エタ源流考

喜田貞吉




1 緒言


 往時「エタ」と呼ばれておった不幸なる人々は、本来いかなる性質のものか、またいかなる事情からかくの如き気の毒なる境遇に落ちたか。この解決は自分の日本民族史研究上、最も必要なる事項であるのみならず、この人達と一般社会との真の融和を得る上にも、まず以て是非とも知っておかなければならぬ問題であると信ずる。
 それについて自分は、「穢多」という同情なき文字の使用に甚だ多くの不愉快を感ずる。「エタ」という名がいかなる由来を有するか、いかなる意義を有するかについては、別項「エタ名義考」中に於いて管見を述べておいた。よしやその意義がいかにもあれ、「穢多」という文字は「エタ」の語を表わすべく用いられた仮字に相違ない。しかしそれが仮字であるにしても、かつて或る迷信の上から、彼らは穢れたものであると認められていた時代ならば、或いはこの字を用いておっても、幾らかその意味があったかもしれぬが、今日肉を喰い皮を扱うことが、必ずしも穢れではない、神明これを忌み給うものでないという諒解が出来た時代にまで、この不愉快の仮字を使用する必要はない。
 実を言わば「穢多非人」の称は明治四年に廃せられたので、爾後「エタ」なるものは全く存在しない筈である、したがって自分は、もし出来るならば一切この忌わしい言葉を口にしたくないのである。しかしながら、過去の歴史を説く場合には、どうしてもこれを避ける事が出来ない。自分もやむをえず、不愉快ながら本編以下多くこれを使用しようと思うが、それにしても「穢多」という同情なき文字は、なるべく避けたい。どうでそれが発音をあらわすための仮字である以上、いかなる漢字を使用してもよいのであるから、自分は彼らの将来に天恵多からんことを祝福して、「恵多えた」という文字を使用したいと思う。しかしそれは余りに見馴れない文字で、過去に所謂「穢多」を表わすべく、読者諸君の理会を得難かろうとの懸念もあれば、しばらくはなるべく片仮名、もしくは平仮名を用うる事にしたい。万やむをえず漢字を用うる場合には、自他共になるべく「恵多」の文字に改めたいと希望する。
 本編の目的は、所謂「エタ」が我が日本民族上、いかなる地位にあるものなるかを明らかにせんとするのにある。そして今説明の便宜上、まずその結論を初めに廻して、一言にして自分の所信を言えば、もと「エタ」と呼ばれたものは、現に日本民族と呼ばれているものと、民族上何ら区別あるものではないという事に帰するのである。ただその執っておった職業や、境遇上の問題からして、種々の沿革・変遷を経て、徳川時代の所謂「穢多」なるものが出来上がった。その川の末は「エタ」という大きな流れになっておっても、その水源は必ずしも他の普通民の祖先と、そう違ったものではなかった。その中に運の悪い道筋を取ったものが、彼方の山から、此方こなたの谷から、いろいろと落ち合って、遂に一つの「エタ」という大川になったのである。さればその本流・支流の水源を尋ねたならば、決してそう賤しいものばかりではない。またよしやそれが賤しいと認められていたものであっても、その流れのすべてが後の所謂エタになったのではない。或るものは所謂非人仲間に這入って、つとに解放せられているのもあれば、或るものは非人という階級を経ずして、そのまま普通民になっているのも甚だ多いのみならず、普通民の少からぬ数が、また後からここに落ち合っているのもあるのである。もとエタと呼ばれ、現に特殊部落民として認められているものは、現在北海道と沖縄県とを除いては、殆ど全国到る地方にあると言ってよい。北海道にも現にその筋のものの移住者が無いでもないが、それはつとに解放されて、特殊部落民としては認められておらぬ。また東京の様な入り込みの地方では、既に忘れられているものが甚だ多い。
 現在部落民として認められるものは、普通民との数の比較の上から云えば、畿内地方から、兵庫・和歌山・三重・滋賀等、畿内の付近地方が最も濃厚で、岡山・広島等の中国筋から、四国・九州北部という方面がこれにつぎ、関東では埼玉・群馬などに比較的多いが、九州の南部、奥羽の北部など、中央から遠ざかるに従って次第に減少の態となり、青森県では現にただ一部落二百二十四人という数がかぞえられているだけである。
 しかしながら、ともかくも彼らはかく広く行き渡っているのであるから、それが同一根源から蕃殖移住したものだとのみは考えにくい。各地に於いてもと起原を異にしたもので、同一状態の下におったものが、後世法令上の「穢多」という同一の残酷な名称の下に、一括せられたのであることは想像しやすいところである。したがって地方によっては、今もなおそれぞれ異った名称を用い、エタという名を知らぬ所すら少くないのである。

2 エタの水上みなかみ


 徳川時代のエタは江戸と京都とを両中心としていた。江戸では有名なる弾左衛門が、関八州から甲・駿・豆・奥の十二州(或いは参遠の一部をも)の「エタ頭」として、寛政十二年の同人の書上によるに、当時エタ・非人七千五百二十八戸を支配していた。また上方かみがたでは、京都で下村勝助が百九石余の御朱印を戴いて、「エタの長」として、山城から近江・摂津の一部にまで統率権を及ぼしていたのである。しかるに上方では、勝助が宝永五年に死んだ後、その跡が取り潰しになって、各村にはエタ年寄が、各自その手下のものを支配するのみになった。その他の国々では、それぞれに領主からその地の習慣に従い、取締りをエタ頭に一任しておいた様である。
 かくの如きの状態で、江戸の弾左衛門を除いては、徳川時代に於いてエタ全体の仰視すべき大頭とも云うべきものがなかったが故に、弾左衛門の法が自然にエタ非人の法の如くに心得られ、上方地方のエタの伝うるエタ巻物などの類にも、しばしば弾左衛門のことを引き出している様ではあるが、しかもその弾左衛門自身が、もと摂州池田から鎌倉に移住したのだと伝えられている程であるから、もと各地にいたもので、後にその仲間に入れられたものの多かったことは勿論で、エタの起りとしてはやはり上方地方であった様である。
 しかもその上方地方という中に於いても、京都が古く「エタの水上みなかみ」と認められていた。したがって地方に悶着が起って、彼らの不文法でその裁決に困った様な場合には、往々「エタの水上」なる京都へ来て、エタの仕来りを問い合せているのである。
 正徳二年七月に、備後地方のエタと茶筅ちゃせんとの間に於いて、支配権限の争いが起った。そこで福山のエタ頭三吉村関助・九郎助の二人が領主の命により、京都へ上って、従来の振合いを問い合せに来た。六条村年寄の留書に

今度備後国茶筅共と、我々共触方の義に付、出入に罷成り、則御地頭様より穢多の水上京都へ罷越則茶筅と穢多共の甲乙之義様子聞合せ可申由被仰出。尤備後・備中の茶筅共之義は、おんぼう仕、穢多の支配下にて無之由を申出し、出入に罷成候。依之福山穢多頭より、京都にて皮田頭中え右出入の品委曲に申上度候と申、則書付持参仕候事
口上
一、今度私共国方に、皮田村とちやせん共と甲乙の義に付、御番所様え先年之通申上候所に、被仰出候は、其方共之頭京都皮田村え罷登り、相尋可来之由被仰出候。依之各々様え相尋申上候。委細被申聞候者、可忝候已上。
正徳二辰年七月    備後国福山皮田三吉村
三八九郎助
同 関助
京都皮田村
  頭中様

 この争いの結末は、茶筅等は京都四条坊門極楽院空也堂の支配下であって、彼らの名前が同寺の古帳にあるとの主張であったが、調査の結果「本寺古帳に左様の者一人も曾て無之」との回答を得て、エタ方の勝利に帰した。
 享保三年にも江州甲賀郡森尻村のエタと、非人与次郎との間に、芝居櫓銭やぐらせん十分一取打の事について出入りになり、京都へ問い合せに来た事があった。その結果代官所の裁決にて、「諸芝居十分一右森尻村の皮田へ請取候様に被仰付下候て、則所の番人共一切十分一請取不申候」ということに落着した。
 このエタの水上みなかみというのは、果していかなる意味であろうか。

3 エタの元祖


「雍州府志」にエタの起原を尋ねるものにとって、見のがし難い文句がある。

穢多之始、吉祥院南小島為本。

 著者黒川道祐が何に拠ってこの言をなしたかは今これを知る事が出来ぬが、天和・貞享の古えに於いて、彼がかく判然たる記事をなすべく、確かな伝説のあったものと解せねばならぬ。小島は桂川辺の一村落で、古えの石原里いしはらのさとに当る。そして有名なる佐比里さひのさとは、その西北に当っていた。小島から西、桂川に沿うてもと舁揚かきあげという古い部落があった。或いはその辺がその佐比の一部に当るのであったかもしれぬ。そしてこれらの地が平安朝の放牧葬送の地であった事は、「雍州府志」に小島をエタの始めということと、関係がありそうに思われる。「三代実録」貞観十三年の条に、

閏八月廿八日、制‐定百姓葬送・放牧之地。其一処在山城国葛野郡五条荒木西里、六条久受原里、一処在紀伊郡十条下石原西外里、十一条下佐比里、十二条上佐比里。勅曰、件等河原是百姓葬送並放牧之地也。而愚昧之輩、不其意、競好占営、専失人便、須国司、屡々加巡検※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)上レ耕営。犯則有法焉。

 とある。この佐比里は有名なる賽河原さいのかわらの俗伝の起った場所であった。
 小島は或いは単に島と云い、維新後付近の石原村と合併して石島村と云い、今は吉祥院村の大字となっている。石原・佐比・久受原・荒木は、共に桂河辺の土地で、川の流れとは反対に、斜めに東南から西北に存していた。これは紀伊・葛野二郡の古代の条里制の研究から、ほぼその位置を推定することが出来る。中にも佐比は平安京右京第二縦大路(西大宮大路の次)なる、佐比大路の名と関係のあるものらしく、その大道が南に延びて桂河に達する所、すなわち佐比の河原であった。佐比・石原共に、百姓の墓地及び牧場として指定された土地であってみれば、いずれそこには、これらの世話をした人民がいたに相違ない。これやがて小島(島)・舁揚かきあげ(築山・大藪)等の部落の起原をなしたものではあるまいか。中について島の地は、鴨の川原と共にその以前からも庶民の墓地であったと見えて、仁明天皇承和九年十月に、「左右京職・東西悲田に勅し、並びに料物を給して、島田及び鴨河原等の髑髏総べて五千五百余頭を焼かしむ」との事が「続日本後紀」に見えている。この島田すなわち後々所謂島(小島)の地であろう。鴨河原とはすなわち今の賀茂川の河原で、当時賀茂川は勝手に我儘をして、今の京都河原町から寺町あたりにまで氾濫し、広く河原をなしていたものであった。そして今の天部あまべ部落は、もとこの鴨河原の住民で、後に四条河原の細工とも呼ばれ、やはりここで放牧葬送の地の世話をしておったのがその起原であったかと察せられるのである。これらの島や鴨河原へ、餌取えとり余戸あまべの本職を失ったものが流れ込んで、所謂河原者をなし、その或る者はエタと呼ばれ、或る者は天部あまべと呼ばるるに至ったものではあるまいか。しからば所謂「エタの水上」なる京都に於いては、もと鴨河原や島田河原の葬送や放牧の世話をしていたものに、餌取・余戸等の失職者が落ち合ったのを以て、所謂エタ源流中の本流とすべきものと解せられる。その中にも、「穢多の始は吉祥院の南の小島を以て本と為す」という「雍州府志」の記事は、ここがエタ最初の場所だと語り伝えられていたものと思われる。

4 エタと餌取えとり


 餌取はもと主鷹司たかづかさ被管の雑戸ざっこで、後世の餌差えさしと同一のものであった。彼らがもと必ずしも賤民でなかったことは、別項「餌取考」に於いて述べておいた通りである。そしてそれがまた或いはエタの名の起原でありうべきことも、また別項「エタ名義考」中に述べておいた。そしてその餌取本来の居処は、平安京右京第三坊で、佐比大路の西三町目にある餌取小路えとりこうじにその名が残っているのである。しかるにその餌取らは、殺生を忌むの風習が盛んになった結果として、主鷹司の廃止とともにその職を失い、為にもとの居処に最も近い、桂河原の佐比・石原の地に流れ出して、放牧・葬送等の世話仲間となったかと想像される。けだしこれ最も自然の成行きであらねばならぬ。またこれを地理上に見るに、舁揚部落、すなわち今の大藪・築山辺の地は、餌取小路の南端、南京極の地から正南僅かに二十町で、小島はその東方僅かに六七町の距離を有するに過ぎないのである。ことにこの佐比・石原等の地が、葬送・放牧の場所として指定せられた貞観十三年という年は、主鷹司の廃せられた貞観二年を距る、十一年の後であることも、またこの推測を確かむべき有力なる一材料となすべきである。
 職に放れた主鷹司の餌取らが、いかなる運命に向かって進むべきかは、元禄年間生類憐みの沙汰から、当時の餌差らが取った運命を見ても察せられる。
「京都御役所向大概覚書」に、

   洛中洛外餌指札えさしふだ之事
一、町餌さし三十四人
右前者人数不相極、所々に罷在、御上洛之節御鷹餌差上来候由。然る処に板倉内膳正殿在京之節、吟味之上人数三拾四人に相極り、小鳥之殺生ばかり致旨にて、小鳥札被出置候。其後所司代に札被指出候処[#「候処」は底本では「侯処」]、内藤大和守殿所司之時分より、札不相渡候。元禄七戌五月 小原佐渡守殿所司之時分[#「小原佐渡守殿所司之時分」は底本では「小 原佐渡守殿所司之時分」]、小出淡路守申談、御鷹無之に餌差と申儀成りがたく候。外の家業無之及飢命と有之上は、向後町猟師に罷成候様に被申付候由。
元禄拾六未年九月松平紀伊守殿御所司の時分、水谷信濃守申談、京都町餌指之儀、殺生御停止に候間、相とめ候様餌さし三十四人え申渡、証文申付候。

 とある。放鷹の事が廃せられて、扶持を失った餌差らが、他の職業なくしてたちまち飢※(「飮のへん+曷」、第4水準2-92-63)に逼ったので、町猟師としてなお殺生を許されていたのが、後にはいよいよその殺生をも差し止められたのであった。しかしこの場合に於いても、彼らが他の職業を有せぬ事はやはり前同様であったであろうから、生きんが為には日雇取りにもなり、紙屑買い・畠番・下駄直し、そのほか人の嫌がる営業にも、従事しなければならなかったに相違ない。宝永七年に、京都北山甚兵衛びらきの中紙屋川かべかわ付近の畠番らが、生活に窮した結果六条村エタ年寄の組下になり、雪駄直しの仲間に入れてもらったなどは、彼らが当時解放された町餌差の成れの果てでないにしても、また以て往時の主鷹司の扶持に離れた餌取の末路と、同じ運命を語っているものではあるまいか。
 屠者ほふりをエトリということも、また餌取の末路を語っているものである。桂河辺に来てエタの本をなしたという人々は、まさかに墓守と屠者とを兼業することもなかったであろうが、他の道をたどったものは、彼らの慣れた営業がもと肉を扱うにあったが故に、所司代から命ぜられていた餌差が、扶持に離れて町猟師になったが様に、獣類屠殺の方に向かって流れ込むに至るのは、また最も自然の成行きであったに相違ない。屠者はもと餌取の全部ではない。餌取は屠者の一部分たるに過ぎない。これは別項「屠者考」に述べておいた通りである。しかも解放された餌取が、屠者の群に入ることになっては、京の人に耳近い餌取の名が、一般屠者に及ぶのも自然である。ここに於いてかすべての屠者ほふりが餌取の名で呼ばれ、後には他の賤職の者らと共に一括してエタとなり、しかも吉祥院の南の小島部落が、そのエタの元祖だとして認めらるるに至ったのではあるまいかと思われる。
「雍州府志」にはまた小島の事を記して、

此処有乃保里のぼり。是有罪人曝道路時、紙旗記罪状、書姓名、先以竿棒‐持此旗。斯徒毎日輪次掃‐除二条城外之塵埃。是出不浄者也。

 とある。この事は「塩尻」(「古事類苑」引)にも、

今に島(吉祥院)の保里(これまた悲田院の部類、刑罰の時紙籏に罪状姓名を筆とる者)毎日二条城外の塵穢を掃除するも、中世よりの風歟。

 とある。のぼりは「幟」で、罪状を書いた旗から得た名である。罪人を扱い、汚穢を掃う。これまた彼らの職務とするところであって、これらの事についてもエタの本と認められた小島の者が、もとはやはり特別の関係を持っていたものと思われる。

5 エタと余戸あまべ


 余戸あまべの事は詳しく別項「余戸考」に説いておいた。彼らは農民以外の雑業に従事する雑戸の民で、もとは公民の戸籍以外に置かれていたが、少くも聖武天皇の御代に、雑戸を解放して平民に同じくすと定められて以来は、推しも推されもせぬ良民であった。彼らは各地に分散定住していたのみならず、京都の大きな官署内にも寓居して、雑工・駆使・掃除等に従事していたことは、大学寮の古図に余戸の一区が画されているのによって察せられる。南北朝から室町時代の文書にしばしば見えている東寺の散所さんじょ法師の如きも、またこの類であったらしい。散所法師の掃除人等がサンジョの名を得た事は、別項「産所考」に説いておいた。これらの官署付属の余戸は、朝廷の紀綱が弛んで、官署頽廃に帰するに及んで、自然その職を失い、主鷹司の餌取が取ったと同様の運命に陥る事は、けだしやむをえなかった。もと四条河原にいた天部あまべ部落が、今になおあまべの名を伝えているのは、けだしこれら京内の余戸の職を失った或る者が、ここに落ち込んで賤業に従事し、依然その名の遺ったのかと察せられる。天部部落はもと四条河原の、今の寺町大雲院の地にいたもので、南北朝頃には、彼らは細工と呼ばれていたらしい。「祇園三鳥居建立記」(「続群書類従」所収)に、

貞治四年六月十六日、四条河原細工九十人  之、鳥居穴掘之。酒直一連半 之。猶穴不足之間、以  下穴掘之。足代木一貫五百文之由、最初大工雖損色、料足不為之間、為  、流堀川  (四条か)河原細工、丸太木(廻り九寸余)九支、丹波三郎口木廿支、以堀川寄方朝乗法橋借用、社人ニ今日以雑役送‐渡之。云云。

 と見えている。なおエタと細工との関係は、次項を見られたい。
「芸苑日渉」には、あまべという事を解して、これすなわち穢多だという様に解している。「越多えつたの種落之を阿麻別あまべと謂ふ。和名抄を按ずるに、載する所諸国の郷名に余戸あまべと称する者一国或は十余所に及ぶ。(中略)。昔王化の盛なるや、唐土・三韓の民の来帰する者、国史記を絶たず。(中略)。其のいやしき者は、当時之を諸国に分置し、各自郷をなして土着者と相雑はらず。故に其の種落を謂つて余戸となす。大抵外国人獣肉を屠るに慣る。故に屠を以て業と為す。後世仏教の盛に行はるゝや、人獣肉を食ふを忌み、遂に屠戸を見る事人類に非ざるものゝ如くす。」と言っている。もとより甚だしい誤解ではあるが、これらの説が本になったものか、エタは外国人の子孫だなどという俗説が、よく坊間に唱えられている。
 余戸が必ずしも外国人でなく、またエタでもない事は言うまでもない。諸国に余戸あまべの名を有した地は多かったが、京都の天部部落以外に、自分はそのエタとなっているものの多きを知らぬ。ただ京都の余戸は、解放された主鷹司の餌取と同じく、職を失った結果或いは鴨河原に住みついて、京人の為に掃除・皮細工その他の賤業に従事し、或いは屠者の群などに投じたが故に、自ずから石原里すなわち小島なる餌取の末路と同じく、身分職業の類似からエタ仲間になったに外ならぬと認められる。

6 エタと河原の者


 後世では河原者とだに云えば、これ直ちに非人の称で、特に歌舞伎役者を賤しんで呼ぶ場合の名となっておるが、昔はエタと非人との区別も判然せず、エタの事を河原者とも呼んでいた。室町時代文安元年の「下学集」に、

穢多(屠児[#改行]河原者)

 とある。当時に於いては屠児すなわち獣肉を扱う者をも、河原に住んで賤業に従事した河原者をも、共にエタと呼んでいたのである。否河原者の或る者が同時に屠児であって、為にその名が共通になっていたのかもしれぬ。これも室町時代の「七十一番職人尽歌合」に、「穢多」という題で、

人ながら、如是畜生ぞ馬牛の
    河原の者の月見てもなぞ

 とある。また「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄」(文安三年)には、

河原の者エツタといふは何ノ字ゾ。

 と題して、エタの餌取たる事を説明している。すなわち少くも室町時代には、エタを或いは河原者と云っていたことが察せられるのである。ことにこの「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄」の記事は、従来河原ノ者と云うのが普通であって、それをこの頃エッタと呼びならわしたのが耳新しかったについて、この説明の必要があったものと思われる。
 エタをもと河原ノ者と云ったことは、後世のエタ仲間に於いてもこれを認めておった。彼らの仲間に伝うる諸種のエタ巻物なるものの中に、この事に関して種々の付会した説明を加えてあるのが多い。「河原細工由緒記」というものに、

此職人河原細工人申者、滑革者不水辺者不成故、往古為此職、江河之辺移住。故河原細工人申也(不可混河原者)

 とある。細工人の事は後項に述べる。エタに河原という名のあった事は、右の文によっても確かであるが、特にその割注に、「河原者と混ずべからず」と断ってあるのは面白い。後世普通に所謂河原者は、彼らの下と見做した浮浪人であったが故に、彼らは自ら高く標置して、その混同を避けんとしたものである。
 また別本河原巻物と称するものには、エタの事を河原仁かわらびとと書いてある、

抑河原仁の氏神と申奉るは、天竺※(「田+比」、第3水準1-86-44)舎利国大王、縁太郎王子と申候。云々。

 別本にはこの縁太郎王子を円多羅ともあって、エタという言葉の語原を説明すべく設けた名らしい。
 さらに「別本河原細工由緒巻」と称するものには、河原細工と書いてある。

此職を河原細工と申す儀は、滑革をなす事は流水にあらざれば調はざる故、此職を務むる者は常に河原に於可之。依之河原細工といふ。此職を務者、勝手に付居宅を江河の滸とりにて造らせたり。

 とある。前に述べた天部部落の事をかつて四条河原細工と云ったとあるのは、すなわちこの河原細工のことである。また明和七寅歳孟春日、御僕小法師忌部川田某署名の無題文書にも、彼らの氏神を勢州渡会郡安部川原に川原神社と祠るともある。彼らの或る者が、かつて河原者として呼ばれていた事は、到底疑いを容れないのである。なお河原者のことは、別項「河原者考」について見てもらいたいが、要するに、かつて河原者という名称で呼ばれていたものは、今日の木賃宿住まいの下級労働者・雑遊芸人、ないし手伝い・日雇取りという様な類で、その中にも皮革業にたずさわったものはエタとなり、祝言・遊芸等に従事したものは後世所謂河原者となったものと解せられる。

7 エタと掃除


 徳川時代にも、エタ以外に「掃除」という賤民のあった地方がある。本誌一巻二号三十八頁に書いておいた通りで、阿波に於いてはそれが猿牽と共に、往々人形使いや義太夫語りになっている。この掃除は、阿波では美馬・三好地方に多かった様であるが、他ではエタや猿牽・茶筅の中へ雑ってしまったのであろう。京都地方のエタは、徳川時代の始めには下村勝助統率の下に、二条城の掃除が公役であった。また禁裏のお掃除をする小法師というものも、また京都付近のエタであった。「雍州府志」に、

禁裏院中掃‐棄塵埃者謂こぼし。是丹波山国之人。

 と云い、「塩尻」(「古事類苑」引)にも、

禁裏院中の御築地の塵穢を掃ふ者は、丹波国山岡(国の誤謬)より来り、是を己募志こぼしといふ。塵穢を覆ひ棄るの謂歟。

 とあるのによれば、もと山国から出ておったかとも思われるけれども、少くも元禄・正徳の頃には、禁裏のお掃除役たる小法師は、主として天部部落から出ておった。「京都御役所向大概覚書」に、

余部村小法師勤方
一、禁裏御目通御庭掃除、余部村小法師八人え被仰付候訳、左に記之。
西院村より        米六石三斗三升八合
三条縄手裏        同五斗五升
知恩院東川ばた屋敷    同一斗一升八合
右の通三ヶ所より知行被之候。此外に御切米四石、二月・十一月両度に被下。掃除被仰付候節は、為中飯壱人に米七合宛被之候由。
右者従古来掃除役人之名小法師と名付、今以知行御切米被之。則余部村に六人罷在候。寺町今出川下壱人、上立売下ル瓢箪之図子に壱人。右弍人は掃除御用之触夫いたし、右八人として相勤申候由。

 とある。六条村エタ年寄の留書にも、元禄十一年に淀城主へ、天部村お役田地並に小法師御扶持方田地を書き上げた事が見えている。
 しかるに享保九年六月頃、天部村の小法師失態の事あって所役召上げられ、七石の扶持もお取上げになった。その後享保十二年に至り、大和丹波市ほか六村から八人のものが許されて、小法師役を勤める事になった。蓮台野から出る事になったのは、この後の事かと考えられるが、年代が確かでない。或いは小法師は他から出て、蓮台野の年寄与治兵衛がその組頭を勤めていたかとも思われる。蓮台野の与治兵衛は維新まで引続きこの役をつとめ、明治三十二年にその由緒を申立てて、士族に編入されたものであるそうな。(この士族編入事件には問題がないでもないが)宝暦十年に、この野口与治兵衛から、仕丁頭中へ出した願書の控に、「私儀親代より引続き三代、小法師御用無恙勤来候」とあるのによれば、享保九年から後間もなく、この方へ職務が移ったとして勘定が合う。いずれ小法師の事は、さらに別に考証して書いてみたいが、要するに彼らは御所の掃除人足である。これは東寺の掃除人足を散所法師と云ったのと同じく、もと僧形をなしていたものらしい。明治三十二年に京都府へ出した「小法師由緒書」には、

元僧侶にして、往古御遷都(奈良より京都への御遷都)のみぎり、南都より供奉、平安京へ移住し、数十代連綿として、日々禁中御内儀御口向へ参勤し、御殿先、御庭廻りの御清掃を奉仕するお掃除役に御座候。

 とある。この語り伝えが、果してどれだけの価値があるかは知らぬが、大学寮に余戸があり、東寺に散所法師のあった様に、宮城にも古くから掃除担当の小法師なるものがあったらしい。
 エタと僧形との関係も由来すこぶる古い。紀州ではもと彼らを穢多法師と云った地方があったそうな。「賤者考」には、東国にてエタを俗にエッタボウシというともある。「延喜式」に、

凡鴨御祖神社南辺者、雖四至之外濫僧屠者等不居住

 とある濫僧を、ロウソウと読んで、弘安頃の「塵袋」には、エタの仲間に入れてある。自分の郷里阿波の南方みなみがたでは、身なりの賤しいものをロウソウと云う語があった。自分ら子供の時分に、しどけない風をしていると、「丸でロウソウ見た様じゃ」と云って、笑われたものであった。「塵袋」に、

子細知らぬ者はラウソウと云ふ乞食等の、沙門の形なれども、その行儀僧にもあらぬを濫僧と名づけて、施行ひかるゝをば濫僧供らうそうくと云ふ。其れを非人かたひゑたなど、人まじろひもせぬ同じさまのものなれば、紛らかして非人の名を穢多に付けたるなり。

 とあるのは、鎌倉時代の実際らしい。しからば小法師は「雍州府志」や「塩尻」の云う如く、こぼしすなわち塵埃をこぼし捨てるの義ではなくて、掃除すなわちキヨメが僧形をしていたからの名とも解せられる。
 鎌倉時代に掃除人足をエタと云った事は、また「塵袋」によって最も明らかに立証せられる。同書に、

キヨメエタと云ふはかなる詞ぞ。穢多。根本は餌取と云ふべき歟。餌と云ふはしゝむら鷹の餌を云ふなるべし、其れを取る物を云ふなり。

 とある。「塵袋」の著者はエタの語を以て餌取の転音だという事を認めながら、当時またキヨメをエタと云ったので、その語の説明を下したものである。キヨメは言うまでもなく「清め」で、汚穢物を掃除する者の名であった。「今物語」に、ある蔵人の五位が美人の後をつけて、一条河原のキヨメの小屋に行った話がある。すなわち小法師・散所法師の類で、それを鎌倉時代には屠者の仲間に入れて、エタと呼んでいたのであった。小法師がキヨメなる掃除人足であったが為にエタ仲間になったのか、エタ仲間からキヨメなる掃除人足の小法師が出たのであるかは疑問であるが、ともかくも汚物掃除の賤しい職に従事したものが、またエタの一源流をなしている事は疑いを容れない。
 因みに云う。小法師は禁中お庭掃除の外、藁箒及びお召の草履を献上する例で、御紋付の提灯をも許されておった。これはいつ頃から始まった例かは知らぬが、また以て彼らがもとは格別穢いものとして認められていなかった証拠ともなろう。小法師組頭野口与治兵衛の子孫は、今もその実物を持っていて自分に見せた。また緑雲生という人が「明治の光」に出した奈良県下の部落名の説明中に、磯城郡川西村梅戸の姫廻伊織という人も、先代までは宮中のお召緒太めしおぶとを献上した旧家で、御紋付の御用絵符や、御紋付の提灯を持伝えているそうである。同郡三宅村上但馬の旧家浅田源衛門の子孫も、禁裏御用の絵符を伝えているという。享保四年の「弾左衛門書上」(「江都官鑰秘抄」引)にも、「禁中様御召藺金剛ござこんごう、大和国長吏指上、御扶持代物にて頂戴仕候。並、御花砌之掃除、長吏小法師と申者八人にて相勤、御扶持頂戴仕候。其上様々御拝領物御座候由承及申候。」とある。例の御厨子所みずしどころ供御人くごにんなどと同じく、或る時代から彼らが縁故を求めて、往々禁中へ近づいていた事はこれらによっても知られるのである。
 エタと掃除との関係は、この小法師や、二条城の掃除人足のみではない。徳川時代以前には、むしろ掃除がエタの本職であるかの如くにまで解せられていた様である。「慶長見聞書」(「古事類苑」引)に、武州幸手の月輪院僧正が、エタの由来を説明した中に、

小野妹子大臣を御使にて、唐え被渡候て、初て穢多渡る。(中略)。かれが子孫多くなり、社々寺々の掃除の為に、山下に於て寺の残飯にて養ひ申候由、伊勢の間の山、高野に谷のもの、北野の宮地、祇園のつるめそう、叡山の犬神人、皆是寺方の掃除の為なり。

 とあるのは、起原の説明としては勿論取るに足らぬが、エタが社寺の掃除を業とした実際は、これに由って知る事が出来る。かの東寺の散所法師の如き、またこの類の一つであったであろう。かくてそのキヨメ等が一体にエタと呼ばれる様になったのは、鎌倉時代以来の事であった。大永三年に鶴岡八幡宮の別当法眼良能から、山ノ内・藤沢の長吏に与えた文書にも、「八幡宮掃除下役、無懈怠相勤。」とある。鶴岡八幡宮の掃除も、もとエタの任務であったのである。徳島藩でも、城の掃除は付近のエタが勤めていた。

8 エタと細工人


 京都の天部部落がかつて四条河原大雲院の地におった時に、四条の河原細工と呼ばれた事は既に述べた通りである。エタの或る者が細工または細工人と呼ばれた事のあったのは疑いを容れぬ。若狭の三方郡細工さいく村は、もとエタ村として認められていた。また福井県史の編纂に従事せられている牧野信之助君、同県史蹟調査委員たる上田三平君の報告によると、このほかにも若狭には、文永二年の若狭大田文にある細工保というのが、二箇所まで特殊部落となっているらしいとの事である。前にも引いた彼ら仲間に伝うる「河原細工由緒記」に、

抑革類細工人之探‐尋於源本者、人王十一代垂仁天皇之御宇、於朝廷上毛野人綱田睦毛野谷根強英雄。此時狭穂彦申者発謀叛。依之此両人征罰之蒙綸旨、直引‐出官軍、征‐討於叛逆人。於之龍顔開眉、御感不浅。莫大之恩賞。雖如為何イカンセン。侫奸之被(ママ)纔奏、独根強蒙勅勘。剰被遠‐流鎮西筑紫。哀哉不運而於配所落星也。于時有遺子名曰副国ソヘクニ(左江久仁訛而細工人伝云

 とある。この副国そえくに鈿目命うずめのみことの教えによって皮細工を始め、それがエタの元祖となったのだというのである。今一本には、遺子の名を佐恵久仁とある。もとより荒唐不稽取るには足らぬが、彼らに細工人という名のあった事はこれを認むべきものである。細工というのは大工に対する名で、必ずしも皮細工のみには限らぬ。しかしながら、各種の細工人の中で、皮細工に従事するものが遂にエタ仲間に落ちたのである。そこでエタの或る者に細工人の名が付いて、その祖先を佐恵久仁さえくにと云ったなどいう付会の伝説も起ったものであろう。六条村の留書を見ると、平場細工という語がある。皮細工・藁細工・竹皮細工などのことを云ったものであろう。ともかく彼らは人の扱うを穢れとした皮革、人の足に踏む履物はきものなどの細工をして、世人から賤しいものと見られたのである。各地にエタのことを皮屋・皮坊と云い、或いは訛ってかわっぽうかぼうかんぼうなどとも云う。或いは彼らが広く皮田かわたと呼ばれたものは、この皮細工人から得た名である。皮田は或いは「皮多」とも書いてある。もとは「エタ」という名よりも、この方がむしろ広く、かつ多く唱えられていた。享保頃の大坂所司代支配下の村々を表わしたと思われる古地図には、摂津・河内あたりの穢多村をことごとく区別して記してあるが、しかもそれを「穢多」と書いたのは僅かに二つで、他はことごとく「皮多」と書いてある。京都付近のエタも、もとは大抵皮多であった。「カワタ」の「タ」は弟人おとうとをオトト、素人しろうとをシロトという如く、皮人かわうとをカワトとつづめ、それがカワタと訛ったものか、或いは番太ばんた売女ばいた丸太まるた・ごろた(丸くごろごろする石)などの「タ」の如く、無意味に付けた語であるか。いずれにしても皮田が皮細工人の義である事は明らかである。「賤者考」の説に、皮田はカワタでなくてヒデンである。京都の悲田院の非人から起って悲田ひでんを「皮田」と書き、これを「カワタ」と読む様になったとあるが、従うことが出来ぬ。例の巻物には、彼らが江河の辺に住み、皮細工に従事していたが、人口増殖してそれのみでは生活し兼ねるので、その江や河の辺に田を開き、耕作に従事した。それで江田(穢多)とも、河田(皮田)とも云ったのだと説明している。もとより付会取るに足らぬが、彼らに皮田の名のあった事はこれによっても察せられる。
 しからばすなわち後世エタといわれるものの中には、皮細工に従事していたが為に、一括してその仲間に入れられたものの甚だ多い事は明らかで、これ実にエタの諸源流中の重なるものであると言わねばならぬ。しかもその皮細工人はもと皮作の雑戸で、賤民ではなかった。なお皮細工人の事は、委細別項「細工人考」について見てもらいたい。

9 エタと青屋あおや


 古え青屋あおやもしくは藍染屋あいぞめや紺屋こうやなどと呼ばれた染物業者は、エタの仲間と認められておった。
「雍州府志」に、

凡所洛内外之紺屋、以藍汁衣服者、号青屋、又称藍屋。如今紺屋為染屋之通称。其中青屋元穢多之種類也。穢多並青屋、毎刑戮、此徒必出其場、預斯事。或磔尸、或梟首。

 とある。これは著者黒川道祐の貞享頃の実際を書いたものであるが、「其の中に青屋はもと穢多の種類なり。」とあることについては疑問がある。「弾左衛門書上」によると、青屋はエタの下につくべきもので、少くも関東では、青屋すなわち穢多ではなかった。「慶長見聞書」にも、エタが青屋を自分らの下だと云っているとある。しかるに上方かみがたでは、それがエタ仲間にせられ、エタと共にエタ年寄指揮の下に、初めは二条城の掃除役に役せられ、後には牢屋の外番、罪人処刑、処刑者の張番などを命ぜられ、また青屋大工というのは、火炙り・鋸挽き・磔などの刑の場合に、その道具の製造をも仰せつかったものであった。青屋の中には、口実を設けてこれを拒んだものもあったが、泣く子と地頭の命には勝つ事が出来ない。たといその出所いかなる人であってもいやしくも青屋紺屋藍染屋かせ染屋等の職に従事したものは皆その仲間に一括されてしまったのである。これらの経緯いきさつは、別項「青屋考」中に詳説して、ここに略するが、要するに、彼らは、単に職業上の誤解から、その仲間にされたものとの事を疑わぬ。けだしもと青染には、動物性の染料を交えておったと言われていたので、これはいずれ染織史研究家の教えを乞いたいが、ともかく彼らは、その理由から仏者に賤められたのであった。そして彼らが、その職業上からエタ仲間にされたということは、後世に所謂エタなるものが、職業上から種々の流れを合せて一つとなしたものなる事の、最も著しい例証とすべきものである。
 上方の青屋がエタ仲間と認められたのは、徳川幕府以前からの事であった。それは別項引くところの「三好記」に証拠がある。そして既に彼らがエタ仲間になってみれば、自然世間との縁組にも故障が多く、為に中にはエタ村から養子を貰ったなどの実例もある。しかし彼らの職業は、普通にエタと呼ばれたものの職業とはあまりに多くの懸隔があった。ことに同じ染物屋でも、当初から純粋に植物性染料を用いた紅染屋の如きは、決して賤しいものとはされていなかったのである。そこで藍染屋も草藍を用いて、特別に穢れたものだとの誤解を除かれる様になっては、自然にエタ仲間から遠ざかる。牢番等の役儀に対しても、番代銀をエタに交付して自身その役に当る事をいやがり、さらに後には全くその賤役から離れる事になったらしい。これはエタといえども、職業をやめて年を経れば足洗あしあらいが出来て、純然なる素人になれたという遠州地方の習慣とともに、彼らが本来職業上から区別されたものである事の、よい実例をなすべきものであろう。

10 エタと産所


 産所さんじょという一種の賤民のあった事は、つとに「賤者考」や「近江輿地誌略」等によって注意された事で、柳田君の「郷土研究」にもその説が出ておった。これに関する自分の研究は、別項「産所考」に詳説しておいたから、それについて見てもらいたい。けだし彼らはもと産小屋さんごやの地にいて、産婦の世話をすることを以て、生計の重なるものとしておったものらしい。しかるに後には産小屋の風も次第にやんで、それだけでは生活が出来なくなったので、或いは掃除人足ともなり、或いは遊芸人ともなり、遂に今日では各地とも殆ど消えてしまったのである。そしてその或る者は、やはりエタの仲間へ流れ込んで、所謂エタ源流の一つをなしていることと思う。現に丹後には、算所と称する特殊部落民もある。また東寺の散所法師は平安京九条の地、信濃小路猪熊の西にいたので、後に九条のエタというのは、或いはこの末ではなかろうかと思われる。(この部落は早く退転して、後に遺っておらぬ。)今もなおもとのエタ村のものが、産時の汚物取片付けの面倒を見る習慣を存する地方の少くないのも、これと思い合される。別項島尾正一君の報告によれば、越中氷見のトウナイと称する部落民の如きは、今以て産婆の仕事を実行しているそうである。彼らははばまたははばさと呼ばれて、産婦の宅に聘せられ、あらゆる面倒を見ているのである。また出雲の三保では、ハチヤ部落へ行って産をする習慣があったという。これらはけだし産所の遺風が遺っているのではあるまいか。
 産所がもとの産小屋の地に住んだままで、一種の特殊民になっていたもののほかに、彼らが東寺の散所法師の如く、一旦掃除人足となって、汚物の取片付けなどに任じた結果から、所謂キヨメの徒として、エタ仲間になったことのあるべきは、既に「エタと掃除」の章に於いて述べておいた。ただしその遊芸人となり、特に操芝居あやつりしばいの人形舞わしなどとなったものの如きは、もとは同じ流れであってもエタにはならず、久しく非人扱いを受けていたが、それらはつとに解放されて、もはや今日では何人もこれを嫌がるものはない。質朴な農民等は、田植休みや秋祭の際に、氏神の社頭で人形芝居を豊楽に興行し、自ら彼らの仲間となって、人形を舞わしてあえて不思議としないのである。
 なおサンジョについては、別の考えも持っているが、それは「産所考」の説明に譲っておく。

11 エタとしゅくの者


 現今特殊部落と言われているものは、大多数旧時のエタであるが、エタとは別種のものとして、ことに上方地方には夙というのが多い。これらは旧幕時代には、エタ程には賤まれなかったが、それでも今なお特別のものに見られているものが少くない。エタの方からは自ら賤者の頭として、彼らをもその下に見ておった様であるが、彼らはかえってエタよりはよい筋のものだと云っているらしい。しゅくの起原沿革は、別に「夙の者考」に述べておいたが、要するに夙ももとは御陵守の守戸しゅこで、初めは良民であったとしても、その職業上から賤まれて、エタとの間に賤しい程度に於いて、そう相違のなかったものらしい。しかるにエタが職業上から特別に賤まれる様になった際に、彼らはそれから除外されたので、世間からエタ程に嫌われなかったのである。もっとも後のあらゆる夙が、ことごとく守戸であったというではなく、階級の類似から、その名の及んだものも多かろう。ともかく世間から賤まれたものであったから、もと夙と言われたものの中にも、皮革業などを行ったものは遂にエタ仲間になってしまった。「夙」或いは「宿」とも書き、やはり河原に住居を構えたものも少くなかったとみえて、「宿河原」という地名が所々にある。上方では摂津旧島下郡と旧武庫郡とにそれがあって、「徒然草」に虚無僧ぼろんじの仇討で有名な宿河原は、普通に武庫郡の方の事として解せられているが、実はどちらだかわからぬ。武庫郡の方のは後までも「夙村」として認められ、吉井良秀氏の「武庫の川千鳥」の説によると、「元禄元年社寺御改御吟味帳」には、西宮町の分郷「夙」とあるそうである。後にシュクを守具と書きかえ、さらにそれをモリグと読んで、今は地図にも森具になっている。ところが同じ摂津の宿河原でも、島下郡の方のは、京都のエタ頭下村勝助指揮の下に、二条城の掃除役をつとめ、後には牢番斬罪等の事にも役せられた。摂州十三箇村の皮田村の中にその名が数えられている。享保三年に天部あまべ村の手下てか伊左衛門、六条村の手下てか権兵衛・大西屋庄左衛門の三人が、皮田村改めに摂津国へ下った時の調査報告に、島下郡では西富田・岸部・吹田の穢多村と共に、「宿河原家数廿軒計、二人歩、組頭喜左衛門・甚兵衛」ということが見えている。
 また「賤者考」によると、紀伊で「宿」という名のつく村数計十箇所の中で、他の九箇所は普通の夙であるが、那賀郡名手郷馬宿村の中の狩宿村は皮田で、これは別だとある。しからばこれも摂津島下郡の宿河原と同じく、もと夙の名があっても、その職業からエタ仲間になったものであろう。
 大和畝傍山麓の洞村の如きも、もと陵戸か守戸かであったと思われるが、後世の地図には「穢多」と書いてある。守戸ならば良民で、夙の起原をなしたものと思われるが、それがやはりエタ村になっている。
 しからば夙の中の或る者は、またエタの流れを構成する源流の一つとなっているのである。

12 境遇からエタ仲間になった人々


 かつてエタ寺として擯斥せられた寺院の住職は、当初は他からエタ教化の為に住み込んだもので、もとは無論エタではなかったに相違ない。したがってその血脈を受けた子孫が、当然殉教者の後裔として、特別の尊敬を受くべき資格のあるものたる事は、別項「特殊部落と寺院」の中で詳説しておいた。またエタ頭・エタ年寄などについても、中には他からこれを支配していて、遂にその仲間になってしまったものも少からぬ事が想像される。
 浅草弾左衛門はもと摂津池田から鎌倉へ[#「鎌倉へ」は底本では「嫌倉へ」]下り、長吏以下のもの強勢なるによって支配仰せ付けられたものだと云っている。一説に源頼朝の落胤だとまで主張しているが、もとよりそれには確かな証拠はない。古代に於いても、部民べのたみを統率する伴緒とものおなるものは、必ずしもその部民と出自を一つにするものばかりではなかった。蝦夷の兵隊たる佐伯部さえきべの長佐伯宿禰さえきのすくねは、大伴氏の族だと信ぜられている。土師部はじべの長たる土師連はじのむらじは野見宿禰の後で、出雲国造家から出たと信ぜられている。しかしその部下の職業が賤視されてみると、自然その部長の身分にもさしひびく。土師連も部下の土師部が葬儀を掌る役目であったので、自然と人から厭われる傾きを生じて来た。そこでこの土師氏を外祖母家に有し給うた桓武天皇は、土師氏の祖先以来の職を改めて、菅原・大江等の文学の家になされた。かくてその家からは右大臣菅原道真だの、大江匡房・大江広元などの名士も出たのである。土師氏にしてもし、この際職業を改むる事がなく、葬儀を掌ることが引続いて後世に及んだならば、いつしか世間から擯斥せられることになったかもしれない。京都天部部落の年寄松浦氏の如きも、もと平戸松浦家の一族で、その部落の地がまだ空閑であった際、ここに幽棲の地を求めていたのだと云っている。そこへたまたま天正年間、天部部落が四条河原の大雲院の場所より移って来た。しかし当時はまだ特に彼らを嫌う念が少かったので、松浦氏はそれと相隣接して住んでおった結果、遂にエタ年寄役を勤めることになったのだと云っているのである。また京都川崎村すなわち今の田中部落の年寄治右衛門は、もと部落外の人で、今出川口立本寺裏に住んでおった。今も同家に元禄十二年の宗門人別改帳を伝えているが、それには賀茂郷立本寺裏町治右衛門屋敷というのがあって、自分もそこに住んでおったばかりでなく、彼は数戸の貸家を有し、その借家人には数多あまたの市人が住んでおったのである。(立本寺は賀茂川西、今の出町付近にあった。)延宝八年に六条南組の年寄与三兵衛と、北組年寄の嘉兵衛との間に出入りがあって、町奉行所へ訴え出たことがあったが、この時川崎村年寄治右衛門と、千本野口の年寄甚左衛門とが扱いによって無事落着した。その済状には今出川口年寄治右衛門と記名してある。また享保六年の留書にも、今出川治右衛門の名が見えている。思うに治右衛門は、彼の家の口碑に存する如く、もとは外から部落を支配していたものが、後に仲間になって部落内に移ったものであろう。後世の如くエタが特別に賤まれる様になった時代の目を以てこれを見たならば、いかにも実らしからぬ様ではあるが、古代に於いては必ずしもこの類の事は不思議でなく、また珍らしくもなかったものであろう。
 エタにして名家の子孫と称するものはすこぶる多いが、その言うところ必ずしもことごとく信ずべきものでないのは無論である。けだし昔のエタにはかなり富裕なものが多かったから、彼らがだんだん世間からひどく賤まれる様になったについて、自己の出自を尊くし、これに対応せんが為に学者に嘱して系図を偽作したものも少くはなかろう。中には喰詰めの学者どもが、自ら勧誘して金儲けの為に系図を作ってやった場合も少くはない。自分の訪問した日向の或る傀儡子部落では、村民の多数がそれぞれ源平藤橘の立派な系図を持っておった。しかもそれらはいずれも元禄頃のもので、おそらく同一手に出来たものだと認められたのである。この様な訳で、少くも世間の系図が多く信ぜられぬと同じ位の程度に、もしくはその以上に、彼らの伝うる系図にも信ずるに足らぬものが多いのは勿論であるが、さりとてそのことごとくが偽物とのみは言えなかろうと思う。
 榊原政職君の長崎より送られた通信(一巻六号四三頁)によると、かの地方には切支丹信徒が、政府の迫害を避けて半ば治外法権なるエタ部落に隠れたのが多かったという。これには反対の通信もあって、自分はまだ確かな調査の暇を持たぬが、当時の宣教師がエタに注意していたのは事実であるから、或いはもとからのエタ部落で、熱心なる切支丹信者となったのがあったかもしれぬ。しかし口碑の如く、政府の干渉の比較的少かった自治体に隠れて、その信仰を続けている中に、遂にエタ仲間になってしまったのだという事も、またありそうなところである。
 以上列挙した様なものは、もとは部落外の良民であったが、その境遇の為に仲間になったので、また以てエタ源流の一つに数うべきものと思われる。

13 社会の落伍者とエタ


 エタ部落民の人口の増殖は、徳川時代を通じて普通部落民のそれよりもすこぶる多かった。これは別項「特殊部落人口の増殖」に於いて論じた通りである。そしてその増殖は、内的から来たもの、すなわち生産率と死亡率との差によるもの以外、社会の落伍者が、ここに比較的安楽な生活を求めんが為に、或いは身を隠すに適当な場所として、多く流れこんで来たという、外的原因のものもすこぶる多かったに相違ない。
 宝永七年に京都北山甚兵衛びらきの内、紙屋川端かべかわばたの小屋者が、生活難から雪駄直しをなさんが為に、一札を入れて六条村の手下になった事があった。

頼申口上の事
一、私共北山辺に罷在候畠番之者共に御座候。然る処に私共渡世の為、町方へ罷出雪駄直し仕候へ共、皮田役の年寄無御座候義、町稼ぎ難義致し候故、蓮台野村年寄方に頼申候へば、則蓮台野村より被申候様は、当村は六条村の枝郷にも有之候間、頭村の六条村相頼申様と被申候故、蓮台野村と相談の上にて、此度其許様を頼度候間、六条村の手下と被御支配被成可下候。然る上は御公儀様より被仰出候御法度之御趣、堅相守り可申候。為其頼申書付如に斯(ママ)御座候。已上
宝永七年寅八月            紙屋川組
三郎兵衛(外十四名連署)

 これはもとからの番非人が、生活難の結果エタの手下となり、その支配を受ける事になった一例であるが、普通民でも生きんが為には時に賤業をも辞する事が出来ずして、その手下となって職を得るという場合の多かった事は言うまでもない事であろう。ことにエタがまだ甚だしく賤まれなかった時代に於いては、一層それが多かったに相違ない。
 追放の刑を受けて他国に赴いたものが、容易に安住の場所を得難かった事は、別項「きたにんの地位と職業」中にも述べた通りである。彼らは幸いに普通部落内に住み着く事が出来たとしても、子々孫々来り人として疎外されたものである。しかもその安住を得る迄に、生活の資を求むる事の困難は想像以上であったであろう。この場合に於いて彼らが生きんが為に身をエタ仲間に投じて、比較的得やすい職に活路を求めたのも少くはなかったであろう。文化九年の「阿波国海部郡多良村御蔵穢多棟付御改帳」に、

一、壱家           乙石           歳拾三
此者曾祖父太郎左衛門義、享保十二未年棟付御改帳に、見懸人穢多と相付居申所、此度棟付御取調に付、彼是御詮義の上、穢多と付上候様被仰付候に付、右の通付上申候。(家族連名略)
一、壱家           吉兵衛御蔵穢多          歳四十六
此者祖父吉兵衛義、(以下同文略)(中略)
一、壱家           助三郎御蔵穢多          歳三十四
此者祖父五郎兵衛義、何方の穢多に御座候哉相分不申候得共、先年当村へ罷越、建家仕、右伜助之丞、其子当助三郎迄、三代住居仕居申候。此度棟付御取調に付、重々相行着候得共、出所相分不申行当り、奉恐入、有体申上奉願候処、彼是御詮義の上、当村穢多に被仰付旨被仰付度候。

 などある。見懸人とは、その村に本籍を有せぬものが現にその村に住んでいるのを見かけて、見懸銀を負わせたものの称で、多くは他国からの浮浪民の土着者である。右の乙石・吉兵衛・助三郎等は、祖父或いは曾祖父の時代に他から流れて来て、このエタ村に住みついたものであった。彼らは或いはその郷里に於いても既にエタであったのかは知らぬが、よしやもとからのエタであったとしても、他国へ流れて行った場合に、何方のものともわからぬ程のものが、わざわざ自分の素性はエタであると名告なのるものばかりでもあるまじく、いずれは適当なる隠れ家を得ずして、これらのエタ部落に落ちこみ、遂に見懸人穢多という事になったのであろうと思われる。
 或いは自ら世を忍ぶ一つの方便として、浮世の風の十分吹き渡らぬこの部落に安全なる隠れ家を求めたものも多かったであろう。仇討の芝居には、孝行息子がよく非人に身をやつして敵を覘うという筋がある。芝居に出る兇状持ちは多く大小※(「ころもへん+上」、第4水準2-88-9)※(「ころもへん+下」、第4水準2-88-10)のいで立ちで、大威張りでいるのに反して、孝行息子の方が非人仲間に落ち込んだ事にして、巧みに看客の憎悪と同情とを引く仕組みになっているが、事実は兇状持ちの方が、エタや非人の仲間に安全の地を求めた場合が多かった事であろうと思う。或る大藩の家中が、人殺しをして敵持かたきもちとなり、遂に部落に隠れて今が三代目だという実話も聞いた。人殺しという程の大したことでなくても、脅喝ゆすり詐欺かたりの様な軽い罪によっても、しばしば首の飛んだことのある時代に、罪を犯したものが行くえを暗まし、「何方の穢多とも相分不申」の見懸人になって納まっているものが、またすこぶる多かったに相違ない。炭坑や銅山の穴の中に、犯罪者が多く隠れているという噂は今も聞く。浮世の光の十分届かぬ所は、炭坑や銅山の穴ばかりでなく、昔はエタ部落にもあったのである。
 かくの如き社会の落伍者は、また確かにエタの源流の一つと数うべきものである。

14 結論


 エタを以て餌取だというのも十分でない。エタを以て屠者だというのも十分でない。これをアイヌだ、漢・韓の帰化人だなどというに至っては、無論毫も採るに足らぬ。エタの源流は右述べた如く、すこぶる多方面に分れている。そして後世所謂エタなる一大流れが、それから出来上がったのである。佐保川・初瀬川・寺川・飛鳥川などの諸流が合うて大和川が出来、それに富緒川・葛城川・龍田川・葛下川・石川などが合って、今の新大和川が出来た様なものである。しかしながらこれらの諸源流の全部が、ことごとくエタになったのではなく、同じ源流から分派したもので一方には貴族ともなり、普通民ともなり、非人となって解放されたりしているのも甚だ多い。その中についても、エタは非人と言われたものよりも比較的早く土着し、定職を得たもので、一種の村役人になった訳であった。したがって本は一つであっても、所謂非人よりは上位におって、幕府の政策でも、エタをして非人を支配せしむることになったのであった。ただエタには穢れという観念がついてまわり、非人にはこの念が薄かったものであるから、世人から忌まれる事も少く、早く解放の運命に接したのであった。
 以上述べた如く、エタと非人と普通人とは、それぞれ関係のあるもので、本支分流互いに網の目をすいた様に組み合っていて、とても簡単な系図ではあらわす事の出来ない程のものである。かくてこの網の目をたどって姻戚関係を求めたならば、後世の所謂エタの人達も、所謂日本民族のすべてのものと何処かに因縁を持っている訳で、彼らの区別が民族的原因によるものではない事が明らかになるのである。ただ彼らの執った皮細工並びに屠殺の職業が、祖先の時代に於いてはあえて賤しいものではなかったとは云え、不幸にして中世以来大いに世人から嫌忌せられる事になったが為に、自ずからその従業者が賤まれ、したがって人から嫌がられる職業のものが多くこれに流れ込み、さらに人から嫌がられる多くの職業を賦課せられ、遂に後世見る様な、甚だしい圧迫を被るの気の毒なる境遇にも立ち至ったのである。
 今や穢多非人の称廃せられて五十年に近く、職業の神聖はまた既に一般世人の認識するところとなっている。しかもなお世人がもとエタと呼ばれたものを区別し、彼らまた往々にして自ら仲間同士の[#「仲間同士の」は底本では「仲間同土の」]城郭に立て籠るという様な風のあるのは、全く多年の因襲の結果と、実際上彼らが世界の進歩に対して、思想上・生活上数歩を後れているが為とにある。もし世人がその源流のあるところを明らかにし、兼ねて職業の神聖なることに思い到ることを得ば、彼らを疎外するの根本観念は自然に消滅すべき筈である。彼らまたその源流のあるところを詳らかにし、自覚反省して世の進歩に後れず、思想上・生活上、一般世人と伍してあえて遜色なきに至らば、自他の融和は自ずから成立し、多年その間に置かれた障壁は、自ずから消滅すべきものである。そして彼らをしてこれをなさしむるには、まず世人が彼らに対する圧迫を解くを必要とする。また世人をしてこれをなさしむるには、まず彼らが自ら思想・生活の向上を図るを要とする。要は相持にある、その一つを欠いてはならぬ。そしてよくこれをなさしむるには、自他共にまず彼らの源流のあるところを究めて、彼らまた同一の日本民族たる事を明らかにし、因襲的の妄想を根本から除去するを要とすべきである。

          *

 本編は主として材料を、所謂「穢多の水上」なる京都地方に求めた。徳川時代には江戸が政治の中心となり、したがって弾左衛門の法がエタの標準の如くになった場合も少くなく、従来エタを説くもの、多くこれに材料を求むるを常とするが、しかも上方かみがた地方では、また上方地方の古来の仕来りと発達とがあった。他の各地方またそれぞれに、関東とは違った習慣の遺っているものが少くない。したがって弾左衛門の法のみを以てしては、徹底的にエタの源流を調査する事は出来ないのである。これ自分が特に材料を多く京都付近のものに求めた所以である。自分の研究はもとよりあえてこれを以てまったしとするの自信を有するものではない。将来ますます材料を各地に求め、さらに他日の大成を期したい積もりである。大方の諸君願わくは自分のこの研究を助けて、断簡零墨といえどもあえて厭い給うなく、つまらぬ口碑と思わるるものもあえて捨て給うなく、これを提供し、これを報告するの労を与えられたい。現に各地に遺れる旧時の風習、特に古老の見聞に存する事蹟を筆録して寄せられれば、自分にとって最も仕合せである。
 終わりに臨んで、既に多くの有益なる材料を供せられたる各地有志の諸君、自分の真意を諒として隔意なく調査の便を与えられた部落先進の各位に対して敬意を表し、特に蓄蔵の豊富なる材料の借覧を許されたる碓井小三郎君の好意に対して、満腔の感謝を呈する。

 以下掲載の諸編は本編説くところを補い、その各部にわたって詳説を試みたものである。したがって彼此重複するところの少からぬは、自ら遺憾とするところではあるが、巨細にわたって研究を徹底せしめる為には、けだしやむをえぬ事と大目に見られたい。本号に収めきれぬ分は、次号以下に於いて漸次分載することとする。





底本:「被差別部落とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年2月29日初版発行
底本の親本:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
初出:「民族と歴史 第二巻第一号 特殊部落研究」
   1919(大正8)年7月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード