道鏡皇胤論について

喜田貞吉




一 序言


 野人かつて「道鏡皇胤論」一編を京大史学会の雑誌史林の誌上で発表した事があった。要は道鏡が天智天皇の皇孫であるとの旧説を祖述し、これによって道鏡に纏わる幾多の疑問を合理的に解説して、以て我が皇統の尊厳をいやが上にも明らかにせんとするにあった。しかるにそれを見られた仏教連合会の当時の幹部の人々は、従来我が仏教がこの悪逆なる妖僧の為に被った冤罪も、この研究によりて幾分緩和せらるべきものとなし、これを複製して世間に頒布したいと申し出でられた。その趣意は、道鏡が臣籍の出として日本において開闢以来かつて他に類のない非望をあえてしたという事は、彼がまた一の僧侶であることから、我々仏教徒にとってことに遺憾に思い、仏教徒として特に肩身狭く感ずるところであった。しかるにそれがこの考証によりて、彼がうぶからの臣籍の者ではなかった事が明らかにせられた以上、彼が畏れ多くも天位を覬覦きゆし奉った事についても、そこに幾分の理由が認められ、それが必ずしも彼が仏教徒であったが為ではないとの言い開きも立つ訳だというにあった。勿論彼が大それた非望を懐くに至った事が、必ずしも彼が仏教徒であったという理由からではなく、また彼がよしや皇胤であったとしても、それが決して彼の罪悪を軽減すべき理由とはならぬ。しかしながら野人のこの学説は既に学界に発表したものでもあり、今もなおそれを確信しているが上に、もしそれが仏教徒にとりて幾分でも従来負わされていたと感ずる重荷を軽くするに役立つものならば、必ずしも野人として敢えてそれを拒むべきものではなく、ことにその宣伝は我が皇統の尊厳なる事実を世間に知らしむる所以のものだと考えたので、読者に誤解を来さしめる様な記事を附け加えぬ条件の下に、潔く承諾した事であった。
 しかるにそのパンフレットが世間に広まったについて、歴史に素養なき人々の間にもそれが評判となり、中には本書を通読することなくして、伝聞に訛伝を加えた場合が多かったらしく、道鏡は皇位覬覦という様な不軌を図ったものでは無いとか、和気清麻呂の方がかえって不忠の臣であったとか、思いもよらぬ説が一部の人々の間に流布せられて、為に野人の身の上を案じて親切な注意を寄せられた人すらあった。すなわち世の誤解を防がんが為に、当時その趣意を簡単に記述して中外日報紙上に掲載を請うた事があったが、今もなおそんな誤解を有する人の無きにあらざるかを思い、ここにいささか補訂を加え、さらに註解を附記してその全文を収める事とする。精しくは大正十年十月発行の史林について見られたい。

二 道鏡問題に関する幾多の疑問


 大体道鏡が皇胤であるとしたところで、それですぐ彼は善人であったとか、不軌を図ったものではなかったとか、これを排斥した清麻呂はかえって不忠の臣だったとかいう様なことがどうして連想されるのであろうか。どこを押せばそんな妙な音が出るのであろうか、野人には、まず以てそれが不思議でならない。
 言うまでもなく道鏡関係の史実には、甚だ多くの疑問が纏わっている。けだし藤原百川らの道鏡排斥の事件が極めて隠密の間に計画せられ、隠密の間に遂行せられたのであったであろうから、その事情の外間に漏れなかったに起因するという理由もあろう。ことにこれを伝えた史筆の上にも、確かに忌むところがあって隠した形跡が窺われるのである。したがってその伝うるところに疑問の多いのはやむをえぬとしても、歴史家としては出来得る限りその疑問に対して合理的解釈を下してみたい。そしてその解釈が国家社会の為に、また世道人心の上に、幸いにいささかでも裨益するところがあるものならば、差し支えない限り、それを宣伝してみたいと自分は思っている。
 勿論歴史家の研究は公平無私であらねばならぬ。曲学阿世のそしりがあってはならぬ。しかしながら我ら歴史家もまた、同時に帝国臣民である事を忘れてはならぬと自分は信じているのである。したがってこの道鏡問題の如きも、こと皇室の尊厳に関して重大なる疑問があり、歴史家としての研究からそれが氷解せられて、いやが上にも皇室の尊厳を明らかにしうるものである以上、自分は徹底的にこれを研究して、世の誤解を解く事が歴史家としての冥加であると思っているのである。
 そこでその多くの疑問の中について、まず以て自分の最も解し難しとするところのものは、帝権の最も隆盛であったかの奈良朝時代において、いかに天皇の御親任が厚く、また天皇が当時出家の天子にておわしたと云え、何ら皇室に因縁のない臣民出身の一僧侶を推して、仮りにも天子に戴いてはとの大それた説が現われてみたり、また天皇がそれにお迷いになられたり、道鏡自身もそれを聞いて、なるほどそうかと始めて野心を起してみたりしたというところにある。当時にあってそんな思想が起りえたという事が、自分にとって不思議でならぬのである。ことに彼が唯一の保護者とも申すべき称徳天皇崩御後までも、彼は自衛の道を講ずる事なく、晏然陵下に廬を結んでこれに仕え奉り、今に諸臣が皇嗣として自分を迎えに来るであろうかと、その僥倖をねごうてボンヤリしていたというに至っては、いかに彼が時勢に暗かったとは言え、むしろ滑稽千万な事ではあるまいか。彼はそもそも何を恃んでそんなに平気でいられたものであろう。否彼がさきに法王の位におり、服飾供御天子に准じて、政巨細となく決をこれに取るという様に、諸大臣の上に立って傲然と政治を見ているをえたという事からして、臣民出の一比丘としてはまことにおかしな次第ではないか。
 申すまでもなく、我が皇室は万世一系天壌無窮にましまして、いかなる場合にも臣籍の者がとってこれに代ろうという様な思想が起りえたとは信ぜられない。いわんや帝権の最も盛んな奈良朝時代において、道鏡に限ってどうしてそんな問題が起りえたであろう。これは我が国民思想の上からも、特にその時代思想の上からも、断じてあるべからざるものである。すなわち自分にとっては解しえざる最大の疑問であるのである。
 またこの事件について最も反対側から憎まるべき筈の習宜阿曾麻呂(註一)が、道鏡失脚後の新政において続々栄転した形跡のある事や、その反対に最も多く賞せらるべき筈の和気清麻呂、法均の姉弟が、その当時割合に恩賞に預らなかった事や、その他称徳天皇の宣命の中にお述べになったお言葉の中などにも、表面にあらわれただけの事実では、到底解し難い問題が甚だ多く存するのである。
 しかるにこれらの多くの疑問のすべては、道鏡が皇胤(註二)であったとの旧説を是認することによりて、ともかくも或る程度まではことごとく解釈しえらるるのである。

三 右の疑問の解決と皇統の尊厳


 この事は実は自分の創見ではない。去る明治二十年代において故田口卯吉博士が、その経営の雑誌史海の誌上で既に多少の解決を試みられかけたのであった。しかるに当時その説には反対説が多く、博士も遂に大成されずに中止されてしまったのであった。けだし当時田口博士は道鏡の素性に関する続日本紀の文に、河内の弓削氏の人であるという事、彼の先祖に大臣があったという事などある記事について、適当なる解釈を下しえられなかった為であるらしい。
 しかしながら右の道鏡素性に関する問題は、その時代に往々実例を見るが如く、一皇族が母方の姓をついで臣籍に下ったものであったと解して、容易に通ずべきものなのである。彼は実に多くの旧説のひとしく言うが如く、施基親王の王子で、おそらく河内の弓削氏の腹に生れた者であったであろう。したがってそれが河内の弓削氏の人であり、その先祖に弓削(物部)の守屋の大臣(大連)があっても差し支えはないではないか。彼が皇胤であることを隠さんとした史筆の陰に、そんな事があっても一向差し支えはないではなかろうか。
 かく解することによって、そこに彼を推戴せんとする説の生ずる間隙のあった事が始めて諒解せられる。天皇も為にお迷いになり、道鏡自身、為に始めて野心を起すに至った事情の如きも、これによってほぼ首肯せらるべきものである。さらに遡って彼が法王位を授かったということについても、これによってなるほどと合点することが出来るのである。
 無論一旦臣籍を継いだものが、天位にきうべき資格のあろう筈はない。したがって清麻呂が「臣を以て君と為す未だかつてこれあらざるなり」との正論とは矛盾しない。しかし当時の右大臣吉備真備の如きも、称徳天皇崩御の後において、天武天皇の皇孫で、既に臣籍(註三)に下った文室浄三や、その弟の大市を推戴しようと試みた事もあった。されば道鏡が天智天皇の皇孫として、既に一旦臣籍を継いだものであったとしても、或る目的からそれを推戴しようという説の出たという事は、彼が皇胤であるというところに乗ずべき間隙があった為である。そして自分はここに我が皇統の最も尊厳なる所以があると信ずるのである。これだけの間隙があったればこそ、ここに始めてそれに喰い入る事が出来たのである。そして天皇もそれにお迷いになり、道鏡も始めて大それた野心を起し、清麻呂によって面責せられた後になってまでも、彼はなお平気で僥倖をねごうていることが出来たのである。
 我が万世一系天壌無窮の皇運は絶対(註四)のものである。これに対する国民の信念は牢乎として抜くべからざるものがある。いかなる場合にも異姓の者を以てこれに代えんとするが如き思想は起りうべからざるものである。さればたといいかに天皇の御信任が厚かったとしても、それに媚びて臣籍のものに皇位を伝え給わばなどという様な、そんな不都合な説を容るるが如き薄弱なものではないのである。無論何人も初めからそんな事を考えてみるものもなければ、たとい神託を仮りてこれを口にするものがあったとしても、何人も為に迷わさるべきものではないのである。かの平将門が関東で割拠独立を図ったのは、当時朝廷の綱紀が甚だしく弛緩して、中央政府の威令が遠方に及ばぬ様な、至って混乱した時代であったが上に、彼は騎虎の勢いやむをえずしてそんな立場に推しすすめられたのではあるけれども、それでもなお彼が平新皇を称するに至ったについては、彼が「王家を出でて遠からず」、桓武天皇から分れてまだ五代しかならぬ程の、近い皇胤であるという事の自信がこれを為さしめたのであった。ここに我が皇室の最も尊厳なる所以が存するのである。

四 道鏡の暴悪と清麻呂の正義


 勿論皇胤だとて必ずしも皇族ではない。また皇族であったからとて不軌を図ったものはやはり謀反を以て論ぜられる。皇太子の如きお身分のお方であってすら、時到らぬに天位を望んだという点でその位から除かれ、その謀に与ったものが厳科に処せられたという例は幾らもある。
 いわんや道鏡の如き、よしやその身は皇胤であったとしても、つとに臣籍を継いだ筈の一僧侶たるに過ぎないのである。しかも彼は天皇の御信任の厚きに乗じて、至尊の聡明を暗まし奉り、たといそれが聖慮に出でたとは云え、自身法王の位を授かりて傲然朝に臨み、皇族を残害し、国用を濫糜らんびしただけでも、既に以て許すべからざる罪を犯したものであった、彼の虐政のいかに盛んであったかは、当時心ある皇族の方々が、身を全うせんが為に自ら願って臣籍に降られたという一事のみによっても察せられよう。また称徳天皇崩御の後を承け給うた光仁天皇が、御一代間行政財政の整理に没頭し給うたという事の如きも、彼が在朝中にいかに多く行政財政の紊乱を来していたかという事を察するに足るのである。
 彼が皇胤であったという事は、我が皇室の特に尊厳なる所以を示すの一つの材料ではあるけれども、これが為に彼は決して高徳の僧とはならぬ。これが為には彼は決して善良の人とはならぬ。そしてこれを排除せんが為に、身命を賭して事に当った和気清麻呂らが、どうして不忠の臣となるであろう。
 道鏡排斥の事に当った清麻呂姉弟のその際の行動についても、その伝うるところ種々の疑問に充たされている。しかもその結局は、これが為に彼ら姉弟が神教をめて天皇を欺き奉ったという罪名を以て、罪科に処せられた事によってともかくも一旦は落着した。そしてその以後においても、道鏡はなおその野心を放棄することなく、天皇崩御の後までも、平気で僥倖を待っておったのであった。しかしながら問題は天皇の崩御によって急転直下した。したがって仮りに清麻呂の行為が、その際道鏡排斥の上に直接の効果をもたらさなかったとしたところで、決してその当時における結果のみを以て是非を論ずべきものではないのである。
 或いはこの史実の研究の為に、清麻呂に対する或る一部の世人の観念に、よしや多少の変動があるとしても、それは史実の示すところに従わねばならぬ。この際もし清麻呂なかりせば、我が万世一系の皇統も、河内の一比丘の為に涜されたであろうというが如き議論は慎まねばならぬ。もし(註五)仮りにそんな事を信ずる者があるとすれば、それは我が皇統の尊厳を低く見過ぎたものである。我が天壌無窮の皇運は果してしかく薄弱なものであろうか。自分はこれを信ずる事が出来ぬ。ことに当代の史実に現われた時代思想において、自分は到底これを信ずる事が出来ないのである。
 道鏡は天皇に近い皇胤の身分であった故に、これを推戴してはとの説も提出せられたのではあったが、勿論それは実現せらるべきものでなかった。称徳天皇崩御の後において、彼ひとり晏然として僥倖を待っていたにかかわらず、何人もこれを後援せんとはしなかったのである。清麻呂は道鏡の投じた大臣の好餌を捨て、天皇の逆鱗と道鏡の激怒とを顧慮するなく、身命を賭して神教を伏奏した。「我が国開闢以来君臣の分定まる。臣を以て君となす事は未だかつてこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を続げよ。無道の人は早く掃除すべし」と伏奏した。これが果して神教に出でたものか、清麻呂自身の腹から出た事か、いずれにしても、彼は帝都出発の際既にこれを予定していたのであった。そして予定通りそれを断行したのであった。その議論の公正なる、その行動の勇敢なる、万世の後になお我が皇統の特異なる所以を知らしめ、懦夫をして為に起たしむべきものである。何人かこれを欽慕せざるものがあろう。ただそのこれを賞讃せんとするの余りに、道鏡の皇胤たることにまで耳を蔽い、皇統の危機が清麻呂によってのみ救われたと言わんとするものがあるならば、それはかえって我が皇室の尊厳を傷つくるものではあるまいか。

五 事実の真相


 従来の史家の多くは阿曾麻呂の※(「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86)島守たねがしまのかみに任ぜられた事を以て、彼が道鏡を煽動した罪科によって、遠島に貶謫へんたくせられたものだと解している。しかしそれは確かに誤まりである。多※(「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86)島守は彼の前官たる太宰主神よりは高官である。のみならず彼は道鏡の死後直ちに大隅守に栄転している。これが何の貶謫であろう。何の左遷であろう。ここにこの問題に関する事実の真相を明らかにすべき秘鍵が存するのである。
 思うに彼が僻陬の任に当てられたのは、当時道鏡の党与なお存するを慮って、これを安全の地に置いた為であったかもしれぬ。道鏡の天位を覬覦きゆするに至った事が、阿曾麻呂の奏言によって始まったことは勅撰の国史の明記するところである。したがって彼が真に道鏡に媚びてこれを為したのであったならば、彼は天地も容れざる大罪人でなければならぬ。またそれが道鏡をたぶらかすの手段であったならば、彼は道鏡の党与の最大怨府でなければならぬ。けだし当時誠心国を憂うる人々は、道鏡のあまりに悪虐なるを見るに見兼ねてこれを排除せんと企て、道鏡が皇胤たるの間隙に乗じて、これを誑かして天位覬覦の念を起さしめ、それによって彼を排斥せんと試みたものであったと解する。そしてその任に当って表面に立つものは、実に阿曾麻呂と清麻呂姉弟とであったであろう。
 阿曾麻呂が神教に託して道鏡を誑かしたのであったとは、これ国史の明記するところなのである。そしてそれを天皇に奏したのが清麻呂の姉法均であって、清麻呂が再び神教を請うべく宇佐に遣わさるべきことは、前以て予定の行動であったのだ。しかるに天皇の道鏡に対する御信任はあまりに篤く、清麻呂の伏奏もその当時においては実にただ姉弟の貶謫にのみ終ったのであった。
 その陰には勿論藤原百川らがあった。しかしそれは表面にはあらわれなかった。清麻呂姉弟の貶謫の際においても事件を単に表面に現われたもののみに局限して、他の同志に及ぼさぬとの事は明らかに天皇の宣命にも仰せられているのである。そして百川は陰に清麻呂を扶持しつつも、表面にはその後もうまく道鏡に取り入って、その由義宮ゆげのみやの為に設けられた河内職の長官に任ぜられ、天皇この宮に行幸の際の如き、彼は道鏡の前に倭舞を奏してその歓心を求める程の老練なる白パクレ振りを発揮していたのであった。道鏡は実に彼にゴマかされていたのである。時勢に暗く人を見るの明なき道鏡が、最後までも野心を包蔵して僥倖をねごうていたということも、満更無理ではなかったのであろう。

六 結語


 要するに道鏡が皇胤であったという事は、決して彼を善人とならしめる所以のものでなく、ただ為に我が皇統の尊厳がいかなる場合においても、決して冒涜せらるる事のなかった所以を示すものであるに外ならぬ。無論これが為に清麻呂が不忠の臣となるなどと考えるのは以てのほかの事である。他の所論を玩味することなく、伝聞によりてみだりに批評を下すが如きことは慎んで戴かねばならぬ。ことにこと皇室に関するこの種の問題においては、一層の慎重をねがわねばならぬ。

(註一) 習宜阿曾麻呂は太宰の主神として、宇佐八幡大神の神託と称し、道鏡を天位にけたなら天下太平ならんなどと、とんでもなきことを奏上して天皇を惑わしめ奉り、道鏡をして始めて非望を起さしめ、遂にあれだけの大騒動を引き起した男である。しかるにもかかわらず彼は道鏡貶謫と同時に、多※(「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86)島守に栄転し、また道鏡の死と同時に、さらに日向守に栄転したのであった。その後彼は間もなく死去したとみえて、その名は再び歴史に現れてはいないが、ともかく道鏡失脚後の新政府では、彼は大いに重んぜられたものであった。しかるにこれに反して清麻呂・法均の姉弟は、流罪だけは免ぜられたが、その当時は官位はもとの地位までも復するには至らなかった。清麻呂の後の栄達は、彼が長生して摂津職大夫となり、中宮大夫となって以来の事である。けだし道鏡排斥の事件は、百川、阿曾麻呂、清麻呂等の間に仕組まれた、一つの謀計の現われではなかろうかとの疑いが無いでもない。
(註二) 続日本紀、日本後紀など、勅撰の国史以外の道鏡の事を書いた古い記録には、大抵彼を天智天皇の皇子施基親王の子としているのである。さればこれを河内の人弓削氏と云い、先祖に大臣があったという国史の記事とは矛盾しているが如く見ゆるも、葛城王が母の姓を継いで橘諸兄となり、山背王が母の家を承けて藤原弟貞となった例を以てこれを観れば、その矛盾は容易に解決せらるべきであろう。
(註三) 道鏡既に臣籍に下った以上、もとよりこれを以て君と仰ぐべきではない。真備が文室浄三や大市を推戴せんとした事も許すべからざるところであった。しかし藤原基経の権力は、一旦臣籍に降った侍従源定省を親王に復し、さらに宇多天皇として推戴し奉った例も後には無いではない。ここに阿曾麻呂の奏上を容るる間隙があったと解すべきであろう。
(註四) 皇族以外のもので非望を懐いたものとしては、通例平将門が例示せられるのであるが、彼は乱世に乗じて関八州に割拠し、独立を企てただけで、日本国の天子たらんとするのではなかった。しかもそれにしても彼は皇胤たる事の理由を以て自ら説明している。この外には平群真鳥が天位覬覦者として数えられるが、これも孝元天皇の皇胤として、ただの臣籍の例には引き難い。蘇我入鹿にも多少その嫌疑が無いでもないが、彼もまた同じく皇胤であるの誇りを持っていたに相違ない。
(註五) 我が皇位の尊厳と、和気清麻呂に対する過大なる賞讃とは、例えば両天秤の様なもので、一方をあまりに高くあげると、一方が低く下って来るとは、かつて故久米邦武先生の論ぜられたところであった。





底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
底本の親本:「斎東史話」立命館出版部
   1935(昭和10)年10月
※「(註一)」等の注記番号は直前の単語の先頭右横にルビの形で付加されている。
入力:川山隆
校正:しだひろし
2010年8月17日作成
2011年1月18日修正
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