牛捨場馬捨場

喜田貞吉




 今もなお諸所に小字こあざを牛捨場または馬捨場と称する所がある。また小字という程でなくても、俗にそう呼んでいる場所が各地に多く、現に昔は死牛馬をここへ捨てたものだなど伝称せられているところも少くない。これは一体どうしたものか。
 我が国は農業国である。したがって耕作を助けしめるべく牛馬を飼育する事が多い。また運搬用、騎乗用、あるいは挽車用としての牛馬の飼養も古来かなり多かった事であるに相違ない。これらの老いて役に堪えなくなったもの、また斃死したものの始末をどうしたであろうか。
 言うまでもなく我が国においても太古は牛馬の肉を食用としたものであった。神武天皇御東征の時に、大和の土人弟猾おとうかしは生酒を以て皇軍をもてなしたと「日本書紀」にある。牛肉を肴として酒を飲んだものであろう。また「古語拾遺」には大地主神が、牛肉を以て田人に喰わしめたが為に、大年神の怒りにあったともある。怒りにあったとしても古代国民が牛肉を喰らったことのあったには疑いない。その後天武天皇の御代に至って、詔して牛馬犬猿鶏の肉を喰うを禁ぜしめられた。これは必ずしも肉食の禁というではなく、人間に飼育せられて人間の用を弁ずるもの、または特に人類に最も近似したるものを屠殺して食用に供することは人情として忍び難いという点にその動機があったに相違ない。さればその以前にこれらの物が食用に供せられたことは疑いを容れないのである。これより後にも豚の飼育は行われた。無論食用の目的であるには相違ないが、これは食用以外に人間の用を為さぬものであるから、右の制令にも漏れたものであった。右の禁令あって後にも、なお牛を殺して漢神を祭るの習慣は各地にあって、平安朝になってもさらにその禁を重ねられた事であった。その牛は無論犠牲として神に供し、後にこれを食したものであるに相違ない。しかし仏法の普及とともに牛馬を殺すことは罪業のことに深いものとして教えられた。「霊異記」には牛を殺して漢神を祭ったが為に恐ろしい現報を受けた話もある。こんな宣伝がだんだんと国民間に普及せられるに及んで、普通民はもはや牛馬を喰わなくなった。「古語拾遺」の田人牛肉を喰った祟りの話も、けだし普通民が牛馬も喰わなくなった後の産物かもしれぬ。
 殺生肉食嫌忌の宣伝から起った食肉禁忌の思想がだんだんとこうじて来て、従来もっぱら食肉用の獣と見なされて、その名称を俗にシシ(「宍」にて肉の義)とまで呼ばるるに至った程の鹿しかの肉を喰った者でも、数十日ないし百日間神社参詣を遠慮せねばならぬというが如き、いわゆる諸社禁忌のやかましく叫ばれるようになっては一般民は牛馬の肉を喰うものを甚だしく賤しむに至った。この際においてただ屠者すなわち餌取えとりの輩のみは、その殺生を常習とする事から、相変らず旧来の習慣を墨守して、これを喰うことを避けなかったが為に、自然と一般民から疎外せらるるに至ったのは実際やむをえなかった。はては自身屠者ならずとも、一般に牛馬を食するものはこれを賤称して餌取と呼ぶことにまでなって来た。「今昔物語」に見ゆる北山及び鎮西の二つの餌取法師の話の如きも、畢竟牛馬の肉を食する俗法師を呼んだものである。そのエトリが訛ってエタとなった。かくてその思想がだんだんとこうじて来て、鎌倉時代には一般の肉食殺生の常習者をも時にエタとも非人とも呼ぶことになった。漁家の出たる日蓮聖人が自ら「旃陀羅」すなわち屠者の子なりとも、また「畜生の身」なりとも言われたのはこれが為である。
 かくの如き時代において、もはや人間の用をなさぬ老牛馬の処分の事は、一般民にとってかなり厄介なものであったに相違ない。ここにおいてか牛捨場馬捨場なるものが生じたのだ。家に飼養する牛馬が斃死した場合において、自らこれを処理するの法を知らず、またこれを処理すれば「穢れ」がその身に及んで神に近づく事が出来ぬというような迷信のあった時代において、これをある特定の場所に委棄するという事はやむをえなかったに相違ない、ただに斃牛馬のみならず、もはや使役に堪えなくなった老牛馬を飼養して、いたずらにその斃死を待つという事も、自己の生活にすらしばしば脅かされた一般民にとってはかなり迷惑な事であったに相違ない。ここにおいてかいわゆる牛捨場馬捨場には、しばしば老牛馬をも委棄したものであったと思われる。自ら家に飼養した老鶏を屠殺するに忍びず、さりとてこれをそのまま飼養してその老いて斃るるに至るを待つの煩多きを避けんとして、これを神社の境内に放飼し、参詣者の賽米によって生活しつつおもむろに死を待たしめるという習慣は、昔は各地にこれを見たものだ。恢復の見込みのない病奴婢を路傍へ捨つるというような無慈悲の所行までが、しばしば行われたような昔の時代において、老牛馬を捨てるくらいの事はその当時の人々にとってそう不思議でなかったに相違ない。
 しかしながらまた一方においては、牛馬の皮革の需要はかなり多かった。その肉もまた無論口腹の慾を充たすに足るものである。捨てられた老牛馬や斃牛馬の皮革を利用することなく、またその肉を食用に供することなしに、いたずらに腐敗に委することは実際社会的にも不利益な次第である。ここにおいてか社会の落伍者たるいわゆる屠者の輩は、いわゆる牛馬捨場を尋ねてこれが利用の途を講ずることを忘れなかった。彼らは捨てられた老牛馬を屠殺してその皮を剥ぎ、肉を喰らい、また捨てられた斃牛馬についても同様の事を行った。そしてさらにその取り残された牛馬の肉をあさって、それを喰って生きたという憐むべき落伍者も少くはなかった。前記「今昔物語」に見ゆる二つの餌取法師と呼ばれた非人法師の如きは、正にその憐むべき落伍者の徒であったのである。
 非人法師とは平安朝における地方官の虐政に堪えかねた公民等が、自ら身を沙門に扮して出家逃亡するに至った浮浪民の群である。延喜の時代において三善清行は、公民が課役を避けて逃亡し、為に課丁の甚だしく減少した事を極言している。彼は当時の天下の民三分の二までは禿首の徒であると云っている。彼らは家に妻子を蓄え、口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさくらい、私に髪を剃りみだりに法服をつけて、形は沙門の如きも心は屠児すなわちエトリに似たものであると云っている。これいわゆる濫僧ろうそうなるもので、その屠児に似たという事から、「延喜式」ではこれを濫僧屠者と並称しているのであるが、鎌倉時代にはその濫僧をも通例ただちに屠者すなわちエタと呼んだとの事が、弘安頃の著と認められる「塵袋」に見えている。しかしこの称呼は実は鎌倉時代になって始まったのではなく、実は平安朝時代からの事であった。「今昔物語」の餌取法師は正にこれである。
 非人法師等は多く村落都邑の場末に流れついて小屋住まいをなし、為に河原の者、坂の者、散所の者などと呼ばれた。そしてその集落にはいわゆる長吏法師なるものがあって、これを統率していたものであった。これすなわち既に「霊異記」に見ゆる浮浪人の長に当るもので、その勢力の往々盛んなるものの少からなんだ事は、寛元年間における清水坂及び奈良坂の坂の者たる非人法師等の闘争に関して、長吏法師の提出した訴状を見てもその一斑が窺われる(「民族と歴史」四巻三号四号を見よ)。そしていわゆる牛馬捨場に捨てられた牛や馬を拾得して、これを処理するの利益多き特権は、おのずからこの長吏法師等の壟断するところとなった。後世にいわゆるエタをチョウリ(長吏)もしくはチョウリンボウ(長吏坊すなわち長吏法師)と呼ぶ地方の少からぬのはこれが為であるに相違ない(もちろん長吏のすべてがそれを扱ったのではなかったけれども)。
 牛馬捨場の特権は実際彼らにとって利益多きものであった。したがってその権利はしばしば彼らの間に高価に売買せられた。その牛馬捨場に死癈の牛馬を捨つる範囲内において飼養せらるるところの牛馬は、いつかはその権利者の手によって処理せらるべきものであった。すなわちその権利者は、その範囲内の村落に生じた癈牛馬死牛馬の上に処理の権利を有するものであったのだ。したがって彼らはその牛馬が所定の捨場に委棄せらるるを待ってこれを拾得するばかりでなく、しばしば通告を受けてただちにその癈牛馬を生じたる家からこれを引き取り、自己の権利を有する捨場に牽引運搬してこれを処理する場合が多かったらしい。地方によっては江戸時代に至ってもなおその飼主より、祝儀の名目によって相当の手数料を徴し、これを引き取るの習慣を有する所もあった。もちろん地方によっては一定の権利者を認めず、相当の代価を提供して競争してこれを引き取る習慣の所もないではなかった。
 江戸時代には老牛馬を屠殺委棄するの無慈悲なる行為を禁じたが為に(奈良奉行の触書にこの禁制見ゆ。他の地方でもそうであったらしい)老牛馬は通例飼養者の飼い殺しとなっていたが、斃死の後は必ず捨場に委棄するか、しからずばエタに通告してその処理に委せねばならなかった。武蔵八王子在の百姓がかつて自らこれを処理したが為に、エタ頭弾左衛門より抗議を提出して、為に面倒な悶着を惹き起した事件もあった。
 牛馬捨場の売買はもちろん一切の権利を永久的に授受するものもあったであろうが、多くは一定の日限を付して行われたようである。この場合においてはその期限内に生じた死牛馬は、当然その買得者の所得に帰すべきものである。したがってその村落内の病牛馬がその期限内に死没せざるにおいては、権利者にこれを引取るの権利を失うが故に、夜間密かに毒を与えて、その死を早からしめたという弊害も少からなんだようである。中には健康なる牛馬を毒殺して、為に処罰されるというものもないではなかった。
 捨場の権利の売買は時としてかなり高価に取引きされた。遠州S村T氏所蔵の文書にこんなのがある。

一、此度さる御年貢差詰り、代々持来り候牛馬引捨の場所比木村勿論朝比奈村上十五日、此両場所金子十五両二分永代売渡申候。此場所に付場役等無御座候。依之村方親類は不申、脇より違乱妨申旨御座候はゞ、請人の者罷出、急度埒明可申、貴殿に少も御苦労掛申間敷候。為後日一札仍て如
 天保七申十二月   日
成行村売主
  儀十郎印
請人
  弥右衛門印

  政五郎印
大久保村買主
  儀左衛門殿
 右の「上十五日」とは、月の上半に右両村内に生じた死牛馬の権利を云ったものなのである。
 抵当権設定の例としては、同氏所蔵文書に左の如きものがある。
   場所手形の事
一、此度未の御年貢差詰、私し代々持来候捨場所比木村勿論朝比奈村上十五日、此両場所為質物、申年より已暮迄、十年切相定申候。拾両也。
一、又金壱両三分借用申処実正に御座候。此場所に付場役等無御座候。依て村方諸親類得心の故に御座候処、若違乱妨申者御座候はゞ、連印者罷出急度埒明可申候。貴殿少も御苦労かけ申間敷、依之右之金子致調達相渡候はゞ、其場所御(○返の誤りか)し可下候。為後日之依て手形如件。
 文化九年申三月  日
 成行村
借主 新九郎印
請人 弥右衛門印
証人 政五郎印
 浜野村
同 文七印
大久保村
  三左衛門殿

   永代証文之事
一、当御年貢差支、右年切質物両場所為永代、増金壱両借用申処実正に御座候。依之村方諸親類は不申、他所よりも違乱申者有之候得ば、請人之者罷出急度埒明可申、貴殿に少も御苦労掛申間敷候。為後日一札仍て如件。外に一貫二百文。
 文政七申十一月二日
成行村
  借主 新九郎印
  請人 弥右衛門印
  同  政五郎印
相良
  三左衛門殿
 右のT氏はこの種の文書を蔵すること、文化九年三月から明治四年四月までの分、通じて五十余通に及んでいる。かくしてその家はほとんど近郷の捨場の権利を独占し、代々富有なる生活をしていたのであったが、最後の文書である明治四年の四月に二両三分三朱と銭五貫二百文で或る捨場の権利を売得した後僅かに四ヶ月、同年八月にエタ非人解放令が発布せられたが為に、新たに平民に列せられた代りにこれらの一切の権利はことごとく失われて、一時はかなり困った事であったという。今では麻裏草履の製造仲買で数万の富を有しておられるそうな。
 右五十余通の文書の中には、朔日より七日までとか、八日より十五日までとか、中には五日より八日まで、二十日より二十二日までなどと、短かく限ったものも少くなく、二十四日とただ一日だけを限ったものまでも見えている、以てその権利がいかに仲間の中に尊重されたかを知るに足ろう。
 右の文書の中に「場役」というのは、その捨場の権利を所有するが為に、いくらかの役銀すなわち運上金を上納する負担あるものの事で、場所によって古来その場役のあるものと無いものとがあり、場役なきものは自然高価に売買されたものだという。
 また右捨場の中に化粧場というのがある。慶応三年正月の文書に、牛馬引捨須々木化粧場八日より十一日まで、外に東方場二十四日、西方十一日より十三日、南場六日より十日までを、三両三分で買ったのがある。このほかにも化粧場という事はしばしば文書に見えているが、これは同じ捨場の中でも懸りが少く、利益が多かったものだという。それを化粧という意味はわからぬ。
 なお同家文書の中に、「捨牛馬告知手数料申合せ」というのがある。
   覚
一、男牛一つ             はね金一分也
一、女牛一つ             同  一朱也
一、馬一つ              同  一朱也
一、化粧男牛一つ              二朱也
右の通り村中堅可相守者也
 文久二年戌八月十八日改
 ここに「はね金」とは告知手数料の事で、捨場に委棄されたる死牛馬をいち早く権利者に告知したものに与える手数料の事だという。その化粧場に属するものは手数料半減であったのだ。
 なお同家文書の中には、太鼓、旦那場、稲場の売買譲与質入等に関するものがある。「太鼓」とは或る町村内の神社仏寺の太鼓張かえの権利、旦那場とは或る町村内住民の受持ちの権利(俗にモチという、そのモチの家に事件ある時は早速かけつけてこれを処理する責任を有し、その代りに平素相当の扶持を得る慣例のもの)で、稲場とは収穫後田面の落穂を拾う権利であるかと思われる。しかしこれらは問題の牛馬捨場以外のものであるから今は詳説せず、筆のついでに書きとめておくに止める。
 これを要するに牛捨場馬捨場とは、牛馬屠殺食肉の禁忌から生ずる当然の産物であった。そしてその権利が或る一部の長吏法師等の占有に帰したが為に、その流れのものはその身に穢れありとして、昔は広くその等類を称し「穢多」という忌まわしい名を、後世この徒のみに独占せしめられた。しかもその特権とする死牛馬の処理は利益のすこぶる多いものとして、いわゆる捨場の権利は明治四年エタ非人解放当時までも、地方によってはかなり高価に売買されたものであったが、解放とともにその権利は他の多くの特権とともにことごとく奪われた。そして国民としてのすべての義務は負担させられながら、事実上依然として新平民もしくは特殊部落民の名によって旧平民等から差別せられ、社会上における国民としての権利の多くはその行使の自由を奪われているのである。何という不合理な事であろう。今この牛捨場馬捨場の由来沿革を調査叙述するについても、感慨ことに深からざるをえぬ。





底本:「賤民とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年3月30日初版発行
初出:「歴史地理 43-5号」
   1924(大正13)年5月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月19日作成
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