法隆寺再建非再建論の回顧

喜田貞吉




一 はしがき


 余輩が明治三十八年五月を以て、所謂法隆寺再建論を学界に発表してから、早くも三十年の星霜が流れた。当時余輩は現存の法隆寺金堂・塔婆・中門等の古建築物に関して、該寺が天智天皇九年庚午四月三十日夜半の大火に一旦焼失し、その後いつの頃からか再建築に着手して、奈良朝の初め頃までにはほぼ完成を見るに至ったものであることの前提の下に、所謂非再建論に対して素人の無鉄砲なる駁論を発表したのであった。しかもその論鋒が甚だ鋭利にして、文辞辛辣を極めたものであったが為か、図らずも当時の学界に一大センセーションを捲き起し、爾後数ヶ月間は甲論乙駁、盛んに雑誌の紙面を賑わしたものであった。しかしながら当時余輩に対する直接の反駁としては、畢竟非再建論者が主としてその芸術史的見地より、これらの建築物が到底大化以後の所産でありえないと云う実物上の立論を繰り返したもののみで、文献上より余輩の立論に対して、学界を首肯せしむる程の議論にはついに接する事が出来なかったのであった。したがって余輩のさきに発表したところの不完全なる論旨は、今もなおほぼ無疵の儘に保存せられているのである。しかも文献的資料の扱いに慣れざる世間の人々は、失礼ながら余輩の所論を読んでこれを理解する程の能力なく、或いは当初より余輩の所論を熟読してみる程の親切もなく、再建論者が相変らずその再建論を繰り返しているのを見て、為に多数の傍観者はこの法隆寺再建非再建の論が、なお依然として未解決のままに遺されているかの如き感をいたままに、爾後三十年の歳月は空しく推移したのであった。しかしながら法隆寺が天智天皇の九年に一屋無余の大火災の為に、ことごとく烏有に帰したとの日本紀の記事は絶対に疑うべからざるものであって、これを否定せんとする一切の議論がことごとく妄想に過ぎざることは、余輩の所論すでにそのすべてを尽くし、余輩としてはもはやこれに加うべき何物をも持ち合わさないのである。したがって余輩は、時日の経過が早晩これを一般に諒解せしむべき機運を招来せん事を予期して、稀に異説の発表があっても深く意に介する事なく、余輩にとってむしろ余技とも見るべきこの問題は自然等閑に附されがちであった。しかるに近年防火水道布設の為に境内地発掘の事あり、引続き五重塔心柱礎内の秘密の発見の事などがあって、これが為に学界を刺戟した場合が多く、爾来新進の諸学者によって、この久しく下火とも謂うべき状態になっていた法隆寺の問題に関して甚大の注意が惹き起され、三十年前の不完全なる余輩の旧説までが、しばしば再検討に附せられる様になった。ことに最近該寺建築物の根本的修理が施さるる事となって、一層学界の注目がこの寺に集注せられ、種々の新発見とともに研究は次第に精緻の域に向って進みつつあるのである。すなわち本誌編者のもとめに応じて、いささかこの問題に関する余輩の回顧を筆録し、再建論者としての余輩の立場を明らかにせんとする。

二 法隆寺非再建論の由来


 法隆寺が天智天皇九年に焼失した事は日本紀の明記するところ、毫末の疑いを容るべき余地があるべくもない。さればもしこの記事の存在を知り、またその記事の史料価値を理会し得る程の者ならんには、非再建論などは頭から問題と成るべきものでは無かるべき筈である。しかるに法隆寺自身においてはつとにその事実を忘れて、古くからその非再建たる事を信じていたのであった。延長年間講堂の炎上に際し、当時の別当観理僧都は、「聖人の建立猶此の怖れあり、何ぞ況や凡夫の造る所に於てをや」という理由の下に、再建の講堂をその原位置よりも北方に引き離して、他日万一この凡夫所造の新講堂が災いに罹る様な場合があっても、為に累を聖人建立の他の堂塔に及ぼさぬ様にとの注意を払ったというのである。勿論これは鎌倉時代の古今目録抄の記するところであるから、果して延長当時に観理がそんな事を言ったか否かの証明にはならぬ。しかし延長年間に講堂の焼失した事実、また再建の新講堂が原位置よりも北に引き離された事実に疑いない以上、或いは当時すでに寺ではそんな説があったのかもしれぬ。少くも鎌倉時代の寺院側の人々は、確かにそう思っていたに相違ない。したがってそれ以来の寺院側の記録には、いずれもこれを非再建の物として伝えたに無理はないのである。勿論寺院側の記録といえども、法隆寺がかつて或る時代に火災に罹ったという古伝をば、全然無視したもののみではなかった。しかしそれはなお太子御存生中の出来事として、今の建築物はやはりその後太子その人によって建立せられたものだと信じていたのであった。かくの如きはいささか矛盾の様にも考えられるが、古代においては今日の如く根本史料を手に入れる事が容易でなく、日本紀の如きすらそう手軽に披見しえたものではなかったが為に、真の古伝が失われて、牽強附会の説の行われたのに不思議はなかった。かの平安朝頃における人々がいかに過去の史実について無知識であったかを考えたならば、けだし思い半ばに過ぎるものがあろう。したがってひとり法隆寺側の誤解をのみ責める訳には行かぬ。ただに法隆寺についてのみならず、他の諸大寺にしても殆どことごとくと謂ってよい程にまで、非常なる誤謬を平気で伝えているのである。
 しかるに明治以降古書の研究がようやく盛んになり、ことに古美術尊重の機運起りて学者が親しく実地につき、これを文献的史料と対照して調査を加うる様になってからは、日本紀天智朝火災の記事によって、ここに始めて法隆寺現存の古建築物が、天智天皇九年後の再建に係るものであるべき事実が明らかにせられた。黒川・小杉の両先生を始めとして、いやしくも一方に記録を扱い、しかも一方に実地を調査せられた程の諸先輩は、ことごとくこれに一致しておられたのであった。余輩が帝大在学中に、黒川先生の講義で親しく承わったところはこれであった。郷里の先輩としてしばしば小杉先生をお訪ねし、座談の間に聞かされていたところもまたこれであった。そして勿論余輩はこれを疑おうともしなかったのであった。ただし寺ではそれと没交渉に、相変らずこれを太子建立のままとするの旧説を宣伝し、その発行に係る法隆寺伽藍諸堂巡拝記などと題する案内記風の小冊子には、天平十九年の資財帳に和銅四年の作と明記せる中門の力士を以て鳥仏師の作に帰し、またいかなる非再建論者といえども、これをやや後のものと認むる金堂の壁画を以て、高麗の僧曇徴の筆となすが如き、鎌倉時代にだもかつて無かった夢の様な珍説とともに、平気で非再建説を書いていたのは無論である。
 しかしながら明治の学界は、古美術、特に古建築物に関する研究を、永く寺伝言うが儘に放任し、また記録いじりの学者のみに委任してはおかなかった。明治二十九年に工学士伊東忠太君は、その建築学者としての立場から実地について調査を重ねられ、「法隆寺建築論」と題する精緻なる研究を考古学会雑誌上に発表せられた。ついで三十一年にはそれが東大工科大学紀要となり、同君はこれに依って工学博士の学位をち得られたのである。同君の新研究は、勿論実物上の調査を主としたものではあったが、しかも一方文献上の調査についてもまた怠るる事なく、結局その再建非再建に関しては明白なる断定を下さるるまでには至らなかったとしても、少くもその再建論について深甚の疑いを有せられた事は、十分これを看取するを得べく、これに由って法隆寺に関する史的研究が、確かに一新時期を画するに至ったと謂ってもよい程の立派なものであった。
 伊東博士の法隆寺について研究を重ねておらるる間に、同じ建築学者であり、また技術家である工学士長野宇平治君は、建築雑誌上に「法隆寺の建築は元禄の再建」なる一篇の論文を発表せられた。これは再建論としてもことに極端なもので、同じ建築学者仲間の塚本靖君から、たちまち同誌上で反駁があり、伊東君また同誌に「元禄年間に於ける法隆寺伽藍修繕の真相」なる研究を発表せられて、結局長野君の元禄再建説は、多く学界から顧られる事なく、その終りを告ぐるに至った。しかしながら余輩は長野君が、建築学者としてこの極端なる再建説を立てられた勇敢なる態度に敬意を表する。正しく文献を理解しうる程のものが、いずれも再建説をとるに至るべきは、けだし当然の帰結であるが主として実物について調査するものが、これをより古く見んとする事に傾くはまた自然の趨勢であった。しかるに長野君がその建築技術の上から元禄の再建を主張せられたところには、確かに傾聴すべき或る物が存在する。さればその説はその時限りで立ち消えとなってしまったとしても、少くも五重の塔婆だけは元禄の際の再建と云ってもよい程にまで、根本的修理の加えられたものであったろう事を、余輩は今以て信じているのである。
 それはともかくもとして、法隆寺が再建であるか、非再建であるかとの問題は、日本紀の火災の記事を信じえるか、えぬかというところで立ち別れて、記録と実物との両方面から、爾後も相変らず別々の軌道を走りつつ、水掛論の如き状態を以て数年間を経過したのであった。かくて明治三十八年に至り、建築学専攻の工学士関野貞君によって、かの有名なる「法隆寺中門塔婆金堂非再建論」が、極めて精緻なる研究を以て建築雑誌及び史学雑誌上に発表せられ、また芸術史家を以て任ずる平子尚君の「法隆寺草創考」が、文献上から新武器を振りかざして、国華の誌上に発表せらるるに及んでたちまち学界に一大衝動を与えた。関野君の研究は無論文献の上からも、当時の同君として成しうる限りの調査を重ねられた筈のものではあったが、その主とするところは同君得意の実物研究上に立脚したもので、同君の組織に係る我が古代芸術変遷の系統上、どうしてもそれが太子時代の物でなければならぬ所以を論ぜられ、ことにひとり法隆寺現存の古建築物のみならず、同君の以て同時代のものとなさるる法起寺及び法輪寺の三重塔の柱間が、いずれも大化以前の高麗尺によって設計せられたもので、これを大宝令の常用尺なる唐尺を以て測っては、到底完数が得難いものであるとの新事実を、極めて精細なる数字を以て割り出されたものであった。これは確かに従来の水掛論の上に一歩を進めたもので、この動かすべからざる計算上の数字から、法隆寺の塔婆・中門・金堂が大化以前の建築であり、したがって天智天皇九年一屋無余の火災に関する日本紀の記事は、到底信ずるに足らざるものたる所以を論究せられたのである。
 しかるに関野君のこの新研究の発表と時を同じゅうして、平子君の新研究にかかる「法隆寺草創考」は偶然にも国華誌上で発表せられたのである。平子君はつとに東京美術学校で日本画科を専攻せられ、丹青の道においても相当の手腕を持っておられたが、その得意の芸術眼から我が古代芸術史の研究に没頭せられて、実地の観察より法隆寺の到底再建なるべからざる所以を会得せられたのであった。しかも一方において同君は古文献の研究にも常に深甚の注意を払われ、同君発表の「草創考」では、従来非再建論者にとって最も難点であった日本紀の記事に対して、鋭利なるメスを振るわれたのであった。同君は群書類従所収聖徳太子伝補闕記の記事によって、日本紀の天智天皇九年庚午四月卅日夜半の法隆寺火災の記事は、その実推古天皇十八年の庚午四月卅日夜半に起ったものであった事を力説し、日本紀の記事は該書編者が干支一連の推歩を誤りて、これをその後六十年なる天智天皇九年の条に挿入し、これに加うるに編者の絶大の舞文を以てして、一屋無余などと言うが如き、仰山な書き方をしたものに外ならぬとの事を論結せられたのである。なるほど補闕記にはこの庚午火災の事実を以て、太子御存生中の庚午の歳の事として挿入してあるので、平子君のこの新発見は、非再建論者にとりては鬼に金棒を与えたものとも謂うべく、この実物測定上からと、記録上からとの二つの新発見をもたらせる法隆寺非再建論が、しかも期せずして同時に発表せられたのであったから、学界がたちまちこれに由って動かされたに無理はない。当時の史学雑誌編者はこの両君の真摯なる研究によって、従来水掛論の形に置かれた法隆寺問題が、ここに最後の断を得たという様な意味の記事を同誌の彙報欄に掲げられたのだった。爾来法隆寺非再建論は、その後余輩の極めて辛辣な駁論があったにかかわらず、殆どそれとは没交渉のかおを以て、相変らず芸術史家の間に伝唱信奉せられたのである。

三 法隆寺再建論の発表


 関野・平子両君の新研究が発表せられ、また史学雑誌編者がそれを謳歌せられたままに物が片付いたのであったなら、おそらく後の新研究者のあらわれるに至るまでは、史学雑誌編者の予期したが如く、この問題は一旦ここに終結を告げた形となったに相違なかった。少くも余輩の如きはおそらくかかる論文の発表せられた事をだも知らず、全然無関心にこれを放置して、為に余輩のかの無鉄砲なる駁論を見るが如き事は無かったのであった。何となれば、余輩は従来かつてかかる問題について考えてみた事もなく、その以外にも当時この両君以上に、親しく精細に法隆寺を研究した人があろうとは思われなかったからである。しかるに生憎な事にこの両君の新研究発表と時を同じゅうして、これも極めて偶然に、従来の再建論者の巨頭だった小杉老先生が、両君の発表とは没交渉に美術院において、その得意の再建論を講演せられたのであったからたまらない。両君の新発表は甚だしくこの老先生の面目を傷つけた形となってしまった。特に史学雑誌の判決文らしい記事は、自信に篤き先生の頭を甚だしく刺戟したものであったのである。
 余輩は帝大において国史学科を専攻したとは云え、平素もっぱら文献いじりの方面にのみ没頭して、芸術史方面の事にはかつて注意を払った事はなかったのであった。第一法隆寺そのものについてすら、かつて三高在学中に一度境内へ足を入れた事があったというくらいの事で、その堂塔の内部を視察した事すら無かったのであった。したがってその建築物の年代についても、黒川・小杉の両先生から承わった再建論を鵜呑みにして、これが反対説発表の事実をだも知らず、よしや知ったとてこれを読んでみる程の関心をも持っていなかったのであった。しかるにこの年三月の初め頃の事であったと思う。何かの機会で小杉先生のお宅へ訪問してみると、先生は両君の新研究の掲載せられた国華と史学雑誌とを取り出され、ことに史学雑誌編者の推奨記事を指示せられて、これを見たかと云われるのである。「こんな馬鹿気た事のある筈は無いが、近ごろの若いものには兎角日本紀の価値がわからぬから困る。しかし今さら老人がこんな物を相手にして議論を闘わすでもあるまい」と、それはそれはお気の毒な程にも沈んでおられるのだ。先生は我が郷里の先輩として、国史国文に造詣せらるるところすこぶる深く、その薀蓄は甚だ多くおわしたが、しかも御自身その研究を発表せらるる事は比較的少く、ことにその性温厚におわして、学説上でも他と論争する事を好まれなかったのであった。しかし余輩は明治二十六年の上京以来、常にその親切な指導にあずかり、特に余輩同人の経営にかかる日本歴史地理学会には顧問として一方ならぬ面倒を見ていて下さるのである。これは何とか先生のお顔の立つ様にしてあげねばならぬと、その足で歴史地理同人の藤田明君を訪問して相談すると、同君は、「是非あなたが何とかしてあげて下さい」という。すなわち藤田君とともに右の両論文を熟読してみると、双方ともにその論述上に少からざる論理学的欠陥がある。またその実物上の見解に至っては、到底「そう思う」とか、「そうらしい」とかいう程度以上のものではなく、したがって「そうは思わぬ」、「そうらしくはない」との反対意見を無鉄砲に提出する事も、あながち不可能では無さそうに思われたのである。また仮りにそれが果して推古時代式(関野君の所謂飛鳥式)の建築であるとしても、後の技術家が前代の様式によって、焼失後本のままに再建する事もありうるとの強弁もなしえられないではない。ことにその柱間の寸尺の如きは、よしやそれが果して大化以前の尺度によって設計せられたものであるとしても、もとの礎石の上にこれを再建すれば、当然もとの寸尺によるべきものであるとの揚足取りも、出来ない訳ではないのである。また平子君新発見の補闕記の問題にしたところで、この書がよしや信ずべき古書であるとしても、何分それは日本紀以後のものであり、ことに民間の一私撰である以上、むしろその方が誤りであるとして論ずる事も容易である。これは何とか言葉尻をつかまえてでも、少くも水掛論のもとの状態にまで引き戻して、小杉先生のお顔を立ててあげたいものだと、早速その席上で、「法隆寺再建非再建に関する審判判決書」と題する一篇の漫文を起稿して、斉東野人のペンネームを以て、翌四月の歴史地理誌上に掲げる事となし、別に「関野・平子二氏の法隆寺非再建論を駁す」と題する反駁文を起稿して、同月の史学雑誌上に掲げてもらうことにした。しかしこれは単に両君の論文を読んだだけで、何ら他の史料を参考したのでもなく、ただしいて故意にその揚足取りを試みたと言うだけのもので、ごうもこれに対して新しい研究を加えたものではなかった。したがって今からみれば実に取るに足らぬ愚文ではあるが、それでも小杉先生のお顔がこれで幾分でも立ってくれれば結構だくらいの意味において、何分翌月の雑誌に載らねばならぬ火急の事とて、推敲を加うるの暇だもなく、取りあえず書きっ放しの一夜漬けのままで、厚顔にもその発表をあえてしたものであった。
 しかるにこれを書いているうちに、奇態にもだんだんと問題に油が乗って来た。始めて伊東博士の「建築論」をも読んでみた。関野・平子両君の論文をも再読三読した。無論黒川先生や、小杉先生の所論をも熟読玩味してみた。読んでみればみる程これらの非再建論は、単にこれを古いと直感するところの先入観に囚われたる妄想に過ぎざる事がハッキリと頭にわかって来た。そしてそれと同時に、ますます日本紀火災の記事の絶対に信ずべきものたる確信を得て来た。しかもこれほど明白なる史実に対して、学界がなお非再建論を容るるの余地を有する事について不思議に感ずるようになった。相当文献の扱いに慣れた筈の人々までが、その妄想に過ぎざる非再建論に眩惑せられて、これに左袒し、これを謳歌するもののあるのにむしろ公憤を感じ出した。すなわちさらに関野君の発表せられた法隆寺以外の古建築物、その他古仏像等に関する研究をも採って審査してみると、奇態にもそのすべてが余輩の見解と相背馳しているように感ぜられる。遂に自ら根本的研究を加えてみたいとの野心がさかんに燃え出した。ここにおいてさらに小杉先生の書庫について、古今目録抄・良訓補忘集・伽藍縁起流記資財帳、その他法隆寺に関係ありげな写本を拝借して、繁劇なる文部省勤務の余暇を割いて、夜を日に継いで研鑽を重ねてみると、すべての物がハッキリと判って来る気がして、所謂快刀乱麻を絶つの快感を覚え出した。有頂天になったとはけだしこんな場合の心情を言うのであろう。ことに法隆寺資財帳によって、天平十九年の法隆寺にはまだ講堂がなく、当時なお七堂伽藍再興の途中である事実を発見した時の快感は、到底筆紙に尽しがたく、思わず手を拍って躍り上り、したたか家人を驚かしたものだった。所謂鬼の首を取った気持で、これさえあればたとい寺院側でいかに火災の事実を否定しようとも、観理僧都が延長年間に焼けた講堂を以て、太子建立のままのものだったと主張しようとも、ないし関野・平子の両君が、どんな実らしい根拠を以て非再建論を固執せられようとも、この確実なる史実の前には全然顔色を失うべき筈である。現存の金堂・塔婆・中門などとともに、継続的事業として建築せられたに相違ない筈のこの講堂が、現に天平十九年に存在しないという確乎たるこの事実は、当時なお七堂伽藍造営の途中であった事を証明するものでなくて何であろう。同年の大安寺資財帳にも東西の両大塔が無い。これも工事継続中であったのだ。この例を以て法隆寺をも見るべきものだと、余輩の自信はますます強められた。一切の非再建論はますます愚論に見え出した。しかも現にそれ程の愚論の横行を許している事は、明治学界の恥辱でなくて何であろうとまで考え出した。いかに壮年客気に富んだ際であったとは云え、今から思えば実に滑稽なまでに昂奮したものであった。そしてこの昂奮を以てして、爾後僅々一ヶ月の間に、この研究のイロハから始めて、一気呵成にかの「法隆寺の罹災を立証して一部芸術史家の研究方法を疑ふ」と題する、二十行四十三字詰菊版六十五頁にわたる長論文を始めとして、以下これに関連する論文雑録等六篇を起稿する程の努力も出来たのだ。かくて同人諒解の下に翌五月の歴史地理全部を殆どこれに当ててなお足らず、別に「記録上より薬師寺金堂三尊の年代を論ず」と題する弁駁論文一篇を、同月の史学雑誌に掲載してもらった事であった。勿論この頃は今日の如く史料の鉛版に附せられたものが少く、これを手にする事が容易でなかったのみならず、従来この方面に全然無関心であった余輩には、参考となるべき何らの材料の持ち合わせもなく、ことごとくこれを所々の秘庫の写本に求めて、第一歩から研究してかからねばならぬ状態であったから、その煩労は一方でなかったのみならず、その渉猟しえた史料の範囲も極めて狭く、しかもこれまで実地に見たこともない法隆寺の問題を、極めて短期日の間に、ともかくもあれだけの物に纏め上げたのであったから、その無鉄砲さ加減は今さらあきれるの外はない。けだし余輩の芸術史について全然無知識であった事が、余輩をして勇敢にこの無鉄砲なる挙動に出でしめたものであったのだ。さればその研究は勿論極めて不十分なもので、今にしてこれを観れば、増訂改竄を要すべきものも到る処少くはないのであるが、しかも余輩の当時の昂奮と、芸術方面の無知識が与えた自信とは、余輩を駆って臆面もなくこれを発表せしめたのであった。したがってその筆鋒は辛辣を極め、用語野卑にして文壇の礼義にもとるもの多く、為に甚だしく学界の顰蹙を招くべき事についても、あえて顧慮する程の余裕がなかったのであった。所謂目暗蛇にじざる者であったのだ。なお余輩をして当時この完成を急がしめた事については、翌五月には折柄依然日露戦争継続中の事とて、旅順方面における戦地見学の為に、満洲に出張すべき内命を受けていたからであったことを一言つけ加えておく。

四 余輩の所謂再建論の内容


 当時余輩の発表した論文は、世間ではこれを法隆寺再建論の名を以て呼ぶ例になってはいたが、実は再建論は既に黒川・小杉両先生を始めとして、その他の諸先輩によって一往完成せられたものであった。そして余輩はただその驥尾に附して、当時関野・平子の両君によって発表せられた新研究を論破せんとするの外、何らの希望をも、また野心をも持っていなかったのであった。したがって余輩を以て法隆寺再建論者の代表となさんは、甚だしくその当をえざるものである。当時の余輩の所論は、その再建を証明せんとするよりは、むしろ主として関野・平子の両君の新発表を目標として、これに喰ってかかってその主張を論破せんとしたものであったのだ。しかし実を云えば、この両君の所説以外にも、自ら法隆寺大御所を以て任じておられた北畠治房男爵を始めとして、非再建の意見を有するものが少くなかった次第であったから、余輩はこれらを十把一とからげに論駁して、日本紀天智天皇九年条の火災の記事の、確実疑うべからざるものである事を証明しさえすれば、それで余輩の能事終れりとしたものであった。したがってまず以て記録上より立てられた一切の法隆寺非再建に関する諸説を列挙して、ことごとくその採るに足らざる所以を論証し、さらに一切の実物上に立てられたる非再建論の価値を論究し、以てその妄想に過ぎざる所以を明らかにせんと試みたのであった。かくてこの年十二月平城京址調査の目的を以て奈良市に出張した際に、北畠男爵から招致せられて猛烈なるお目玉を頂戴し、さらに同男爵直接の案内によって、生れて始めて法隆寺伽藍の内部に立ち入り、心行くばかりこれを視察するの機会を得た事は、余輩にとって滑稽なる、否むしろ悲惨なる僥倖であった。
 記録上より立てられた非再建論には、勿論種々の方面からその説が論議せられ、その傍証が試みられたのであったが、中にも最も有力なるものは、寺院側においてかつて天智天皇朝の火災の変事を伝えず、かえって延長年間焼失の講堂を以て、聖徳太子建立の儘のものであったという説の古く伝えられていた事と、及び日本紀の天智天皇朝庚午の火災の記事は、実は推古天皇朝の庚午に起った事実の、推歩を誤ったものであるとの平子君発見の新説と、この二つのみであった。その以外にも傍証と謂うべき程度のものには、日本紀に、「法隆寺災あり一屋無余」とあるかの記事は、実は堂塔には関係なきもので、通例伽藍には建築物を表わすに「堂」または「宇」の字を用いて、「屋」とは云わぬ例であるから、ここに「一屋無余」とあるは、もっぱら普通の住屋の火災の事を述べたものであろうとの事、或いは日本紀謂うところの法隆寺の火災は、その実末寺幸隆寺の事を指したものであるとの事、或いは再建論者の従来主張するところの「法隆寺和銅年間造立、寺縁起云々」の記事は、法隆寺が和銅年間に造立せられたとの事ではなくて、その「造立」の文字は、下の「寺縁起云々」の文字に続けて読むべく、「和銅年間造立に係る寺の縁起に曰く」と解すべきものであるとの事、その他日本紀・続日本紀等に、法隆寺程の大寺の造営について、天智天皇九年以後何ら記するところなく、他にも天平十九年の伽藍縁起を始めとして、これに関する記事の何ら伝うるところなきは、この寺がその頃造営せられたものにあらざる事の証拠であるとの事、等々の諸説が発表せられていたのである。しかしこれらの諸説は、法隆寺が非再建である事の確かな場合においてのみ、その傍証として時に多少の価値あるべからんも、これもいかようにも解釈するをうべく、中には全く空想の上に作り出されたものもあって、その非再建を立証する上には何らの価値なきもののみと謂わねばならぬ。
 ところで寺院側に天智天皇朝の火災の変事を伝えぬという類の事は、何も法隆寺にのみ限った訳ではなく、他の寺院にも古伝を忘れたよい加減の縁起が少からぬは普通の事であるから、これは重きを措くに足らぬ。ことに延長年間に焼失した講堂を以て、太子建立の儘の物であったとなす説の如きは、天平十九年の資財帳に他の堂塔の事はことごとくこれを事細かに列挙してあるにかかわらず、独り講堂の項をのみ欠く事によって 前記の如く既に立派に裏切られているのであるから、これも勿論問題にはならぬ。要するに寺ではつとに天智朝火災の事実を忘れたか、或いは故意にこれを隠蔽して忘れしめたかであるに相違ない。なお言わば、日本紀にこの寺草創の事を云わず、天平十九年の資財帳にもその草創その他について甚だ曖昧なる記述をなしている事は、かつて寺が大火に罹ってその古伝を失った事の反証とも解すべきものであろう。
 次に平子君の補闕記による新発見は、畢竟法隆寺の堂塔を以て推古朝の物なりとする先入観に捉われたもので、単に史料としての日本紀と補闕記との価値を比較したならば、これは到底相撲にならぬものであると謂わねばならぬ。言うまでもなく日本紀は天武天皇朝以来の、国家の継続事業として編纂せられた勅撰の国史として、養老四年に至って完成奏上したものである。かくの如き性質の勅撰の史籍において、眼前に在る、しかも官の大寺たる法隆寺の火災の事を記するに当り、仮りにそれを最終の養老四年の執筆であるとしても、それが五十年前なる天智天皇九年の庚午の歳の事であったか、或いはさらにそれよりも干支一運を遡った百十年前の、推古天皇十八年庚午の歳の事であったかというが如き問題について、その推歩を誤るが如き事が想像し得らるるであろうか。また現に眼の前にある大寺の罹災について、それが堂塔に関係なく、或いは関係ありとしても、今の金堂・塔婆・中門等が取り遺された程の小火災について、一屋無余というが如き誇張の筆を弄することがありえようか。法隆寺がかつて一屋無余ともいうべき程の大火災に罹った事は、寺院側の記録にも往々見受けるところで、「法隆寺災に罹るの後衆人寺地を定むる事を得ず」、分散して太子縁故の諸寺の造営に着手したとの事は平子君の引かれた補闕記や、法輪寺の古流記にも立派に認めたところである。しかるにその火災が日本紀奏上の歳よりも五十年前、すなわち今日にして明治十七年の事であったか、或いは百十年前、すなわち文政七年の事であったかを間違えるという如きの事が、どうしてありうるであろう。これに反して補闕記は、これまた相当の古書であるとは云え、少くも平安遷都を遡らざる時代のものであり、しかも一私人の簡単なる編著であるが上に、その庚午火災に関する記事は、他の史実がすべて太子の年譜中に排列せられたのとは趣きを異にして、特にその末項において、しかもその庚午の歳を推古天皇の二十八年と推歩し誤るが如き、甚だ不用意なる筆を下したもので、おそらく本書を一旦脱稿した後になりて、それに気がついて軽率にも年代の推歩を二重に誤り、これを追記したと見るべき程の杜撰なものであってみれば、これを以て日本紀の記事を訂正せんとするが如きは、思いも寄らざる事であると謂わねばならぬ。
 かくの如き理由の下に、余輩は当時世に発表せられた一切の非再建説の根拠について、ともかくもことごとく一と通りは論破しつくしたのであった。
 次に実物からの研究に関する論駁は、主として関野君の発表に対したもので、これは失礼ながら史実上の誤解と、これを推古朝の遺物なりとする先入観に基づいた循環的推論とのほか、殆ど何物も無いのであった。またその組み立てられたる推論の如きも、結局は前記の如く、単に「そう思う」という以上に何らの確証を与ええないもののみであって、しかも一方には同じく芸術史家を以て任ぜらるる人々によって、必ずしも「そうは思われぬ」場合もまた少からぬのであった。そこでまず問題の法隆寺の建築物についてこれを観るに、非再建論者は、これらの諸建築物が、推古天皇の三十年に創立せられた法輪寺の三重塔、及びこれと殆ど年代を同じゅうすと認むべき法起寺三重塔に比するに、様式の推移上これらよりも後るるものにあらざるが如しと言っておられるのであるが、しかしそれはただ関野君が、「後るるものにあらざるが如し」と思われただけの事で、勿論確証とすべきもの無きのみならず、余輩の研究によれば、非再建論者が以て比較の手鑑とせられた法起寺の塔は、明らかに天武天皇朝のものであり、法輪寺の塔また法隆寺罹災以後のものであるべき以上、これらと比較の上から法隆寺の堂塔を以て、推古朝のものとなすべき理由は到底見出すべからざるものであると謂わねばならぬ。否むしろこれを以て所謂白鳳期の物となすべき可能性が、濃厚であると謂わねばならぬものである。或いは金堂安置の玉虫厨子の様式が、法隆寺金堂そのものの建築様式に酷似しているの故を以て、この金堂また所謂飛鳥式なるべき事を論ずるが如きもまた同様である。この説は、この厨子を以て推古天皇の御遣物なり[#「御遣物なり」はママ]とするの前提の下においてのみ、始めてその可能性があるものであるが、実はこの厨子にそんな由緒があるべくも思われぬ。何となれば、この厨子は所謂橘夫人の厨子とともに、天平十九年の資財帳中に収められたもので、当時大安寺にもこの両者と同様の物がともに存在し、しかもそれは「人々請坐者」とのみあって、寄附者の名も、また年代もなく、すなわちそれらを特記する程の貴重なる物ではなかったのであった。けだしこの当時には他の寺院にも普通に存在した品で、おそらく仏具屋の仕入物であったに相違ない。したがってこれを以て推古朝の遣物の[#「遣物の」はママ]標準となすをえざるは勿論、それが大安寺にもあった事と合せ考えて、これまた或いは所謂白鳳期の製作であったかも図り難いのである。
 しかしながら、よしや法隆寺金堂一類の建築様式が、果して所謂飛鳥式であると仮定したところで、それが必ずしも実年代上その当時の物でなければならぬという理由は薄弱である。何となれば、たとえそこに新様式の芸術が創始せられたとしても、これが為に前代の様式の芸術が同時にことごとく絶滅すべきものではないからである。前後二種の様式が、或る年代間は並び行われたとして何処に故障があるであろう。勿論これは単なる空論である。しかし当時芸術について全然盲目であった余輩は、この空想的理論を真っ向に振りかざして、真摯なる芸術史家の推論を打破すべく、無遠慮にも繰り返し力説したものであった。
 次に非再建論者は、法隆寺に金堂内の釈迦・薬師の両本尊を始めとして、所謂飛鳥時代の遺物が甚だ多く現存しているの事実を以て、罹災の反証となさんとする。しかしこれはその一を知って未だその二を知らざるの結果であって、余輩はむしろこれとは反対に、法隆寺には天智天皇九年以前の遺物の甚だ少かった事実を以て、かえってその罹災の傍証となすべきものと考えたのである。天平十九年の資財帳を見るに、法隆寺にはその寄附者及び特に年代を明記する程の由緒ある遺物は、通計百六十八点に達していたが、その中天智天皇九年以前の物は、僅かに釈迦・薬師の両本尊と、片岡御祖命なる人の寄附に係る金銅幡との、ただ三点あるのみであった。その後和銅初年以前の物と認むべきものが七点で、その他の百五十八点はことごとく和銅以後天平十九年以前の物のみである。しかるに同じ年の大安寺資財帳を見ると、この寺は草創以来明らかに数度火災に罹ったもので、ことに扶桑略記によれば、近く和銅四年にも炎上し、大安寺碑文と称するものにもこの寺焼失の事が見えているにかかわらず、その現存遺物の数においては、これも法隆寺と同じく、寄附者及び年代を特記する程の由緒ある物総計百六十三点の中、天智朝以前の物実に十五点、和銅初年以前の物四点、その以後の物百四十四点となっているのである。これはむしろこの法隆寺が、天智天皇九年において、一屋無余と云われる程の大火災に罹ったが為に、かくその以前の貴重なる遺物が伝わらなかったと解するを至当とすべきものでなければならぬ。なるほどこれを実地について見るに、法隆寺には右の三点以外にも、天智天皇以前の遺物と認むべき物がかなり多数に保存せられているのである。そして実地に通暁する人々は、まず以てこれに眩惑せられて、為にその非再建を直覚するに至るのである。しかしながら、虚心坦懐に考察するならば、これらの遺物はその再興後において、他の寺院より移されたと解する事が出来ぬであろうか。現に四天王像や四十人体仏の如きは、明らかに後に移入せられた証拠がある。さればこの古代遺物が多いとの事は、何ら天智天皇九年の火災を否定すべき材料とはなりえないのである。
 或いは法隆寺金堂の屋背より所謂飛鳥式の古瓦が発見せられたと云う理由によって、この建築物が当初その瓦を屋蓋に載せた当時から、今に至るまでその儘に保存せられたものであるとの理由となさんとする。しかしそれはその発見の古瓦が今の建築物の屋根を蓋うたものであったというだけの事で、最初の法隆寺の屋蓋にかれた物であったとの事実が立証せられざる限り、すなわち推古朝のものであるとの事実が証明せられざる限り、いかようにも説明しえられるものである。
 その他実物上よりの幾多の推論は、いずれも「しかあるべし」、或いは「しか思わる」と云う類のもののみで、これを反対に「しかあらざるべし」、「しか思わず」と云わんもあえて差支えなく、畢竟は水掛論の程度を越えざるもののみである。ただ一つ関野君が高麗尺・唐尺の関係から、今の建築物を以て大化以前の設計にかかるものなりと論断せられたるの一事は、当時往々にして斯道学者間の傾聴するところとなり、今においてなおこれを信ぜんとするものが無いではない。しかし仮りにそれが果して関野君の言わるる如く、高麗尺によって設計せられたものであり、またその高麗尺が大化以前に限って使用せられたものであるとしたところで、何ら再建を妨げざる事既に上に述べたが如きものであるとすれば、これまた何ら非再建論の上に重きをなすべきものではありえないのである(なお尺度の事は後に云う)。
 以上は当時余輩が極めて匆卒そうそつの際において、殆ど一夜漬けとも謂うべき極めて粗雑なる駁論の梗概である。今にしてこれを観るに、論鋒甚だ激越にして、慚汗為に肌を湿すの感があり、論旨またすこぶる不備にして、さらに補訂を要するもの少からざるも、ともかくもその当時にありては、従来記録上より、また実物上より立論せられたる一切の非再建論を、ことごとく一と通りは論破しえたものであったとの確信を今もなお有しているのである。そしてそれはその当時においても、またその後においても、当の関野君よりは何ら弁明を承る事なく、その儘無疵で活きおるものとして信じているのである。
 なお当時余輩は右の弁駁文に関連して、「法起寺及法輪寺塔婆建築年代考」、「薬師寺塔婆建築年代考」等の諸篇を同時に発表し、ついで十月の歴史地理において、「唐招提寺講堂の年代に就きて」の一篇を発表したのであったが、要するに当時関野君の見られたところと、余輩の考えたところとは、これらの諸建築物においてことごとく各一時代を異にするものであった。すなわち関野君が以て推古朝のものとなさるる法隆寺の諸建築物は、勿論天智天皇九年以後のものであり、法起寺の塔婆は天武天皇十四年の造営にかかり、法輪寺の塔婆また天智天皇九年以後のものとなす事上述の如く、また関野君が所謂白鳳期の遺物となすところの薬師寺東塔は、明らかに天平二年のもの、和銅の建築となさるる唐招提寺の講堂は、おそらく天平十七八年頃のものであるとの事を論究したのであった。そして右の中法起寺及び法輪寺の塔婆の考証については、その後関野君の反駁があり、また法隆寺及び薬師寺の建築物についても、平子君からそれぞれ反駁を受けたのであったが、それらに対して余輩はことごとく一と通りの弁明を了して、今においてなお余輩の諸論は不完全ながらも、その儘に保存せらるるものと信じているのである。

五 法隆寺に関するその後の諸問題


 当初余輩が関野・平子両君の非再建論に対して駁論を発表した際にあっては、ただこれを論破せんとする事にのみ急にして、勿論深く研究を重ねる程の余裕もなく、またそれをなすだけの素養もなかったのであった。ことにこれらの諸論文の発表は、もともと小杉先生のお顔を立てたいと云うのが主なる目的であり、むしろ助太刀くらいの意味を以て着手したものであったが為に、一時は昂奮の余り甚だ過激なる論法をもあえてしたとは云え、畢竟余輩にとっては一つの余技たるに過ぎず、したがってその後は平城京その他の諸問題の研究に没頭して、法隆寺問題の方は自ずから等閑に附せらるるを免れなかったが、それでも時に前説に対する補遺の意味を以て、多少の意見を発表した場合もないではなかった。ことにその後小野玄妙君、会津八一君、その他の人々から、時に異説の発表があり、また法隆寺そのものについても少からざる新発見があったが為に、これに促されてしばしば所見を発表した事もまた少くなかった。古くは大正三年七月奈良において、日本歴史地理学会の夏期講演会を開催するや、余輩は「奈良朝寺院史」を担当して、談たまたまこれに及んだが如き、次いで翌大正四年八月の歴史地理に、「法隆寺の古建築は果して推古式か」の一文を、越えて昭和二年六月の史学雑誌には、「法隆寺の最近調査の結果につきて」を、また同六年一月発行の夢殿には、「斑鳩宮と斑鳩寺に関する雑考」を、また同八年七月の歴史地理には、「法隆寺五重塔に関する幾多の疑問」を、それぞれ発表したが如きみなこれである。近くは本年一月の東北帝大文科会発行文化の誌上において、「其の後の法隆寺に関する諸問題」と題して、主として会津八一君の新研究に対して所見を開陳した事であった。その他教壇における講義、及び折に触れたる講話等によって、新研究を発表した場合もあり、かつては史学会の例会において、当の関野博士と立会講演を行った事もあった。かくて研究は次第に精緻の域に達した事を信じているが、これらはいずれもその後の学界の進歩に促されて起ったもので、これによって前説の不備を補い、またその誤りを正した場合も少くなかった。今その中の主なるものを箇条書にして、余輩の法隆寺問題に関するその後の推移を記録しておきたい。

一、法隆寺の今の堂塔は、必ずしも旧建築物の敷地に復興せられたのではなかろうという事。
  法隆寺災に罹るの後、衆人寺地を定むるをえずして、分散して他の太子縁故の諸寺を造ったとの、補闕記及びその他の所伝の文については、余輩は当初これを解して、「衆人居住の地を定むるを得ずして」の義となし、以てこの寺一屋無余の大災に罹った事の傍証とすべしと考えてみたのであったが、その後さらに考うるに、それは誤りであった。この文はすべからく、「法隆寺災に罹るの後、衆人新寺地をどこにすべきかに就いて意見が決定しなかつた」ものと解すべきであった。そしてこの新解釈は、先年の水道敷設工事によって証明せられた。今の食堂附近を始めとして、当時発掘した敷地の中には、焼土・焼瓦の存在する場所が少からず発見せられたのである。けだし当初の伽藍は今の敷地よりも東方にあったもので、その位置が東院に近かったが為に、天智天皇朝の火災の際には幸いにして東院その厄を免れえたとしても、なお延長火災の際の場合と同じく、他日お互いに累を及ぼす事を顧慮して、寺地変更の議が生じ、それが決定せぬ間、まず他の寺院の造営に従事したものであった。そして後に決定したのが東院を遠く西に離れた、今の敷地だと解すべきものである。したがってかの水道工事の際、今の講堂附近には焼土があったが、金堂及び塔婆の附近にそれが無かったの故を以て、非再建説が証明せられたとの説の如きは、勿論問題とすべきものではなかったのである。
二、出土古瓦の問題。
  関野君等の所謂飛鳥式なる法隆寺出土の古瓦が、かつて金堂の屋背からも出たという理由を以て、この金堂が当初のままのものであるとするの説は、かなり有力に一部論者の間に信ぜられたものであった。しかるにこれも右の水道の敷設工事に際して、各所から多数の古瓦が発見せられた事によって立派に裏切られた。のみならず、その種の瓦を蓋うた建築物は、皮肉にもかえって当初のものではなかったとの事が証明せられたのである。法隆寺境内には従来飛鳥式として呼ばれた古瓦以外に、さらにそれよりも前代の物と認められる別の様式の古瓦が、少からず埋没しているのである。しかもそれは一度火災に罹ったもので、所謂飛島式の古瓦には罹災の痕跡が無かった。しからばすなわち従来所謂飛鳥式の古瓦として、推古朝創建の当初の法隆寺伽藍を蓋うたと信ぜられたものは、実は天智朝罹災後再建せられた第二次の法隆寺建築の頃に行われたものであった。したがってそれは太子時代のものではなく、同種の古瓦を出す軽寺などとともに、所謂白鳳時代の様式と見るべきものであるかもしれぬ。そしてその古瓦が屋背より発見せられた法隆寺金堂の年代も、かえってこれによってその再建に係るものなる事が推知せらるべきものであろう。
三、今の金堂の礎石中には旧礎石を再用せるものの存する事。
  これは奈良県技師岸熊吉君の注意によって知りえたところで、おそらく同君の発見に係るものと思われるが、今の金堂正面中の間の左右の柱礎は、明らかにもと円形造り出しの柱座があった物で、それを今の金堂に使用するに当りて、その柱座を削り去り、他の柱座なき平石のままの礎石と交えて、使用せられた事実が極めて明白に認められるのである。ことにその左方のものは、礎石の据え付けにやや傾斜を生じたが為にか、その柱座を削り取るにあたりて、一方を少しばかり削り残し、今も明らかに円形の一部を止めているのである。けだし旧寺の焼礎の使用に堪うるものに加工して、これを再建の金堂に転用したと解すべきものであろう。
四、今の金堂の間取りは当初のものと異なるべき事。
  言うまでもなく法隆寺はもと用明天皇の御為に敬造した薬師仏を本尊としたもので、その後太子の御為に釈迦仏を敬造して、ここに二本尊存在することとなった。これは光背の銘文によって窺知せらるるのみならず、天平十九年の資財帳によって、当時なおそのままであった事が知られるのである。しかるに今の金堂は三間に分れ、設計当時から三本尊の並座を予想したもので、後それが実現せられて西の間の阿弥陀仏が安置せられ、ここに三本尊の並置となり、左右の均斉を得るに至ったのであった。けだし中の間の釈迦仏は太子の御為、東の間なる薬師仏は御父用明天皇の御為なるに対して、御母間人皇后の御為に、西方浄土の教主たる阿弥陀仏を西の間に安置すべく予想せられたのであったに相違ない。
  しかしながら、当初二本尊安置の場合にありては、これを三間に分つという事は均斉上如何と思われる。それについて思い合わされる事は、今も中門には正面が無いと言われている事である。正面が無いとは、門の中央に柱が立って、間取りが左右均斉に分れている事の謂である。しかもそれは中門のみではなく、延長焼失のもとの講堂にも、また正面が無かったと言われているのである。しかしながら、これは他の寺院において殆ど類例を見ざるところで、ひとり法隆寺にのみ限られたる特殊の様式と謂うべく、もししいてこれに近いものを求めるならば、僅かに善光寺の本堂においてこれを見る事が出来るのである。善光寺はもと本田善光の住宅であったと言われ、当初その西の庇に阿弥陀仏を安置したものが、仏の希望によってついにそのままとなり、その故事を継承して、今の本堂の構造をなすに至ったのだと伝えられている。しかし今の本堂を見るに、その仏間は必ずしも西の庇と謂うべきものではなく、東の大広間には善光夫妻及びその子善佐の木像を安置し、西の小間に阿弥陀仏を安置したもので、さらにその左右に東西の庇が設けられているのである。そして善光の間と仏間との間にある柱は、他のものがことごとく円柱なるに反して、これのみは方柱となり、他の柱と或る差別の存在が認められるもので、これを出雲大社の構造に比すれば、けだし心の御柱というものに相当すると考えられる。出雲大社は言うまでもなく古代住宅建築の形式を伝えたもので、中央に心の御柱があって室は左右に分れ、所謂正面の無い間取りとなって、その一方に神座が設けられているのである。思うに最初の法隆寺は、他の古代寺院に往々その類例を見るが如く、太子の宮殿をそのままに寺となしたもので、その構造は中央に柱があって左右に分れ、所謂正面の無いものであったであろう。そしてその東の間には、御父用明天皇の御為に敬造せられた東方浄土の教主薬師如来の尊像を安置し、西の間は依然太子の御居室として遺されてあった所へ、太子の薨後さらにその御為に敬造せられた釈迦如来の尊像を安置し、ここに両本尊安置の均斉を見るに至ったものであろう。そして後に他の諸建築物を造営する場合において、この正面の無き本堂の様式に準拠して、ことごとくこれを正面の無き特殊なる構造のものとなしたのであろう。これらは勿論ことごとく「であろう」である。しかしながらこの仮定説によって、始めて法隆寺のみに限られたる、正面の無きこの特殊なる構造が説明せらるべきである。かくて罹災後これを新敷地に再興するに当り、新たに母后の御為に阿弥陀仏の尊像を安置すべく、金堂のみは三本尊並置の予定を以て、今見る如く設計を改めたが、その他の講堂・中門等に至っては、相変らずこの寺特殊の正面無き伝統的様式を保存したものと解すべく、これまた以て当寺の罹災と再建とを傍証すべきものであろう。
  なお言わば、金堂と塔とが左右に相並ぶ法隆寺式伽藍の配置の如きも、この寺がもと四天王寺の如く、計画的に堂塔の配置を設計して造営せられたものではなく、当初太子の宮殿を捨して寺となし、その附近にこれと並べて西方に一基の塔婆を建築したという様な事から、遂にこの伝統的特異なる伽藍配置をなすに至ったものであろうと思われる。新田部親王の邸宅を捨して戒壇となし、それより後漸次他の堂塔を造営した唐招提寺においても、大安寺・薬師寺等において見るが如き、奈良朝式左右均斉の伽藍配置をなしておらぬ事情も思い合わされる。
  本項はかつて本誌所載「斑鳩宮及び斑鳩寺に関する雑考」中にその大要を述べたところであるが、今、さらに再建非再建論問題の回顧を完うし、兼ねて前説の不備を補うの意味において繰り返す事とした。
五、五重塔心柱礎の問題。
  法隆寺五重塔婆の心柱が、深く土中に埋め立てられ、しかもその下に礎石があって、礎石内には普通見る如く容器に納めた仏舎利の存在が発見せられ、為に学界に一大衝動を起した事は、今なお世人の耳目に新たなる特異の事実であった。しかしかかる構造の塔婆は附近の法輪寺においてもその類例があり、或いは山田寺の塔においても、またもとはかかる構造の物であったかと思わるる事情もあって、必ずしもひとりこの塔のみに限った訳では無いものらしい。しかしながら余輩は、この点よりもむしろ塔礎内発見の遺物において、その再建を傍証すべく特殊の興味を感ずるものである。
  法隆寺塔礎内から発見せられた舎利の容器、及びその舎利収納の作法は、天智天皇二年の構作に係る山田寺の塔に見るところと、殆ど符節を合わすが如きものである。そして余輩はこの点からしても、この塔の建築年代がほぼ推察せらるべきものであると考える。ただその山田寺の場合と異なる著しき点は、法隆寺塔礎中には一面の海獣葡萄鏡が収蔵せられてあった事である。海獣葡萄鏡は古く宋代の博古図に、これを漢式のものとして収録し、事実上その由来は、或いは漢の時代までも遡りうるものかも図り難い。しかしながら支那においても、その盛んに行われたのは隋唐以来の事であったらしく、我が国においては所謂古墳時代末期の遺物として、墳墓中から極めて稀に発見せらるる以外には、正倉院・三月堂・春日神社・大三島神社等の古社寺に往々保存せられて、考古学者はこれを奈良朝頃に多く行われたものとする点において一致しているのである。果してしからばこの塔礎からこの鏡の発見せられたという事は、また以てこの塔の建築年代を推測せしむべきものであると考えられる。
六、尺度の問題。
  関野君が高麗尺・唐尺の研究から、法隆寺が大化以前の建築でなければならぬとの新研究は、その数字の計算の甚だ詳細であったが為に、いかにも科学的なる研究の結果として、大いに当時の学界を衝動し、数多あまた学者の信用を博したものであった。否むしろこれあるが為にのみ、法隆寺非再建説はここに完成したとまで言われたものであった。しかるに当時余輩は尺度について未だみずから研究した事がなかったが為に、これについて多くを言うの自信が無く、ただ仮りに関野君言うが如きものであったとしても、それが必ずしも非再建説を将来するものではなき所以を述べたに止まり、ついでに法起寺・法輪寺の塔婆の年代を論じた文の中において、しばらく関野君の計算法に従っても、これらの塔の柱間が、これを高麗尺で測ったものと、唐尺で測ったものとの数字の比較上、その完数に近い程度にさまで軽重なく、否むしろ唐尺で測った方が、より一層完数に近かるべしとの計算の数字を羅列して、いささかからかい半分の説を発表したに過ぎなかった。
  しかるにその後間もなく、我が法制史に精通せらるる三浦周行博士によって、高麗尺と唐尺との使用の限界を、大化の改新に置く事それ自身が、畢竟関野博士の仮定説なるに過ぎず、そこに何ら確証の無いものたる事が発表せられて、関野君の丹念に測定計算せられた折角のこの新研究も、為にその根拠が崩壊してしまったのであった。
  たまたま余輩はその後平城京址及びこれに関連して京外条里の実際を研究するに当り、図らずも関野君のこの計算の基礎となった尺度の推定が、全然誤謬である事を明らかにするを得た。関野君が唐尺を以て今の曲尺の九寸八分に当るものとなし、高麗尺を以てその一尺二寸、すなわち曲尺の一尺一寸七分六厘であるとせられたところのものは、その実唐尺を曲尺の九寸七分五厘となし、高麗尺を一尺一寸七分となすべきものであった。現存の古尺には往々訛長訛短があって、精密には一定していないのである。しかもその平均数から得られた関野君の推定は、何ら科学的根拠のあったものではなかった。しかるに関野君がその不確実なるべき仮定の尺度を以て、最も精密なるべき計算の基礎とせられた事は、いささか大胆であったと謂わねばならぬ。いわんやその尺度の標準が誤謬である事の極めて明白である以上、これに由りて計算せられた数字がよしや完数に近いものであったとしても、それは何らその非再建を証する上に価値なきものである事は、また極めて明々白々であると謂わねばならぬ。いわんやその完数というものも、実は甚だ不完数たるにおいてをやだ。

 以上列挙した六項目の以外にも、その後法隆寺について研究せられ、或いは発見せられたところのものはかなり多い。中にも過般三経院の改修に際して、五重塔の勾欄に用いた地覆や、第一層屋蓋下の隅木の古材の発見せられた事の如きは、その最も著しいものである。余輩はかねて種々の理由によりて、この塔がかつて解体せられ、切り縮められて、その高さを減じたるべき事を主張していたのであった。しかるにこの勾欄地覆の古材には、明らかにもとその下方において、今も金堂及び中門の勾欄に見るが如き、蟇股かえるまたの存在した蹟が認められるのである。また塔の屋蓋下の隅木を取り換えるが為には、技術上少くもその上部を解体するの必要があるという。果してしからばこの塔婆は、おそらく元禄改修の際において解体せられ、柱を切り縮めて各層の高さを減じたが為に、必要上勾欄の蟇股をも除いて、これを低くしたものであった事が知られるのである。長野工学士がこれを元禄の再建と見られたのにも理由はある。
 次に近ごろ行われつつある食堂・東大門・東院礼堂等の大修理についても、また種々の興味ある新発見が続々行われつつあるものの如く報道せられている。そが中にも東大門の位置方向が、その建築当初は現在の通りではなかったらしいという事の如きは、この寺に全くその伝えを失ったところの種々の変更が、しばしば行われた事を示唆するものであると謂わねばならぬ。また東院礼堂下から発見せられた掘立柱の如きも、もとの斑鳩宮と東院との関係を知る上に有益なる資料を提供したものであると考える。斑鳩宮に掘立柱の建築物のあった事は、余輩かつて本誌上の「斑鳩宮雑考」の中にも述べておいた。寺院の建築物の中には、礎石上に建てられたる物と、掘立柱の物とが、ともに並び存在した実例は、正倉院文書造石山院所労劇帳にも見えている。今回の新発見の如きも、或いは宮殿建築と寺院建築との推移上、幾多の問題を解決すべき秘鍵を与うるものであるかもしれぬ。
 これらの外、法隆寺に関して或いは既に余輩の所見を発表し、或いは将来さらに研究を重ねたき幾多の問題が無いではない。しかしながら事直接再建・非再建に関係なきものは、煩を厭いて今はすべて省略に附する事とする。

六 余論


 法隆寺再建論は実は余輩をたずして、つとに決定したところの問題であった。しかも世なおこれを理解しえずして、いたずらに実物上より臆説の上に組み立てられたる非再建論を唱道し、或いは文献的史料の価値真贋を識別する事なく、これを誤解し、これを曲解して、しいて非再建説の傍証たらしめんと試み、世間また往々これらに対する可否軽重を判定するの能力なくして、いたずらに未解決の問題であるかの如く思惟するものの少くなかった事は、実に我が学界の恨事であった。しかしながら時はよくすべてを解決する。今日では毫も文献的史料に依る事なくとも、実地上のみからでも法隆寺がかつて火災に罹った事、また今の伽藍の敷地が、本の場所でなかった事などが判って来た。したがって近年新たに法隆寺を研究する程の新進の学者間においては、この寺の罹災を否認せんとするが如きものは、もはや一人も無いと言ってもよい程の状態となって来ているのである。しかしながら一方において、今の建築物を古く見んとする先入観念はなお容易に除去され難きものと見えて、今さら否認し難きその罹災の事実を承認しながらも、なおかつこれを日本紀記載の天智朝の事となすを欲せず、しいてそれよりも前代の出来事として引き上げんとする者が無いではない。早く小野玄妙博士がこれを皇極天皇二年斑鳩宮焼打ちの際の事となし、近く会津八一博士がこれを推古天皇十五年この寺創建直後の事とせらるるが如き、いずれもこれである。しかしながら小野君の説は、現在金堂安置の四天王像を以て、この堂成りてまず作られたものなるべしとの見解から、その作者が大化頃の人であるの故を以て、法隆寺は皇極天皇二年に焼失し、大化の頃に再建せられたものだとの結論に達せられたものらしく、しかもそれは一つの空想に過ぎざるが上に、さらにその史実において明らかに誤解があった。何となればこの四天王像の存在は、無論天平十九年の資財帳にも所見が無く、ことに金堂日記によれば、それは延清五師の奉安に係るもので、おそらく承暦の頃に、他の寺から移されたものであった事が極めて明白に知られるからである。したがって小野君の新説は、折角ながら問題にはならぬものであると謂わねばならぬ。ことに皇極天皇二年の兵火は斑鳩宮のみに限られ、斑鳩寺すなわち法隆寺がその後もなお存在した事の反証とも見らるべきものすらあるのである。
 また会津君の新説は、もともと法輪寺の研究から導かれたものであるが、しかも同君のこの研究には、根本において史料の扱いに非常なる無理があり、また前提とする資料に根本的の誤解があって、必然的に誤った結論に陥ったものなのである。しかもこの法隆寺の年代論が、それを前提として論定せられたものである以上、これまた到底問題とすべきものでは無いのである。
 余輩はこの両君が、さすがに法隆寺の罹災と再建とを認められたる点について、一往の敬意を払うべきものであるとは考えるが、しかしながらかほどまでに丹念に文献的史料を応用せられながら、しかもその鑑別を誤り、日本紀の記事の毫頭疑うべからざる理由を解せずして、もっぱら誤解曲解の上にしいてこれを前代に置かれんとした事は、到底歴史家の常識を以てしては、理解しえざるところであると謂わねばならぬ。そしてこの点については、余輩はむしろこの両君の新研究よりも、頭から文献的史料の価値を解せず、主として実物上よりその説を立てられたる非再建論者諸君に対して、かえって満腔の敬意を表せんとするものである。

七 結語


 法隆寺が天智天皇九年庚午の歳四月三十日の夜半において、一屋無余の火災に罹ったとの日本紀の記事は、何としても絶対疑うべからざるものである。これを裏切る一切の諸説は、そのいかに実らしく見えるものといえども、ことごとく採るに足らざるものである。またこの絶対的信用価値ある史料の真価を解せずして、実物上の研究より組立てられたる一切の非再建説は、ことごとく妄想に過ぎざるものである事を断言する。近年法隆寺については実地上種々の調査研究が行われ、続々有益なる新発見が重ねられているが、その中一つとして非再建を証明すべき事実はなく、かえって反対に再建説に有利なるものが少からず紹介せられているのである。今や法隆寺大修理の事業が既に着手せられ、今後十数年を期してその全部に及ばんとするという。将来必ずさらに種々の有益なる新発見がもたらされるであろう事を疑わぬ。しかしながらそれがこの寺建立の年代を示すに役立つものであったならば、それは必ず再建説を援くるもののみで、非再建説を有利に導くべき程のものは、絶対にこれ無かるべき事を確信を以て予言する。法隆寺の研究者はすべからく天智天皇朝の火災の事実を前提として、その上に研究を重ぬべきものである。ことに芸術史的様式の変遷を論ぜんとする程のものは、必ずこれを基礎として年代の標準をここに求め、以てその系統を組織すべきものである。もし万一これを等閑に附するが如き事あらんか、いかに真摯忠実なる研究も、従来既に少からざる実例の示すが如く、畢竟徒労に終るべき場合の多からん事を、ここに確信を以て警告する。従来の芸術史家は無条件に、今の法隆寺式の建築を以て推古天皇時代に行われたる様式なりと仮定し、これを飛鳥式と呼ぶ例となっている。したがってその建築実年代が天智朝以後に下げられたとしても、やはりそれが所謂飛鳥式たる事においては疑問を挟もうとはせぬものらしい。しかしながら、現に推古朝の建築物が一つも存在しない今日、法隆寺・法起寺・法輪寺一類の古建築物を以て、その時代の建築標準と成す事は出来ない筈で、ここに飛鳥時代なる名称に再検討を必要とするとともに、芸術史上の系統に立て直しを要するものであるかもしれぬ。元来飛鳥時代とは天武・持統・文武の諸朝をも包含すべき筈で、この意味における飛鳥時代ならば良い。切に斯道専門家の一考を煩わしたい。
(附言)余輩が明治三十八年以来種々の機会で発表した法隆寺関係の諸論文は、近くこれを整理して印刷に附し、同好者の劉覧に供すべき準備中であることをここに御披露しておきたい。(昭和九・一〇・二〇)





底本:「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」河出書房新社
   2008(平成20)年1月30日初版発行
初出:「夢殿叢書 第二冊」
   1934(昭和9)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。
「爾後数ヶ月間は甲論乙駁」
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年6月30日作成
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