蝦夷とコロボツクルとの異同を論ず之に潜みて

喜田貞吉




我が群島國の先住種族中、石器を使用して、其遺蹟を後世に遺せるものは何なりやとの疑問に對して解决を與ふる諸説の中、最も多數なるは、之を蝦夷なりとするものと、之を蝦夷とは別種なるコロボツクルなりとするものとの兩説なり。其他肅愼人説、土蜘蛛説などあれども、比較的、賛成者少し。而して蝦夷説を唱ふる學者中最も有力なるは、言ふ迄もなく小金井博士にして、コロボツクル説を採らるゝ最有力者は、言ふまでもなく坪井博士なり。兩博士の研究は頗る精緻の域に達す。余輩は、今こゝに蝦夷とコロボツクルの異同を論じて、敢て兩博士の學説に容啄し、之が批判を試みんとするものにあらず。余輩はもと、考古學上の知識に乏しく、更に解剖學上の知識に就きては殆ど絶無なり。故に、此等の點に關しては、諸先輩の學説を敬重して、之を信ずるの外なし。然れども、余輩は、また、別に記録上聊信ずる所あり。即ち此見地より立論して、諸先輩の已に研究せられたる諸説に對照し、以て、兩者の異同に關する管見を開陳せんとす。
管見を述ぶるに先つて、余輩は、先づ、二者の異同に關して已に發表せられたる諸説を觀察するの要あるを認む。
小金井博士曰く、
アイノの開化の度合を考へて見ると、コロボツクル又はトンチなるものは、即ちアイノ自身であると思はれる。即ちアイノは獸獵魚漁を以て業として居る所の人民でありまして、金屬を鍜へる事の技術は、總ての點から考へて見て、曾て知つて居つた事がないと思ふ。即ちアイノが石の鏃を付けた矢を持つて獸を射たり或は石の鋒の銛を持つて魚を捕つたりした時代からして遠くは進歩して居らない。唯僅に他の人種から金屬の器物を得たと云ふさういふ低い程度に居る人民であるといふ事を考へて見ると、コロボツクル又はトンチと云ふものはアイノ自身であると思はれる。(東洋學藝雜誌二六〇號)
此説は、蝦夷即石器時代人民といふ立塲より立てられたる説にして、蝦夷以外にコロボツクルなる種族なしとの義なり。坪井博士は、コロボツクル非アイヌ説を持せらるゝものにして、其説は數多の論文として現はれ、讀者の齊しく知悉せらゝ所と[#「知悉せらゝ所と」はママ]信ずるが故に、こゝに之を引用するを略す。但東洋學藝雜誌二五九號所載の、小金井博士の石器時代の住民論の前半は坪井博士の説を數多の斷片より綜合せられたるものにして、之に對して、坪井博士は「第二五九號一五一から一六三までは、主として私の説の摘要で、彼方此方書き散らしたものを、好くも探り求めて順序を立てゝ下さつたと、深く感謝致します」と言はれたるを見れば、よく、博士の説の要をつくされたるものなるべく、余輩は、之を以て、博士の所説を代表せるものと信ぜんとす。中田法學士は亦、最近に、その「我太古史に見えたるアイヌ語の神名」(史學雜誌十七の九)に於て、アイヌ説コロボツクル説を共に極端に走れる誤謬なりとし、別に、コロボツクルはアイヌ族の一派なりとの説を立てられたり。余輩はある意味に於て此説と類似の意見を有す。然れども、中田氏は、更に、コロボツクル即ち土蜘蛛なりとの説を採られ、而して、彼等は穴居派にして、アイヌは屋居派なりと解し、二者同じ根原ながらも、其間に明に區別ありとせらるゝなり。但其穴居派たるコロボツクル即ち土蜘蛛が九州までも蔓延せし時代に於て、屋居派たるアイヌは如何なる状態にありしものなりやの點に關する見解詳ならず。若し、同氏の説にして、初は皆穴居せしものなりしが、其一部後に進歩して、屋居の俗に改まりたりといふならんには、二者の關孫に[#「關孫に」はママ]於ては、全く小金井博士の所説と同一に歸着するものにして、更に、之に附加するに、蝦夷即ち土蜘蛛なりとの説を以てしたるものとなるなり。
中田氏に先ちて、中田氏と同一の意見を發表せられたるものを沼田頼輔氏となす。氏曰く、
坪井氏の主張せられしコロボツクル説も、小金井氏の主張せらるゝ蝦夷人説も、今日の研究によれば、共に相一致するものにして、換言すれば、本邦に石器時代の遺物遺蹟を留めたるものは、蝦夷人の一派なるクリールアイヌの祖先にして、アイヌの口碑に傳はりたるコロボツクルの傳説は、このクリールアイヌに關するものゝ如し。(日本人種新論二六頁)
中田氏は、單に右の沼田氏の説に加ふるに、土蜘蛛即ちコロボツクルなる説を以てせられたるに過ぎず。
土蜘蛛の事は暫く措き、蝦夷とコロボツクルとの關係に就ては、余輩は大体に於て沼田氏と同一の意見を有す。而して、余輩は、此異同に關して、「伊吉連博徳書」に見えたる熟蝦夷麁蝦夷都加留の三種の區別、及び、諏訪縁起繪詞に見えたる、渡り黨唐子日の本等の區別を以て立論せんとするなり。
伊吉連博徳書に曰く、
天子(○唐の天子高宗皇帝也)問うて曰く、此等の蝦夷の國は何方にありや。使人謹みて答ふ。國は東北に在り。天子問うて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹みて答ふ。類に三種あり、遠きをば都加留と名け、次は麁蝦夷、近きをば熟蝦夷と名く。今此熟蝦夷、毎歳本國の朝に入貢す。天子問うて曰く、其國に五穀ありや。使人謹みて答ふ、なし、肉を食ひて存活す。天子問うて曰く、國に屋舍ありや。使人謹みて答ふ。なし、深山の中、樹の木に住む。天子重ねて曰く、朕、蝦夷の身面の異なるを見るに、極めて喜恠なり。云云。
余輩は、右の記事の内容に就いて調査する前に、先づ、博徳のこの記事の價値を攻究するの要あるを認む。博徳は齊明天皇朝の人、その五年七月、坂合部石布、津守吉祥等に從ひて入唐す。此年阿倍比羅夫舟師を率ゐて蝦夷を討ち、捕虜を得て歸る。石布等入唐に際し、乃ち、蝦夷男女二人を伴ひて唐の天子に示す。博徳は恐くは書記として、又、通譯として其行に從ひし人。而して、其見聞せる所を録せるもの即ち所謂「伊吉連博徳書」なり。されば、其記する所實録にして、决して推測より記し、又は後より追記せるの類にあらず。殊に、其蝦夷に關する記事の如き、此時我將新に蝦夷を討ちて最新の知識を齎らし、且、親しく蝦夷二人を一行に伴ひたる際のものなれば、其記する所は、當時の實情を直寫せるものとして十分信ずべき價値を有するものなり。唐書東夷列傳には、此時の事を記して、
蝦夷使者鬚の長さ四尺ばかり、箭を首にはさみ、人をして瓠を載せて數十歩に立たしめ、射て中らざるなし。
とあり。唐天子の前に、このウヰルヘルムテル丸出しの射藝を演ず。已に容貌奇にして、而もこの曲藝を演出す。唐天子が我使者に向つて、博徳書に見ゆるが如き下問ありしは、まさに然るべき所なり。されば、余輩は、「博徳書」の蝦夷に關する記事に於て、甚大の價値を認むるなり。
この價値ある博徳書に、當時蝦夷に三種ありし事を説く。曰く熟蝦夷、曰く麁蝦夷、曰く都加留と。熟蝦夷と麁蝦夷とは、女眞に於ける熟女眞と生女眞、臺灣に於ける熟蕃と生蕃に相當す。而して、麁蝦夷の北に更に都加留なるものありし事を明言せるなり。熟蝦夷は毎年本國の朝に入貢す。即ち内附の蝦夷なり。内附の蝦夷に對する麁蝦夷は、未だ王化に服せざる蝦夷たるや明なりとす。而して其北に更に都加留ありきとすれば、まさに、如何なるものを以て之に擬すべきか。余輩は、この疑問に對して、先づ、「石器使用の程度にある蝦夷これなるべし」との假定説を提出せんとす。此假定説は、甞て沼田頼輔氏が其「日本人種新論」を著述せられし際、余と蝦夷に關する談話を交換して、偶此説に及び、余も同意の旨を述べし事ありしと記憶す。然るに、其後同書の公にせらるゝに及んで、一言の之に及ぶものなし。蓋し、同氏は、尚之を以て不安心なりとし、愼重の態度を採りて、之を著書中に加へられざりしものなるべし。
因に云ふ。同書中余が説なりとて、「俘囚の朝廷より受くる所の姓の殆吉彌侯部に限れるが如き」云云の記事を掲載し、「實に適當なる説の如し」と賞賛の辭を附け加へられたれど、余が説は「朝廷より吉彌侯部の姓を賜はるものは、必ず俘囚に限る」との意にて、本書は彼是を顛倒したるものなれば、不適當なる説として、こゝに訂正し置く。
この假定説を證明せんが爲に、先づ、麁蝦夷熟蝦夷の語義を考ふるに、麁蝦夷とは、未だ熟化せざるの蝦夷の義にして、之に對して、熟蝦夷とは已に熟化せる蝦夷の義なり。而して、熟化せざる麁蝦夷の北に、更に一種の蝦夷ありとせんには、そは、必ず、一層熟化せざるものなりきと想像せざるべからず。然れども、熟化すと云ひ、熟化せずと云ふは比較的の語にして、所謂熟化せずと云ふ中にも、自ら程度あり。されば、此熟化せざるものを、程度によりて二樣に分たんには、一は、現今の臺灣の生蕃の如く、未だ王化に服せざるながらも、已に他種族と交通して、或る種類の物品交換行はれ、もはや固有の石器等の使用を廢せる程度にあるもの、一は、未だ此程度に達せざるものとなすを得べし。而して松前氏統治時代の僻遠地の北海道本島アイヌは前者の程度にありしものにして露西亞來航以前の北千島アイヌは後者の域にありしものなるべし麁蝦夷と都加留との差亦以て想像するに足らんか。而して、此等に對して、熟蝦夷とは、もはや、日本政府に服從せるものなれば、當時、俗を移し風を改めしむる方針を採りし政府の下にありては、必ずや、日本風に化し、言語の加きも、次第に、日本語を用ふるに至りしものならんと信ぜらる。而して、此熟蝦夷は、其多數はいつしか日本人の中に同化混合して跡を絶つに至りしものなるべし。
熟蝦夷、麁蝦夷、都加留蝦夷の差は、明に開化の程度による區別なりとの事は、もはや疑を容れざるべし。此等の各種の蝦夷の住地は時代によりて一定せざりしなるべく彼の蝦夷の國名たる日高見の名が常陸陸前の兩地に殘れると同樣に其限界線は必ずや我が國力の發展に伴ひて東北に移りしものなるべし。而して、博徳の時代の所謂都加留蝦夷なるものは、之を阿倍比羅夫征討の記事等によりて、今の津輕地方より、北海道へかけて住せしものなるべしと信ず。北海道渡島にも、もと津輕郡あり、福島郡と合併して松前郡となる。續日本紀に渡島の津輕の津の地名あり。されば、津輕とは、もと、本州の北端より北海道に亘れる地名なりしか、或は、渡島の津輕は、所謂都加留蝦夷の本州より移住せしによりて得たる名なるか、未だ其本末を詳にするを得ずと雖、渡島の津輕の名の古きを思へば、博徳の時代には、津輕蝦夷は北海道本島にまで蔓延せし事を信ずるに足るべし。
奧羽地方の大部分が王化に服するに至りしは、平安朝以後の事なり。續日本紀を奉るの表に、「威は日河の東に振ひて毛狄屏息す」とあり。日河の北上河なる事は、本誌の前號に於て詳説せし所にして、仙臺灣以北にまで王化の及びしは、桓武天皇の御代以後の事なり。尚遡りて、博徳の時代を考ふるに、日本海方面は、比羅夫討伐の功によりて、比較的奧地までも皇威は伸張したれども、大化年中には、漸く岩舟柵(越後岩船郡)を境とせし程にて、太平洋方面は、漸く、磐城岩代地方に及びしに過ぎざりしなるべく、而して 熟蝦夷は其以南の地方に於て大和民族と雜居せしものと思はるゝなり。
然るに、我國力の發展と共に、其境域は漸次北進し、前九年後三年役の頃には、王化は陸中羽後地方までも及び、此地方の蝦夷は、熟蝦夷即ち俘囚となれり。而して、前九年の役は、夷人安倍頼時貞任の父子が俘囚を率ゐて叛せしに起因し後三年役は同じく出羽の俘囚清原武則が其親族吉彦きびこ(吉彌侯)秀武等と相爭ひしより事起りしなり
この前後兩度の役の爲に、此等の地方の熟蝦夷中のある者は、遠く北海道の地方に逃れたるもあるべし。貞任の弟宗任が談なりとて、今昔物語に記したる所によれば、頼時等も一旦は北海道に逃れんと計畫せし趣なり。後、源頼朝の藤原泰衡を亡ぼすや、奧羽全く服す。此時泰衡は北海道に逃れんとして果さゞりし事、吾妻鏡の明記する所なり。當時、其徒の俘囚の、多く彼の地に投じたりしは疑なし。斯の如く内地より渡りし熟蝦夷を渡り黨と云ふ。彼等は、さすがに一旦熟蝦夷となりしだけに、言語の如きも主として我が國語を用ひ、他の麁蝦夷と趣を異にするものありき。南北朝の頃になれる諏訪縁起繪詞に、鎌倉時代の末頃の蝦夷を區別して曰く、
蝦夷が千島と云へるは、我國の東北に當て大海の中央にあり。日の本唐子渡り黨、此三類各三百三十三の島に群居せり。今二島は渡黨に混ず。其内に宇曾利、鶴子洲と、萬當宇滿伊丈と云ふ小島どもあり。此種類は、多く奧州津輕外の濱に徃來交易す。夷一把と云は六千人なり。相聚る時は百千把に及べり。日の本、唐子の二類は、其地外國に連て、形體夜叉の如く、變化無窮なり。人倫禽獸魚肉等を食として、五穀の農料を知らず。九譯を重ぬとも、語話を通じ難し。渡黨和國の人に相類せり。但、鬚多くして遍身に毛生ぜり。言語俚野なりと雖、大半は相通ず。云云。
と。こゝに渡り黨と云ふものを考ふるに、鬚多くして遍身に毛生ぜりとあるを以て見れば、明にアイヌなり。但、他の二類が、形体夜叉の如く、禽獸魚肉等を食して農業を解せず。言語通じ難しと云ふに反して、渡り黨は、和國の人に相類し、奧州津輕外が濱に往來交易し、言語大半は相通ずとあるを見れば、他の二類が固有の習俗を保存するに拘らす、この渡り黨は多少日本人類似の服裝をなし、農耕の道を解し、言語も主として日本語に改まり、内地人に、交通したりしを知る。斯の如きは、これ所謂熟蝦夷なり。即ち、鎌倉時代より、南北朝頃にかけては、北海道の西南部は、已に、熟蝦夷の住地となりしを知る。此等の熟蝦夷は、後、諸館の主と相混じて松前氏に屬し、遂に自らアイヌたるを忘るゝに至りて跡を絶ちしなるべし。
此等の熟蝦夷に對して、言語通せず、農業を知らず、形体夜叉の如しと區別せらるゝものは、これ、博徳が所謂麁蝦夷若くは都加留に當るものならざるべからず。其名稱を日の本と云ひ、唐子と云ひ、其地外國に續くと云ふ。此等の記事よりして、余輩は、如何なる事實を抽出し得べきか。
日の本とは、もと我國の稱なり。然るに、こゝに、熟蝦夷よりも更に未開なる蝦夷に日の本の稱あるは從來學者の解すべからずとなす所。北海道志には、「日の本は蝦夷本州の人種なり、唐子は外國の雜種なり、渡り黨は内郡の人、海を渡りて移れるものなり」と解すれども、未だ其説の據るところを詳にせず。余輩亦、之に對して久しく疑を抱きたりしが、今や漸く思ひ得たる所あり。日の本は夫れ千島アイヌなるか
我國を日の本といふは、もと支那に對して、其位置上より起りし稱なり。推古天皇の朝に使を隋に遣はさるゝや。彼を西皇帝と云ふに對して、我を東天皇と云ひ、彼を日沒處の天子と云ふに對して、我を日出處の天子と云ひたり。日の本は即ち日出處にして東の義なる事これによりて明なり。されば、我が國内のみに就て云はゝ奧州日の本の稱は、既に織豊時代にあり。陸前の太平洋岸を日出の崖と云ひし事は、早く、平安朝の初期に於て見えたり。日出の崖とは、即ち日の本と同義なるべし。されば、北海道のみに就て之を云はんには、その東部は即ち日出處にして、日の本なり。而して蝦夷語のチユプカは正に此意味に相當すチユプカとは北海道本島アイヌが千島群島と呼ぶの稱なり而して其意は東又は日出處の義なりといふ本島アイヌはまた千島アイヌを呼ぶにチユプカグルといふ東の人又は日出處の人の義なりされば渡り黨又は邦人が之を飜譯して日の本と云はんは豈に適切の稱呼ならずや。チユプカは東北カムチヤトカに至りて大陸に連る。その「其地外國に連る」と云ふもの、亦、豈に眞を得たらずや。
但、こゝに注意すべきは、日の本即ちチユプカを以て呼ぶべき範圍の沿革なり。今日にては、普通にもと露西亞領なりし千島のみをチユプカと稱する樣なれど、そは、所謂日の本即ちチユプカグルの領域が、この諸島に限らるゝ樣になりてより以後の事なるべく、チユプカグルが、尚、國後、擇捉等の諸島を占領せし當時には、これ等の諸島も、同じくチユプカの中にありしを疑はず。日の本と云ひ日出處と云ひ東と云ふは必ず相對的の語なれば北海道本島と對比して云はんには國後島も亦チユプカなるべし。擇捉島に北海道本島アイヌの移りしは二百年以來の事なり。近藤守重の「※多羅拂エトロフ[#「執/れんが」、U+24360、196-14]談」に、
擇捉村落の内、小人住居せし土穴あり。(中略)八九十年以前國後の夷人此擇捉島に渡りしより、彼の小人漸々に離散せりといふ。
とあり。されば其以前に本島アイヌの國後島に渡りて此地の土人を驅逐せし事實も、推測するに足らん。從つてもと、此等の諸島が、チユプカグル即ち日の本蝦夷の住居地として、チユプカの中にありけん事、亦明ならずや。尚其以前に遡らんには本島の東部も西部に對してチユプカなりしなるべし北海道各地に比較的新らし石器時代の遺蹟の多きは今日に於てはもはや學界の承認を經たる所。今考古學上の比較研究によりて、此等の遺蹟が、千島にある遺蹟と同一系統のものなる事證明せられたらんには、而して、此等の遺蹟が、本島の西部地方にあるものよりも、東するに從つて比較的新しきものならんには、本島の東部地方も、ある時代にはチユプカグルの住所として、日の本即ちチユプカなりし事を信ずるに足るべし。本島アイヌのコロボツクルに關する口碑が、※[#「執/れんが」、U+24360、197-7]多羅拂談の擇捉島に於ける小人の記事と同一なるを合せ考ふべきなり。
以上の所論によりて余輩は鎌倉足利時代に於て邦人若くは渡黨によりて日の本と呼ばれたる蝦夷はアイヌ語に所謂チコプカ[#「チコプカ」はママ]にして今日の千島アイヌと同一のものなるべく其住所は恐くは本島の東部より千島に及びしものなりと云ふを得べしと信ず。但、こゝに東部といふは、勿論漠然たる義にして、他日考古學上の研究の結果、稍實らしき境域を定むるを得るの時あらん事を期待するなり。次に余輩は日の本即ち千島アイヌと博徳の所謂都加留蝦夷との間に一致を見出さんとす
都加留蝦夷の土俗に就きては、殆ど、記録の考證すべきものなし。陸奧風土記に、八槻郷の土蜘蛛が日本武尊の征討に遇ひし時、津輕蝦夷許多を諜して、猪鹿弓猪鹿矢を石城に連發し、以て官兵に抗す。日本武尊即ち槻弓槻矢を執りて、之を射るとあり。素より、余輩は此口碑を以て史實を傳ふるものなりとは信ぜず。こは、小林君の所謂地名を説明せんが爲の土蜘蛛傳説なるべければなり。されど地名の説明にさまで必要ならざる津輕蝦夷をこゝに點出したる事は大いに余輩の研究に向つて好材料を與ふるものなり。何となれば、都加留といふ一派の蝦夷の存在は、壹岐連博徳によりて證明せられたる所にして、當時華夷雜居地たりし岩代磐城の南部地方のものが、之を知らざる筈なし。されば、右の風土記の記事よりして、よしや土蜘蛛が八槻郷に於て津輕蝦夷と連合して日本武尊に抗したりとの史實を信ぜずとするも、少くも、左の事實は右の口碑よりして證明するを得べし。
一、八槻郷(白河郡の中)の地方には、少くも奈良朝の頃津輕蝦夷が甞て此地に來りし事の口碑を有せし事。
二、從つて、津輕蝦夷は、ある時代に於て、白河地方と客易に交通し得べき地方に住居せし事。
三、其地方は、必ず今の青森縣の津輕又は渡島の津輕等よりも、一層白河地方に近きものならざるべからざる事。
四、從つて、津輕とは、もと種族の名稱にして(こは博徳書よりも證するを得べし)後の津輕の地名は、津輕種族の名が其住所に固定せしものなるべき事。因に云、一説に、都加留は即ち置溝婁にして、大陸より移住せしものならんとあり。他日比較言語學、考古學、土俗學等の研究の結果、我石器時代の遺跡と、北韓滿洲との間に十分なる連絡を得る迄は、疑を存して附記すべきものなるべし。
五、皇軍が槻の弓、槻の矢を用ひたるに對して、津輕蝦夷は、猪鹿弓、猪鹿矢を用ひたり。イカは嚴の意と解する説もあれど、猪鹿矢とは、猪牙、鹿角、或は骨等を鏃とせし矢なりと解するを至當とす。猪鹿弓に至りては判斷に苦めども、一方に槻弓槻矢とあるに對して、修辭上猪鹿矢といふに伴つて使用せし語か。或は、獸角骨牙等を裝飾に使用せし弓にさる稱ありしにてもあるべし。
以上の事實よりして、余輩は、津輕蝦夷が石器使用の状態にありし事の積極の證明を得ざれども、其武器は皇軍のとは異にして、且、少くも金屬の鏃の代りに、骨又は角牙などの鏃を使用せし事を知るを得たり。此蝦夷、平安朝の頃には、已に退きて今の津輕地方にありしと覺ゆ。元慶二年出羽の夷俘の反亂あり。此時俘囚は官兵と合して、夷俘征討に助力したりしが如し。俘囚は即ち熟蝦夷にして夷俘とは麁蝦夷なり。此時出羽に於て、夷俘、俘囚の境界は秋田河にありき。而して、津輕蝦夷は、更に其奧地なる津輕地方にありしなり。當時の公文に曰く、
津輕蝦夷、其黨多種、幾千人たるを知らず。天性勇壯、常に戰を習ふ。若し逆賊を迎へなば、其鋒當り難からん。
又曰く、
津蝦夷虜天性麁※(「けものへん+廣」、第4水準2-80-55)なり。若し凶類に連らば、實に制し難しとなす。
と。こゝに其數の多きを云ひ、其性の兇暴を云ふ。侮るべからざる一勢力たりしを疑はず。されば、此種族が其後全く絶滅したりと想像する塲合の外は、普通の蝦夷が北に退きて北海道本島アイヌとなりたる時代に於て津輕蝦夷が更にそれよりも奧地に退きて千島アイヌ即ち所謂日の本となりたりと推測せん事最も穩當なる見解なるべし而して此見解よりして余輩は鎌倉室町時代に日の本と呼ばれたる千島アイヌは有史後のある時代まで北海道本島のみならず津輕蝦夷として本州の東北部にも住せしものなる事を信ぜんとするなり
こゝに至つて、余輩は、更に進んで、北海道本島並に樺太アイヌの口碑に存するトンチ若くはコロボツクルと、千島アイヌとの關係を考察するの要あり。
アイヌの口碑によれば、コロボツクルは、本島若くは樺太アイヌとの觸接によりて、奧地に逃れたりといふ。而して、「※[#「執/れんが」、U+24360、200-3]多羅拂談」に從へば、擇捉島の穴居の矮人は、近く二百年前に於て、國後島より本島アイヌの渡來によりて離散せりといふ。されば、奧地へ逃れて何れへ行きしか、離散して何れへ行きしか。これ余輩の現下の考究せんとする問題なり。「邊要分界圖考」(文化三年近藤守重著す)に、厚岸酋長イコトイ並にイチヤンゲムシの言を記して曰く、
クルムセの夷人はトイチセコツチヤカムイの裔なり。老夷傳へ云ふ。古へ夷地にトイチセコツチヤカムイと云ものあり。其身甚短し、皆穴居す。夷地開くるに從ひ、漸々に奧地へ入り、遂に其種族相率ゐて、筏に乘り、東洋のラツコ島へ往きて、其部落をなせりと。又、柬察加にも、クルムセの種類あり。
と。ラツコ島とは、邦人の信ずる所によれば、得撫島の事なれども、アイヌは、擇捉得撫の東に當り、晴天には海上遙に見ゆる島なりといふ。何れにしても千島の中なり。又クルムセの事は「蝦夷舊聞」(安政元年鈴木善教著)に、
往古蝦夷地にクルムセと呼べる一種の夷人あり。後、蝦夷地開け人聚るに從ひて、クルムセ夷遂にカムシヤツカに往て部落をなせり。故に、カムシヤツカの土夷は、人物蝦夷に異なる事なく、髮眼ともに黒し。
とあり。此二つの記事を合せ考ふるに、トイチセコツチヤカムイのコロボツクルなる事は無論にして、此種族は、千島柬察加に去りたる事を傳ふるものなり。而して現に千島アイヌは堅穴に住し、又、鳥居氏の調査によれば露西亞人の始めて來航せし當時、ガラス瓶を得て鏃を作りし形迹ありといふ。即ち所謂石器時代の状態にありしや明なり。且、千島アイヌはコロボツクルに關する口碑を傳へざる等の事實を綜合すれば、千島アイヌ即ちコロボツクルなるべき事は、小金井博士等先輩の已に唱導せる如く、何人も容易に首肯する所なるべし。
即ち、
一、博徳の所謂都加留蝦夷
二、鎌倉足利時代に所謂日の本
三、北海道本島並に樺太アイヌの口碑に所謂コロボツクル
四、本島アイヌの所謂チユプカグル即ち千島アイヌ
の四者は何れも同一のものなりと云ふを得べし
茲に於て、殘れる問題は、本島アイヌと千島アイヌとは同一種族なりや否やにあり。この問題の解决に資せんが爲に、余輩は、先つ、諏訪縁起に見えたる三種の蝦夷中の「唐子」に就きて觀察するの要あり。
諏訪縁起には、蝦夷の區別を記して、日の本、唐子、渡り黨の三種とし。[#「三種とし。」はママ]唐子を以て、日の本と渡黨との間に列す。而して其外、亦、他種あるを云はず。然るに、渡り黨が西南部に住する熟蝦夷にして、日の本がチユプカグル即ち東蝦夷たるべき事は、余輩の已に論じたる所。然らば、殘れる唐子に宛つべきものは何ぞや。其中間なる本島及び樺太に住するアイヌの外に之を求むべからざるなり。本島アイヌと樺太アイヌとは、共に先住民族に關して、同一の口碑を有するものなり。而して、その同異に就きては、小金井博士の兩者同一なり(博士は千島アイヌをも同一なりと云はるる也)と云はるゝ外には、余輩の寡聞なる、未だ多くの反對説を耳にせず。されば、余輩は、小金井博士に從つて、兩者を同一なりとするの見地より考ふるに、「縁起」に、「其地外國に連る」といふにも適切に當てはまるのみならず、唐子といふ名稱も、ほゝ説明し得べきを覺ゆ。「北夷考證」(高橋景保著)に、
蝦夷地宗谷の北にあたり、海峽を隔る大地を唐太と稱す。カラフトは唐人なり。我邦愚俗異邦を汎稱してカラといふ。フトとは北人ヒトといふ言の訛なり。何を以てカラフトと稱するといふに、彼より漢製の諸品を携來るものありて、宗谷の夷人と交易する事年久し。其齎す所の品物は、所謂ダンギレ、蟲の※[#「王+睛のつくり」、U+249AD、202-10]、烟管の類種々なり。漸々これを本地に傳ふ。これ我夷種とは異なれる人々持來る故に、江差松前の商賈ども、これを聞き受けて、泛然として、カラフトと呼ぶ事になり、終に、其北夷の地名の樣になれりと見えたり。
とあり。カラフトの名稱は、今に至りて世人の理解に苦むと成す所。然れども、右の解釋と唐子なる名稱とを合せ考ふるに、頗る穩當なるを覺ゆ。唐子からことは唐人からびとの義なり。家人けにんを家の子と稱し、奴隷をヤツコ(家の子の義)と稱するも同じ義なり。古代には、人を稍見下げて云ふ時に、子と云ひしものと見えたり。されば、樺太地方のギリヤークなどが、山丹地方と交通して、大陸の物品を持ち來り、本島アイヌを通じて、渡り黨若くは邦人に齎らすが故に、此等の人々は、右のアイヌを呼んで、唐人即ち唐子と稱せしものなるべし。後、その名稱本島に廢たれ、僅に其後樺太に移住したるアイヌにのみ存じて、遂に其住居の島の地名となりしものならん。
斯く考ふる事よりして、余輩は、唐子なる本島アイヌ樺太アイヌが、西は渡り黨に接し、北は山丹人と交るの地位上の關係よりして、日の本即ちチユプカグルよりも稍開けたる状態にあるべき事を知るを得たり。彼等は實に物品交易によりて邦人又は山丹人より器具の供給を得るが故にもはや石器を使用するの必要なく、恐らくは土器をも製造せず余輩が前に所謂麁蝦夷の状態となりて津輕蝦夷即ち日の本なるチユプカグルとの間に大なる溝渠を作り、遂には、トンチ若くはコロボツクルなる全然別種族として、彼等を驅逐せしものならん。更に余輩をして想像を逞ふせしめんには、現在の樺太アイヌは、本島アイヌがコロボツクルを驅逐して遂に遠く擇捉島にまで移住したると同樣に、比較的後の時代に於て、本島より移住せしものにて、樺太アイヌの本島アイヌに於けるの關係は、國後擇捉アイヌの木島アイヌに[#「木島アイヌに」はママ]於けると、同一の關係ならんとの假定説を得べし。
ともかくも、樺太アイヌと本島アイヌとの間には、密接の關係ある事疑なかるべし。茲に於て、余輩は、更に前の問題に戻りて、本島アイヌと千島アイヌとの關係を觀察せん。
本島アイヌと千島アイとの[#「千島アイとの」はママ]間には、現在に於て大なる溝渠あり。本島アイヌは、實に、異種族として千島アイヌを驅逐したりしなり。(或は自ら去りたるにてもあるべけれとも)されど、本島アイヌが麁蝦夷にして、千島アイヌが津輕蝦夷なりとの余の説にして誤らずば、彼等は到底、全然別種族なりと想像するを得ず。况や、千島アイヌは現に穴居し、本島アイヌと同種なるべき樺太アイヌ亦現に穴居の状態にありて、兩者の間に連絡を付くるものあるをや。尚、小金井博士の引用する所によれば、シユレンク氏の著書中には、百年前に北海道に於て邦人の爲に捕はれたる露國人ゴローウヰンの報告には、本島アイヌも亦、樺太アイヌと同樣、冬は堅穴小屋に住すとありといふ。果して然らんには、其間の關係、更に深きを加ふるを覺ゆ。
余輩は、こゝに至つて、更に、樺太アイヌの冬日堅穴に住するの土俗と、日本武尊の征討を蒙りたる當時の本州の蝦夷の土俗とを頗る相類似するの點を想起せざるを得ず。「景行紀」によるに、武内宿禰東夷を探※(「てへん+僉」、第3水準1-84-94)して復命して曰く、「東夷の中に日高見國あり、其國人男女並に推結、文身、人と爲り勇悍なり、これをすべて蝦夷といふ」とあり。後に日本武尊蝦夷を征してこの日高見國に至る。同書に、その地の蝦夷の風俗を記して、
東 の中[#「東 の中」はママ]、蝦夷これ尤も強し。男女交居して父子別なし。冬は則ち穴に宿ね夏は則ち巣に住む。毛を衣とし血を飮み、昆弟相疑ひ、山に登る事飛禽の如く、草を行く事走獸の如し。恩を承けては則ち忘れ、怨を見ては必ず報ゆ。これを以て箭を頭※[#「髟/舌」、U+9AFA、204-12]に藏め、刀を衣中に佩けり。」
とあり。此等の蝦夷の風俗を記するもの、必しも、日本武尊當時の現状なりとは信じ難き點あれども、少くも、書記[#「書記」はママ]編纂當時の邦人の間には、しかく信ぜられたりしものに相違なし。而して、書紀編纂當時の邦人は、蝦夷に關して多くの知識を有したりしものなれば、從つて、其記事は、博徳の記事と同樣、信用すべきの價値あるものなり。これを北蝦夷圖説の
此島の夷は、冬月に至て穴居するものあり。然りと雖、其地の寒暖に依て是をなすことにして、夷夷すべて之をなすにあらず。其穴居するものも、實に寒威堪がたく巳む[#「巳む」はママ]事を得ずして之をなすなり。十月の頃、已に積雪の時に至りて是を造り、其内に入り、春二三月の頃、積雪未だ解ざる前に、穴を出でゝ平生の家に居す。
とあるに比較するに、其住居に關する記事、實に符節を合すが如きを覺ゆるなり。
余輩は、尚、「常陸風土記」の記事よりして、古代の常陸地方に住せし蝦夷も亦穴居せしものなりし事を知るを得べしと信ず。
「常陸風土記」に曰く
昔、國巣(俗語に、都知久母、又夜都賀波岐と云ふ)山の佐伯、野の佐伯あり、普く土窟を置き掘りて常に穴に居る。人あり來れば即ち窟に入りて竄る。其人去れば更に郊に出でゝ遊ぶ。云云。
と。こゝに余輩をして、先づ、佐伯なる種族の名稱に就きて考察せしめよ。從來普通に學者の解する所を見るに、往々、佐伯を以て國巣と同一視するに似たり。小林君が其土蜘蛛論に於て、國巣即ち土蜘蛛なりとの證に之を引用するが如き(史學雜誌十七編十二號四七頁)、又、八木奘三郎君が、所謂彌生式土器を以て、土蜘蛛土器又は佐伯土器と名付けんと云はるゝの類、皆之なり。然れども、つら/\本書を閲するに、其中、他に、國巣を云ふもの三箇所、佐伯を云ふもの四箇所ありて、之を明に區別して記載し、决して混同する事なし。文章結搆の上より云はんにも、若し國巣と佐伯とを同一物視するものならんには、國巣を俗に何々と云ふと注釋する程の著者は、其注釋の序に、「或は佐伯といふ」と云ふが如き意味の注意あるべき筈ならずや。然るに、本書には國巣と佐伯と對等の筆法を用ひて記す。著者の意知るべきなり。今飜つて考ふるに、佐伯の蝦夷たる事は、日本紀姓氏録等の記事によりて明なる事已に議論の外なり。即ち、山の佐伯、野の佐伯とは、續日本紀に見ゆる山夷、田夷の事なり。されば、普通の風土記作者ならば、之を單に蝦夷とか、若くは山夷田夷とか書くべき所なれども、常陸風土記の作者は、頗るハイカラ的文學者にして、文章の如きも、往々、賦に紛らはしき四字句を連用し、土蜘蛛の俗稱を避けて殊更に國巣なる普通ならざる名稱(注釋を加へざれば解し難きほどの)をも使用する程の人なりしかば、また、蝦夷の俗稱を避けて、殊更に佐伯の名稱を用ひしものなるべし。國巣に注釋を施しながら、佐伯に何等の注釋なきは、佐伯は、國巣とは異にして、一の有名なる部族の名として世人の知悉する所なりしが故なるべし。されば、本書の記事は、
古老曰、昔在土蜘蛛山夷田夷、普通掘土窟、常居之
と飜譯すべきものなり。常陸は北の方陸奧と境を接し、當時、蝦夷の住所を去る遠からず。されば、風土記著者が蝦夷に關して多くの知識を有せしや必せり而して蝦夷が穴居せし趣を記す其記事十分の信を置くに足らん。其、茨を以て穴を塞ぐ云云の如きは、茨城の地名を解せんが爲の説話として、重きを置くに足らず、「人來れば即ち窟に入りてかくれ、其人去れば、また、郊に出でゝ遊ぶ」といふが如きは、小林君の指摘せられし如く、如何にも瞹眛なる書き方なれども、こは、人來れば隱れ、人去れば出でゝ惡事をなすといふ鼠賊の有樣を形容せし語に過ぎざるべし。又、小林君は、「元來穴居なるものは、之に潜みて敵の攻撃を避け、或は之に據りて防禦し得る性質のものにあらずとして、常陸風土記の、「穴を掘りて堡を作る」の記事を疑はれたれども、穴を掘りて堡を作り、之に據りて敵を防ぐ事は、北海道アイヌの比較的近時まで成せし所、所謂チヤシなる遺蹟は、現に北海道各地に存するなり。されば、穴居に關する常陸風土記の記事、必しも疑ふを要せざるなり。
以上の見解よりして、余輩は、常陸地方に於ても、蝦夷は甞て穴居せし時代のありし事を信じ、從つて、奧羽地方に於ても、蝦夷は甞て穴居せし事を信ぜんとす。更に余輩をして之を信ぜしむべき一事實あり。文化十四年に羽後米代川のほとりより現れしといふ堅穴家屋の搆造を見るに、其穴の深さ、家の高さ、其他、作り方等、頗る、北蝦夷圖説及び休明光記等に見ゆる唐太アイヌの穴居家屋に似たり。其、釘、其他の金具を少しも用ひず、又、周圍、戸、屋根等に鋸挽の術によらざる割板を用ひたるが如きは、思ふに、未だ鍛冶の術を知らざる種族の住宅なりしものならん。而して、其屋中より發見せられしものゝ中に、干支を記し、尺度を盛りたる一尺餘の木材あり。其尺度は、ほぼ唐尺に一致す。蓋、一種の計日器の類にして、思ふに、此家屋の居住者が、邦人より得しものならん。其年代は明ならざれども唐尺を使用する時代に於て此地方に住して邦人と交通せしものは蝦夷の外あるべらからずされば余はこの堅穴式家屋を以て蝦夷の遺物ならんと思ふなり人或は蝦夷の住宅としては、其稍精巧に過ぐるを疑ふものあり。然れども、唐尺使用の時代の日本人にして、鋸挽の術を知らず、金物を少しも使用せずして、これ程の家を建つる者ありとは思はれず。されど、若し此見解にして誤ならんには、此家屋は必ず邦人のものなりと解せざるべからず。而して、若し邦人の間に此風ありたりとせんには、そは、必ず、寒氣を防がんが爲に、其地方の蝦夷の住宅を眞似たるものならざるべからず。されば何れの點より考ふるも邦人が唐尺を使用する時代に於て此地方に於ける蝦夷が穴居の風を存せし事は明なりとす。論者或は云はん。米代川に於て發見せられたる穴居式家屋は邦人のにもあらず、蝦夷のにもあらず、余く別種族のものなるやも計り難からんと。然れども、余は、記録上、邦人が唐尺を使用する時代に於て、邦人と交通する蝦夷以外の人民を此等の地方に發見する能はざるなり。こは、國史の示すのみならず、平安朝の學者の令の解釋、亦、之を示せるものあり。賦役令に夷人雜類の調役に關する規定あり。義解に解して曰く、「夷とは夷狄なり、雜類は亦夷の種類なり」と。集解の釋に云ふ、「夷とは東夷なり、東夷を擧げて示す、餘は推して知るべし。雜類とは夷人の雜類を謂ふのみ」と。又、其引用の古記に云ふ。「夷人雜類とは、毛人、肥人、阿麻美人等の類を云ふなり。」と。而して、更に、夷人雜類とは一か二かの問を設けて、「本一にして末二なり、たとへば、隼人、毛人の本土、之を夷人と謂ふなり。此等の華夏に雜居する、之を雜類と云ふなり。一に云ふ、一種にして別なし。」と。此等の解釋云ふ所一樣ならざれども、要するに、奧羽地方に於て、邦人と交通せし他種族あるを認めざるなり。されば、雜類とは、松前氏統治時代に於ける北海道のシヤモだねの類にして、邦人と雜居せしものを云ひしなるべく、從つて、右の堅穴式家屋は、到底蝦夷又は邦人と別種のものゝ遺物なりとは、認め難きなり。
されば、余輩は、他に有力なる反證なき限りは、本島アイヌも、もとは穴居の状態にありしものにして、甞ては石器をも使用し、所謂津輕蝦夷即ち日の本蝦夷なる千島アイヌの状態にありしものなりし事を信ぜんとす。彼等が進歩したる民族と觸接するに及んで、麁蝦夷即ち唐子蝦夷となり、更に熟蝦夷即ち渡り黨の状態となれりとせば、千島アイヌと本島アイヌ、即ち、蝦夷とコロボツクルとは、博徳が都加留蝦夷と麁蝦夷とを同一蝦夷中の別種として認めたると同じく、ただ、進歩の程度に於ける區別に過ぎざるべきなり。
余輩が記録上より研究して得たる所は右の如し。若し夫れ、常陸風土記の大櫛岡貝塚に關する巨人の傳説の記事、續日本後紀、三代實録に見えたる出羽の石鏃を雨らしたる記事等を以て、此等の遺物遺蹟を殘したるものは蝦夷にあらずとなす説の如きは、其當時其地方に於ける蝦夷に此風習なかりしとの事を證するに止まりて、其以上の効力なき事は、已に、濱田耕作氏の辯明せられたる所(人類學會雜誌二百號七〇頁)にして、余輩は、其以上に、説を加ふるの要を見ず。
以上は、余輩が、主として記録上よりして下したる見解なり。考古學上の研究の結果、全國の石器時代の遺蹟が果して盡く同一の種族によりて遺れたるものなりや。或は他種族の遺蹟の混在せるを認容すべき餘地ありや、或は某の地方に限りて、其遺蹟に區別をなすを得べき希望ありや等の事實を知るは、先住種族渡來の方向と、其分布の状况とを知るに於て、最も重要なる事なれども、其研究は自ら別問題に屬す。今は、單に、蝦夷とコロボツクルとの異同を辨ずるに止めて筆を擱かん。
(明治四十年二月廿五日稿)





底本:「歴史地理 第九卷第三號」日本歴史地理學會
   1907(明治40)年3月1日発行
初出:「歴史地理 第九卷第三號」日本歴史地理學會
   1907(明治40)年3月1日発行
※初出時の署名は「文學士 喜田貞吉」です。
※変体仮名は現代仮名におきかえました。
※底本では「堅穴」を「竪穴」の意味で使用しています。
入力:しだひろし
校正:フクポー
2018年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「執/れんが」、U+24360    196-14、197-7、200-3
「王+睛のつくり」、U+249AD    202-10
「髟/舌」、U+9AFA    204-12


●図書カード