部落民は一般に仏法に対して最も熱烈なる信仰を有している。彼らが寺院に参詣して仏を拝し法を聴くの状態を見るに、一心に浄土を欣求するの至情が躍如たるものがある。彼らには日常の生活に苦しむ身でも、御本山への志納金はあえて怠らない。旅費がなくなって空腹を忍びつつ、遠路を徒歩して、遂に行き倒れにまでなりかけた婆さんが、懐中なる阿弥陀様のお金には手をつけなかったという話もある。けだし彼らはもと屠殺を業とし、皮革を扱い、肉食に慣れていたがために、穢れたるものとして、仏者から嫌われ、ことに仏臭を帯びた神道者流から甚だしく忌まれた結果、自然と仏縁にも遠かったのを、幸いに真宗の布教によって救われて、始めて極楽往生の有難いことを覚ったのであった。ことに彼らは、社会の圧迫がますます彼らに加わり、社会の侮蔑がますます彼らに注がれるに及んで、痛切に現世の穢土なることを観じ、一心に浄土を
彼らを絶望の暗黒界から救ったのは実際真宗であった。それ迄は彼らの多数は、殆ど仏教から縁なき衆生として度外視されていたのであろう。切支丹の禁制がやかましくなって、いやしくも日本国土に生活するもの、必ず何らかの仏教寺院の檀那でなければならなくなった後から思うと、また非人と言われたものの中に、僧形をなしたものの少からなんだ事実から考えると、古くからこの社会にも仏教は弘通していたかの如く想像されやすいけれども、実際祖先以来の風習をそのまま保存して、山の
昔之勝瑞之町之時、堅久寺と申真言寺、青や太郎左衛門米を持申たるにより、だんなに被レ仕候時、持明院・菊蔵院・長善坊・光輪寺・妙楽寺・清長寺、みな真言寺にて候が、堅久寺とつきあひをとめられ候に付て、青やだんなをはづされて、持明院御つきあひ被レ成候事。
とある。
神道家の方でエタを嫌った事はことに甚だしかった。「神道柱立」(広文庫引)に、
屠児は神国に住むといへども、神孫にあらず。故に神祭る事ならず、厠などへ行きても手水せず、親族の忌服をうけず、又不浄を見て唾吐く事を知らず。
と云い、また、
寛政九年京都は人家へ交り居し穢多を御吟味ありて多く亡ぼしたり。誠に神国神孫の人として、かゝる風儀に成行くは嘆かはしき事ならずや。此等の事いよ/\流行せば、神国終には神明の守りを失ひ、外国の有ともならん。恐るべきの第一なり。
などある。今にして思えば滑稽千万の次第ではあるが、かつては神道家の或る者に、こんな極端な考えを以てエタを排斥したこともあったのである。
仏教者や神道家が、エタに近づくのをすら穢としたのは、もとより決して彼らの祖先の遺風ではない。しかし間違いながらにも彼らは、通例甚だしくエタを排斥するのが事実であった。
この際に当って、献身的に彼らの教導に従事したものは、肉食妻帯をすら忌まなかった一向宗、すなわち浄土真宗の僧徒である。しかしそれは既に宗祖親鸞上人の時から始まったと伝えられている。「大谷本願寺由緒通鑑」に、上人が京の建仁寺辺の沓作り、弦作りの非人を教化されたことがある。これは祇園の
一体僧侶の肉食妻帯は、我が僧尼令の厳禁するところで、酒を飲み、肉を食い、五辛を服するものは三十日苦使せよ、僧寺に婦女を停むる一宿以上ならば十日苦使せよ、五日以上ならば三十日苦使せよ、十日以上ならば百日苦使せよとある。弘仁三年八月に、僧良勝が女と同車したという罪で、遠く

右の如き次第であるから、真宗にとっては特殊部落は重要なる大檀那である。或る部落民は余輩に向かって、全国部落から本山に上る金高は、毎年百万円ないし百五十万円にも達しているであろうと言ったが、果してしかりや否やは知らぬ。しかし実際彼らが生活の改良費を節してまでも、浄土の案内料を惜しまざるの熱心を有するのは事実である。したがって彼らは細民部落・密集部落と言われる迄にも、陋巷陋屋に不潔の生活を営んでいながら、大抵の部落には巍然たる仏堂を有している。京都の柳原部落の如きは、八個の寺院をさえ有しているそうである。もっとも中には部落外の寺院に檀徒たるものもないではない。例えば京都天部部落の旧年寄家松浦氏の一族が、浄土宗黒谷派城安寺を檀那寺と仰いでいるが如きそれであるが、これらは多く特別の縁故によるものである。
部落の寺院はもとエタ寺として、同じ真宗寺院中でも軽蔑されたものであった。エタ寺の住職は、縁組の場合でもしばしば仲間同士の間に取り結ぶべく余儀なくされていた。本山で或る特定の礼禄を納めたものに堂班の資格を与える場合にも、彼らは高い位置から除外された。エタ非人の称が廃せられて、もはやかかる区別をなすことが出来なくなった後までも、或る期間はこの区別が存していたそうである。その理由として、尊い法主の御身に近づくをうるの資格を、この穢れたものに与えるのは不可だというにあったとは、今から思えば噴飯に値する。しかしエタ寺をいかに区別すべきかという事は、為政者の方でもしばしば問題となったのであった。文政元年十二月、松平越後守お預り所の役人より、左の如き伺いが幕府へ出た。
一、穢多僧取扱方之儀伺
越後守お預所備中国阿賀郡村尾村一向宗穢多寺永宝寺と申もの有之、尤本寺は摂津富田本照寺にて、是迄素人僧に御座候由。勿論是迄穢多呼出し候節は、先支配振合を得、白洲え差出申候。然る処穢多僧の儀は、呼出之節は如何取扱候て宜候哉。此段奉伺候様、国元役人共申越候に付、奉伺候以上。
越後守お預所備中国阿賀郡村尾村一向宗穢多寺永宝寺と申もの有之、尤本寺は摂津富田本照寺にて、是迄素人僧に御座候由。勿論是迄穢多呼出し候節は、先支配振合を得、白洲え差出申候。然る処穢多僧の儀は、呼出之節は如何取扱候て宜候哉。此段奉伺候様、国元役人共申越候に付、奉伺候以上。
この頃になってかような問題が起ったものとみえる。これに対する指令は、
書面穢多僧呼出候節は、砂利え可レ被二差出一候。右は寺社奉行中え懸合之上申達候。以上。
とある。これより十七年前、享和二年四月の江戸浅草本願寺輪番東坊・長覚寺連署の東派浄土真宗一派階級之次第というものの中にも、
一、穢多寺と申もの有之、穢多寺の住持は於二本山一剃刀無レ之候。右は別種して外交無之候。又者於二本山一、平僧寺・飛檐寺両寺にて、百姓町人の旦家と一同に、穢多を旦家に持候寺も有之候。此向者於二本山一、平僧寺・飛檐寺と取扱に無二差別一剃刀被レ免候。
とある。徳川太平の代、エタが特に賤まれる様になって、エタ寺またその不名誉に
この名誉ある、尊敬すべき殉教者の子孫の受けた擯斥は、やがてエタの受けた擯斥の程度を説明すべき料ともなろう。エタ必ずしも一流ではなく、衆流の落ち合った陰鬱なる水溜りであることは、別に「エタ源流考」に於いて説明しておいた通りである。そしてこれら殉教者の徒も、法の為にこの水溜りへ落ちこんだというの理由から、ことごとくエタとして擯斥せられていたのであった。
自分は仏教の事をよく知らぬが、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者」と観ぜられて、太子の尊き位を