震災日誌

喜田貞吉




 大正十二年九月一日関東地方に起った大地震は、未曾有の大災害を東京・横浜その他の都邑に及ぼした。いずれこの大変事については、新聞・雑誌が争うて精しい報道に努めるであろうし、また纏まった書物も後には少からず発行されることであろうから、一般のことはすべてこれを省略して、ただ自分が直接見聞関知したことのみを、今日から筆に任せて書きとめておこうと思う。
 九月一日夜、炎煙東京の半ばを蔽うの時、瓦落ち壁崩れた小石川東青柳町の宅にて。

●土塵濛々

 九月一日(土)震災第一日。『社会史研究』九月号の校正は一昨日をもって終え、十月号の編輯に着手したのは昨日の午後であった。「蝦夷の宝器鍬先の考」の一編はすでに出来ている。「伊勢人考」も旧稿を捻ねくって間に合わすこととして、いま一編短いものをと昨夕方から書斎に籠って、ほとんど夜を徹して寝床の中で、「紀伊に特有の何楠といふ人名」という小編を書き上げたのは朝の四時ごろであった。それからヤット眠りについて、九時ごろに起き出て、枕頭には例によって多くの参考書やら、寄稿家諸氏からお預りの原稿やらを、すべて開けっぱなしのままに、また寝床も延べっぱなしのままに、朝食後隣家の歯科医M君をお訪ねした。
 階上で同君と雑談に耽っていると、突然あの急激な地震に襲われたのだ。ここでちょっと断っておくが、同君のお宅は最近自分の監督のもとに新築したもので、この工事については自分はかねて東京の地震の多いのに顧慮し、職人らに笑われながらも柱間にうるさいほど筋交すじかいを入れさせたり、基礎工事に鉄筋を入れさせたりしたものであった。したがって倒壊するようなことなどは万々ないと信じている。しばらくM君と顔を見合わしていたが、揺れ方があまりに烈しく、なかなか止みそうにもない。屋根瓦が崩れ落ちる音、窓硝子の壊れ落ちる音が一時に四方に起る。たよりない自信はたちまち裏切られ、恐怖心に促されて前通りの工事中の電車道へ飛び出した。隣家の誰れ彼れ、皆一様に飛び出している。が、家族は一人も出ていない。道路から少し奥まった住宅の方を望むと、煙が濛々と高く立ち昇っている。さては火事かと突嗟のさいに思ってみたが、そう早く火のまわるはずがない。ともかく変事があったに相違ない、家族の安否いかんと、まだ揺り返しに踏む足もフラフラしながら屋内に飛び込んでみると、妻と次男以下の三子とは、書庫にしている石蔵の隅に、小さくなって固まっている。長男はおりから他出中なのだ。石蔵の中の本箱・箪笥・書棚、一つとして満足に立っているものとてはない。書斎は先年新築のこの石蔵と、古い土蔵との間の空地を利用して設けたものだが、ここに延べっぱなしにして置いた蒲団の上には、雑誌類をギッシリ詰め込んだ書棚が俯伏しに倒れて、その上へ古い土蔵の壁が崩れ落ちて、書き上げたままの原稿や、開けたままの多数の参考書や、その他の雑品とともにことごとく土中に埋没している。強い揺り返しは相変らずやって来る。建物の中にいては危険の虞れがないでもないと、一同を促して屋外へ出てみて始めて気がついた。母家の屋根の瓦はほとんど全部崩れ落ちて、中庭や軒先にうず高く積もっている。古い土蔵の屋根や壁は大抵全部崩れ落ちてほとんど丸裸になっている。その厚い土塊が庇に設けた物置の屋根を押し潰している。先刻濛々と立ち昇る煙と見たのはこれらの崩壊のさいの土塵であったのだ。開けっぱなしの各室内へ容赦なく舞い込んで、畳の上が土足のままでなければ歩かれぬ。
 一と巡り家屋の被害を調べてみる。まず母屋の方は屋根瓦が全部振り落されたのみで、壁も落ちていねば、柱に一分の狂いも来ておらぬ。十六年前新築のさいに、これも大工らに笑われながら、地形ちぎょう固めに念を入れたり、柱や梁や桁の間を筋交すじかいで綴じ合わしたりしておいたためなのだ。それでいて屋根瓦が全部崩れ落ちたのは、雨水の走りのよいようにと幾分勾配を急にしてあったのと、子供らがよく屋上を運動場にして、瓦の落ちつきを踏みゆるめてあったのと、いま一つは建物全体が一つに綴じ固められて震動の際にゆとりがなかったためかと思われる。
 母屋に取りつけた庇や、便所や、玄関などには幾分の狂いが出来て、開き戸が開かなくなったり、雨戸が締りにくくなっている所がある。この部分の基礎工事が悪かったお蔭だ。裏座敷は一昨年改修して、基礎工事も丈夫になったし、第一屋根を亜鉛引鉄板で葺いてあるので、少々壁が落ちたり、本棚から書物が投げ出されたりしたくらいでほとんど損害はない。台所の入口に設けたタンクは、煉瓦で積み上げた台の一部が壊れて戸袋によりかかり、雨戸が引き出せなくなった。水道は瓦斯や電気・電話などとともに、第一次の激震で皆一様に止まってしまった。
 湯殿にも多少の損傷があるがたいしたことはない。石蔵も内部の物品は遺憾なく投げ出されたが、まず無事だ。概していえば被害は少い方で、中にも母屋と裏座敷とに少しの狂いの来ておらぬのは、最も人意を強うするに足る。ことに母屋の方は瓦が全部落ちて大いに軽くなっているはずだ。このうえよしや第一回以上の激震が来ても、ここにさえおれば安全だ、決して逃げ出す必要はないと、よくよく家族のものに言い含めたことであった。
 もともと自分の住宅は、これも自分で親しく監督して明治四十年に新築したものだ。東京中の家が七割まで倒れるほどの地震でなければ、この家は倒れぬとの自信を持っていたものだ。しかし火事の場合には何とも仕方がない。在来の古土蔵が一つあるけれども、それは正可まさかの時に保証は出来ぬ。そこで新たに書庫として石蔵を造った。これならば火災のさいに一番安全だとは、平素家族の者に教えておいたところであった。そのことが家族らの頭に深く染みついていたので、突嗟のさいに一同相率いて飛び込んだのであった。地震と火事とを取り違え、人間と物品とを取り違えたのだ。それにしても内部のほとんどすべてが投げ出されて、算を乱して倒れた箪笥や書棚に打たれもせず、一同無事だったのは全く天佑といわねばならぬ。
 ただ一つ古土蔵のみは飛んだ厄介物だった。その馬鹿に厚い壁や屋根が遠慮なく壊れ落ちたがために、それを囲んで造った座敷や物置に飛んでもない損害を及ぼした。箪笥は倒れる、棚の物は投げ出される。内部の四壁に沿うて所狭きまで積み重ねた品々は、それこそ玩具箱を打ちあけたようにメチャメチャに蒔き散らされている。
 怪我人が俥で隣の天龍堂医院へかけつけた。しかし薬局も診察室もメチャメチャで、器械や薬品が散乱して足踏みもならぬらしい。そのうえしばしば酷い揺り返しが来るので屋内に入ることが出来ぬ。やむなく路傍で応急の手当をして返したらしかった。

●地震よりも恐ろしい火事

 屋上に設けた涼み台兼物干場へ上って見る。かなたこなたにはやくも煙が揚がっている。なかなか十ヵ所や二十ヵ所ではないらしい。地震につきものの火事なのだ。消防の自動車がけたたましく走っている。しかし今日の消防法では唯一のたよりなるべき水道は疾くに止まっているのだ。どうなることであろう。西の方のは早稲田方面だ。南に近く見えるのは桜木町だという。桜木町には故小林〔(庄次郎)〕文学士の遺族がいる。小林君は自分の郷里の出身で、久しく自分ら仲間の経営の日本歴史地理学会の幹事として、会務に尽力してくれた人だった。宅の方はさしあたりこのままでよい。一応様子を見て来ようと、まだ昼飯も喰っておらぬことを忘れて出かける。音羽の通りには潰れ家もかなたこなた見える。一丁目の大きな瀬戸物屋も無残に潰れている。瓦が落ちたり、柱がゆがんだりしたのは無数だ。倒れ家に打たれてか、死んだようになっている血だらけの婦人を荷車に積んで、その夫らしい人が引いて来るのもある。桜木町はすでに大部分焼けつくして、音羽九丁目の東側にうつり、裏通りを盛んになめている。南東の風で火先は自宅の方向に向っている。小林君の宅はと見れば、すでに棟が焼け落ちて道路に面した壁が残っているばかり。しかし仕合せにも江戸川が水を供給して、警官や消防夫は盛んに活動している。平素の火事場のように弥次馬らしいものの一人もいぬのは邪魔にならなくてよいが、かく各自自分の家の被害にのみ没頭している中に、この人達はいかに職掌柄とはいえ、自己を顧る余裕もなく、かく忠実にその業にいそしんでいるのだ。
 東に峙つあの広い久世山の台地は、近ごろ箱根土地会社の経営として、石垣を築いたり、道を拓いたりして、邸宅としての顧客を待っている。そこが差当り恰好の避難所となって、地震で逐い出された人達が群集している。焼き出されの人達の家財も多くはここに運ばれている。小林君のお宅では、おりから未亡人は三越の勤めに行って不在、子息は五中の始業式に行ってこれもまだ帰らず、全家戸を締めての留守であったが、懇意な何とかいうお医者様が逸早く駆け付けて、警官や近所の人達と協力してくれたということで、家財はすでに大分持ち出されている。留守であったということがかえって同情を引いたのであったかも知れぬ。しかし今はそこにそれを守る何人もおらず、他家の物品とゴッチャになっているので、手のつけてみようもなく、暫時誰か帰って来るかと待っておったが一向見えぬ。そのうちに隣町にいる親戚の方の女中さんが見舞に来たので、自分は引き揚げた。
 久世山の上へ登ってみると、眼下に見える音羽の火事は幾分下火になっている。水道の水はなくとも近く江戸川の水があるので、消防の効果も多い訳だ。高台上の空地には毛布や茣蓙を敷き込んで、ゆっくり握り飯を喰っているような避難民もあるが、多数の群集はただ茫然としている。あれは神田方面だ、あれは番町方面だ、本郷だ、下谷だ、浅草だ、日本橋だ、いや近く区内で諏訪町が盛んに焼けているなどと、立ち昇る煙を指さして噂とりどりだ。これではいかに市の完備したはずの消防でも、とても応接にいとまはあるまい。そのうえ水道が断えているのだもの。燃え草のあらん限り燃えるようになるかも知れぬ。地震よりもそれから起る火事の方が恐ろしい。
 久堅町に甥がいる。手を抜いた安普請の貸家なので、心配になってさっそく次男を見舞にやる。電車が通わぬので自転車でかけつけさせたが、これは案外にも少々壁が損じたばかりで、瓦一枚落ちておらぬそうだ。煉瓦塀が倒れたり、瓦の落ちたのはザラにあるが、大体このあたりは高台なので、地盤が堅いためか被害が少い。
 立ち昇る煙は時の経つとともにますます盛んだ。東南の空には例えば打ち綿を積み上げたとでも言うような、煙ともつかず、雲ともつかぬ真白のものが、高く立ち昇って天に沖している。まるで桜島噴火のさいの写真を見るようだ。ある人はどこか近くに火山が出来たのではないかという。ある人は大学か造兵(兵器本廠)かの火事で薬品が焼けたのだろうなどともいう。何にしても恐ろしいことだ。
 夕方になってから昼飯兼帯の夕飯をすます。相変らず揺り返しが繰り返される。誰言うとなく夜半には大きな奴が来るとの風説が宣伝される。電気は消えて真ッ暗の街路に、雨戸や障子を持ち出して誰も彼もが露宿の準備をしている。南から東へかけて火事はますますひどいらしく、夜の雲に映って見渡す限り空は真ッ赤だ。大学が丸焼けだという。一高にも火がついたという。順天堂病院も焼けたという。造兵の火がはや伝通院あたりまで来たという。本所・深川方面は火事と津浪とで全滅じゃそうなという。神田も、日本橋も、京橋も、芝も、浅草も、下谷もすべて焼けているという。はては宮城にも火が移ったという。噂は噂を生んで何が何やら少しもわからぬが、何にしても大変なことだ。深川には親戚がある。本所にも妻の妹が幼児を連れてまだ逗留しているはずだ。伝通院前には西川君(龍治、文部省図書事務官)のお宅がある。おりから同君は令息の病気保養の転地について、鎌倉へ行っておられるとのことである。定めて留守宅では困っておられるであろう。またそこまで火が来たとすれば、久堅町の甥の宅だとて油断がならぬ。本郷・神田方面の友人の上も心配だ。とても安閑としている気にはなれぬが、さてこの瓦や壁土まで落ちてしまった母屋や土蔵などの屋根を差当りどうするであろう。
 天気模様は悪しくなって来た。火事のあとにはきっと雨が降ると誰かがいう。
 富士見坂を上ってみると、大塚仲町停留場の附近の板塀に、早くも新聞社の掲示が張り出されている。丸の内の内外ビルディングが潰れて男女二百余人下敷になったとか、博文館の印刷工場が倒れて職工七十余人が死んだとか、警視庁や帝劇が丸焼けになったとか、横浜方面は一層の惨劇だとか、恐ろしいことの限りが報道されている。電車道には、停電で乗り捨てられた電車が幾台も止まっていて、時にとっての恰好の避難所となり、どれもこれも満員だ。電車道は一面に両側の住民で埋められている。中には荷物を持ち出したり、炊事道具まで持ち出している人がある。

●夜中の情況視察

 出入の大工が来てくれた。ともかく母屋と土蔵と書斎との屋根だけは、ある限りの敷物をはがしたり、古茣蓙を集めたりして、応急の雨漏りだけは防ぐの準備が出来た。これでまず一安心だ。情況視察かたがた懇意な人々の見舞にと軽装して出かけた。まず第一に留守宅を焼かれた小林君はどうなったろうと、桜木町へ行ってみる。火事は仕合せに消し止められて、せいぜい三十戸ばかりを焼いたに過ぎなかった。焼け跡には恨めしげに立っている人達もかれこれ見えるが、さて小林君の家族はおらぬ。小日向台町の同君の親戚を尋ねてみると、未亡人は三越から徒歩でかなたこなたと火先を避けつつ帰られたが、学校へ出たままの子息の行衛が不明なので、心配して四谷へ縁付いた姉さんの所へ尋ねて行かれたという。無事に避難していてくれればよいが。
 転じて久堅町の甥の宅を訪うてみる。なるほど家屋に被害は少く、伝通院附近まで焼けているとの噂も真赤な嘘らしく、さしあたり類焼の虞れがありそうにもない。しかし今朝出たままの甥は、夜になってもまだ帰っておらぬ。甥は日本橋の富士紡会社に勤めているのだ。そしてそのあたりはとくに焼けてしまっているはずだ。間違いがあったのではないかと気にかかるが、今のところ何とも致し方がない。
 伝通院前に西川〔(龍治)〕君の宅を訪うてみた。この方面の火事の噂は果して嘘で、造兵の火ももう焼くだけは焼いてほぼ鎮まっているらしい。そして留守だと聞いた同君は夫人とともに椅子を並べて、門前に避難しておられる。鎌倉から用事があってちょっと帰ったところがこの騒ぎだという。鎌倉のことが気にかかるが、汽車が不通で行くことは出来ず、電話も電信も通ぜねば、いっさい様子がわからぬと言われる。
 富坂上から左に折れて表町に我が『社会史研究』発行者の古藤田〔(喜助)〕君を訪う。途中に清水を湛えた四斗桶をいくつも車に積んで、「飲み水の入用な方は薬鑵を持っていらっしゃい」と呼び歩いている特志者がある。その好意を謝しつつ水を貰っている老弱男女が本当に蝟集している。自分も一杯ありがたく頂戴して渇を医したことであった。東京市民は停電にも困ったが、さし当り断水に閉口しているのだ。ここでちょっと書きとめておきたいことがある。自分の邸にはもと井戸が二つあった。一つは浅くして水量が少い代りに澄んでいるが、一つは深くて湧水量が強い代りに濁水だ。先年その浅い方を埋めて、何かの時に役に立とうと深い方を残しておいた。それを一昨年加工してポンプを仕かけ、タンクを設け、消防用兼水まき用に造っておいたのが、この度いよいよ実用に供せられることになったのだ。水道の断水とともにさっそく濾過装置を設け、タンクからサイホン仕掛けで下へ垂れると同量の水を注入することにしたのだから、自働式に間断なく清澄な濾し水が出来ることとなった。自家用ばかりでなく近隣の家から貰い水に来るので、一つの濾し甕では供給が間に合わぬ。さらにいま一つの濾し桶を用意して、五戸の用水に不足がないようになった。水道はあってもやはり井戸は潰されぬ。
 古藤田君のお宅は仕合せにも壁が少々落ちたくらいの程度で、被害が少い。しかし両三日前に校了になった雑誌の九月号はまだ刷が出来上らぬうちに版が崩れてしまったに相違ない。印刷所たる秀英舎市ヶ谷工場の被害が気にかかる。区会議員たる古藤田君は臨時区会に招集されて不在だった。
 指ヶ谷町の停留場へ出る道筋には、被害がことに多く、右側には軒並に倒れ家が続いている。跡見女学校の附近にも倒れ家が多い。丸山福山町には荷物を満載した避難者の荷車がいくつも並んでいる。坂を上って本郷西片町へ出ると、ここはやはり台地の上とて案外に被害が少い。念のために高橋勝君(文部省図書局嘱託)を訪うてみると、同君は蚊帳の中で高いびきの態だ。ただし家族の方々は庭に毛布を敷いて露宿の準備をしておられる。東片町に藤井甚太郎君(日本歴史地理学会幹事)を訪うと、これもすでに門を鎖して何の音もしない。お隣の萩野〔(由之)〕先生を驚かすでもないとその御無事な外観を見ただけで失敬した。転じて本郷の通りへ出て、焼けたという一高へ行ってみると、これも噂ばかりで何のこともない。門内には避難者が群集している。様子を聞こうと門衛所の前へ行くと、「喜田先生ではありませんか」と声をかける生徒がいる。よく見るとこれは原〔(勝郎)〕博士(京大文学部長)の令息が警戒に立っておられるのだ。
 帝大の大部はすでに無残にも焼け落ちている。門衛に就いて聞くと、法文両学部は全滅で、図書館の書庫まで焼けてしまったという。何という情ないことであろう。ここには金で補いのつかぬ多くの書籍があったはずだのに。しかし史料編纂掛が無事だと聞いて、国史科のためには思わず万歳を唱えざるを得なかった。
 大学の前は避難者で一杯だ。その中を押しわけて本郷三丁目の十字路へ来てみると、角の長島雑貨店等二、三戸を残したほかは、本郷座の方へかけて見渡す限り一面の火だ。これではたとい水があったとて消防の手のまわるはずはない。猛火は容赦なくあらゆる物を焼いて、下谷・神田・浅草の方まで一つになっているのだという。湯島の和田英松君(史料編纂官)のお宅が気にかかるがとても寄りつかれそうもない。同君は自分ら仲間ではことに蔵書家として知られている人だ。浅草には黒川真道君や大槻如電翁がおられる。有名な書肆浅倉屋がある。その莫大な蔵書はどうなったことであろうと気にかかる。
 真砂町に引き返して、春日町の停留場へ来てみると、ここには早くもテント張の救護所が用意されている。行きにはさまでにも思わなかった電車道には、本郷の方から郡部に向って逃れる焼き出されの避難者がすでに陸続としている。荷物を背負うたもの、子供の手を引いたもの、老人を肩にかけたもの、脛もあらわの足袋跣足の妙齢の婦人、千差万別いずれを見ても気の毒なものばかりだ。
 小林君の子供は都合よく見付かったかと、帰りに再び寄ってみる。未亡人はすでに帰られて、親戚の家族や近所の人々とともに、小日向台町の少しばかりの空地の芝生に、戸板を出したり、毛布を敷いたりして、露宿しておられる。子供は五中の始業式が終った後に、果して四谷の姉の所へ遊びに行って、そこで地震に遭って帰られなくなっていたのだという。まずもってめでたい。
 宅へ帰ってみると、町内の人々は一様に電車線路や豊島岡御墓所の門前、護国寺の境内に露宿している。遠方の焼き出された人々が、荷物を持ち込んでここに避難しているのも少くない。宅の家族らも門前に出て寝もやらず、自分の帰りを待っている。宅は大丈夫だと強いて促して屋内に寝かせる。しかし群集心理は恐ろしいもので、年下の二人は好奇心も手伝って、どうしても露宿したいという。すなわちいくつかの屏風を持ち出し、毛布で上を被うて夜露を防ぐの設備をしてやる。
 相変らず東南へかけての空は真っ赤だ。避難者は夜を徹して富士見坂の方から雑司ヶ谷方面に向って続いている。

●放火の警戒

 九月二日(日)震災第二日。夜中もおりおり強い奴が繰り返し繰り返しやって来て、覚悟しながらも思わずたびたび飛び起きる。
 夜は明けたが火事は相変らず続いている。誰言うとはなく、この火事は震災のためばかりではなく、不逞の徒の所為だとの噂が伝わる。道の辻々には火の元注意の掲示とともに、放火警戒の宣伝ビラが貼り出される。はては○○の名をもって、「放火せんとする無頼の徒ありとの風聞あり、各自警戒を厳にし、検挙の為に積極的後援を望む」というような注意書までが見え出した。市民の興奮はその極に達した。誰が指揮するともなく各自棍棒・竹槍等を携帯して警固に出かける。むろん自分もその中の一人だ。中には短刀や抜身の槍などと物騒なものを持ち出す連中もある。道の辻々を警めて、一々通行人を誰何すいかする。どこでは爆弾携帯の壮漢が捕われたの、どこでは揮発油入の瓶を持っていた婦人が縛られたの、現に放火の現行犯が押えられるのを見て来たのと、誠らしい噂に人々が目を丸うする。牛乳配達者に気をつけよ、牛乳鑵の中へ揮発油を入れているかも知れぬ、在郷軍人の服を着ているからとて、避難者の風態をしているからとて、それで決して油断をするな、救護班の腕章をつけて誤魔化している不逞漢があるそうな、婦人小児だとて安心してはならぬ、と、およそ自分らの知人以外のものは、ひとまずもって放火犯人の連累と見て警戒せよというのだ。ことに自分らの東青柳町は、その背後に通称大塚の火薬庫なる兵器廠があるので、それを爆破すべく不逞の徒が念がけているという風説に、いっそう神経を鋭くさせられる。裏の空地を挾んだ火薬庫の崖の藪の中へ、怪しいものが入り込んだと誰かが言い出した。人々は手に手に獲物を提げて群集する。騎馬の憲兵が数騎右往左往に駆けまわる。その物騒なことったらない。正服、私服の巡査が二人、火事泥だか何の犯人だか知らぬが捕縄をかけた若者を引いて、裏通りを近所の大塚警察に連れて行く。それと見た群集はすぐにそれを放火の犯人にきめてしまって、棍棒を振うて途中で要撃しようとする。同じ通りを検束されて行く人が相踵ぐ。護国寺境内の杉林の中に、七、八人の一団を巡査が幾人かで保護している。どこからか玄米の握飯を持って来て、手づかみでそれを分配して、「僕らもそれを喰べているのだから君らもそれで辛抱し給え」となかなか親切だ。彼らもそれを感謝して、バラバラする奴を手づかみで頬ばっている。やがて警察へ連れて行かれる。気の早い連中はそれらをも直ちに不逞の徒としてしまって、用捨なく棍棒を振りまわそうとする。警察の門前はそれらの連中で包囲されている。それを保護して無事を得せしめる警官もなかなか骨の折れることだと思った。
 用心が悪いとあって自宅の裏門は昼の間から締切っておいた。それを夕方に烈しく叩くものがある。「喜田さんの宅へ○○が放火した」と大声に呼ぶものがある。おりから麦湯を沸かしていた妻が戸を開けに行こうとするうちに、早くも二、三十人の町内の衆が、それをも待たずに叩き破って闖入した。「ソレ火を持って屋根へ上った」「ソチラへ逃げた」「コチラへ逃げた」と、はては屋上から床下まで捜索するが誰もいない。よくよく事情を聞いてみると、炊事場の煙突から火の粉が揚ったのを誰かが見て駆け付けてくれたのがもとであった。
 実は昨日来瓦斯が止まったがために、飲料の湯を沸かすにも宅では一々薪を用いているので、あらかじめ水を用意して地震の時には消火せしめることにしておいたのだった。ところで夕方かなり強い奴がやって来たので、妻は規定通りにそれに水を打ちかけて消してしまったが、あとで見るとまだ多少湯がぬるい。さりとて今さら濡れた薪に点火するほどでもないので、妻はつい有り合した古新聞を集めて焼いたものだ。その火の粉がいくらか揚ったのを、神経過敏のさいのこととて、放火と見誤ったのであったことがわかった。時節がら不謹慎の至りと、お詫びをしたり労を謝したりして、壊れた門の戸を間に合せに叩きつけて、それでやっと安心の胸をなでおろした。
 記事が少し前に戻るが、昼間のうちに誰が言い出したものか、放火すべき家の前には白墨で記号がしるされてあるという噂があった。そう言われてみると自分の門前の電柱にも、白墨で丸が書いてある。隣のM君がさっそく雑巾で消してくれた。今朝来すべての人から繰り返された物騒極まる風説については、自分は最初から信じなかった。この白墨の記号についても、実は誰かが人騒がせにした悪戯ではないかとも疑ってみた。しかしあちらにもあった、こちらにもあったと聞かされては、いわゆる衆口金をとかすで、勢い半信半疑とならざるを得ぬ。自分の宅もかねて狙われていたのかと、危懼を抱いていたさいに、右の裏門打毀しの騒ぎがあったのだ。一時は本当のことかとビックリさせられたのであったが、その原因が判ってヤッと安心することが出来た。(追記。後に聞くところによれば、右の白墨の記号は清潔社の得意先の目じるしに施したものだという。疑心暗鬼を生ずるとはこのことだ。)
 夜になると警戒がいよいよ厳重だ。空を焦す大火の炎は相変らず続いている。町内の人々は昨夜と同様電車線路や護国寺前の広場に露宿している。電燈もない暗闇の道をしばしば騎兵の列が通る。道の辻々には銃剣を帯した兵士が固めている。午後に戒厳令が敷かれたのだ。昨夜からぞくぞくとして絶える間のない避難者の列は、夜になっても一向に減らぬ。富士見坂上から護国寺前まで、宅の前の通り二町余の間に五ヵ所の警固所が出来た。○○が五十人ばかり林町方面へ入り込んだから警戒せよといい継いで来る。警視庁から三十分間交通停止の命があったとの声が、順次伝わって来る。疲れ切った避難者も、警笛を鳴らして駆けて来る自動車も、いっせいに皆止められる。某署の刑事までが抑留せられて、おりから巡回の正服巡査に証明を求めているものもある。「私は急用があって署へ帰るものだがどうしてもここを通してくれません」というのだ。民衆警察の人達の前には、身分証明の警官手帳などは何の権威もない。「品物が何の証拠になる。盗んで来れば誰がでも持てる」という見幕だ。自転車上から赤筋の入った提燈を振りかざして、「ただいま松坂屋の火が本郷三丁目までやって来た、皆さん避難の用意をなさい」と触れながら駆けて来る人がある。それを聞いて気の早い人は、家財の取り纏めに取りかかる。婦人や小児を郡部の懇意な先へ避難さしたというのもある。すでにH博士の令息などは、久堅町から家財を纏めて護国寺前へ避難して来た。新聞の号外がぞくぞく電柱や板塀に張出される。いずれも恐ろしい記事の限りで、中には○○が二百人抜刀で某所へ切り込んだなどと麗々しく書いたのもある。流言蜚語しきりにいたるで、人心恟々、何が何だか少しもわからぬ。(追記。後になって判ったことだが、三十分間交通停止の命令も、本郷三丁目まで火事が来たとの警告も皆嘘であった。○○が抜刀で切り込んだなどというのは無論のことだ。)
 かくして終夜極端なる警戒を続けて、戦々兢々の間に不安の夜は明けた。
 この警戒について自分の宅の前で起ったところだけでも、珍妙な※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話がかなり多い。前に記した刑事の抑留などもその秀逸の一たるを失わぬが、そのほかの二、三を後の笑い草にまで書き留めておく。
 音羽の方からワイワイ泣きながら富士見坂の方へ行く十二、三歳の少女がある。「辻町へ帰るというのに竹槍を突きつけて私を殺そうとする」というのだ。可愛そうにその泣き声は、坂になるまで聞こえていた。
 隣の天龍堂医院へ証明書を貰いたいと頼んで来た学生がある。「本郷へ帰るのに道々の関門で喰い止められて危なくてとても通行が出来ません。携帯の鑵詰やサイダーの瓶を見ては爆薬ではないか、揮発油ではないかと、到るところで内カクシまで調べられるにはやり切れませぬ」と。それに対して天龍堂は、この人は自分の友人で、性質善良何らの懸念を要せぬとの証明書を与えた。その証明書に果してどれだけの効能があったか知らぬ。
 群馬県生れとかの学生で、誰何のさいに言語が明晰でないという理由で抑留されたものがある。本人自身も閉口してしまい、この先々とても無事に通行出来そうもないと覚悟して、右隣の○君の露宿に雑魚寝さして貰って、一夜を明かしたのもあった。
 通行人の中にも案外強いものがある。なにぶん相手が大勢で、しかも気が立っているという物騒千万なものなので、気の利いたものはきわめて柔順にその誰何に応じて、無事に通過することを念とするが、時には何を小癪なという態度を示して、ゆくりなくも悶着を起す場合も少くなかった。だいたい自分の参加している自警団は、他に比してすこぶる温和な方で、言葉使いも丁寧である。しかし前々すでに他の警固所で十分荒されて、興奮しきって来ているものにはそれが通じない。
「お身分は」
「在郷軍人だ。これを見て呉れ」
と勲章を指し示す。この態度が若い団員の血を沸かさせた。
「それが何だ」
「勲章だ」
「勲章が何だ」
「戦功によって天皇陛下から賜わったものだ」
「そんなものは泥坊して来ても附けることが出来る。この場合それが何になる」
 売言葉に買言葉でだんだん形勢が嶮悪になる。後の方から「生意気だ、やっつけてしまえ」の声がかかる。ヤット仲裁して無事に済んだが、一時はどうなることかとヒヤヒヤさせられた。しかもこれは一例たるに過ぎぬ。

●食糧の心配

 昨日はあまりの変災にのみ気を奪われ、夜遅くまでも情況の視察や友人の見舞にのみ奔走して、ついそこまでは気が付かなかったが、少し落ち付いて始めて心配になったのは食糧の問題だ。交通機関のすべてが杜絶した今日、それがいつ開通するともわからぬ今日、東京市民はたちまち兵糧攻めに逢いはせぬであろうか。差当り自宅はどうであろうと調べると、白米がわずか三升ばかりあるだけだ。さっそく米屋へ買いに行ってみると、自宅用三日分を残したのみで、昨夜玄米までも全部警察へ徴発されたという。なるほど西青柳町の小学校は避難所となって、すでに罹災者が収容されているのである。護国寺の境内にも多数の避難者が群集しているのである。このあたりの米屋に余裕の米のありそうなはずはない。三男を自転車で遠方の米屋へ走らして、やっと白米を二升ばかり、麦を三升ばかり手に入れることが出来た。これで六人の家族がまず四日ばかりは支えられる。さらに素麺・鑵詰・※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)パンなど、手当り次第に買い集めさせた。なおよく調べてみると、鶏の餌として買入れた白米の粉米が一斗ばかりある。先日埼玉県なる妻の実家から送ってくれたメリケン粉や馬鈴薯も少からずあることに気がついた。いよいよ困ればそれを喰ってでも当分飢餓に陥る気づかいはない。水も濾しさえすれば井戸の湧出量は豊富だ。蝋燭も多少の用意があるうえに、石油も二升ばかり買い入れて、久しく物置の隅にかしておいたランプが役に立った。これでまず差当り安心することが出来たというものだ。
 食糧や明りの用意が出来てみると、今度はお金が心配になって来る。手もとに百円近くの用意はあるが、工事中の職人の日当がまだ払ってない。取引きのある銀行は皆支払を停止している。先月分の俸給を京都から振替で送金したので、その他の分を併せて五百円だが、払出請求書を三十一日に出しておいたが、これもとても当分は手に入りそうもない。生憎の時には生憎なもので、家族の郵便貯金通帳五冊は、人の分を預っているのとともに、先月三十日に通帳検閲に提出して手もとにない。せっかく非常払戻しが行われてもそれを引き出すことが出来ぬ。あるいはその通帳も貯金局の原簿とともに焼けてしまって、永久引き出す道がなくなるのではないかとまで心配になる。ままよ、いよいよ行き詰ったならまた、その時のことだ。
 午後に久堅町の甥がやって来た。日本橋の勤め先が焼けたばかりではなく、押上工場が全焼したので、昨夜来炊き出しその他のことに没頭していたのだという。まずもって無事であったので安心した。川崎工場も大破したらしいので、これから行かねばならぬが交通機関がない、自転車を貸して貰いたいという。二つあるうちの一つを用立てる。

●待ち兼ねた横浜の消息

 九月三日(月)震災第三日。横浜から湘南一帯の地は東京よりも地震が強く、家屋の倒壊はなはだしくして、畏くも宮様方の御不祥事があったとか、松方〔(正義)〕老侯も薨去されたとか(追記。これは後に誤聞であったことが判った)、横浜市庁が崩壊して市長以下圧死が多いとか、裁判所が崩壊して公判中の判検事以下弁護士傍聴人までことごとく下敷となったとか、さらに引きつづき起った火事で横浜・鎌倉・小田原等は全滅したとか、平塚・厚木方面が最もはなはだしいとか、箱根や熱海は跡方もなくなったとか、恐ろしい報告が頻々として昨日来の新聞号外に見えている。横浜にも、鎌倉にも、その他にも懇意な人が少くない。箱根へは頼みつけのN医学士が三十一日に行かれたはずだ。それらの消息いかんと気が気でないが真相が明かでない。西川龍治君は昨日鎌倉へ行かれたが、むろん汽車はなく、自動車も利かぬという。留守宅を訪うてみても無事に着かれたかどうかすらわからない。しきりに気をもんでいると、ヒョッコリ小杉美二郎君が見えた。横浜のある会社に勤めておられたのが、万死に一生を得て夜通し徒歩して帰京されたのだったという。その談によると、横浜の家屋はたいてい倒壊して、同君の勤めていた会社もその数に漏れなかったが、同君は素早くテーブルの下に這い込んで微傷だも受けず、やっとのことで這い出した跡へさっそく火がまわって来たとのことであった。何という幸運なことであろう。それにしても同じ市役所に市史編纂に従事しておられる堀田〔(璋左右)〕文学士(日本歴史地理学会委員)や大野秀文君(鎌倉覚園寺住職)は無事であったか、同地に昨年堂々たる邸宅を構えられた深沢〔(※[#「金+惠」、U+93F8、258-上-17]吉)〕文学士(日本歴史地理学会前幹事)はどうであったろう。鎌倉は、小田原は、箱根はと、次から次へと人の上が案ぜられるが、通信は杜絶しているし、尋ねて行く訳にもならず、小杉君の実話にいっそう不安の念が増すばかりだが、さて何とも致し方がない。
 東京の火は三日朝になってもまだ止まぬ。いったん喰い止めていた下谷池の端が盛んに焼けているという。もし岩崎邸へ火が廻ろうものならば、せっかく残った本郷の残部も助かるまい。さては小石川の方面も助からぬと、危惧の念がまた増して来る。幸いに午後になって全市鎮火との報を得てやっと安心することが出来た。最初の出火以来約五十時間焼き続けたのだ。
 揺り返しは相変らずやって来る。人々は今夜も露宿の覚悟をしているものが多かったが、夕方から雨が降り出したのでいつとはなく屋内に引き揚げた。それでもなお入口の雨戸を明け放して端近に寝床を設け、いつでも飛び出す準備を怠らなかった。
 夜になって、前の通りを高崎聯隊・宇都宮聯隊の兵士の列が通過する。群馬・栃木の警官の応援隊が入り込む。これから帝都の治安も十分維持されることと、不安の念もようやく薄らいだ。しかし自警団の活動は相変らず続いている。

●嬉しき便り(一)

 九月四日(火)震災第四日。本所・深川全滅の報知はすでに震災第一日からしきりに伝えられた。中にも本所被服廠跡では、数万の人が一団となって焼死したという声さえ聞える。しかも大川の橋はことごとく焼け落ちて、とうてい通行も出来ないなどと、噂はとりどりで、同じ帝都の中にいながらも、虚実はさらに判明しなかったが、それがやっと今朝になってほぼわかった。実は去る二日の夜九時になって、遠く埼玉県なる妻の実家から、二十余里の道を自転車で妻の三番目の弟が見舞に来てくれたのだ。それで埼玉方面の被害の比較的少かったことが判って一と安心したものの、深川なる妻の叔母の一家族や、本所の親類へ来ているはずの妻の妹などの消息がいっさい不明なので、心配でならぬ。その夜はおそいので宅で一泊させて、三日の朝様子を見に行って貰ったが、日が暮れても帰って来ぬ。ところへ十時ごろにさらに妻のすぐの弟がこれも自転車で駆けつけて来てくれた。その談によると、王子から宅までの間に約五十回も、自警団のために車から下ろされて調べられたという。殺伐の噂もすでに少からず聞かされている。あるいは弟も深川への往復の途中で、何か間違いが出来たものではないかとそれがまた気になり出す。今四日の朝になってやっと帰って来た。その談によると、昨夜はとてもあぶなくて通行が出来ず、ついに牛込で一泊して来たのだという。江東方面の惨状も、気にかかる叔母の様子も、その報告によって始めて真相を知ることが出来た。本所・深川は噂通りの全滅で、今もって到るところに死体が横たわっている。それを通り抜けて叔母の宅へ行ってみると、住宅その他は近所のすべての建物とともに、何物をも残さず焼けてしまった中に、ただ一つ奇態にも木造二階建の事務所のみが無事に災を免れて、そこへ叔母の長男が来ていたので、やっと家族の避難先が判り、親しくそれを訪問して帰ったのだという。初め深川の宅では最初の地震とともに火が諸方に起ったので、類焼を覚悟して重要な書類や家財を荷車四台に満載し、小名木川筋に沿うて東に避難しかけたのであった。おりから外出中の叔父も自宅を案じて自転車で駆けつけたが、火の廻りが案外に早く、大波のごとくに寄せ来る避難者の群れに捲き込まれ、その車も自転車も人浪の間に引き棄て乗り捨てる。そのうちに三男と四男の姿をも見失って、残りの家族だけでやっと身をおりから通りかかった舟に托し、そのまま今もその舟の厄介になり、亀井戸の先の竪川六橋の畔に碇泊しているとのことであった。そしてその見失った二人の子息の行衛は今もって不明なのだという。それは飛んだことになってしまったと、さっそく後から来た妻のすぐの弟と、自分の次男とに、差当りの着がえや、毛布や、その他の雑品、罐詰、飯などを持たせて見舞にやる。そのあとへヒョッコリ案じている二人がやって来た。「父は来ていませんか」という。その父は血眼ちまなこになって君らの行衛を尋ねているのだ、一刻も早く帰り給えと、シャツなど取りかえさせ、着がえや罐詰などを持たせて送り出す。これでやっとその二人も無事であったことだけはわかった。が、まだそのほかに嫁して浅草にいる叔母の長女すなわち妻には従妹のもとへ、先日来三女が逗留していたが、それも焼け出されたので、消息がまだわからぬ。本所に来ている妻の妹の安否も知れぬ。それらも無事であれかしと祈りつつ次男らの帰りを待つ。
 夜に入って始めて電燈がついた。電力不足のため当分一家一燈を限ると制限されたが、それでもいくら気分が陽気になったか知れぬ。そこへ次男らが帰って来た。その報告によると、帰路浅草へ廻って従妹の家を見て来たが、焼け跡に一同妻の実家へ避難した趣を書いてあったという。これでまた一つ安心が殖えた。

●嬉しき便り(二)

 九月五日(水)震災第五日。一日以来引続き夜警に引き出されて、連夜睡眠不足ながうえに[#「睡眠不足ながうえに」はママ]、宅のあたりも至って物騒なので、昨日まではあまり遠あるきもしないでいたのであったが、今は大分秩序も立って来て、警戒の方も前ほどではなくなり、そのうえ嬉しい便りをも聞いたので、昨夜はゆっくり熟睡することも出来た。お蔭で今日はだんだんと気ものんびりとして来た。午前に高等師範なる文部省仮事務所へ見舞に行く。文部省は仏蘭西大使館からの飛び火で、土蔵一つ残して全焼したのだ。
 京都大学から書記角田諒造君がはるばる見舞に見えた。それで始めて京都の消息がわかった。あちらでは頻発する新聞号外の報道に驚かされて、大変な騒ぎだという。京大文学部では自分のほかに、鈴木・厨川〔(白村)〕の両教授と、書記の伊津野直君とが震災地に来ておられるはずだが、その消息を知らぬかと問われる。しかし自分には一向わからぬ。そのほかに考古学の梅原末治君が一日に東京へ来られたはずだが、それもわからぬ。
 心配していた妻の妹から書面を持って使の者が来た。それによると、かの女は先日来幼女を連れて本所の親戚に逗留しているうちに、かの大地震に出会ったのだ。例の着のみ着のままで焼け出され、幼女のごときは肌襦袢一枚のままに背負い出して、やっと火を免れ免れしつつ、北足立郡谷塚なる自宅へ帰ることが出来たのだという。何という嬉しい便りだろう。これでともかく身内の者は皆無事だったことが判った。ここに嬉しい便りの記事のついでに、今一つ書き加えておきたい。これは奇蹟というよりむしろ奇遇というべきものだ。前豊山中学校長で自分ら仲間の日本歴史地理学会の幹事を久しく勤めておられた文学士宮崎栄雅君は、今は佐渡へ帰ってお寺の御住職で納まっておられるのだが、その長女がかねて東京に遊学しておられ、今度その大阪なる兄の娘、すなわち宮崎君には姪なる人も東京の学校に学ばれることになったので、その二少女と祖母の君とが、九月の新学期から東京でしかるべき家を借りて住まわれる都合になり、このほど夫人がこの三女同伴上京して、借宅の見付かるまでと京橋の知人の家に寄寓しておられた。ところでこの大地震だ。その京橋の家からは御多分に漏れず焼け出された。安否のほども不明で、かれこれ噂しながらもそれを尋ねる余裕だもなくて、空しく数日を経過したのであったが、今朝になってちょうど夫人がヒョッコリ学会の事務所へ訪れられた。ちょうどこれと同じころに佐渡からは宮崎君が家族の安否を気づかって駆けつけられた。大阪からも兄なる人が駆けつけられた。一族一時に同じ所に落ち合って、互いに無事を祝しあったことであった。これもめでたい。
 夕方に次男同伴で護国寺境内を見てまわる。観音堂前に近ごろ出来た名物燈籠は、一つ残らず完全に倒れている。墓地の墓標が倒れたり、居去いざったりしているのは言うまでもない。中に丸井圭次郎君の家族の墓もある。同君今は遠く台湾総督府に奉職しておられるが、かつて自分の後を承けてこの護国寺境内なる今の豊山中学校を物にした人だ。その在職中夫人と二子とを同時に失われて、その三人の霊がここに宿っているのだ。墓標は古式の五輪塔で、それも御多分に漏れず崩れていたが、手ごろの大きさのものであったから、次男と共力して積み直しておいた。
 墓地を通り抜けて、雑司ヶ谷の方へ出ようとすると、例の棍棒を持って自警団の人々が、いま怪しい者がここへ逃げ込んだと探しに来た。やがてかなたの茂みの中から呼子の音が聞こえる。たちまち二、三十人の棍棒連がどこからともなく集まって、一人の若者を取り囲んで推問する。何でもその若者はその茂みの中に疲れて寝ていたのを見付けられたのだという。しかしそれは怪しい者でも何でもなく、つい近所の人で、群集の中に見知ったものがあり、無事放免せられた。疑心暗鬼の今日だ。まだまだ通行には気をつけねばならぬ。

●見たものでなければ想像の出来ぬ惨状

 九月六日(木)震災第六日。だんだん落ち付いて来たので、親戚の見舞かたがた自転車で震災の跡の視察にまわる。まず大塚線の電車道を本郷に出て、湯島天神の境内から眺望すると、湯島の台地一帯はもとより、南から西へかけて下谷・浅草・神田・日本橋・京橋、さては川向うの本所・深川まで、見渡すかぎり赭色の焼野の原で、不燃質の残骸のほかには目を遮るものほとんどなく、ただその中に焼け残った浅草寺の境内のみが、平素想像していたよりもよほど近く青々と見える。
 引き返して湯島から焼け跡を神田明神前に出る。災後六日の今日になってまだ所々に余焔の立っている所がある。あの湯島の大きな霊雲院も焼けた。境内の和田英松博士のお宅の跡も、今ではどこと見当がつかぬ。沢山の蔵書とともにすべて灰になってしまったのであろう。聖堂も焼けた。昌平校の跡形もなくなった。須田町から柳原を両国橋へ出て電車道を東へ、何一つない焼け跡を往来の人が隙き間もなく続いている。それが焼け落ちた江東橋で遮られて、仮橋を一列に渡らねばならぬ。順番を待つのが容易でないので、大横川筋を北へ、わずかに残った二つ目の橋を東へ、天神橋を越えて亀井戸町に出て、始めて焼け残った町家を見ることが出来た。それから横十間川を南に、竪川筋に出る間、川東にも一部分火は及んでいる。出火後六日目の今日、なお過ぎて来た道筋にいくらも焼死体の横たわっているのは言うまでもない。
 六橋ぎわに仮泊した舟中に避難中の妻の叔母の家族を訪う。舟にはほかにも避難の一家族があり、叔母の家族はわずかに二畳敷あまりの所に、苫を葺いて女中とともに六人が固まっている訳だ。ほかに飼犬が一頭、跡を慕うて来てこれは陸上に寝ころんでいる。今日は焼け跡の整理のためとあって男子の分は皆不在だ。
 然るべく慰問の辞を呈して、転じて大島町の郊外空地の臨時火葬場を見る。昨夜来五百の屍体を二つの山に積んで焼いたというのが、まだ盛んに燃えている。富川町なる焼け跡へ行ってみると、なるほど四方焼野の中にただ一棟、木造の事務所がほとんど何らの被害もなく遺されているのは何という奇蹟であろう。宅は小名木川に面した所で、すぐ側に大富橋がある。それが地震に墜落して流れを妨げたがために、そこへ西の方から焼けた船や水膨れのした屍体がおびただしく流れついて、ほとんど水面も見えぬほどだといってもあえて過言ではない。その屍体の数、目算で約二百と見た。たいていは裸体で、頭髪は焼けて丸坊主となり、道々見て来た焼死体とはまた趣が変っていっそう悽愴の感に打たれざるを得ぬ。まことに想像以上で、かくのごときの惨状は実地を見たものでなければとても想像は出来ぬ。
 帰路伊予橋を過ぎて再び両国橋に出る。伊予橋の上下に屍体の浮流しているもの、両国橋の西詰に引き揚げられたもの、その数いくばくと数えも切れぬ。その両国の屍体には、いかなる特志の人の仕業にや、一人一人に廻向の辞を書いた紙片を手向けあるのには、かの寛正二年の京都数万の餓死者について、城北の一僧が一つ一つ小卒塔婆を屍骸の上に置いたという『碧山日録』の記事も思い合されて、言い知れず床しく思われた。
 想像以上のあまりの惨状に、このうえ幾万の焼屍体が今なおそのまま横たわっているという、本所の被服廠跡を訪う気にもなれず、転じて神田から丸の内へ出て、夕方に宅に帰った。
 このあたりの被害の状況はいずれ詳細記録されたものが世に出ようからすべて略する。
 右視察の道筋で、牛乳・サイダーの立飲み、蕎麦の立喰いなどを繰り返した報いとして、帰来さっそく下痢を始めた。ひどくならねばよいがと案ぜられる。
 不在中に帝大の書記中川清人君と、横浜市史編纂主任の堀田璋左右君とが見舞に見えた。堀田君は当日正午前何となく不安の予感があったので、市庁の屋外に出たあとであの騒ぎだったがために、幸いに御無事であったという。しかし横浜の仮寓が焼かれたばかりでなく、市庁の火災に多年蒐集した市史材料も編纂者の研究の結果も、借り集めた莫大なる史料とともにことごとく焼いてしまわれたのは、横浜市にとっても、また学界のためにも取り返しのつかぬ大損害である。過去の横浜の歴史の大部分はこの震災火災のために永久に葬られてしまった訳だ。平安朝以来度々の京都の大火に、過去の史料が失われて真相が不明になったものの多いのも、かくやと思い合わされた。

 地震の度数も少くなった。その揺り方もゆるくなった。人気もだんだん落ち付いて来た。罹災者もそろそろ露店や立売りを始めて生活の方針を考え出した。七日には水道も通じ電車も動き出した。自分もそういつまでも、震災のことにのみ没頭してはおられぬ。この「震災日誌」もまず右の六日限りで切り上げて、以下簡略にこれに関係した出来事の要領のみを書き止めて次号〔(『社会史研究』第一〇巻第四号)〕に掲げることとする。





底本:「喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌」平凡社
   1982(昭和57)年11月25日初版第1刷発行
初出:「社会史研究 第一〇巻第三号」
   1923(大正12)年11月
※〔 〕内は、底本編者による加筆です。
※底本巻末の編注は省略しました。
※「鑵詰」と「罐詰」の混在は、底本通りです。
入力:しだひろし
校正:富田晶子
2020年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「金+惠」、U+93F8    258-上-17


●図書カード