚である。

六 結語


 炭焼長者の出世物語は世にありふれた俗伝として、ハハアここにもあるのかと軽く笑ってすます程度のものではあるが、これを民族上より観察すれば、我が国において、天津神の系統と国津神の系統とが、渾然融和して区別なきに至った道筋を示すものとして、尊重せねばならぬものではあるまいか。





底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「民族と歴史 第五巻第二号」
   1921(大正10)年2月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年8月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「てへん+妻」、U+637F    283-15


●図書カード