我が古代の社会組織の上に「間人」という一階級があった。ハシヒト或いはマヒトと読ませている。この事については、自分がさきに「民族と歴史」を発行した当時、その第一巻第一号(大正八年一月)に、「
駆使部と
土師部」と題して簡単に説き及んでおいたことであったが、その後に阿波の田所市太君は、阿波における徳川時代の
間人に関する棟附帳の抄録を、同誌五巻三号(大正十年三月)に報告せられ、周防の谷苔六君は、周防における同じ時代の
門男百姓のことについて、同誌九巻五号(大正十二年五月)に発表せられるところがあった。「
門男」はすなわち「
間人」である。この谷君の発表に際して自分は、いずれそのうち間人とハチヤとを関連して、その後の研究を取り纏め、同誌上に発表してみたいとの事を予告しておいたのであったが、たまたま同年九月の震災の影響で、同誌は本誌と合併する事となり、自分の研究もつい心ならずそのままに放任されて、ついに今日に及んだのであった。すなわちここに「間人考」の下に、その予約を果したいと思う。
間人とは文字の示す如く中間の人の義で、大体において良民と賤民との中間に位するということを示している。この名称は既に大化以前から存在し、近く徳川時代までも継続して、我が社会組織上常に重要なる一階級を成しておったのである。しかるにもかかわらず我が一般国史の研究者はもとより、特に我が社会史を専攻すと称する人々までが、従来思いを茲に致すこと至って少く、往々にしてこれを閑却するの嫌いがある如く見えるのは、大正学界の為に甚だ惜むべき次第である。すなわち煩雑を省みずなるべく多く諸書に散見する史料を網羅し、これに関係する事項を蒐集し、一つは世間の注意を喚起して以て類似の資料の報告を望み、一つは史家の参考に供して以てその研究の進歩を
冀わんとする。その所述の一部が、既に発表したところと重複する点のあるのは御用捨に預りたい。要は前説を補って、さらにこれを精しくせんとするにある。
「間人」の文字は旧事本紀天神本紀に初めて見えている。
饒速日命の天降に随従した三十二人の供奉の人々の中に、天玉櫛彦命は間人連等祖とあるのがこれで、「間人」ここに「ハシビト」また「ハジウド」と
訓ませてある。次に古事記欽明天皇の条に、皇女間人穴太部王というお方があり、その「間人」を寛永板刊本には「マヒト」と訓じ、中臣連胤蔵古写本には「ハシヒト」と読ませてある。そしてこの皇女の御事を法王帝説には穴太部間人王と書いてあるが、さらに日本紀同天皇二年の条には、これを

部穴穂部皇女に作り、その「

部」の古訓を「ハセツカベ」とある。しからば間人すなわち

部で、時にハセツカベとも呼ばれたと思われる。「

部」の語が「間人」の語と通じて用いられた事は、同じ皇女の御事を同書用明天皇元年の条及び推古天皇元年の条に、ともに穴穂部間人皇女とあるによって察せられる。また敏達天皇の皇女で、孝徳天皇の皇后となられたお方を同書に間人皇女と云い、その「間人」をも古訓にハシヒトとあるのである。この外日本紀に間人姓のもの常に同じくハシヒトと訓じてある。しからば間人はもとハシヒトと読むを常としたもので、後にその文字によってマヒトと読むに至ったものと解せられる。和名抄に備中国浅口郡に間人郷というのがあって、刊本には「
万無土」と訓じ、高山寺本には「
波之布止」と訓ませている。また丹後国竹野郡にも同じ名の郷があって、刊本には右側にハシウト、左側にマムトを傍訓してある。これらはともに古く両訓あった事を示したものと云ってよい。ハシウトはすなわちハシヒトの転で、マムトはすなわちマヒトの転たることは云うまでもない。肥後国山鹿郡箸人郷というのもやはり間人の義であろう。(刊本和名抄には箸入に作る。高山寺本に箸人とあるに従うべきものであろう。)
間人という姓は新撰姓氏録に、
左京皇別上 間人宿禰 仲哀天皇皇子誉屋別命之後也。
山城国皇別 間人造 間人宿禰同祖誉屋別命之後也。
左京神別中 間人宿禰 神魂命五世孫玉櫛比古命之後也。
と見えている。この最後のものは、前引の天神本紀に天玉櫛彦命は間人連等の祖とあるのと同じもので、天武天皇十三年に間人連等五十氏に姓を賜いて宿禰というに当る。
この外にも間人姓のものは少くなく、姓氏録右京皇別上に、
阿閉間人臣というのがあって、伊賀臣の同祖とある。その伊賀臣は孝元天皇の皇子大彦命の子彦背立大稲輿命の子彦屋主田心命の後也とあれば、その阿倍(阿閉とあるも同じ)氏の一族が、さらに分れて間人姓を有するに至ったものであろう。また続日本紀大宝二年正月条には、正六位上
丹比間人宿禰に従五位下を授くとあって、別に火明命の後裔と称する
丹治比姓のもので、間人姓を称えたものであったと見える。また日本書紀孝徳天皇白雉五年の条に、遣唐使判官
中臣間人連老という名が見えていて、中臣氏の庶流にも間人姓のものがあった事を示している。万葉集の一つに、舒明天皇内野に遊猟し給うた時に、
中皇命すなわち皇后宝皇女(後に皇極天皇)が、間人連老をして献らしめた歌というのがあるが、その老すなわちこの中臣間人連老のことであろう。この外続日本紀神護景雲元年三月には、近衛将曹従六位下勲六等
間人直足人という名も見えて、
直姓の家もあった。その他古文書に散見して出自不明の間人姓のものも少くないのである。
「間人」を以て名となすもの、「間人」を以て姓となすものが古代に多く、或いはこれが地名として遺り、近く徳川時代までも地方によってはその称を以て呼ばれる一部の民衆があったとしてみれば、太古以来我が社会組織の上において、「間人」という一階級の存在が認められていたことは明白である。
「間人」と書いてマヒトと
訓む。これは全くその文字通りの意義であって、中間に位する人というに外ならぬ。朝鮮にはもと中人という一階級があって、両班すなわち貴族と、平民すなわち常民との中間に位置したものだった。我が間人の意義もまたこれと同様で、ただその地位が良民と賤民との中間だというの相違があるのみである。もっとも大化以前にあっては、所謂良賤の別が大化以後のものとは相違があって、一様にこれを云うことが出来ないが、それは後に改めて説明する。またこれをマムトと云い、マウトまたはモート、モオト(門男)など呼ぶに至ったのが、単にその語の転訛たるは言うまでもない。
しかしながら、これをマヒトと呼ぶのは或いはその文字によって起ったもので、古くはこれをハシヒトと呼んだであろうとの事は、これを姓や名につけた場合に、多くそう読んであることによって知られる。
ハシヒトという語については、本居翁はその古事記伝の間人穴太部王の御名に注して、
間人は波志毘登と訓むべし。(ハシウドと刻むは後のくづれたる音便なり。)「間」は借字にて、(物の間を波志と云ふこと例多し)土師人のよしなり。(土師は波爾志なるを、爾を省きて云ふときは、志を濁りて波自と常に云ふを此御名に「間」字を借りて書けるを以て見れば、志を清みても言ひけん。)かくてこの御名の間人は、御乳母の姓なり。(下略)
とある。すなわち土器製作部民の称と解しておられるのである。しかるに故栗田寛先生はこの説を採らず、その新撰姓氏録考証において、「間人の意未だ考へ得ず」と記るされ、慎重なる態度を採って、所謂その疑わしきを
闕いておられるのである。
間人なるハシヒトが果して土師人であるか否かについては、単に本居翁が独断的に「然なり」と言われただけでは、なお未だ以て他を承諾せしむるには不十分である。したがって故栗田先生がこれを信ぜず、慎重なる態度を採られたにも無理はない。しかしながら、もしその間に「
駆使部」なる一部族を介在せしめて、双方の連鎖を考えみたならば、ここに始めて本居翁の所説の信ずべきことが承認せられるであろう。この事は既に「民族と歴史」(一巻一号)において簡単に述べたところではあるが、ここにさらにその説を
完からしむべく、前説の不備を補いつつ次項にその一部を繰り返してみたい。
古事記に間人穴太部王とある欽明天皇の皇女の御事を、日本紀に

部穴穂部皇女に作り、その「

部」を古訓「ハセツカベ」とあるよしは既に述べた。ハセツカベは駆使部の義で、普通に「杖部」または「丈部」と書き、慶長古版の日本紀には、その

部の右側にわざわざ「丈部」とまで傍書し、左側に「ハセツカベ」と傍訓を施してあるのである。これは

部すなわち丈部であることを示すと同時に、それが間人であることを語るものとして解すべきものであろう。

部姓のものには同書天武天皇元年六月の条に、大津皇子に従って天皇の軍に参加した

部
賦枳という人があり、同十二年の条には、

部造等に姓を賜わって
連というとある。そしてその

部には、いずれも古本にハセツカベと訓ましてあるのである。この訓は由来久しいもので、既に卜部兼方の釈日本紀にもそうあるのを以て見れば、おそらく平安朝の博士達の私記によったものであろう。
しかるに従来の国学者国史家等、多く

部のハセツカベなることを承認しない。既に間人の土師人なることを認められる本居翁すら、その古事記伝において日本紀の傍訓を否認し、

部は
波志毘登なるを、本にハセツカベと訓みて、傍に「丈部」と書けるはいみじき
非なり。
丈部とは
大く異なるをや、天武紀などに見えたる姓の

部も同じ。
と云っておられる。かくて飯田武郷氏の日本紀通釈の如きもこれに従い、ハセツカベと訓めるは甚だしき誤りなりと喝破せられてハシヒトの訓を取り、新版国史大系本の日本紀の如きに至っては、おそらく平安朝以来の傍訓(少くも釈日本紀以来の傍訓)たるべきハセツカベを抹消して、無条件にハシヒトと改めているのである。さらに栗田寛先生はその新撰姓氏録考証において

部をハツカシベと訓むべしとの新説を提出せられ、太田亮君の姓氏家系辞書の如きは無雑作にこれに従っている。
栗田先生がこれをハツカシベと訓まれたのには理由がある。それは令集解職員令宮内省土工司の条に、「泥部」を「古言
波都加此之友造」と注してあるのに基づかれたのであった。土工司は土作瓦

及び石灰を焼く等の事を掌る官司で、その瓦

は義解になお瓦の如しと解し、この司に泥部廿人が附属している。集解跡の説に、瓦

はなお瓦泥と云うが如しとあって、「泥」「

」相通じ、泥部はすなわち

部である。そしてそれを古言「
波都加此之友造」と云ったとあって見れば、先生がこれをハツカシベと訓まれたのは至当だと謂わねばならぬ。
しかしながら、さらに翻って考えると、泥部を何の故にハツカシベと訓んだかという、疑問が起らざるをえぬ。古く
泊橿部または
羽束部と書く部民の存在した事は疑いを容れぬ。天武天皇朝に

部造が連姓を賜わったと同時に、同じく連姓を賜わったものに
羽束造という氏族もあった。栗田先生は、ハツカシはもと地名で、
忍壁という地に刑官が居ったが為に刑部をオサカベという様に、泊橿部という地に土壁の職にたずさわる人が居ったから、それでその人をハツカシベと云ったのであろうと解しておられる。これについてここにこれを弁明せんに、所論あまりに枝葉にわたるの嫌いあるが故に省略するが、ともかくも自分はこの説には首肯し兼ねるものであることを明らかに記しておく。泥部はすなわち土師人中の一派で、それを汎称してハシヒトと云ったというならば聞こえるが、これを地名からハツカシベと云ったとは到底思われないのである。いわんや古く既に

部と書いてハセツカベと訓ませていた事の明証あるにおいてをやである。
按ずるに、ハセツカベは駆使の賤役に従事した低級の部民である。しかもそれは賤民という程のものではなく、良賤の中間に位置する階級のものであったから、これを間人すなわちマヒトとも呼んだものではなかろうか。集解の穴の説に、泥部を「
波都加此之友造」とあるのは、必ず「波
世都加
比之友造」の誤写であるに相違ない。伝写の間に「世」の一字を脱し、「比」を「此」と誤ったことは想像するに難くはない。「此」の字を「シ」の仮名に使ったこともその例が少いのみならず、一方には少くも鎌倉時代において、おそらく平安朝の私記において、

部をハセツカベと訓んだ明証のあることによって、この想像は甚だしく正確の度を加えるのである。集解に引いた「穴」なる人の年代は明らかでないが、おそらく平安朝における法家の名なるべく、その同じ頃において、一方にこれをハセツカベと訓んであるとすれば、その

部の古言が「波世都加比之友造」であることは、これを承認せざるをえないではないか。ことに徳川時代においても、
行筋と言われた古代駆使部の亜流の輩が、往々にして
間人階級に置かれた事は、これを裏書きするものと言ってもよいのである。
駆使部の称は古い。その分布もまた広い。新撰姓氏録には杖部一家、丈部三家を録し、和名抄には、伊勢朝明郡、安房長狭郡、美濃不破郡、下野河内郡、同芳賀郡、陸奥磐井郡(?)等に杖部郷または丈部郷があり、その族人の古史古文書に見えるものが甚だ多い。日本紀敏達天皇十二年の条に、駆使奴と書いてハセツカイヤツコと訓んであるのは、けだしこれに当るものであろう。この文字以てその身分の賤しい事を示している。そしてこれを杖部と書くのは、駆使に当って道を行くに通例杖を用いるから起ったことで、丈部の「丈」は勿論「杖」の略字である。その駆使部は一つの部曲をなして、
丈部首或いは
杖部造等によって統率されたものであった。
首はすなわち
大人で、その首長であることを示し、造はすなわち
御奴で、これを統率して天皇に仕え奉る臣隷であることを示している。そしてその部下のものは、実に間人階級にいたものであった。
ここにおいてさらに

部について一考せねばならぬ。

部はすなわち土工に従事するの職人で、土師部の一派であるべきことは既に述べた。したがってこれをハシヒト(土師人)と呼んだ理由は容易に解釈せられるが、それを何故にまたハセツカベと呼んだであろうか。
河原人なる細工の者が、農家に雇われて稲作を害する鳥を駆逐するの職に従事したところから鳥追いと呼ばれ、その鳥追いが門附けの旅芸人となって依然鳥追いの称を以て呼ばれた。祇園の下級神人なる
犬神人が
弓弦を作ってこれを売り、「弦召し候え」と呼び歩いたのでツルメソと呼ばれた。
かくの如きの例は他にも甚だ多い。

部なる土師人も常に土工のみに従事していたものではなく、傍ら駆使に任じてハセツカベと呼ばれたのに不思議はない。同じ土師の名を伝うるハチ(この事は後に詳説する)がその職業によって、
御坊と呼ばれ、番太と呼ばれ、
茶筅或いは
簓と呼ばれ、説経者と呼ばれたのもまた同じ様なもので、由来賤職に従事するものは決して常に同一職業をのみ固執しているものではない。ハチと同じ階級にいる
鉦打の徒が時に応じて種々の職に従事し、為に時には鉦打の七
変化などと呼ばれたのも以て傍証とするに足ろう。
要するに駆使部も泥部も共に同一階級のもので、もと土師人の亜流が活きんが為に種々の職業に従事したから起ったにほかならず、同じく間人階級のものであった。したがって「間人」と書いてハシヒトとも呼ばれ、「

部」と書いてハセツカベとも呼ばれ、或いは両者を通用したものであったに相違ない。
「間人」という文字については、本居翁は物の間を「ハシ」というとの事から、土師人すなわちハシヒトの仮名として「間人」の文字を用いたと解しておられるが、これはむしろ反対であろう。中間のことをハシという様になったのは、かえって土師人が
間人であることから導かれたので、ハシはけだしハシタ(ハシヒトすなわちハシトの転訛)の略であると信ずる。これは駆使の役に任ずる低級の使用人を、ハシタまたはハシタモノと称することから察せられるのである。ハシタモノの事は項を改めて次に述べる。
武家時代に賤しい身分の召使女をハシタモノまたは単にハシタと呼んだ場合が多い。文字に「
半下」・「
半物」・「
半人」など書いてある。御老女衆記(古事類苑官位部引)の大奥女中分限の条に、
一御切米四石、一御合力金弐両、一壱人扶持、一薪参束、一湯之木弐束、一油(半夜半分)、一御菜銀拾弐両
右御半下
とある。その文字にはいかように書こうとも、言葉で下女をハシタという事は、今も昔かたぎの老人などのしばしば口にするところなのである。
このハシタという名称は、チュウゲン・ハシタと相並んだもので、武家時代には通例その使役の低い地位の男をチュウゲン、女をハシタと呼んだものであった。この名称はもと必らずしも性によって区別したものではなかろうが、既に平安朝時代からハシタは多く女に関して用いられ、チュウゲンは多く男に関して用いられている様である。狭衣物語に、
軒の杜若を一筋引き落して、急ぎ書きて、はしたもののをかしげなるして、追ひて奉る。
古今著聞集に、
宇治入道殿に侍ひける嬉しさといふはしたものを、顕輔卿懸想せられたるに、つれなかりければ遣はしける。
我と云へばつらくもあるか嬉しさは、人に従ふ名にこそありけれ。
枕草子に、
てづからは声もしるきに、はしたもの、わらはべなどは、されどよし。
栄花物語根合の巻に、
はしたもの、女房の局の人など、をかしくしたてゝ沓すり歩く。
落窪物語に、
はしたわらはのあるに、さうぞきかへさせて……罵りて出で給ひぬれば、……
宝物集に、
宮腹なるはしたものと志深く思ひけるが、……
殿暦康和五年十一月十五日の条に、
殿上人遊間、余(藤原忠実)候二御簾内一。(中略)斎院御方半物三人、装束自二内方一被レ進。
などある
ハシタモノ、
ハシタワラワ、
半物などは、いずれも女子の事の例ばかりなのである。しかし伊予三島文書伊予国免田記に、
道々外半人等五十二町七反
経師七反 紙工二反 傀儡師壱町(以下所謂道の者なる雑職人十五を掲ぐ)
とある「半人」はハシタビトと読むべきもので、殿暦に「半物」とあるに同じく、名目抄にはその「半物」にハシタモノと傍訓し、また前引御老女衆記にハシタを「半下」と書いてあることなどによってその読み方は知られるが、これは必ずしも女性のものではない。けだしハシタという言葉そのものに本来男女の性の区別はないのであったが、同じ意味の語を男性にはチュウゲン(中間または仲間)と音読することがふさわしく、女性にはハシタと訓読することの優しく耳に響くので、自然にこの別をなすに至ったものであろう。なおチュウゲンの事は項を分って別に説明する。
さてハシタまたはハシタモノという名称は何を意味するのであろう。本居翁は「物の間をハシと云ふこと例多し」と言われた。しからばハシタはハシトすなわちハシヒトで、中間の人という義に解せられる。今も東京などで、物の
半端になって
完からぬをハシと云い、朝寝した怠け者が、「今日はハシになったからついでに晩まで遊んで明日から仕事しよう」などよく耳にするところである。しかしこれはおそらく新らしい事で、寡聞未だ古くそんな語の使用された事を知らぬ。
何方へもつかぬとか、
半端だとかいう場合には、通例古代にはハシタという語を用いた。大和物語に、
今日、日はしたになりぬ。奈良坂の彼方には人の宿り給ふべき家も候はず、こゝに宿り給へ。……
竹取物語に、
御子は立つもはした、居るもはしたにて居たまへり。
後撰集に、
身の憂さを知ればはしたになりぬべし、思へば胸のこがれのみする。
更科日記に、
今は宿取れとて、人々あかれて宿を求むる所、はしたにていとあやし(賤)げなる下司の小家なんあると云ふに、……
元真集に、
我宿に植ゑてだに見ん女郎花、ひとはしたなる秋の野よりは、
源氏物語に、
帰らんもはしたなり、心おさなく立ち出で給ふに、……
今もよく値切って物買う人が、「
ハシタだけ負けて丁度にして置け」などいうことは、しばしば耳にするところである。つまりは中間の義で、本居翁の所謂物の間をハシというとあるに当るが、このハシはけだし、かえってハシタの略で、そのハシタは前記の
間人すなわちハシタの様なというところから起った語であろう。色にも中間のものに
ハシタ色というのがあって、和訓栞に、「
指貫に言へり、胡曹抄に、
経緯とも薄紫と見えたり」と解している。
さらにこのハシタという語のほかにハシタナという語がある。堀河後度百首に、
さもこそは峯の嵐の荒からぬ、あなはしたなの槙の板戸や。
源氏桐壺の巻に、
此方彼方心を合せてはしたなめ、煩はせ給ふ時も多かり。
同手習の巻に、
念仏より外の他業なせそとはしたなめられしかば、……
同夕顔の巻に、
隣の事も聞きはべらずなど、はしたなげに聞こゆれば、……
蜻蛉日記に、
文物すれど返り事もなく、はしたなげにのみあれば、つつましくてなん。
枕草子に、
はしたなき物、異人を呼ぶに我かとてさし出でたるもの、まして物取らす折はいとど。
源氏箒木の巻に、
鬼神も荒立つまじき御気はひなれば、はしたなく、こゝに人どもえ罵らず。
宇津保物語に、
見給ふ大将の君、やうなき物取り出でけるかな、はしたなしと思ひ給へり。
など、その例は極めて多い。その意味は或いは気が利かぬとか、戒めるとか、下品なとか、きまりが悪いとか、口やかましいとか、場合場合によって一様ではないが、しかもそのハシタナがハシタから導かれた語であることは疑いを容れざるべく、そしてその義がハシタ
無きこと、すなわち中間ならざることと云うのではなくて、むしろハシタなる事、ハシタの様な事という意味から、いろいろに転じたものと解せられる。けだしハシタモノすなわち
下司女は下品であるということから、かくいろいろにその語が用いられる様になったのであろう。かくてさらにそのハシタナがク・シ・キの活用をなすに至ったのは、本義を忘れられて後の語形上の変化であろう。
要するにハシタとは中間なる人すなわちハシヒトの義で、それが下級のものの名称として用いられ、たまたまそれを音読したチュウゲンの語の男性的なるに対して、ハシタなる和訓の女性的なるが為に、
下司女すなわち召使女の称呼となったものであるに相違ない。なおこの事は次項のチュウゲンの解を参照して、一層明確に理会せられるのである。
下司女をハシタ・ハシタモノと呼ぶに対して、
下司男をチュウゲンと呼んだ例も古い。古今著聞集に、
許されて御中間[#「御中間」の左に「ごちゆうげん」のルビ]になされにけり。御幸の時は烏帽子かげして、くゝり高くあげて走りければ、興あることになんおぼしめされたりける。
中大冠者といふ年頃の中間男[#「中間男」の左に「ちゆうげんをとこ」のルビ]に、むかばきの余りたりけるを一とかけ取らせたりけるを、此の定にはきて……
中間法師[#「中間法師」の左に「ちゆうげんほふし」のルビ]常在といふあやし(賤)の者まで、形の如く連れたり。
山槐記治承三年六月廿二日条に、
水手称二中間一、卅六人乗レ之、
平家物語に、
中間男が首にかけさせたる皮袋より取り出して、……
などいう
御中間、
中間、
中間男、
中間法師の
中間は、ハシタというと同じく、間人すなわち
中途半端なるものの義に外ならぬ。それが転じて下品なもの、下司な男という義に用いられたのである。同じ著聞集に天王寺より京に上った中間法師が、山伏及び
鋳物師と、遊女の家に泊り合した滑稽談があるが、この中間法師は実に当時の所謂下司法師であった。東寺執行日記貞治二年正月条に、同寺所属の下司法師たる散所法師の事を「
間人散所法師原」と書いたところがある。これは明らかにこの下司法師が
間人すなわちハシタであることを示したもので、それを「中間」と書いて音読すればすなわちチュウゲン法師となるべきものなのである。すなわちもと同一の語でありながら、訓読のハシタなる語が下司女について呼ばれたのに対して、音読のチュウゲンなる語が常に下司男について呼ばれたので、それから遂に武家の使用人なる下級の男の称として、チュウゲンの称呼がもっぱら用いられるに至ったのである。されば両者その意義は全然同一でありながら、ただその音と訓とが男性的であり、女性的であるということから、たまたまその語の使用上に区別を生ずるに至ったのに過ぎないのである。さらにこれを裏書きすべきものは、チュウゲンなる語が前例のハシタなる語と往々全く同一の場合に用いられていることである。枕草子に、
チユウゲンなる折に大進物聞こえんとありと、人の告ぐるを聞こしめして、……
めのありしをたゞ取りに取りて喰ひまぎらはしゝかば、チユウゲンにあやし(賤)の食ひ物やと人も見けんかし。
更科日記に、
夕潮たゞ満ちに満ちて、今宵宿らんもチユウゲンに、潮満ち来ればこゝをも過ぎじと、ある限り走りまどひ過ぎぬ。
などあるチュウゲンは、以てこれを証すべきものであろう。
チュウゲン(中間)の文字を訓読して或いはナカマ(文字に中間・仲間・半間など書く)という。郷土研究所載柳田國男君の「鉢叩きと其の杖」の文中に、広島県特殊部落
調を引いて、
広島県阿佐郡○○村には○○、○、○○、○○などの特殊部落がある。此地の口碑によれば、昔はヱタに長利派、八矢、中間の三種族あつたが、後に皮田といふ一種族新に起り、専ら獣類の皮を取り扱ふ様になつた、云云。
長州藩の掟書たる郡中作法の中に「半間」という名称があって、それもナカマと読むのだと村田幸次郎氏の投書が同じ郷土研究に収められている。自分の郷里なる阿波でも現に往時エタをナカマと呼んでいたことは自分らの幼時しばしば耳にしたところである。或る時近村の○○部落の者が素人芝居を催して普通民をも招待した。通例その幕明けに当っては、静粛を警告すべく拍子木を打って「東西東西」と呼ぶのであるが、旦那方に対してそんな命令的の語を発するは失礼だとあって、「東西東西、旦那方には
御東西、
中間の者にはただ東西」と云ったという滑稽話がある。近ごろはナカマの意味が一変してその原義が忘れられ、華族中間だの、役人中間だのと、同類のものとか、同輩とかの称呼の義に用いられる様であるが、昔は下賤の者に限って用いたものであった。つまりは
中間すなわちハシタ(間人)のことで、それを特殊民に対して用うるに至ったのは、その語がさらに下賤なるものに移ったという場合もあろうし、また一方では本来中間階級の身分であったものが、後世一層賤者の階級に下落したという場合もあろう。前引三島文書の「半人」はハシタビトと読み、その義が半端者すなわち
中間人で、当時賤しと見られた雑職人の通称であったのは言うまでもない。なおこの事は後項に説明する。
山陰地方にはかつてハチまたはハチヤと呼ばれた一種の階級の民衆があった。山陽道筋でチャセンと云い、北陸方面でトウナイと云い、東海道筋で説経者またはササラと云い、近畿地方でオンボ(御坊)・シュク(宿また夙)などと呼ばれた身分のものも、もとは同様で、古くはチャセンやオンボなどをハチヤと呼んだ例もある。つまりは一種の中間法師すなわち下司法師の亜流で、
三昧聖と呼ばれて葬儀の事にもあずかり、兼ねて警察事務、
托鉢、遊芸その他駆使・雑職に従事した者であった。前引柳田君の「鉢叩きと其の杖」の文に見える鉢叩きがすなわちそれで、同じ文中に引用してある広島県特殊部落
調中の「八矢」というも同一だ。それを戦国時代にはエタとも、カマとも呼んでいた。カマはすなわち関東地方に云うお
薦と同語だ。このハチヤ・チャセンの事について、「民族と歴史」に永山玄石君の「岡山県下旧穏坊部落」、倉光清六君の「空也上人と鉢屋伝説」など、有益な論文記事が少からず報告されており、自分もいずれ纏まったものとして発表したいと思っているが、今は特に、本題の「間人」に関連して、ハチまたはハチヤの名義を論究してみたいと思う。
ハチヤ・チャセンの徒が後世までも自ら空也上人の門流たることを自認していた次第は、前記の永山・倉光両君の文に見えているが、彼らは実に上人と深い因縁を有する鉢叩きの徒であったのである。上人の生れた延喜の頃は地方の政治甚だしく紊乱して、人民は国司の収歛誅求に堪え兼ね、当時生に安んぜずして自ら公民の資格を放棄し、課役を避けて僧となったものが天下三分の二の多きに及んだと三善清行は言っている。所謂下司法師・中間法師の徒となったので、その多数はともかく家に在って何とか生活の途を講じたものであろうが、中には家にいる事が出来ず、京都の如き大都会や、その他村落都邑に流れついて賤職に生きたものが少くなかった。所謂非人法師・散所法師となったのである。空也上人はこれら下層の落伍者を済度して職業を授け、傍ら托鉢に生活せしめた。所謂鉢叩きである。彼らは往々竹細工に従事し、その所製の
茶筅や
簓を檀家に配るの習慣を有した。これ彼らの徒にチャセン或いはササラの称ある所以である。鉢叩きは
鹿杖すなわち鹿の角のついた杖を突き、瓢箪を叩いて念仏を申す。その
鹿杖を突く事は、彼らがもと多くは殺生の徒であったが為に、その犠牲となった畜類に廻向し、罪障消滅を図るの為であったと解せられるが、しかも瓢箪を叩きながらこれを鉢叩きと呼ぶはいかなる故であろう。
按ずるに、
鉦を叩いて念仏を申す托鉢の
聖は古くからあった。後に遊行上人出づるに及んでそれがことに発達し、カネタタキまたはカネウチなどと呼ばれた。そして空也上人の門流はその
鉦に代うるに瓢箪を以ってしていたに過ぎないのである。されば通じては「
叩き」と呼ばれたものであろう。そしてその「叩き」が一方ではハチであるが故に、ハチのタタキすなわち鉢叩きと呼ばれたものではあるまいか。ハチは
土師である。シをチと訛ることは按察使をアゼチと訛ると同じ例である。彼らは
三昧聖として葬儀の事に預り、古代の
土師の行った葬儀の職務を行った。これハチの名を得た所以であろう。それをハチヤというヤは、菓子屋・筆屋のヤで、ハチヤはすなわち土師屋・葬儀屋の義であると解する。勿論彼らは直接昔の土師部の後裔ではない。彼らの伝説によるも、空也上人に救われて上方から落ちて来たと言っていた。つまり間人散所法師の徒であったのである。
間人はハシヒトすなわち土師人で、駆使に役せられるが故にハセツカベとも呼ばれ、しかもなお文字に

部または泥部と書いた次第は既に観察した。そしてハチヤは実にみずからその土師の掌る葬儀の職に従事した土師人で、真の意味における
間人と云ってしかるべきものであった。
間人の名辞がもと良民賤民の中間人の義であり、それが主として
土師部或いは
駆使部の程度の社会的地位を有する階級の者について呼ばれたが故に、ハシヒト或いはハセツカベと言われ、中世には転じてハシタとなり、音読してチュウゲンとなり、或いは一種の
三昧聖の称としてハチまたはハチヤの名を生ずるに至った事は既に観察した。しかもなお一方にそのマヒトの転なるマウト(モオト)の名称が、或る低級なる農民の称呼として徳川時代までも各地に残存していたことは、また看過すべからざる興味深い事実である。
自分はかつて民族と歴史一巻一号において駆使部と土師部との関係を論じ、その中に明暦四年及び寛文十年の阿波の棟附帳(戸籍)から「間人」なる一階級の民衆の存在を紹介しておいたが、その後同国の田所市太君は、その他にも間人に関する記録の、同国古帳簿に少からず散見することを報道せられた(同誌五巻三号)。同君の紹介せられたところによると、同国の間人には既に万治の頃に田地を有するものの存在した事が明らかである。万治元年十月三日附の名西郡上山村棟附の中に、
高一石二斗九升七合 間人
一家 忠左衛門 三十八
というものがある。間人は元来所謂水飲百姓で、田地を有せず、他人の田を耕して生活する程度のものの称呼であらねばならぬ。平安朝頃の地方政治の甚だしく
紊れた時代において、課役を避けんが為に私に僧となり、自ら公民権を放棄した所謂中間法師の亜流の徒が、三善清行の所謂「家に妻子を蓄へ口に
腥
を
啖ひ」ながら、他人の田を耕して依然農業に従事したもの、すなわち間人百姓であるべき筈である。彼らは一旦出家して公民の籍を失った。したがって姓氏を有しない。武家時代における農民が単に名のみを以て呼ばれ、特に領主から苗字帯刀の
允許を得たものでなかったなれば、その姓氏を公称する事の出来なかった所以は主としてここにあると解せられる。彼らは勿論永く沙門の形態を持続する必要はなかった。それは平安朝末葉以来戸籍の制が全く紊れてしまったからである。その代り彼らは殆ど農奴の境遇にまで堕落してしまった。全国耕地の殆どすべては院宮社寺権門勢家の荘園となってしまって、彼らはただそれを耕作するの農奴に過ぎなかったのである。そしてその荘園が転々して武士の所領になってしまった後においても、農民は相変らずその下に蹂躪せられた。勿論その中には自ら荒地を開墾して所謂
名負地すなわち
名田を所有し、或いはそれを買収し、或いはそれを横領して、所謂
名主となり、間人の境を脱出したものも多かった。そしてその有力なものは武力を以てさらに近隣の土地を併合し、戦国時代において一城の主と呼ばれ立派に武士になりすましたものも少くはなかったであろうが、多くは依然として他の武士の下に属し、所謂被搾取階級の地位を脱することが出来なかったのである。これらの輩を徳川時代には本百姓または百姓と呼び、これに対して全く田地を有せざるものを間人百姓と云ったのであった。谷苔六君の報告(「民族と歴史」九巻五号)によれば、防長地方ではそれを「
門男」百姓と云い、或いは文字に「亡土」とも書いたという。両者ともにその呼び声から導かれた宛て字に過ぎないが、土地を有せざるものに「亡土」とはよく宛てたものである。これら間人百姓の中には、勿論他郷より流寓した所謂
来り人の徒であって、他人の田地を小作していたものも交っている事であろう。それを「門男」と書いたのは門番をする様な賤しい男との積りかもしれぬ。
本百姓または百姓と間人百姓との資格の定められた時代は明らかでない。しかし一旦その資格が定まった以上は容易に変更が許されなかった。たとい間人が努力の結果田地を有し、所謂高持となった後までも相変らず間人の地位に置かれた事は前引棟附帳の示す通りである。彼らは同一村落に住しながらも、氏神の祭礼、村の寄合、その他において権利の極めて少いものであった。その代りに義務の負担もまた少かった。阿波においては彼らは本百姓または百姓に比して正に二分の一の夫役を負担せしめられるに過ぎなかった。田所君報告の寛永十一年阿波国板野郡
神宅村の夫役帳によると、
一、六歩 本百姓 作太夫 (歩は夫役のこと)
一、弐歩 右之下人 喜七郎
一、弐歩 右之名子 庄三郎
一、三歩 間人 藤右衛門
一、弐歩 右のおぢ 善太夫
などと見えている。
下人や
名子は他人に所属するもので、大宝令に所謂
家人奴婢に相当するものなるが故に、間人よりも一層社会的地位の低いものと認められ、したがってその夫役負担もまた間人の家族と同じく、本百姓または百姓の三分の一を課せられるに過ぎなかったが、間人は独立の一家を有しながら、なお本百姓または百姓の二分の一を負担すればよかったのであった。
谷君の報告によれば、防長地方においても百姓はその持高に応じて本軒・半軒・四半軒等に分れ、それぞれ
門役と称する戸別割の役銀を負担し、また浮役と称して蕨縄の賦課を受けたものであったが、門男百姓はその義務を有しなかったという。そして一旦門男の籍に編入されたものは、たとい持高百五十石積廻船一艘の資産を有する程のものになっていても、天保の頃になお門男の資格を脱することが出来なかった実例を同君は提供しておられるのである。勿論門男百姓も村民の諒解を得、一定の手続きを経れば百姓になる事が出来た。それには本軒に三石、半軒に一石五斗の本米を給し、三年間諸役を免除されたものだと谷君は云っておられる。本軒・半軒等の別はもと持高の額に応じて区別したもので、
百姓軒別持高を五等に部ち、高拾石以上を本軒、九石九斗以下七石五斗以上を七歩五朱軒、(後には七歩五朱軒の区別は廃せらる)七石四斗九升以下五石迄を半軒、四石九斗九升より弐石五斗迄を二歩五朱軒(四半軒)とし、弐石四斗九升以下を門男とす。
と古記録にあるそうであるが、それは幾分間人の意味が変って、単に貧乏人という風に解せられた後の定めらしい。しかしかく一旦身分が定まった以上容易に変更が許されず、前記の如く高百五十石と船一艘とを有しながらなお門男の肩書を有し、或いは高百七十九石を有しながら、相変らず本百姓四半軒の肩書を有する例をも谷君は提供しておられるのである。
防長において門男は百姓に取り立てられる道が開かれていたのみならず、門男百姓にして庄屋・
畔頭・町年寄役に就く事も出来たという。阿波においても間人は次第に解放せられた。田所君の報告によれば、文化六年那賀郡黒地村の棟附帳に、
一、壱家 万之助 歳五拾三
此者曾祖父源次郎義享保之戌年棟附御帖に間人と相附候得共、此度百姓被付上候様被仰付候
とある。かくの如きの例は他にも多く、幕末にあっては、阿波の間人百姓の全部がすべて解放せられて、一人も残らなくなってしまった。現存の物識りと言われる古老についてこれを尋ねてみても、かつてその様な階級の存在した事をすら知っているものがなく、また今は間人の家筋だとして知られている家もない。のみならずその「間人」の文字の読み方さえも忘れられているのである。田所君はかつて庄屋を勤めていたという或る古老から、昔阿波には「マニン」という
身居(身分)のものがあったとの事を聞かれて、阿波では間人を「マニン」と呼びならわしたものであろうと言っておられる。ゲニン(下人)と云い、キタリニン(来人)と呼んだ例から類推すれば、或いはそんな事であったかもしれぬ。しかし土佐では明らかにそれをマウトと呼んで、幕末までもまだその身分が認められていたそうである。ただしこれは単に伝聞のみで自分は未だ詳細な記録的例証を知らない。願わくば同地の博識の報告を得たいものである。
最近に隠岐の横地満治君から同国における類例の報告に接した。甚だ有益なるもので、しかも未だ学界に紹介されておらぬものらしく思われるから、その要点を左に抄録する。
(上略)隠岐には穢多とか鉢屋とか申す特殊階級は昔も無く、現今或る村々に散在するもの少々有之候は皆対岸地より、近き過去に於て移住したるものにして、決して土着民には無之候。隠岐国に於ては百姓の次に位する間脇と称する階級ありたるのみ。貞享四年隠岐島各村の統計を編綴したる隠州記といふ書には、島後の島内村数四十九箇村、家数二千二百六十二軒の内、七百二十九軒の間脇階級有之、之を村別にすれば矢尾村の七十四軒が最も多く、各村共三軒、四軒、二十、三十無之は無く、只一宮村と云ふに一軒も無之候。島前三島の統計は不完全にして、詳細に知り難く候。其の記載例を見るに、例へば元屋村の条下には、
一、家数三拾六軒内(廿六軒百姓拾軒間脇)
とあり、明かに百姓と区別したのものに有之候。而して如何なる者を間脇と称したりや、即ち百姓と間脇との区別は何処にありやと云ふに、寛文二年子の年十月二日元屋村石高小物成牛馬舟家人数指出帳を見るに、
一、家数弐拾六間
内 拾五間 御役家 四間 まわき
三間 寺 壱間 神主
壱間 役人 壱間 年寄
壱間 公文
〆弐拾六間
と有之候。尚之を別に調査したるものを見るに、拾五間御役家と称するは、多少に係らず皆田畠を所有するもの、即ち百姓なり。間脇といふ肩書を有するものは田畠なきものばかりに候。「間脇」をマワキと読むことは、同指出帳に明かに「まわき」と平仮名にて書きたることにて知れ申候。而して間脇階級の者が如何なる待遇を受けたるかに就き調査したる所、
一、地下寄合(今の村会の如きもの)に、庄屋の座敷に列席すれども発言権なき事。
一、同上の会合に列席すれども百姓とは別室、即ち一等下の席に着く事。
一、頭分年寄等村役人に就職する権利なき事。
併しながら間脇と雖も百姓の株を買ひて、百姓の仲間入を為す事は公然行はれたる事に有之、百姓株の事をミヤウ(名?)と称し、間脇には此のミヤウを二つも三つも所持するものあり、随分幅を利かし居るものも有之由、今も老人間に申伝居候。(下略)
横地君の報告によってこれを観れば、
間人と
間脇とその名義は違っているけれども、実は同一階級のものを指したものであることは疑いを容れぬ。案ずるに「
間」はもと間人の「間」で、良賤両者の中間の義と解すべく、それが原義を失って「
室」の義に解せられ、村中寄合の席において脇の間に着座することから間脇と呼ばれるに至ったのではあるまいか。幕府殿中においても諸大名諸士の出席を
間を以て分ち、その階級を示した事であった。「脇」はすなわち相撲の関脇の「脇」で、門跡にも脇門跡というのがあった。人にあっては左右の両側を脇と云い、つまり次とか傍とかの意に用いた語であろう。隠岐におけるこの間脇が、貞享の頃なお事実上毫も田畠を有していなかったという事は、さすがに離れ島だけに古い格式を厳守して、間人に土地を有せしめなかったものか、それともその資格の定められた時代が、貞享を距たる遠からぬ頃にあったのか。いずれにしてもこの区別は資産の有無を標準としたのであって、貢租課役負担の多少が村人としての権利や社会的地位を定めた時代にあっては、実際それもまたやむをえなかった。されば防長地方にあっては同じ高持の百姓の中にも、本軒以下四半軒までの区別が定められ、阿波にも本百姓と百姓との二階級が認められた。そして一旦定まったその
身居は、万事が現状維持を方針とした徳川時代において、容易に変更が許されなかったのはまた実際やむをえなかった。しかしながら栄枯盛衰は数の免れざるところで、本軒百姓本百姓といえども時を経る間には貧乏もする、本来無産の間人百姓といえども永い間には資産を作りうるのである。そこで
身居立て直しの必要も生ずる次第で、それには地方によってそれぞれ慣例もある事であろうが、特に隠岐においてミョウを買う事になっていたとは興味ある現象であると謂わねばならぬ。ミョウすなわち大名小名の「
名」で、もと
名負地すなわち
名田を意味する。名田を有し、それ相当の貢租賦役を負担するもののみが本来百姓すなわち
名主として認められたもので、その以外は間人階級に置かれたものであった。そして隠岐ではその「
名」の数に制限があって
猥りにそれを殖やさぬ慣例であったと見え、間脇のものが百姓に仲間入りするにはその株を買う必要があったのだ。防長地方や阿波土佐などでは、そんな制限はなかったらしいが、防長では在来の百姓に米を提供する例であったと云い、阿波や土佐でも定めて何らかの作法があったものであるに相違ない。阿波では在来
下人たりしものが解放されて百姓に仲間入りする場合には、宴を催して連日百姓を饗応したという。間人の百姓となる場合にもまたそんな事があったのであろうと思われる。
右の
間人・
間男・
間脇など呼ばれたものは、必ずしも昔の
間人の後裔だという訳ではないが、ともかくも一時落伍者として無産階級に落ちた為に、こんな有難からぬ身分と名称とを与えられたものであった。そしてそれは実に往古の間人階級に比すべきものであったのである。
右例示したところは単に阿波・土佐・周防・長門・隠岐の五箇国に関するもののみで、範囲は極めて狭小であるが、これはこれらの地方が僻遠にあって古い風習の多く伝わっていたという事と、領主に異動がなかったという為であって、その他の地方においてもかつてはそれがあり、また徳川時代にまでもこれが認められた場合が多かったに相違ない。切に同好者の報道示教を望む。
(右一項は本誌九月号農民史の中に収むべきものであったが、当時執筆が間に合わなかったので特にここに収める事とした。願わくばこれを以て右特別号の不備を補われたい。)
間人の意義性質については上来項を重ねて述べ来ったところによって、ほぼこれを明らかにしえた事と思う。さればそれを単に文字の示す通り、また意義のあらわす通り、マヒトとのみ読むならば問題はほぼ尽きた訳であるが、実際は古くこれをマヒトと読むよりも、ハシヒトと読む方がかえって普通であったかの如く観察せられるにおいては、ここにさらに項を新たにして間人と土師部との関係を説明するの必要あることを認める。
案ずるにハシヒトが
土師人の義なるべき事は、本居翁の解するところ疑いを容るるべからざるものである。土師部は古事記に「土部」と書き、用明皇后の御名
部穴穂部皇女の「

部」に当る。しかもその

部穴穂部皇女の御名を古事記に
間人穴太部王に作り、法王帝説に穴太部間人王と書いてあることによって、
部が
間人と同一であるべきことは既に述べた。そしてその

部は古訓これをハセツカベと読み、また

部と同一なるべき大宝令土工司条泥部を集解に「波都加此之
友造」と註した事が、「波
世都加
比之友造」の誤まりであるべきことまた既に述べた通りであってみれば、
駆使部もまた
間人で、それが土師部と混同して呼ばれていた事が明らかにしうべきである。
駆使いに任ずるものはいずれ社会の落伍者で、同じく部曲の民と云っても、駆使部すなわち
丈部(杖部とも)はその地位自ずから低く、他より軽視せられたものであったに相違ない。徳川時代においても事実駆使に任じて「
行き筋」と呼ばれたものは、村方において
間人百姓などよりも下位に置かれた。また一方土師部の地位を考うるに、その由緒について古史にはもっともらしい事を伝えているが、これは後世の賤者等が他の軽侮に対して自己を擁護すべく、往々にして種々の起原説を附会しているのと同様に、必ずしも史実として信ずべき価値の乏しいものと解せられるのみならず、よしやその由緒がいかがにもあれ、事実上粘土いじりの職は古代にあってもあまり高尚なものではなく、ことにそれが特に屍の穢を忌むの風習ある我が国において、通例人の嫌がるべき筈の葬儀の職を兼ねていたとあってみれば、自然他より忌避さるべき傾向を有するはやむをえない事で、勿論賤民というではなくても、その地位が他の部曲の民よりも低く認められるに至ったことは想像しやすい。触穢禁忌の思想が次第に濃厚になって来た時代の大宝令において、形式から云えば諸陵寮の雑戸の一つに置かるべき筈の陵戸が、特に奴婢の徒とともに賤民の列に下された事はよくこれを説明している。ここにおいてかこの賤しまれたる土師人は自然他の賤しとする駆使の役にも従事することになり、「

部」または「泥部」と書いて
駆使部とも読まれる様になって来た。そしてもとは別であった筈の土師人と駆使部のみが間人階級のものと認められ、「間人」すなわちマヒトと書いてただちにハシヒト(土師人)(また
駆使部)と読んでも何ら不思議のない事になったものであろう。これは例えば我が古語において、エミシすなわちエビスと云えば一般異民族の称呼であって、必ずしもアイヌ族すなわちカイ(蝦夷)とのみは限らなかったものが、後に我が国においてエミシと云えば
蝦夷以外には目立ったものがなくなったが為に、ついには「蝦夷」と書いて直ちにエミシまたはエビスと読むに至った実例を逆に行ったものである。
間人とは良民と賤民との中間の人の義である。しかしその良民と云い賤民というものが、時代によって世間の見るところ、国法の定むるところ、常に一様でありえないが如く、間人として認められるのも、古今において往々その実体を異にしている。良賤の別の変遷は別に論ずべき興味ある問題であるから、ここにその説を省略するが、簡単にその概要を云わんに、上世において良民と謂うべきものは、厳格に云えば百姓すなわち姓氏を有する一切の臣連伴造国造の徒のみであって、天皇に直隷し、賤民とは一家をなさずして他に隷属する
奴すなわち奴隷の徒を指し、良民すなわち百姓に属してしかも一家を為すところの部曲の民は当然間人なるべきものであったに相違ない。勿論この以外に化外無籍の徒が所在少からなんだ事であろうが、それは国家の民として存在を認められざる非人であった筈である。
しかるに世の進歩とともにこの階級に関する思想は次第に変遷して、一般部曲の民の人格が漸次重く見らるる様になり、ついに大化の改新に至っては、原則としてことごとく解放せられ、氏を称して良民の列に置かれる事になった。しかし実際にはその中の或るものがなお雑戸或いは品部として取り残され、特に触穢の嫌忌を被る陵戸の徒は賤民の列に下された。その代りに従来賤民であった筈のヤッコすなわち奴隷のうちにも、比較的優遇せられて一家をなすものは
家人として、同じ賤民の中ながらも上位に置かれた。かくの如きの趨勢であったから、大化の部曲解放以前にあっても、その多くのものは実際間人すなわちマヒトを以て呼ばるる事が少くなって、その中でも特に土師部や駆使部のもののみがその階級に認められ、遂には「間人」と書いて直ちに
土師人と呼ばれ、その土師人の種類なるべき

部(泥部)が直ちに
駆使部と読まれる様になったのであった。
大化以後においては原則として一切の部曲は解放せられ、公民の戸籍に編成せられて口分田の班給を受け、ことごとく農民すなわち
大御田族となった筈であるが、事実において品部雑戸なるものが取り遺され、また賤民の階級は依然として認められた。この品部雑戸なるものは、その名称こそ伝わらざれ、当然間人階級なるべきものである。しかもその雑戸は、国法上天平十六年に解放せられて平民と同じくなり、無論品部と謂われたものも同じ取扱いを受けたものと思われるが、中にはなお因襲によりて、その或るものが依然社会の軽視を免れず、おそらく時に「
中間」の称を以て呼ばれていたものらしい。平安朝における
中間男とか、
中間法師とかの語のあるのがこれを証する。勿論賤民中の上位にいる
家人もまた
中間としてみられる様になった。後にイエノコと訓読して家の子郎党と並称せられたものは、すなわちもと中間男に相当する「
侍」で、国法上この家人階級に当るものであった。そしてその徒から特に「中間」という一階級が武家時代に認められ、これに対する婦女の名称をハシタと呼ぶに至ったのは、間人すなわちマヒトと、ハシヒトとの語を別々に継承したものであった。
中間法師とは課役を避けて出家した私度の僧の徒で、家に妻子を蓄え口に
腥
を
啖うという在家法師、すなわち非人法師の亜流である。その徒の三昧聖として葬儀の事に預り、警固遊芸雑役等に従事したものにハチまたはハチヤの称の起ったのは、勿論土師すなわちハシヒトで間人の義であるに相違ない。
これら中間法師の中において、一旦私度の僧となって公民籍を脱して後も依然農業に従事して農奴の如き階級に堕ちたもの、これを間人百姓と呼んだ。後にはその語が無産者の義に転じて、田地を有せざる者を一括してマウトと称する様になったが、つまりは間人すなわちハシヒトの語をついだものに外ならぬ。
かくの如く、所謂間人なるものは時代によって種々の変遷を示し、その指すところもまたその称呼をも異にするに至ったが、要するに良賤両者の中間にあるの義であって、我が国ではいつの時代にも、実際上民衆の多数を占めたものであった。勿論民族的の相違ではなく、単に境遇から起った身分上の区別であったから、時代によって常に新陳代謝して来たものであったが、徳川太平の時代の如きは、万事現状維持を施政の大方針となしたが為に、容易にその域を脱出し難い様な場合もないではなかった。
これを要するに間人なる一階級は、我が過去における社会組織の研究上最も主要なるものであるが、しかも従来研究者によって多く閑却せられていたのであった。これを明らかにするにあらずんば到底我が社会史は完成すべきものでない。部曲と云い、雑戸と云い、非人と云い、農人と云うもの、多くはこれと因縁を持っている。現代の一切の民衆かつては大抵この階級を経て来たものなのである。