私はただ今添田地方局長から御紹介になりました喜田貞吉でございます。本日特殊部落改善救護の事に御熱心な諸君のこの御集まりの席へ出まして、所謂特殊部落の事に関し、
不束かなる研究の一斑を述べさせて戴くの機会を得ましたのは、私にとってまことに光栄であり、かつまた幸福であることと存じます。
大体私は日本の古代史を専門に研究致している者でございまして、その研究上から、日本の民族を明らかにするという必要を感じました結果、近年種々の方面から、広くこの方の材料を蒐集し、不十分ながらも潜心これが調査研究に従事致しているのであります。その調査研究の結果は、これまでかねて私どもの仲間で二十年来発行している、「歴史地理」という雑誌上に掲載しておりましたけれども、段々材料も殖えて参りまするし、一方には時勢の要求も多くなりまして、とてもその雑誌上のみでこれを発表する事が出来なくなりました。また該雑誌の性質としましても、民族に関する事ばかりを多く載せるということも、事情が許しませぬ。そこで本年から、その雑誌とは別に、特に民族方面の事を主として掲載する機関と致して、単独で「民族と歴史」という小雑誌を発行する事に致しました。あたかもその際丸山救護課長から、今回の御集まりのあることを承りまして、ただ今この席に於いて、私の民族研究の一部分たる、所謂特殊部落に関した事項を申し述ぶるの機会を得ましたのでありまして、時にとりまして特に私の愉快に感ずるところでございます。
一と口に日本の民族と申しましても、余程漠然たるもので、詳しく申さば沿革上種々の系統、種々の階級にも分れるのでありますが、私の研究はその全体にわたったもので、特に或る一部分の研究にもっぱら没頭しているという訳ではありません。しかしここにお集まりの諸君は、その中について、特に所謂特殊部落、内務省では細民部落と云っておられますところの、或る特別なる一部族について、その改善救護に御尽力をなさいまする御方々でありますから、私も本日は、特にこの方面の事について申し述べさせて戴きたいと思うのであります。
特殊部落の研究は、今日ことにその必要を感ぜられている事と存じます。それはわざわざ私が申し述べずとも、諸君も御同感の事と存じます。御承知の如く、欧州大戦の結果と致して、民族自決とか、人種差別撤廃とか申す事は、全世界の問題となっております。過激思想の波及ということも、世界一般を恐怖させているのであります。この際に於いて、これを内にしては昨年の米騒動という事件もありました。それ以来この特殊部落の問題は、余程一般社会の注意を引く事になっていると存じます。私はこの部落民が、果して多く米騒動に関係した事実ありや否やを詳かにしませぬ。しかし仮りに関係があったとすれば、それは幾分彼らの境遇、特に彼らの一般社会に対する反感が、これをなさしめたのでありまして、その原因を尋ねたならば、世人は彼らの暴をのみ憎むよりも、まずこれをなすに至らしめた境遇に同情せねばなりません。そして将来の警戒を考えねばなりません。そこで私は、彼らをこの境遇に陥れるに至った由来を研究して、これが根本的解決を与うるの資料を提供するを以て、我々学徒の任務であり、また今日の急務であると信ずるのであります。
大体特殊部落という様な、他の社会から区別されたる或る部族が存在しているということは、我が帝国の現行法の上から申さば、まことに妙な現象でございます。しかしながら、多年の因襲というのは強いものでありまして、その結果として、表面には何ら区別はなくとも、内々にはなかなかこの区別が除かれないのであります。特に関西地方に於いて、この傾向が甚だ多く認められるのでございます。これには種々の沿革がありまして、結局彼らは普通一般の人民から除外されるということになっているのでございます。そこで私は、何よりもまずその除外せられるに至った原因を明らかにし、区別のなくなった前例を調査することが、この区別を撤去し、彼らを事実上の自由民たらしむる上に、最も必要なことだと考えております。彼らを改善救済するという事については、官庁に於いてもこれを以て一の事業と致し、或いは社会改良の上に御熱心なお方々、特に彼らの境遇に同情を寄せらるる御熱心な方々の、これに関する御尽力はこれまでも始終あることでありまして、その結果として彼らは、過去に於いて既に余程改善せられたのでありましょうし、将来に於いてますます改善せらるべきものであることは、断じて疑わぬのでありますが、果してそれが改善されたとしても、やはり「改善されたる特殊部落」として、相変らず区別せられている様ではよろしくない。実を言わば一般世間にも彼らに劣らない、或いは時として彼ら以上の低級な境遇にいる者は少くない。また彼らの中にも、立派な生活をなし、立派な人格を備えたものは少からんのであります。しかるに一般世間のその低級者は、その割合に世人から嫌われずして、彼らの中の立派なものまでが、依然として区別されているというのは、一体どうした事でありましょうか。まずこの理由を明らかにしなければ、ただ御規則の上では同一の平民である、一般人民と何ら区別のない帝国臣民であるということをのみ申しましても、実際心の底から打解けて、一般世人が彼らを自分らと同じ仲間に入れるということは、なかなかむつかしいのであります。また彼ら自身に於きましても、自分らが何が故に世人から区別さるるかということが分らずして、世間の圧迫に対していたずらに反感を起し、自暴自棄するということでありましては、到底世間と融和して行くことがむつかしかろうと存じます。もし私に忌憚なく言わせまするならば、特殊部落改善とか、或いは細民部落救護とかいう事業の必要は、もとよりのことではありますが、これにも増して、特殊部落もしくは細民部落の事実上の解放ということが、最も必要なのではなかろうかと思うのであります。明治四年に彼らは制度の上からは解放されました。しかし事実の上ではまだ解放されていないのが多いのであります。この部落に何らかの名称を付けて、これを区別するの必要があるということは、まだ事実上解放されておらぬ証拠であります。しかしてこの区別を立てるということは、彼らが非常に苦痛とするところであります。或いは特殊部落とか、或いは細民部落とか、或いは後進部落・密集部落とか、種々の名前を御考案になる方もありますけれども、到底彼らの満足する名は得られませぬ。本来区別そのものが、まことによろしくないのであります。もとより彼らに何らかの区別を致す必要がある間は、必ず何とか名がなければならぬのでありますが、理想としてはこの区別を撤廃し、実際細民を救済する必要があれば、一般世間の細民と共にこれを救済し、実際不良な点を改善する必要があれば、一般世間の不良分子と共にこれを改善するという風になりたいのであります。そして彼らの仲間であっても、改善救済の必要なきものは、これを除外しているということを、明らかに示したいのであります。彼らが区別さるるが為に被る不利益不愉快は実に甚だしいもので、その実際を知ったものは、
何人も同情せずにはおられません。私はこれまでも十数年来特殊民の研究に興味を感じまして、しばしば部落内に出入しておりますが、この際彼らが訴えるところの第一は、願わくば部落民として区別することを止めてもらいたいというのであります。彼らは世間から区別さるるが故に、自ら改善しようとしても、到底改善することが出来ないと訴えております。私の懇意にしている郷里の一部落民は、果物などの行商をしておりますが、彼は私にこう訴えました。自分らは常に農家で品物を仕入れて、それを市街地で売っているのであるが、その品物が潤沢でありさえすれば、一般世間の人々と同様に売ってもくれるけれども、品が少い時には自然に後廻しにされる。そこで勢い競争しても高く買わねば商品が手に入らぬ。しかるにそれを売る場合になると、他に競争者のある時には、いつも後廻しにされる。そこで勢い安く売って得意をつながなければならぬ。高く買って安く売る。これでどうして生活や品性の改善が出来よう。貧乏暮らしもやむをえねば、たまには欺せる場合にお客を欺すという様な不心得者の出るのも、実際やむをえぬ事であると、こう云っております。また或る者はこう訴えます。自分らは営業上他の便利の地に住もうと思っても、土地家屋が容易に手に入らぬ。やっと手に入れたものがあっても近所のものが交際してくれぬから、遂にはもとの古巣に戻って来る。かくて限りある土地に限りなく増殖する人口を容れるのであるから、勢い所謂密集部落ともなるのである。不潔だ不衛生だなどと、贅沢な余裕がどこにあろうと、こう云っております。つまりは区別されるということがひどく邪魔になって、彼らが自ら改善しようとしても、到底改善する事が出来ない、自然と一般社会に対して、その進歩に後れ、反感を有する事ともなるのだと言うのであります。まことにもっともな事で、理論としては全然彼らを解放し、もはや区別の必要のない様にする事には、何人も異議がないでありましょう。
彼らの中には、せめて特殊部落とか新平民とかいう様な、いやな名前だけをでも廃してもらいたいと云うものがあります。しかし特殊部落という名称に不都合はない。ただ特殊な部落だという意味から云うと、特殊部落という名称には少しも悪い意味はないのであります。しかし実際上今日では、特殊部落という名称は特殊に卑しめられている部落ということになっております。どうかその名を止めてもらいたいというのは、無理ならぬ事でありますが、これは全く無意味であります。彼らにたとい華族様という名前を付けても、その華族様の内容が実際卑しいものであっては何にもならぬ。先生ということは長者を尊敬する語でありますが、時には「先生と言われる程の馬鹿でなし」ということにもなります。名前は何とあっても同じことでありまして、その内容によって名前の意味は善くも悪しくも変るものであります。貴公とか貴様とかいうことは、この上もなく先方を尊敬した語でありますが、これが安売りせられた結果、今では相手を卑しめる言葉になった。近く封建時代の例を引きますと、武士というものは大そうに威張っておりまして、町人・百姓を
虫けら同様に取扱っておりましたが、その武士はもと何かと申すと、所謂
侍である。
侍はもと卑しい者でありまして、貴人とか老人とかの側に始終
さむらうてこれを保護し、身の廻りの用を達す者であります。今で云えば給仕というのがこれに当る。今は普通に「給仕」と書きますが、本来は「給侍」で、貴人・老人にお上から給わった
侍です。そういう訳で、
侍とは身分の極めて卑しいもので、
大宝令という千二百余年前の法令には、八十歳以上及び篤疾すなわち気違いとか片輪とかの者には、お上から
侍一人を給わる。九十歳以上に二人、百歳以上に五人を給わるともあります。すなわち給侍です。その同じ名の
侍が、武芸を練習して主人たる人の護衛をなし、主人が立身するに伴って己が身分も高くなり、遂に武士になってしまったのであります。もとは卑しい
侍という名称も、ここに至って
何人かこれを賤しみましょう。後には敬称を付けて御侍ということにもなってしまいました。
また徳川時代に将軍直参の士に
御家人というのがあります。鎌倉時代から大そうえらい者でありまして、当時の
大名衆を
御家人と呼んでおります。ところがこの
御家人という名称はどうかと申すと、もとこれは賤民中の一つの階級の名称でありました。昔の法律では、立派に賤民の制度が定まっておりまして、それには種々の階級がありました。その一つに
家人というのがあります。賤民でありますから、無論良民すなわち普通の人民と結婚することも出来なければ、全く主人の私有財産で、代々
家人としてその主家に仕えていたのであります。そういう卑しい
家人という名称の者でも、実力さえあればその主人が段々と勢力を得るに従って、身分が高くなる。平安朝には源平の立派な武士が自ら好んで摂政・関白などの家人になり、源・平二氏等、皇室から分れた立派な家柄の身を以て、好んで賤民の列に投じ、主人の威を藉って勢力を振っておりました。かくて源頼朝が大成功をして、遂に天下の権を掌握することになりますと、その下に付いていた
家人、すなわち大宝令の制度から申さば賤民であるべき筈の者どもが、立派な
大名になってしまった。すなわち北条時政とか、畠山重忠とか、梶原景時とかいうような、一国或いは数国を領する様な
大大名になってしまった。そこで大江広元とか、中原親能とか、三善康信とかいうような、立派な京都の
公家衆までが、自ら身をこの
家人なる賤民の群に投じて、幕府の政治に参与する。ついにその子孫には、今日毛利公爵の如き立派なお方が、この鎌倉の
御家人なる、大江広元の後に出ているのであります。かかる際に於いて、何人か
家人を以て卑しいものだと云いましょう。その名は賤しいままでも、内容が改まれば立派なものになる。立派な身分のものもこれに加わる。これは単に名称の問題でありまして、名称はその実質に伴って常に価値が改まる訳で、
家人とか
侍とかいう卑しいままの名称でも、その実質が立派になれば、誰もこれを賤しとせぬのみならず、その名前そのものまでも立派になって、世人の
憧憬の
的となるのであります。貴公とか貴様とかいって尊敬してみても、実際これにあたる相手の内容が悪い者であれば、遂にはこれを馬鹿にしたことになるのであります。近ごろ料理屋などには、廊下の突当りなどに「化粧室」と札を打つのを見ることがある。妙なところに化粧室があるものだと問うてみると、これは便所でありました。便所という名が不潔だから、改めたのだとの事であります。便所と云い、
手水場と云い、
雪隠と云い、
はばかりと云う名には、少しも不潔な意味はありません。もと糞尿処という穢ない名を避けて択んだものでありますが、それが穢れた物に付いておっては、いつの間にか汚なくなる。次へ次へと新しい名を工夫しますが、いつの間にかやはり汚なくなる。新平民と云い、特殊部落と云うも、その内容から尊卑の意味が定まるのであります。同じ新でも、何人か内容の立派な新華族を賤しとして嫌うものがありましょう。もしそれを嫌えば、それは旧華族の負惜しみです。特殊部落と云ってもそうです。彼らの実質が立派なもので、親しむべきものである。信頼すべき者であるということになれば、この特殊部落という名称が、特殊に親しむべく、特殊に信頼すべきものになるのであります。こういう実例は歴史上から申しますれば、幾らでもあります。また新平民という名も同様でありまして、名の上に少しも悪い意味はない。祖先の余徳によって爵位を有し、蔭で馬鹿殿様など云われているものよりは、実力で得た新華族の方が幾ら名誉だか知れません。考え様によっては物は古いよりも新しいのがよい。要するに名称の問題よりも必要なのは実質の改善です。私は区別撤廃を最も希望するのでありますが、彼ら自身としては、
侍が武士になり、
家人が大名になったと同様に、特殊部落のままで特殊に親しむべく、信頼すべき部落になり、新平民のままでも、新進気鋭の人民であると云う程の意気を以て、実質を改良するの念が彼らにあって欲しいと思います。
名の詮索よりも最も大切なのは、これを事実上に解放して、自他の区別をなすの必要なきに至らしめるということであります。過去に於ける賤民は、実際上段々と解放されております。これも実例について申しますならば、歴史上その事実は無数にあります。まず近いところで今日普通に特殊部落と言っておりますものは、主としてもと穢多と呼ばれたものでありますが、徳川時代には、穢多非人と並べ称して、非人の数も随分多いのでありました。その職業は種々ありますが、中にも皮を扱い、肉を食うの習慣を有したものは、穢多として区別せられ、その以外の各種のものは、一括して非人ということになっておりました。しかるにその非人は大抵どこかへ消えてしまって、今日特殊部落になっておりますものは、大部分もとの穢多であります。もと穢多と非人とはどっちが卑しかったかと申すと、少くとも徳川時代の法令の上では、同一に穢多非人と並称しまして、もしこれを区別するならば、むしろ非人の方が低いものになっておりました。その制度は、江戸を中心とした関東と、京を中心とした関西とに、扱い方の相違もありましたが、大体穢多非人は共に天下の公民としては認めておりませぬ。そうでありましたから、幕府の法律は直接穢多非人には及びませぬ。彼らにはそれぞれ頭がありまして、大抵はその自治に任しておりました。したがって穢多非人の犯罪者の如きも、この頭に引渡して、彼らの仲間の刑法に任すという有様であったのであります。その穢多と非人とどちらが多かったかと申すと、今日正確な数を知る事は出来ませぬが、少くとも京都付近では、非人の方が非常に多かった。正徳五年(今より二百四年前)の調べに、洛外の非人の数八千五百六人に対して、穢多の数は僅かに二千六十四人しかありません。しかるに、その後非人という方はだんだん減じまして、明治四年穢多非人解放の際には、全国で穢多二十八万三百十一人、非人二万三千四百八十人、皮作等雑種七万九千九十五人とあります。この皮作はやはり穢多の仲間です。これは維新前に於いて、既に多数の非人が消えてしまった、すなわち良民に混じてしまった証拠であります。維新後に於いても、非人という方は大抵解放されまして、もはや世人は彼らを特殊部落民であるとは考えなくなっているのが多いのであります。京都付近でこれまで
小屋者と言われていた悲田院の部落のものの中で、今日なお特殊部落として認められているものは、僅かに柳原の一部に住んでいるもののみで、一般民からはなお多少の区別をするのがあっても、今は官署の統計上にもその別は認めておらんのであります。これらのもと非人と言われたものの中で、最も種類の多いのは雑多の遊芸者でありますが、その中でも
散楽すなわち
能役者の如きは、室町時代から解放せられて、立派な身分となっているのであります。もっともこの仲間にも、
手猿楽・
辻能などと称して、後までも非人扱いになったのもありますが、近ごろ著しいのはかの俳優すなわち歌舞伎役者であります。彼らももとは非人の一つに数えられて、河原者・河原乞食などという名称があったのみならず、名優であってももと非人部落と言われていた中から出たのも少からんことでありますが、今日では芸術家ということになりまして、貴顕紳士とも交際し、何人もこれを以て特に賤しいものだとは認めなくなりました。こうなって参りますると、もとからの非人でない、立派な身分の人々までも、自ら進んでその仲間に這入って参ります。某文学博士の令息とか、某代議士の令嬢とかいう様な方まで、俳優となって少しも恥かしいとは思いません。もとは河原乞食と言われていても、今は俳優として立派に大道を闊歩して行けるようになっております。近ごろ世に持て囃されるかの某少女歌劇の少女達も、昔であれば
乞胸と云って、その頭の仁太夫の支配を受けなければならなかったのでありましょうが、今日ではよい身分の人々の娘さんたちの寄り合いで、監督も厳重だし、教育の手当ても行き届き、内容実質共に賤しいものでありません。これは畢竟役者という者が、事実上非人階級から解放された結果であります。今日に於いて何人も、役者を以て特殊部落民の仲間だなどと考える者はありませぬ。しかし地方に依りますと、彼らがまだ非人時代からのもとの部落に住んでいるが為に、依然として付近のものからは、特殊民の待遇を受けている例がないでもありません。播磨・但馬などにも、この例があるそうでありますが、私が最近調査しましたのは、日向の佐土原付近にある部落です。これはもと万歳・春駒などをやっていたものでありまして、その流れを汲んで今以て全村の八九割までが俳優であります。生活程度も向上してもはや特殊部落として改善を呼号するの必要はない程のものでありますが、もとの地に依然として一つの部落を成しているが為に、今以て付近の人々からは特別の待遇を受けて、他とは結婚もしない、交際もしないということになっているそうであります。また部落を成しておらぬものでも、旅役者などはやはり賤しめらるる場合が多いのでありますが、大体に於いてこの階級の人々は、つとに解放されているのであります。したがって今日では、もはや彼らを呼ぶに小屋者などと賤しめた称をするものもありませんが、やはり旧時の記念として、今以て歌舞伎座のような立派な建築物でも、また帝国劇場のような新しいハイカラなものでも、彼らは自らこれを
小屋と称しております。これはたまたま芝居小屋時代の名残りが残っているのであります。
俳優以外にももと非人仲間の者は、その種類多く、茶筅・鉢屋など言われたもので、依然集合的の部落をなして、なお今日特殊の待遇を受けているのも少くはないのでありますが、その部落をなしていない者は、大抵つとに解放されているのであります。しかるに気の毒にももと穢多といわれた者だけは、明治四年の解放も実は単に新平民の名を得たのみであって、実際上にはその全部が永く後に取り残さるることになっております。これは穢多は穢れたものであるという思想と、「穢多」という同情なき文字とが
累いをなしているのであります。もちろん彼らが貧乏である、不潔である、品性の下等なものが多いという様なこと、特に密集して住んでいて、団結心強く、世間に反抗する思想を持っていると認められていることなども、その理由をなしているのでありましょうが、第一にはこの「穢多」という文字が悪いと思います。「穢多」と書くが故に特別に穢れたのだとの観念が去りにくい。彼らが密集しているというのは、彼らが住居の自由を得ないで、狭い地内に頻りに繁殖するからで、そして社会の圧迫に対しては、どうしても反抗心が起る、自己生存の上からどうしても団結を固くしなければならぬ。自衛上彼らは普通民の如くそう勝手に分散することが出来ない。また分散しようとしても、世間がこれを許さない場合が多い。それが習い性となって、今日当局者や有志者が、百方勧誘して彼らを分散せしめようと思っても、彼らは容易に分散しない。実際彼ら自身分散してみても、社会がそれを容れない。隣の人も交際を嫌うというような事がありまして、またもとの村に戻って来る。かくて貧乏がますます貧乏になる。不潔がますます不潔になる。よしやますますなるという程でないまでも、一般社会の生活の向上に伴わずして、世の進歩に後れているから、彼此の間隔が多くなって、貧乏にも見え、不潔にも見える。品性が下等なのが多いと言われるのも実際やむをえないのであります。そしてこれらの原因は、もとをただせば主として社会の圧迫にあるのであって、彼らのみを責めるのは残酷であります。
実際社会の状態を見れば、貧乏であり、不潔であり、品性が下等で、密集して住んでいるものは、実は所謂特殊部落以外にも少くない。しかるに何故に彼らのみが特に嫌われるかというと、それは彼らがもと穢多であったからである。穢多は肉や皮を扱う。それは神様のお嫌いになるものである、彼らの身は穢れたものであるという迷信が、彼らがもと最も卑しめられるに至った理由であります。これは奈良朝から平安朝にかけまして、仏法が盛んになった結果、殺生を忌む、肉食を嫌う、ということになりましたが為です。しかしながら、本来日本人はみな狩猟・漁業の民でありました。神様にも動物の肉を供え、
畏くも古代の天子様は、御
親ら肉食を遊ばされたのであります。また今日では、一般人民殆ど肉食をせぬものはありません。また皮を扱うものを以て賤しいとも致しません。随分立派な身分の御方でも、皮革会社の社長になり、取締役になって、少しも疑わないのであります。されば実際上肉と皮とが穢多になるおもな原因であったとすれば、我らの祖先はみな穢多仲間であり、今日の日本人もまた穢多仲間に這入っているのであります。しからば職業としては、彼らの執っておった、また今も多くこれに関係しているところのものは、もはや解放されたと云ってよろしいのでありますが、それで以てなお多年の因襲の結果、何だか変ったもののように区別されているのであります。
肉食を以て穢れとするという思想は、実際日本には古くはなかったことであります。天武天皇朝におきまして、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食うことを禁ずという詔がありましたが、これは人間に益をなす家畜を殺すに忍びぬ、人によく似た高等動物を殺すに忍びぬという
慈悲忍辱の心から来たので、その前にはこの類のものでも、遠慮なく殺して喰っておりました。神武天皇に牛酒の御馳走をさしあげたということもあります。天子様が鹿や猪の肉を召し上がることは平安朝までもありました。天武天皇の詔も、ただ牛・馬・犬・猿・鶏の五つのものを肉食の目的で殺すことをお止めになったので、決して肉食をお禁じになったのではありません。
しかるに仏法が盛んになり、遂に神道の上にまで手をつけて、神は肉を忌み給うもの、肉を喰ったものは神に近づく事が出来ぬものという思想がだんだん起って参りまして、これを扱うものは穢れたものという事になりました。仁明天皇の頃に、京都の鴨川の上流で鹿を狩るものがあって、これを屠る血が流れて、賀茂の神社に穢れが及ぶからということで、これを禁じたというようなこともありました。この様な時代に死牛馬の皮を剥ぎ、その肉を喰うものが穢れた者として賤しめられたのは、実際やむをえなんだのでありますが、職業上から言えばこれも必要でありまして、いずれは死ぬ筈の牛馬の始末をするものもなければならず、ことにそれから皮革を製造するものも、武器を作ったり鼓を張ったり、そのほかにも需要多き皮を製造する上から申しても、是非なければならぬ者でありました。さればもし職業の上から言えば、彼らはむしろ賞すべきものであったのであります。身を挺して人の嫌がる職に従事したものは、特別に優遇しなければならぬ次第であります。また職業は神聖だという様な、今日の流行語から云えば、彼らがその職業の為に、特に賤しめられるということがあってはならぬ筈であります。しからば残るところは牛馬の肉を喰ったという事でありまして、これは天武天皇の御禁制にも背いておりますが、同じ御禁制の鶏肉に対して、どれだけの励行があったでありましょう。つまりは政令の行き届かぬ化外の民で、祖先の遺風を保存していたというに過ぎません。そして今日は、我々一同祖先の古えに戻って、肉食の民となっているのであります。一説には、穢多は朝鮮人の子孫であるとか、或いは外国の捕虜の子孫であるとかいうことを説くものもあります。民族上の問題は後に申し述べますが、穢多必ずしも帰化人の後ではありません。よしや帰化人の後であると致しても、我が国では民族の異同によって甚だしくこれを賤しむということはありません。もっとも穢多の源流を尋ねてみますと、皮革業者や肉食習慣者以外、種々のものがあって、今日既に解放されている非人と区別のないものも多いのでありますが、それが一括して穢多と云われたが為に、最後まで解放から取り残されるという様な、貧乏
鬮を引いているのであります。
皮作はもと賤民の仲間ではありません。彼らは
雑戸と申して、賤民よりは資格のよいものでありました。賤民というのはこの以外にあります。我が日本国には、古くから良民・賤民という区別がありまして、これは法制上にも立派に認められておりました。孝徳天皇の大化の改新の際には、従来の弊風はすべて打破されて、一切の人民は平等になったかの如くに思われますが、しかもこの良民・賤民の区別は、相変らず保存されておりました。改新の詔にも、男女良賤の法は明らかに規定されておりました。賤民は決して良民と結婚することが出来なかった事も見えております。この後文武天皇の御代に
大宝令が御発布になり、その扱い振りの詳細なことが規定されております。しからばその賤民とはどういう者であったかというと、これは後世に所謂穢多や非人とは違うのでありまして、その主なるものは、先刻申した
家人、その次に
奴婢というのがあります。これを区別すれば、家人は主家とは別に一家をなすもの、
奴婢は
奴隷で主人の家に寄食するもの、後世の商家の例で云えば、家人は
通い
番頭、
奴婢は住み込みお仕着せの奉公人という様な別があるのでありますが、これを通じては
奴婢とも申した。つまり主人持ちの身分で、天皇
直隷の国家の公民ではありません。この
家人・
奴婢にも、公私の別がありまして、官に属する
家人相当のものは
官戸と云い、つまり
官戸・
家人・官の
奴婢・私の奴婢と、四通りになっております。いずれにしても独立の生活をなすことが出来ない、家来の身分のもの、公民権の無いものであります。しかしその中にも、これを区別しますと、官戸・家人は奴婢よりも資格がよく、同じ奴婢でも官の奴婢は私の奴婢よりも資格がよい。それで官戸や家人と公私奴婢との間にも、結婚は出来ぬということになっております。これらの家人・奴婢は、一国の元首たる天皇の御眼から御覧になれば、陪臣とも云うべきもので、公民の資格は認められません。中にも私奴婢の如きは、全く主人の財産で、売買譲与も出来る、殆ど人類としての権利は認められていなかったのであります。このほかには
陵戸というのがあります。すなわち
墓守で、後世に云えば
隠坊の類です。この
陵戸は屍体に触り、葬儀に預かるものでありますから、次に申す
雑戸の中に属すべきものではありながら、特に卑しいものとして、五種の賤民中に置かれることになっております。すなわち
陵戸は執る職業が賤しかったから、自然賤民として賤められたのでありますが、
家人・
奴婢に至っては、全く社会上に於ける境遇上の問題でありまして、人そのものが特別に卑しいとか、穢ないとかいう訳ではありません。
当初賤民の起った時には、或いは被征服者とか、被掠奪者とかいう者であったでありましょうが、それも民族の別からではない。ことに後には貧乏して金が返せぬとか、父兄に売られたとか、誘拐されたとかの原因で
奴婢になるのもあれば、自ら好んで
家人になるのもある。つまり境遇上の問題で、民族上の問題ではありません。ただ法律上厳格にこれを区別した所以のものは、社会の秩序を維持する、主人たるものの財産権を保護するという意味が主なるものであったと存じます。されば、その主人が好意上から、或いはその他の理由から、
奴婢を
上せて
家人となし、或いは
家人・
奴婢を解放して
良民となすことが出来ます。いつでも政府に申して、戸籍を訂正してもらえばそれでよい。従来厳に通婚をまで禁ぜられていたものも、たちまち何ら区別のない良民になることが出来るのであります。また官の奴婢は、年六十六以上になれば当然官戸となり、七十六以上になれば当然良民となる。かかる次第でしたから、家人・奴婢のままでいて、位階を授かっていたものも随分あります。位階あるものは無位のものの上席にいるのでありますから、奴婢でいて良民よりも地位の高いものがありうる次第であります。この制度は平安朝になりましては、だんだん崩れて参りまして、良賤の通婚をも黙許するという姿になり、中頃以後にもなりますと、随分立派な身分の者が、好んで家人になることが多い様になりました。例えば源氏の頭領
源頼信の如き、また平新皇とまで云われた
平将門の如きすらがそれで、
頼信は関白
藤原道兼の家人となり、
将門は太政大臣
藤原忠平の
家人になっておりました。そもそもかく身分ある者までが、自ら好んで賤民の列に落ちるというのはどういう訳かと申しますと、当時の語に、「一人の
跨に入りて万人の
首を
超える」ということがありました。立派な人の家人になって、その主人にさえ頭を下げておれば、所謂虎の威を
藉る狐で、主人の威光を笠に着て万人の上に立つことが出来る。かくて自ら身分のよいものまでが賤民の列に這入るのでありますから、あたかも文学博士の令息や、国会議員の令嬢が、自ら進んで俳優になられる様になると、自然に俳優の身分が上がって、旧時の河原乞食と云われた賤者時代の事が忘れられると同じく、同じ名前の
家人でいながら、もはや家人は賤民の列から解放されたと云ってもよいのであります。その主人に対してはとにかく、一般人民に対しては却って威張っている様な
家人が多く出来ました。かくてその家人がさらに家人を有する。家人の家人がさらに家人を有する。段々と主従関係が重なりまして、遂に封建制度みた様になり、もはや
家人・
奴婢というものは、特別に卑しいものではない、卑しいのは却ってこれらの有力者の
蔭にすがる事の出来ない天下の公民、すなわち古えに所謂良民だという事になって、良賤の別が全く引っくら返るという
奇態な現象になりました。
陵戸の方はどうかと申すと、これは職業が賤しい為に解放せられて良民となるということもなく、後に取り残されたでありましょうが、もともと彼らはこれを世職としているから賤しいので、普通一般の人民とて、その家族親戚の死者を葬り、その墓を守るという様な事については、陵戸の仕事もしたでありましょう。ただ陵戸は官戸の類の一つとして、特別に国家に属するから、自ずから賤民と認められたので、後には諸陵寮の官吏になる事まで人が嫌がるという様になりました。かかる有様でしたから、もともとその類も少く、勢力もなかったのですから、次第に逃亡したりなどして、どこかへ紛れ込んだのが多かろうと存じます。その代りに
守戸というものが出来ました。これはもと良民で、所謂
夙の名の由って起るところですが、これは改めて後に申し述べましょう。
古代の賤民としては、右に述べた官戸・家人・官奴婢・私奴婢・陵戸の五つだけでありますが、これ以外に、別に
雑戸というものがありました。これはもと良民とは少し階級が違っておりましたが、奈良朝の頃に聖武天皇の詔によって、その地位を高めて平民となりました。したがって少くも平安朝のころには、良民と結婚することも認められ、良民中より技術・工芸に熟したものを選んで、
雑戸とする場合も多くなりました程ですから、その頃にはもはや立派な良民と云ってよいのであります。しかしもとはやはりまず良民と賤民との中間に立っているという位のもので、大宝の頃には、良民を養子にすることを禁ぜられ、犯すものは一年半の徒刑に処するという規定もありました。
雑戸とは種々の技芸・工業・雑役等に従事するもので、例えば珠玉を造る
玉造部とか、弓を造る
弓削部とか、鎧を造る
鎧作とか、
雅楽寮の
楽戸、
主船司の
船戸、
造酒司の
酒戸、
典薬寮の
薬戸、
造兵司の
雑工戸、
主鷹司の
鷹戸などとかいう様な、一定世襲の職業を持ったものを申すのであります。かの
馬飼・
犬飼などの賤しい職のものも、やはりこれに属している。これは天下の公民ではないが、さりとて賤民とも区別されていました。その官に属するものは、前の官戸というものにも似、
陵戸もまた
雑戸の一つと云ってよい様ではありますが、
雑戸はもとより賤民というではない。
一体我が国では農業を重んじ、それ以外の職業を軽んずる古風があった。そこで農民というものは、古い言葉では「おおみたから」と云っておりました。これまで普通に国学者の解釈では、農民は国家の宝である、天皇の「
大御宝」であるという説明に満足しておりましたが、これはどうも間違っているようであります。私の考えでは、「おおみたから」とは天皇の
大御田の「やから」ということであろうと存じます。原則として日本の田地は、みな天皇の御所有で、すなわち
大御田であります。この「おおみ」という敬語は、
鄭寧な言葉でありますが、今では
下様のものでも軽々しく用いております。我々風情のものの足のことをも、時としては他から「おみあし」などという。味噌汁のことを「おみおつけ」などという。その「おみ」はすなわち「
大御」であります。また「から」は「やから」・「うから」・「ともがら」等の「から」で、「族」という意味ですから、つまり農民のことを「おおみたから」と申したのであります。また我が国語で、人民のことを「たみ」というのも同じ意味でありまして、「たみ」はすなわち「
田部」の義でありましょう。昔はそれぞれに職業に依って団体をなし、それを「
部」と申す。機を織る者は
機織部すなわち
服部であります。また玉を造るものが
玉造部、豚を飼うものが
猪飼部、
中臣氏に属している部族が
中臣部であります。そういうようにみな「
部」と申しました。そこで田地を耕作する農民はすなわち「
田部」であります。その「たべ」が訛って「ため」となる。
上野に「
田部井」と書いて、口には「ためがい」という所があります。その「ため」が転じて「たみ」となる。「たみ」すなわち田部、すなわち人民、すなわち農民というのが我が日本の国家成立の原始状態であったと存じます。そうでありますから、今日に至ってもなお農民の事を
百姓という。天下の百姓という言葉は一切の人民を網羅した総称の筈でありますが、その一切の公民すなわち百姓が、これ直ちに農民ということでありまして、農民以外の者は百姓の仲間には加えない。百姓以外のものはすなわち公民ではない。農を以て国の本としてた我が日本では、もと農民すなわち公民、農民以外の者は公民でないということになっておったのであります。今日から申しますると、余程
奇態な事でありますが、昔は実際そうでありました。したがって農業は神聖で、農民の肥料とする
糞尿は穢れとせぬ。我が中古の神道では血に触れることを大そう穢れと致して、産婦や月経時の婦人は神に近づく事は出来ぬ。もとは家族と同居同火することをすら忌んだ程で、したがって動物を屠って血に触れたものは、
神詣も出来ぬという事にもなりましたが、農民の肥料として糞尿を扱ったからとて、あえて神様に参詣が出来ぬという様なことはない。ことに古伝説によりますと、農業五穀の神様は、
伊奘冊尊の糞尿から生れ給うたという様な風にまで伝えております。そんな次第で日本の古代では農民が
主になっておりまして、農民以外の者は
公民ではない。「たみ」ではない。百姓すなわち人民の仲間に加わらないから、これを「
非人」と申す。普通に非人という語は「
人非人」で、人にして人に非ずだと解しておりますが、それは後世の思想で、残酷な解釈であります。非人もやはり人で、非人という階級の人、すなわち公民の戸籍に編入されてない人ということであります。この
雑戸には、先住の土着人すなわち、後に申すところの所謂
国津神系統の民族や、支那・朝鮮の帰化人の子孫が多い様ではありますが、土着人だからとて、帰化人だからとて、その理由で賤しむと云うことは我が古史には見えませぬ。土着人や帰化人で随分立派な身分のものも沢山にあります。ただその職業が農業でなかったが為に、農業以外の種々雑多の職業に従事するもの、すなわち
雑戸が賤しまれたのでありました。されば広くこれを申しますと、右に述べた技芸・工業・雑役等に従事する雑戸の徒は、皆この意味の非人と云ってよろしい。したがって公民からは賤しいものとされておりましたが、奈良の御代天平十二年に、聖武天皇の詔によって、解放されて平民と同じ階級になりました。その詔の文に、「汝等今
負ふ所の姓は人の恥づる所なり。ゆへに今ゆるして平民に同じくす。」とあります。
雑戸が良民と婚する事になったのは、これから後の事でありましょう。しからば
雑戸はもはや非人ではありませぬ。もっともこれ以外に、定住の地を有せず、家なくして浮浪している真の帳外、すなわち国民の一部に加わっておらぬものが沢山ありました。今日でも
山家などと呼ばれる浮浪民がありますが、これらは無論公民ではなく、非人中の非人と申してよいのであります。
これらの
雑戸と非人とに関連して考えてみるべきものは、「あまべ」というものの性質です。京都の三条通からは南、賀茂川からは東に当って「あまべ」という一つの部落があります。文字には「
天部」または「
余部」とも書きまして、もとは
皮田とも
穢多とも言われておりました。これは昔の「
余部」というものの名称を継いでいるのでありましょう。「
余部」という名は、奈良朝頃の地誌や、平安朝頃の
郷村名を書いたものによく出ておりまして、全国各地にあったのであります。今も諸国にその名が残っております。これは一体どういう者かと申すに、先輩の間に種々の説がありまして、普通には余った家すなわち一郷をなすには多過ぎるし、さりとてその余ったものを独立の一郷とするには足らぬから、それで
余部というものにしたと云うのでありますが、私はそれを信じません。私はこれがおそらく農民以外の雑多の職業に従事する、所謂
雑戸であろうと思います。しからばなぜ
雑戸を「あまべ」といったかという理由はよくは分りませぬけれども、思うに普通の
郷の仲間に這入らず、余った村落と云う事ででもありましょう。
余戸の説明をした古文を見ますと、京都の
栂尾の
高山寺に伝わっていた「
和名抄」という書物がありまして、その中に、「
班田に入らざる之を
余戸といふ」とあります。
班田というのは大化の改新の時の御規則に依りまして、日本の土地をことごとく国家の有に帰せしめ、それを均等に人民に分ち与える、これを班田と申し、農民はことごとくその班田を受ける仲間に這入っている訳であります。ところが「班田に入らざる之を余戸といふ」とあるのを見ますれば、田地を貰わないもの、すなわち農民以外のものということになります。種々の職人や雑役に従事するものは、耕作致しませんから、土地を貰わなかった。すなわち土地を貰う権利を与えられなかったのであります。昔の諺に、「
土得ぬ
玉造」ということがありまして、玉造は土地を持たなかった。また今の京都の
天部部落は、もと四条河原に居まして、これを「四条河原の
細工」ともあります。皮細工の
雑戸で、それで「あまべ」の名を得ております。
もう一つ「出雲風土記」にも
余戸の説明があります。それには、「
神亀四年の
編戸による、
天平の
里」ということが書いてある。
神亀というのは奈良の朝、聖武天皇の御代の初めの年号です。その時に新たに戸籍に編入せられたもので、それを、神亀の次の天平年間に「
里」ということにした。それを
余戸というのだとの事が書いてあります。これはそもそもどういう意味かというと、日本の公民の戸籍は初め大化の時に調べまして、その戸籍の基本となるべきものは、天智天皇御代の
庚午の歳の調査のもの、これを
庚午年籍と云います。その庚午年籍が久しい間我が戸籍の標準になって、その時分に村落を成し、一定の土地に住居していた者が、我が公民の標準になったのであります。したがってこの戸籍に載っているものが公民権を得たもので、すなわち我が帝国の臣民となり、その以外は所謂非人という訳であったと存じます。しかるにその後神亀四年に新たに戸籍に編入せられ、雑戸を平民とした天平年間に
里と立てたものが、所謂
余戸の里だというのであります。そうすると「出雲風土記」に見えている余戸は、天智天皇の時の庚午年籍に這入っておらぬもので、その後新たに戸籍に加わり、平民になったもの、それまで公に認められていなかった村を新しく拵えたという意味であります。
「里」は「さと」で、後に村という程のものに当りましょう。その村落も、新たに土地を開墾して、農業を行った農村ならば、普通の
郷となって、班田にも
与ったでありましょうが、
雑戸であってみれば班田の典にも預からない。永く
余戸として特別の名に呼ばれた事と見えます。
余戸は諸国にあるのみではありません。昔の京の大学寮の古図を見ますと、その敷地の西北隅に一区画をなして、「余戸」と書いてあります。思うにこれは掃除その他雑役に従事するものを置いた所で、やはり
雑戸の一つでありましょう。そしてこれは大学寮ばかりでなく、大きな役所にはどこにもあったことでありましょう。大きな役所であれば、是非そういう専任の者が必要であります。そして京都三条の南、鴨河の東の
天部部落の如きも、この平安京時代の京内の
余戸の残りで、班田にも入らず、役所が潰れて
扶持離れがしては、世人の嫌がる職業をでもして、生きて行かねばなりませんから、遂に掃除によって汚物の扱いに慣れていたところから、皮細工人にもなり、穢多と言われる様になったと思われます。さればこの部落の事はまずしばらく
措きまして、前申した通り、出雲の
余戸を
里と建てた天平年間には、
雑戸を解放して平民に同じゅうすとの詔のあった頃でありますから、
班田に入らない
余戸だからとて、無論賤民ではなかったのでありますが、その新たに編戸せられた村落の中には、
狩人の部落とか、
漁師の部落とか、或いは従来
山家の様な生活をしておった
浮浪民の土着したものとか云うのもありましょう。やはり京の
余戸と同じく、人の嫌う職業に従事するとか、或いはどこにも材料の得やすい竹細工に従事するとかいう様な事もありまして、そういうものはどうしても世間から賤しまれる事になったでありましょう。元来村が新たに起るのはどういう場合かと申すと、前に一つの農村があって、段々とその村に人民が数多くなる。従来の土地を耕作したのみでは生活が保ち切れないとなると、新たに荒地を開いて
出村枝村をつくる。そういう場合に新たに農村の起ることが幾らもありますが、そうでなくして、これまで浮浪の生活をしておった者が、土地に定住して新たに農村を起すとか、雑工業を営む村落を起すとかいう場合もありましょう。またこれらの浮浪民が、一つの村を造るだけの力がなく、既にある農村に寄生して、その村はずれに住ましてもろうて、村人の用を足すという場合もありましょう。そういうものもまたどうしても世間から賤まれる。そこでこれらのものが世の変遷と共に、いつしか落伍して、賤しいものになるものもありましょう。京都の
天部などは、扶持離れのした雑戸の落伍者の末かと存じます。そこで昔の社会状態を考えるには、まず以て浮浪民の存在を考えなければなりませぬ。
今日でも
山家などと呼ばれる浮浪民は所々にあります。当局者や世の特志家慈善家が、特殊部落のことに多く注意を払われているのは無論必要ではありますが、特殊部落以外に於いて、未だ部落を成すに至らぬ浮浪民の随分あることも注意せねばなりませぬ。彼らの中には罪を犯して逃亡したものや、或いは貧乏してやむをえずその仲間に這入ったものもありますが、中には土着して農工等の業に従事するの機会を得ず、祖先以来の浮浪生活を続けていたのも多かったでありましょう。今日の浮浪民たる所謂
山家などという類の者の中にも、この浮浪系統の者で、昔から帝国臣民の戸籍に這入らず、代々浮浪生活を継続しているのも
鮮からずあろうと思います。
山家という名は、もと山林にでも居たからの名でありましょうか。或いは
散家の義かとも云いますが、それは確かでありません。地方によっては旧穢多を「山の者」という所があります。これは後に申す
山人と合せ考うべきものかもしれませぬが、近ごろでは普通に新聞などに「
山窩」と書いております。穴住まいをするという事かもしれません。今も鎌倉あたりの墓穴(横穴)に住んでいるものもあります。近ごろ石器時代の遺蹟として有名な、越中氷見郡海岸の洞窟には、毎度
山家が来て住むそうです。また現に東京市内にも今以て山家が近く穴居していた跡がありまして、最近に控訴院判事の尾佐竹君から写真を贈ってもらいました。東海道筋や近畿あたりにも随分それがおります。政府の調査なり保護なりが随分行き届いて、もはや無籍者は一人もなかろうと思われる今日ですらそうでありますから、こういう浮浪民は昔はことに多かったに違いありません。奈良朝の頃
神護景雲三年に、
浮宕の百姓二千五百余人を陸奥国伊治城に置くとか、平安朝の初め延暦二十一年に、駿河・甲斐以東諸国の浪人四千余人を、陸奥国胆沢城に配置すなどいうことが、しばしば古書に見えています。これらは一旦戸籍に編入されたものの逃亡したのもありましょうし、初めからの浮浪人もありましょう。徳川時代の法令などに、
野非人・無宿などというのは、やはりこの徒の堕落したもので、平安朝頃の書物には
野宿などともあります。すなわち
野伏です。その浮浪民の仲間にも、それぞれ仲間の規則がありまして、既に千百年ばかりも前の書物にも、「浮浪の長」ということが見えております。仏教関係の事を多く書いた「
霊異記」という古い書物がありますが、それには奈良朝神護景雲三年に、その頃は越前、後には加賀になった加賀郡に、浮浪の長某というものがあって、そのあたりの浮浪人から運上を取り、勝手に部下のものを
駆い使っていた話があります。そこへ京の
修行者が
修行して廻って行ったところが、右の浮浪の長は、汝も浮浪人だから
俺の
手下になって運上を出せよと云って、ひどくこれを痛めつけたことが見えております。
この浮浪民のことを、昔は「うかれびと」と云っております。一定の居所を占めずして、水草を逐うて常に転居している者がすなわち
浮かれ
人であります。またその浮かれ人の女の事を「うかれめ」と云いました。後に遊女のことを「うかれめ」と云いますが、もともとこの浮かれ女というのは、浮浪民の女の職業から起ったのでありまして、奈良朝頃の歌集の「万葉集」などを見ますと、遊女の事を「
遊行女婦」と書いて、それを「うかれめ」と読ましております。耕作をせぬ女が生活して行く為には、自然と
婬を
鬻ぐことになるのは、やむをえなかった事でありましょう。すなわち
浮かれ
人や
浮かれ
女は、一定の居所を定めずして、次へ次へと浮かれあるいて行く人々であったのであります。しからばこの浮かれ人は普通どういうことをやっていたかというと、女子ならば遊女にもなりましょうが、男子では狩や漁もしましょうし、簡単な工業もやったでありましょうが、また人の軒に立って、
祝言を述べて人から食物を貰って行くというのがすこぶる多い。すなわち一種の遊芸人です。
祝言のことをば昔は「ほぎごと」といいました。すなわち人に対して目出たい事を云って、先方の幸福を祝する。長寿や息災を祈る。生活の簡単な世の中では、
長生をする事が一番の幸福でありますから、祝言には普通に長寿の事を云う。そこで我が国では
長生、すなわち「
寿」のことを「ことぶき」と云います。これは「ことほぎ」(
言祝)で、言葉で以て
祝ぐの意であります。そこで
祝言のことをば「
寿詞」とも書いてあります。その
言祝をなす人を「ほかいびと」と云います。「ほかい」はすなわち「ほぎ」と同じ語で、要するに目出たいことを言って食物を貰って生活をするものを
ほかい人と云ったのであります。それ故に昔から「
乞食」或いは「
乞索児」と書いて、「ほかいびと」と読んでおります。今日では
乞食と申すと、何らの報償もなく、ただ人の同情に訴え、憐みを求めて食を乞うものをのみ言うようでありますが、昔はそうではありません。立派に
祝言の報酬として食を乞うものを、「ほかいびと」すなわち乞食と云いました。それが
訛って「ほいと」と云うことになりました。元来食物は農耕に依って得らるるもので、農民以外の者は、必ず何らかの報償としてなり、または同情に訴えてなりして食を乞わねばなりません。そこで農民以外のものはみな当然
乞食と云ってよいのであります。自分の労力・技芸等を以て食物に代える者も、みな乞食なのであります。単に同情に訴えると申しても、仏法の方から申せば、それこれに同情して食を与える事がすなわち所謂
慈悲善根でありまして、未来に仏果を得るの種となるのでありますから、これも一種の報償と言わば言われましょう。仏法の修行者が乞食をすることは、前に申した
大宝令にもチャンと認められております。僧侶は大体樹下石上を家として、修行して廻るべきもので、それには当然乞食せねばなりません、したがって、真の修行者は乞食をすべきでありますが、その間には食を乞うを目的とする修行者も出て来る。僧形をなして
慈悲善根に訴えるのは、最も
悧巧な方法でありますから、賤しい乞食坊主というものも随分沢山出来ました。しかし本来から云えば、乞食という語は必ずしも卑しい言葉でありませぬ。僧侶も乞食であれば、職人も乞食、食物以外の物を以て食物と交換する者はみな乞食であります。前に申した「万葉集」の歌に、乞食の
詠というのが二つありますが、それは
漁師と
狩人との歌です。狩人や漁師は
獣を
獲り、
魚を
捕りますけれども、その獲物のみでは生きて行かれず、必ずこれを以てやはり農民の米を貰わなければならぬ。それで彼らを乞食と云ったものとみえます。
しかし普通に乞食というものは、多くは
祝言をする。その
祝言も、ただ口で目出たい事を述べるだけでは不十分でありますから、節を付けて面白く歌うとか、それを楽器に合わすとか、手振り・身振りを加えて所謂
踊をするとか、人形をまわすとか、猿を使うとか、いろいろ工夫をして参りまして、はては人の耳目を楽しませるという方が主となって参ります。かくて遊芸人は、多くこの仲間から出て参ります。かの万歳とか、春駒とか、越後獅子とか、
人形舞わしとか、猿舞わしだとか、
祭文・ほめら・
大神楽・うかれ節などを始めとして、
田楽・
猿楽等の類まで、もとはみなこの仲間でありまして、遂には歌舞伎役者とまでなって参ります。もっとも後世の俳優は、あえて必ずしも浮浪民から出たという訳でありませんが、もとの起りが右の次第でありますから、前に申した様にこれを河原者だとか、河原乞食だとか、小屋者だとか申して賤しみました。河原者とか、小屋者とか申すのは、京に於いて浮浪民が、普通は鴨川の河原に小屋を構えて住んでいたからで、それで河原乞食とも云ったのです。河原者は古く掃除人足や、
手伝等の雑役につかわれて、所謂日雇取りをもなし、一方では遊芸人・遊女などになっておったのが多い様であります。もっとも京都の河原者は、徳川時代には悲田院と云って、市中の警固や、盗賊追捕などの用にも使われました。その京都の河原者の名が一般に及んだ事とは存じますが、地方に於いて今も
山家の徒が、河原や、
堤下や、藪蔭・墓場などに、小屋掛け・テント張りをして住んでいる様子を見ますと、昔の有様も想像せられるのであります。
今の
山家は昔の河原者の最も堕落したもので、普通は竹細工に従事しておりますが、中には随分残酷な犯罪をあえてするものがあるとの事が、しばしば新聞に見えております。しかし彼らとて必ずしも悪いもののみではありません。ただ一定の居所を有しないのみで、家族を率いて次から次へと雨露を凌ぐに足る様な適当な
岩窟や、
塚穴などを見付けて臨時の
住家とし、
笊や
箕や
竹籠などを造っては、その付近二三里の場所を売って歩く。一と通り得意まわりがすむと、また次の適当な住家にうつる。雨露を凌ぐに足る様な穴のない場所には、粗末なテント張りや小屋がけをして住むという、極めて原始的な移動的職人と云ってよいのであります。彼らの中にはまた、ほぼ一定の場所にのみ数家族、数十家族が集まって、一つのテント部落、小屋部落をなしているのもあります。さらに進んだものでは、もはや浮浪生活をやめて、一定の住宅を構え、戸籍に編入せられているのもあります。こうなれば彼らはもはや
山家ではありません。昔の浮浪人の末路もこんな工合で、良民中に消えてしまったのが多いことでありましょう。浪人を雑役に使うとか、浪人に田地を開墾せしめるとか、浪人にも課役を宛てるとかいうことが、しばしば平安朝頃の記録にも見えておりまして、浮浪人とても決して変ったものではありませんが、その賤しい職に従事したものが、いつ迄も人から疎外せらるるに至るのは、これはやむをえぬ事でありました。
これらの河原者と同じ仲間に、
産所というのがあります。或いは散所・算所などとも書いてあります。摂津の西の宮は人形遣いの起った有名な場所でありますが、これは付近の産所という部落の賤民が、西の宮の
夷様の像を舞わして諸国を遍歴し、米銭を貰って生計としたのが
本だと存じます。しかし後には立派な
操人形の座元が出来まして、諸国を興行して廻るという事になりました。それが淡路に移ったと見えまして、後世では本家の西の宮の方は
廃れて、淡路の方が有名になっておりますが、やはり西の宮を元祖とし、西の宮の夷神社の末社なる、
百太夫を祖神と仰いでおります。そしてこれは、西の宮から起ったというよりも、淡路に於ける同類の産所のものが、それを真似たというのでありましょう。淡路ではその村を三条と云っておりますが、あれももとやはり産所でありました。産所・算所などという地名は方々にありまして、その住民は多くは一種の賤民扱いにされており、現に丹後では今も算所という特殊部落があります。しかし他の産所では、住民が他に移って、今は絶えてなくなったのが多い様であります。産所がなぜそう賤しまれたものであるかというと、大体産所というのはその文字の通り婦人がお産をする所であったと思います。一説にこれは算所で、
算を置く
陰陽師の部落であろうとの説もありますが、私はそれを信じません。今日でも我が日本の風習としてお産の穢れを忌むということは、なお一般に行われているところでありまして、産婦は神様の前に近づけないとか、火を別にするとか、居を別にするとか、居を別にしない迄も座敷の畳を揚げてしまって、板敷に藁を敷いてその上で子を産ませるとかの風習は、まだ田舎へ参りますと各地に残っております。思うに太古に於いては必ず屋外に別に
産屋を作って、そこで子を産んだに相違ありません。
彦火火出見尊のお
妃の豊玉姫が、海岸の
産屋で御子
鵜草葺不合尊をお生みになった事は、誰も承知の有名なお話です。今も現に海岸部落には、海岸に
産小屋というのを建ててそこで産をする習慣の地方が、越前・駿河・遠江あたりに残っております。肥後の阿蘇郡には「産小屋」と書いて、「ウブノコヤ」と読ませる村もあります。それでサンジョがお産の所であることがわかりましょう。その穢を忌むということは、お産のみには限りません。つまり血の穢を神様がお嫌いだというのでありますから、産婦に限らず、婦人の月経の時にも、神様に近づくことが出来ないとか、家族と火を別にして、一緒に飯を食うことが出来ないとか、甚だしいのになると、やはり別の小屋でその期間を過ごすとかの習慣のある地方があります。私共の子供の頃には、婦人の月経の有るものが、その期間食事を家族と別にする事が実行されておりました。同時に飯を喫べるにしましても、一段と低い所に座って、飯櫃から直接にその女の茶碗に盛り分けることを致しません。
他の者が一旦
他の茶碗に飯を盛って、それをその女の茶碗に移してやるということにしておりました。今まで家族の食事の給仕をしておった母や姉が、今度はまるで乞食にでも物をくれる様な方法で、他の者から給仕をしてもらうという事を、子供心に甚だ奇態に感じたのでありましたが、今はそういう風習は全くなくなっております。かかる風習は、今では僅かに海岸や島嶼の漁師部落に稀にあるだけでありますが、三四十年前までは、随分各地にそういうことがありました。今も月経の事をブンヤ(分屋)とか、ベックハ(別火)とか、コヤンボウ(小屋坊)とか、コヤ(小屋)などという地方があるようですが、それらは古い時代の風習が言葉に残っているのであります。かような次第で血の穢を忌むという思想から、各村落には
村外れの地に共同の
産小屋を設けて、そこへ行ってお産をする習慣は、昔は各地にあった事と存じます。したがってその産所というものは、穢れた場所として認められている訳です。そこで産所という賤民の話になるのでありますが、これまでの普通の説では、その産小屋の風習がやめになり、自分の家でお産をする様になっても、その産所の場所は穢れたものとして捨てられる。その捨てられた産所へ浮浪民が来て住み付いて、その村落の付近におり、村人の為に人の
厭がるような用を足す。これが産所という賤民の起りであろうと、こういう説がこれまで行われております。本居内遠翁の「賤者考」や、「近江輿地誌略」などの説、こうであったと記憶しております。しかし私は別の考えを持っております。今も越中のトウナイという部落民は、産婆代りに取上げを行うそうでありますが、「周遊奇談」には、出雲美保関では産婦がそこから二十町ばかりも離れたハチヤの部落へ行って、そこでお産をする例であって、そうすれば決して難産ということがないとあります。ハチヤとはまた一種の特殊民で、やはり竹細工をしたり、万歳などの遊芸をする仲間じゃそうであります。特殊民がお産の世話をするのか、お産の世話をするが故に特殊民になったのか、その本末は明らかでありませんが、他にもこんな例を聞いた事がありまして、お産を自宅でする様になっても、やはりその穢物はこれらの人が片づけてくれる。要するに、お産と特殊民との間には、十分因縁のあった事が認められます。しからば産所という賤民は、産小屋の空屋に住みついた浮浪民ではなくして、もと産所に居ってお産の世話をしたものと解した方がよかろうかと存じます。無論その中には、産所という地名が出来て、それが穢れた場所として捨てられてある所へ、新たに特殊民が住み着いたというものもありましょうが、一般の見解としては、産所の者という方が当っているのでありましょう。
サンジョという名称は随分古くからありまして、既に平安朝の頃京都の西の桂河辺に
散所が居て、
他の土地へ来て勝手に住んで困るという苦情を書いたものがありますが、今もその地方の梅津や
鶏冠井に産所という所があって、そこの人はもとやはり賤まれておりました。産所すなわち山陰地方でいうハチヤ或いはハチと同類で、越中でトウナイというのもつまりは「
十無い」で、「
八」ということを避けた隠し言葉でありましょう。京都の東寺にも昔
散所法師というのがありまして、寺の境内の掃除を担当し、
汚物取り片付けなどをする賤しい身分のものでありました。これは産所の者を連れて来て、寺の掃除人足に使ったか、或いは同じく賤役に従事するものであるから、これを散所と云ったか、いずれにしても産所は賤しいもので、それが掃除人足であったということは、河原者等と同じ程度のものであったと察せられます。産所の者が世の風俗の変化とともに、お産の世話をするという独占の職業を失う様になり、一方では人口が増殖して参りましたならば、掃除人足にもなったり、遊芸人にもなったりして、世渡りをする様になるのは自然です。かくて遂には西の宮の産所の様に祝言すなわちホカイを述べるホカイビトになり、次に
夷舞わしから遂に
操人形の座ともなるに至ったのでありましょう。
特殊民の一部族に
夙の者というのがあります。これはハチヤとか、
茶筅とか、
簓とか、産所とかいう類のもので、比較的世間から
嫌がられませぬ。したがって今は
疾くに解放せられて、特殊扱いになっておらぬものも多い事でありますが、地方によりてはやはり区別をされて、かなりの圧迫を受けているのも少からずあります。
「シュク」は
守戸で、昔の陵の番人だという説があります。これには有力な反対説もありますが、私はやはりこの
守戸の説を取りたいと思います。守戸は同じく陵墓の番人でも、賤民であった
陵戸とは違って、もと立派な良民です。
陵戸はいずれ罪人とか、その他社会の落伍者を以てこれに当てたのでありましょうが、
守戸はそうではありませぬ。
陵戸は賤民として疎外されますから、逃亡したりなどしてだんだんと減って来る。これに反して陵墓の数は次第に増して、墓守の需要はますます多くなって来る。そこで持統天皇の時に、陵墓の付近の良民を徴発して、三年交替にして陵戸の代理をさせた。無論その間課役を免ぜられるのであります。
大宝令の頃には、それが十年交替となりました。これすなわち
守戸であります。その守戸の十年交替が、ついに永久的のものとなったと存じます。課役を免ぜられ、生活の安全が保障されておりますと、その職務はよし賤くとも、乞食を三日すれば忘れられぬという諺の通りで、三年が十年になり、遂に永久的のものになるのは自然の勢いでありましょう。しかし守戸はどこまでも良民で、筋がよい。延喜式にも明らかに陵戸と守戸とを区別してあります。守戸はかく筋がよいのでありますけれども、その
執る職務は賤しい。ことに中世陵墓の制も
紊れて、守戸の扶持も行き届かぬ。人口はだんだん増して来て、生活に困難を生じて来るという事になっては、彼らは自然慣れた職業からして、陵墓以外一般世間の墓番をさしてもらう。葬儀の世話もする、屍体の取片づけもするという事になって、所謂
隠坊に堕落してしまっては、名は良民の
守戸たるシュクでいても、世間から賤視せられるに至るのは、けだしやむをえなかったでありましょう。そうなって来ると彼らは、河原者や産所の者などと同じく、遊芸もやれば掃除人足にもなる。もと河原者たる京の悲田院の仲間と同じく、市中や村落の警固、盗賊追捕などの事をもやりました。兵庫の
夙の如きはそれでもって、毎年町から五貫文、湯屋・風呂屋・傾城屋から各二百文宛、金持ちの祝儀・不祝儀の際にも各二百文宛を、権利として徴収することを認められ、また盗賊を捕えた時には、その身付の衣服をも貰う権利を与えられていました。これは慶長十七年の片桐且元のお墨付がありまして、徳川時代になっても、確かにそれが元禄頃まで実行されていた証拠の書類が遺っております。この点に於いてはかの
番太などいう仲間と同じものであったのであります。
夙が守戸だとの説の反対者は、例の本居内遠翁の「賤者考」で、今もこの説を採っている学者もあります。内遠翁は紀州の夙部落の実際を調査して、夙の名のあるもの十の中で、一つは
皮多、二つは付近に陵墓があるが、他の七つは全く陵墓に関係がない。しからばそれが守戸だという説は認め難い。思うに夙はもと「
宿」とも書き、産所と同じく産婦がそこへ行って止宿した所で、その宿の場所が穢れたとして捨てられた所へ、浮浪民等が住み付いたのではなかろうかと云っております。
しかしこの説は少し考え過ぎたものであります。夙がもと守戸であるからとて、すべての
夙村に必ず陵墓がなければならぬ理由はありませぬ。
守戸が既に守戸として実務を失い、その名も
夙と
訛って、その根原が忘れられ、
隠坊や、掃除や、遊芸や、警固追捕などの職に従事する様になっては、それと同じ事をしている同等階級の特殊民に、夙の名が及ぶのは一向不思議のない事です。穢多の名義は後に述べますが、普通は
餌取から起ったと云っております。しかるに餌取はもと
主鷹司に付属した
雑戸でありまして、そうどこにでもあるものでありませんが、彼らは屠殺をなすが為に、一般に屠者を餌取という様になり、はてはその語の訛りなる穢多の名が、一般に斃牛馬を扱うもの、皮革の工業に従事するものにも及んだのと同様でありましょう。また現にその付近に陵墓がなくても、もと陵墓の付近にいた守戸が、陵墓の荒廃の為に扶持離れがして来る、人口が増して生活に困って来るとなっては、他の村落の付近に移住して、その村の用を足すの賤民となったのも多い事でありましょう。されば後世の夙が、必ずしもことごとく守戸であったとは言えませぬが、本来の夙は守戸で、それは良民であった。それが
執る職務が賤しかったが為に、遂に賤民になったというの事実は、否定し難いと存じます。そしてこれは貴賤が必ずしも民族関係の意味からではなく、職業からその区別が生じたという最も好い例だと存じます。穢多頭や穢多寺の住職はもと必ずしも穢多ではありませぬ。非人頭の悲田院年寄、もと必ずしも非人ではありますまい。しかるにそれが穢多や非人の仲間とされてしまったのは、永くその仲間にいたからであります。学者の家として大臣・納言をまで出した菅原氏・大江氏の如きも、もし中頃その職業を改めずして、祖先の
土師氏の時のままに、いつまでも葬儀を掌る家であったならば、いつの間にか夙の頭にされてしまったかもしれないのでありますが、早く転職した結果として、祖先以来の名家を辱しめず、さらにこれを立派なものに仕上げたのでありました。同じくシュクと云っても、その職業によって穢多になったのもあります。摂津三島郡に
宿河原という皮多村のことが、よく正徳・享保頃の文書に見えておりますが、同じ
宿河原でも、同国武庫郡のは後までも夙で、それを
守具と書き、後には文字をかえて
森具村となっております。思うに三島の夙は、まだ分業の
判きりせぬ前に、皮細工をやっていた為に穢多になったのでありましょう。紀伊那賀郡の狩宿も皮多だとの事ですが、これも同じ結果でありましょう。しかし皮細工をやらぬものは、その身が穢れているとの念が少かった為に、穢多とは別派のものとして遺ったのでありましょう。
産所や夙以外に、河原者というのがまた賤民の一つになっております。河原者とは前に申した通り、京都鴨川の河原に小屋掛けをしていた浮浪民や、或いは河原で皮革を晒らした皮作りなどから起った名称でありましょうが、室町時代には掃除人足や、植木屋・庭造りなどに河原者を雇うた記事などがあるのを見ますれば、今日で云わば
手伝とか、
立ちん
坊とか、
日雇取りとか云う類で、もとは夙や散所とも似たものであったでありましょう。そのうちから例によって遊芸人も出ます。遊女なども出て来ます。その中に皮革関係者は穢多となり、河原者の名は後世もっぱら役者に遺る様になりました。この沿革も詳しく申さば余程込み入ったものですが、今は問題のあまりに枝葉に渉るを避けて略します。
このほかにも、
犬神人だの、
山番・
野番の
番太だのと、種々の賤民もありましたが、大抵はもとは似たもので、それが後にいろいろに分派したものと解せられます。そしてその大体は、もとやはり社会の落伍者なる浮浪民が多かった事と存じますが、これも今一々は申し上げません。
今日では
山家が浮浪民中の主なものとなっておりますが、昔は
傀儡子と言ったものがありました。後世では
人形使いのことのみを
傀儡子だと心得、人形の事を
傀儡だと云っております。よく新聞記事などに、誰は誰の傀儡である、誰は誰を
操る傀儡子だなどということを言っております。
黒頭巾や
黒装束に隠れて人形を使っているのが傀儡子、使われているのが傀儡だとのみ思っているのです。しかし昔の傀儡子は、そんな狭いものではありません。人形使いも無論傀儡子ですが、その仲間の遊女のことをも傀儡と云っておりました。傀儡子も傀儡も、共に「くぐつ」と読んで、そのほかいろいろの事もやっています。「万葉集」に
遊行女婦というのは遊女で、これまた一つの「くぐつ」であった。この
傀儡子のことを詳しく書いたものには、大江匡房の「傀儡子記」というのがありまして、これには平安朝当時の傀儡子の有様が、手に取る様に見えております。これに拠りますと、彼らの職業は主として狩猟でありまして、常に弓馬に熟し、また剣舞の様な事、
大神楽の様な事、人形舞わし・
物真似・
手品使いの類、種々の伎芸をやっておった。またその女は綺麗にお化粧して、美服を身に纏い、客に媚を呈して娼妓の様なことをする。これがすなわち当時の傀儡子で、彼らは一定の居所を有せず、次へ次へと生活上便宜の地を求めてテント住まいをする。真の戸籍帳外の浮浪人で、無論公民ではなく、租税をも納めねば王侯官吏といえども一向恐れるところがなく、全く無関係でありました。つまり彼らは農業を営まないから、食物は狩猟から得なければならぬ。もとはもっぱら狩猟によって生きていたでありましょうが、人口は段々殖える、
獲るべき動物は段々少くなって来る。それのみでは到底生きて行く事が出来ぬ。しかも一方彼らとて米食の美味を覚えて来る。結局彼らは人形を舞わすとか、手品を使うとか、
婬を
鬻ぐとかいう様な、身分相当の方法によって、生活の資を求めねばならぬ。しかも祖先以来の浮浪性を脱せず、土地を持たぬから土着の習慣も起らず、依然として浮かれ人のままで生活しておったのであります。その遊芸については、単に人の耳目を喜ばすというばかりではなく、例の通り人の一番喜ぶめでたいことを述べて、先方の幸福を祝うという、万歳・春駒・
夷舞わしなどの徒も、みなこれから出て来るのです。
そこでさらに遡って、本来傀儡子というのはどんな者であったかと申すと、これは主として土着の民族、すなわち
国津神系統の民族と、世の落伍者とであろうと思います。これにも論拠はありますが、今は略します。ともかくも先住土着人の多くいた中に天孫民族が渡来した。そしてそれに接触した人々は、段々その方の風俗に化せられて、うまくそれに調和して、農業に従事するようになり、所謂「おおみたから」となって、帝国の公民権を得たでありましょうが、接触の機会を得なかったもの、同化の機会にはずれたものは、所謂班田にあずからざる
雑戸となって、種々の雑業に従事し、或いは祖先以来の浮浪生活を続けて、傀儡子としてながく後に遺る。こういう人々は公民でないから、みな非人である。されば非人と云い、「おおみたから」と云っても、本来民族的に区別はないのであります。そこで私は、諸君の誤解し給わざらんが為に、問題外ではありますが、いささか
日本民族の成立を簡単に述べさしてもらいたいと存じます。
我々
日本民族は、すべてこれ高天原から天降った天孫民族であると、そう考えている者が随分あります。或る意味から云えばそう申してもよい。私もそう申したいのでありますが、しかし我々は、決してそんな簡単なものではありません。これは歴史上から申しても、また人類学上から申しても、何人も否定し難いもので、我々日本民族は、もといろいろの民族が寄り合って、それがうまく結び合って出来た複合民族であります。もし天孫民族というのを、我々
日本民族から分析してみる事が出来たならば、或いは案外その分量は少かったかもしれません。古伝説からみましても、天孫降臨の際にすでに各地に人民は居りました。所謂国津神の系統の民族です。そこへ天孫民族が来て、先住民を撫育し、これを同化し、互いに寄り合って日本民族は出来たのです。その中でも天孫民族という方が、比較的少数であったかと思われることは、古代の歴史上から、ほぼこれを想像するに足るの材料を求めることが出来ようと思います。まずは古代の天孫民族発展の歴史をみますと、しばしば先住民族との間に交渉問題がありますが、その交渉問題の中に於いて、最も著しく伝説上に現れたのは戦争であります。無論平和の接触が多かった事でありますが、それは常の事ですから歴史に上がっておらないのです。しからばその戦争に対して、天孫民族はどんな態度であったかと申すと、正々堂々と戦争していることは、極めて少いと云ってよろしい。大抵は
欺討です。神武天皇御東征の時には、
忍坂の邑に酒宴を
催して敵を誘い、道臣命の合図で一挙にこれを皆殺しになされたとか、或いは景行天皇御西征の時に、土蜘蛛に赤い着物や珍らしい物を与えて招き寄せ、ことごとくこれを捕えてお殺しになったとか、同じ天皇の
熊襲御征伐の時にも、熊襲の娘を誘うて親を殺さしめ給うたとか、
日本武尊の
出雲建を誅せられる時に、まず和睦して共に
簸の川に水浴し、敵の虚に乗じてその
太刀を木刀とすりかえ、遂にこれを斬り殺されたとか、また尊の熊襲御征伐の時にも、少女の装いをなして酒宴の席に交り、熊襲の酔いに乗じてこれを殺されたとか、そういうようなことが甚だ多く伝わっております。後世の武士道という方の
側からこれを見れば、実に妙な具合でありますけれども、これは智略勝れた少数の民族が、文化の後れた多数の民族に接する場合には、必要やむをえぬことでありまして、またそれには十分理由のあることであります。景行天皇が熊襲を御誅伐になる時に、明らかにその理由をお述べになっておられます。「今少しく兵を起したでは敵を滅ぼすことは出来ない。さりとて多く兵を動かせばこれ百姓の害である。なるべく
兵刃に
衂らずして、
坐ながらにして目的を達したい」と仰せられております。同じ天皇が日本武尊を蝦夷征伐にお遣わしになった時にも、「願わくは深く謀り遠く慮り、姦を探り変を伺いて、之に示すに威を以てし、之を
懐くるに徳を以てし、兵甲を煩はさずして自ずから臣隷せしめよ」と仰せられております。これは「
中臣祓」にも書いてあります事で、「
豊葦原の
瑞穂国を
安国と定め給ふ」という事が、天孫治国の一大信条でありました。豊葦原の瑞穂国、すなわち我が日本の土地には、前から人民が沢山いる、その国を安国と
平けく
治ろしめすというのが大目的でありました。決して先住の人民を殺したり、放逐してしまったりして、その国を奪われたのではない。その国を
安国と平定し、先住の人民を幸福なるものにすることが、一大目的なのでありますから、もともと多く敵を殺す必要はない。無論味方も大切で、これをも多く殺すことなく、つまり敵をも殺さず、味方をも損せず、双方無事に幸福なる国家を造ろうとするには、威を以て望み恩を以て誘い、ことごとく天皇の御徳に服せしむるにあるのであります。しかしどうしても手に合わぬ者は、やむをえず殺さなければならぬ。それには優秀なる智略を以て、その少数のものを殺して、多数のものを幸福ならしめる。この意味から欺討は行われたので、まことに先王仁慈の御心に富ませ給う御行為として、貴いことだと存じます。そしてそういう事件が引き続いて起っているというのは、少数なる優秀の民族が、多数の後れた民族に対する場合に、必ず起るところなのであります。我が先住民族が随分多数に繁延していた事は、石器時代の遺物遺蹟を調べても、容易に想像されます。そしてこれらの多数の先住民族は、絶滅したのではなくて、必ず後に子孫を残しているに違いありません。その民族の中で、早く天孫民族に同化し、「おおみたから」すなわち農民になった者は、国家の公民になりましたが、しからざる者は
雑戸となり、或いは浮浪の生活を続けて、傀儡子の類となって後までも残っている。しかし前申す通り、
雑戸は賤民ではありません。その中の陵戸のみは、賤民扱いでありましたが、その他のものは賤民ではない。よしや良民でないまでも、賤民というのとは別で、それも聖武天皇の時に解放されて、平民と同じくすという事になっております。浮浪民はこれは帳外で、所謂非人でありますが、それとて本来民族の違ったものではない。既に成立したところの日本民族を組織している要素の中には、同じ仲間が多数にいるのであります。そもそも日本民族とはどういう者かということは、ただ今諸君に差上げました「民族と歴史」の第一号に、「日本民族とは何ぞや」という題下に説明しておきましたから、それで以て御覧を願います。が簡単にこれを申しますれば、我々日本民族は、高天原から渡来した天孫民族と、及びその前からこの国にいたところの先住民族との融合の結果出来たもので、無論海外の帰化人もこれに同化してしまったのだと申してよろしい。我が日本の国には、神様に
天神・
地祇という区別がありまして、すなわち
天津神・
国津神ですが、その
天津神とは高天原の神様、すなわち天孫民族の祖神と仰ぐ神様で、
国津神とは天孫降臨以前からこの国土におられた神様、すなわち先住民族の祖神と仰ぐ神様です。我が日本民族はこの両系統の同化融合からなったのでありますから、この両系統の神様を、所謂天神・地祇と相並べてお祭りする。すなわちいずれも国民共同の祖神であります。したがって太古から今日に至るまで、双方を崇敬し奉ることは変りません。近く明治・大正の御大典の際に於かせられても、大甞祭に
悠紀殿・
主基殿において、天皇陛下はまず新穀を天津神・国津神に捧げ給うというようなことであります。最古の皇室の御成立の御次第を申しますならば、天孫
瓊瓊杵尊が日向の高千穂峯にお降りになりますと、
国津神の
事勝国勝長狭という者が、土地を献上して服従し奉った。また同じく国津神の
大山祇神は、娘の
木花咲耶姫を尊の
御妃として奉ったのであります。かくてその御子の
彦火火出見尊の御妃も、同じく国津神の
豊玉姫で、さらにその御子の
鵜草葺不合尊の御妃は、その豊玉姫の御妹の
玉依姫と申すお方でありました。そして神武天皇はそのお子様です。天皇大和に御即位になって、皇后をお立てになるに、国津神
大物主神の女
五十鈴姫命をお択びになりました。その後も多く国津神から皇后はお立てになっております。かく我が皇室の御先祖とます御方々の御系図を拝しまするに、一方では天津神の御系統から天皇、一方には国津神の御系統から皇后と申す様に、両方から相寄って、代々の天皇・皇后がお立ちになっておられます。かかる次第でありますから、神武天皇が
橿原宮に御即位になりまして後に、天津神の代表者として仰ぎ奉るべき
天照大神と、国津神の代表者として仰ぎ奉るべき
倭大国魂神とを宮中にお祭りになり、崇神天皇の御代までその通りで、代々の天皇殿を同じゅうしてこれを御崇敬になりました。後に天照大神は伊勢の
五十鈴川上に伊勢皇大神宮として鎮座ましまし、
倭大国魂神は、官幣大社
大和神社として、今も大和に鎮座になっております。すなわち元は天津神・国津神の両方を、同じく宮中にお祭りになっておられたのであります。もし両者に軽重の区別があると言いますならば、天津神は父、国津神は母、天孫民族は
夫、先住土着の民族は
婦の関係という位のところであります。これは皇室の御先祖の御事でありますが、一般人民から言いましても、必ず同じ関係があって、天津神の系統を承けている者と、国津神の系統を承けている者と、双方が相寄り相結んで日本民族は出来ている。その血縁の関係を尋ねてみれば、日本民族ことごとく遠いか近いかの親類と云ってよろしい。我々は普通に祖先は一人しかないと思っておりますが、それは家柄についてのみの事で、血統から申さば甚だ多い。まず両親が二人、祖父母が四人、曾祖父母が八人、高祖父母が十六人、十代前の祖先が五百十二人、二十代前の祖先が五十二万四千余人、三十代前の祖先が五億三千六百八十七万余人、五十代も八十代も前の祖先の数は、とても普通の数の言葉で言い表わすことの出来ぬほどの多数に上る訳であります。また先祖より子孫をみれば、さらにその数は非常に多くなっている訳です。これら多数の先祖なり子孫なりが、上からと下からと、網の目をすいたように組みあって、日本民族は出来ているのであります。したがって一切の国民はどこかで必ず縁がつながっている。したがって天津神も国津神も、ないし歴史上の偉人・哲士も、ことごとく我々の共同の祖先と申してよろしい。こういうことを申しますと、なんだか日本民族は合の子民族であるという様に御感じになって、或いは不快に思われるかしれませぬが、世界中何処を尋ねても、文明民族に単純な民族はありませぬ。そもそも人種・民族の区別というものは、どういうことから起ったかと申すと、いずれ元は同じものであったに違いありません。その同じ者の子孫が、長い間四囲の境遇を異にし、違った生活を営んでいると、だんだん容貌なり、風俗なり、言語なりが違って来る。これが為に人種・民族の区別が出来る。極めて遠い先祖に遡ってみたならば、人類はすべてことごとく同一人種に違いなかろうが、その中にだんだん分れて多くの人種になる。その中にも古く分れた人種と、新しく分れた人種とがある。この
亜細亜人種とか、
欧羅巴人種とか、
亜非利加人種とかいうものは、御互いに古い時から分れたもので、比較的遠い親類でありますが、
馬来人種などと言われるものは、右の区別に比べると、
亜細亜人種とは比較的新しい時代に分れた人種と云ってよかろうと思います。もっとも人種と云い、民族と云うも、立て方見方によって、いろいろになりますが、まず亜細亜人種ならば亜細亜人種同士は、比較的近い時代に共同の祖先を有していた筈で、それが段々と分れて支那人・満洲人・蒙古人・
土耳古人というようになって来る。これらも見方によっては、人種の別と言えぬ事もない。かくて段々と年代を経るに従って多くの枝がさく。
三椏の木が一本の幹から段々と無数の枝に分れる様なものです。しかしそれと同時に人類は、違った人種・民族が、互いに結び合って一所になる傾きがある。彼方の枝と此方の枝とが一所になる。ずっと根本に近い様なところから分れ出でた枝同士でも、しばしば両方から引き合って、その中間の枝が出来る。一方では次第に分れて行く傾向があり、一方では次第に結び付いて行く傾向がある。そうして新たに民族の数は殖えるが、御互い間の隔りは少くなって来る。世界一般を通じてもそれが行われ、一地方に於いてもそれが行われる。そうでありますから、あらゆる人類ことごとく、遠いか近いかの別はあるが、みな親類に違いない、その中にてずっと遠い昔に分れたものが、近く旧縁を重ねるものもあれば、近い親類同士で、さらに縁を重ねる者もある。いずれにしても遠い祖先から一本立ちのままのものはない。ことにそれが文明人には決してない。他と交通の少い、アフリカ内地の野蛮人などには、比較的古い時代に分れたままのものが、他と混淆する事少くして、いわば純粋に近いものが保存されてもおりましょうが、文明人にはそれは見られぬ。もっとも我が日本では、多年外国との交通が比較的少く、ことに近世鎖国攘夷の思想からして、外国人を非常に卑しみ、日本人のみが神様の子孫であって、外国人は猿や犬の仲間であるかの様に落しめたものでありますが、今日ではそういうことに対して弁解する必要はない程にも、邦人の知識は進歩しております。いずれこの島国は、もとは無人島であったでありましょうが、長い間他から人類が移住して来る。偶然来たのもあれば、故意に来たのもありましょうが、その早く移って来たのと、遅く移って来たのとの間には、もとやや遠く離れていたものもありましょうし、もと極めて近いもの、或いは全く同じものであっても、渡来の前後によって、政治的に、社交的に、違った民族の様に心得るものもありましょう。中にも天孫民族というものが一番優勢の地位を占め、所謂天孫降臨の伝説を境として、その前からいたものが
国津神系統、新たに高天原から来たものが
天津神系統、その後に来たものが海外の帰化人ということに区別されることになりました。そしてこれらの諸民族が、互いに網の目をすいた様に組み合って、子孫がだんだん増殖します。かりに一夫婦が平均三人の子を育て上げたとしたならば、十代目には約七千七百人、二十代目には一億六千六百八万五千余人、三十代、四十代となりましては、とても私らの算盤では数え出す事が出来ない程の多数になります。もしこの勢いで増したなら、日本国中山も野も、本当に錐を立てるの余地もない様になるのでありますが、仕合せな事には自然淘汰の理法によって、生存に適するものが生存し、適しないものが段々滅んで行く。つまり祖先の長所を受けついで、優れたものが生存し、祖先の短所を受けついで、劣った者が滅んで行く。優勝劣敗が断え間なく行われて、段々民族が進歩発達し、以て今日に至ったのであります。したがって智略勝れて仁慈の念に富む天孫民族の性質も無論受けておりましょうし、武勇勝れて向う意気の強い、然諾を重んじて君の御為には生命を鴻毛の軽きに比するという、武士道的な先住民の性質も受けております。手先の技巧の勝れて、込み入った意匠に富んだアイヌ系統の民族の性質も受けておれば、至って淡泊な、アッサリとコテづかない、考古学上に所謂弥生式系統の民族の性質をも受けついでいる。かくてその優良なるものが残ったのが我が日本民族であります。そしてその民族のすべては、優勝者であり、統治階級にいるところの天孫民族の伝説を信じて、天孫民族に仲間入りしてしまっている。先刻さしあげた「民族と歴史」の中にも書いてあります通り、
枳殻や、柚子や、橙や、いろいろの柑橘類が、みな
温州蜜柑の接木によって、ことごとく
温州蜜柑になってしまっているのです。もっともその出来上った
温州蜜柑も、台木の性質によったり、土地の肥瘠、培養の仕方、風土・気候の関係等に依って、必ずしもことごとく同一でなく、甘いのと、酸っぱいのと、大きいのと、小さいのと、肌の荒いのと、細かいのとという風に、種々の区別はありますが、同じく温州蜜柑としては区別がないが如く、日本の土地に色々な民族がおったことは確かでありますが、それがことごとく結び合って、天孫民族ということになってしまったものだと我々は考えているのであります。しかしてこれすなわち所謂
日本民族なのであります。この日本民族は、後世階級思想が盛んになって、互いに結婚しなくなった様な部族の間柄でも、昔は構わず婚を通じておりました。したがってすべての日本人は、みないつかは親族関係を有したもので、本来は同じ者だという事になる。或いは地方により、また部族により、その組織上の要素の配合に、多少濃淡の差があるかもしれませぬが、大体に於いて同一日本民族たることを疑わぬのであります。
素人はよくこういう事を申します。貴賤の別は民族から起ったので、賤民として疎外されているものは、土人や帰化人の子孫ではなかろうかと申します。一寸そうも考えやすいことではありますが、我が
日本民族に於いては、決してそんな事実はありません。なるほど戦争に負けた先住民や、運の悪い帰化人が、奴隷になったり、人の嫌がる仕事をさせられたりしたものはありましょう。しかし同じ日本民族でも、運が悪ければ同じ境遇に落ちます。その代りに都合よく行ったものは、先住土着人の子孫であろうが、朝鮮人・支那人の後裔であろうが、立派に貴族になったものも沢山あり、また一般日本民族中に混入したものは、無論大多数を占めているのであります。それと同時に、奴隷なり、その他の賤民なりも、解放されさえすればいつでも良民になりうる者でありました。したがって我が日本では、民族上から貴賤の区別を立てて、これを甚だしく疎外するということは、少くとも昔はありませんでした。蝦夷人すなわちアイヌ族の出にして、立派な地位に上ったものも少くない。正四位上勲二等の位勲を有し、近衛中将で、相模・下総・播磨等の国守になった人などもあります。かの大納言にまで進んだ有名な征夷大将軍の棟梁坂上田村麿も、少くとも昔の奥州の人は
蝦夷仲間だと思っておりました。安倍貞任・清原武則・藤原清衡のような英雄・豪傑、佐藤忠信・西行法師の如き勇士・歌人なども、家柄を尋ねたならすなわちみな蝦夷の一族でありました。このほかにも蝦夷出身の鎌倉武士は多かったことでありましょう。こういう連中が源頼朝の
御家人になり、その主君と仰ぐ頼朝の立身とともに出世して、もと制度上からは賤民の筈の
家人や、賤しい給仕階級の
侍が、運がよいと大名にもなる。そうでなくても御家人・侍は四民の上に立って、「おおみたから」たる農民を卑賤のもののように見下してしまう様になりました。しかしもともと武士には
蝦夷すなわちエビス出身が多かったから、「
徒然草」などを始めとして、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを「
夷」と云っております。鎌倉武士の事を「
東夷」と云っております。北条泰時が
貞永式目という法律を作りました時に、「かように沙汰候を、
京辺には定めて物も知らぬ
夷どもの書き集めたる
文とて、笑はるゝ方も候はんずらん、憚り覚え候。」と言っております。北条泰時は勿論アイヌではありませぬ。しかし武士仲間に這入ったから、自ら謙遜して
夷と云っているのであります。
また九州の
隼人だとて、帰化の支那人だとて、朝鮮人だとて、皆そうであります。坂上田村麿がよしやアイヌの出であったとしても、彼は支那人の子孫だと自ら
名告っておりました。そしてその妹か姉かは、桓武天皇の妃ともなっておられます。このほか支那人の名家は甚だ多く歴史に見えております。
隼人出の名家も少くはありますまい。民族的に云えば、日本民族を組織する要素の重なるものは、実にこの系統のものであったと私は信じております。平安朝の様な貴族的思想が盛んに発達して、貴賤上下の別の著しかった時代にも、なお「隼人は良人なり」と明示されています。また朝鮮人で立派な地位に上っている者も無論多い事であります。皇室とも御関係が深い。最近に梨本宮家と李王世子殿下と御婚約が成立したにつきましては、大変結構なことと存じますが、歴史を知らぬ人の中には、時々誤解をする人も無いでは無いやに承りますから、ついでながら一寸申し添えましょうなら、こういう類のこと実は今に始まったのでありませぬ。元来朝鮮民族と日本民族には、その成立の要素に於いて甚だ相類似したものと、私は確信しております。ことに昔は久しい間同一政府の下にもおりまして、両者の交通混淆も多い。皇室の御上について申さば、神功皇后の御母方は、
新羅の王子
天日槍の後だとあります。また桓武天皇の御生母なる高野皇太夫人は、
百済王家から出られたお方であります。その他にも百済王家から出て、天皇の妃になったお方も少からずあるのであります。
かくの如き次第で我が国では、民族の異同によってこれを疎外排斥するということはありませぬ。そしてもとは違った民族であったにしても、久しい間にはみな一つになっているのであります。したがってただただ境遇上の問題に依って、或いは貴ともなり、賤ともなり、その間に著しい区別を生ずることはよくありますが、その境遇が変れば自ずから貴賤の区別も変って来る。要するに我が皇室を宗家と戴き奉る天孫民族は、その度量が極めて広大でありまして、あらゆる民族をことごとく自分の仲間に入れてしまう。そして日本民族の大を成しているのであります。
右述ぶる如き次第でありますから、我が国では民族によって貴賤の別を立てませぬ。先住の土着人だからとて、決して卑しい者でも何でもありませぬ。その早く農業に従事したものは、
疾うの昔に公民になっているのであります。ただその中に山間
僻陬の地に居ったり、その他の事情によって、早く皇化に染むの機会を有しなかったものは、往々にして落伍者となりました。日本民族というものが段々に成立し、社会の秩序が確立して、貴賤の区別が著しくなって来ますと、もと同じものであっても、前に落伍したものは容易に仲間入りが出来にくくなります。こういう者は比較的後までも疎外される事になりました。かの浮浪生活を続けたものでありますとか、祖先以来の狩猟漁業に活きた狩人・漁夫などの如き者は、往々にして取り残された仲間となりました。後世に
山男とか、
山姥とかいう名で、
化物ででもあるかの如く思われたり、
山番とか云って、非人視されている輩の如きは、奈良朝・平安朝の頃には
山人と云って、一向珍しくないことでありました。京都の
平野神社や、宮中の
園神社・
韓神社の御祭には、
山人を呼んで来て管絃を以て迎えて御馳走をする。また山人が庭火を焚き、例の
祝詞を申すという儀式がある。平安朝になりましては、もはや
山人をわざわざ京都まで呼ぶの手数を省いて、左右の
衛士が山人の代になって、この儀式をやっております。これは有名な
国栖の奏などと併せ考うべきもので、
国栖もやはり吉野山中の一種の
山人でありました。山人とは山間の住民のことで、もと何ら里人と区別のないものであっても、
里人が社会の進歩と共に風俗なども変って行くのに伴わずして、永く固有の習慣を存しておりましたから、いつしか変った者の様に思われて参ります。近い例が台湾の生蕃と熟蕃とで、里人なる熟蕃は支那人の風をなし、いつかは同化してその跡を没すべき運命を持っておりますが、山人なる生蕃の方は、今以てしばしば頑強に抵抗して、融和し難い障壁を設けております。我が内地の古代の山人は、台湾の生蕃の様に永く抵抗する程の事はなかった。朝廷の儀式にも参列して、風俗の歌舞を奏したり、お祭に招かれて、御馳走を受けたりする位で、早く和熟して、次第に里人と区別のないものになってしまいましたが、たまに後世に遺ったものは、或いは
山男だとか、
山姥だとか、はては鬼などとか呼ばれて、まるで人間ではない、
妖怪変化の仲間の様に思われてしまいました。これは堕落した山人で、里人は段々と進歩する。山人は段々と堕落する。その隔りが次第に多くなって、遂にこんなものに誤解されてしまったのであります。
元来オニと申しても、決して
悪鬼羅刹の鬼ではなく、もとは山人という位の意味であったでありましょう。大和大峰山中、一番奥にある
前鬼村の人々は、鬼の子孫だと云われていまして、紀伊粉河の北の中津川にも、その子孫と称する者が五家に分れているそうであります。また京都の東北の
八瀬人が、自ら鬼の子孫だと認めておった事は有名な話で、彼らはもと他村の者と縁組もしなかったとも言われ、先祖の鬼がいたという鬼の洞が今もある。同じ京都の北の
貴布禰神社の旧祠官
舌氏も、鬼の子孫だと言われていた。大和の宇智郡地方には、鬼筋という家柄もあるそうです。このほかにも鬼の子孫だという旧家は所々にあったが、要するにこれらは、先住民族の子孫だということを認めておったものでありましょう。山人が山間に
遺った様に、海浜にも
海人が遺る。もっとも平地続きの海浜では、早く世間に同化してしまいますが、交通の極めて不便な、嶮しい山が海岸にまで逼っていて、地理的に他と隔離された所とか、或いは離れ小島だとかいう所には、往々にしてこれが遺る。その中には、豊後のシャアとか、日向のドンキュウとか、一種異ったものとして認められているのも少くありません。また特殊部落とまでは区別しなくても、他から結婚するのを嫌がるところも往々ありました。出雲の北海岸地方にいる者は、近傍の人がこれを
夜叉と云います。
夜叉はすなわち鬼の事で、これはつまり山人を鬼というのと同じことでありましょう。鬼が島のお噺ももとはこれと同じ思想です。
右申す様な次第で、日本民族を分析的に区別しますならば、いろいろの名前のものもありますけれども、結局はみな同じようなものになってしまっているので、そうひどく種の違ったものが今日存在する訳ではない。貴あり、賤ある、畢竟境遇上の問題であります。したがって少くも古代に於いては、その境遇をさえ脱離すれば、もはや少しも区別のない者になってしまった筈であります。したがって古代の法律上で定められた賤民の如きも、大抵はいつしかその跡を絶ち、その後にも非人というものは、多くは解放されたにかかわらず、ひとり旧穢多のみが取り残された事は、前申した通り、彼らが殺生をなし、皮を扱い、肉を食うの習慣と職業とを有していたが故に、その身が穢れていると誤解された為であります。しからば今日これらの習慣と職業とが、あえて必ずしも疎外すべきものでなく、六千万人ことごとく肉食仲間になっている現在に於いて、なおかつこれを疎外することを止めないのを、放任してよいでありましょうか。言うまでもなくこれは多年の因襲の結果として、ただ何かなしに彼らは穢れたものである、我々と同席すべきものでないとの迷信に支配されている為でありまして、かく疎外排斥せられる結果、彼らはますます堕落のドン底に落ち込み、生活も不潔になれば、品性も劣等になる。社会はズンズン進んで行くのに伴わないから、ますますその距離が多くなる。したがって近づこうとする者までが近づきにくくなるという結果を生ずるのであります。世人が特に彼らをひどく賤しみ出したのは、徳川太平の世階級観念が次第に盛んになった時代でありまして、穢多に対して極めて同情なき取締りを加える様になったのは、徳川時代も中頃以後になってからが多いのであります。かくて末に近づけば近づくほど、取扱いが残酷になっております。これ主として彼らの人口が盛んに増殖した結果です。彼らの職業と住居とは制限せられておりますから、生活はますます困難となり、勢い世間に向って溢れ出る。これに対する防禦の圧迫が、次第に彼らを苦しめたのであります。何故彼らにのみ増殖率が多かったかは、攻究すべき問題ですが、事実は全くそうです。そこで徳川時代も中頃以前の様子を見ますと、彼らは独占の事業と、種々の特権とを有して、しかもその人口が甚だ少かったから、生活も安泰であった。穢多部落に富豪の多い事は往々記録に見えております。「
倉廩充ちて礼節を知る」で、生活に困難がなければそう嫌がられる事もせず、世間に比して特に不潔なと云う生活を営む筈もありません。したがってそうひどく賤まれた筈はありません。実際彼らの
執っていた職務は、是非とも世間になければならぬ必要なものでありましたから、もしその仲間の数が少かったならば、世間から彼らの機嫌を取っても、是非勤めてもらわなければならなんだでありましょう。この際に於いて、特にこれを疎外するという筈はありません。しかるに世間の人口増殖に比して、彼らの人口が甚だ多く増殖しても、その割合に仕事は殖えない。その上住居がだんだん狭くなっては、彼らも生きんが為に多少の無理な事もせねばならぬ。世間に対して僅かな職を得んが為に、仲間同士で競争して、自らますますその地位を下げたという事もありましょう。横着な事をして世間から嫌われたという事もあったでありましょう。したがって世間の圧迫と
擯斥とは次第に彼らの上に加わる。その結果彼らはますます貧乏して、いよいよ不潔にもなったでありましょう。ことに維新後平民たるの権利をお上から与えてもらったのは、彼らにとって無上の幸福ではありますが、世間からは実際上その権利の行使を許してくれません。それにもかかわらず従来の独占と特権とは多く奪われて、国民としての義務は身分相当につくさねばならぬということになったので、それが狭い範囲に於ける人口の急激なる増殖と相俟って、一層気の毒な状態に彼らを陥れました。今日の特殊部落の状態を見て、古代の彼らを想像しては確かに真相を得る事は出来ません。
かく同情すべき情態のドン底にまで落込んだ彼らの起原は、そもそも何でありましょうか。これはすこぶる込み入った問題で、ここで詳細を申し述べる暇がありませんが、試みに簡単に申しますれば、屠者と、皮細工人と、それに河原者と、この三つが落ちあって出来たものであります。そして夙や散所などの徒の、これに仲間入りしたのもあれば、普通民でここに隠れ家を求めたものも、また勿論少からんことであります。
普通に穢多は屠者で、屠者の事を古え
餌取と云い、エタという名もその「エトリ」の転訛だと言っております。穢多の名義については私に別の考えもありますが、「エトリ」説もまた捨て兼ねますから、今はしばらくこれにしたがっておきましょう。しかし
餌取はもと屠者でなく、屠者はまた穢多の全部ではありません。餌取とはもと
主鷹司の鷹や犬に喰わせる餌を取ることを職とする一つの
雑戸で、後で云えば
餌差に当ります。
餌差は無論高尚な職業ではありませんが、そう穢多の様にも賤まれません。
主鷹司の餌取は昔は随分威張って、我儘をして、
市人を困らせた事がありました。この際に於いて餌取のみが、他の
雑戸仲間よりも特別に賤まれたという理由はありません。むしろ市人に対しては幅が利いた方であったでありましょう。しかるに
主鷹司は、殺生を忌む仏教信仰の思想から、しばしば廃せられたり、また復旧したりしましたが、結局廃滅の運命に終って、餌取の仕事はなくなりました。平安京右京に
餌取小路というのがあるのは、もと主鷹司の餌取のいた所です。あたかも徳川時代の所々の城下に、
鷹匠町だの、
餌差町だのがあるのと同じ事で、もと彼らは京の真中に住んでいたのであります。しかるに彼らがその職を失ってからは、慣れた仕事から屠者の群に投じたので、遂には屠者の事をも一般にエトリという事になったのでありましょう。
屠者はもと猟師で、獣を獲るもの自ら屠殺割肉の事をやっていました。また家畜の豚を屠る場合には、
猪飼がこれをやっていたのでありましょう。したがって特別に屠者という専門の職業もなかったでありましょうが、天武天皇以来牛馬を殺す事を禁ぜられ、年取って役に立たぬ様になった牛馬でも、飼主はこれを飼い殺しにしなければならぬ。そしてその斃死したものは屠者に渡す。屠者はその皮を剥ぎ肉を割き、ついでにこれを喰う。これが平安朝頃の屠者の実際で、仏教徒からひどく
嫌がられたところです。そしてこの屠者には、もとの
猪飼や、
餌取や、猟師の或るものが成って、同時に彼らの或る者は、
皮細工人ともなったのでありましょう。これからだんだん屠者が賤しまれ出す。両部神道が起って、神様が肉の
穢れを忌み給うという思想が盛んになっては、彼らは一層
嫌われるの運命に陥りました。しかしそれは主として仏教の側から見たのであって、仏教がすべての人民に行き渡っていない当時に、彼らが一般世人からそうひどく擯斥されたとは思いません。仏教信者でもなおこの頃は、時として
餌取仲間に這入り、仏徒の方でもこれに同情していた事は、「今昔物語」に見える餌取の話が、二つとも餌取法師の仏果を得た事を述べたのであるのを見て察せられます。実際屠者がなかったならば、死牛馬の処置にも困り、必要品たる皮革の供給にも手づかえを生じたでありましょうから、彼らの職業はむしろ世間から、歓迎されたのであったかもしれません。
次に皮細工人はもと屠者とは違います。これは純粋の
雑戸で、
熟皮の技術に慣れた
高麗人や、
百済人などがこれになったのもありましょうし、
鎧作・
鞆張・
鞍作等、その他一切の皮革を扱うもの、みなこれに属する訳です。そして彼らは聖武天皇の御代に於いて、立派に解放されて平民になっている筈です。穢多の事を古く或いは「
細工」と言ったのは、皮細工人ということです。その皮細工人の中でも、生皮を扱うものは穢があるというので、遂に穢多の仲間になってしまいました。されば彼らは本来の穢多ではありません。今でも地方によっては穢多と言う語はなくして、皮屋・皮坊などと云います。若狭に細工村という特殊部落のあるのも、皮細工人の意味です。上方あたりの古い地図や文書を見ますと、穢多というのは誠に少くて、多くは「
皮田」とあります。その皮田が法制上、みな穢多の中に巻き込まれたのです。もっとも穢多と云っても、昔は穢れた仕事のみをしたのではありません。「穢多」という文字は、初めて鎌倉時代の「塵袋」に出ておりますが、昔の穢多は井戸掘りや、
御輿舁をやっているのでありました。かかる「穢多」という様な、同情なき文字を使った世の中にも、なお飲料水を汲み出す井戸を掘らせたり、神輿を
舁かせたりしたのを見ますと、彼らがあえて穢れたものだとは思われていなかった事がわかります。また南北朝時代の貞治四年には、四条河原の細工が、祇園社の鳥居建立の穴掘りをしております。四条河原の細工とは今の
天部部落が、なお四条河原の今の大雲院の地におった時代の事で、当時彼らは神事の建築にもたずさわっていたのです。
最後に今一つ、河原者とは浮浪民が京都の鴨川原に小屋住まいをしていたもので、彼らは今日の木賃宿に泊っている下級労働者と択ぶことのないものでありました。そしてその中にも、皮革業にたずさわったものが穢多となり、しからざるものは非人となり、末が二つに分れました。穢多を一つにもと河原細工人とも、また河原者とも云いましたのは、これが為でありましょう。
以上三つの流れが重なものとなって、所謂穢多は出来ました。そのすべてが穢多の称を受ける事になったのは、徳川時代に、一切の賤民を穢多・非人の二つに分けた為で、従来河原者と呼ばれたものも、
皮田と呼ばれたものも、いやしくも皮革を扱うものはみな穢多になりました。摂津三島の
宿河原、紀伊の
狩宿などは、シュクの名のあるのを見れば、
夙の族がいた所だと思われますが、これらが穢多になったのは、皮を扱っていた為と存じます。その代りに一方には、京都に於ける
藍染屋・
青屋の如き、仏法で嫌う職業であったので、遂に徳川時代のやや下った頃までも、明らかに穢多仲間にされて、穢多と同じく牢番等をもなしたものです。しかしこれは職業があまりに違ったから、いつしか穢多から離れました。つまりは職業の問題から穢多というものが出来上がったのです。
徳川時代の穢多に関する制度を見ますと、江戸浅草に弾左衛門という者がありまして、鎌倉時代以来の穢多の頭として、これが関八州の穢多を統率し、その支配の下に、すべての非人等がおりました。彼らの主張するところによれば、その支配の下には猿舞わしもおりますれば、
田楽や
猿楽・
舞々・
幸若、その他種々の遊芸人もおります。金剛大夫が弾左衛門に渡りを付けずして、江戸で
勧進能の興行をしたので、弾左衛門が
手下の者を率いて、舞台へどなり込んだ話もあります。このほか遊女屋も、湯屋も、風呂屋も、
陰陽師も、
神子もあります。種々雑多の職人、例えば
筆結・
墨師・
弓矢師・
絃師・
襖師・
表具師・
土器師・
焼物師・
笠縫・
簑作・
石切屋・
左官・
櫛挽・
蝋燭屋なども、みな穢多の支配の下におったものだと言っております。つまり昔の
雑戸と卑まれたものが、大抵その支配下にいたというのであります。京都では下村庄助(文六とも)というのが、百九石余かの高取りで、穢多頭として多くの皮田部落民を率いて、二条城の掃除をする役でありましたが、宝永五年に文六が死んであとが嗣がず、各部落は年寄支配になり、職務も牢屋の外番を命ぜられ、また悲田院の様に犯人追捕などの役義、或いは死刑囚の処置など、次第に人の
嫌がる仕事の方へ向けられる事に変りました。しかもなお
天部の
小法師と称するものは、禁裏御所のお庭掃除のお役をつとめておりました。この小法師は後には蓮台野部落や、大和の部落から出ております。
かくの如く穢多の源流を尋ねてみますれば、何も彼らのみが賤まれる理由はないのでありますが、ただ彼らは穢れたものである、同居同火は神様に対して忌むべきものであるとの迷信があったが為に、世が下るに従って、段々とひどく賤められ、ことに人口が増す割合に仕事が殖えず、次第に生活難になったが為に、一層人の嫌がる仕事の方へ活路を求めて、ますます
他から賤しまれる。ますますひどく圧迫されるという事になる。遂には幕末維新頃の様な、最もひどい侮蔑を受けることになってしまい、維新後折角国法の上から解放されましても、実際に世間がこれを認めぬという有様になったのであります。これらのことはとても今日のこの短時間を以て、詳しい考証を申し上げることは出来ませぬから、まず大体を述べまして、委曲はいずれ「民族と歴史」の雑誌上に書いて、御参考に供するの機があろうと存じます。
これを要するに、我が国には、民族の区別によって甚だしく貴賤の区別を立てる事は致しません。したがってもと違った民族であっても、うまく融和同化して、日本民族となったのであります。ただ境遇により、時の勢いによって、同じものでも貴となり、賤となる。今日特殊部落と認められているものは、徳川時代の所謂穢多・非人でありますが、それも非人の方は多くは解放されまして、穢多のみがみな取り残されております。しかもその穢多なるものは、もと
雑戸とか浮浪人とかいう方で、法制上の昔の賤民というものではありません。しかるに法制上の真の賤民の多数は、つとに解放せられて、中には大名とも武士ともなったのが少くなく、そうでないにしても、いずれも解放されて、今日はみな普通民の中に
混り込み、何ら区別されぬものになっている。そしてこれに代って穢多・非人が、賤民視されることになりましたが、その非人と言われる中にも、既に室町時代以来だんだん解放されて、最後まで河原乞食などと賤まれた俳優でも、今日は立派な芸術家として、よい身分の人々までが自らその仲間になる世の中になっております。万歳・春駒などの雑芸者の仲間や、ハチヤ、番太などの中には、まだ解放されずにいる者もありますが、世間のこれに対する感じはだんだん薄らいでいる。しかるにただ気の毒にも、旧穢多のみが比較的頑強に取り遺されているの状態にあるのであります。今日では一般世人が肉食をなし、身分ある人が皮革業を行って怪しまず、神もあえてこれを忌み給わぬ事実が証明せられているのでありますから、彼らがもと区別された原因は全く除去せられているのであります。しかるにもかかわらずなおこの区別撤廃の出来ないのは、彼らの実質内容如何によることも多かろうと存じます。したがって目下の必要は、彼らの実質の改善にある。世間の進歩に後れ、距離がだんだん遠ざかる様では、いかに理論が徹底しても、融和の理想的実現はむつかしい。
大体古くから賤民の解放さるるに至った歴史を見るに、必ず実力の充実とその機会とがある。徳川太平の世には、この機会というものが少かった。したがって圧迫が次第に加わり、堕落の程度は次第にひどくなって、もと実力のあったものまでがその渦中に巻き込まれてしまうの状態となった。言わば献身的に身をその部落に投じて教化に従事した穢多寺の住職や、浮浪民の世話をした悲田院の年寄や、外から穢多を監督した穢多村の或る年寄等までが、これを世襲していたが為に、みなその仲間にされてしまった。御本山までが殉教者の子孫たる穢多寺の住職を疎外したなどは、相済まぬ次第と存じますが、それが避けがたい時勢というものでありました。しかるに古来の歴史を調べてみますと、実力と機会とによって、立派に賤民の解放された実例が少からずあります。こういうことを申し述べますと、或いは部落民を煽動するという意味に誤解されるか知りませぬが、決してそうでない。私は歴史上から、彼らに自覚反省の資を与えたいと思うのであります。
本来民族の階級とか、社会の秩序とかいうものは、一つの機会と実力所在の移転とによって変って来る。もとより人そのものに先天的に貴賤の差別のあるものではない、しからばそれが日本の歴史上に於いて、いついかなる状態に行われていたかと申すと、その最も著しく起ったのは平安朝の半ばから、鎌倉時代の初めにかけての時であります。この時には旧来の貴族は実力を失って、ただ惰力によってのみ旧来の状態を維持しているに止まり、実力はむしろ彼らから賤視された武士階級にあった。しかもその武士なるものは、法制上から云えば
家人・
奴婢という類の賤民であったが、それが平安朝末の大変動によって、多く解放されて、従来
家人とか、
侍とかいわれたものが、その賤しい名称のままで、かえって四民の上に立つような状態になったのであります。もう一つの場合は戦国時代でありまして、この時には鎌倉時代以来の旧家は多く潰れて、新たに名もないものが頭を持ち上げて参りました。これについて面白い記事が奈良大乗院の日記にあります。「近日は
土民・
侍の階級を見ざる時なり。非人三党の輩たりといえども、守護・国司の望をなすべく、左右する能はざるものなり」とある。この土民とは農民で、もとの天下の公民として、家人・奴婢の上に立っておったものが、久しく下方に
圧さえつけられていたのであります。また
侍とはもと賤しい職務であっても、実力を得た結果久しく所謂土民の上位に立っておったものであります。
能の狂言などを見ますと、室町時代・戦国時代頃の大名・侍が、いかに威張って、しかもいかに馬鹿なものが多かったかが知られます。その空威張りして、しかも馬鹿者の多かった大名・侍等が地位を失い、土民との間に階級の区別を見ない。非人でも実力によっては守護・国司にもなろうとするのを、誰も抑えることが出来なかったのであります。今一つこういうことがある。前のは文明二年の条で、これは同じ文明の七年の条の事であります。「近日は然るべき種姓は
凡下に下され、国民等は立身せしむ。自国・他国皆此くの如し。是れ併しながら
下極上[#ルビの「かごくじょう」はママ](下剋上)の至なり」とあります。従来は立派な貴族であった者が、凡下の輩に下ってしまう。そして下に圧迫されていた国民輩が、次第に立身して来るというのであります。かくの如くにして、実力を得た賤者の解放は行われました。
右は社会の変動という機会に際して、実力を有した賤しい身分のものが、実力のない尊い身分のものに代った実例でありますが、機会は必ずしも社会の変動の際には限りません。今日は民族問題が世界を通じて討議せられ、特に我国では、人種平等の問題を以て世界に向って活動しようという際であります。しかも国内に於いて、民族の異同があるというのでもなき一部の同胞に向って、何ら区別すべき根本原因のなくなった今日、なおこれを区別する必要がどこにありましょう。また永く区別されていなければならぬ義務がどこにありましょう。今日は彼らの自覚せねばならぬ時であります。世人の反省せねばならぬ時であります。機会は正に到来しております。平和的に到来しております。ただ彼らはこれに副うべき実力を伴わず、特殊部落とか新平民とか云う様な、何ら侮蔑の意味のない名称に対しても、彼ら自身の実質上から侮蔑さるべき意味を付け加え、自分でその名称を嫌がっているのであります。細民部落とか後進部落とか云う様な、確かに侮蔑の意味を含んだ新しい名称に取りかえられても、その多数はこれに満足しなければならぬ様な情態にいるのであります。機会は来ても実力が伴いません。実力さえ伴いますれば、かつて
家人とか
侍とかいう賤しい名のままにでも、立派なものになったと同じ様に、穢多非人の名のままでも、立派な身分になられるのであります。特殊部落と云えば特殊に親しむべく信用すべき部落、新平民と云えば新進気鋭の依頼するに足る人民ということにもなりうるのであります。今日は昔とは世の中の様子が変っております。昔の様に非人三党の輩が守護・国司の望みをなして、従来の守護・国司を踏み付けてしまった様な、国内限りの争闘をなすべき時ではありません。世界は広くなっております。同じく日本民族たる同胞が、互いに圧迫を加えたり、反抗したりするには世界があまりに広くなっております。特殊部落の成立沿革を考え、過去に於ける賤民解放の事歴を調査しましたならば、今にしてなお彼らに圧迫を加うることの無意味なることもわかりましょう。彼ら自身にもいたずらに憤慨し、或いは自暴自棄すべき時代でない事もわかりましょう。要は彼らの生活の改善、実力の養成であります。社会の進歩に後れず、社会と融和しこれと同化しうるだけの準備をなす必要が彼らにあります。しかも彼らをしてこれをなさしむるには、まず一般世間がこれに対する故意の、もしくは無意識の圧迫を解くを必要とします。彼らは目覚めねばなりません、世間は反省せねばなりません。いたずらに百数十万の同胞を苦しめ、国内の争闘を醸成すべきではありません。
貴重な時間を多く費しまして、清聴を穢した事について、厚く御詫びを申し上げます。(完)