旃陀羅考

日蓮聖人はエタの子なりという事

喜田貞吉




1 緒言


 日蓮宗の宗祖日蓮聖人はエタの子なりという説がある。いわゆる特殊部落の人々の書いたものや、或いはその親しく語るところによると、某大臣は我が党の士である、某将官も我が党の士である、某々名士もまた我が党の士であるなどと、しきりに我が党の成功者を列挙するものの中に、歴史的の偉人としては、いつも日蓮聖人が数えられて、それをいわゆる部落民の誇りとしているのである。
 日蓮を以てエタの子なりということは、実は近ごろになって始まったものではない。既に古く「大聖日蓮深秘伝」というものがあって、父は房州小湊近郷の穢民で名は団五郎、母は同州小湊浦の漁夫蓮次郎のむすめで名は長と、その名前までが立派に掲げられて、彼はエタの如き賤者の子と生れながらも、かく宗教上の一大偉人として尊信せらるるに至った偉大さに、随喜渇仰したげに書いてあるのである。そしてその団五郎なるものは、後世のいわゆるエタと同じく、皮剥ぎ沓作りを職としたもので、聖人も少年の時には、自らお手のものの獣皮で鼓を張って、嬉戯にも軍陣の真似をなされたのだとか、日蓮宗に団扇太鼓を打って題目を唱えるについては、戦法において鐘は退くの器、大鼓は進むの器なるが故に、父団五郎がみずからお手のものの太鼓を張って、これを日蓮に贈ったのだなどと、エタという事に付会して、とんだ起原説までが書いてあるのである。なおまた日蓮は穢民の家を捨て、母の縁を尋ねて漁家の種族と名のったのだとか、それは世の侮を防ぐ孝心の結果であるのだとか、余程穿ったところまで書いてあるのである。この書は表面日蓮遺弟の、いわゆる六老僧なるものの連名著作となっておって、しきりに日蓮の聖徳を讃嘆したげに見せかけながら、内実は裏面から甚だしくこれをそしったもので、おそらく彼によって念仏無間と罵られた仇討に、徳川時代もおそらく末に近い頃になって、浄土宗の側の人の手になされた悪戯だと思われるが、それにしても彼がエタの子であるということを、繰り返して自慢気に云っておるところに、もともとどんなよりどころがあるのであろう。
 右の「深秘伝」は為にするところあっての偽作として、しばらくこれを問題外におくとしても、日蓮をエタの子だと云ったものは他にもかなり多いのである。既に「大日本史」にも、「日蓮安房人、屠者子」と云い、「挫日蓮」には日蓮が[#「日蓮が」は底本では「日題が」]「閑邪陳善記」にも、日蓮が旃陀羅の子なることには、閉口して争わなかったと云い、同書また日蓮の「秋元書」に、身延退隠の事を述べて、「木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし」とあるのを引いて、「けだものゝ皮を剥ぐ、日蓮エタの子のしるしなり」などとまで論じているのである。そのほか平田篤胤の「出定笑語」の類に至っては、口を極めてそのエタの子なることを吹聴し、これを悪罵しているのである。これ果して何に基づいたものであろう。
 日蓮がエタの子であるということは、実は彼自身の筆に見えるところが唯一の見方である。自分の寡聞なる、未だその以外に何らの史料のあることを知らないのである。彼は文永八年十月佐渡流罪の折に、円浄房へ遣わしたという「佐渡御勘鈔」において、

日蓮は日本国東夷東条安房国海辺の旃陀羅が子なり。いたづらに朽ちん身を法華経の御故に捨てまゐらせんこと、豈に石に金をかふるにあらずや。

と、自己の素姓を書いておられる。また翌九年三月弟子檀那御中に宛てたいわゆる「佐渡御書」にも、

 日蓮今生は貧窮下賤の者と生れ、旃陀羅が家より出でたり。心にこそ少し法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二諦とせり。其の中に識神をやどす。濁水に月の映れるが如し。糞嚢に金を包めるなるべし。心は法華経を信ずる故に、梵天帝釈もなほ恐れと思はず。身は畜生の身なり色身不相応の故に愚者のあなづる道理なり。心も又身に対すればこそ月こがねにもたとふれ。

などと、さらに詳しくその出生の旃陀羅であることを書いておられるのである。すなわち日蓮は、自ら旃陀羅の子たることを明らかにし、畜身と云い、畜生の身と云い、またこれを濁水糞嚢にたとえ、色身不相応の故に愚者の侮るもまた故ありなどと云って、自らその出身の極めて賤しき事を認めておられるのである。そしてこれに依って当時世人は、その出身の賤しきことによって、かなりこれを侮っていた様子が知られるのである。
 旃陀羅とは印度インドにおける屠殺業者の事である。そして我が国では、古くこれをエタに相当するものとして認められていた。日蓮とほぼ時代を同じゅうした「塵袋」に、

キヨメをヱタといふは如何なる詞ぞ。穢多
根本は餌取ゑとりと云ふべきか。餌と云ふはしゝむらを云ふなるべし。其れを取る物を云ふなり。ヱトリを早く云ひて、云ひゆがめてヱタと云へり。ヱトリを略せるなり。仔細知らぬ者はラウソウ(濫僧)ともいふ。乞食等の沙門の形なれども、其の行儀僧にもあらぬを濫僧と名づけて、施行引かるゝをば濫僧供といふ。それを非人・カタヒ・ヱタなど、人まじろひもせぬ同じ様の者なれば、まぎらかして非人の名をヱタにつけたるなり。ランソウと云ふべきをラウソウといふ。いよ/\しどけなし。天竺に旃陀羅と云ふは屠者也。生物を殺して売るヱタ体の悪人なり。

と解しておるが如きは、すなわちその明証である。同書の言うところによれば、当時にエタとは餌取の語の転訛で、これすなわちインドにいわゆる旃陀羅に当るというのだ。もちろんこの書は仏徒の手になったものとして、その著者が自己の奉ずる宗教上の立場から、屠殺を以て甚だしき悪事となし、したがって屠殺業者を悪人と云い、盛んにこれを嫌忌したに無理はない。それが果して悪事であるか、また果して悪人であるかは今の問題ではないが、この書が鎌倉時代もおそらく弘安頃のものとして、日蓮とほぼ時を同じゅうすることによって、日蓮が自ら繰り返して旃陀羅の子なりと言っているのは、これただちに自らエタすなわち屠者の子なりと言っているのと、同様だと解すべき、動かすべからざる証拠たることは、明々白々だと謂わねばならぬ。したがって「大聖日蓮深秘伝」の偽作者が、日蓮の父を穢人だとして、その団扇太鼓の起原をまでもその職業柄に付会してみたり、「大日本史」以下の多くのものが、これをエタの子なりと云ってみたり、また今のいわゆる特殊部落の人々が、我が党出身の史上の名士だとして、これを担ぎ上げたりしてみても、この点については日蓮として、毫も言い分なかるべき筈である。果してしからば日蓮は、事実屠者すなわち「塵袋」にいわゆる「穢多」の徒であったのであろうか。

2 餌取と屠者とエタ


 エタの語原については種々の説があり、自分もかつて「特殊部落研究号」(本誌二巻一号)においてその諸説を紹介し、中にもほぼ餌取説に賛成しておいた事であった。そしてその後の研究の結果として、今においては疑いもなくエタはエトリの語の転訛だという説を確信しているのである。しかもなおこれについて、世間に種々の疑問の起るのは、後世にいわゆるエタなるものが、昔のいわゆるエタとすこぶるその範囲を異にしている為で、これは時代による称呼の適用の変化にほかならぬのである。この事はかつて本誌上で述べたこともあり、いずれはさらにその後の研究をも加えて、精しく論証するの機を求める積りであるが、取りあえず今は左に本論に必要なだけを述べておきたい。
 餌取とは言うまでもなく、主鷹司たかづかさに属して鷹や犬に喰わせる餌を取るを職とした雑戸で、なお徳川時代の鷹匠たかじょうに属する餌差えさしに相当するものである。無論主鷹司以外にも、貴紳富豪の飼養したる鷹の餌を供給すべく、そこに餌取の存在は十分に認められるが、その職業上彼らは事実一面において肉を扱う屠者であったに相違ない。したがって殺生を以て罪悪とした仏徒の目からこれを見れば、憎むべきもの、賤しむべきものとして、爪弾きされたに無理はない。またその感化を受けた普通人民からも自然彼らが毛嫌いされたのも実際やむをえなかった事である。主鷹司はもと兵部省の被管で、鷹を使って鳥を捕らせる事を掌るの役所であった。したがって仏法の信仰から、この役所はしばしば廃せられたり、また復活したりしたことがあったが、結局延喜の頃には、既に永く廃止の運命に遭遇してしまったものである。したがって主鷹司所属の雑戸たる餌取は当然これと運命を共にすべく、その他においても鷹の飼養は次第に減じた事であろうから、鷹飼に属する餌取は年とともにその数を減じた訳ではあろうが、これが為に餌取が全く絶滅したとは思われぬ。そして世間では、早くその称呼が一般の屠者の上に及び、少くも平安朝中頃以後にあっては、その徒をすべてエトリと呼んでいたらしい。「和名抄」に、

屠児 揚氏漢語抄云、屠(居徒反)訓(保布流)屠児(和名恵止利)屠牛馬肉鷹鶏餌之義也。殺生及屠牛馬肉取売者也。

とある。「鷹鶏」は「鷹鷂」の誤まりで、鷹鷂を養う肉を取るのが本義ではあるが、それを広めて一般屠者の称となっていたものらしい。そしてそれがさらに広まって、一般肉食者の称となった事は、「今昔物語」に見える北山や鎮西の餌取法師の語によって察せられる。もちろんこれらの餌取法師は、それ自身屠殺を業とするものではない。ただその身は法師にてありながら、妻を蓄え牛馬の肉を喰うというだけの事であった。そしてそれが為に彼らは餌取の名を与えられていたのだ。三善清行の「意見封事」に、脱税出家の沙門の徒を評して、その「家に妻子を蓄へ口に腥※(「月+亶」、第3水準1-90-52)を啖ふ」の行為を指摘し、「形は沙門に似て心は屠児ゑとりの如し」とある。この屠児すなわち餌取で、延喜の頃に清行は、これらの法師を餌取に似たりと云ったに過ぎなかったのが、いつしかそれがただちに餌取法師と呼ばるるに至ったのである。
 かくてその餌取の語が、漸く転じてエタと変ると同時に、その語の適用の範囲もまたさらに拡まって、屠者と同等なる社会的地位を占むる一般浮浪者の徒にもそれが及んで行った。前引「塵袋」にキヨメを穢多というとの事の疑問を提出して、その語原を餌取に求め、当時仔細を知らぬものはこれを濫僧ろうそうとも云い、非人・カタイ(乞児)・エタなどを一つにみているが、しかもエタとは本来餌取で、天竺に旃陀羅という屠者も、エタ体の者だと説明しているのは、その頃の世人がキヨメをもエタと呼んでいた証拠であって、かねて事知らぬものは濫僧ろうそうをも、乞食・非人をも、同一にみておったことを知るに足るのである。濫僧ろうそうとは前記餌取法師の徒で、肉食妻帯の下司げす法師ではあるが、もちろんそれ自身餌取ではない。しかし彼らは屠者同様穢れたものとして、特に禁忌のやかましい神社には、近づき難いものとされておった。延喜式臨時祭の際に、

凡鴨御祖社南辺者、雖四至之外濫僧屠者等不居住

とある。これは鴨御祖社すなわち下賀茂神社が、賀茂川の畔にあって、当時濫僧屠者の輩が、いわゆる河原者または小屋者として、都に近いこの賀茂川原に小屋住まいする例であったから、特にその禁止を明文に示したにほかならぬ。そして鎌倉時代にキヨメ(浄人)と呼ばれたものは、実にこの河原者、小屋者の徒であったのだ。「今物語」に或る五位の蔵人が、革堂こうどうに詣でて美人を見初め、そのあとをつけて行った所が一条の河原のキヨメの小屋に這入ったという話のあるは、明らかにこれを示したものである。そしてそのキヨメは実に鎌倉時代においてエタと呼ばれていたのだ。
 室町時代文安三年に出来た「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄」に、河原者をエッタと謂っているのは、当時さらにエタの語の適用の範囲の拡まったものと解してよい。河原者とはもと賀茂河原に小屋住まいしたから得た名であるが、それはただに濫僧ろうそう屠者えとり浄人きよめとのみに限らず、室町時代には井戸掘り・庭作りなどの業にも従事し、その或る者は遊芸を事として、後世俳優を河原者という語の起原をもなしているのである。そしてその同類で、清水坂など東山の半腹の空地に住んでいたものは坂の者と呼ばれ、室町時代にはそれを訛って俗間にサンカモノと呼んでいた。すなわちいわゆる非人の徒で、清水坂の非人法師の事は鎌倉時代の文書にもあるように、本誌上にもしばしば言及した事であった。その坂の者について、古来最も有名なのは祇園の犬神人つるめそで、彼らはもと沓作りを業としたというが、後にはもっぱら弓弦売として世に知られ、宿しゅくとも唱門師しょうもんじとも呼ばれて、やはり濫僧ろうそうの徒であった、高野山宝寿院蔵永禄十年の奥書なる「貞観政要格式目」という変な名前の書には、坂の者すなわち三家者さんかものを、連寂衆れんじゃくしゅうとも、非人とも云い、また燕丹えたとも云い、渡守・山守・草履作・筆結・墨子・傾城・癩者・伯楽等は、みなその類例だとある。(本誌六巻五号七三頁を見よ。)燕丹はすなわちエタの宛字で、当時はこれらの徒をまで広くエタと呼んでいた事が知られるのである。「師茂記」貞治四年六月十四日の条に、武家の沙汰として祇園御霊会の神輿を穢多に舁かしめたとある穢多は、無論同社の犬神人たる坂の者を云ったものであろう。
 かくエタの名称はもと餌取に起り、ひとまず屠者の称となり、さらに広く河原者・坂の者等の称ともなり、いわゆる非人・乞食等、およそ類似の社会的地位のものをすべてエタと呼ぶ事になったのである。しかし彼らのすべてが屠者という訳ではない。ただ彼らは祖先以来の風習をなお存して、肉食を忌むことをなさなんだ。したがって彼らは、その極めて社会的地位の低いことからして、一般世人から賤しめられたに無理はないが、由来屠殺肉食を忌むことのなかった我が国において、これを穢れたるものとして区別するの必要はなかった筈である。しかるに仏教流通の結果として、はてはかつて獣肉を供物として捧げた筈の我が天神地祇までが、肉食屠殺を忌み給うという思想が一般に流布して、彼らは穢れたものである、穢れ多きものであるとの意義よりして、ついには餌取の転訛なるエタの語に当つるに、「穢多」という忌まわしい文字を用うるに至ったのである。かくて徳川時代に法令上エタ・非人の区別をなすに当り、当時現に皮を扱い肉を扱っていた仲間のみを以て、神明禁忌の思想からこれを穢れ多きものとし、もっぱらエタの称を冠せしめ、その他のものはこれを総称して、非人と云う事になったのである。ここにおいてエタの名はいくらか当初の意義に近づいて来た。
 果してしからば聖者日蓮が文永の頃において、自ら旃陀羅の子なりと言われたその旃陀羅は、果してどの意味のエタと同視すべきものであろうか。

3 インドにいわゆる旃陀羅と我がエタ


「塵袋」の著者は、「天竺に旃陀羅といふは屠者なり、生物を殺して売るエタ体の悪人なり」と、雑作もなく説明している。悪人とは随分ひどい言い現わし方だが、屠殺肉食が悪事であるという見地から云えば、その悪事をするものはすなわち悪人である。浄土宗の開祖源空上人の「遣北越書」に、「※(「女+搖のつくり」、第4水準2-5-69)肉を断ずべからずといふは仏法の外道、天魔の儻類なり」とあるのはこれだ。降って文安三年の「※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄」には、大体「塵袋」と同じ文でありながら、特にそれを悪人とは云わず、ことさらに「餌取体のきたなき者なり」と言いかえている。これは禁忌の風習が漸く一般に普及して、彼らはきたなきもの、穢れたるものだとの思想が、著しくなったことを示したものである。「臥雲日件録」のその同じ文安三年十二月二十一日条に、当時の屠者えたの事を評して、「蓋人中最下之種」と侮辱極まる言辞を用いているのも、畢竟僧侶の同一見地から出た悪口わるくちで、当時彼らの見る旃陀羅の地位を言いあらわしたものなのである。さらに「七十一番職人歌合」エタの月の歌に、「人ながら如是畜生ぞ馬牛の、かはらのものゝ月見てもなぞ」とあるに至っては、馬牛の皮を扱う河原者なるエタは、人ながらにして如是畜生であるとまで極端に賤しんだものであって、屠殺肉食を憎む仏教の影響の、いかに深刻であったかを思うては慄然たらざるをえないのである。そして聖者日蓮は、自らその賤しむべき旃陀羅の子だと云い、身は人身に似て畜身なりとも、身は畜生の身なりとも云っておられるのである。果してしからば日蓮のいわゆる旃陀羅は、日蓮自身如是畜生の河原者の徒であると認めておられたかに解してしかるべきものであろうか。
 インドに云う旃陀羅は、「飜訳名義集」にも「こゝに屠者」とあって、屠殺業者の名称であったには相違ない。しかし彼らはただ屠者であったばかりでなくまた実に死刑を執行する獄吏であった。「玄応音義」に、

旃陀羅……此云厳熾。謂屠殺者之種類之名也。一云主殺人。獄卒也。

ともある。彼らはその職業からして、普通人と住居を別にし、互いに相交わる事が出来なかった。ただに相交わる事が出来なかったのみならず、人もし途中で彼らに出合う場合には、必ずこれを避けて相触れる事をまでも忌んだものである。「飜訳名義集」に法顕伝を引いて、

名為悪人。与人別居。入城市則撃竹自異。人則避之。或帯之、人皆怖畏。

と云っておる。この「竹を撃つ」と云うことは、或いは「木を撃つ」とも、また「鈴を揺かして標す」ともあって、いずれも自ら旃陀羅なることを標するの作法である。かくて行人はこれを見てその旃陀羅なるを知り、自ら避けてその穢に触れざるべく注意するのである。故にもし彼らがその標識を怠った場合には、王すなわちこれを罪すともある。けだしこの旃陀羅は、ただに職業を異にするのみならず、また実にその民族を異にするものであって、インドにおける太古の被征服者の子孫等が、気の毒にもこの境遇に堕されたものであったに相違ない。
 しかるに我が国におけるいわゆるエタは、決してそんな訳のものではない。彼らの多くはその祖先が不幸にも落伍者の群に投じたが為に、やむをえず世人の忌み嫌うような職業に従事したとは云え、もともとその民族を異にするものでない事は、しばしば本誌上で論じた通りである。またその職とするところの屠殺そのものも、また、彼らの風習たる肉食そのものも、仏法の影響を受くること多き時代においてこそ、世人もこれを穢れとして忌み嫌うようにはなったけれども、太古においては決してこれを忌んだものではなかったのである。恐れ多くも皇祖彦火火出見尊ひこほほでみのみことは、御自身山幸彦やまさちひことして鳥獣の狩猟に従事遊ばされたのであった。さらに遡って、素戔嗚尊すさのおのみことは、御自身天斑駒の皮をお剥ぎになったのである。神官をハフリというのも畢竟はホフリの義で、動物を屠ってこれを神に奉るから得た名称だと解せられる。したがって鳥獣の肉は神明にも捧げ、高貴の供御にも奉り、無論一般人民は美味としてこれを食したものであった。ことに奈良朝以前には或る程度まで牧畜も行われて、いのこを飼育して食料に供したものであった。もちろん一般人民も自ら鳥獣を捕獲して、これを屠って喰うを忌まなかったのである。かかる際において、どうして屠殺肉食の事が穢れたものとして、認識される事があろう。無論職業として屠殺業に従事した程のものは、社会的地位の低かったには相違ない。しかしこれは身分が低いというだけであって、穢れたものとしては区別せられなかった筈である。しかるに仏教流行の結果、インドにおける文献の記するところを丸移しにして、人中最下の種だの、如是畜生だのと云うに至ったものである。もちろん仏徒の方から云えば、彼らは穢れたものであるから、戒律を守るものはこれに近づく事が出来ない筈である。ただに屠者のみならず、「法華経仮名新注抄」(広文庫引)の安楽行品には、「不近旃陀羅、及畜猪羊鶏豹、畋猟漁捕、諸悪律儀。」ともあって、飼鶏漁魚者にまでも、親近することが禁ぜられたのである。したがって彼らは、古えは仏者の済度の手から漏れて、その妙味を味わうことなく、太古以来の祖先の遺風をそのままに継承して、屠殺肉食敢えて忌むところがなかったのである。しかもなお室町時代から戦国時代の頃に至るまでも、一般世人のこれを見る、必ずしも敢えて穢れたものとして区別しなかったことは祇園祭の神輿をエタに舁かしたとか、エタに井戸を掘らせたとか、三好長春がエタの子を小姓に召し抱えたとか、武士が持参金付のエタの娘を息子の嫁に取ったとかいう例証の、甚だ少からぬことによっても知られるのである。
 しかるに徳川時代も中頃以後に至って、エタに対する圧迫が甚だしくなったという事は、既に論じた如く(本誌二巻一号「特殊部落研究号」一二七頁以下「エタに対する圧迫の沿革」)、主として彼らの人口増加の結果ではあるが、その圧迫の方法に至っては、仏徒が彼らをインドの旃陀羅に比したが為に、インドにおいて旃陀羅に加えた非人道なる圧迫を、そのまま移して彼らに施したものにほかならぬ。彼らの住居は制限せられた。彼らは普通民の家に入る事を許されなかった。彼らは一見普通民と区別すべき服装をさせられた。甚だしきに至っては、――伊予大洲藩の如く、――エタは必ず毛皮の徽章を付すべしとか、――土佐高知藩の如く、――エタは夜間外出すべからず、もしよんどころなき用事ありて外出する時は、必ず何村何谷の穢多と記した提灯を所持すべしとかいう程のものもあった。この徽章を付し、提灯を持たしめたものは、インドにおいて旃陀羅に竹を撃たしめ、或いは鈴を揺らしめて、その旃陀羅たることを明示せしめたのと揆を一にするものである。
 要するに我が国において、エタが特に穢れたる賤しき者として疎外せられるに至ったのは、主として仏法の影響によるものであって、ことに彼らを同じ屠者ということから、インドの旃陀羅に比したが為であった。そしてその思想は既に鎌倉時代に存在し、仏徒の間には畜生の身とまで言う程にもこれを嫌ったものであったが、後にはそれが一般に及んで、徳川時代も中頃以後になってことに甚だしくなり、今に至ってその後裔は少からぬ累を受けているのである。しかしながらもともとインドの旃陀羅と、我が餌取とはその成立を異にするものである。インドにおいてはおそらく被征服者たる土人を虐待して、これに賤職を課し、一般人民より甚だしき区別をなすに至ったものであろうが、我が餌取はよしや彼らが社会の落伍者であったとしても、もともと同一民族であって、もし屠殺肉食を以ての故にこれを忌むとすれば、神代の神々を始めとして、仏法流行以前の一切の国民、ことごとくこれを忌まねばならぬ筈である。エタを以て旃陀羅に比したものの罪悪、それ大なるかなといわねばならぬ。
 我がエタとインドの旃陀羅とは本来違うものである。しかもそれが過まって同一視せられた。そして非常な惨禍を受けた。ここにおいて自分は、さらに進んで自ら旃陀羅の子なりと言われた日蓮その人の素姓について考えてみたい。

4 日蓮宗徒の信ずる日蓮の系図


 日蓮宗側に伝うる「祖師伝記」によると、宗祖自身我は旃陀羅の子なりとか、旃陀羅の家より出づとか明言しておられるにかかわらず、毫もそれらしい素振りは見せずして、やはり例の通りの立派な系図を有せられることになっているのである。「祖師伝」の中でも最も古いと言われる「元祖化導記」は文明十年日朝述で、寛文六年の版だとあるが、それには或記というものによって、「先祖は遠州の人貫名ぬきな五郎重実なり、平家の乱に安房国に流されたり」と云い、その重実の第二子たる貫名次郎重忠の第四子が、すなわち祖師日蓮だと云っているのである。次に永正二年に没した日澄の著だという「日蓮注画讃」(享保二十一年版)には、その貫名氏の先祖調べを行って、日蓮本姓三国氏だと云い、父は遠州刺史、すなわち遠江守貫名重実の次子重忠までは前者と同一だが、さらにその先は聖武天皇の裔で、母は清原氏だと余程古いところまで及んでいる。しかるに貞享二年の「蓮公年譜」に至っては、遠く藤原鎌足からその系図を引いて、彦根藩主井伊氏の一族となし、「伝に曰く本姓三国、後藤原に転ず」と云っているのである。かくてさらに享保の「本化別頭高祖伝」以下の書に至っては、三国氏とか、聖武天皇の後胤とかいうことはやめにして、初めから俗姓は藤原氏と極めてしまっているのが多い。また文永元年八月十四日日蓮在判の「聖人御系図御書」(「本化聖教日蓮聖人御遺文」所収)というものには、「自神武四十五代聖武天皇、河内守通行末葉遠江貫名五郎重実と云までは十一代也」として、これには聖武天皇説を祖述し、日蓮はその重実の孫だとある。これはもちろん問題にもならぬ偽書として措くとするも、その他の伝記の言うところが、また果して信ずべきか否かは、真宗の開祖親鸞聖人が名流日野家の公達で、九条関白の愛婿であったとの説と同様に、門徒以外にこれを強うることはかなり困難なものであろう。
 藤原氏だと言い出した事については、既に天野信景の塩尻において、もと氏を貫名ということから、井伊氏の一族に貫名を名乗るもののあるのに思いついて、「寛永系図」から写し出したものであろうとスッパ抜いている。また平田篤胤の「出定笑語」にも、同じ趣きの弁駁がみえているのである。これはなるほどそうらしい。そこでまず藤原氏という事はしばらく措き、さらに「注画讃」の三国氏説について考えてみるに、その先祖が聖武天皇の後胤だとあることとは両立し難い感がないでもない。何となれば、三国氏が聖武天皇の後だとは、一向古書の記事に合わぬところで、「日本紀」には、継体天皇の皇子椀子まりこ皇子は三国公みくにのきみの先なりとあり、「新撰姓氏録」に三箇所まで見えている三国真人も、いずれも継体の皇子椀子王の後なりとあって、その以外聖武天皇の後に、三国氏の名は少しも見えていないのである。或いは古書に逸した三国氏が他にないとは言われぬとしても、そしてそれが聖武天皇の後胤であるとしても、或いはそれが大織冠の後裔であるとしても、敢えて聖人に軽重をなす所以のものではないから、敢えて問題とするには当らぬ事ながら、彼の多数の遺文の中において、聖人が一言その名流の出であることを歌っておられないことは、多少研究者をして首を傾けしめる事実だと謂わねばならぬ。否ただに聖人は自身それを歌っておられぬのみならず、かえって自ら旃陀羅の子なりと云い、今生は貧窮下賤の者と生れたと云い、人身に似て畜身なりと云い、身は畜生の身なりとまで言っておられるのである。なるほど先祖が皇胤名流であっても、子孫が落伍して旃陀羅にならぬとは云えぬ。そこで聖人の遠い御先祖は皇胤名流であったとしても、その父が旃陀羅であったから、聖人はその事実をのみ述べられて、遠い祖先の事には及ばれなかったのかもしれぬ。事実或る人々はこれを以て、聖人御謙遜の徳の尊い発露だと云い、特におくゆかしい所以であると解するものがないではない。しかしこれは他の祖師について或いは言うをうべきも、特に日蓮聖人については当り難い感がないではない。ことにその親を以て畜身にも比すべき程の旃陀羅の身分なりと公言することは、いかに御謙遜の辞とは云え、甚だしくその父母を辱かしめるものである。聖人はその「四恩鈔」に父母の恩を説いて、「今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天帝釈四大天王、転輪聖王の家に生れて、三界四天を譲られて、人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某の父母なるか」とまで云って、しきりに父母の恩を説いておられるのである。この聖人の孝徳の上から見ても、これを下賤の旃陀羅と公言し、毫も先祖の光栄に及ばぬということは、到底信じ難い説であらねばならぬ。聖人は常に自己を以て、日本第一の法華の行者だと云い、日本第一の忠臣だと云い、仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富者なりと云い、日本の柱、日本の眼目、日本の大船とならんとまで云い、自ら旃陀羅の子なりとしてこれを畜身糞嚢に比したる場合においてすらも、中に識神を宿して糞嚢にこがねを包めるに比し、はては自ら上行菩薩を以てまでも任じておられるのである。またその郷里たる安房国長狭郡東条郷を以て、「天照大神の御厨みくりや、右大将家の立て給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」などと、かなり強い歴史的の御国自慢をまでもしておられるのである。かくすべての点において、極めて強き自信の発露を見るところの聖人の口よりして、そんな父母を辱かしめるような御謙遜の辞があるとは思われぬ。ことに聖人はその「善無畏三蔵鈔」において、

日蓮は安房国東条片海の石中いそなかの賤民が子なり、威徳なく有徳の者にあらず。

と云い、「中興入道消息」に、

日蓮は中国都の者にあらず、辺国将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民の子にて候ひしかば……

など云いて、なお旃陀羅の子が糞嚢に金を包むに比したと同じく、自己の素姓を卑むが中にも、常に自負の意味をどこかに含ませておられるのである。この平素の態度から観察しても、聖人がもしさる名流の後であるならば、その多数の遺文の中には、何とか露われていそうなものでもあり、よしやしからずとするとも、その所生の父母を辱かしめてまでも、ことさらに旃陀羅の子なり、賤民の子なりと、繰り返して告白するの必要はなかった筈である。これはむしろ空也上人の如く、初めから何らその所出を言わぬ方がよかったのではないかと思われる。しかるにもかかわらず聖人がしばしばその所生の下賤を口にされたという事は、これ実に詐らざる告白であって、当時においてこれを隠慝する必要もなく、またこれを隠慝し得難いまでに、世間公知の事実であった為ではなかろうか。少くも聖人にその素姓を尊からしむるの意思のなかった事は、最も明白な次第である。したがって後人が強いて種々の付会をなして、世人をしてこれを疑わしめるような系図を誇張することは、これ実に聖人の真意に背くものであるのかもしれぬ。
 果してしからば聖人のいわゆる旃陀羅とは、そもいかなるものであったであろう。

5 日蓮のいわゆる旃陀羅は漁人の称


 日蓮聖人が聖武天皇の後胤だとか、三国氏の出だとか、はた藤原氏の人だとかいうことが、しばらくことごとく信じ難いものとして、事実彼はいかなるものの子であったであろうか。聖人の多数の遺文の中には、上に引用したもののほかにも、その出生を書いたものが少くない。「妙法比丘尼御返事」には、

日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。……日蓮は日本国安房国と申す国に生れて候ひしが、民の家より出でゝ、頭をそり袈裟を着たり。……

「波木井殿御書」には、

日蓮は日本国人王八十五代後堀河院御宇、貞応元年壬午、安房国長狭郡東条郷の生なり。

などあるものは、家柄についてあまり参考にもならぬが、「本尊問答鈔」に、

日蓮は東海道十五国之内、第十二に相当る安房国長狭郡東条郷片海の海人の子なり。

とあるのは、前引「善無畏三蔵鈔」に、「東条片海の石中いそなかの賤民が子なり」とあるのと相俟って、彼が漁家の生れたることを明示したものである。「注画讃」にも、その父重忠が安房州長狭郡東条郷の片海、市河村の小港浦に流されて漁叟となるとあって、その漁夫の子たることを認めているのである。聖人は事実漁家の子として生れられたのであったに相違なかろう。漁夫はもちろんいわゆる屠者えとりではない。したがっていわゆる旃陀羅でもない訳である。しからば何故に聖人は、自ら一方では旃陀羅の子なりと云い、旃陀羅が家より出でたりなどと繰り返しておられるのであろう。これについては当時の漁夫の社会的地位を明らかにせねばならぬ。
 漁夫はすなわち海人あまで、古えにいわゆる海部あまべの部族である。これを民族的に論ずれば、海部も農民も本来敢えて区別のあったものではないが、農民が公民おおみたからとして社会的地位を獲得した後においては、彼らは取り遺されて一種賤しいものとして見られていたのであった。この事は「日本紀」などにも証文がいくらもあり、ここにこれを論ずることは問題があまりに枝葉に流れるから、しばらくその説明を他日の機会に保留することとして、仏教流布の後においては、彼らは通例殺生者の仲間として、その化縁外に置かれたものであった。前引「法華経仮名新注抄」に、漁捕のものが旃陀羅などとともに、親近すべからざるものの中に数えられているのはこれである。「万葉集」にも漁人の歌を乞食の歌だと云っているのである。もちろん「霊異記」には、永興禅師が熊野の海辺人を教化した話もあって、一部ではその仏縁も認められていたのであったが、一般にはなお後までも普通民との間に或る間隔が認められて、地方によっては今以てこれを特殊部落の如く区別し、或いは隣村のものと絶対に縁組を通ぜず、或いは呼ぶに夜叉の称を以てせられる漁村すらないではないのである。かくの如きはもちろん除外例ではあるが、中世までも彼らは山人やまひと海人あまと連称せられて、一般人民との間に或る区別が認められたのであった。既に自ら海人の子であるところの日蓮の「善無畏三蔵鈔」にも、

山人海人なんどが東西を知らず一善をも修せざる者は、還つて罪浅き者なるべし。当世の道心者が後世を願ふとも、法華経釈迦仏をば打捨てて、阿弥陀仏念仏なんどを念々に不捨申は、いかがあるべからん。

と云っておるのである。これは聖人が大嫌いの念仏者を謗った言ではあるが、山人海人等が通例東西をも知らず、一善をも修せざる者たることは聖人自らこれを認めておられるのである。また浄土宗の開祖法然上人の晩年に際して、弟子法蓮房が上人入滅後何処を遺蹟とすべきやと問うたのに対して、上人の答えた語を「行状画図」に記して、「念仏を修せん所は貴賤を論ぜず、海人漁人が苫屋までも、皆是れ予が遺跡なるべし」と云われたとある。これまた海人を以て根本から賤しいものと認めて、そのためしに引いたのにほかならぬ。当時仏徒の見るところ実にかくの如くであったのである。事実殺生を悪事とするものは、魚を捕ることもまた悪事とせねばならぬ。仏の戒律を保つものが、漁捕の徒に親近すべからずと云ったのに無理はない。もし魚を殺すをも屠殺とすれば、海人も一種の屠者である。そこで屠者すなわち旃陀羅なりと解した当時において、聖人が漁家の子たることを旃陀羅の子なりと強く言ったのも、彼の性格としては無理からぬところである。
 日蓮は事実漁夫の子であった。自ら旃陀羅の子なりと言われたからとて、世間のいわゆる旃陀羅すなわちエタとは同視すべからざるものである。ただ常に強い言いあらわしに慣れた彼が、自らさる名辞を用いられたが為に、後人をして真にエタの子なるが如く解せしむるに至ったのは、彼自身においては何ら痛痒を感ぜられぬとしても、これを嫌がる後の門流の人々に対しては、気の毒の感なき能わぬのである。
 狩猟漁業は当時一般の仏徒の目からは確かに悪事であった。したがってこれに従事するものは確かに悪人と認められた。この意味における悪人往生の思想は比較的古い頃からあったとしても、それは一般仏徒から認められたのではなかった。これを主として済度されたのは親鸞聖人の一向念仏の宗旨であったが、自ら旃陀羅の子と呼号した日蓮聖人もまたこの方面の教化を怠らず、今においてなおいわゆる特殊部落の約八割は真宗に、残りの約二割が日蓮宗に帰依しているのをみても、聖人が漁家の子として自ら旃陀羅を以て任じ、その教化の手をさらに一般旃陀羅の上に及ぼされた事が知られるのである。旃陀羅の何者なるかを研究して、思いをここに致すにおいて、今さらに聖人の大慈大悲の広大なるに敬服せざるをえぬ。





底本:「賤民とは何か」河出書房新社
   2008(平成20)年3月30日初版発行
初出:「民族と歴史 8-5、6号」
   1922(大正11)年5、6月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード