名称廃止以前のエタに対する幕府その他諸藩当路者の発した布告法令の文を見ると、その圧迫の甚だしかった状態は、実に悪寒戦慄を覚えしむるものがある。まず一例として、「穢多非人廃止令」の出た明治四年八月より僅かに八ヶ月前、五条の御誓文に於いて旧来の陋習を破りて天地の公道に基づくべしと宣し給える明治元年三月より三十三ヶ月の後なる、明治三年十二月に、和歌山藩が発した取締令を左に紹介する(土井為一君報告による)。
一、皮田の奴近年風儀不レ宜、間々不埒の義も有レ之候間、同奴共へ別紙箇条の通相触れさせ候事。
一、市中は勿論在中たりとも、通行の節片寄候て、往来の人へ聊も無礼ヶ間敷儀不レ可レ致事。
一、朝日之出より日之入迄之外、市中は勿論、町端たとも徘徊不二相成一。且在中にても、夜分妄に往来不二相成一事。
本文節分は夜五時迄、大晦日は夜九時迄、徘徊差免候事。
一、町内にて飲食致候儀不二相成一事。
一、雨天之外笠かぶりもの不二相成一事。
一、履物は草履の外総て不二相成一事。
これが同じ帝国内に生をうくる我が同胞の或る者に与えられた束縛であった。皮田はすなわちのエタで、皮田の奴は往来の人に無礼がましき事なき様云々の文の如きは、正しくエタを人間以外に見た書き方であると言わねばならぬ。これはむしろ極端の例で、地方によりて多少の寛厳の差はあったが、しかし大体に於いて相似たもので、武士に対しては勿論、町人・百姓に対しても、その屋内に入るを禁ぜられ、門構えの家では門外で草履をぬぎ、
かくの如き乱暴なる圧迫は、そもそもいかにして起ったか。またそれがいつの頃から始まったか。本編に於いていささかその沿革を研究してみたい。
エタに関する同情なき取締令の出ているのは、多くは徳川時代も中頃以後の事であった。江戸では天正十八年徳川家康の入国の際、前例により弾左衛門祖先に長吏以下の支配を命じ、大抵の事はその自治に任して、種々の公役に従事せしめた。すなわちエタは一種の村役人町役人の形であった。京都でも下村勝助に百九石七斗七升の高を与え、エタ頭として皮田村の仲間を統率し、別に役俸を与えて公役に従事せしめたのであった。その他諸藩に於いても、特に規則立ちたる取締りという程の事もなく、大抵は彼らの旧慣に任して、村方の雑役に服せしめたのである。したがって判断に困る様な問題の起った時には、領主より彼らに命じて、「穢多の水上」たる京都へ上って、従来の振合いを間合わさしめるという程の有様であった。丹後舞鶴領行永村ほか十二箇村のエタの如きは、延享元年に至って始めて全体を通じてのエタ頭を定められたのであって、それ迄は各自村限りの自治に委しておったものらしい。そして他の諸地方に於いても、大抵こんなものであったと察せられる。
かくの如き有様であったから、官庁並びに一般社会の彼らに対する待遇が、そう特別に彼らに対してこれを賤しんだという様な事は想像されぬ。別項「青屋考」中に述べた如く、細川・三好時代の阿波に於いては、一方に僧侶の或る者からは、エタ仲間と認められた青屋が甚だしく毛嫌いされていたが、一方では彼らは大名の小姓ともなり、
穢多ども着類其外諸品、百姓共へ申付候趣に准じ、尚以軽可レ仕。常々法外之仕方多有レ之様相聞不届に付、向後右様之類於レ有レ之は、所之庄屋五人与より申出候様申付候事。
とある。元禄の頃は当路者も多少エタの度外視し難い事を知って、その取締りに注意し出した頃であって、それが為に、右の様な命令も出たのであろうが、それでもなお服装その他百姓に準じ、幾分それよりも軽くすべし位の程度であったのである。これは単に阿波藩だけの例ではあるが、以て一般を類推するをうべく、従来エタが特別に百姓と区別された程の事のなかった事情が察せられる。実際彼らは後に説くが如く、むしろ村人から歓迎せられ、為政者から優待せられ、他人の
エタの本来いかなるものなるかは、別項「エタ源流考」に説いておいた。彼らは鎌倉・室町時代には、キヨメ或いは河原ノ者と呼ばれて、社寺都邑の掃除夫・井戸掘り・駕輿丁・植木屋などの雑職をつとめ、勿論その職掌上、世間から幾分賤視されてはいたであろうが、決して彼らのみが特別に穢れたものとして、疎外されるという様な事はなかったに相違ない。ことにその賤視されたのは、必ずしも彼らばかりではなかった。古代
千秋万歳法師 絵解 獅子舞 猿牽 鶯飼 鳥さし 鋸挽 石切 桂女 鬘捻 算置 薦僧 高野聖 巡礼 鐘敲 胸叩 へうぼう絵師 張殿 渡守 輿舁 農人 庭掃 材木売 竹売 結桶師 火鉢売 糖粽売 地黄煎売 箕作 樒売 菜売 鳥売
の三十二者の名を並べて、「こゝに我等三十余人、賤しき身、品同じきもの」と云っている。この中にも、輿舁・庭掃などの或る者は、所謂エタ源流の一つをもなしたものであるが、その庭掃、すなわち掃除夫が、歌合せに於いて農人と相合せられているが如きは、以て当時の状勢を見るべきものであろう。それ以外の多数の者は、大抵後までもエタの下と見られていたもので、世間からも余程軽くこれを扱っていた。「鎌倉殿中問答記録」に、「鍛冶・番匠の様なる云甲斐なき者」と云い、「当道要集」に、「
エタを特別に賤しんだものは、彼らが穢物に触れ、或いは殺生・肉食等を行ったという点から、仏教家並びに両部神道家の忌むところとなった為である。されば一方では、武家が祇園御霊会の神輿を舁かしめ、
官人騎レ馬射レ狗、以為二攘災之儀一。辞狗難二卒 獲一。有下取二十銭一捉二一疋一者上。蓋人中最下之種、屠二死牛馬一、為レ食者也。
とある。この文安三年という年は、偶然にもかの「河原ノ者をエッタと云ふは何の字ぞ」との問を起して、これを説明した、「

エタが死牛馬を屠ってその肉を食ったという事については、別項の「上代肉食考」を参照されたい。牛馬は人を助け世を益するのものであるとの理由を以て、これを屠殺することを禁ぜられた。もはや使役に堪えざる老牛馬といえども、決してこれを殺す事は出来ない。したがって牛馬はその斃死するを待ってエタの手に渡し、その皮を剥いで社会の必要品たる皮革の原料を供給せしめるのであった。今日生牛馬を屠殺して肉を食うの習慣ある時代の目を以てこれを見れば、死牛馬の肉を食ったと云えば、直ちに伝染病などによって斃死したもののことを連想して、いかにもいやな感じを起させる様ではあるが、昔は実際上死牛馬以外に
凡本邦屠二牛馬犬豚一者、俗称二穢多・皮剥一。此是市中之下視、至卑而乞食疲極之長也。故不レ能レ窺二神明高貴之庭※[#「土へん+犀」、U+5880、135-14]一、而士農工商倶嫌‐二忌之一。寔所三以本邦為二穢忌之最一。而不三独悪二皮膠之臭一矣。
とあるのは事実を得ていない。この書は元禄八年の著で、正に生類憐みの令を出した時代の産物としては、かかる言のあるのにも不思議のない様ではあるが、しかもその後四年阿波藩の令に、エタがなお服装その他百姓に準じて軽くすべし位の程度であってみれば、事実上一般にはまだそう彼らを甚だしく賤しんだとは思われぬ。またその謂うところ「神明高貴の庭※[#「土へん+犀」、U+5880、136-3]を窺ふ能はず」とあるのは、明らかに事実ではない。祇園祭の警固に立った犬神人は靴作で、もとエタと同類であった。その他の祭礼の警固にも、この徒の出る事は珍らしくなきのみならず、自ら祇園や白山を氏神として祭っている部落は幾らでもあるのである。またかしこくも禁中には、小法師のエタを近づけて、あえて穢となし給わなかったのである。ことに「食鑑」の著者の自ら謂う如く、エタが獣皮から作った
要するにエタの特に賤まるるに至ったのは、主として一部の仏教家の偏見と、その不徹底なる感情とから来ったものにほかならぬ。したがって仏教のまだ社会に普及しなかった時代には、彼らを賤むの念もまた広く普及しなかったに相違ない。しかるに徳川幕府が切支丹宗を禁ずるの方便として、天下の人民ことごとく仏教に帰依せしめ、必ず何らかの寺院の檀徒なるを要とするに至って、彼らを忌むの念は自ずから一般に普及するに至ったのに相違ない。しかも一般世人が特に彼らを嫌悪し、当路者が残酷なる圧迫をこれに加うるに至ったのについては、さらに他に大なる原因の存するものがある。
言うまでもなくエタは一種の必要なる労働者であった。ことに触穢禁忌の念の盛んな時代には、どこにも必要欠くべからざる村役人であった。死牛馬の始末[#「死牛馬の始末」は底本では「死牛馬の始未」]、汚物の取片付け、兼ねては境域内外の警邏等の為には、必ず彼らを要したのである。そこで京都の大きな官署を始め、有力なる社寺にも、大きな町村にも、大抵はこれを付属せしめて置いた。ことに戦国時代、各地に小城主が割拠した頃にあっては、武具の調進・城下の掃除等の為に、是非とも彼らは必要であった。徳川時代の諸大名の城下・陣屋等にあっては、特に刑罰執行者としての彼らの必要があった。しかるに当時彼らの数は甚だ少かった。勿論今日より、精密に古代の彼らの数を知ることは困難であるが、各地のエタ村についてその起原沿革を調査してみると、ほぼその状態を推測することが出来る。この事は別項「特殊部落の人口増殖」の編中に詳説しておいたから、ここには略するが、要するに、彼らがもと数に於いて甚だ少いものであった事は疑いを容れない。
およそ物品の価値は無論生産費の多少にも基づくが、その高下は主として需要供給の関係によって定まるものである。労働者とてもその通りで、需要多くして供給少い場合には、高給を以て招かれる、歓迎せられる、優待せられる、これ自然の勢いである。当初供給の少く、需要の比較的多かった時代のエタは、必ずこの状態であったに相違ない。彼らの執った職業は、当時に於いて人の忌がるものであったが故に、これを独占してこれに従事した彼らは、各地に必要なるものとして、必ず種々の特権を以て招かれ、歓迎せられ、優待せられたに相違ない。この際に於いて彼らが、世人から排斥せられ、圧迫せられたという様な事のあるべき筈がない。果然彼らは芝居の櫓銭、市店の棚銭の徴集、その他地方によって相違はあるが、ともかく種々の特権を与えられ、また別に独占の工業を有して、安楽なる生活を送っておったのである。古代のエタに富有者が多かったとの事は、別項「特殊部落と細民部落・密集部落」の中に説いておいた。
因は果を結び、果は因を生ずる。彼らの堕落はますます彼らをして堕落せしめる。彼らは過剰の人口を自己の村落内に於いて、与えられたる職業によって、始末せねばならなかった。水が器に充つれば必ず溢れる。狭い範囲に収容し切れない彼らの過剰者は、勢い自己の社会外に生活の途を求めねばならぬ。ここに於いてか有為の才を抱いたものは、町人・百姓の間に紛れこんで、そこに自分の立脚地を得ようとする。素性を隠して武家奉公や、下女下男奉公するものも出て来る。品性の下劣なものはしばしば世間に向かって嫌悪さるるの種を蒔く。あたかも現代の我が国民が、海外に雄飛の地を尋ねて、或いは労働に生活の道を求めて、加州や濠洲で問題を起している様な事が、当時も頻々として生じたに違いない。ここに於いてか為政者は、いよいよエタ問題の
江戸や京都などでは、早くからエタ頭があって、エタに関する事件を委任せられていたが、当初はそれで以て別に困難な問題も起らなかった様である。また地方でも大抵エタ頭を置かず、普通の村役人が百姓と共にこれを扱っていた場合が多かった様である。しかるに延享に始めて舞鶴領の頭が出来た様に、後にはだんだん各地方にも頭を置く様にはなったが、それでもやはり村役人がその上に立ってこれを統率していたのが多い。そしてそのエタに対する取扱いたるや、元禄十二年に服装その他百姓に準じてなお軽くせよと令した徳島藩でも、その後十四年の正徳三年に至っては、エタの
しかるにその阿波に於いても、正徳三年からは帳面までも別にせしめる事になった。次いで享保に至っては、江戸でも、京都でも、エタの由緒調査の事が始まった。弾左衛門が始めてその由緒を書上げたのは享保四年である。京都に於いてはこれよりも先二年、町奉行から天部・六条・北小路等の由緒を書き上げしめた。この年に提出した天部の由緒の控えは今も遺っている。「青屋考」中に引用した、京都町奉行扱いの「穢多青屋勤方の事」というのも、この年の制定であった。この頃の大坂城代支配下の地域を書き表わしたと思われる地図に、たとい二戸・三戸の場所までも漏らさず、詳しく皮多村・穢多村を標記しているのも、当路者が彼らに注意を払っていた情況を語るものではあるまいか。享保八年に幕府が非人の斬髪を励行し、冠り物を禁じて、一見町人・百姓と区別の出来る様にしたのも、この頃の方針を見るに足ることと思われる。
かくの如くにしてエタ・非人に対する取締りは、だんだんと表われて来た。享保二年の後二十七年、延享元年に至っては、舞鶴藩の如き地方にも、始めてエタ頭を命じ、彼らの自治に任せる事にもなった。この頃のエタ扱いの大体の方針は、エタをして一見町人・百姓と区別し、これに紛れ込まない様にせしめるにあった。しかしなお未だエタを甚だしく疎外して、まるで別物の如く扱うという風はあまりなかったらしい。徳島藩にてはその後七年の寛政四(宝暦元)年に、左の如き取扱い方を示している。
一、諸願之義は村役人・当役人添書にて紙面指出候。
一、養子取組之義は百姓に同断、(中略)
一、穢多牢舎中病気療法之義旧例無之旨、町御奉行より申来候へども、牢中は同様の義に候へば、牢医に申付様被二仰付一候事。
すなわち諸願書にはエタ年寄の外に村役人の添書を要してこれを監督せしめる様な、特別の扱い方はあったけれども、大体百姓に対するのと違いはなく、世間では町人・百姓とエタとを区別しても、牢屋の中では依然その区別を立てず、後世の様に「穢多の議に候へば」などいう文句付きで、エタ頭に引き渡す事もなく、同じくこれを領分内の人民として、刑を実施していたのであった。
幕府が絶対にエタ・非人を町人・百姓から区別すべく厳命したのは、右の宝暦元年を後るる二十七年後の安永七年で、「百姓町人体に紛らし候ものは厳敷御仕置申付け候」とあった。これけだしエタを圧迫して狭い彼らの社会内に押し詰め、なるべく世間との関係を生ぜしめないという方針であったのである。しかしながら彼らの人口の増殖は、到底外に溢れる事を禁ずることが出来ぬ。彼らは相変らず或いは身分を隠して武家奉公をする。下女下男奉公するものもあれば、娼妓となるものもある。中には媒酌が立って、立派に百姓と縁組するものすらもあった。かくの如きの事実は、一方に当路者がやかましくこれを取締り、また一部人士が極端にこれを嫌がっていた程にも、世間ではなおこれを疎外しない地方が少くなかった事を示したものである。前にも言った如く、現に遠州の或る地方では、幕末頃までもなお穢多足洗の習慣を認めておった様に、地方によって相変らず待遇の寛厳がまちまちであった事と察せられる。ここに於いて当路者の取締りはますます厳重になった。寛政八年の太田備中守口達に、
当四月二十九日評議いたし可二申上一旨御渡相成候穢多之娘売女等に致し候もの、穢多の身分を乍レ弁、素人之交り為レ致候段、不届に候。依レ之右様之儀兼々穢多共に申渡置可レ然哉之旨、被二仰聞一候。(中略)今般御趣意之趣、弾左衛門は勿論、其外遠国之儀も、其支配御代官・領主・地頭より、其所之穢多頭共に為二申渡一、此上若紛敷義有レ之候当人は勿論、其支配之穢多頭共御仕置可レ被二仰付一旨、一統に御触有レ之可レ然哉に奉レ存候。
とある。柳瀬君によると、この寛政年中には、丹波・丹後・摂津等のエタが、多人数百姓・町人へ奉公したが為に、それぞれ処罰せられた事が見えている。また丹波何鹿郡上林庄殿村のエタの娘きちを、同郡安国寺村のエタ善助が媒介して、摂津西成郡下新庄村の百姓幸七の女房になしたので、本人きち・媒介入善助・きちの親くに、共に処罰された事もあった。善助はまたきちの妹とめも百姓家へ奉公に世話していたのである。京都市内散在のエタを外に移したのも、この頃であった。
寛政頃からエタに対する圧迫はますますひどくなった様である。彼らが特別に世間から虐遇せられる様になったのは、実に今から僅かに百余年以来の事だとは、案外千万の感がないでもないが、法令布達の文は常にこれを証明している。彼らに対して新しい問題が起る度毎に、新規な例が開けてますます圧迫はひどくなる。ことに文化・文政以来一層それが甚だしくなっている様である。
およそ人類は威張る事の出来る場合には出来るだけ威張りたがるの性質を有しているものである。ことに武士から
エタの被った残酷なる圧迫は、彼らが穢れたものだと誤解せられた点に素因を有している。しかしながらその圧迫を劇甚ならしめた直接の動機は、彼らの人口増加から起った生活難の結果である。彼らにして是非とも一般人民と区別せしむるを必要とするならば、これに圧迫を加えてその溢出を防ぐのは社会自衛上やむをえぬ手段であったかもしれぬ。これに対して反抗を続け、間隙を求めて逸出を図るの事は、また彼らにとって自己生存上の当然の要求であらねばならぬ。しかもこの闘争に於いて、彼らの取った手段は常に拙劣であった。これが為に彼らは一層当路者と一般世間の嫌悪を招き、結局敗残の極みに陥ってしまったのである。今やエタ非人の称廃せられてよりここに半百年に近く、彼らは既に久しく帝国臣民として何ら区別のないものとなっているのである。しかも世間はなおその圧迫を全然解放するに至らず、帝国民中五十分の一にも相当する多数の同胞を不遇の地に放置することは、まことに昭代の恨事と言わねばならぬ。
(完)