長吏名称考

喜田貞吉




 エタをチョウリという地方が多い。文字に「長吏」と書く。或いはこれをチョウリンボウともいう。「長吏坊」で、長吏に「坊」という賤称を附したのである(「坊」という賤称の事は他日別に発表する予定)。
 長吏の名義は徂徠の「南留別志」に、張里の誤りなるべしとある。張里は馬医者の事だという。「燕石雑志」には、「鎌倉将軍の時に穢多の長を長吏と云ひけり」とあるも確かな出所を知らぬ。しかし鎌倉時代に既に長吏の称のあった事は、後に引く文書にも見えて確かな事だ。俗説にチョウリは町離で、エタを賤んで民家と雑居せしめず、町を離れた所に置いたからだとも、或いは丁離で、エタ村は道中の丁数に数えないからだなどとの説もあるが、もとより採るに足らぬ。
 長吏は文字の如く吏員の長たるものの称で、「撮壌集」官名の部に、「長吏」と出ている。三井寺では智証大師円珍が始めてこの職に補せられて以来、代々その長たるものを長吏と云っている。「拾芥抄」僧官の部に、

三井寺主 云長吏。聖護院・実相院・円満院、此三門輪転而被之。

 とある。叡山で座主、東寺で長者という類で、勧修寺でもやはりその最上席の僧を長吏と云っている。「勧修寺長吏次第」に、

或記云、真言・三論両度者被之。当寺代々長吏三論、応公請畢云云。

 などある。
 賤者に対してこの称の見えるのは、管見の及ぶ限りでは鎌倉時代寛元二年三月の、奈良坂・清水坂両所の非人争議の文書である。

本寺(興福寺)奈良坂非人陳申、
清水坂非人等条々虚誕子細状。
一、彼状云、相語当坂小法師原、打入当坂、令殺‐長吏畢云云。
陳申云。不子細申状也。彼坂所住之非人等吉野法師、伊賀・越前・淡路法師等、無指過、為長吏法師追却之刻、奈良坂宿来歎申之間云云。(古事類苑引

 ここに長吏法師とは、清水坂の非人法師等の頭の称である。非人等の中には、法師姿をして、何々法師と称していたものが多い。東寺の散所法師とか、右の文書に見える小法師の類みなこれで、これらは沙門と賤者の関係を説く場合に詳論したい。
 右の文書に見えるものは京都清水坂の非人長吏の事であるが、他の非人の団体にも、それぞれ長吏というものがあったらしい。そしてそれが配下の非人を取締っていたものらしい。「見聞雑記」に、弘治二年文書に上州平野村長吏九郎左衛門、小田原長吏太郎左衛門訴訟の事がある。また、「弾左衛門由緒書」には、

私先祖摂津国池田より相州鎌倉へ罷下、相勤候処、長吏以下之者依強勢、私先祖に支配被仰付云云。
寅年(天正十八年)御入国之御時、私先祖武蔵国府中より罷出、鎌倉より段々相勤申候由緒申上候得共、御役等長吏以下支配被仰付候云云。

とも見えている。ここに長吏とは、非人に長たる者を云ったのである。元来エタと非人とは、もとさまで区別のないもので、エタまた所謂非人の一部であった。これを明らかに区別し出したのは徳川幕府取締り上の便宜と、エタは皮を扱い肉を喰うが為にその身に穢れありとせられた迷信とから来たものであることは、特殊部落研究号において述べた通りである。そしてその中にもエタは早く定職を得て村役人となり、非人等を取締る傍ら、村内の警固に任じ、犯罪人追捕及び処刑、行路病者の保護、行倒人の始末、穢物の取片附け等に従事したのであったから、彼らは自然長吏の名を得た者であったと解せられる。もっともエタがことごとく長吏ではない。皮田・皮屋・皮坊などと称せられた皮革業者は、その身に穢れありとの事から皆エタ仲間に見做された結果、長吏指揮の下に、右の賤職に従事するものが少からずあったには相違ない。川辺政一君の報告によれば、備後の或る地方で皮田をエタの下に見ているのも、これを示したものであろう。されば東国では、エタの事を直ちに長吏または長吏ん坊と呼ぶ例になってはいたが、関西地方では必ずしもそうではなかった。寺石正路君の報告によれば、土佐では長吏はエタ頭として、旧慣によって帯刀を許し、その下にエタ年寄、さらにその下に普通のエタがあった。東国でももとは長吏はエタの頭分のもので、長吏すなわちエタではなかった。古事類苑引「我衣」に、「長吏とは手下てかあるなり」とある。「弾左衛門由緒書」に、「小田原長吏太郎左衛門、小田原氏直御証文を以て、長吏以下支配の儀奉願」といい、また「上州下仁田長吏馬左衛門長吏之論に付、甲斐信玄公御証文を以論仕候」とある長吏も、ただのエタの事ではない。窪坂豊成君の報告によれば、甲斐では長吏は非人や穢多のお役人だとある。「諸御用秘鑑」所載安永二年五月の神谷大和守報告文に、「穢多非人等不届有之、追放以下之御仕置に当り候得ば、某所之穢多頭へ引渡、相当之仕置申付候様御申渡被成候事に御座候処、中国御代官所之穢多非人不届有之候節、穢多頭無之候故、差支申候由。尤も中国御代官所にて為御糺成、弥中国に穢多頭非人頭も無之候はヾ、当表之長吏え御引渡成と思召候。」とある長吏も、また平エタでなくして、所謂穢多頭相当のものと解せられる。
 しかるに東国で往々長吏を一般のエタの名称の如く用うるに至ったのは、今も東京人がしばしばただの消防夫を「頭」と呼ぶ様な類である。一体名称は上より次第に下に及びがちのもので、もと大関の名であった関取の称を、幕内相撲全体に及ぼし、はては褌かつぎまでも時には「おい関取」と呼んで喜ばせる。もとは少工しょうくに対する名として、たくみの上席のものの称であった大工だいくの語を、後世一般の木材建築職人に及ぼし、それでもなお不足で、その頭分を棟梁と云い、はてはただの叩き大工をもしばしば棟梁と呼ぶ様になった類、みなこれである。
因に云う。奈良の非人には長吏があった。非人頭である。





底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「民族と歴史 第二巻第四号」
   1919(大正8)年10月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年6月30日作成
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