震災後記

喜田貞吉




 九月一日来の関東の大震については、自分の親しく見聞関知したところをいささか書きとめて、その混乱の最も烈しかった六日までの分を「震災日誌」と題して『社会史研究』拾壱月号〔(第一〇巻第三号)〕に掲載したのであったが、七日以後にもかなりひどい余震が繰り返され、世間はそわそわとして震災気分は相変らず濃厚だ。崩壊した古土蔵の土塊のために荒らされた書斎その他はまだもとのままで、事実学窓は閉塞の有様だ。この有様がいつまで続くか見当がつかぬ。すなわちここに爾後なお数日間の記事を「学窓日誌」から切り離して「震災後記」と題し、別に収めて後の記念とする。

九月七日

(金)
 今日から東京で市内電車の一部が始めて動き出した。宅の附近では大塚終点から春日町まで、わずか九停留場の間だけだが、それでもどれだけ通行人が便利を得るか知れぬ。しかし罹災者を無料で乗せるというので、罹災者ならぬ有象無象までがそれにお相伴して、車掌台はもとより、窓の外側まで透き間なし鈴なりの乗客だ。いな、ぶら下り客で一ぱいだ。とても自分らごとき気の弱いものには乗れそうもない。相変らず昔慣れた自転車が役に立つ。
 午後から水道の水が出だした。もっとも低い場所だけらしいが、どんなに嬉しく思ったか知れぬ。初めから水道のない国だったら、この嬉しさは味わえず、またこんなに不自由をしなかったのだ。
 植木屋の人足がやっと四人来てくれて、振り落された瓦の破片や土塊の取り片つけに着手する。
 北埼玉郡国納なる妻の従弟日下部彦太君が、はるばる自転車で白米二升を持って見舞に来てくれた。大阪を始め各地から白米多額輸送の評判のみ高くてもまだ市場には売り出さず、麦飯や玄米飯を補充に用いているさいのこの賜は何よりも嬉しかった(追記。彦太君は帝大生で、前途に嘱望せられた青年であったが、この日雨を冒して東京の親戚まわりをした後に間もなく病気にかかって、十月三十一日帝大病院でついになくなられた。何という気の毒なことであろう)。夜十二時ごろかなりビックリさせるほどの強い奴がやって来た。
 夜警は依然として続く。夜九時より後は往来を禁止するとのことが新聞記事に出た。焼け残った『報知』や『東京日日』が出だしたので、いくぶん正確な様子もわかり、人気はだんだん落ち付いて来たとは言うものの、なかなか戦時気分を脱しそうにもない。郵便も来ねば地方の新聞も来ぬ。見るもの聞くもの、気の毒なこと、気味の悪いこと、恐ろしいことばかりで、風声鶴唳とでもいおうか、真を置きがたい巷説がまだやまぬ。

九月八日

(土)
 今日は植木屋が五人来てくれて、昨日の続きをやる。室内の掃除もだいたい済んで、始めて畳の上で坐ることが出来た。始めて家に落ちついた気がする。実は一日以来そわそわのみしていて、舞い込んだ土煙りの掃除も出来ず、汚された座敷の上は草履ばきで歩行あるいていたのだ。
 富士紡在勤の久堅町の甥が、職工らに供給する食糧やら、差当りて必需品の買い出しにと軍艦に便乗して大阪へ行く。

九月九日

(日)
 今日も植木屋が五人。延べ都合十四人がかりでやっと家の外まわりの片つけだけが出来た。土塊や廃瓦は幾分邸内の低地の地上じあげに用いたが、それでもなかなか納まり切れず、空地の一隅にうずたかく積み上げて、震災記念の小山が出来た。山形県庄内の阿部正己君が、わざわざ震災見舞に東京へ来られたとて立ち寄られた(市内の方々の御来訪は一々ここに書き留めぬ)

九月十日

(月)
 一日の激震の際小田原御用邸で薨去になった閑院宮寛子女王殿下の御仮葬(?)が、宅の前の豊島岡御墓地で行われた。時節がらきわめて御質素でお伴の自動車がわずかに五、六台続いたばかり。町内の人も知らぬものが多いほどだった。返す返すも御痛わしい限りである。

九月十一日

(火)
 自転車で見舞かたがた市内の状況視察に焼け跡を見てまわる。サンカの小屋のようなものが到る処に出来て、やっと雨露を凌いでいる気の毒な人が多い。中には早くも体裁のよいバラック建に着手しているのも少くないが、まだ焼跡に埋もれたままの屍体もあるらしく、屍臭のひどい場所にしばしば出合わす。
 郷里の呉郷文庫主石原六郎君の息育市郎君が、東京在学の令弟の安否を気づかわれて出京されたついでだとて、自分の宅へも訪れられた。いつもながらの石原君の御厚志は感謝にたえぬ。郷里へ通信杜絶の今日定めて実家にも心配しているであろうにと、視察のままの事情の報告を御頼みした。
 今夜から当番を定めて交代に町内の夜警に当ることになる。

九月十二日

(水)
 今日から暴利取締令がいよいよ励行されて、宅の近所で商店や露店の売品の値が高いと言って巡査に殴られたり、蹴られたりしたものがあった。非常のさいには非常の取締の必要もあるものと見える。
 博文館の工場に勤めておられたという、鬚を生やした罹災者某君が、夫人とその門前に「社会奉仕スイトン一杯五銭」の店を出したが、一向売れなかったようだ。旦那さんはズボンにシャツ一枚、奥さんは肌繻袢に湯もじばかり。だいたいお化粧したり盛装したりした婦人などは一日以来一人も見かけたことがない。年ごろの娘でもお尻ばしょりに足袋跣足という方が幅がきく。

九月十三日

(木)
 京都の宅から助手の山本〔(桝蔵)〕生が、震災跡始末の応援にとはるばる来てくれた。警察や府庁がなかなか証明をしてくれず、それを貰うにはなはだしく苦心されたものだという。やっと七日分の食糧携帯という条件で許されて昨日中央線で出かけたのだが、途中の困難も一と通りではなかったらしい。差当りの入用にと三百円だけ工面して来てくれた。実は昨日あたりからボツボツ銀行も開店しかけてはいるが、一日百円を限って払い出されるので、それも込みあって容易に受け取れなかったのだ。これで大いに心丈夫になる。ことに震災以来京都の宅へ到着した三十通ばかりの書信を持参してくれたので、久しくどちらからも音信を受けなかった自分には言い知れぬ嬉しさを感じた。地方では東京行の書信一切郵便局で扱わぬので、念のために重ねて京都の宅へ出したなど書いた親切なのが数通あった。

九月十四日

(金)
 豪雨襲来。かりに蔽うたばかりの不完全な屋根はこれを防ぎ切れず、到るところ雨漏りがはなはだしいので悲観させられる。午後三時半ごろ地震のかなり強い奴がまたやって来た。次男と山本生とを、弁当持で焼跡の情況視察につかわす。被服廠跡に累々たる屍体の絵はがきなど買って来る。
 今日始めて郵便配達に接手する。一日または二日の消印附のもののみだ。三日以後は震災地行きの郵便物を受け付けなくなったので一つも来ぬ。

九月十五日

(土)
 驟雨なお続く。地震もおりおり繰り返す。山本生の応援で、書庫内の整頓に着手する。

九月十六日

(日)
 各地から見舞状がボツボツ配達される。四頁、五頁ぐらいでもよいから、『社会史研究』をぜひ続けるようにと奨励される熱心な読者もある。雨風なおつづく。今日大工二人、植木屋一人来てくれて、さしあたり損処に応急の手当を加える。なかなか間にあいそうにもない。
 午後雨がやんだので、巣鴨から日暮里方面へ見舞に行く。自転車が大いに役に立つ。

九月十七日

(月)
 ブリキ屋が二人、有り合せの古材料で壊れた屋根の応急手当に着手する。
 京大の講義は疾くに始まっているはずだ。大体の応急手当も職人に委しておいて、今日いよいよ京都へ行く予定であったが、やっと徒歩連絡で通じていたはずの東海道線は、両三日来の豪雨で馬入川の仮橋を流されて、再び不通になったという。中央線の方も笹子隧道が崩れて塞がったという。とても行けそうにもない。
 十時ごろから焼け残った帝大の史料編纂掛や人類学教室、さては上野の博物館などの見物に行く。博物館はかなり被害があったようだが、前両者はほとんど損害がないといってもよいくらいだ。大学は火事にだに遭わなかったならば、ほとんど無事であったのだ。残念なことをした。だいたい東京の地震は横浜や鎌倉、小田原方面のごとくひどくはなく、これを『安政見聞誌』などと比較してみても、その当時の江戸の地震ほどにはなかったらしい。ただこの度のは大火の惨害によってはなはだしく傷められたのだ。そして被服廠跡の惨状のごとく、一ヵ所に三万何千という多数の人々が、折り重なって焼死するというような、千古未曾有の大悲惨事をも生じたのだ。これが昔の江戸の町であったならば、また少くも水道の防火に依頼し過ぎることがなかったならば、かくまでにはならなかったはずであったと思うと、またしても近ごろの文明を恨まざるを得ぬ。
 大学職員は多く山の手方面におられるので、割合に罹災者は少いようだったが、その中にかねて心配していた和田英松博士は、あの沢山の蔵書も皆丸焼けになって、今は中野へ避難しておられるという。今日は出勤がないので、親しく慰問の辞を呈することも出来なかった(追記。後に聞けば中村勝麻呂君も焼き出されたという。お気の毒なことだ)
 上野公園内には、平素は禁足地の芝生にまで避難者の小屋が至る所に建っている。警視庁建築のはずのバラックは、敷地の指定だけでまだ着手に及んでいない。見晴らしから眺めた下町一帯の焼野の原には、はやくもバラックがだんだん見え出したが、すぐ下のかの広い停車場はまだそのままだ。博物館内には、事務所の縁側や廊下にまで気の毒な人々が一パイに詰まっている。見かけたところ、たいていは浴衣一枚の着のみ着のままだ。喰べ物だけはともかく配給を受けているであろうが、夜分をどうして凌いでいるであろうと気の毒でならぬ。これからだんだん朝夕の寒空に向って、この末果してどう落ちつくことであろう。
 歴史部を訪うて懇意な部員諸君の安否や、あの震災の日に東京へ来られたはずの京大梅原〔(末治)〕君の安否を尋ねた。おりから部長高橋健自君は不在だったが、後藤〔(守一)〕君から承ると、心配していた通りに黒川真道君累代の蔵書や遺稿はたいてい焼けたという。残念なことをしたものだ。梅原君は予定通り一日に来るには来たが、あの地震でどうもならず、ことに風采がちょっと朝鮮人に似通っているのであぶなくて外出も出来ず、保護を加えて三日に無事東北へ送り出した、今ごろは京都へ帰っているであろうという。これでまず安心して、あの細高い人が自警団から竹槍を突きつけられた時の様子などを想像してみた。新総長大島義脩君は新任以来始めて登庁して、館員を集めて就任の挨拶をしておられるなかばにあのグヮラグヮラだったのだという。

九月十八日

(火)
 信越線一本限りの往来では汽車の混雑が恐ろしく、今日も西下を見合せ、その代りにかねて気にかかっていた横浜、鎌倉方面へ見舞に行く。山の手線大塚駅から品川へ、品川から東海道線へと、ともかく乗るには乗ったが、汽車の混雑は非常なもので、とても婦人、小児や老人では乗られそうにもない。出入口はどれもどれもギッシリ詰まって、窓口が今なお普通の昇降口となっている有様だ。
 横浜、鎌倉方面の震災のはなはだしかったことはかねがね承知してはいたが、来てみればさらに想像よりも以上のひどさで、やっと大船で乗りかえて鎌倉に近づくと、まず円覚寺附近の民家のたいてい倒れているのに驚かされた。鎌倉駅は焼け残ってはいるが惨憺たるものだ。駅前見渡す限り焼けている。有名な鶴岡八幡宮も無残に倒壊し、石橋や石鳥居も崩れ落ち、門前の大通りには左り角の八百屋とほか一戸を除いては、完いものは一つもない。そしてそれが大半焼けているのだ。そのほかたいていの社寺は倒壊を免れなかったらしい。七百年来歴史的のこの名蹟も、これでは復旧は容易であるまいと思われた。ことにこの地方は偏鄙なだけに東京よりは万事の手当が後れて、今なお食物の供給が十分でないらしい。二階堂谷に西川〔(龍治)〕君の仮寓を訪う。この辺の被害は割合に少いが、西川君は病児や婦人連のみを連れておられるので、帰るにも帰られず、今なお配給米を受けて飛んだ避暑をやっておられる。覚園寺を訪う。本堂は幸いに外形無事だが、中の半丈六薬師如来ならびに両脇侍菩薩の木像は須弥壇から投げ出されて、勿体なくも無残に破砕している。国宝黒地蔵尊の堂は押し潰されて、本尊菩薩は下敷となり給い、今にその負傷の程度すらわからぬ。ただ庫裏くりと、庫裏に続けて先年自分の建て添えた小座敷とのみはまず無事だ。住職大野秀文君は震災当時令息の入院に附き添って、横浜の病院におられたそうで、崩壊とともにやっと病人を担ぎ出して、逐い来る火焔を避けつつ、ともかくも無事引き揚げられたのだという。危ういことだった。
 この夜は晩くなったから覚園寺で一泊。

九月十九日

(水)
 七月末に始めて踏査した厚木町方面震害は最もはなはだしく、そのうえ火災に罹ったというので、その節世話になった人々の見舞かたがた、視察に行きたいと思ったが、馬入川も困難だし、厚木・平塚間の道路は亀裂がはなはだしく、自動車も通うていなかろうというので見合わして、直ちに横浜へ引き返す。
 横浜の惨状は全く東京以上だ。焼け跡をあちらこちら視察しつつ、まず市役所仮事務所に堀田〔(璋左右)〕君を尋ねたがおられない。転じて西戸部町に深沢〔(※[#「金+惠」、U+93F8、271-上-13]吉)〕君を訪う。同君はもと日本歴史地理学会幹事で、ついで久しく神宮皇学館教授を奉職せられたが、その後学者を廃業して実業界に鞍替せられ、昨年ここに宏壮なる邸宅を構えられたのであった。しかるにその新邸宅も今度の震災にことごとく崩壊するの運命を免れなかったのだ。
 おりから深沢君は会社の重役会議とかで川崎へ行かれて不在。崩れた門の側に六畳敷くらいのバラックを作って、夫人は七人の子供さん方とともにそこに起き臥ししておられる。誰にも怪我はなく、火災をも免れられたのは何よりもっておめでたいが、もちろん今しばしの間のことであろうとはいえ、昨日までの金殿玉楼の生活に引きかえてのこの不自由極まる有様に、思わず涙ぐまずにはおられなかった。しかしこれはひとり深沢君ばかりではない。知る知らぬの罹災者のすべてが皆これなのだ。いやさらにこれよりも数倍、数十倍ひどいのが多いのだ。「奥さん本当に御不自由でしょうが、世の中には何不足のない立派な家を持ちながらも、わざわざテント村などといって海岸や山上の窮屈な仮りの住居に、変った気分を味わいたがる人も多い今日です。あなたがたは求めずしてその境遇を体験するの機会を得られたのだ。まあそのくらいの気分で御辛抱なさい」
 これはあえてからかいのつもりでいったのではなかったが、後で思うと先方では果してどんな意味で受け取られたかと、ひとり苦笑せざるを得なかった。
 間に合せのバラックや焼け亜鉛板を寄せかけたサンカ小屋のようなものは大方出来ているが、東京から見ればよほど後れている。戸部線の大通りや、停車場前など人通りの多い所には、飲食物や日用雑貨の露店が沢山に出ている。野菜が安く、茄子は三十個十銭という札が立っていた。なるほど野菜は地震にも被害はなく、しかも需用者は大いに減じたのだ。
 品川行の汽車は相変らず鮨づめだ。
 昨日も今日も汽車の中では乗り合客の対話が罹災のことばかりだ。そしてそれがいずれも気の毒なことばかりだ。相当身分のある商人らしい一紳士が、十五、六の令嬢風の娘の足に繃帯をかけたのを背負うて鎌倉から一所に乗り込んだ。聞けば日本橋にかなり手広く営業していた太物屋さんじゃそうで、店はむろん全焼して在京の家族店員は幸いに無事だったが、鎌倉の別荘が潰れたので、おりから行っていた家族や親戚のもののうち二人死んで六人負傷したということであった。どうにかこうにか東京の落ち付き先もきまったので、生き残ったものを引き取ろうとは思うが、この汽車の混雑ではどうも出来ず、やっとこのころになってこうして毎日一人ずつ自分で連れて帰っているのだとのことであった。
「どうです、再び潰れた別荘を修繕してお出かけになる御意志がありますか」といえば、「どうしてどうして全く懲り懲りです、それにこの焼き出されでどうしてそんな余裕がありますか」と答えられる。全くその通りで、各自にこの覚悟があってこそ再び焼け太りの運命は開けるのだ。しかし寺は潰れる、町は焼ける、そのうえ鎌倉第一のお得意なる富豪紳士の別荘が復旧されぬとあっては、その復興は全くもって容易であるまい。歴史的の鎌倉もこの地震でいよいよ廃墟となってしまうのではあるまいかと心細い。

九月二十日

(木)
 今日はどうあっても京都行を決行せねばならぬ。まだ中央線・東海道線ともに不通とあって、余儀なく信越線から中央線へと大廻りして出かけることにした。大塚から田端、田端から大宮、大宮から高崎、高崎から篠の井、篠の井から名古屋と、数度の乗りかえの度ごとにその混雑は一と通りでない。ことに名古屋までは、二等車もなく、多数の避難者と同車でほとんど身動きも出来ぬくらい、今もって車窓が出入口となっている有様だ。それでも当初の屋蓋に上ったり、窓口にぶら下がったりしたころから思えば、比べものにならぬほどに楽になった訳だと思う。
 駅には所々にまだ慰問品の配給があり、青年団の斡旋がある。しかもこれに対して聞くに堪えぬような言辞を弄する無作法な罹災者(?)も中には少くなく、また公然その配給品を着服する普通の乗客の多いのは苦々しく思われた。先年夫に死なれた後に深川で小さい菓子屋を営んで、幼ない二人の子供を養育していたという例の焼き出されの婦人が、その二人の子を連れて大阪の親戚をたよって行くのと乗り合わした。詰襟洋服・巻ゲートル・ゴム底足袋に、登山背嚢リックサック一つを背負ったのみの自分ですら乗り降りが容易でないのに、しかも大きな風呂敷包みをいくつかさげたこの人々の痛ましさ。見るに見かねて席の心配をしたり、乗り降りの面倒を見たりしたのであったが、高崎の乗りかえの混雑でついに見失ってしまった。無事に乗れたかしらと、案じながら名古屋まで来てみると、偶然また同じ車室に乗り合わした。何という奇縁であろう。見れば子供は二人とも混雑のさいに帽子を失っている。それでもまず無事に乗れてよかったと、前途の幸運を祝福したことであった。
 こんな混雑のさいにも心ない乗客のかなり多いのには浅間しく感ぜざるを得ぬ。篠の井・名古屋間の自分の乗った車室の入口に、ドアを内から締めてそこへ大きなカバンを置き、ゆっくりとそれに腰をかけて何人をも出入させぬ二人の八字鬚の洋服紳士がいる。駅ごとの停車中に外から詰めかけた人々が、いくらドアを押しても叩いても頑として動こうとはせぬ。あまりのことに見るに見かねて注意したが、奴さん馬耳東風で一言の返事だにせぬ。昇降客はやむを得ずことごとく窓口から出入せねばならぬ。婦人や子供の痛ましさったらない。もし自分が今少し若かったならと思ってもみたが、今さら殴りつけるほどの元気もなく、乗り合いの人々も直接わがことでないので、誰一人手出ししようとするものなく、ただ口々にその不人情を罵るばかりだ。そしてその鬚紳士は罵られてもいっこう平気なのだ。法の届かぬところにはやはり社会的鉄拳政策が必要だと思った。
 柔道着に小倉袴をつけた壮士風のもの、高貴織の単衣に錦紗のヘコ帯をだらしなく巻きつけ、金時計を光らした、デップリした若者、そのほかいろいろの風態をした五、六人連の、傍若無人に大言壮語している連中がいる。こんなのが新聞でよく見る不良青年とでも言うのであろう。無遠慮に、いや、むしろ大威張りで慰問品を受け取りながら、献身的に活動している少女や女子生達の批評をする。「ねえさん此方へ向いてみねえ。」「ああ彼奴あいつはヘチマじゃな。」「ここの愛国婦人会の奴らは紋付なんか着込んで気張ってらあ。」これが婦人達の満腔の同情に対する避難者の応酬だ。何という浅間しいことであろう。そしてあいにくにも乗り合いの人々に、一人の鉄拳を加えようとするものもいないのだ。
 罹災民と貧民との区別を喋々と弁じている論客がいる。自分ら避難者に対して救恤などと感謝を強うるような語を用うるがだいたい気に喰わぬ。自分らは決して罪悪や過失によってこの境遇に落ちたのではない。どうで誰かが受くべき天災をたまたま自分らが受けたのだから、僥倖にして災を免れたものは二枚の着物を一枚脱いで自分らに渡すが当然なのだというような趣意だった。〔(『社会史研究』第一〇巻第三号八四頁「余白録」参照)〕説の当否は別問題として、一般国民、特に為政者や資産階級の人々の顧慮すべき問題だと思った。
 汽車がはなはだしく後れて、時間表では二十時間余で京都へ着くべきはずのものが、二十四時間何がしを費して翌二十一日の夕方ともかく無事に京都へ着いた。

 これより後十月七日跡始末のために帰京するまで、震災に関する記事なし。京都では到る処に物珍しげに実見談を喋舌しゃべらされたり、また時には自分で進んで聞かせたり、同じようなことを何度も何度も繰り返したに過ぎなかった。その間には実際体験したという人から、随分よい加減なことを聞かされていることの少からぬに驚かされたこともあった。なにぶんにも上方かみがたの人は呑気だ。一時は新聞のおびただしい号外に煽られて、非常に厚い同情心を発揮するに至ったのは結構であったが、何しろ自分が親しくその渦中にいなかったものに、そういつまでも緊張した気分が続く訳のものではない。下旬には早くもある会から、琵琶湖の船遊びを催すから、出て来ぬかとの案内状を受け取ったほどであった。それに対して自分は、このさいのことではあり、ことに近親の人々が現に避難所にまごついてまだ落ちつく所を得ず、家族どもにしてからが今なお雨漏りをも防ぎかねた破屋に起臥しているのを思うても、自分としてそんなゆっくりした気になれぬとお答えしたことをここに書き止めておく。

十月七日

(日)
 昨夜所用あって大阪へ来たので、その足ですぐ梅田駅から午後八時五十分の東海道急行で東京に帰る。震災後始末あとしまつのためだ。途中二ヵ所の徒歩連絡には閉口だが、この間の篠の井廻りでかなり弱らされたのと、一つは東海道線の被害をも視察したいというのがこの東海道線を選んだ理由だ。車室はすでに大阪から二、三等とも満員で、立ち往生の人が多い。沼津まではすべて普通の進行だが、それから先は線路が傷んでいたり、間に合わせの修繕の場所が多かったりするので、その進行ののろさったらない。乗り合いの人々には罹災避難者の帰京やら、親戚故旧の見舞やら、災害跡の見物やらに行く人が多く、惨状の話で持ち切りだ。その車中の見聞にも変時の心得、災後の跡始末、将来の思想問題等について、参考とすべきものがすこぶる多かった。中にはかなり過激な、罹災者の心理を露骨に発表しているものもあった。
 上方の新聞では最初沼津、三島あたりの被害が仰山に伝えられたが、来てみると沼津あたりでは震災らしい跡はあまり見られぬ。御殿場以東になって、始めて、だんだん潰れ家や山崩れが見え出した。小山おやま(駿河駅)の富士紡工場破壊にはその惨状のはなはだしきを見せられた。汽車はきわめて緩い歩みをもって、仮修繕のレールの上をすべって行く。谷峨やが信号所の附近で下ろされて、雨降りの中を徒歩で連絡させられる。近傍農村の少年・青年・老婆たちまで、手荷物運搬に出かけている。地震のお蔭で臨時の副業の出来た訳だ。線路上には配置の兵士が声を枯らして混雑を整理し、橋梁上やトンネル内では二列に並べて行進せしめるのだが、訓練を欠いた旅客はちょっとのすきを見て、たちまち抜けがけを試みる。油断も何も出来たものではない。トンネルの崩壊したもの、土が流れ込んで入口も見えぬまで埋没したものもある。雨でぬかった俄造りの道を通って、酒匂川の鉄橋を越えた所の仮停車場での乗りかえがまた大変だ。客車は前のよりもよほど狭い上へ、群集はわれ先によい席を占領しようと押し寄せる。婦人や老人・子供たちのみじめなさまったらない。強食弱肉、優勝劣敗の原則は遺憾なくここに暴露されて、肉体的実力のみがひとり認められるのだ。混乱社会はすなわち野蛮社会だ。聖人出でて人間の行くべき道を作り、それを歩んで社会の平和は始めて保たれる。しかも一朝の混乱は、たちまちそれをもとの野蛮時代に引き戻すのだ。
 山崩れはますます多い。線路に沿った電信・電話の柱は、たいてい倒れて電線は無残に切断されている。その間を工兵がコートを[#「コートを」はママ]連ねて仮工事をやっている。国家のためのこの献身的労働には、満腔の感謝を表せねばならぬ。
 山を越えて山北駅へ出ると被害はますます多い。松田駅のごときは全滅で、附近の人家も大部分破壊している。しかるにそれが海岸へ出て、国府津へ来るとどうしたことか被害が比較的少い。次の二宮駅附近はややひどく、潰れ家・半潰れ家が多いが、二宮・大磯間にはまた潰れ家が稀で、墓標にも倒れたものが少い。大磯附近はややひどく、駅の建物は潰れて地盤も崩れている。大磯駅を離れて少し東へ進むと線路の右側(北)に顛覆した列車の残骸がまだそのままに残っている。積載貨物は無論のこと、車体に附属したものまでも離し得る限りのものは皆掠奪されているらしい。
 平塚駅附近震害最もはなはだしく、相模紡績の工場は倉庫の一部を残して全潰し、関東紡績の工場も全滅だ。これから厚木町へかけて震害最もはなはだしかったそうで、ことに厚木町は火災のために全滅したという。去る七月の末に行って一泊し、附近の遺蹟を見て廻ったのは、旧厚木町に対する自分の最初でかつ最後の視察だった。その時御世話になった藤野・鈴木の両氏も、満員だといって自分の宿泊を断った古久屋も若松屋も、ないしやっと自分を泊めてくれた新倉屋も皆全滅したのに相違ない。しかしこの震災のお蔭で、国分附近に珍しい地下式壙を有する墳墓が七つまでも露れたとのことを、前回お世話になった、中山〔(毎吉)海老名えびな校長から通知された。これは考古学上重要なる発見で、何が仕合せになるかわからぬ。
 平塚の少し手前の松原の中に、黒板を立て俄作りの腰掛が設備されている。小学校が潰れて間に合せの露天学校を設けているのだ。こうしてでも教育は怠ってはならぬものと、つくづくありがたく感じた。
 地震で馬入川の鉄橋が落ちて、やっと出来た仮橋がまた洪水で流れてしまって、ここも今なお徒歩連絡だ。おりからの雨あがりで汁粉の鍋へ足を踏みこんだようなぬかるみを通って、やっと川東の仮駅にたどりついた。
 今度は客車がややゆっくりしているので、前ほどの混雑はないが、それでもなお車窓から泥靴で飛び込む勇猛な紳士が少くない。車掌は声を張りあげて「三等のお客は三等室へお乗り下さい」とふれて歩行あるいている。震災気分は東へ近づくに従ってますます濃厚になる。
 横浜には二十日見ぬ間に急ごしらへのバラックが大分多くなっている。しかし全くのサンカ小屋のようなものが多く、復興も容易でないらしい。なにぶん災害が東京以上にひどかったのと、世間の注意が東京に集中して比較的他に疎かなのとで万事後れているものと見える。
 午後三時四十五分東京着。普通ならば大阪から十二時間と四十分で着くはずの急行車が、約十九時間を要したのだ。宅へ帰ってみると瓦が落ちた屋根も、壁の落ちた土蔵も、まだ前の応急手当のままだ。

十月八日

(月)
 友人の訪問や、震災後始末あとしまつに関するかれこれの要務を兼ねて、焼け跡の復興気分を見てまわる。まず番町から丸の内へ行く。井伊伯爵邸・三井男爵邸をはじめ、宏壮なる富豪の邸宅もあんな大きな火災にあっては何の権威もない。九段の遊就館は幸いに災を免れたが、被害はすこぶる大きいらしい。よくこのほど見物に来たものだと思った。お濠ばたへ出ると焼かれた警視庁の大きな建物の残骸は、今は爆破されて煉瓦の破片が山と積んであるばかり。その附近には露店が密集して客を呼んでいる。工事中破壊して多くの人を押しつぶした内外ビルヂングは、鉄筋入りだけに除去が容易でない。横倒れに積み重なった大きな丸柱を、工夫が石鑿でコツコツ切って、その中にはさまれた幾条かの鉄ボールトを露わして、さらにそれを焼き切って二、三尺ずつの断片とし、始めてそれを運び出すことが出来るのだ。そのうずたかく積み重なった残骸の下には、二十余名の屍体が取り出されずに、五十日にも近い今日まだそのまま下敷きになっているのだという。何という悲惨なことであろう。
 転じて宮城前のテント村を見る。大きな隊商の群れの宿泊か、水草を逐う遊牧民の市街を連想せしめる。その天幕の中から可憐な子供が出入りしている。昼飯前食物の配給時と見えて、バケツや籠をさげた長い列が続いている。その静寂さにいっそう悲惨の状が偲ばれる。
 その静寂なのとは反対に、日比谷公園のバラック村はなかなかの繁昌だ。一時の仮住居でにぎにぎしく各自商店を張っているばかりでなく、出来合の露店商人の店もはなはだ多く、中にも飲食店が最も多い。人間には口がまず第一なのだ。そのほか床屋から下駄の歯入屋までも揃っていて、ここでは何一つ不自由というものもないらしい。爆破の音がしばしばすさまじく響く。工兵が焼けた大建築物の残骸を破壊しているのだ。

十月十日

(水)
 今日も用事があって丸の内へ行く。交通機関の回復が不十分なのと、電車のやっと開通している所でも相変らずの混雑などで、やっぱり自転車が間にあう。飯田町の焼け跡を通って、九段下、牛が淵へ来ると、道路に縄を張って往来をとめている。商大を爆破するためだという。転じて九段坂を上るとそれを見るべく用のなさそうな人々が、巡査に追っ払われながらも崖の端に群集している。多忙な自分もほかならぬ商大の最後を弔うべく、実はその群集の中の一人となったのだ。やがて赤褐色の入道雲とも見るべき濃煙が捲き上ると見ると、轟然たる爆声が地響きしてやって来る。二発また三発、赤煉瓦の残骸はあともなく崩されてしまった。商業教育最高の学府として、多年わが実業界幾多の俊秀を送り出したこの宏大なる建物も、今は見る影すらなくなってしまったのだ。感慨無量とはこんな時に用うる語であろうと思われた。

十月十七日

(水)
 十二日ごろから職人がやっと来だして、いよいよ修繕に取りかかった。差当りまず崩壊した土蔵の残りの土を除いて丸裸となし、鉄網を張ってコンクリートで塗り固めるという手っ取り早いところから着手する。十三日から瓦斯が通じ出した。炊事の方も便利になる。
 だんだん修繕の方法も立って来たので、出入りの棟梁に万事を一任して、午後三時五十分上野発の汽車で京都に行く。先日の東海道の徒歩連絡に懲りて、今度は再び九月西下のさいの道を択んだのだ。上野駅もともかく開かれた。乗客の混雑も前ほどのことはないので、予定では篠の井・名古屋の乗りかえで、明日の午後一時前には京都に着くべきはずであったが、相変らず駅ごとの昇降が手間取れる。午後十一時五十分篠の井発の名古屋行に連絡すべきはずのものが、午前一時ごろになってやっと同駅に着いた。今夜はいやでもここに一夜を明かさねばならぬ。満員の乗客は小さい田舎駅の待合室に漏れて、プラットホームや軒下にこの夜寒を露宿なのだ。自分は乗り合いの二人とやっと駅前の松屋とかいう旅宿を叩き起して泊めて貰った。三人で八畳間に合宿だ。隣室に旅芸人らしい夫婦者が泊っていて、いつまでもグタグタ話をしてなかなか寝つかれぬ。

十月十八日

(木)
 夜が明けてみると、さすがに山国の朝の気持はよい。まず顔を洗おうとすると、洗面所に水がない。おかみさんは平気なもので、そこにバケツがあるから井戸端へ行って洗ってくださいだ。これも震災のため余興の一つと、恭しく命に従うて用をたす。朝の一番で名古屋へ行き、夜の十時に京都に着いた。東京京都間、要するところ三十時間。

 そういつまでも震災気分になってはおれぬ。十一月十八日、二度目に東京へ帰ってみると、不在中に出来ているはずの修繕がいっこうはかどっておらず、相変らず避難場そのままの有様だが、それもこのさい我慢せねばならぬ。ともかく東海道線もこのほど全通して、御殿場以東の徐行に時間はかかるが便利になった。平塚在の松林中の露天学校はまだ続いていたが、それも久しいことではなかろう。バラック建ながら東京の表通りはたいてい家が建ち並んだ。復興の曙光も見えたというものだ。震災に関する自分の記録もこれまでだ。後の記念にもと見聞感想の日誌に漏れたところを少々書きとめて、この「後記」を終ることにする。

★山一つで感情の相違

 碓氷峠は本州中部と関東との間にあって、ここの山一つで古来風俗・民情その他に著しい異同のあることは、今さら取り立てていうまでもないことだが、今度の震災についてもその感じのうえに相違が著しく現われているようだ。群馬県も地震の被害はひどくなかったが、しかも震災気分は著しく濃厚で、例の鮮人虐殺事件のごとき不祥事も少からず演ぜられた。しかるに足一とび[#「足一とび」はママ]長野県に入れば、よほど気分がゆったりしているようだ。これは九月二十日西下のさいにも何がなしに感じたことであったが、十月再度の西下のさいに篠の井駅で長野の新聞を買ってみると、このほど知事さんが某所で松茸狩を催された時に、そこの郡長殿大いに忠勤を抽んでて、見付かりさうな所に松茸を沢山植え付けておいたところが、ついそのカラクリが暴露したという愛嬌談を、さも事面白く書いてあった。こんなことはまだ関東では見られぬ気分だ。いやしくも大国民をもって任ずるほどのものは、これっパカリの被害にそういつまでも気を腐らして、くよくよしていてはならぬのであろう。

★家が潰れたとて閉口したとは贅沢だ

 すんだことは仕方がない。一時は他事ならず同情の涙を注いでみたものも、そういつまでもそんなことに拘わっておられぬというところに、大国民の大国民たるところがあるのかは知らぬが、実際かの惨状を体験したものには、なかなかそんなゆっくりした気分になれぬものらしい。これは十月七日帰京のさいの汽車中での見聞だ。徒歩連絡から馬入川の仮駅で乗りかえての二等室内で、ハイカラ紳士が二人シンミリと例の震災の話をしている。一人が眉をひそめて自宅の崩壊に閉口しきったことを述べていると、一人がいかにもそれに同情した様子を顔にあらわして応酬する。その表情と態度とが何となく気障きざに見えたという点にも憤慨したらしかったが、傍でだまって聴いていた中年の男、いくらかやけ酒の勢いも手伝ったものか、突然怒鳴り出した。
「何だ! 家が潰れて閉口したと! 贅沢なことを言うな。家が潰れたなら掘り出したらいいじゃないか。俺達は家も、家財も人間までも焼いておるわい」。
 これにはさすがのハイカラ紳士も、自分の家が潰れた以上に閉口したと見えて、本当に口を閉じてしまった。
 いったん吐き出した気焔は対手の沈黙によってもなかなか止まぬ。
「家が何だ! 家財が何だ! 大切なのは人間だ。俺達はその人間までも焼いておるのだ。家財が惜しさに助かるべき生命を失った奴らは大馬鹿だ。俺はいったん持ち出した物も皆捨ててしまって助かったのだ。それに何だ! 大切そうに荷物を座席の上に置いて、大切な人間を立たして置いて、ひとりでノサバッている奴らがこんな込み合いの汽車の中にもいるじゃないか」。
 鋭鋒が違った方面に向って行った。睨まれた人はソット荷物を膝の上に置いた。この人の言うことは正しい。しかしこの人は、焼けたり潰れたりした家は皆他人の物だと予定しているらしくも思われた。

★三等の客は三等室へ、大小便は便所へ

 これも同じ時のことだ。馬入川で乗りかえた車室はその以前のに比べるとややゆっくりしていたが、それでも通路には往来出来ぬほどに人が立っている。
 車窓から車掌が大声で、「三等の御客は三等室へお乗り下さい」と警告して歩行く。震災後三十八日目の今日、なおこの警告が必要なのだ。それも無理はない。震災後は世の中の秩序が紊れてしまって、汽車の窓の外からブラ下ったり、屋根の上に乗ったりしてもそれをどうすることも出来なかったのだ。むろん二等、三等の区別などはない、たまに青切符の権利をでも主張しそうな態度を見せようものなら、それこそ大変だった。「何だ! 二等客だと思って威張るない。こんなさいに二等も三等もあるものか。俺等おいらは焼き出されだ。二等の賃金を払う余裕があるなら罹災者に義捐しろ」と怒鳴りつけられたものだ。その気分は容易に除かれぬ。
 東京へ帰って第一に目についたのは、電車や交番などに貼り出された宣伝ビラだ。「大小便は便所へ、塵芥は塵箱へ、汚水は溝へ」ということが麗々しく書かれているではないか。帝都は焼野の原となり、都人はそれを荒野の原ぐらいの気分になっているのだ。帝都の復興はまずこのすさんだ気分から始めねばならぬのであろう。

★真の天国はたった七日間だった

 これも十月七日帰京のさいの乗り合いの罹災者の話。
 焼き出されてから取りあえず救護所へ収容せられて、同じ境遇の数家族同居、財産としては身につけている衣類ばかりで、まだ将来の方針も立たず、縁者の行衛を尋ねてみるほかは何をなすということもなく、毎日一同ゴロゴロしていて、同一の配給食糧に生活しつつ空しく一週間ばかりを過ごした時のことであった。この間には全く人間の間に階級も差別もあったものではない。これまで見ず知らずの人が互いに懇意になって、もと金持だったものも、その日暮らしの生活をしていたものも、学者も、労働者も、強壮なものも、虚弱なものも、貴も、賤も、老も、幼も、少しも隔てというものがなく、互いに同情しあったうるわしい交際をしたものであった。理想的の天国というものはまさにこれだなと思った。
 ところがそのうちのあるものは親族に引き取られる。懇意な先を見付けて引き移る。そこに取り残されたものの悲哀が生ぜざるを得ぬ。衣服の配給がある。そこに少しでも良い物を取ろうとしての暗闘が始まる。仲間のあるものに土産を持った訪問者がある。他のものはたちまちそれを羨み妬むの念を生ぜざるを得ぬ。人間の浅間しい根性は、かくのごとくにしてだんだんと現われて来るのである。かくのごとくにして真の天国は、いつのまにかなくなってしまう。人間が真に貴賤貧富の差別を撤して、その平等なる生活を楽しもうとするには、どうしても原始未開の時代に戻って何人なんぴともいっさい財産を持たぬことになり、労せずしてどこからか均一な衣食の料の供給を受け、智者も賢者も勤勉者もその智と賢と勤勉とを用うるの余地をいっさいないものとなし、すべての人が遊んで暮らして、物好きに働くものがあったとしても、その働きが何ら報酬を齎らさぬものであらねばならぬ。しかして自分は災後一週間、まさにそれを体験したのであった。云々。
 この人は社会主義の研究をしてみたらしくもない人であったが、しかもその体験から得た右の感想は、取ってもって大いに参考とすべきものであらねばならぬ。

★広告のいろいろ

 震火災に関係して新聞にあらわれた広告にもいろいろ注意すべきものがある。上野の寛永寺、浅草の浅草寺、芝の増上寺の三大寺は、どうしたことか連名で焼けなかったと広告した。焼けなかったという広告は、死ななかったという広告と同様で、平素ならば誠に珍妙な次第であるが、これもこのさいのこととて、他を安心せしむるための時宜に適したゆえんであろう。しかしその焼けなかったのはただの焼けなかったのではなくて、宮城とともに焼けなかったのだという。実はそのほかにも巣鴨、市ヶ谷の刑務所や、そんじょそこらの暴利屋などにも焼けなかったのが多いのだ。しかしそれらとともに焼けなかったとは書いてなかった。
 自殺や人殺しにしばしば利用せられる猫いらずの本舗は反対に類焼の厄に罹ったことを広告した。しかしそれもただの類焼ではなくて、隣家某の出火に類焼したとの説明つきなのだ。これは平素の火事にもあまり見かけぬ広告ながら、ともかく飛んだお相伴でお気の毒な次第と御同情する。よしや地震で焼けたにしても火元は火元で、類焼は互いに類焼に相違ないのだ。がしかし、こう露骨に出られてみると、打った人よりも直接打った手の方が憎く、猫いらずを飲ました人よりも、直接人を殺した猫いらずの方が憎いのではないかと考えさせられる。いな、さらにその猫いらずを売り出した人の方が憎いという人があるかも知れぬ。

★ただで一つおくれ

 自分の宅の隣にIという小さい古道具屋がある。その主人いう。「今日も金槌を買いに来たものがあった。罹災者らしいので値段を安く言ってあげたところが、その人の曰くに、なるほど安いには安いが、実は俺は罹災者で金がないのだ、こんなにたくさんあるじゃないか、一つただでくれてよかろうという挨拶です。これは商売品ですから、ただ差上げる訳には行きませんと下手したてに出ると、君の所は焼けなかったじゃないかと言う見幕で、とても安心して商売も出来ません」というのだ。大阪から雑貨を持って商いに来た人があって、道のはたに品物を広げるとたちまちに売れてしまったが、金を払わないで行った人が随分多かったという話も聞いた。
 九月三日の震災日誌に書いて置いたN医学士、震災当日箱根へ往診に行っておられた間に、留守宅は潰れたうえに焼けてしまって、近所のW氏方へ避難しておられる。それが十四日(十月)に宅へ見えての話の中に、近ごろ方々でよく物がなくなる。人が見ているところでもかまわず持って行くものがあって嶮呑でならぬと言われた。
 前号の余白録に書いておいた貧民と罹災民との区別を論じた人の意見のように、実際災厄を免れたものは二枚の着物を一枚脱いで罹災者に与うべきものだとの思想を持っているものもないではなかろう。またそれをよいことにし横着をきめこむものもないではなかろう。これからだんだん寒くなって、夜具も着物も碌に手に入らず、仕事はなし、あってもするのは嫌なりという連中が寒さに慄えるようになった時のことが案ぜられる。ことに彼らは群集しているのだ。

★罹災者の幸不幸

 震災が生んだ不幸は今さら言うまでもないが、震災によって思わぬ幸福を得たものも、ずいぶん多いことであろう。昔は江戸の大火に材木を買いしめて大身代を起した紀国屋文左衛門という不都合な奴があった。今でなら暴利取締令によって、刑務所へ送られたのであったかも知れぬ。
 しかしそれらは災を免れた方の側のことだが、同じ罹災者の中にも幸不幸の相違がかなり著しいものがあるに相違ない。死んだり怪俄したりしたものは別だ。生き残った人々の中で一番気の毒なのは、財産で徒食して労働にも慣れない人々が一朝にして全財産を失った場合だ。他人の地面を借りて貸家を建て、家賃で生活していた人々のごとき、このうちの最なるものであろう。しかしそれに対して世間の同情が比較的薄いようだ。これは家主にかなり横着なものが多いので、たまに敬慕すべき立派な行いの人があっても、やはり同じ仲間に見做されてしまうのだ。これに反して他人の家を借りて住んでいたものが、その家が焼けたり潰れたりした場合には、よしや損害を受くべきほどの財産の持ち合せがなかったほどのものであっても、やはり全焼全潰の罹災者として世間の同情に均霑しているのである。そしてその財産のほとんど全部を失ったほどの家主の方は、時としては善い気味だくらいに冷淡に見られて、敷金は容赦なく取り返される、滞納した家賃は帳消しになる、保険金は取れそうにもなく、そのうえそれが借地ででもあった場合においては、その焼け跡へ借家人が勝手に普請をしてもとの家主は全然除け物にされてしまう。それに対して法律の保護を求めようとしても、「このさいのことだ」として世間は借家人の方に同情して没義道扱いにされてしまう。まるで踏まれたり蹴られたりとはこのことだと愚痴っている人もあった。
 安政の地震後には震災による幸不幸を対照絵解きした一枚摺がいくらも出た。中には地震を謳歌してこんな事ならいつでもよいなどと言う不埒ものもある。そして今度の震災についても、またそれに類したものが少くないことを実見する。
 自分の損害は茶碗を三つばかり割ったのみだと言うある勤め人、家主から九月分の家賃を半減されて、そのうえ宅では数日間家族の数に応じて食物の配給を受け、勤め先では毎日諸方から来る見舞品の分配に預っていた。
 罹災者でもないものが罹災者顔して慰問品を貰ったり、配給品の面倒を見てその上前をはねたがために、問題を惹き起した浅間しい人もある。世の中はさまざまだ。

★暴利征伐

 他人の災害をよいことにして不当に商品を値上げし、この機会に暴利を貪ろうとする奸商の少からぬのは憎んでもなお余りあることだ。地震とともに電気の供給が絶えたので、一日の夕方近所のWという油屋へ石油買いにやったところが、たちまち二倍以上に値上げして一升一円の割で売っておった。あまりに高いので、今一軒の店で買わしたところが、そこでは一升五十銭の割合だった。
 これも遠からぬ所のある八百屋では、さっそく芋一貫目一円、茄子三個十銭に値上げしておった。後に新聞の報ずるところによると、近所の某親方がそれを憤慨して、茄子十七個十銭で売り出したので、その家でもたちまち十二個十銭に値下げしたが、平素の得意先から不買同盟の制裁を受けたという。
 右は自分が直接体験した二個の事実に過ぎないが、かかる徒輩のわが市民中に少からぬのは浅間しいことだ。政府もこれに鑑みてさっそく暴利取締令を発布し、警視庁から特に各警察署に訓示するところがあったと見えて、秩序もやや立って来た十一月に、自分の近所では巡査が一々売値段を調べて廻ったものだ。人民保護のお役目まことに感謝に値する次第ではあるが、さてその取締方がきわめて徹底的なものだった。自分の宅の前で梨子売の婦人が一個七銭三個二十銭で売っていた。いくぶん高いかとは思いながらも、このさいのことではあり、自分の宅でも別に不満足にも思わず買ったのであったが、取締りの警官はそれが高いとあって、その婦人を打擲して商品を踏みにじった。その婦人は泣く泣くさっそく店をしまって帰った。隣の米屋で川越藷一貫目六十銭で売っていた。公設市場よりも十銭安だそうだ。ところがそれも高いとあって怒鳴りつけられた。一貫目ずついく山にも盛り分けてあったのを、試みに一と山秤らされたところがあいにく二十目不足した。多数を扱うこととてつい一個他へ転がったのかも知れぬから、他のものをも秤ってみたいと哀願したが聞き入れなく、打つ、蹴る、なぐるの大乱暴で、それを仲裁せんとした傍人までも同じ憂き目の大相伴を免れなかった。その米屋も、仲裁者も、ともに在郷軍人として、一日以来町内の事に尽瘁している篤志の人々なのだ。傍観者のすべてがことごとくその警官に対して反感を起した。袋叩きにしてやれと言うのもあった。盗賊放火に対してのみならず、警官の乱暴に対して自警団の組織が必要だとまで絶叫したものもあった。混乱のさいにはこのくらいでなければ間に合わなかったのかも知れぬ。江戸時代の同心・目あかしなどの警吏は随分乱暴な制裁を加えたものだ。

★山県公と大隈侯

 自分の宅の前にある護国寺の墓地には、近ごろ名士の墳墓が多い。中にも山県公と大隈侯のとは最も人目をひいている。ところで今回の大震だ。多数の墓標が枕を並べて倒れた中にも、大隈侯のは最もはなはだしく、燈籠・玉垣に至るまで、満足に遺ったものはほとんどない。しかるに山県公のはほとんど被害なしというほどで、ただ夫人のがいくぶん公の方へ向き直ったくらいに過ぎなかった。ある皮肉屋の曰く、山県公はあれで誠心誠意国を思うの人であったが、大隈侯のは大風呂敷が勝っていた。それがここに現われたのだと。今度の震災をもって天譴だというのと同じ筆法だ。

★奇蹟と奇遇

 自分の宅の近所に石屋がある。石屋の前には例の通り石材を多く積み重ねてあったが、その中に御影の石柱材を二本並べて立ててあったのが、第一震で道路の方へ放線状に倒れた。ちょうどその時だ、荷を担いで通っておった豆腐屋がその放線状に倒れた二本の石柱の間に夾まれてカスリ疵一つ負わず、天秤棒にかかったままの二つの豆腐桶は、倒れた二本の柱のために無残にも潰されてしまった。この人が平素護国寺の観音様の信仰者であったなら、さっそく観音霊験記に載るところだ。

★焼野の原に一軒残った木造家屋

 自分の妻の叔母聟が深川区富川町で油や硫酸などの商会を経営していた。むろん深川本所丸焼のお仲間に外れず、住宅その他はことごとく焼かれてしまって、家族は着のみ着のままでわずかに生命を完うし、それも四日になって一同無事なことが判ったほどであったが、自宅はもとより四隣一戸も残らず焼失して、見渡す限り荒涼たる焼野の原となった中に、これはまたどうしたことか、ただ一棟、木造ペンキ塗り二階建の事務所のみが焼け残った。しかもそれは何ら消火の手段を講じたのではなかったのだ。こんなのを天佑というのであろう。
 今一つこの宅では、前もって類焼を慮って家材を荷車四台で引き出した。それがまだ安全地に行かぬうちに火足が思いのほかに早くまわり、逃げまどう人波に押されてその車は引き捨ててしまったのであった。むろんその場所は焼野となったので、車もろとも焼失したと覚悟していたのであったが、はからずも数日経ってその車の一つが遠く離れた場所で発見された。泥坊が引いて行って、目ぼしい品物だけを取って置き去りにしたのだ。お蔭で差し当りの着物にも間にあうものが少くない。全くもってお泥坊さまさまだ。

★期せずして一族の会合

 前豊山中学校長で、久しく自分ら仲間の日本歴史地理学会の幹事をつとめておられた宮崎栄雅君、今は佐渡の大きなお寺に御前様ごぜんさまとして納まっておられるが、この暑中休みのころから同君の夫人は長女の栄子さんと、母御と、それに大阪なる兄さんの娘さんと、婦人連四人で東京へ来ておられた。そのさいにこの大地震だ。仮寓のあった京橋方面はむろん焼けている。一同無事であったか、どこへ避難せられたかなどと、学会事務所詰の幹事大森〔(金五郎)〕君と噂しあっていたが、さてそれを探ねて見る便りもない、案じているうちに五日の朝となって突然夫人が事務所へ見えた。そこへ大阪の兄さんが母御や娘さんの身を案じて大阪から出て見えた。それとほとんど同時に栄雅君も、はるばる佐渡から出て来られて、まことに申し合せたような奇遇に一同の無事を祝しあったことであった。めでたしめでたし。





底本:「喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌」平凡社
   1982(昭和57)年11月25日初版第1刷発行
初出:「社会史研究 第一〇巻第四号」
   1923(大正12)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※〔 〕内は、底本編者による加筆です。
入力:しだひろし
校正:富田晶子
2020年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「金+惠」、U+93F8    271-上-13


●図書カード