俗法師考

喜田貞吉




俗法師考序論



1 緒言


 斯道において先輩たる柳田國男君が、かつてその経営に係わる『郷土研究』の誌上において、「毛坊主考」(大正三―四年、第二巻一―一二号)の題下に特殊民と在俗法師との関係につき、長々しく研究を連載せられたことがあった。毛坊主ということは、自分はかつて『雍州府志ようしゅうふし』で見たことがあったほかに、当時なんらの知識をも有せず、したがってそれが自分にはあまり注意をも惹いていなかった問題であったので、その際においては、実を申さばはなはだ失礼ながら、単にその材料の豊富なのに敬服し、簡単に目を通したというくらいのところで、たいていは忘れてしまっていたのであった。しかるにその後特殊部落のことを研究するに当たって、エタの先祖と推定せられているものが、餌取法師と呼ばれたり、今にエッタ法師だの、小法師だの、エッタン坊だの、皮坊だの、長吏ん坊などの語が存していることやら、かつては同じ道をたどったと思われる雑多の特殊民というべき階級の人々が、往々にして法師だの、坊主だの、ひじりだのと呼ばれたり、よしやその称呼はなくても、かつては法師姿で描きあらわされておったり、今においてなお地方によってはこれらの仲間を禅門だの、勧進かんじん(勧進聖の義)だの、西国(西国巡礼の義)だの、遍路へんど(四国遍路の義)だのといっていたりすることが、はなはだ頻繁に自分の目に映ずるので、再びその毛坊主考を繰り返してみる気になった。そこでさらにこれを精読してみると、前にはうわの空で見過ごしていたことにも、なかなか面白い研究が少くない。自分の気付かなんだ材料がはなはだ多く調理せられている。中には自分が「特殊部落研究号」中に発表したところを、すでに数年前に予想しておられたかの如く、前もって器用に弁駁しておられるようなところも往々にして見受けられる。自分がかの特別号を発表する前に、もしこれを精読するの労をおしまなかったならば、今少し疵の少い研究ができたのであったろうにと、残り惜しく思わずにはいられない。しかしながら、柳田君の研究にも、なお自分の腑に落ちないところが多いとともに、氏の援引せられた豊富なる材料以外にも、まだ捨てがたい材料が少からず遺されてある。もちろん柳田君においても、その後さらに深遠なる研究を重ねておられることではあろうが、それを拝聴するの機会を有せざる今日において、その傍らに自己の管見を発表する余地を求めるのも、研究上、またやむをえない次第である。似たような種類の雑誌に、似たような題目を掲げて、似たような研究を繰り返すのは、礼において欠くるところがあり、自分としても拙劣な感がないではないが、これは学問のために特別の御容赦に与り、自分にとってもまた学問のために我慢しなければならぬと思う。

2 法師と特殊民


 俗法師の研究は、多くの場合において特殊民との関係を生じて来る。特殊民という語は、すでに述べた如く、見方によってはいやな感じを惹き起されるおそれがないとも限らぬ。柳田君も「毛坊主考」の発表において、この点についてかなり遠慮せられた形迹が見られる。「真実は必ずしも悉く公表すべきもので無いのかも知らぬ。公表する位なら其の説明が十分親切でなければならぬ。気の弱い自分が兎角に左顧右眄して言葉を濁したのは恥かしい事である」(二巻一二号七頁)と述懐せられたのにはまったく同感である。それについてはすでに別項「特殊民構成の三大要素」中に、余輩の意見を述べておいたから、あえてここには再説しないが、要するにある意味において、一般の法師が特殊民であり、特に非人であり乞食であるといっても、あえてこの尊敬すべき善知識達を侮辱したものではない。特に弘法大師の「金剛定寺御乞食」というが如きは、むしろかの徒の名誉とするところで、「大師八代の御弟子経範集記」と銘打った『御行状集記』には、わざわざために一節を設け、大師が土佐の金剛定寺経営の状を述べて、「是を金剛定寺御乞食と名づく」とまで書いてある。しかも明恵上人が自ら非人といい、弘法大師が自ら乞食といったからとて、決してこの高僧達の恥辱でもなければ、ためにこれを賤しい身分だと思うものもあるまい。しかしデモクラシーの思想の盛んでなかった古代においては、よしや乞食・非人その者が賤しいものでなくても、その末流末派のものに至っては、自然と世間から賤しまれ、いわゆる「さがり者」の仲間となるのもやむをえなかった。ことに食を乞うて遍歴する法師・優婆塞うばそくの輩に至っては、それがはたして真の修行者であるのか、修行者を装うて生きんがために食を乞うのであるのか、その区別が外観上困難であるがために、遠い昔からかなり世間で賤しまれた場合が多かったらしい。奈良朝から平安朝初期の仏法関係のことを書いた『霊異記』をみても、その実例のはなはだ少からぬに驚かざるをえぬ。孝謙天皇の朝に犬養宿禰真老という人が、自度じど沙弥しゃみの乞食を撃って悪死の報いを得たとか、聖武天皇の御代に長屋王が、賤形の沙弥の頭を打って悪死の報いを得たとか、備中少田郡の白髪部猪麻呂というものが、乞食の沙弥に食を与えざるのみか、かえってその鉢を打ち破ったので悪死の報いを得たとか、奈良故京の愚人が乞食僧を凌辱して、たちまちその呪縛に遇ったとかいう類の噺が、この書にはたくさんにみえている。これらの霊験談は、世の不信者に対して乞食法師を尊敬優待すべきことを示すべき必要なる教訓談ではあろうが、その一面には事実上彼らが、その当時往々世間から馬鹿にされた場合の多かったことを示しているものだと言わねばならぬ。ことに神護景雲三年という年に、京の優婆塞が遍歴して越前の加賀郡(後の加賀国)に修行した時に、その地の浮浪人の長が、縄張り内の浮浪人から雑徭ぞうようを徴し、調庸を取り立つるの例によって、これを責めさいなんだがために、優婆塞の大神呪にかかって、悪死を遂げたという噺の如きは、浮浪の長の側からいえば、実際上それが真の修行者であるか、はた己が配下に属すべき浮浪人であるかの、鑑別に苦しんだ場合もあったであろうと察せられるのである。末流末派の法師のある者が特殊民として賤しまれるに至ったについては、けだしやむをえぬことであった。

3 在家の法師


 法師に関する厳格なる規定は、大宝令中の僧尼令に詳しくみえている。彼らはもちろん酒を飲み、肉を喰い、及び五辛ごしんを服してはならなんだ。ただ疾病の場合にのみ、薬用として三綱の許可を受け、日限を定めてのみ許されているにすぎなかった。男女間の関係はことに厳重で、僧房に婦女を停め、尼房に男夫を停めることもできなかった。この規定の如きは比較的厳格に※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行せられた場合があって、弘仁三年には、僧良勝が婦女と同車したという罪をもって、遠く※(「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86)たねがしまに流されたという実例すらあった。彼らはまた吉凶を卜相し、厭符や巫術で病を療することを禁じられていた。寺院外に道場を設けて衆をあつめて教化し、みだりに罪福を説くことをも許されなかった。寂静をねごうて俗塵を避け、山居して禅行修道せんとするものは、三綱連署して官の許可を得るを要する。それも許された場所にのみ限って、決して他処に向かうことはできなかった。俗人に経像を授け、門について教化することをも禁ぜられていた。乞食せんとするものは、これも三綱の連署をもって官の許可を受け、午前に限って托鉢することを許されたが、食物以外の物を請うことはできなかった。私に田園財物を蓄え、これを売ったり、利息を取って貸したりすることも許されなかった。音楽をなすこともまた禁制となっておった。この令はかなり※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行せられて、養老元年には、行基の如き高僧すらが、歴門教化をしたり、食物以外の余物を乞うたり、街衢がいくに罪福を説いたりしたがために、釈教に背き法令を犯すものとして罰せられ、枳林に禁錮されたとさえ言われているのである。
 かくの如き厳格なる令条の規定があってみれば、法師がよしやある意味において、非人であり乞食であるとしても、決してただのいわゆる非人や乞食ではない。いずれも殊勝なる尊ぶべき修行者でなければならぬはずである。しかるに中世以後には幾多の職人・芸人、その他いわゆる非人乞食の輩に法師姿のものが多い。法師と呼ばれているものが多い。彼らは法師でありながら、令条に厳禁したところに背いて公然と肉食妻帯をあえてし、俗道場を設けて禁厭巫呪卜筮きんえんふじゅぼくぜいを行い、家門に経を誦して衣食金銭の報捨を受け、遊芸を事とし、雑職に従い、もってこれを生計の方便として不思議と思われていなかったのである。かくてついには餌取法師・散所法師・長吏法師・法師陰陽師・田楽法師・猿楽法師・千秋万歳法師・琵琶法師等、その他何々法師と呼ばれるものが多く輩出するに至った。
 これらの雑法師らは、柳田君のいわゆる毛坊主の類で、法師とはいえ実は在俗の生活をなしているのである。寺に住まずして、その多数は在家の法師であったのである。すなわち令外の僧尼である。かくの如きものがいかにして発生したであろうか。すでに、「シャモと沙門」(本誌二巻五号)において簡単に観察しておいたが如く、彼らが国司の収斂誅求を避けて脱籍した、仮托の沙門(同号一〇頁以下)に起因することのすこぶる多かったのはもちろんであるが、その事実はさらにさらに遠い古えから存在していたのである。養老元年の紀に、この頃百姓法律に背いて、ほしいままにその情に任かせて髪をびん※(「髟/几」、第4水準2-93-19)おろし、たやすく法服を着けて貌を桑門そうもんに似せ、情に奸盗を挟むともみえている。さらに『霊異記』をみると、その実例が少からずみえているのである。

石川の沙弥といふのは俗姓未詳だが、其の妻が河内の石川郡の人であるので、石川沙弥と云つた。此の法師は邪見であつたが為に悪報を受けた。
奈良京に名不詳の一大僧妻子を蓄へ銭を俗人に貸すを業として居た。孝謙天皇の代に陸奥の掾たる其の娘聟に銭を貸して、其催促が甚だ厳しかつたので、聟の為に殺害せられたが、此の破戒の僧も方広経読誦の功徳の為に、不思議に生命が助かつた。
紀伊牟婁郡の出身で牟婁の沙弥と言はれたものは、鬢髪を剃除し袈裟を着けながら、而も俗に即き家を収め、産業を営造したとある。それでも崇仏の功徳は著しいもので、此の沙弥の書写した法華経は、神護景雲三年の火事にあつても、猛火中にあつて焼けなかつた。

 これらはいずれも自度の沙弥で、養老の詔に指摘したる、僧尼令にいわゆる僧尼以外の俗法師ではあるが、ともかく奈良朝において、すでに僧侶としての存在が認められていたのであった。そして戒律のやかましかった時代において、肉食妻帯公許の宗旨を発明したのが、必ずしも親鸞上人を始めとするものではないことを示しているのである。
 僧と尼とが夫婦になっていた話も『今昔物語』にみえている。大和の吉野に説教をもって業として世を渡る祥蓮という僧があった。その死んだ後に、その妻の尼が祥蓮の地獄に堕ちたのを夢に見て、地蔵菩薩の像を造り、亡夫済度の祈願を籠めたところが、その功徳によって祥蓮は極楽に往生したとある。かの一遍上人は二人の妾の嫉妬を夢に見て道心を起し、出家得道したところが、二人の妾も同じく出家して上人に従った。「時宗に尼を妻とするは此故にや」という話があるが、僧尼の夫婦の由来はさらに久しいものであった。また大安寺の別当僧何某には美しい娘があって、そこへある蔵人が通うていた話も『今昔物語』にある。その蔵人の夢に、舅の僧娘の尼君より始めて、銅の熱湯を飲まされていることを見て、恋愛の念も醒めはてたとある。ここに「娘の尼」とあるのは、「姑の尼」の誤まりかもしれぬが、もし「娘の尼」とある方が正しいとしたならば、法師の子はむすめまでも法師にしたことであったと思われる。しかし法勝寺の執行俊寛僧都が、僧都という名誉ある地位にありながら、妻子を有しておったことは誰も知るところであるが、その妻子が法師であったとはみえておらぬのをみれば、法師の妻子が俗人であったのは普通らしい。
 妻が尼法師で、俗人を夫に持っている類のものも、すでに平安朝の中頃にはあったらしい。『枕草子』に、乞食の女法師が仏供の撤下物を貰いに来た話がみえている。「男やある」、「何処にか住む」、「歌は歌うや」、「舞などするか」と女官などに口々に問われて、「夜は誰と寝ん、常陸介と寝ん、寝たる肌もよし」などと長々しく歌って、身振りおかしく踊ったとある。これがためにかの女は、常陸介の綽号あだなを得たとあるが、この歌舞の乞食たる常陸介でも、やはり女法師とあって、自ら「仏の御弟子に侍れば、仏の撤下べ」などと、殊勝なことをいっているのである。末世の衆生善根の志少く、仏の御弟子も歌ったり踊ったりせねば、生きていくだけの衣食は得られなかったものと思われる。かの女の歌の中の常陸介は、はたしてかの女の夫のあざなか否か不明ではあるが、かかる種類の尼法師が必ずしも法師をのみ夫に持っておったとはかぎるまい。
 ともかくも在家在俗の法師は奈良朝以来少からんものであった。彼らの多数は男法師であったであろうが、その間また尼法師も少しとしなかったに相違ない。そして彼らのある者は、令制に背いて金貸し営業を行ったり、なんだか知らぬが産業を営造すと言われたり、説教をもって渡世としたり、歌舞をもって物貰いの方便としていたのであった。そこへ平安朝になっては、三善清行のいわゆる「家に妻子を蓄へ、口に腥※(「月+亶」、第3水準1-90-52)を啜ひ、形は沙門に依て心は屠児の如き」私度の法師が、盛んに流れ込んだのであった。かくて「天下の人民三分の二は是れ禿首の者なり」とまで言われる形勢になっては、彼らは生きんがためにますます苦心して、種々の渡世の法を考えなければならぬ。『枕草子』の女法師の類は、この結果としてできたのであったかもしれぬ。中世以降の雑法師、柳田君のいわゆる毛坊主のある者は、かくの如くにして生じたものであろうと解せられる。そしてそのある者は栄達して、金碧燦然たる殿堂内に金襴の袈裟を纏うてすましこみ、ある者は堕落して、非人よ乞食よ特殊民よとさげすまれるに至ったのであらねばならぬ。これしかしながら本来法師なるものが、もと乞食の徒であって、その乞食たるや、修行のための乞食か、生きんがための乞食かの鑑別が容易でないがために、喰い詰め者が流れ込んだり、国司の収斂誅求を避けて、脱籍を企てるが如き輩にとっては、もっとも都合のよい隠れ場であったからである。

4 浮浪の法師


 大宝の僧尼令に規定してある僧尼は、必ず寺院に住するということが一つの条件であった。元正天皇の行基厳戒の詔にも、僧尼は寺家に寂居して、教えを受け道を伝うとある。前に述べた如く彼らは、歴門教化することをすら許されなかったのである。寺院以外に道場を立てて、衆を聚めて教化することもできなかったのである。乞食するにしても午前にのみ限られ、寂静の地に修禅するにしても、指定以外の地に遷ることができず、しかもそれらの場合においても、三綱の連署をもって特に許可を得なければならぬほどに窮屈なものであった。しかしながら本来が出家脱俗のものである。樹下石上を家となし、一笠一鉢、施主の供養を受けて修行するということは、この出家脱俗の徒の本領とするところであらねばならぬ。名僧知識が深山幽谷を跋渉して、魑魅魍魎の徒を済度し、山人猟夫の輩を教化したが如き噺は少からず伝わっている。いわんや優婆塞うばそくや自度の沙弥の輩が、処を定めず霊場を遍歴して、乞食に生きつつ法を説き、仏の誓願にすがろうとすることは、いつの代にもなければならぬところである。試みに『霊異記』や『法華験記』『今昔物語』等の古書をひもといてみるならば、これらの例話はいくらでも提出することができるのである。彼ら遍歴の法師は、いわゆる遊行派の成立はよしや一遍上人が始めであるとしても、事実上の遊行僧は、その起原をはるかに上代に求めねばならぬのである。
 遊行僧はすなわち浮浪の法師である。打ち寄する浪のまにまに浮び行くものである。古え浮浪人をウカレビトといった。すなわち文字の示すが如く浮かれ人である。これに対してウカレメを『万葉集』には遊行女婦と書いてある。遊行女婦は生きんがために媚を呈し、婬をひさいだのであったが、しかもこれ「遊行」の文字の古く用いられた実例で、遊行上人の「遊行」もまたこの意味にほかならぬ。遊行上人は必要上施主の供養によって、生きねばならなかったが、その徒が次第に多くなり、これに反して善根の旦那が少くなってきては、彼らは生きんがために種々の工夫をこらさねばならぬ。かねを打って諸国を修行して廻る鉦打聖かねうちひじりなるものが、時宗の末派として、一種の特殊民とみなされるに至ったのも、けだしこれがためである。彼らまた実にもと浮浪の法師であった。
 空也上人の念仏宗が、また一種の特殊民たる茶筅の徒を末派に有しているのも、同じ経路をとったものであらねばならぬ。彼らは念仏の聖として、もと尊敬すべき修行者であったはずであるが、世の変遷とともに生きんがために、他から賤視せられる境遇に陥ったのである。
 これら浮浪の法師中にも、前項所述の在家の法師に課役規避の脱籍法師が流れ込んだと同じように、在来の浮浪民が安全なる隠れ家として流れ込んだものの多かったことを疑わぬ。否ただにもとからの浮浪民のみならず、編戸の民の逃亡者の、これに加わったものの多かったことも、また想像しやすいところである。三善清行は在家の俗法師のみに注目して、「是れ皆家に妻子を蓄へ」と大袈裟にいっているけれども、平安朝において、編戸の民の盛んに逃亡して浮浪の徒となったことの多かったのは、記録文書のうるさいまで証明を与うるところである。弘仁五年の飛騨の国解によると、飛騨人が「課役を規避して他郷に庸作し、年を積んで帰るを忘れ――其の苦に堪へずして逃去する者多く、遂に父子をして保たざらしめ、夫婦をして処を別にせしめ、邑里墟となり、道路通ふもの希なり」とまでいっているのである。これらの逃亡者がみな適当なる場所を見つけて、安全に住みついたとは思われない。おそらく彼らの多数は浮浪民となって、法師姿に身をやつし、生きる工夫をしたということは想像するにかたからぬのである。

5 結論


 もちろんこれら遊行僧のすべてが、いつまでもそう浮浪状態をのみ続けているものではない。あたかもかの浮浪人と言われたものが、だんだん浮浪の状態から脱して土着定住したと同じように、いつか一定の居所を定めて、在家の雑法師らと多く区別なきものとなり、互いに入れ替って、種々の特殊民に形をかえ、子孫を後世に遺したものに相違ない。そして他の道筋から来た傀儡子くぐつ土師部はじべの徒が、またこれらと流れあって、その他の雑多の落伍者らをも一つにして、そのある者は栄達して世の尊敬を受けるに至った一方において、ある者が次第に深みに沈みいて、鉦打かねうち茶筅ちゃせんの徒はもとより、しゅくとか、鉢屋はちやとか、唱門師しょうもんじとか、犬神人いぬじにんとか、エタとか、番非人とか、その他各種の特殊民の源をなしたものと解せられるのである。されば種々のいわゆる特殊民中には、外形において著しく相違があり、時には互いに地位の高下を争い、いわゆる筋の違ったもののように思われているものでも、本を洗えば多くは同一系統に出たものであることが知られるのである。試みに「七十一番職人歌合」の絵のみを繰り返して見ても、法師姿をしたものに、左の如き多数の雑職人・雑芸人等の特殊民を数えることができるのである。( )内のものはやや趣を異にするもの。

塗士ぬりしの助手、筆結、弦売、賽磨り、鎧細工、轆轤師ろくろし、草履作り、足駄作り、唐紙師からかみし、一服一銭、煎じ物売、琵琶法師、仏師、経師、薄打箔打、念珠挽、いたか、豆腐売、玉磨、硯士、枕売、鞍細工、田楽、葛籠造つづらつくりえびら細工、てうさい饅頭売、(禅宗)、(律家)、(念仏宗)、(法華宗)、(連歌師)、(比丘尼)、(尼衆)、(山法師)、(奈良法師)、(華厳宗)、(倶舎宗)。

 これら( )内以外の諸職人は、いずれも俗法師なるもので、後には種々の形に変化していても、本来起原を同じゅうしたものと言わねばならぬ。またこの絵巻に法師姿を示していないもので、法師もしくは坊主と呼ばれ、もしくは俗法師の流れを汲んだものと思われる仲間も少くはないのである。
 傀儡子・土師部のことはまた別に論述するの要がある。本篇はまずこれら俗法師系統の特殊民研究の序論として、以下柳田君の「毛坊主考」の例にならい、便宜これに属する各種の特殊民中の主なるものについて、その性質沿革を観察してみたいと思う。これによって彼らが同一の日本民族であり、社会に栄誉ある地位を推して、彼らを賤視侮蔑していたものと、本来さして区別なきものであったことを明らかにするをえば、望外の幸せである。
(『民族と歴史』第三巻第五号〈俗法師研究の一〉=一九二〇年四月)
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法師と坊主



 俗法師を論じて法師と特殊民との関係を説いたついでに、「法師」と「坊主」との語の使い方の沿革について、いささか説明しておく必要がある。
 中世では「法師」という語が往々にして賤しい身分と認められたものにくっつけて呼ばれておった。すでに述べた餌取法師・散所法師・長吏法師・非人法師・田楽法師・猿楽法師・千秋万歳法師などの類がこれである。しかるにそれがどうしたことか、後世では多く「坊主」という語に変って、賤称の意味に用いられている。あるいは単に「坊」と略して呼ぶ場合も多い。そして法師または坊主となんら関係のない者に向かっても、これを侮蔑し、これを罵倒する場合には、往々にして「坊主」または「坊」の語を、濫用するようにまでなっている。エッタ坊主・ハッチ坊主・スタスタ坊主・スッタラ坊主・乞食坊主・マイス坊主・オゲ坊主・毛坊主・カッタイ坊主・長吏ン坊・八ン坊・皮坊・御坊(隠亡)などから、はてはべら坊・泥坊・立ちん坊・風来坊・ケチン坊・シワン坊に至り、なまぐさ坊主・糞坊主・チャンチャン坊主などという語までが用いられる。したがって僧侶に対して坊主の語を用いなどすれば、自分を侮辱されたるものとして、不快の感をもって迎えられるというような情勢になっているのである。「坊主」と「法師」とにはたしてこんな区別的の意味があるのであろうか。
 法師とは言うまでもなくのりである。便宜上『仏教大辞典』引用の文句を拝借すると、『法華経序品』には、「常修梵行皆為法師」とあり、『三徳指帰』には「精通経論、曰法師」といい、『因明大疏』には、「言法師者行法之師也」ともみえている。その言うところ区々まちまちではあるが、要するに仏法に通じた修行者の名で、尊敬すべき称号である。
 わが国で古く法師の語のみえるのは、『日本紀』武烈天皇七年条の法師君をもって始めとする。これは百済斯我君の子で、子孫がわが国に留まって倭君やまとのきみとなったとある。これを法師君といったのは、いずれ仏法に起因した名と解せられる。百済はすでにこれより先百二十余年前、枕流王の元年に、胡僧摩羅難陀によって仏教が伝えられていたのであったから、この頃法師君の名があってもしかるべきところである。あるいは仏法すでにこの頃我に伝わっていたのかもしれぬ。善光寺如来が百済から海に浮んで難波についたのが善記四年で、武烈天皇の四年に当たる訳であるから(『善光寺草創考』)、法師君すなわち真に法師であったのかもしれない。しかしその後法師の語はしばらくわが古書にみえぬ。欽明天皇十三年に仏法が伝わって後も、僧尼・律師・呪禁師・沙門等の称はあるが、法師の通称はみえておらぬ。用明天皇二年、帝病あり、皇弟皇子等豊国法師を引いて内裏に入れたとあるのが、僧侶としての法師の語の初見である。次に崇峻天皇三年司馬達等たつとの子多須那が出家して、徳斉法師といったとある。推古天皇朝の留学僧新漢人いまきのあやびと日文を後に旻法師ともいっている。大化元年紀には、沙門狛大法師福亮だの、百済寺々主恵妙法師だのという名がみえるが、これらと並んだ他の高僧達には、単に沙門とのみあって、法師の語は用いてない。これから後には福領法師(斉明紀四年福亮と同人か)だの、願満法師(天智紀六年)だのという類の名が、だんだん多く現われている。しかし「法師」とあるものはやはりある特別の沙門に限られておって、広く僧といい、沙門というものをもって、ただちに法師とか大法師とか呼んだとはみえない。あるいは当時法師とは一種の僧階の如く、ある特定の人に限られていたのかもしれぬ。そして通じては僧とも沙門ともいったものらしい。ただし『万葉集』に、「戯嗤僧歌」として、「法師等が、鬢の剃杭そりくひに馬つなぎ」云々ともあって、通俗には一般の僧を法師と呼んでいたことには疑いない。しかしそれは先方に敬意を表した語らしい。『続日本紀』には、大僧正行基や、元興寺の道昭には和尚と用い、僧正義淵には法師とあるなど、やはり多少用い方に区別があった。『霊異記』にも法師の称は少からず見えるが、いずれも身分のよい方で、ただの沙弥の輩を法師と呼んだとは思われぬ。
 しかるに中世になってはその語が濫用せられて、叡山の山法師、三井寺の寺法師、南都の奈良法師はもちろん、上は高僧知識から、下は末流凡下の俗僧まで、通じて法師と呼んだ。定家の『百人一首』には、喜撰法師だの素性法師だのと、僧官を有するもの以外の僧侶には、みな法師の語を用いてある。すでに平安朝から、下賤の輩にも法師の称を用いていたことは、『枕草子』に遊芸を事とする乞食尼を、女の法師と書いてあるによって知られる。法師の語がだんだん下賤の輩に用いられるようになっては、金襴の袈裟にくるまって金光燦然たる殿堂の中に済まし込んでいる高僧知識らは、同じ列に法師と呼ばれるのをいさぎよしとしなかったらしい。そこで法師に代わるに坊主の語が流行り出した。
 法師という語が安っぽくなってきたことは、もと「貴様」とか、「貴公」とか、「お前」とかいう最敬の語が、安っぽく濫用せられるに至ったがために、他からその語をもって呼ばれた場合に、不快に感ずるようになったと同様である。鎌倉時代末から室町時代に至っても、山法師(叡山)とか、寺法師(三井寺)とかいえば、多年の慣例として別に軽侮の意味をも感じなかったであろうが、単に法師といえばすでに人を馬鹿にしたことになっていたらしい。『徒然草』に、

惟継中納言は風月の才に富める人なり。一生精進にと、読経うちして、寺法師(三井寺等の寺の僧)の円伊僧正と同宿して侍りけるに、文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺は無ければ、今よりは法師とこそ申さめと言はれけり。いみじき秀句なりけり。

 とある。これが単に「寺がなくなったから、ただの法師だ」では、秀句としてもそう面白くは感じられぬ。ここには法師の語に、侮辱の意味があって、僧正様の如き尊い人を、賤しい法師の名で呼ぼうというにおいてこそ、いみじき秀句とも言われるのであったであろう。
 坊主とは言うまでもなく一坊の主の義である。『釈氏要覧』に、「韻林云、坊ハ区也。苑師云、坊ハ区院也」とあって、坊はなお院というと同じく、一区画をなしている場所の称である。春坊・教坊・内坊・酒坊・茗坊など、その用例ははなはだ多い。中にも仏寺にあって僧坊の名は、頻繁に繰り返されて、もっとも耳目に近しくなっている。かくてわが天台宗の盛んな頃には、叡山に三千坊あったと言われ、永保元年三井寺焼打ちの際には、災いに罹った僧坊の数だけでも四百二十一ヶ所の多きに及んだとも言われたほどに、諸大寺に坊の数は多かった。そしてこれら諸坊の主とあるものすなわち坊主である。かくてその坊の名をとって、ただちに坊主の名に呼び、はては坊主ならぬものでも、名の下に「坊」の語を添えて、何々坊と呼ぶこともできてきた。けだしそれは坊の語の転用である。『吾妻鏡』文治二年三月の条に、

静女、以俊兼・盛時等、被尋問‐予州(義経)。先日逗留吉野山之由申之。太以不信用者。静申云、非山中、当山僧坊也。而依大衆蜂起事、自其所、以山臥之姿、称大峯之由山、件坊主僧送之。――重被坊主僧名。申忘却之由。――

 また、同書文治元年十一月の条にも、

予州凌吉野山深雪、潜向多武峯。是為大織冠御影云云。到着之所者南院内藤室。其坊主十字坊之悪僧也。

 などみえている坊主は、いずれも文字の如くその坊の主であらねばならぬ。『続古事談』に、奈良に説法をよくする僧綱が賊にあった話があるが、それにはその僧のことを房主と書いてある。房は室で、坊とは違う。僧侶名宛ての文書に、何々御房とか、何某御房御中などとあるのは、今の手紙に侍者とか、侍者御中とか書くのと同じことで、寺の一室におって住持たる高僧の左右に侍する低い地位の僧侶を指したものである。右に引いた『続古事談』の房主は、実は坊主の書き誤まりであろうと察せられる。
 蓮如上人の御文章をみると、坊主とか、大坊主とか、多屋坊主とかの名称が多くみえる。これは必ずしも一坊の主とのみ限ったのではないかもしれぬが、決して侮蔑の意味を含んだのではない。昨年の夏遠州平田寺に詣でて、同寺所蔵の古文書を拝見している中に、永禄四年今川氏真署名の文書に、「諸末寺の塔主看院等、本寺に断らずして坊主と号し、恣に居住するを得ず」という一節があった。これは坊主の語の正しい用い方に従わしめたものであるが、しかもその裏面には、当時すでに坊主ならぬものが、みだりに坊主と称していたことを示しているのである。
 坊主の称がますます坊主ならぬ者に濫用せられるようになっては、自ずからその語が賤しくなる。はては特殊の賤業者にまで多く用いられることになる。殿中にあって将軍大名の雑役に服するものも、遊里にあって嫖客ひょうかくの興を助くるものも、みな坊主をもって呼ばれることとなる。ここに至っては真の坊主のみでなく、坊主ならぬただの僧侶達までも、坊主の尊称をもって呼ばれるのをいやがることとなる。その代りにその賤しい意味となった坊主の語は、さらに進んで賤者を侮蔑する場合に用いられることとなり、ついには一坊住職たる真の坊主はもとより、ただの僧侶を呼ぶにも坊主の語を避けるような現勢となってしまった。(『民族と歴史』第三巻第五号〈俗法師考余編〉=一九二〇年四月)
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声聞師しょうもんじ



1 唱門師に関する先輩の研究


 わが往代の世態を観察すべく、俗法師のことを研究するに当たって、まず第一に注意に上るべきものはいわゆるショーモンジであらねばならぬ。
 ショーモンジあるいはショウモンとも、所によってはショモジともいう。この名称は、近代よほど世人から耳遠くなった。今ではわずかに上方かみがた地方で、年取った人々がシュク・ショーモン・エタなどと、往時のサガリ者の名を連ね呼ぶ語が遺っているくらいのことで、若い者に聞いてみても、ほとんどその存在をすら知らぬものが多い。しかし室町時代から戦国頃へかけての記録をみると、その名がかなり多く繰り返され、江戸時代のものにも、なお所見が少からぬ有り様であった。
 ひと口にショウモンといっても、時代により、地方により、世間のみるところ決してひと通りではなかった。そしてそれが後世では、その各種のものが別々の名で呼ばれて、これを総括したはずのショウモンの名はようやく忘れられるに至ったのであろう。
 ショウモンジのことは例の柳田君の『郷土研究』(四巻二号)に、「唱門師の話」と題して、はやくも例の精しい研究が発表せられている。さすが同君のこととて、いわゆる博引旁索で、中世における唱門師のいかなるものであったかをかなりよく示されている。そこで自分はまず説明の順序として、同君の丹精して並べ上げられたところを、簡単に箇条書きにして左に紹介したい。これ実に同君の研究に対して敬意を表するの道であって、かねて同じ手数を重ねる労を省く所以であると信ずるからである。同君の所説は大要次の通りである。

 京都には上の御霊の鳥居の脇に唱門師村という一廓があって、宝永二年の序のある『山城名勝志』には、「今に至る迄彼地唱門師多く住す」とある。
 山科言継卿の日記によれば、正月十八日の三毬杖さぎちょうの時に限り、必ず唱門師禁裏に参上して之を囃す例であった。
 千秋万歳せんずまんざいと称して、正月の四日五日に禁廷に罷り出でて色々の曲舞くせまいを奏した者も、亦唱門師であった。
 言継卿の頃には、京都では北畠と桜町とに声聞師の部落が分かれていた。後者は禁中に近かったので、「御近所の声聞師」ともいっていた。
『山城名勝志』引「季瓊日録」(寛正五年)によれば、六月十四日の祇園の祭礼に、北畠から跳戈おどりぼこを出し、歌舞して御所へ参るのが旧例だとあって、此の徒が遊芸に由って御霊会の神事に仕えていたことがわかる。祇園の犬神人つるめそも唱門師だとの説もあれば、何か久しい由来のあることかもしれぬ。
 唱門師が冬季竈の塗替の節に来て地祭をしたことがある(『言継卿記』天文二十一年十一月二十一日)。
 唱門師が病人のあった場合に依頼を受けて算を置きかつ祈祷をした(同書永禄八年六月二十日、天正四年九月二十八日)。
 唱門師の社会上の地位が当時もやはり低かったらしいことは、日記の中に往々唱門師いじめの記事があるので察せられる(天文十七年正月十八日、同十九年閏五月七日)。
 以上の事実によると、足利時代の唱門師が下級の陰陽師で、祈祷もすれば初春の祝言も唱えると、近世の大和・三河等の万歳に同じく、また算置きと、歌舞遊芸とを兼ねることは、昔の傀儡師や後代の算所太夫のようで、また御霊会の風俗踊りに加わって前棒さきぼうを勤めたのは、田楽法師・鉢叩き・鉦打かねうちにも似通うところがある。
 今北国で活動している越前万歳は自らショウモンジといっている(『今立郡誌』)。その居住地は今立郡味真野あじまの村で、偶然かは知らぬが尾張の院内万歳の根源地も西春日井郡味鋺あじま村である。
 伊勢の山田では唱門師のことを陰陽師とも暦師ともいったと「見ぬ世の色」にある。
『閑田耕筆』には、「一種の巫祝祓祈祷方角占卜の事などを業とする者、土御門家支配と標を出せるが洛外に見ゆるを、京都にては名目を失へり。近江にては之をショモジといふ」とある。
 大津の市中にもショウモンジ部落があって、新町とも神子町とも呼んだ。この輩は夫が唱門師で、妻が梓巫あずさみこを業としていた。常人はかの種族と縁を結ぶことを忌んだ(『近江輿地志略』)。
 この点に重きを置けば、唱門師はまた下級の神主・修験者・または竈神の札を配って歩きいた舞太夫などと類を同じくするとも見られる。
 算所または産所と呼ばれた一種の陰陽師が、また唱門師と同じ者だという証拠は、城州西梅津と、遠州掛川と、近江大原村との例でわかるが(『郷土研究』三巻二号「山荘太夫考」)、掛川の算所が後年一寺を創立して、仏徒になりすましている(『掛川志』)のに反して、大原村のは、「此辺にては唱門師と呼ぶものは穢多の類なり」(『淡海木間攫』)と言われ、梅津においても、本郷の民これを餌取に近き者の如く(『以文会筆記』)にいった。
 近江浅井郡湯田村大字八島は、本郷の外に出八島と大夫との三つの在所に分かれ、その大夫村は唱門師の類で、筋目よろしからぬ故に本郷より賤しめられていた(『淡海木間攫』)とある。
 唱門師を大夫といった例は、古くは『経覚私要鈔』(『大日本史料』引)応仁二年二月二十七日条に、「高台寺辺京の若大夫と申声聞曲舞くせまひ云云、三人同童也云云」とある。
 これを要するに陰陽師といい、ハカセといい、万歳といい、院内といい、寺中といい、算所といい、あるいは単に太夫といい、唱門師といっても、この徒の生活状態または社会上の地位に一々の区別があった訳でない。大和に多い夙の者なども、古塚の傍らに住んだり、万歳に出たりしているから、『滑稽雑談』に唱門師とシュクと同じだといったのも(『社会事彙』)、あながち臆断ではないように思われる。

 以上柳田君の唱門師何者なりやに関する解説の要点を抄録したものである。かくて氏は最後に、唱門師と仏教との関係を観察せられ、彼らの部落はある時代には今よりも大寺院との結托がズット強かったとみえると解せられ、それは唱門師という名称からもわかるといっておられる。すなわち氏はこれをもって経文空読そらよみの無学の徒の名となし、『※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢鈔』や『年中行事大成』の、門に立って経文を唱える「唱門師」説、また『閑田耕筆』の「唱文師」説を排して、『峯相記』の「誦文の法師」の説に賛意を表しておられるのである。
 右はただ自分の心覚えまでに、原文十一頁にわたる柳田君の貴重な大論文を、わずかにその四分の一にも足らぬほどの分量につづめたのであるから、十分に意をつくしておらぬのはやむをえぬ。特志の方は本文について、同君の研究を玩味されたい。

2 声聞師の名義に関する諸説


 柳田君の研究は誠に結構なもので、その最後の名義に関する考説を除いた以外は、その言っておられるところはことごとく真相を得たものとして賛意を表するに躊躇しない。しかしながら自分は、柳田君の観察せられたほかにもなお彼らに重要な職務のあったことを認めるのである。またその名義については、自分にいささか異説があって、その名義の考証からして、自分はさらに彼らの起原を観察し、またその職業上における分派についても考えてみたいと思うのである。柳田君のすでに引証せられたところの彼らの職業に関する見解は、いずれも正当であることを信ずるものであるから、したがって自分はさらに同じようなことを繰り返すの徒労を避けて、すべて氏の発表を敬重し、失礼ながらさらにその上に、他の史料からいささか狗尾こうびを継ぎ足して、彼らの実体をいっそう立ち入って考えてみたいつもりである。
 さてショウモンまたはショウモンジは、古くは普通に声聞(師)と書いたようである。山科『言継卿記』(大永―天正)にはいつもこの字を用いている。興福寺大乗院尋尊の『寺社雑事記』(長禄―永正)には、唱門と書いた場合がもっとも多いが、また声聞あるいは唱聞などとも書いて一定がない。『二水記』には聖門師と書いたと『山城名勝志』にはみえている。あるいは証文士・声聞身・正文などとも書き、あるいは理窟責めに、唱文師・誦文師などの文字を用いた例もすでに柳田君が十分引証せられてあるが、これらはいずれもその根原を忘れた後のあて字であって、もって証とするに足らぬ。しかしその適否はともかくも、後世ではまず唱門(師)と書くのが普通であるらしい。
 これを唱門師と書くのは、文安の『※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢鈔』(普通は『塵添※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢抄』を引くようだけれども、これはやはり年代を示すべく原本によるを可とする。)が火元らしい。同書は、当時世間では普通に「声聞師」と書いていたのに対して、彼らは門に立って誦文を唱うるものなるがゆえに、よろしく「唱門」と書くべきものだと論じているのである。曰く、

民屋の門に立て打金鼓声聞師と云。是非声聞僧の儀。唱書也。凡声聞と云は、数説あれ共、一儀に順ぜば僧は是仏法修行初門、音声説法を聞て解を生じ、涅槃を願ふ故に声聞と云ふ也と。今此金鼓打をば唱門師と可書、家々立て妙幢本誓を唱へ、阿弥陀経を誦で金鼓を打故に爾云。是一条院の御宇寛印供奉の造り給頌文也と云云。

 この文によると、文安(後花園天皇朝)の頃には声聞と書くのが普通であって、そしてそれは、主として鉦打かねうちの念仏修行の乞食僧であったらしい。しかるに当時すでに彼らはかなり堕落して、社会から卑しまれていたので、それに対して声聞というような、迦葉・阿難・舎利弗しゃりほつなど仏弟子の尊者の称を付することはもったいないというくらいの感情から、彼らが人家の門に立って経文を読誦するという実際の状態に基づいて、「唱門」と書くべしといったのである。必ずしもショウモンの名称が、唱門の義から起ったというのではないらしい。『年中行事大成』がまたこの同意見から、祇園の犬神人いぬじにんの元旦日華門前に毘沙門経を読誦するということをもって、「唱門師」の名を解せんとしたのは一歩深入りしたものである。さらにこれを「唱文師」と書き、あるいは「誦文」の義だと解せんとするにも、また一応の理由は認められる。しかしながらこれらはみな彼らの堕落の状態からの観察であって、本来の修行者という上から考えてみると、自分はどこまでもその名義は、古くから使い慣れた文字通りの、「声聞」の義であろうと思う。柳田君も引かれた『経覚私要鈔』に声聞若大夫とあるのは正しい。やや後の時代になっても、さすがは故実を重んずる山科家の日記に常に、「声聞師」の文字を用いているのは、『※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢鈔』に、「門に立って金鼓を打つを声聞師と云ふ」とあるのと相啓発して、古い用い方を示したものだと解せられるのである。このことについてはすでに『郷土研究』(四巻三号)に、佐々木月樵君の説が出ている。これに対して柳田君は、「まだ前説を翻へす意がない」と書いておかれたが、自分はさらに佐々木君の説を敷衍して、そのしかる所以を弁じたい。

3 菩薩と声聞――浄行僧と声聞師


 法師が本来いかなる者であるべきかということは、すでに前号「俗法師考序論」に述べた通りで、今さらここに言うには及ばぬが、わが大宝の僧尼令の規定はかなり窮屈なもので、戒律を持することを厳重に命じたものであった。しかしながら、事実は必ずしもそうばかりではない。当時すでに俗法師とも言うべきものの少からず存在したことはすでに説いた通りである。これについて思い合わせることは、「浄行僧」あるいは「清行僧」という語のあったことで、早く慶雲二年六月に「京畿内の浄行僧をして雨を祈らしむ」ということが『続日本紀』にみえ、天長五年六月には「清行僧三十人を野寺に屈し、大般若経を転読す。水害を防ぐなり」と『日本紀略』にある。さらに古くは持統天皇十年十月には、勅して毎年十二月晦日に、浄行者一十人を度すともあって、出家以前の浄行も問題になるものらしい。『正倉院文書』天平十年及び十四年の優婆塞貢進の解状げじょうにも、「船連次麿年卅浄行廿一年、星川五百麿年卅六、浄行十年」などあるのは、ただに女犯のことがないというばかりでなく、如法の戒律を保っていることをいったものであろう。天平十九年の『法隆寺資財帳』には、寺奴の中にも浄寺奴というのが一人みえている。この「浄行僧」に対して「智行僧」というのもあって、神亀五年十一月に、智行僧九人を選び山房に住せしむと『続日本紀』にある。ただに後の学侶・ひじり等の区別ばかりでなく、奈良朝頃からすでに、その行によって、法師にも浄行智行の分業があったものらしい。
 智行僧のことはしばらく措く。浄行僧という語がすでに一方にあってみれば、その裏には必ず不浄行僧があったのである。良勝が女と同車した罪で※(「ころもへん+(勢−力)」、第3水準1-91-86)たねがしまに流された一方には、妻子を有して晏然たる法師の存在もまた認められていたのである。そして自分のいわゆる俗法師の徒は、もちろんこの不浄行僧に属すべきものであらねばならぬ。
 却説きゃくせつ中世にいわゆる声聞師の徒は、もとより俗法師の亜流である。少くとも室町時代文安の頃には、彼らは主として人屋の門に立って金鼓を打ち、阿弥陀経を読誦するの仏弟子であった。彼らはもちろん妻子を蓄え、地方政治の頽廃とともにその数も次第に増加したものであろうから、単に歴門の托鉢のみでは生活することができず、はては雑職・雑芸を兼業として、やっと衣食の途を求め、ためにサガリ者として賤しめられるに至ったのであろう。しかも彼らはどこまでも法師であった。たとえその分派のある者が頭に烏帽子を冠り、身に素袍すおうを纏うをもって正装と心得るようにまで変って行っても、本来仏弟子であることには相違はない。それは千秋万歳法師の語があるばかりでなく、徳川時代の山陽道筋の茶筅の徒が、烏帽子素袍で万歳に出たり、両刀を帯して元日の祝儀に回礼したり、あるいは朱房の十手を携えて捕方を勤めたりなどしても、依然として京都四条坊門空也堂紫雲山光勝寺の門流と称しているのをみても察せられる。そして自分は、この種の仏弟子を称して「声聞」と呼んだものと解するのである。
 声聞とは言うまでもなく釈尊の教をいて煩悩を断じ、進んで涅槃に入らんとするの徒で、縁覚・菩薩とともに仏徒三乗の一つである。声聞に対して縁覚とは、自ら飛花落葉を見て無常を観じ、その縁によって覚を開くの徒をいう。縁覚・声聞ともに自利のみを行じて、灰身滅智けしんめっちを終局の本懐とする者であるから、無上道を求めて仏果をこいねがうの菩薩の徒からみれば、自然にその下位に置かれてある。法華経の譬喩品ひゆぼんには三車の例をもって、声聞は羊車に駕するが如く、縁覚は鹿車に駕するが如く、菩薩は牛車に駕するが如しとある。佐々木君が「鹿は只山林にのみ住するに反して、羊と牛とは人間と共に住す。同じく人間と共に住しながらも、羊の方は自のみを利する外は知らず、牛は常に他の為に働く。是と同じく声聞の業は自利にして、菩薩のみが独り利他の大行を行じて仏となる」と解せられたのは(『郷土研究』第四巻三号一四八頁)適切である。縁覚は俗間に与らぬものであるから、わが俗法師には関係が薄いが、声聞は菩薩とともに俗間に住して、しかもその間に高下の差があったとすれば、菩薩を高僧知識にあて、声聞を下賤の俗法師にあてるのは、まさに然るべきことであろう。もっとも声聞の徒は、自ら難行苦行を積んで涅槃寂浄の地に達することを冀うものであるから、もちろん戒律堅固なもので、いわゆる俗法師には当たらぬようである。また彼らが金鼓を打って授福の功徳ある妙幢の本誓を唱えるということも、自利を主とする声聞としては、適しがたい所行だとの非難はあろう。妙幢の本誓とは、最勝王経夢見金鼓懺悔品に、妙幢菩薩鷲峯山に仏に謁して夢中の事をもうし、仏前に頌を説く。このとき世尊妙幢菩薩を讃して曰く、「善哉善男子、汝が夢見る所の如し。金鼓声を出して如来の真実の功徳並に懺悔の法を讃嘆す。若し聞く者あらば、福を獲る事甚だ多からん」とあることを言うのであろう。声聞師が金鼓を打つというのも、妙幢菩薩の所行に似ている。それから因縁を引いた訳でもあろうが、声聞師が妙幢の頌文を唱えて、聞く者に福を授けるということは、いわゆるホカイビト(乞食)が祝言を唱えて、米銭を得るのと同一の所行と解すべきものである。
 さればその所行の問題はしばらく措き、いま菩薩と声聞との二つを並べて考えてみるに、平安朝頃の大乗仏教では、牛に譬えた菩薩業を尊しとして奨励し、羊に譬えた小乗の声聞業を卑しとして排斥したものである。しからば浄行の高僧を菩薩にたとえ、卑しい俗法師を声聞にたとえることは、必ずしも不可能とは言われない。それについて思い合わさるることは、中世に卑賤の僧を指して羊僧といったことがあったかにも見受けられることである。羊は本来機根の卑しい動物とみなされて、真言宗などでは羝羊心といって、下劣の根性を指斥したものだとも聞く。『※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢鈔』に、羊僧の語を解して、

ルヲ法羊僧と云。羊は卑き獣とす。獣中、僧中に卑しと云心也。羊質など云、同心也。
されば張良が一巻の書にも、羊質虎皮は恥也と云て、外に虎勢を成て内に羊の心あるを武士の恥辱とす。是羊を卑とする故也。

 とある。羊僧はけだし唖羊僧の略で、一つに※(「やまいだれ+亞」、第3水準1-88-49)羊僧ともあって、「愚痴の比丘善悪持犯を知らず、所犯の罪に随って悔除するを知らず、猶唖羊の死に至るまで声なきが如きもの」(『仏教大辞典』)と解している。口に衆生のために法を説かず、ただ自利をのみもっぱらとすというもの正にこれに相当するが、声聞を羊に譬えたことをもってこれと思い合わさば、羊僧すなわち声聞僧で、単に卑しい僧との義に用いたものと解せられるのである。しかるに一方には、高僧知識を菩薩といったことはその実例が多い。菩薩の語にも種々の用法がある。きわめて広くこれをいえば、仏門に入る衆生これを菩薩というともあって、一切の仏弟子みな菩薩といってよいのであるが、わが国の実際ではそうは用いていない。奈良朝においては大僧正行基の徳を讃して、時人呼んで菩薩といったと『続日本紀』にある。後には西大寺の叡尊が、興正菩薩と言われたように、特に菩薩号を許されることもある。古くは日本の天神地祇すべて護法善神の列にあるものと考えられていたが、その中にも特に八幡大神や宗像明神には、勅によって菩薩号を授け奉るとある。
 常陸に現れた大己貴おおなむち少彦名神すくなびこなのかみが、『延喜式』に薬師菩薩神社と登録せられてあるのも、本地垂迹説によって薬師如来に習合せられたのではなくして、この神、わが国における薬師くすしすなわち医者の元祖ということで、それに菩薩号を授けて薬師くすし菩薩と崇めたものと解せられるのである。かかる次第で、仏門に帰した法師であれば誰をでも菩薩といったのではなく、特に高僧知識と仰がれるもののみに菩薩の名が呼ばれたのであった。そして特に許されたというではなくても、行基を時人が菩薩といったように、俗間ではこの徒を尊敬して菩薩と呼んだ例が多い。高野の丹生明神が女人と現われて、弘法大師を菩薩と呼んだことが真済の『空海和上伝』にあり、熊野の海辺人が永興禅師を菩薩と呼んだことが、『現報善悪霊異記』にみえている。かくてついには浄行僧ともいうべき尊い法師を一般に菩薩というに対して卑しい俗法師等を概括して声聞と擯斥し、はては羊僧とけなすに至ったことと思われる。これけだし自然のなりゆきであらねばならぬ。本来の声聞は戒律堅固のものであった。しかしながら破戒の声聞という語もわが中世には行われたようである。『太平記』に身子声聞の事を述べて、彼が声聞の行を持し、婆羅門の請うにまかせて一切の財宝から、はては身の毛両眼までをも請うがままに与えたまではよかったが、最後にその婆羅門の凌辱を憤慨して、「一念瞋恚しんいの心を発してより、菩提の行を退けしかば、さしも功を積みたりし六波羅蜜の行一時に破れて、破戒の声聞とぞなりにける」とある。
 これは天竺の話を書いたのではあるが、当時わが国において、「破戒の声聞」の語が行われていた傍証にもなろう。つまりは高僧に対する卑賤の俗法師を、菩薩に対する声聞の語をもって呼んだので、その戒律有無の点は深く問うに及ばなかったものとみえる。そして声聞師と呼ばれたこれらの俗法師の徒が、鉦を打って妙幢の本懐を唱えたのも、非人が祝言を述べて相手の福徳を言祝ことほいだのも、つまりは同一動機に出でたものであらねばならぬ。かくてその堕落したものに至っては、すでに引いた如く早くも一条天皇の頃に、卑猥の歌詞を述べ、身振りおかしく踊って食を乞うの女法師ともなっていたのであった。
 これらの俗法師はもちろん奈良朝以来すでに存したものであるが、平安朝に至ってことにその数が増してきて、ついには声聞と呼ばれる一階級をなしたものと解せられる。『大乗院寺社雑事記』には、多くの場合単に「唱門」(あるいは声聞とも)とのみあって、唱門師とはいわぬ。今も大和河内あたりでは「シュク・ショウモン」と連称して「ショウモンジ」の語を知らぬのも、彼らが本来声聞とのみ呼ばれていたことを裏書きするものかもしれぬ。

4 声聞師の職業とその起原


 俗法師が平安朝に至ってことに増加したことはすでに述べた。地方官の収斂誅求を避けて自ら課丁の公民権を放棄し、形を沙門に托して出家脱籍したものが、延喜時代においてすでに天下の人民の三分の二の多きに及んだとは、これ実にいつわらざる社会状態であった。三善清行はこれを同情なき方面から観察して、彼らは家に妻子を蓄え、口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを食い、形は沙門の如く心は屠児の如しとまで罵っているが、彼らの中にも真に仏門に帰して、如法の修行をしょうじたものの少くなかったことを疑わぬ。しかしながら何分多数の俗法師ができてみれば、単に檀那の善根に訴えて、如法の托鉢のみでは生きて行かれぬ。いきおい種々の職業をかねて生活の途を求めねばならぬ。
 ある者は踏歌の流れを汲んで千秋万歳法師となったのもあろう。ある者は陰陽師の道に入って、祈祷卜筮に生きたのもあろう。あるいは身を遊芸に委して、傀儡子・田楽法師の徒となったのもあろう。これらはすなわちみないわゆる声聞師で、柳田君が『郷土研究』に多くの例証を挙げて観察せられたのは、主としてこの方面のことであった。そしてそれはことごとく事実である。
 しかしながら、かくの如きことのみで、多くの声聞師は生きて行かれる訳ではない。これを京都についてみても、北畠や桜町の声聞師の中の数人が、正月四日五日に禁廷へ出て千秋万歳を奏したり、十八日の三毬杖さぎちょうはやしを唱え、曲舞くせまいを舞ったからとて、それで一年中全部落の者が生きられるはずはない。元旦に禁裏の日華門に参じて、毘沙門経を読誦するの旧慣を存した俗法師のある一派の者は、祇園社に属していわゆる犬神人いぬじにんとなっていても、なおかつ彼らは弦指つるさしの内職を必要として、つるめそと呼ばれていたのみならず、京都市中の葬儀に干渉して、ある特権を有していたのである。その他諸国の声聞師部落にしても、本来その数の多い上に、限りなく増殖するその子弟一族が、渡り芸人や祈祷卜筮のみで生きて行かれるはずがない。
 これらはむしろ内職であって、実際の生計は本来かえって他の方面に求めていたに相違ない。それについて思い合わされることは、東寺の散所法師や、高野山の谷の者、興福寺の五箇所・十座の唱門等の使役である。東寺の散所法師が、諸国に算所あるいは産所といわれる唱門師の徒と同類であるべきことは、その名称からも推測せられるが、寺の所属としての彼らは、寺院境内境外の掃除をつかさどったもので、『塵袋』にエタと称した浄人きよめの徒であった。したがって彼らは掃除以外警固の任にも当たった。一朝ことある場合には、祇園の犬神人の如く、喧嘩の先棒となって、打ち壊しにも従事したことでもあろうが、そのほかにも必ずなんらか平時の内職を持っておったものと解せられる。ただこれを正確に立証すべき材料のなきを遺憾とする。彼らの住所は京都九条のうち、信濃小路猪熊の西にあった。後年九条のエタ(この村落後に退転す)として知られたものは、あるいはこの散所法師の後裔ではなかろうかと推察せられるが、確かでない。
 なお散所法師のことは、算所または産所と関連して別に説明したい。
 高野山の谷の者と金剛峯寺との関係は、正しく東寺と散所法師との関係と同じいもののようである。
 したがってよくその沿革現状を明らかにするを得たならば、ために啓発するところが多かるべきを疑わないが、自分はいまだ親しくこれを調査するの機会を得ず、ここに詳説するをえざるを遺憾とする。
 興福寺の五箇所・十座の唱門は、非人中の番非人の如く、寺の所属として雑役に従事する以外に、猿楽以下、渡り神子・渡り遊女・鉦打・猿引等七道の者を進退し、また警察獄吏の事務をも執行し、土木工事にも役せられ、戦時には陣夫にも用いられていた。そして彼ら自身また、少くともその後裔は、陰陽師・ヒジリ・梓神子・傀儡師・猿引・番非人等として知られ、よろい作りの工業家などもこれから出ているらしく、おそらくしゅく・エタの仲間となったものもまたその中にはあったらしい。否、夙・エタの徒の中にも、かつては彼らと同じ流れから出て、中ごろ袂を分かったものもあったであろう。これらのことは便宜上別に、「大和における唱門師の研究」と題して、次号に掲載する予定であるから、説明はすべてそれに譲ることとにする。
 これらのことから推測して試みに想像を逞しゅうするならば、京都の北畠・桜町の声聞師も、ただに一定の日に禁裏へ出て千秋万歳や曲舞を奏するばかりでなく、やはり禁廷に付属して、お庭のお掃除や、市内の警固などを担当し、兼ねて種々の雑職に従事していたのではなかろうか。徳川時代にはお庭掃除は小法師と称して、もとは丹波の山国から出ておったが、中頃は三条余部村のエタ六人と、寺町今出川下ル町及び上立売下ル瓢箪図子から各一人、都合八人でこれを奉仕し、享保十二年以後は大和丹波市外六人のエタ村から出役し、さらに後には京都蓮台野からもこれを勤めておった。丹波山国は戦国時代における皇室御料の最後のものとして遺った庄園であったから、一時そこから勤仕したのであろうが、その以前においてそんな遠方のものを煩わす必要はなかりそうに思われる。後の小法師は箒と緒太(草履)とを献上する例であったが、これはもと河原者の習慣であったらしい。『言継卿記』に、河原者が年始に来て緒太と箒とを呈したことがみえている。
 小法師のこの献上物も、河原者たるエタがこれを勤めるようになってからの例かもしれぬが、しかし本来は声聞師も河原者も類を同じゅうしたものと解せられるのである。
 なお言わば叡山の山法師、三井寺の寺法師、さては南都の奈良法師など、その他各地の諸大寺にあって悪僧というありがたからぬ称号を与えられ、円頂緇衣しいに太刀を帯びて戦闘に従事した僧兵なるものの中にも、本来は三善清行のいわゆる課役を避けて身を沙門に托した社会の落伍者等の、これらの諸大寺に隠れ家を求めたものが多かったに相違ない。そしてそれが時に声聞と呼ばれたことは、柳田君のつとに注目せられた叡山の将門堂の名がこれを示しているかに解せられる。たといこれらに声聞の名称がなかったとしても、前項に述べた声聞師の名義の考説にして誤まりなくば、これまた祇園の犬神人や東寺の散所法師、興福寺の唱門などと同じく、みな声聞師の同類であると言わねばならぬ。人あるいは犬神人や散所法師、興福寺の唱門などは賤者であって、僧兵等は地位のそれよりも高いものであったとの故障を提出するかもしれぬ。しかしそれは境遇の相違であって、本来俗法師であり、口に法を説かざる羊僧である点においては同一であらねばならぬ。そしてそれが同じく声聞の名を得るにあえて異議はなかるべきである。
 しかし僧兵のことはしばらく別問題として保留し、さらにこれを地方の荘園村里について考うるに、ここにもまた興福寺領における唱門の如き役務に従事するものが必要であったに相違ない。現に奈良においては、興福寺・東大寺等の諸大寺以外、いわゆる奈良七郷にもそれぞれ唱門師が付属していた。この事実から考えると、他の荘園村里にもまたその存在の事実は類推して認定せらるべきものである。ことに各地における課役規避の偽法師の立場からいえば、身を付近の荘園に托して、権門勢家の勢力の下に隠れることは、わざわざ遠く叡山や奈良等の諸大寺に走るよりも、いっそう便利であったに相違ない。かくて彼らはその荘にあって、荘官もしくは荘民の扶持を受け、警固や雑役に服するかたわら、かねて雑芸・雑職に従事したこと、なお徳川時代の各地のエタや、山陽道筋の茶筅、山陰道筋の鉢屋の如き状態であったと察せられるのである。かのエタや茶筅・鉢屋の徒が村里に付属し、旦那場と称する縄張りを有して、警固雑役に従事しつつ村民の扶持を受けておったのも、おそらくはこの遺風であると解せられる。もちろん茶筅・鉢屋・エタの類のすべてがこの徒に出でたものではない。彼らは別にその起原を有するものではあるが、課役規避の偽法師の徒が、流れてここに入ったものの多かったことを疑わぬ、そしてその茶筅が最後まで空也堂に属して、俗法師の亜流であることを証しているのは言うまでもない。鉢屋またはエタもまた、ハッチ坊主・エッタ法師と呼ばれ、また前記の如く、特にエタの中にも御所のお掃除に任ずるものを、最後まで小法師と称したが如きは、彼らがまた俗法師の亜流たることを示したもので、当然広い意味における声聞師たるべきものである。
 しかしながらかくの如きものが、俗法師たる声聞師の行くべきすべての道ではない。彼らのある者は当初から雑遊芸・雑職業に衣食したのもあろう。中には一定の居所を有せず、旅稼ぎの渡り芸人となり、浮浪の傀儡子の仲間になったのも多かろう。勧進・禅門・西国などと呼ばれる乞食法師になりすましたのもあろう。各地に遊行して、托鉢に生きる真の修行者もむろん多かろう。そしてこれらの徒の中から柳田君の数え上げられたような、各種のものも発生したのであろう。奈良の唱門が陰陽師・ヒジリ・梓神子・猿引・傀儡師・番非人などになっていると同じようなことは、全国各地に存在したことを疑わぬ。かくてもとの流れは比較的簡単な俗法師の徒から出でても、その末ははなはだ多くの流派となって、多くは別々の名に呼ばれ、もとの声聞という総括的の名称は次第に失われて、ある地方、ある種類に限ってのみ、比較的後の世までもその名が存しておったが、それも近世ではほとんど忘れられてしまったのであろう。
 声聞師がもと俗法師の亜流たることはすでにうるさいほど繰り返した。しかしその「声聞」の文字が不適当とあって、「唱門」の文字を用うべしと言われた時代にあっては、彼らはよほど本来の法師からは縁が遠くなっていた。否、正直に旧縁を保っているような徒輩は、もはや声聞の名をもって呼ばれなくなっていたことであろう。しかもなお彼らは文安の『※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)曩鈔』の頃においても、主として鉦打聖の徒であるとして認められていた。降って応仁・文明頃の大乗院所属の五ヶ所唱門についても、彼らの人名に徳善・福善・心覚などと、明らかに僧名と見るべきものの少からずみえているのは、彼らが社寺荘官に属して非人の賤称をもって目せられ、雑役に服し、警察獄吏の事務に鞅掌おうしょうするようになっても、なおいくぶん往時の声聞僧の名残りを留めていたものと言わねばならぬ。

5 声聞師の地位


 仏弟子の声聞が菩薩の下位に置かれたが如く、俗法師の声聞師がまた普通の法師よりも一段卑しいものと認められたのはやむをえぬ。しかしながら彼らは、民族的に他の人民とあえて区別があった訳ではない。したがってその成功したものは、つとに袂を分かって立派な身分になっているのもはなはだ多いのである。また彼らはその身分が低いといっても、それは社会の上流にいたものに対して低かったのであって、多くの商工業者に比してあえて区別があったものではない。その中には禁廷へ出て舞楽を奏するの名誉を有するものもあった。興福寺の五ヶ所・十座の唱門の如きは、猿楽以下の七道の者を進退し、威権すこぶる盛んなものであった。大乗院門跡ともある尋尊僧正の筆に上っては、「五ヶ所・十座の者共」などと安っぽく扱われてはいるが、民間にあっては彼らはかなり恐れられたもので、『平城坊目考』にある人の説を引いて(「陰陽町唱門ヶ辻子の条」)、「往年唱門師当地に住して、興福寺に属す。民家を巡視して非違を告知らしむ。漫りに権威をなす」といっているのは、よくその状態を示したものである。彼らは実に領内の警察官であった。右のある人の説の如きも、後年彼らの価値が下落して後の観察であるから、「漫りに権威をなす」ともいっているが、その当時にあっては、決して「漫りに」ではなく、正当の職務の執行であったであろう。彼らはまた春日の神人の仲間として、交番に出役していた。京の唱門師たる犬神人は甲冑を帯して御霊会の行列の先頭をつとめたり、時には神輿をもかついだりしている。彼らは決して穢れたとか、汚ないとかの観念をもって迎えられたものではなかった。別して有名なる大和万歳の徒の如き、戦国時代においてその首領とあるものは、立派に大名ともいうべき勢力を有し、盛んな兵力を持して各地に転戦し、大和武士として横行闊歩していたものであった。徳川時代に至っても、彼らの亜流たる陰陽師の徒の如きは、土御門家の門人と号してかなりの尊敬を得ていたものである。市子・梓神子の類に至っても、決して社会から馬鹿にされたものではなかった。したがって彼らのある者は、百姓よりも身分のよいものと心得ていた。ただ彼らはいわゆる筋が違うという理由から、普通民と婚を通じなかったので、世間からはまるで変ったものであるかの如くみなされ、しかもその数が普通民に比してきわめて少かったので、自然に勢力がなくなったのと、その同類であるべき猿引・傀儡師等の渡り芸人、鉦打・勧進・禅門等の乞食的修行者の地位が、だんだん堕落してきたのとで、ショウモンとさえいえば賤しいものと解せられ、シュク・ショウモン・エタなどと連称せられるようになったのである。
 徳川時代においては、階級思想がだんだん盛んになって、普通民は多数のいきおいをもって彼らを馬鹿にする。彼らは由緒を称えてこれに反抗する。ためにたびたび悶着が起った。京都梅津の唱門師たる産所の者の出入りに関する『以文会筆記』の記事は、柳田君も引いておかれた。多くの場合において普通民は彼らをエタの類といっていた。正徳二年には、備後の茶筅とエタとの間に上下の争いがあって、エタの勝利に帰した例さえみえている(「特殊部落研究号」八九頁)。しかも彼らの亜流たる沙弥・鉦打の徒の如きは、幕府の奉行所においては普通民よりもより多く敬意を払われていた。彼ら自身が百姓よりは身分よろしき者と心得ていたのにも確かに理由はある。しかし時勢の推移には敵し難かった。彼らはついに公儀においても、概して身分賤しきものと認定せらるるに至った。『地方凡例録』に、

 沙弥・鉦打類取扱方の事
 沙弥・鉦打の類、宗旨は多分時宗にて、僧俗共本寺有之、其身も百姓より宜き者の様に心得百姓よりは穢多同然の者と賤しむる故度々出入等有之。(中略)右類は一体百姓並の者に無之、百姓と穢多との間位の者なれども、沙弥など寺社奉行所へ出れば下掾に上る事もあり、(中略)沙弥・鉦打・鉦扣かねたたきとも、一体百姓より軽き者と心得、すべての取斗とりはからい百姓並に取扱ひ可然由の挨拶なり。御公儀御法会の時、於京都九品派の出家諷経に出座ある時、御不(布)施物の外に施行下さるゝ由、総て施行は乞食非人に被下事也。左すれば九品宗・時宗抔、踊念仏も修行する宗旨は、他宗と違ひ物貰に近きものと見えたり。其末に御影堂扇折、九品寺の茶筅売等、俗体にて衣を着する類、平人よりは一等軽き者なれば、鉦打鉦扣等又其下にも置くべき者にて百姓とは縁組等も不別物に立置事也先は役者類川原者と云ふべき類に等し。河原者の類格式は軽くとも、平日歴々に付合、暮し方豊か故、軽き商人よりは却つて宜く見え、其身も高く覚え、又小商人の方よりも尊敬すれども、元来河原者なれば素性を糺す時は平人より下なるべし。然れども堺町役者共、町人なみ商売見世等を出し、奉公人抔も常に人を抱へ、役者とて一通りの町人等、下輩に取扱ふ事もならず、大概常の挨拶は同輩なり沙弥鉦打鉦扣の類も右の心得にて取扱然るべし百姓共申立候様、河原者・鉦たゝき等の類を穢多同然に心得べき儀にも有べからず

 とある。きわめて徹底しない判定ではあるが、ともかくこれによって、為政者なり世間なりの彼らに対してみたところを知ることができる。
 要するに声聞師の社会上の地位は、境遇によって高くも低くも変じていったものである。もと猿引などとともに七道の者と呼ばれ、五ヶ所・十座の唱門の進退にまかせられておった猿楽の能役者などは、早くから立派な身分となって、将軍・大名にも近づいていたが、同じ流れを汲む手猿楽・辻能の徒は、やはり後までも非人として扱われていた。しかも基本を糺せば、いわゆる七道のものも、またこれが支配の地位にいた唱門師と同じく俗法師の徒である。そしてその仲間からエタになったものすらもあったと認められるのである。されば、歌舞伎役者の地位の向上を認めながらも、「元来河原者なれば素性を糺す時は平人より下なるべし」という筆法で論じていくならば、「穢多同然」という百姓どもの申立てにも一面の道理はある。しかもそのエタそのものが、本来あえて賤しまるべき義務を有するものではなかった。境遇によって高くも低くも変っていくべきはずのものを、万事旧慣を重んずる徳川時代の風潮として、普通民多数の圧迫から、高くなって行くべき者をもその徒の中の特に低くなったものの同類として、その低い地位に均霑きんてんせしめようとするがために、種々の悶着も起ってきた。そして為政者の判断が右の如ききわめて不徹底なものであって、それでもってともかくも徳川時代を通ってきたのである。当時の判官たるものは、その行為が物貰いに近いとか、素性を糺せば河原者だとかいうことをのみ知って、さらに遡ってそのいっそう以前の素性を糺すことを知らなかったのである。かくて唱門師の末流の中においても、その職業の選択を誤まったある者の如きは、次第に低い地位にまで押し下げられていったのである。

6 結論


 これを要するに声聞(師)とはもと下賤の僧の義に用いられたもので、在来の俗法師や、社会の落伍者のこれに投じたもの等の総称とみるべく、したがってその職業も一定せず、陰陽・卜筮・遊芸・雑職に従事するものはもちろん、社寺荘官村里に付属しては、雑役に服し、警察監獄事務をも勤めたものであった。それが後には各その職とするところによって別の名をもって呼ばれ、声聞という総括的の名は、多くの場合において失われたものと思われる。その職業としたところからいえば、後の鉢叩・鉦打・ヒジリ・陰陽師・博士の徒、ささら・説経・祭文・市子・梓巫の輩、あるいは田楽(猿楽)・万歳・春駒・夷舁えびすかき、大黒舞・傀儡師などの諸芸人、あるいは山陰道筋に多い鉢屋(大和などにも警吏の一種にこの名があった)、山陽道筋に多い茶筅、近畿地方の夙の類、あるいはいわゆるエタ仲間のある者の如き、また往々この流れを汲んだものであったと察せられる。もっとも夙・茶筅・鉢屋・傀儡師の徒は、古えの土師部・浮浪民等の亜流に出でたものも多く、同じくらいの社会的地位を有し、似た職業に従事したものが互いに混淆して、名称を融通し合ったものの多かったのは言うまでもない。本編は便宜上主として特殊民の三大要素中、俗法師の方面から観察したのであるが、唱門師(声聞師)の研究をまっとうせんには、さらに他の二大要素たる、土師部・浮浪民の方面からの観察をも怠ってはならぬ。いずれこれらのことについては、他日稿を改めて別に論じたい。
(付言)なお唱門の名義が、アイヌ語のシャモまたは沙門と関係があるのではなかろうか、満洲・蒙古・北部アジア等のシャマニズムのサモンと関係ある語ではなかろうかとも思われるが、確かでない。
(『民族と歴史』第三巻第六号〈俗法師考の二〉=一九二〇年六月)
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大和における唱門師の研究



1 緒言


 声聞師の何者なるかは、前号所載「声聞師考」においてほぼその要を述べておいた。彼らは概括して声聞師と呼ばれてはおったが、その時代により、職業により、また地方によりて種々の名称をもって世に知られ、中にはつとにその仲間を脱して、社会にしかるべき地位を獲得したものもあれば、堕落してますます世人の擯斥ひんせきを受くるものとなったのもある。したがって室町時代の記録文書にみえる声聞師(唱門師)の名は、必ずしも往時の声聞師の子孫のすべてを示したのではなく、徳川時代の記録文書にみえる唱門師(声聞身・証文士・声聞士)の名も、また必ずしも前者の子孫のすべてを示したのでないことはもちろんである。つまりは時代によって次第にその名が失われ、他の区別せられた名称をもって呼ばれているのである。今これらの経路を示すべく、一例として大和の唱門師の顛末を研究してみたい。

2 興福寺所属の唱門師


 往時は知らず、応仁文明の頃の興福寺所属の唱門師のことは、少からず『大乗院寺社雑事記』にみえている。これによると当時大和には数十箇所の唱門部落と呼ばれるものがあった。その中について、奈良の十座の唱門と呼ばれるものがその座頭となっていた。十座の唱門は奈良の北部にいたもので、もっぱら興福寺に付属し、衆中一般からこれを使役したものであった。そして十座とは別に五箇所の唱門というのが奈良の南部にあって、これは興福寺中でも、特に大乗院門跡のみの付属であった。文明十年六月五日条に、

衆中奈良唱門召仕至。昨日十座物共罷出云云。古市用歟。為石倉云云。今日自日中五ヶ所物共罷出旨加下知。可如何仕哉之由参申間、不罷出事、子細於届之由仰了。則成奉書之処、於沙汰衆、竹坊者不存知云云。遣水坊之間、不存知仕云云。但相尋、自是可申‐入返事云云。
五ヶ所唱門人夫役之事、為衆中下知之由、彼等注進候。先々更以、無其儀事候間、如先例閣候者、可目出候。於十座唱門者、衆中役々事、不左右候。無相乱候様、被下知者、可目出候由、可披‐露集会旨、被仰出所也。恐々謹言。
六月五日
宣舜
衆中沙汰衆御房
奈良中唱門事ハ七郷或一乗院領東大寺領以下在々所々ニ有。北里分者号十座、南里方者号五ヶ所各当跡自専之一領也。此内於十座者衆中与門跡共以召‐仕之。於五ヶ所者、唯門跡計召‐仕之。先年沙汰衆等不取入。可バカリ五ヶ所召仕之由、加下知之間、事子細念比ニ仰‐聞之間、さては以外事候、不新儀之沙汰之由、三沙汰衆ニ自筒井律師方仰‐付之、于今無違乱事也。何方より雖申付、不許可事也。是ハ朝夕京田舎以下召仕用ニ別而南里之唱門之座ヲ立故也。唯門跡奉公用計也。十座当国中数十箇所之唱門之座頭也。国中下知悉以自十座相‐触之。寺門四面三大払治(大掃除の事歟)等也。

 とみえているのは、よく当時の事情を示したものである。右は大乗院専属の五ヶ所唱門を、本寺の衆中から使役しようとしたので、大乗院がその故障を申し立てたのであった。
 これらの唱門は、寺院に対して人夫役を出す義務を負担しておった。その役務として、彼らは寺門四面の掃除をなし、また朝夕、京田舎以下の召仕用に使役せられたとある。いわゆる浄人きよめ駆使部はせつかべのようなものであった。なおその使役の実例としては、この年八月十日天満社の参礼に際して、恒例の宇治猿楽不参のため十座の唱門をして、宇治猿楽等が大和経迴を停止せしむべき旨国中に触れしめたということがある。これより先文明四年八月にも、宇治猿楽が神事の勤仕を怠ったので、十座川上五箇所の唱門どもを召して、彼らの荷物を差押えしめ、国中の唱門どもにもこの旨を触れしめたことがあった。これによって宇治猿楽は、九月十一日に起請文を入れて罪を謝している。
 また文明二年二月十四日には、寺門の下知として、五ヶ所以下の声聞士等が、伊勢から浄法院その他へ運搬する金、水金その他の雑物の荷を押えて、在々所々にこれを落取したこともある。文明三年八月晦日には、宝寿院権僧正の葬式に際して、五ヶ所の唱門二人を召して、葬穴を掘らしめたとのこともある。
 これらの職務をみると、彼らの本来は法師であっても、如法修行の僧侶ではなくて、エタ・番太・夙・茶筅・鉢屋などと呼ばれたものと同じく、警察事務や刑の執行、掃除・葬儀等のことにも与ったもので、エタまたはエッタと呼ばれた古えの河原者・浄人きよめの徒と同じ仲間と解せられる。『宇治拾遺物語』十三に、伊吹山に籠って念仏を行じたひじりの坊の下司法師原というのがあるのも、やはりこの類のものであろう。奈良の唱門も、『雑事記』にしばしば法師原と呼んでいる。東寺の散所法師や、祇園の犬神人つるめそも下司法師原の徒で、けだし大社大寺には多く付属していたのであろう。
 城塞修築等の土木工事にも彼らは使役せられた。同書文明十一年十月一日の条に、「城人夫三党者共相‐催之五箇所十座罷出了」とある。ここに三党とは何者か不明であるが、同書文明二年八月五日条に、「非人」と肩書してあるのを見れば、いずれ唱門仲間と解せられる。右の城普請のことについては、さらに同月十日条に、

今度城構土公事ニ、三党者共、自衆中召‐仕之。古市沙汰也。其後至近日陣夫ニ召仕之間、五ヶ所唱門事ハ各別儀也。不然。殊更近日ハ八人分奉公仕者也。此分可閣之由、問答了。名字ヲ可注下。并オトナ共召‐下之由申入之間、一紙古市代官北野山方ニ遣之了。則徳丸ニ申付云云。

 とある。彼らは平常の雑役や土木工事のみならず、戦陣に際して陣夫にも役せられたのであった。

3 五ヶ所の唱門の所在とその顛末


『雑事記』の右の文(文明十一年十一月十一日条)の続きに、いわゆる五ヶ所唱門の名がみえている。

五ヶ所人夫事
  中尾分
五郎 兵衛太郎 兵衛次郎 三郎四郎
 以上四人公事定
三郎次郎 彦三郎
 以上二人ハオトナ、公事セス
  西木辻坂分
徳善 次郎五郎 福善 次郎 孫六
 以上五人、此内一人ハシキシ、公事足四人
心覚 小次郎 八郎京ハテ次郎
 以上三人オトナ。公事セス
  合御公事足八人
此外ニ五ヶ所者共致訴訟、不御下知。文明八年春比ヨリ也。高御門瓦堂鉾大明神ト三ヶ所ニ在之。此分ハ只今不仰者也。随而可召仕云云。此三ヶ所ハ毎事各別ニ相振舞之間、八人方よりは不存知云云。

 すなわち中尾、西坂(木辻)・高御門・瓦堂・鉾大明神の五つをもって、五ヶ所と呼んだものらしい。その中でも、高御門以下は、文明人年頃より大乗院の下知に応ぜず、「只今は仰する能はざるものなり」とあってみれば、当時実際使役していたものは、中尾と西坂とのみであった。けだし彼らも時代の風潮に感染して、だんだん横着になったのである。
 彼らは大乗院所属としての使役以外に、他の職務をも持っていたらしい。前記五ヶ所唱門部落の一つたる高御門は、今も奈良市の南部に高御門町とあって、直に西の方陰陽町に続き、もと一町内の地であった。そしてその陰陽町には、明治維新の際までも陰陽師の徒が住んでおったのである。そしてそれがただちに、この唱門師の職業を伝えたものであったことは言うまでもなかろう。ことにその陰陽町が、俚俗唱門辻子ずしといわれたことによっても、少くともここでは唱門すなわち陰陽師であったことが証明せられよう。しかし後にはその関係が忘れられていた。『平城坊目考』に、

俗間此町を謂て唱門ヶ辻子と称す。是謬り伝へて不当の説なり。往年売僧まいす有て毘沙門経を誦して門戸に立て物を乞。名けて唱門師といふ。是門下に読経するの謂なり。曾て陰陽師の類ひにあらずと云云。是古翁の説なり。

 と弁じている。これはもちろんこの地がもと唱門部落であったことを忘れた後の謬説である。同書にある人の説を引きて、

往年唱門師当地に住して、興福寺に属す。民家を巡視して非常を告知らしむ漫に権威をなす。是唱門が辻子と云の言縁なり云云

 とあるのが、かえって真相を得た説である。すなわち彼らは大乗院所属の警吏兼雑役夫として、さらに陰陽師を兼ねておったものと解せられるのである。少くとも彼らが扶持離れした後には、そのある者が陰陽師となっていたのであることは疑いを容れぬ。
 またその高御門町から東、西新屋町より東北に向かって中新屋町に通ずる小路を、もとひじり辻子ずしといった。『坊目考』には、

按に、新元興寺の僧侶乎、未与。或人の云、中世渡扉とび法師此所に住居す。俗渡扉を呼びて高野聖こうやひじりといふ。仍而此名ありと。云云。然否哉。

 とあるが、これまたヒジリの意義を忘れたもので、この地の唱門師が、少くとも扶持離れの後には一方では陰陽師となり、一方ではヒジリとなって生活したことを示したものと言わねばならぬ。
 木辻西阪は今も奈良市に木辻の名があって、『寺社雑事記』長禄二年五月二十一日条に、五ヶ所の内貴通寺の法師原とあるのがこれである。その末路は明らかでない。しかし今もこの地は有名な遊女町で、『坊目考』に、

慶長年間民家二三宇を造り茶店とす。潜に夜発の族を置く。而後在家軒を列ね、竟に遊里傾城町と成云云

 とあるのによれば、その起原がやはり往時の唱門に発したもので、必ずしもそれが慶長に始まったものとも断じがたかろう。唱門師の婦女が往々売女であったことはあえて珍らしからぬことで、正徳三年の長州藩の触書にも、遊女を穢多の種類とある(『郷土研究』二巻二号)。
 なおこの西阪の名義について考うべきことは、今の奈良市西坂町の旧エタ部落との関係である。この西阪は『坊目考』には「穢多町(屠者の住居)」とみえ、「先年屠者住居の村巷、町屋に続かずして野中にありしを、中世南都繁昌するの時、竟に穢郷に連続す」とのみあって、その起原を書いてないが、同地の状態は「坂」と称すべき地勢ではない。あるいはこの木辻の西坂の唱門師が移ったがために、故地の名称を伝えたのではなかろうか。同部落の伝えには、彼らの祖先はもと笹鉾町にいたのであったが、奈良奉行の募に応じて斬罪役を引き受けたがために、近隣の者より故障を受け、佐保に家を給してそこに移らしめられ、後さらに今の地に移ったのだという。しかしこれは同部落の年寄中島四郎兵衛の祖先のことで、その配下の屠者はもと木辻の西坂から来たと解すべきものであろう。あるいは西坂の唱門が先にこの地に移住してその地名を伝え、斬罪役中島その類をもって後にここに移ったと解すべきものでもあろう。エタと非人との関係は、前号所載「エタと皮太」に詳説した如く、もとあえて区別のあったものではない。ただその屠殺業に従事したものが、身に穢れありとの迷信から「穢多」というありがたからぬ名を占有せしめられるに至ったもので、もとは浄人きよめ・川原者並びに唱門師の徒をも、エタと呼んだものであった。近江の大原や山城の梅津の唱門師が、エタの類だと言われたのもこの名残りである。
 さらに思うに、この西坂町は、東の方ただちに今辻子町・百万が辻子に続き、今の開化天皇陵の下に接している。今辻子には『坊目考』に府坂寄人ふさかよりうどの子孫の移り住んだ所だといい、その府坂寄人なるものは、同書にある人の説を引いて、

府坂寄人等其先祖者興福寺奴婢之寺侍、(今謂仕丁)而住于府坂郷(寄人者寄‐集于於高坊者字也、今俗謂役人、曰年寄中、亦謂集会、曰寄合、如斯云云)寄人等往年春日興福神事法事等勤‐仕之。其服着白衣。於是時人名白衣神人而已。

 と言って、後までも筋の違ったものだと言われている。はたしてしからば、これまた一種の神人寺賤の徒で、いわゆる唱門師の類とみるべきものらしい。また百万が辻子は、往昔春日社の巫女百万の居所だと伝えていることによれば、これまた類を同じゅうするものの居所であって、木辻西坂の唱門師が、後から類をもってここに移住し、屠者を業としたがためにエタとして区別せられるに至ったものかもしれぬ。
 なおさらに西坂の年寄中島氏のもといたという笹鉾町の由来を考うるに、『坊目考』に、「先年東大寺奴婢の所在なり」とあって、はるかに遠い時代にその起原を有するらしくも思われる。興福寺旧北門外半田郷ももと東大寺奴婢の居地だとある。また興福寺の北門を悲田門といい、その前四町は悲田院すなわち病苦孤独の所在であると『山階寺流記』に見えている(『坊目考』引)。しからば半田町の辺りもまたもとからのサガリ居所で、そしてその南半田町にかつて奈良の牢獄の設けられていたというのも、かれこれ相因縁するところがあるらしい(牢獄は後に北魚屋町に移った)。
 悲田院は京都では非人の合宿所で、その非人らは警察事務や雑役に使役せられ、かねて遊芸雑職を営んだこと、唱門師と同様であった。おそらく奈良においても、この被収容者をいつまでも徒食せしめることはなかったに相違ない。しからばその末流が、また唱門師の徒となったと想像するのはあながち理由のないことではあるまい。この悲田院はいつの頃にか南城戸町に移されて、後にはそこに悲田院という寺のみが残っているが、もとはそれも非人収容所であったことを疑わぬ。そしてその地がただちに東北高御門の唱門師住所なる陰陽町に続き、南は木辻部落の故地に続いているのは、またこの関係を髣髴せしめるものといわねばならぬ。陰陽町たる唱門ヶ辻子の南側にはもと小路があって、この寺院なる悲田院に通じていたという(『坊目考』)のも、その往時の関係を語っているものではあるまいか。なお府坂寄人及び西坂のことは、次号において別に論じてみたい。
 同じく五ヶ所唱門の一つなる瓦堂の名は、今も木辻の南の瓦堂町に遺っている。そしてここに鉾明神社のあるのは、これも五ヶ所唱門の一つたる鉾大明神部落のあった場所であろう。この地には後世唱門師の居たことを示すべき資料を有せぬが、元禄宝永年間この瓦堂の地に、付近の京終きょうはて・綿町などとともに、登大路北側から歌舞伎芝居相撲小屋等を移されたとあってみれば、これもその地が本来不浄とみなされた因縁をたどったものとも解せられるのである。そしてその登大路の故地が、もと興福寺の東御門すなわち奴婢門の付近で、寺賤のおった所であるというのも、またよそごとならず思われる。

4 五箇所唱門の名義と悲田院の関係


 ここにおいて試みにいわゆる唱門師という中にも、特にこの奈良の五ヶ所唱門の名義や起原を推測してみたい。その中尾というもののみは今その所在を知るをえぬが、その他の瓦堂・鉾大明神・高御門・木辻西坂の四者は、いずれも旧奈良市街の南方町はずれにあって、旧悲田院の付近に群集しているのであった。その地はもとの元興寺の境内の西南隅から、その境外にわたっておったものである。元興寺は当初興福寺と南北相対して、四町四方、京内十六町の地域を占めておった。それが今の如くわずかに一町にも足らなくなったのは、いつの頃よりのことか不明であるが、興福寺北門外の悲田院がその西南に移されたのも、いずれ元興寺衰頽の後のことと察せられる。『八重桜』には、悲田院はもと元興寺中の一院で、光明皇后開基だとあるが、もとより採るに足らぬ。その所在も元興寺境外である。悲田院がここに移ってからも、社会の落伍者が続々収容せられ、遊行の俗法師、その他浮浪民の徒が尻を据えたのも多かったに相違ない。そしてこれらの被収容者は、あたかも京都の悲田院の被収容者がとったと同じような経路をとって、雑役に使用せられ、雑芸雑職に従事したことであろう。しかもそれが奈良においては寺院の経営で、今も悲田院という寺院が遺っているほどでもあり、時代がまた社会の落伍者の姿を俗法師に隠すに都合のよい頃であったので、その被収容者が自然仏門に入って、いわゆる声聞の仲間になったと考えられないこともない。悲田院がもと興福寺の所属で、その他の唱門がまた興福寺に属しているにも縁がある。
 あるいはその名義の五箇が、五つの部落という意味ではなくして、他の地方にもその例の多い空閑こかの義であるとみてもまた通ずる。元興寺が衰頽して、その広い境内が空閑の地になっていたところに浮浪民が住み着いたり、厄介者を移らせたりして、ここに唱門師部落ができたとも考えられるのである。そしてそれが悲田院の被収容者と相関係して、いっそう事情が明白にせられる感がある。もともと悲田院が興福寺北門外から、この南隅場末の地に移ったのも、いわゆる空閑こかの地を利用したものであろう。
 あるいは瓦堂・西坂・中尾・高御門・鉾大明神の五箇部落を数え上げて、これを五箇所の唱門といったと解するのにも理由はある。『雑事記』には五ヶ所の中尾と西坂とを除いて、瓦堂・高御門・鉾大明神の三ヶ所とも数えている。しかしその実これらはいずれも接続した地で、必ずしもこれを五箇所として、別個の場所に数うる必要がなく、ことに瓦堂と鉾大明神との如きは、まったく一所にあるといってもよいくらいであるから、この解釈はやや窮屈の感があるのを免れない。あるいはこれを五箇ということから、しいて五つの部落に数えあげて、五箇という名称に当てはめたのであるかもしれない。ただし、少くとも五ヶ所・十座と対称する場合の五ヶ所は、数字の五の意味に解せられていたのであろう。座とは組のことで、十座とは唱門の座十箇ということに解せられるのである。
 中尾の名は後世に伝わっていない。しかし今も木辻の東南に中辻町というのがあって、そこにろうの坂という名があったのは耳よりな話である。中辻あるいは中尾の辻子ずしの転訛ではあるまいか。しからばこれも前四者と同じ範囲のものといってもよい。『坊目考』に籠の坂の語を解して、

京終郷俚諺に云所の春日奴婢刀禰[#「刀禰」の左に「とね」のルビ]と称するもの、往年七人有て、奈良七郷を常に沙汰せしむと云云。若し京終郷の獄屋乎。

 といっているのは、よしや確かなことではないとしても、それが唱門師とのある関係を示しているのではなかろうかと推測するのは、あながち無稽の臆測とも言われまい。あるいはその北方なる納院町を、かつて八屋辻子はちやずしといったのも、またこの地の唱門師に縁がありげに思われる。ハチヤの名は山陰道筋に多く行われて、山陽道筋の茶筅に相対した類似のものだが、大和においてもかつて一種の警吏や、隠坊のたぐいをハチヤと呼んでいたことから考えると、そしてそれがいわゆる唱門師の徒であったことに思い合わせると、この八屋辻子の名も軽々には看過することができない。
(『民族と歴史』第三巻第七号〈俗法師考の三〉=一九二〇年六月)

5 川上の唱門師、唱門と夙及び猿楽との関係


 川上の唱門師は『雑事記』に五ヶ所・川上・十座と連称して、別に一部落をなしていたものらしい。川上町の名は今も奈良市の北部、奈良坂の南に存し、北御門・出屋敷・東の坂など、またみな古えの川上郷の中である。ここに一種の賤者の居たのは由来すこぶる久しいもので、すでに鎌倉時代末元亨四年の『東大寺文書』年預所下文に(この文書は文学士中村直勝君より示されたる写しによる)、

年預所下 黒田庄沙汰人百姓等所
早任下知旨、令存知、諸国諸庄宿々非人等不入‐立庄内、永可停‐止乞場子細事。
右子細者去月之比、河上之横行与北山之非人闘乱事、兼日有其沙汰。両方可静謐之由、重々被炳誡之上、彼河上横行之住所者、為東南院家御領之間、タトヒ合戦闘乱、不城※[#「土へん+郭」、U+588E、174-2]、可引‐退家内之由、依仰下横行等御下知旨、令退‐出住宅之処、北山非人等不寺門之制法、匪啻招‐致故戦之咎、乱‐横行退散之次、数宇之住宅悉焼‐払之条、狼藉之至、先代未聞之珍事也。仍寺家一同有其沙汰。至非人之党類者、永不入‐立庄之由、其沙汰一揆畢。其間於当寺領之諸国諸庄者、可停‐止乞場之由、衆議事切了。庄家存此旨、任下知旨、可其沙汰之状、依衆議下知如件。
元亨四年八月 日
五師大法師

 とみえている。ここに河上の横行とは、おそらく後の川上唱門師の祖先と解せられる。横行の何者なるやはいまだこれを明らかにするの材料を有せぬが、唱門支配の七道の者の中に、猿楽などとともに「アルキ横行」というのがある(『雑事記』寛正四年十一月二十三日条。後に引く)。この横行おそらく同物であろう。名義は大江匡房の『傀儡子記』に、「不一畝田、不一枝葉、故不県官、皆非土民、自限浪人、上不王公、傍不牧宰、以課役一生之楽。」とあるように、なんら拘束せらるるところなく好きに天下を横行していたことから得た名ではあるまいか。そしてその横行の傀儡子のある者が川上の地に住みついて、河上の横行として知られ、その末が川上の唱門となったのではあるまいか。もとより元亨当時の川上の横行のすべてが、応仁・文明当時の川上の唱門になったのではあるまい。『雑事記』にみえる唱門は、興福寺・東大寺等に属して警察事務にもたずさわったものの称で、もと同じ流れを汲んだものでも、いわゆる七道の者たる猿楽・巫・金打・猿飼・横行などの徒となって、もとの同類たる唱門の進退の下にいたものも多かったに相違ない。この川上の地方には、後世にしゅくとエタが住んでおった。もちろん元亨当時にも、川上の横行と並んで北山の非人なるものがいて、双方烈しく闘争したものであってみれば、この頃からしてすでに別派と認められたものがここにいたには相違ない。北山はいわゆる北山十八間戸の癩者の住地にその名が存し、『坊目考』に、「当郷(川上)と今在家と人家を隔る事一町半許。此間坂あり、般若坂是なり。北山十八間戸(癩者)及東坂(屠者)等あり」とみえているところである。これらの地方は東大寺の北門外で、古くその所領に属しておった。応仁・文明頃の川上の唱門も、おそらく同寺使役の人夫であったのであろう。北山から山城へ越える坂を奈良坂という。古えの奈良坂は平城京ならのみやこから北へ越える所で、今の歌姫越に当たり、今の奈良坂は古えの般若寺越で、『源平盛衰記』などの記するところでは、なおその通りになっているが、平城京廃して東大寺・興福寺・春日神社などの付近地方が奈良の名を占有するようになったので、いつしか般若寺越に奈良坂の名が移った。『平城坊目考』や吉田博士の『地名辞書』などには、この区別を混同して、今の奈良坂を古えの奈良坂の如くに解し、『延喜式』内奈良豆比古神社を今の奈良坂の春日社に当てているが、これはもちろん従いがたい説である。しかし般若寺坂を奈良坂と言い出したのもおそらく鎌倉時代以来のことで、仁治・寛元の頃に東大寺領奈良坂の非人と、京都清水坂の非人とが闘争に及んだことがあった。この奈良坂の非人とは、前記の河上の横行か、北山の非人か、はた後の川上の唱門と呼ばれたものといかなる連絡があるか、今これを明らかにしがたいが、奈良坂非人の記事のある左記『古事類苑』に引く『佐藤氏所蔵文書』というものは、前引元亨の『東大寺文書』とともに、非人研究上はなはだ有益なる史料であるから、煩を厭わずまずここにこれを紹介しておく(二巻四号一八頁に一部を引用してあるもの)。

本寺奈良坂非人陳申
 清水坂非人等条々虚誕子細状
一、彼状云、相‐当坂小法師原、打‐入当坂、令殺‐害長吏畢云云。
陳申云、不子細申状也。彼坂所住之非人等、吉野法師・伊賀・越前・淡路法師等、無指過、為長吏法師追却之刻、奈良坂宿来歎申之間、マヽ磨法師者為彼長吏法師奉功無双者也。仍被追却之輩安堵、相具令上洛之処、苛法相 之間、慮外打取畢。即其奉功申候者、彼長吏法師同宿之阿弥陀法師追出之時、頻相‐語幡磨法師、依大望、故二条僧正御房寺務御時、令言‐上子細、如云令還著畢。而彼既忘此重恩、及闘戦畢。更造意之至、非幡磨法師之不一レ恩候者歟。
一、同状云、淡路法師者幡磨法師之姉聟也、乃至幡磨与力宿意云云。
陳申云、妹聟也。有若亡申状歟、都彼坂当長吏法師任貪欲之心、召‐宿之非人、下‐遣於当国中真土宿、欲押‐領彼宿之刻、彼宿長吏真土宿之長吏近江法師兄弟二人之処、弟法仏法師申云、不本寺云云。因茲去仁治二年七月九日、忽殺‐害法仏並妻子合四人仕畢。凡巧非理之妨、剰守道理、法仏法師等殺害仕条、古今未曾有悪行也。罪過之甚、何事如之哉。所詮御治罰遅引故、令勝如此。構‐申無実也。狼藉之至、尤可有御禁罰候也。然者先男女四人張殺之体搦召、清水坂真土宿両長吏法師、為向後尤可御罪科者歟。
一、同状云、寺家麓東西南北於聖跡堂舎塔廟等云云。
陳申云、須彼寺之無道、結‐構四人殺害之時、任普通之儀、或差‐小法師原、速可追出候之処、依上御沙汰、成恐怖、于今不治罰候。何今及寺家堂塔之焼失哉。不言申状也。凡一々雖陳‐申彼状之趣、頗以似物狂。依之所詮所言上候也。
当国七宿者為本寺奈良坂之末宿、既年序久積、而今乍為非人之身、好猛悪謀反之条、不当之間、淡路法師自然糺‐申如此之理非之故、今敵淡路法師、忿怒之余、恣如此任口臆申‐付無実者也。即去仁治元年三月二十一日、相‐語悪徒等、淡路法師損害仕之条、四隣之諸人、皆以所見知仕也。以一察万、以之且可御景迹候也。彼等申状返為宿也、者、早任道理、且依四人殺害之罪、且依宿押妨之過、召‐取彼等、欲当宿。有御納受者弥奉賢政之貴。仍披陳如右。
寛元二年三月 日

 右の文書は清水坂非人から奈良坂非人の不法を訴えたのに対して、奈良坂非人がそのしかるべからざる所以を陳じたもので、実状はいわゆる原被両造の申状を合わせみねばわからぬが、ともかく東大寺領の奈良坂非人というものが、仁治・寛元の際からここにあったことは明らかである。そしてその中から警吏ともいうべき唱門も出れば、その唱門の進退の下にいた、いわゆる七道の者も出たのであろう。そしてかの元亨の河上の横行や北山の非人というものも、いずれこの奈良坂非人となんらかの関係を有するものと察せられるのである。
 後世にいわゆる奈良坂の夙とこれら非人との関係如何いかんも注意すべき問題である。七道の者は唱門の進退にまかせられたが、夙はこれに関係することができなかった。『雑事記』寛正四年十一月二十三日条に、

十座五ヶ所法師原参ス。昨日自衆中集会、召北宿者、被申付。厳密之間宿ニ召取置金タヽキ、自衆中召返了。一且目出候。七道者共ハ悉以十座・五ヶ所へ進退由披故也。宿者更以不[#「糸+寄」、178-9]イロヒ故也。
七道者
猿楽 アルキ白拍子 アルキ御子 金タヽキ 本タヽキ アルキ横行 猿飼

 とある。ここに北宿者とは北山の夙のことであろう。彼らもやはり唱門などとともに夫役などを要する際には召し出された。同書文明十一年九月十七日条に、

元興寺南大門  之切了。奈良中人夫召‐出之。就三党者共ニ仰‐付之。十座・五ヶ所罷出了。此内五ヶ所・西坂・鳩垣内分ハ内々仰‐請之。近日召仕故也。宿者等罷出云云。

 とある。これらの宿(夙)の者も多くはかつて広く声聞師と呼ばれた同情すべき落伍者の末で、その北山夙は、元亨の文書に北山非人・河上横行とあるものと関係を有するらしく解せられ、いずれ寛元の奈良坂非人の中に属したものであろう。しかも応仁・文明頃においては、いわゆる川上の唱門との間に明らかに区別が認められていたのである。
 ここにおいてさらに考うべきは、奈良坂非人とこの地の癩病患者と、宿(夙)及び猿楽の起原とに関する伝説である。奈良坂春日社の縁起(『坊目考』による)によるに、夙の者の祖弓削浄人ゆげのきよひとが、散楽さるがく俳優をなして春日神に父の白癩平癒を祈った。これが「申楽翁三番叟さるがくおきなさんばそう」の起原であるといっている。これをしゅくというのは、毎日つとに起きて市中に来たり、四季の花や果実やを売って歩いたので、市人がこれを弓削の夙人はやびとといった。これが今の夙人しゅくびとの始祖だとあるのである。夙人の元祖を弓削浄人とは考えたもので、彼は癩を煩った父春日王のこの奈良坂の隠室に来て、弓箭を削るを業としたとある。けだし弓削の姓をこれにかせたものであろう。京都祇園の犬神人いぬじにん絃指つるさしを職として、「つるめそ」の名を得たのと南北相対して面白い。また浄人きよびととはすなわちキヨメで、掃除人の称である。キヨメは『塵袋』にエタとある。その浄人と弓削とを取り合わせ、それを夙の祖として、癩非人と猿楽との関係を結び付けたところは巧みと言わねばならぬ。彼らの起原がそれぞれに別であるとしても、いずれその間になんらかの脈が通っていたのであろう。
 猿楽と夙との関係は、後までもその徒が七道の者の一つとして、唱門進退の下に置かれていたのみならず、観世世阿弥の『花伝書』の奥に、申楽三座の一つたる法成寺座を「しゅく」と読ませてあるのからでも想像せられる(二巻二号三二頁)。申楽の徒の大切に尊崇する宿神は春日の神で、三番叟の翁はすなわちこれをあらわしたものである。このことはすでに『幻雲文集』にもみえて、観世大夫元広が工人に命じてこれを図せしめ越の一若大夫吉家に伝え、幻雲ために宿神像の賛を作って与えたのである。さる大正六年に自分は日向に遊んで佐土原在のビューと俗称する俳優村を訪問したことがあった。この村、もとは万歳・春駒などに出ておった部落の由であるが、自分はここで「翁様」と称して保管されている張抜きの面を拝見に及んだ。すなわち三番叟の翁の面で、いわゆる宿神である。春日神がすでに室町時代において宿神の名をもって猿楽の徒に祭られ、それがこの奈良坂の春日社に因縁づけられていることは、軽々に看過しがたい材料であると言わねばならぬ。
 夙の者が都邑の警固に任じ、捕吏を職とし、雑役に任じたことは、片桐且元の兵庫の夙に関する文書(三巻四号五二頁「鹿鳴随筆」所収)以下、その証拠がすこぶる多い。彼らのある者はまた種々の遊芸にも従事した。これらの定めにおいて彼らは鉢屋や茶筅やエタと同じく、ともに唱門の亜流であることは明らかである。かの祇園の犬神人が唱門師であって、時にはまた夙と呼ばれているのもこれを裏書きすべきものであろう。しかしながら応仁文明の頃においては、少くとも興福寺薪の能や宇治の猿楽の座などは、確かに当時の唱門と区別されていた。けだしその以前に専門の立場を得て、もとの仲間から袂を分かったものらしく、かつては同じく唱門師の徒なる田楽法師から変形したものと認められるのである。猿楽の徒はもはや法師姿ではなかった。しかもなお時に猿楽法師と呼ばれたのは、往時の名残りを留めたものであろう。なお猿楽や夙のことは、他日稿を改めて論述したい。近世の大和に多い夙の部落の起原は、もちろんこれを遠く陵墓の守戸に求むべきものも多かろうが、その実際においては、類をもって名称を他に及ぼしたもので、『雑事記』にいわゆる「当国中数十箇所の唱門」の末であろうかと思われる。少くともかつては声聞師たる仏弟子の仲間であったであろうと思われるのである。そしてそれがいわゆる川上の唱門によって、因縁をたどることができそうに思われるのである。

 前号所載「五箇所唱門」中の中尾部落の所在不明と書いておいたが、唱門辻子なる陰陽町に中尾氏なる陰陽師が[#「陰陽師が」は底本では「陰陰師が」]あって、もと吉備公の後裔で、吉備塚の辺りに住み、地名から中尾と称したと伝えられていると、森口奈良吉君から注意された。森口君は陰陽師と唱門との関係について異議を申されたがそれについては改めて弁明したい。
(『民族と歴史』第四巻第一号〈俗法師考の四〉=一九二〇年七月)

6 芝辻の唱門と、その後裔、十座唱門のこと


『大乗院寺社雑事記』にしばしばその名の見える芝辻の唱門は、今も奈良市の西北隅に、その地名がそのままに存していて、明らかに往時の所在を示している。位置は五箇所の唱門が奈良の南の町はずれにあり、川上の唱門が北の町はずれにあるのに対して、これは西北の町はずれに占拠していたのである。その芝辻とは実は芝辻子しばずしなまりで、ここに唱門屋敷のあったことは、『雑事記』文明十一年八月七日条に、

芝辻子唱門屋敷事、同巨細申‐入之相憑旨仰了。

 とあるのによって知られる。芝辻子の名は、けだしもと空閑こかの芝地を開いて辻子ずし(小路)となし、唱門屋敷を設けたので得た名であろう。そしてその後裔は後の時代までもその芝辻の場所に存して、普通の声聞師がとったと同じ職業に従事していた。『平城坊目考』奥芝辻町の条下に、

按に当郷往年東芝辻の領内なり。今別郷となる。
中世以往農工商の住所にあらず梓神子猿引傀儡師非人頭等住し今南都の僻地なり

 とあって、その唱門師としての伝来きわめて明白である。けだし彼らは興福寺所属の時代から、一方には警固・掃除・人足などの職に従事しつつ、一方には普通の声聞師と同じく、これら雑多の職業に従事していたのであろう。あるいはこの地の唱門中、ある特定のもののみが興福寺の使役に任じ、その他のもの、あるいはその家族等は、当時すでにこれらの職を執っていたものかと思われる。よしやしからずとするも、彼らが興福寺から扶持離れして後は、世間普通の彼らの党類がいたと同じ道を行いて、かかる雑芸雑職に生計を求めたことは疑いを容れぬ。なお奈良古老の談によれば、維新前までもこの芝辻には、芝辻同心とて奈良奉行に直属するものが三十人あって、今士族に編入せられているという。この芝辻同心と、興福寺所属の警吏たる唱門との関係はいまだこれを知るの機会を得ぬが、ともかく徳川時代における芝辻の状態は、往時の芝辻唱門師の職業と、その末路とを的確に語っているものと言わねばならぬ。他の地方においても、陰陽師・雑遊芸人、あるいは女巫の徒が唱門師と呼ばれ、あるいは種々の名称をもって呼ばれていることはあえて珍らしくはないのである。
 この芝辻の唱門は、おそらく興福寺所属の十座唱門なるものか、少くともいわゆる十座唱門の中の主なるものであったであろうと察せられる。奈良に唱門部落の少からざりしことは、既引の『雑事記』文明十年六月五日条(三巻七号二―三頁)にみえる通りで、その中にも前項の川上唱門が東大寺に属していたのに対して、十座五箇所はともに興福寺に属し、そしてその中の十座を北里あるいは北郷と称し、五箇所を南里あるいは南郷と称したことから考えると、南端なる高御門・西坂・瓦堂などの唱門が五箇所と呼ばれたに対して、この西北端なる芝辻(もしくは芝辻子)が、いわゆる北里なる十座唱門に当たるものであろうと解することは、必ずしも無理な推測ではあるまい。同書文明十一年十月朔日条に、

北方芝辻子事、加修理路次了。事外物※(「蚣のつくり/心」、第3水準1-84-41)共在之。

 とあるのも、この芝辻子が北方すなわち十座唱門であることを示した文といってよい。ことに同三年八月五日条に、

福寺勧進久世舞在之。昨日ヨリ始之。久世舞座ト号者五人、今度追加マデ六人在之。此衆共一向不罷山者也。五ヶ所十座之満座、悉以令出仕。他国之久世舞ト座列ス。五人与※(「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90)相論子細在之故也。先度為トシテ門跡、雖於五人衆中、掠申入給之故、五ヶ所芝辻※(「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90)衆子細ヲ嘆申入之間、且申状尤歟。無糺明。所詮任有限旨、如先規トシテ※(「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90)沙汰旨、加下知了。然上者先日書下ハ一向掠申入之間、不立用之由各加下知了。此御下知以後、彼五人衆共、於子守社勧進沙汰之由支度之処、為※(「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90)押留畢。五人衆等不是非、今度ハ又為※(「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90)、於福寺立之。剰五人衆共、不此列者也。旁以五人衆掠子細在之哉。
抑今日、炭釜息僧般若寺文殊院、坂上息源松房参申、為五人衆方子‐細‐嘆‐申‐入、此題目成下様。如上件門跡者不取‐上沙汰。可申所存子細在之者、南郷北郷之声聞下知哉之由仰了。只今申状福寺之舞押留存歟。誠於于今者、五人衆失面目者也。舞手号若太夫畢。

 とあるのを見れば、いわゆる五ヶ所十座の唱門と言われたものが、ただちに五ヶ所芝辻のそれであり、また同時にそれが南郷北郷の声聞であることが知られて、もって前の推測を裏書きするものというべきである。大体七道の者の進退は、ことごとく十座・五ヶ所に委任せられている。そして久世舞またいわゆる七道のものの一つたる白拍子の徒であるので、したがって彼ら唱門がこの福寺の勧進久世舞をも監督したのであるが、その監督者が五ヶ所・芝辻の※(「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90)衆だとあってみれば、当然十座唱門がすなわち芝辻の唱門だとならねばならぬことと解すべきものであろう。
 十座唱門は興福寺所属の唱門の中でも、特に大和の国中数十箇所の唱門の座頭として、国中の下知ことごとくこの十座をもって触れしめることとなっていたのである(二巻七号三頁)。されば、十座・五ヶ所が七道の者を進退するといっても、実際の場合には主として十座の者がこれに当たっていたようである。文明十年八月十一日宇治猿楽成敗の際にも、十一年八月十日以後の同じ問題についても、いつも事実上十座唱門のみがこれに関係しているのである。
 これを十座といったことは、彼らが十個の座すなわち組合に分かれていたがためであろう。それがいかなる座であったかはもとよりこれを知ることができぬ。またその十個の座が芝辻にのみあったか否かもこれを明らかにすることができぬ。しかしながら、一座とは必ずしも一部落全体の称呼とは限らぬ。今も日向佐土原在のビューと称する傀儡師部落の如きは、わずか二十戸ばかりの中から二箇の歌舞伎芝居の座ができて、各地を興行して巡っている。またほとんど同一部落と言ってもよいほどの場所に住する奈良南里の唱門が、高御門・瓦堂・鉾大明神・中尾・西坂と分かれて、合わせて五箇所唱門と呼ばれていたが如きも、もって参考となすにたろう。あるいは北里なるこの芝辻の唱門が、当時すでに徳川時代においてみるが如く、猿引・梓神子・傀儡師など、その他十箇の座に分かれていたので、これで十座唱門の名を得たのであったのかもしれぬ。

7 中尾及び鳩垣内の唱門(補遺)


 三巻七号(一〇頁)所載「五箇所唱門」のうち、中尾のみはその所在が不明であるが如く書いておいたが、その後奈良女子高師付属実科女学校長の森口奈良吉君から、有益なる注意を与えられて、ややその見当をつけることができたから、前に書き漏らした鳩垣内唱門のこととともに、ここに補遺の一章を設けることにする。
 鳩垣内唱門の名はまたしばしば『雑事記』にみえている。中にも文明十一年十一月六日条に、

五ヶ所唱門鳩垣内西坂等事、古市下代官徳丸去出申者也。珍重之由仰之了。五ヶ所事※(「てへん+總のつくり」、第3水準1-84-90)而他方ニハ召仕事也。先年筒井律師存開一切不召出条、無其隠事也。今度古市先日存開之処、下代官于今不相触之間、厳密仰付故也。御使春阿之也。

 又同年九月十七日条にも、

元興寺南大門  之切了。奈良中人夫召‐出之。就中三党者共仰‐付之。十座・五ヶ所罷出了。此内五ヶ所西坂・鳩垣内、内々仰‐請之。近日召仕故也。宿者等罷出云云。

 とあるのをみれば、鳩垣内は西坂と同じく、いわゆる五箇所唱門の中のものらしく解せられる。しかるに五ヶ所は高御門・西坂・瓦堂・鉾大明神・中尾の五つだとの明文があって、中にも鉾大明神以上のものは今もその位置が分明であってみれば、遺すところの中尾がすなわち鳩垣内と同一か、少くとも鳩垣内が中尾の中のものらしく想像せられるのである。さらに同書明応三年六月十二日条に、

鳩垣内、唱聞与専当有舜喧嘩事出来。有舜蒙疵了。此外九内堂前次郎男手負了。鳩垣内九内堂前次郎方、如例御童子・力者・両定使、合五人分付之了。有舜九納堂前之。定使等少々付之。但於中綱者侍分之間、如地下人之歟。云々。近来又如此事無之者、知院事等差遣之条勿論也。

 とあるのをみると、鳩垣内はすなわち九内堂くないどうの辺りの地名と解せられる。九内堂あるいは九納堂くのうどうとあって、今の奈良市公納堂町にその名が遺っている。場所はもと他の四つの唱門部落と同じく元興寺の境内で、大乗院(元興寺廃して後ここにうつる)の所在にはなはだしく接近し、大乗院専属唱門の住所としては、もっとも適当なものである。『坊目考』に、

公納堂町 当所は新元興寺之公納所なり。今興福寺唐院のことし。封戸料米等を納るる所の正倉院なり。
享禄二年七郷紀に当郷不見。未民屋あらざる故なり。天正二年地子帳公納堂町と載す。然るに於ては天文、永禄年間在家となる処分明なり、(中略)今公納堂の遺迹と謂ふもの、北側東の端同町の会所是なり。本尊阿弥陀仏今猶存す。
又当町号所舞楽人の家数多あり。是元興寺の余計なり。

 とある。公納堂が元興寺の正倉院であったとのことは、その「公納」という文字からの推測らしいが、正倉院をはたして公納堂といったか、また『雑事記』には九納(内)堂と書いてあってみれば、それがはたして公納の義であるや否やも疑わしい。しかしその地が鳩垣内という地域の中であったことだけは疑いなく、ここに後までも古い因縁を称する舞楽人の多数にいたということは、いわゆる鳩垣内唱門との関係を髣髴させるものがないでもない。ただしそれがはたして五ヶ所の一つたる中尾であったか否かを確かめることのできぬのは遺憾である。あるいはその位置のきわめて大乗院に接近していたことから考えて、通じては門跡専属の五ヶ所唱門の中においても、その実高御門以下の五箇部落以外のものであったのかもしれぬ。あるいは既引の『雑事記』文治十一年十一月十一日条(三巻七号五頁)に、京終きょうはての八郎次郎を、木辻西坂方という中に数えているのをみれば鳩垣内はやや離れていても、やはり既記のいずれかに属していたのかもしれぬが、もしはたして鳩垣内が中尾であるならば、本篇上(三巻七号一二頁)の記事は、当然訂正せねばならぬが、今のところその確証はない。
 なお中尾のことについては、森口君から左の注意と意見とを寄せられた。

(上略) 五箇所唱門中の中尾につき、左に愚見を陳述仕候。
 陰陽町 『坊目考』に「古老曰当所陰陽町は加茂氏吉備大臣真備公之裔而、古へ吉備塚辺に住す。其後離散して今の地に移ると云。又、享禄年七郷記并天正地子帳等当町を不載。天文年移此者乎可之。」
『大和人物誌』一八一頁「加茂保豊は平安朝の人、奈良の頒暦師中尾・吉川両家の祖なり。加茂氏は吉備真備の裔にして、八世加茂保憲最奥儀を極め、陰陽頭に任ぜられ、天文博士を兼ねしが、天文道は門人安倍晴明に伝へ、暦道は子光栄に伝へたりと云。保豊は光栄の子なり。家学を受けて陰陽生となり、暦法に精し。奈良幸町の巽位に当れる吉備塚の傍に住し其の地中尾と称するを以て氏とす。又其の別家は吉城川の住所の傍を流るゝを以て、吉川と称したりとぞ、両家共に暦を頒行せしが、後家を焼失して今の陰陽町に移り、永く其の業を継ぎたりと云ふ。」
 小生の愚考によれば、中尾氏は前記の如く昔より頒暦を家業とせしものにて、中尾と改姓せしは、吉備塚の傍らの地名にあらずして、唱門辻子なる中尾すなわち陰陽町に移住せし時、その地名に基づきしものにて、現今なお中尾姓を名乗れり。陰陽町は頒暦者移住後の名称たること、天正年間の地子帳に見当らざるによりて知るべく、吉備塚の傍らの地名を中尾とせるは右の誤まりなり。現在も中尾・吉川家は同町に住し、中尾氏の宅には元禄以前の暦を所有せり。明治以前の暦に中尾氏の出版せるもの今なお多く存し、現に板木を多数保存せり。されば御考証の五箇所唱門の瓦堂・鉾大明神・高御門・西坂(木辻)及び中尾(陰陽町)は相接続して意義明瞭となるべく、したがって六頁(三巻七号)の唱門すなわち陰陽師との臆断は、次号にぜひ御訂正を請わざるべからず。陰陽師は平安時代より引続きて相当の地位を有し、一方は唱門師のことなり。中尾氏等の為冤をすすぐ次第に候う云々。
 陰陽町の中尾町たりし確証は、今のところこれなく候えども、中央の旧家たる中尾の吉備塚より移りて、地名により中尾と称せしものなりとの推断に御座候う。云々。

 中尾唱門の所在不明の際に当たって、唱門が辻子たるこの陰陽町に、陰陽師たる中尾氏ありとの報告は、まことに有益なる御注意として感謝する次第である。
 森口君が中尾を陰陽町の旧名だと推定されたことについて、確証を提供せられぬのは遺憾である。『大和人物誌』が中尾を吉備塚の傍らの地名だとしたのははたして何によったものか、今これを明らかにしがたいが、おそらく中尾氏の家伝かとも思われて、自分は一概に森口君の如く、これを捨て去るに忍びぬ。そしてそれとともに自分は、陰陽町がもと中尾といったとの森口君の御説に同意するにも躊躇せざるをえぬが、陰陽町をもと里俗唱門が辻子と呼び、そして五箇所唱門の一つに中尾の名があり、ことにその地に陰陽師の旧家たる中尾氏があってみれば、陰陽町すなわち中尾唱門の所在と解するにも一往の道理はあるといわねばならぬ。吉備塚は遠く東の方に離れている。したがって五箇唱門の四つまでがほとんど同一場所ともいうべきほどの近い地点に集まっていることと考え合わせて、それを中尾と解せんはなるほど穏やかならぬ感がないでもない。陰陽町の陰陽師が賀茂氏を称し、もと吉備塚の傍らにいたということは、すでに『坊目考』にもみえていて、それが吉備大臣の裔だといっているのも古いことらしい。しかし吉備塚の付近にいたものは奈良暦の宗家たる幸徳井家で、それは陰陽町に移ったとはいっておらぬ。幸徳井は賀茂氏で、安倍氏とならんで京都陰陽師の両家と称せられた家である。賀茂氏は勘解由小路家と称し、安倍氏の中御門家と相ならんでおったが、いつの頃かその勘解由小路家は京都を没落して、子孫備中に沈淪したと『新芦面命』にある。しかるに『貞丈雑記』には、その後裔奈良に存し、幸徳井と称する由にみえている。あるいは双方に分かれたのかもしれぬが、室町時代に幸徳井が奈良にあって暦のことに与り、陰陽師として卜筮のことを行っていたのは疑いない。『坊目考』には吉備塚所在の幸町の条に、

古翁云、往昔幸徳井(陰陽博士加茂氏吉備大臣末孫云云)当郷に住す。于今古井有之、即幸徳井と号す。是其旧所の遺址なり。於此幸井町と号すと云云。
吉備塚 当郷の後東の野中に在、是亦其証なり云云。

 とあって、その所在が吉備塚の辺であったとは、古くからのいい伝えらしい。その吉備塚とは、あるいはここの陰陽家なる幸徳井氏が、吉備大臣の後と称することから、付近の塚を、そういい出したものかもしれぬ。吉備大臣の墳墓は備中の郷里にあるはずであるが、しかしなんらかの関係上この地の塚を吉備塚といい出し、その吉備塚の付近にいたから、幸徳井なる賀茂氏を吉備大臣の後だといい出したものかもしれぬ。その本末は不明であるが、吉備大臣の裔と称する幸徳井家が京都から没落して、祖先の由緒を尋ねて吉備大臣の塚の傍らに住んだとは、少しくうがちすぎた説といわねばならぬ。賀茂氏の末が、備中にあるとの『新芦面命』の説も、備中と吉備大臣との関係から言い出した説かもしれぬ。が、ともかく幸徳井氏が奈良にいて暦のことに与っていたのは由来古いことで、すでに『雑事記』にも所々にその記事が散見し(文明二年十二月十八日、同七年十二月二十五日、延徳四年正月二十五日、明応元年十二月二日、同二年十二月二十日等)、延徳三年末条には、その系図までがみえているほどで、当時は代々三位にまで叙せられた立派な家であった。それが後に野田山上に移ったと言われている。『坊目考』に、

野田山上村家数十六軒(内二軒幸徳并家御赦免地)幸徳井(吉備真備末裔加茂氏陰陽博士)伝云、往古住于吉備塚辺也、其後移居于此所云云。

 とある。しからば後に陰陽町に移ったという中尾氏等とは自ずから別の家らしい。
 野田山上にもせよ、また陰陽町にもせよ、ともに移ったという時代は明らかでないが、やはりもとの吉備塚にも陰陽師は存していたとみえて、『坊目考』に、

四箇陰陽師は山上・吉備塚幸町・梨子原(内侍原町)・陰陽町、四箇所乎。

 とある。奈良の陰陽師はみな幸徳井の同流として、その祖と称する吉備大臣にちなみ、吉備塚をもって起原としたものかもしれぬ。幸徳井氏は後までも奈良にいて、少くとも正徳の頃までは陰陽助に任官し、京都塔之壇幸神町に屋敷を有して三十石の知行を貰い、毎年暦献上の御用をつとめていた。その顛末は大経師降谷内匠の書上にみえている(『京都お役所向大概覚書』所収)。その暦本を降谷内匠が板行して、江戸・会津・三島・山田・奈良の五箇所へ下し、五箇所の暦師がさらにそれを板行したとある。しからばいわゆる中尾氏は、陰陽師の内でも暦師として、少くとも徳川時代にあっては、奈良にあって幸徳井の暦板行の株を有していたものらしい。しかしその中尾氏がはたして賀茂氏の後とか、ないしは幸徳井の後とかいうことについては、自分はいまだ詳細を知らぬ。『大和人物誌』に中尾・吉川両家の祖だという賀茂保豊は、一向賀茂氏の系図に見えぬ人である。しからば吉備塚の付近から陰陽町へ移ったということも、幸徳井との関係を明らかにせねば十分了解しがたいところである。いずれ幸徳井・中尾などの陰陽家のことは、唱門師の研究から離れて、奈良暦の顛末とともに十分明らかにしてみたいと思う。ただここには、興福寺五箇所唱門の一つに中尾というのがあって、唱門が辻子なる陰陽町にその中尾を氏とする陰陽師がおり、しかも世間一般にはいわゆる陰陽師をもって声聞師の徒として認められていたという点からして、従来不明としてさし措いた中尾の研究上、一道の光明を与えるものとして森口君の報告に謝意を表するに止めておく。
 ついでながら、森口君の頒暦師中尾氏等は由緒正しい旧家であって、決して唱門の仲間ではないから、その冤をすすぐようにとの注意をかたじけのうしたことについて一言したい。
 徳川時代におけるいわゆる陰陽師(地方によりては博士ともいう。『甲斐国志』を見よ)が、一般に声聞師の仲間として認められていたことは疑いを容れないところである。もとより陰陽寮の陰陽師は声聞師ではない。陰陽家は決して賤しいものではない。後に陰陽家が賀茂・安倍の両家に帰して、その安倍氏は土御門家として永く堂上の栄爵に列し、賀茂氏なる勘解由小路家は退転しても、その流れを汲む幸徳井家は奈良にいて、室町時代なお正従三位の栄位をかたじけのうしていたほどである。しかしながら、徳川時代においては一般に陰陽の道を行く末流のものは、たいてい安倍氏なる土御門家によって允許いんきょを受け、祈祷卜筮などをもって世渡りの方便としていたものであった。否おそらく声聞師の徒が多くこれに流れ込んだのであろう。したがって彼らは普通に他の声聞師仲間と同一に扱われ、『弾左衛門由緒書』なる穢多手下の四十八座中には明らかにこれを数え、本居内遠の『賤者考』にもまたこれを列挙してあるような趣勢になっていたのである。『閑田耕筆』に、

一程の巫祝、祓・祈祷・方角・占卜のことなどを業とせるもの、土御門家支配と標を出せるが洛外などに見ゆるを、京師にては名目を失へり。近江にては之をしよもじといふ。応仁広記に洛北の地名唱門師村あり、是なるべし。山城名勝志には、二水記に聖門師と書れたりと見ゆ。是はたゞ音を借たる計歟。今にも禁裏に役するものに此名目ありとぞ。然るに豊淵陶庵と云ひし八幡の儒医此しよもじの文字を唱文師ならん、巫祝を業とすればと云はれしは其理有。此類も国名をつき、刀を帯ぶるもあり。しかも平民にあらざること犬神人の類なり。此者等近江又は摂津にも、古塚あるあたりに住居せるがあれば、守烟何戸と式に見ゆる其子孫にやと或人は云へり。

 とあって、陰陽師を犬神人または夙の類にみているのである。『郷土研究』(二巻一〇号六一頁)に岡市正人氏が北河内地方の特殊部落として報告されたところによるも、同地方に穢多・夙・正文(唱門)などというのがあって、

正文に至りては普通農民よりも寧ろ優りたる生活をなす者あり。彼等は之を歴代と称へ居れり、土御門家より出したる陰陽師の免状を伝へ、之を薄墨の綸旨と云ひ、系図など所持する者あり。近年士族に編入せられたる者もあり。業務は農を本位とし、商工業をもなせり。婦女子には往々にして美人あり。但普通民が婚嫁を嫌ふことは三部落皆同じ

 とある。陰陽師すなわち唱門と認められていたことはこれによっても知られよう。この類のことは柳田國男君の『郷土研究』(三巻二号「山荘太夫考」、四巻二号「唱門師の話」、其の他)にはなはだ多く引用せられてあるから、願わくはそれについてみていただきたい。されば由緒正しい旧家だと言われる中尾氏などのことはしばらく別物として、一般陰陽師が唱門の徒として、世間から低く認められていたことは到底これを否定することができぬ。そして奈良四箇の陰陽師居所の一つなる陰陽町が、里俗に唱門が辻子と呼ばれたということも、またこれを裏書きするものではあるまいか。かくいえばとて自分は決して、陰陽師そのものを賤しい職だと言うのではない。彼らは外出するにも刀を帯し、しばしば土御門家を笠に着てかなり威張っていたものであることは、さきに親から陰陽を業とする坂兼次郎君からも承って、いつかは例の「坂君談片」中に書き載せたいと思っているところである。ただその末流のものが、労力に対する報酬とはいえ、他から金銭を貰って渡世とすることや、いわゆる俗法師なる声聞師の徒が、この道に入って生活の計となしたものの多かったことから、由緒正しい陰陽師までも一概に賤者の如く言われることになったのかと思われるのである。しかし声聞師と言ったからとて、あえて賤しむべき筋合いのものではない。森口君は中尾氏などの冤をすすがんことを注意されたが、自分の俗法師の研究は、さらに進んで一般声聞師などのために冤をすすがんことを希望しているのである。そして由緒正しいと称せられる中尾氏などのことは、この研究の関わらざるものなることを諒とせられたい。

8 非人三党、大和唱門師の発展


 奈良の唱門師については、また三党という称がしばしば『雑事記』中に繰り返されている。前には(三巻七号四頁)いわゆる三党の何者なるかが不明であると書いておいたが、今にして思うに、けだし五箇所・十座の唱門と、川上唱門とを合わせ称したものらしい。川上唱門のことは前号に詳悉しておいた。彼らは五箇所・十座(芝辻)とともに、奈良三方の町はずれに占居して、もっとも勢力を有したものであった。五箇所・十座がいわゆる三党の中であったことは、上引文明十一年九月十七日条(本号五頁)や、前引(三巻七号四頁)同年十月一日条の『雑事記』に、元興寺南大門堀切工事や、城構の土工事に際して、三党の者どもを召出したという時には、いつも五箇所・十座の者の罷り出でたことのあるによって察せられる。ここに五箇所・十座のみの名を掲げたのは、この二つが興福寺の所属であったためであろう。あるいは九月十七日条の、「宿者等罷出づ」とある宿は、いわゆる北山宿のことで、川上唱門を指したものとも解せられる。北宿の名は同書寛正四年十一月二十三日条にみえている。また文明五年八月十日の天満社神事宇治猿楽の悶着の時には、十座・川上・五ヶ所の唱門どもが召し出されているのである。
 彼らは当時非人と呼ばれた仲間であった。後引『雑事記』文明二年八月五日の条に、「三党」とある肩書にわざわざ「非人」と注してあるのは明らかにこれを証する。しかもその非人なる唱門師らも、いわゆる社会改造の時代のこととて、だんだん勢力を得てきていわゆる寺院の頤使いしにも応じなくなったことは、すでに記した五ヶ所唱門の中にも、高御門と瓦堂と鉾大明神との徒は、文明八年春頃より大乗院の下知に応ぜずとある(文明十一年十一月十一日条)のによって知られるが、さらに上記文明二年八月五日の条の文には、

近日土民・さむらい之皆(階)之時節也。雖非人党之輩、可守護・国司之望、不左右者也。

 とさえ書いてあるのである。当時この三党の仲間からいかなる豪傑が出たかは考うるところがないが、実際彼らが守護国司の野心を起しても、他よりこれを如何いかんともする能わざる時勢であった。したがって当時これらの唱門師にして、その成功したものは、足を洗うて立派な身分になったものも少くなかったに相違なかろうが、今記録のこれを伝うるなきを遺憾とする。
 当時大和に活躍したいわゆる「大和武士」の中には、衆徒国民との区別があった。衆徒は言うまでもなくいわゆる奈良法師の僧兵で、古市や、成身院・筒井の徒はその雄者ともいうべく、中にも筒井の如きは、順慶に至ってついに大和一国を領するの大大名ともなったのである。これに対して国民とは土着の人民で、もと身分の低いものであったが、それもだんだん勢力を得て長者を凌ぎ、ついには、国民の称をそのままに、武士ともなり、城主ともなり、大名とも成り上がったものが多かった。『雑事記』文明七年五月十日条に、

近日可然種姓凡下国民等立身。自国他国如此。是併下極(剋)上之極也。

 と尋尊僧正は憤慨している。文明二年八月国民の一つたる越知家栄が、畠山義就に党して河内に出陣し、畠山政長方と戦争したについても、尋尊はこれを批評して、「於国民輩者過分所存也」とののしっている。しかもその国民はだんだん立身して、しかるべき種姓が凡下に下さるることになったのである。
 これら国民の中にも、ことに勢力を有して活躍したものに万歳箸尾・布施・越智などの名がしばしば繰り返されている。先年贈位の恩典に浴したがために、子孫が所々に現れて悶着している南朝の忠臣開住西阿の如きも、戒重城にいた国民であった。その中においていわゆる万歳氏の如きは、葛下郡北部に占居して、当麻・染野・今在家・鎌田・勝根・大橋・中・野口・市場・池田・大谷・築山・神楽・有井・岡崎・大中などの諸村を領したほどの雄者であったが、しかもその本は名の万歳が示す如く、おそらくは千秋万歳法師の徒で、やはり声聞師の仲間であったと解せられるのである。否、かつて彼らは万歳法師の徒であったのみならず、後までもここからは有名なる大和万歳の旅稼ぎが出ていたそうである。大和万歳はまた箸尾からも出る。大将分なる箸尾為国・為政・高春等の家筋と、この旅稼ぎの万歳法師らとの関係はいまだこれをつまびらかにせぬが、常時その配下に属して各地に転戦した勇士の中には、この箸尾万歳の徒の祖先も必ず参加していたに相違ない。
 応仁・文明の頃においては、いわゆる国民たる武士と唱門との間には、確かに区別があった。しかしその国民の中にも、かつては同じ流れに出でたものも少くなかったことは疑いを容れぬ。そして世態の変遷は、彼らをして武士たり、城主たり大名たらしめた。現に唱門として指斥せられた三党の輩といえども、守護国司の望みをなしうべき時代を経過したのである。

9 結論


 大和の唱門師に関しては、以上述べた以上に今の自分には多くの資料を持っておらぬ。しかしながらいわゆる「全国数十箇所」の唱門なども、また興福寺における五箇所・十座のそれの如く、諸寺院あるいは豪族などに属していたものが多かったのではあるまいか。現に前引『雑事記』には、「奈良中唱門事は、七郷、或一乗院領、東大寺領以下、在々所々之」とある。もって他を類推することができよう。もちろんそのことごとくがそうでないとしても、他の諸大寺はもとより、諸国の戦国時代の古城址付近にエタ部落の存在する例が多いように、一城を構えるほどの豪族の配下には、この種の賤役に従事するものが存在したであろうとのことは、いわゆる七郷所属の唱門のあったことからも察せられるのである。しからば右の五ヶ所・十座を始めとして、大和各所の数十箇所の唱門部落の末路はどうなったであろうか。言うまでもなく彼らの子孫は必ずしも後の陰陽町や芝辻町などにのみ蟄居して、陰陽師・神子・雑遊芸等に世を渡った類のみではなく、よしや彼らが守護国司の野心を遂げえなかったとしても、社会にしかるべき地位を獲得したものの少くなかったことは容易に想像しうべきところである。しかもその落伍者は、かのヒジリ・梓神子・猿引・傀儡師・目明し・番太・鉢屋などとして、ありがたからぬ家筋を子孫に遺したものも少くなかったであろう。そしてその屠殺業に従事したものは、いわゆるエタの徒となったのもあったであろう。『雑事記』文明十一年五月五日の条に見える山村知行芝屋の唱門は、おそらくは後世の柴屋の夙となったものと解せられる。大和各所の夙部落の中には、この類のものがけだし多かろうと思われる。否、各地の夙部落は、『雑事記』の当時には唱門の名の下に概括せられていたのであったかもしれぬ。しかも後には唱門の名はまったく失われて、わずかにサガリの徒を呼んでエタ・シュク・ショウモンの語があるにすぎぬこととなってしまった。しかしながら当時の唱門の子孫が、必ずしもことごとく後のいわゆるサガリの徒でないのと同じように、後のいわゆるサガリの徒は、また新たに他の社会の落伍者を少からず収容したもので、必ずしもことごとく当時の唱門の子孫でないことは言うまでもない。なお、エタのことについては、さきに「特殊部落研究号」に述べた以外、さらにその後の研究によって、大いに増補してみたいと思っている。夙・鉢屋・陰陽師、その他の一類の諸部族についても、漸次稿を新たにして説明したい。要するに自分のこの研究は声聞師研究の一部として、『大乗院寺社雑事記』から当時の大和の唱門の実際を探究し、世人の疎外排斥を受けていたいわゆるサガリの徒も、本来は必ずしもそう筋の違った訳のものではなく、まったく一時の境遇から起った区別であったことを明らかにし、一つはもって彼らの誤まって被った不名誉に対する雪冤のために、一つはもってその自重心を起さしむるの動機ともなれかしと祈るがためである。現にかつて唱門と呼ばれた徒からして、その一類相率いて立派に足を洗って社会に闊歩しているものも少くないではないか。落伍者の後裔は永久に祖先の落伍を世襲せねばならぬ義務はない。世人はその落伍に同情してこれを誘掖ゆうえきすべく決してこれを軽侮して疎外排斥すべきものではない。
(『民族と歴史』第四巻第二号〈俗法師考の五〉=一九二〇年八月)
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散所法師考



1 緒言


 古くサンジョと呼ばれた一種のサガリ部族のあったことは、今さらこと新しく言うまでもないところで、すでに本居内遠翁の『賤者考』や、『近江輿地誌略』などにもその説の出ていることは、多数の読者諸君のつとにご承知のことと思う。柳田國男君の『郷土研究』にも、しばしばこれに関するあまたの投書が掲載せられ、特に同君の「山荘太夫考」(『郷土研究』三巻二号)には、山荘太夫という名称とサンジョとを結び付けて、かなり詳細な研究が発表されている。結局サンジョとは、同君のいわゆるヒジリの一種で、「サンジョ」の「サン」は「うらさん」の算である、「算者」または「算所」と書くのが命名の本意に当たっていると思われる、彼らは卜占祈祷の表芸の他に、あるいは祝言を唱え歌舞を奏して合力を受け、さらにその一部の者は遊芸売笑の賤しきにつくことも辞さなかったために、その名称も区々まちまちになり、かついろいろの宛て字ができて、しばしば出自が不明になったものと考えるというのが、同君の結論とせられるところである。
 柳田君がサンジョをもって唱門師・陰陽師の徒であるとするの研究には、自分もつとに全然同意を表するところであった。しかしながらその名義の解説については、自分にいささか腑に落ちかねる点があったので、昨年七月の「特殊部落研究号」において、別に「産所考」一篇を掲げるつもりで、材料を蒐集し、原稿も大体できかかっていたのであったが、期日と紙数との都合で、とうとうそれは掲載せずにしまったような次第であった。しかしとりあえずその「エタ源流考」中に「エタと産所」の一節を設けて、当時自分の考えていたところの一斑だけは披瀝しておいたことである。その主意はこうであった(二巻一号一〇三頁)。

彼らはもと産小屋の地に居て、産婦の世話をすることをもって生計の主なるものとしておったものらしい。しかるに後には産小屋の風も次第にやんで、それだけでは生活ができなくなったので、あるいは掃除人足ともなり、あるいは遊芸人ともなり、ついに今日では各地ともほとんど消えてしまったのである云々。

 実際一種の賤者が産婦の世話をするという地方は少くなかった。またトリアゲと称する往時の助産婦が実は子おろしを内職として、一種のサガリ者とみなされている地方も多かった。そこで自分はまずサンジョを普通の文字の「産所」の意味にとって、右の如き説を試みたのであったが、それではなお説明しかねる場合が少くなかったので、他にも二つの説を考えておった。一つは産小屋すなわち産所が穢れた場として捨てられていたところへ、浮浪民や落伍者が住みついたのであろうという旧説で、それもまんざら捨てかねたのであったが、今一つは、往々文字に「散所」と書いてある如く、一定の住居を有せず、所在に散居する浮浪民の謂いではなかろうかということであった。そこで右の「エタと産所」の終わりにおいて、「なおサンジョについては別の考えも持っているが、それは『産所考』の説明に譲っておく」と書いて、発表の余地を存しておいたのであった。しかるにその後だんだん材料が集まってくるにしたがって、前両説の価値は次第に減じ、第三説の、当時にあっては一番軽くみておった説の方が重みを増してきた。ためにせっかくまとまりかけた、かつその発表を予約しておいた「産所考」は、しばらくこれを子おろし婆々の手にまかせて、やみから暗へ葬ってしまわねばならぬこととなった。すなわちここに新たにこの「散所法師考」の一篇を草して、もって前説の誤まりを訂し、かねて識者の高諭を求めんとするのである。

2 江戸時代のサンジョ


 今ではサンジョというものはほとんど世間から忘れられている。彼らは江戸時代において、あるいは穢多の類なりと言われ(『淡海木間攫』)、あるいは餌取にも近き者の由に言われ(『以文会筆記』)て、世間から賤しまれていた場合が多かった。しかしながら、彼らの中にはかえって往々立派な由緒を唱え、あるいは公家に因縁を求めて受領などを取得し、むしろ普通民よりは立派なものであるかの如く心得ているものもないではなかった。実際においても彼らの多数は、エタや非人の如くに世間から嫌われてはいなかったが、それでもどこかに筋目の違ったものだと認められていたと見えて、縁談となるといつも疎外せられる例であった。そしてその中には丹後加悦町の「算所」の如く、今になお世間から区別せられるの不運に陥っているのもあり、伊勢の一志郡中原村大字田村の特殊部落は、今より二百年ほど前に同村算所の松相まつのあいという所から来住繁殖したものだ(『郷土研究』三巻七七頁)と言われているような例もないではない。しかしこれらはむしろ特例であって、多くの場合には彼らはあまり世間から区別せられていなかったがために、普通民の間に移住雑居することが容易であったという事情の下に、たいていは諸所に分散してしまって、今ではわずかに三戸五戸くらいずつ残っているという場合が多いようである。またその中には全部落まったく退転してしまって、古い地図にその名があっても、今日その地について尋ねてみるに、誰も知らぬというようなものも少くない。
 彼らは柳田君の言われた如く、多くは陰陽師や遊芸人となっておった。しからざるものは多く農業に従事しておった。中にも摂津西の宮の産所の如き、早くから人形芝居の座本となり、傀儡師として世に知られていたことは、本誌一巻一・二号にわたって吉井太郎君の詳述せられた如くである。後にこの産所は西の宮に蹟を絶って、淡路に移ったものらしい。そこには文字にも今では「三条」と書いている村があるが、しかし『音曲道智編』には、明らかにそれを淡州産所村(『古事類苑』人事部二の六四三頁)と書いて、もと同族なることを示している。
 江戸時代のサンジョの所在について管見に上ったところは、わずかに左の二十数個所にすぎない。

山城 葛野郡梅津村西梅津『以文会筆記』に、西梅津村の内は一溝を間して、西また南の方に居るもの五六家唱門師と呼ぶ。(中略)一時本郷と出自を論じて、ついに官裁を請う。本郷よりは、かれに本山所と称して、餌取にも近きもののよし申すとある。
同国 鶏冠井かいでの南には今も五六戸の産所があって、農業に従事している。他からあれは産所じゃとはいっておっても、社交上ほとんど区別はないとのこと、これは某警察官の直話。
摂津 武庫郡西の宮の産所。これは前記の如く有名なものであったが、今は少しも遺っておらぬ。
同国 豊能郡豊島村にもと大字産所というもの。元禄地図には石橋の付近にあって、高百三十八石余とみえ、参謀本部陸地測量部の輯製二十万分一図にも、市場の付近に記入してあるが、これまた今は一戸もない。
神戸 市算所町、もとはやはり産所と書いておった。もちろん今の住民にその子孫はあるまい。
伊勢 鈴鹿郡枚田村算所(今も地図にその名がある)。
同国 一志郡中原村算所(同上)。同村大字田村の特殊部落は、右の算所から移住したのだとの説は前に引いた。
同国 同郡八ツ山村大字八対野字算所(柳田君「山荘太夫考」、『郷土研究』三巻七七頁)
同国 同郡川口町字算所(同上)
遠江 小笠郡掛川町の陰陽師博士小太夫の家には、延喜二年の古文書というものを蔵して、それには国々の声聞身を、院内とも散所ともいったと『掛川志稿』にある。もとより信ずるにたらぬ偽文書ではあるが、彼らを散所といったことは証明せられる。
上総 君津郡佐貫町大字佐貫字産所谷(「山荘太夫考」)
近江 坂田郡大原村産所。唱門師の筋だと言われていた(『淡海木間攫』)。
同国 神崎郡旭村大字木流こたがせ字産所(『郷土研究』二巻四八三頁、大橋金造氏報告)。近江源氏の牢人と称し、もと二十戸ばかりの部落であったが、文政天保頃より二戸となり、それも一戸は坂田郡へ、一戸は美濃へ移って全部落退転した。やはり陰陽師であったと大橋氏の報告にある。
同国 高島郡安曇村大字田中字産所(『郷土研究』四巻一〇号二二頁)。古来五戸、現今三戸、巫筋とも唱門師ともいったとある。
丹波 氷上郡春日部村大字小多利字産所上。陰陽師とも呼ばれ、やはり縁組を嫌うと、これは同国柏原で永沢小兵衛君よりの聞書。
丹後 与謝郡加悦町算所。これは特殊部落とみなされ、明治四十年の調べには三十五軒を数えている。寛文の宮津領の図に、算所村高四百三石一斗五升とあるが、「皮多」とも「穢多」とも書いてない。
同国 同郡市場村大字幾地字算所縄手(「山荘太夫考」)
但馬 朝来郡与布土村大字迫間字産所(同上)
伯耆 東伯郡に一ヶ所、西伯郡に一ヶ所、今もありと、これは倉光清六君の報告(本誌四の二、六〇頁参照)
紀伊 伊都郡相賀庄の野村の産所は陰陽師云々。これは本居氏『賤者考』の記事。
同国 同郡官省符庄浄土寺村の産所。巫村だと、これも『賤者考』の記事。
同国 日高郡茨木村の中にも産所(同上)
淡路 三原郡市村大字三条。産所村と『音曲道智編』にある。人形芝居で有名なところ。
伊予 温泉郡味生みしょう村御産所、これははたしていわゆるサンジョか否か疑わしいが、名前の類似から試みに掲げておく。
土佐 江口村に、永野善太夫、赤岡村に足田市太夫という祈祷者、ともに山荘頭さんしょうがしらと称し、市太夫は長曾我部元親の証文を所持していた。山内家から足田家へ与えた文書には、算所足田主馬太夫と宛名してあるという(「山荘太夫考」)。沼田頼輔君から教えられた見聞録所収。須富田村足田七五三太夫所蔵文書には、「山崎の算所」というのもあり、算所の役務及び取り前のこともみえている。

 右は今までに管見に及んだ限りであるが、このほか三条とか三所とか書いた、類似の地名も所々にある。三条には条里の方から来た名が多かろうが、産所または算所・散所などという文字を忌んで三条と書きかえた淡路の例もあれば、中には問題のサンジョがないともかぎらぬ。また但馬城崎郡や、出雲仁多郡には三所というところがある。出雲のはミトコロと読むそうであるが、シュクを守具と書いてモリグと読み、ついに森具と書きかえた例もないではない。
 右列挙したところは極めて少数で、ことにその中には過去現在の状態ともに全然不明なのが多く、またいまだ一々これを調査する暇もないのであるが、その職業の明らかなものをみると、たいていは陰陽師または神子みこの徒か、しからずば職業上彼らと関係ある人形使いなどで、中には興福寺の唱門の如く普請の工事に出たり、夙やエタや悲田院の非人の如く、罪人を預かって番をしたものもある。しからばよしやサンジョの名が伝わっていなくても、職業上右の徒と同じ流れを汲むものの中にはかつてサンジョと呼ばれたものの他にも多かったことを想像してしかるべしであろうと思う。したがってこの江戸時代の実際をのみみる時は、柳田君がその文字の算所とあるところに目をつけられて、陰陽師の算の方に解説を求められたのはごもっともである。沼田君から示された見聞録にも、「勘定致候処也」など説明してあるのである。そして『賤者考』などが産所の文字から、産小屋の地に渡り陰陽師や渡り巫の徒の住みついたと解したのにも、また確かに一往の理屈はある。自分が他のサガリ者の傍例からして、婦人を家族の表役者とする神子筋みこすじのものをもって、もととりあげ業を営んだものだと想像してみたのにも、また幾分の同情を払ってもらわねばならぬ。
 しかしながら、だんだん材料を古いところに求めてみると、これらの諸説は遺憾ながらいずれも成立すべからざるものなることを承認せざるをえなくなる。議論は別として、まず試みに室町時代以前の史料から、サンジョに関するものを拾い集めてみよう。

3 室町時代以前のサンジョ(上)


 一種の部民としてのサンジョの名は、すでに平安朝時代からしてものにみえている。永承三年の関白頼通『高野参詣記』に、

検非違使右衛門志村主重基サカンスグリノシゲモト仰、仰山崎刀禰散所等、令板屋形

 とあるのは、けだしそのもっとも古いものの一つであろう。淀・山崎の刀禰とは、その地方の長とあるもので、ここに刀禰散所とあるのは、刀禰及び散所の謂いであると解する。そしてこの場合において散所とは、淀や山崎辺に居た浮浪人足の称であったと思われるのである。淀・山崎の散所のことは、建長五年十月二十一日注出の近衛家所領目録の中にもその名がみえている。

一 散所
     山科行時         淀(左方 能武[#改行]右方 武茂)   同国宮方政所
  摂津国山崎政所京極殿堂領政所   同国草刈政所

 この記事やや了解に苦しむところがあるが、けだし淀及び山崎ほか三ヶ所の散所などが、鎌倉初期において近衛家の所領であったことを示したものと解せられる。この場合において散所は、すでに一定の地に住み着いていたもので、その名称の下に記入してあるものは、けだしその支配者の名であろう。中にも淀の散所は、左右の二つの組に分かれていたものらしい。左散所右散所という語は他にも所見がある。京大所蔵『竹屋文書』の中、日野資(?)卿より竹屋殿に宛てた消息に、

一、左散所右散所事、散所神人などの事何か覚申候。是は宮本に常勤無之、在々所々に散在せし神人の事と被存候、拝見の文書中にては領知の事に申歟。差当り一向不覚悟候。自然心付候事有之候はゞ申上可仕候。

 とある。これは竹屋卿よりなにか文書の中に左散所右散所のことがあって、その意味を質問したに対する返簡らしく、「拝見の文書中にては領知の事に申歟」とあるのをみれば、やはり前記の近衛家所領中に所々の散所を数えていたように、領知のことを書いたものの中に左散所右散所ということがあったものとみえる。もちろんそれが近衛家領の淀のであるか否かは明らかでない。なお、右の消息によると、日野卿も実際散所というものをよく知らなかったらしい。ただ散所神人ということに何か覚えがあるというくらいのことで、やはり祇園の犬神人のような、一種低級の神人と解していたようである。もとより確信をもって答えた語ではないけれども、それを神人の類とみていたところはすこぶる注意に値する。
 淀・山崎のみならず、この付近には平安朝の頃所々に散所と呼ばれたものが住んでいたようである。頼通とほぼ時を同じゅうした藤原明衡の『雲州消息』に、

桂辺領地。尋邵平之跡、令五色之※(「くさかんむり/瓜」、第3水準1-90-73)。而隣子村男、毎夜掠之。令条所捐准盗論歟。己乖不納履之儀。兼仰里長制止彼辺散所雑色多以居止。可案内也。謹言。

 とある。ここに里長とは『高野参詣記』に刀禰とあるもので、その里長に命じて瓜盗人の制止を加えしめるについても、桂辺には散所雑色が多いから、それらをして警戒せしめたいとの意と解せられる。しからばこの散所雑色とは、室町時代の大和の唱門師(本誌三巻七号、四巻一・二号)のように、里長の下に警吏の事務をも行っていたものらしい。
 散所雑色の語は室町時代までも存していた。『大乗院寺社雑事記』文明三年正月十八日の条に、『成恩寺殿御記』を引いて相国寺大塔供養応永六年九月十五日の式のことを書いた中に、

次公卿十六人(駈馬同前)左大臣内大臣以下
中納言中将良忠 番頭四人 如木居飼一人 御廏舎人一人 副舎人二人 雑色長一人 小随身四人 散所雑色一人 布衣侍二人

 とある。雑色は江戸時代になっても京に存して、京内の警戒に任じ、神事その他の護衛に立った警吏の一種であったが、その雑色の中に散所雑色と呼ばれるものがあったものとみえる。そしてそれが平安朝頃から桂辺に多く居たものであった。後世に至ってもその付近の西梅津や鶏冠井に産所がいたというのは、あるいはこの古い流れを伝えたものであったのかもしれぬ。
 散所雑色の名称について考え合わすべきものは、『小右記』にみゆる散所随身のことばである。
 同書長和二年正月四日条に、

将監保信云、中将朝臣(雅通)消息云、白馬くちとり[#「有+龍」、U+9F93、213-1]近衛、称散所随身、不其事、前例不然之事也随報下行てへり。答云、称散所何処哉。申云、左府及大将随身也。仰云、至于家随身早可勤仕。抑左相府随身如何。云、中将云、申事由てへり

 とある。『小右記』は長和の当時大納言兼右近衛大将であった藤原実季の日記で、その長和二年は前引『高野参詣記』の永承よりも三十六年前であれば、これこそ管見に上った最古の散所といってよい。しかしこの散所随身とは、はたしていわゆるサンジョの義か否か、多少考慮を要するところがあるから、しばらく後段の研究に保留しておく。また錦所経には、『江家次第』に散所衛士というのがある趣にみえているが、いまだ本書からこれを見出だすの暇がないから、これまたしばらく保留しておく。
(『民族と歴史』第四巻第三号〈俗法師考の六〉=一九二〇年九月)

4 室町時代以前のサンジョ(下)


 散所が社寺諸儀式の行列に加わったことは、前引『成恩寺殿御記』応永六年の相国寺大塔供養の際の、散所雑色の名でも知ることができるが、すでに鎌倉時代においても散所参加の記録がある。『光台院御室伝』建永元年十月二十六日御受戒の行列を書いた中に、

殿上人廿人、房官九人、非職五人、有職十六人、中童子八人、侍六人、

 とあって、最後に、

御童子卅人(牛、真珠、千王、  、乙王、伊王、四郎、七郎、禅師丸、太郎丸、十八人、次郎丸、鶴丸、散所、)

 とみえている。ここに散所とあるのは人名ではなくて、散所の一人がいわゆる御童子三十人中に加わっていたものか、それとも右にみえる人名が十二人で、それに名前を省略した十八人なるものを加えて三十人となるから、それらの御童子三十人が散所だとの意味であるか。もし後説の如くならば、前にいわゆる散所雑色というのと同じく、散所童子ともいうものであって、それが行列に加わって警衛の任に当たっていたものかもしれないが、なおこれは再考を要するのものとしてしばらく保留したい。
 東寺や延暦寺のような諸大寺には、なお祇園に犬神人があり、興福東大諸寺に唱門師があったように、それぞれ散所法師と呼ばれた下司法師が属していた。彼らは警衛もすれば、工事の人夫にもなる、寺内外の掃除をも担当するというありさまで、一に興福寺の唱門師に似ているが、特に東寺では、掃除を主としたものであったらしい。『東寺文書』に、

当寺散所法師原間事、奏聞候之処、被宛‐置長日掃除役之間、雖一同之沙汰法勝寺地堀事他之上者、別為寺家之沙汰、可召進給之間、被仰下候也。仍言上如件。

 (嘉暦二)                  (四条)
 三月廿一日                 左中将隆資奉
進上                 東寺長者僧正殿

 とある。これは東寺の掃除役なる散所法師を、法勝寺の土工に使役しようとしたことについての抗議に対し、奏聞を経てさらに命じたものである。彼らは東寺境外信濃小路通猪熊の西頬一町の地に住んで、東寺所属の掃除役として公認せられ、他役免除の特権を与えられていた。

東寺掃除散所輩事、被他役之由院宣之趣加一見候了。可其旨候。恐々謹言。
                   (足利)
康永二年十月卅日            直義(花押)
謹上    三宝院大僧正御房

 とある。それでもなお南北朝戦乱の際には、他の工事に駆り出されたとみえて、その抗議に対し、

東寺雑掌申、当寺掃除散所法師事、任度々之勅裁並康永二年十月卅日御書、被免‐除他役之処、為楼舎・築地雑色等、致催促云云。早可其催之由可下知之状、依仰執達如件。
永徳元年十月四日                左衛門佐(花押)
一色右馬頭殿

 というのがある。そしてこの類のことは、南北朝から室町時代へかけて、度々繰り返されているのである(康暦二年九月五日、応永十八年十一月十九日、同十二月二十一日、二十三年六月二十七日、同二十九日、康正二年二月二十三日など、そしてそれにはいつも掃除散所法師とある)。掃除とは浄人すなわち「キヨメ」のことで、鎌倉時代の『塵袋』にはこれを「穢多」といっている。余が郷里なる阿波では江戸時代までも掃除と呼ばるる一種の賤民がおって、後には猿牽の徒と混じて通称「サル」と呼ばれ、多くは遊芸をもって渡世としていた。東寺の散所法師も、常に掃除散所法師と連称してあるのをみれば、もってその身分のほども察せられよう。
 彼らは掃除役として寺に属しているとはいいながら、往々他の権門に属して、ために寺の務めを怠った場合もあったとみえて、建武元年の『東寺塔供養記』九月十三日条に、

掃除以下条々、以事書コトガキ執行、問答左少弁之処、返事、
散所法師原属所々権門之間、以厳密御教書直被仰出候様、可御意候哉。
東寺掃除以下条々、一紙奏聞之処、仰詞如此候。可御存知候哉。(中略)
恐惶謹言。
九月十三日                   光守
条々。
一、掃除池堀、散所不勤仕事。
 仰。催方々散所法師、可其沙汰(下略)

 とある。この記事によると、彼らは厳密なる御教書の制止を得るにあらざれば、所々の権門の使役に属して、寺の命を用いなかったものらしい。またその住処も、応永二十一年の文書には前記の如く、信濃小路猪熊西頬いのくまにしつら一町とあるが、建武の頃にはそのほかにも方々に分散していたものと解せられるのである。
 寺にあっては彼らは、実際警固その他人夫として役せられていた。『東寺執行日記』貞治元年正月二十五日条に、

去夜廿五日盗賊令乱‐入金堂(云云)廿六日夜、先於講堂三人預可宿直之由、(云云)廿八日夜、供僧中管領二人等、執行方管領、寺内公人、並間人及散所法師原以下、有結番、籠‐置寺中、可夜廻沙汰之由、供僧執行一揆記。

 また貞治二年八月二十三日条に、

次朱雀河浮橋事、自武家重厳密被責伏之処、無力領状。為勧進方沙汰、以大湯屋門扉等、暫時渡橋訖。人夫ハ散所法師原、並寺内款冬田在家人責‐出之了。

 などある。いわゆる散所法師原を、間人まうと在家人ざいけにんとともに使役しているのである(間人のことは他日本誌上で詳細発表したいと思っている)。延暦寺の散所法師については、わずかに岩橋小弥太君から示された『応安嗷訴記』の、

応安元年八月廿五日政所集会議曰、
 重可相‐触寺家
来廿八日神輿入洛事、三塔既令一同之間、更不予議之処、西坂路次、険※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)極之条、穴太散所法師原奸曲故也。所詮明日(廿六日己点)登山、重可造之旨可下知敢無余日上者、争存イカデカ緩怠哉。厳密重可炳誡事。

 とある記事を知るのみで、いまだ他の史料を発見しえぬが、彼らが東坂本の穴太あのうに住して、西坂の工事に使役せられたところをみると、やはり東寺の散所法師と同じ性質のものであったと察せられる(『太平記』にも散所法師のことがあるよし『以文会筆記』にみえるが、いまだ本文を見出だすの暇を有しない)。
 右は単に東寺と延暦寺とのみの例にすぎないが、しかし散所雑色といい、散所の童子というが如き、他の寺院にも散所という名称のものの属していたことは想像するに難からぬ。よしやそこに散所という名目をもって呼ばれなかったとしても、彼らと同じ役務に従事した賤者の諸所にあったことは、疑いを容れなかろう。また、『蔭涼軒日録』長禄二年十一月二十二日条には、

播州宝林寺並法雲寺領還付守護難渋可催促之事、大雲庵灯油由之事、而催促之事、命于寺奉行飯尾左衛門大夫、当寺領北畠柳原散所、御‐免‐許于一寺家之由、御奉書可成之事、被仰出也。

 とある。この北畠・柳原両所の散所がいかなるものであったか明らかではないが、信濃小路猪熊西頬の散所法師が東寺に属し、坂本の穴太の散所法師が延暦寺に属して、各その駆使に任じていた傍例に徴するに、彼らまた鹿苑院に属して、その駆使にまかしたものであったであろう。そしてこの例をもって推せば、上引近衛家領の淀・山崎等五箇所の散所も、また近衛家に属して、人夫として駆使せられたものと解せられるのである。
 すでに近衛家にも五箇所の散所が属して、その駆使するところとなっていたとすれば、他の権門勢家にもまた同様のことがあったと想像せざるをえぬ。左府大将家の散所随身のことはすでに引いた。東寺の散所法師の所々の権門に属したことも右にみえている。さきに権門勢家のみならず、他の有力なる神社にもまた必ずそれがあったに相違ない。

5 散所の名義


 サンジョは江戸時代にあっては通例産所または算所と書き、稀に山所・散所・山荘などとも書く。したがってその語の説明も、たいていは産所として試みられているようである。
 まず産所の説は『近江輿地誌略』(享保十九年)に

高島郡産所村。(上略)産所村は此地に限らず、諸国郡に必ある事也。往古は一郡に二村三村或は一村の地もあり。今悉く唱を失へど、偶旧名を存するもの間々あり。当国坂田郡にも産所村といふ所あり。(中略)夫れ諸国に産所村あるは、往古神道盛にして、懐胎の女臨月に及びて此の産所村に入りて、産後七十五日の汚穢を除き、本の村に還住す。故に自其の村を呼んで産所村といふなり。
蒲生郡宿村。(上略)宿村、産所村とて国々の内所々にある事也。然れども後世に及んで村名をつけ改むる故今審ならず。漸くに存して宿村・産所村を称する者あり。宿村といふは一村格別の村にて、遊女を置き、諸方へも出し、又宿をもさする故に専ら宿村といふ。神国の風にて経水などある女、又は忌服ある者、皆此の村に行きて宿する故に人甚だ之を賤しむ、今も其村穢多に非ずして、人の殊の外嫌ひ賤む村あるは、皆此宿村・産所村の末也。

 と説明している。いわゆる産小屋・月小屋(田屋)の村という意味に解しているのである。しかしながら、よしやその産所が穢れた場所であるとしても、何がゆえにそこに賤しい人民が棲息して、穢れた村落が成立したかが説明されてない。そこで本居内遠翁の『賤者考』には、さらに一歩をその上に進めて、

サンジョと唱ふる所ありて、大抵忌む所に同じ。伊都郡相賀荘野村(今陰陽師あり)同郡官省符荘浄土寺村(今巫村なり。日高郡茨木村のうち)などを云ひて、他村より婚せず。サンジョは産所の意にて、昔産婦はこゝに出て産し、穢中を過して本村に帰りしなりなど云へば、夙の所に云へる意に同じ。是も後には陰陽師・巫女など移り住みしなるべし。夙よりはいさゝか勝れる如く他村にていへども、同火を禁ぜざるのみにて婚を忌めば同事なり。

 といっている。右の文中「夙の所に云へる意に同じ」とは、夙とはもと婦人経行中などに、火を別にして仮に宿せし場所の名にして、穢らわしき所ゆえに良民は住まず、浮浪の者穢者の類そこに来り住み着きしならんとの説を指したものである。つまり『近江輿地誌略』の説を精しくして、産小屋・月小屋の地に賤民が住み着いたので、賤しい村がそこに成立したというのである。
 これらはいずれも産所の文字から起った説であるが、また別に算所の「算」の字に基づいた説も早く試みられている。沼田頼輔君が寄せられた『土佐算所大夫文書』の中に、

山崎ニ算所有之、算所ハ納所之事にて勘定致候所也

 と説明を加えたところがあり、また同文書中に藩主より諸給人中宛ての免に関する文書二通を収めて、

右申伝に、算所ハ勘定致候故、忠義公之御書も算所方に止り候也。

 など書いてあるのである。近くは『郷土研究』(二巻八号)に、大橋金造氏は「江州産所村記」を寄せて、その産所の民が竈祓・祈祷・家相・方角などを活計としている由を叙述せられ、さて、

此状を認めつゝふと心に浮び候は産所の名義に有之候。産所は恐くは算所に可之、類聚三代格に神崎郡に算博士の職田を置かれし事見え候。若や此地方の産所部落と関係あるには無之や(云云)

 といっていられる。算博士の職田と算所との関係は、算所が広く各地に散在していることを併せ考えるだけでも到底首肯しがたいが、サンジョのサンを算博士のサンに解する点においては、上記の如く柳田君もすでに賛意を表されているのである。
 しかしながら産所または算所の文字が、いずれも徳川時代のものにのみみえて、古いところでは常にそれが散であり、またそれがすでに平安朝頃からして、雑色あるいは随身などとして現われ、警固や人夫に使役せられて、ごうも産小屋または算道との関係を見出だしえぬことから考えると、産所または算所はまったく音通による仮字であって、すこしも産または算の意味はないものだと解せねばならぬ。したがって余輩が試みに「特殊部落研究号」において提出しておいた一説は、当然これを撤回せねばならぬところであった。
 しからば散所とははたしていかなる意味のものであろうか。
 字書を案ずるに、「散」は「放也」「布也」「誕也」などとある。また、「不自検束散」とも「無飾曰散」などともある。官楽に対して民間の楽を散楽というのも、畢竟右の「散」の意味で、散田、散郷、散居などの文字はわが古書に少からずみえている。支那の古代に「散人」の語がある。『陸亀蒙江湖散人伝』(『佩文韻府』による)に、「散人者散誕之人也。心散、意散、形散、神散、既無羈限、為時之怪民。朿于礼楽者、外之曰此散人也。散人不恥、乃従称之、遂為散歌散伝、以志其散」とある。散所の「散」はまたこの意味ではなかろうか。これについて前引『竹屋文書』中の日野資愛の消息に、「宮本に常勤無之、在々所々に散在せし神人じにんの事と被存候」との説は、軽々しく聞き捨てがたい。これを神人と限ったことは、日野氏が祇園の犬神人などを考え合わせてのことかは知らぬが、それは窮屈な解釈である。しかしながら在々所々に散在した故に、散所というとの説には同意を表せざるをえぬ。「所」は「処」に通じて、字書に「居」なりとも、「止」なりとも、また「居室」なりともある。しからば散所とは一定の居所なく、随所居止する浮浪生活のものを示した語であろう。「処」の熟字には、易に「上古穴居而野処、後世聖人易之以宮室」とか、韓退之の原道に、「木処而顛、土処而病也。而後為之宮室、」とか、漢書に「巣居而知風、穴処而知雨、」など、その例がはなはだ多い。後世では単にこれをサンジョと呼んでいるけれども、古いところでは多く散所雑色、散所随身または散所法師などとあって、サンジョの語を形容詞に用いている。しからばその散所の語は、彼らが散処の雑色であり、散処の随身であり、散処の法師であることを示したものだと解するも、あえて不都合はなかろう。本来「居」または「止」の意味における「処」の字は、「所」とは違う文字であるけれども、古く処の字を「所」の意味に用いた例もはなはだ多いことであってみれば、散所すなわち散処と解してしかるべしと思われるのである。『以文会筆記』の龍淵(近藤式部)の説に、

今俗にさんじよと称する小邑所々にあり。郷里これと婚姻を通ぜず。然れども、其元来是何物なるものなることを知らず。文字も山所又は産所などと一様ならず。或は是陵戸の類にて、山陵の転ぜるなりと云へり、されど陵墓の無き地にも此邑あるあり。又陵墓のあるところに必此邑あるにもあらず。按ずるに、太平記に散所法師といふこと見えたり。蓋これ今の屠者・癩人・唱門師・焼屍奴オンボなどの如き雑戸にして、其村里の良戸と戸を同じうすること能はず、住所別に散在するを以て、散所と云ふならん。西梅津村のさんじよなどは、又しよもじ共呼ぶを以て、之を見れば、是はもと唱門師なるべし。

 とあるのは、その解説一部分不十分ながら大体において当たっている。ことに『太平記』から散所法師の文字を見つけだして、サンジョを散在の義に解釈したのは、推賞するに足るものである、ただその散在の文字をもって、良民と居を同じゅうする能わず、住所別に散在すと解したのは、彼らが定住した後の状態からの解釈で、本来浮浪散処の状態から得た名称の解釈としては、当たらぬと言わねばならぬ。散所の名は彼らが浮浪散処の状態から得たものだとすれば、彼らまた畢竟河原者、坂の者などの徒である。そして河原者は室町時代の『※(「土へん+蓋」、第3水準1-15-65)嚢鈔』著者によって、当時エタと呼ばれたことが知られ、坂の者は徳川初期の袋中和尚によって、またエタの徒であったことが明らかであってみれば、山城梅津の産所が餌取にも近きものと呼ばれ、近江大原の産所が、エタの類だと言われたのはそれぞれ一面の真実を伝えたものである。ただ、その餌取またはエタの意味が、後世の皮屋のみを称したものとは違って、広く浄人や唱門師の徒を指したものであることを忘れてはならぬ。
 しかしながら、随処居止した浮浪生活の散所の輩も、いつしか適当な場所を見立てて居所を定め、生活の基礎をそこに求むるに至ったことは、一般浮浪民の進んだと同じ道をとったに相違ない。『雲州消息』に、桂の辺に散所雑色多くもって居止すとあるのは、平安朝当時において彼らがもはや純然たる浮浪生活の域を脱して、桂河辺に居止の地を求め、いわゆる河原者の状態になっておったものであろう。そして当時すでに彼らが野番として、瓜盗人の警戒に使役せられるに相当の身分であったことを示しているのである。関白頼通高野参詣の頃における淀・山崎等の散所も、またこの要津に居所を定めて、往来の旅客商估しょうこに役せられて、生活していたものであろうと解せられる。

6 散所法師と声聞師


 散所の状態が上述の如くであり、その名義がまた上述の如くであって、しかもそれがいわゆる下司法師原の徒であったとすれば、これ実に自分のさきに論述した声聞師たる俗法師の亜流であらねばならぬ。いわゆる俗法師の多数は、三善清行の『意見封事』に見ゆる通り、家に妻子を蓄え口に※(「月+亶」、第3水準1-90-52)なまぐさを喰い、形は沙門に似て心は屠児の如きやからであったであろうが、もちろんその中には、事実上その名の如く出家して、浮浪の群に入ったものも少くなかったに相違ない。すなわち浮浪漂泊の下司法師が多数に生じたに相違ない。そしてその一方には、本来浮浪漂泊の俗を有する傀儡子の徒の、仏門に隠れて法師姿に生活の資を求めたものもまた少くなかったに相違ない。かくしてこれらの徒が、その状態から散所の法師と呼ばれ、しかもその散所の法師が念仏読経の手段によって、慈悲善根の喜捨をのみ的にしては、生活に困難を感ずるに至って、身を雑色の仲間に投じたものが散所雑色とも呼ばれ、あるいは散所法師の名称のままで事実上雑色の職務を執ることになったと解して、事理通ずべきものであると信ずる。
 散所がかつて往々唱門師とも呼ばれたことは、既引『以文会筆記』に「西梅津村のさんじよなどは又しよもじとも呼ぶを以て之を見れば、是はもと唱門師なるべし」といい、また『淡海木間攫』に、「産所村の民人は唱門師の血脈なりと云ふ」(『郷土研究』「山荘大夫考」所引)などあることによっても知られるが、遠州掛川の声聞師の伝うる延喜二年の「下国々声聞身裏書」と称するものには、声聞身の国々にあるを散所とも院内ともいうよしみえているとある(吉田氏『地名字書』引「掛川志稿」)。この文書がもし真物ならんには、散所の文字ある最古の文書として、既引『小右記』長和二年の記事や、永承三年『高野参詣記』の記事などよりも上に列すべきものではあるが、もとより後世の偽書で、延喜当時の状態を知るべき参考となるべきものではない。いまだその本書を見ぬから、はたしていつの頃の偽作かこれを明らかにすることはできぬが、おそらくこの一類の徒の有する多くの偽作文書と同じく、戦国時代のものであろうと察せられる。したがってその当時において唱門師を普通に院内とも散所ともいっておったか、もしくはかつてそういっておったという説があったことを知るに足るべきものであろう。院内とはなお垣内かきうちというが如きもので、一定の繞囲かこいの中の住人の義である。院とは垣をもって取り囲みたる義で、それはかつて『歴史地理』(二十九巻六号)に、「院の名義、特に正倉院の名称に就て」と題して論じておいた。上方ではこれを「垣内」と書いて「カイト」という。垣の内の義で、カイチまたはカイツを訛ったものであろう。今も古老は非人部落のことをカイトといっている。けだし彼らは、後世その住居の範囲を制限されて、院内あるいは垣内かいととなったものであろう。京都の余部あまべ部落はもと四条河原細工と呼ばれ、鴨川の四条河原、今の大雲院の地に居たのを、大正十五年の市区改正に際し、今の地に移されて、溝渠をめぐらした区画内にその住所を定められたのであった。他の唱門師にもかかる類が多く、よってそれを通じて院内ともいい、また、本来散所法師の徒であるによって、旧称をついで散所ともいっていたものらしい。右の『掛川声聞師所伝』永禄六年の今川氏裁許状にも、陰陽博士・院内・声聞身の名とともに、散所の称をも用い、「就中随散所下知輩、如往古引付、年貢銭無相違請取之状如件」などとある。そして結局は陰陽博士も、院内・声聞身・散所も、みな同一仲間のことをいったものと解せられるのである。
 散所法師は到底下司法師原なる唱門師の徒であることを疑わぬ、彼らは東寺や延暦寺においては、それが散所法師という古い名称のままに伝わって、しかも事実は、興福寺や東大寺の唱門と呼ばれた人々と同一の職務に服していた。すなわち本来同一の仲間であったことが認められるのである。また祇園の弦売僧つるめそうの如きも、犬神人として類似の職務に服し、かねて唱門師と呼ばれていたのをもってみれば、またもって一つの散所法師であったと言わねばならぬ。しかも彼らは「坂の者」として認められた仲間であった。坂の者・河原の者、畢竟みな散所法師である。そして有力なる他の社寺にも、また必ずこの類の者のあったことを想像せざるをえぬ。『慶長見聞書』(『古事類苑』引)に、

慶長十二年十二月十八日、今程太平の御代にて関所も無御座(中略)此僧正(月輪院僧正)子細委に被申達。穢多と申は(中略)、其の後かれが子孫多くなり、社々寺々の掃除の為に山下に置て、寺の残飯にて養申候由、伊勢の間の山高野に谷のもの北野の宮地祇園のつるめそうゑい山の犬神人、皆是寺方の掃除の為なり。(下略)

 とあるのは、慶長頃の実際を示したものである。ここにはこれらの徒をみな穢多といっている。その後これらの徒の中でも、皮革を扱わなかったものはエタ仲間から除外されたが、もとはひとしくエタと呼ばれたのであった。そしてそれには散所の名はなくとも、事実上散所法師と同じ仲間であったと想像せられるのである。はたしてしからばエタといい、唱門といい、種々名称を異にしていても、実際にはもと、そう区別のあったものではない。このことはこれまでもうるさいほど、本誌上で説いたところであるが、この散所に関する上引諸書の記事からも、またそれが裏書きせられたのは面白い。ことに上引『蔭涼軒日録』所載の北畠散所というものの如きは、山科言継卿の日記にその名のみえる北畠の唱門師なるものとの間に関係があるらしく察せられるのである。よしや両者同一ではないにしても、同じ場所に住んでいて、しかも類似の徒であったとすれば、その両者間の相違は、前者が鹿苑院に属し、後者が禁裏へ千秋万歳に出る仲間であったくらいの差であったであろう。そして祇園の犬神人が同時に唱門師と呼ばれたように、北畠の唱門師が鹿苑院に属しては散所と呼ばれていたものと察せられる。
 要するに散所は一種の俗法師の徒で、畢竟声聞師の仲間であった、そして声聞師の中から陰陽師が出たように、散所の名を有する仲間から陰陽師が出ている。土佐の算所大夫の如き、遠州の陰陽博士の如きはその著しいものである。今左に沼田君から寄せられた見聞録中の、土佐の算所大夫所蔵文書の写しを掲げてひとまず本編を終わることとする。

               *

〔見聞録〕須富田村疋田七五三太夫所蔵古文書写
香我美郡香宗我部、東西大堺之事、西ハ本山大多寺限リ、小路ヲ引テカノスヘヲ下ヘ、前浜御イツタノ宮ノ左ノ柱限、東ハ槙山之奥ボウジノ峠カギリ、里ハ槙寺尾下ヘ手猪(限カ)、山ハ花ノ木ヒロイ石塚限也。右之大堺ノ内、如先年六百文之公事物被仰付候者也。
佐古源丞
植田助左衛門
吉原算左衛門
大忍弥平兵衛
同 助五郎
右五人衆山崎算所に相添、如前前之十二月廿日より、同廿七日迄香宗様へ御普請に可罷出也。并、罪人在之時は、早早罷出、堅固請取番可仕者也。仍為後日件。
天正拾九年              池肥判
十一月廿八日
右申伝、山崎といふ所は平井山東に有、山崎屋敷と云処も有之、又香宗之内須留田山之西にも、山崎と云処有之、○山崎ニ算所有之、算所は納所之事に而勘定致候所也。昔は牢屋無之咎人御詮儀相済申迄、五人之者共番いたし申由也。
       ―――――――――――――――――――――――――――――
追而申遣候。物部川より東甲浦限、両郡中所所算所取前神子くし之事、前前のごとく此主馬太夫ニ申付候間、先代  万事可申付候。并、役儀等之事無油断仕候也。
二月六日             一豊(花押)
かゝみの郡
あき郡
所所庄屋中
       ―――――――――――――――――――――――――――――
貴所存分之通懇ニ申上候。就其御判かた被遣候。万事可其旨也御判形よく仕候。かしく。
二月七日              辻清兵衛

足田主馬太夫との
      かたへ
       ―――――――――――――――――――――――――――――
態申遣候。香美郡之内算所取前其外之儀、如前前之たるへく候条、如此候、以上。
慶長六年               郷平右衛門
二月七日                    判
算所
  足田主馬太夫かたへ
       ―――――――――――――――――――――――――――――
急度申遣候。あきの郡之内さん所やくの事、如前前相違申付、為其如此候、以上。
二月七日               山内又左衛門
算所                判
  足田七五三太夫かたへ
       ―――――――――――――――――――――――――――――
口上
其方事
一豊様如御判形物部川東甲浦限、算所神子くし等之事前候也。
子十月二十七日           安(田)四郎左衛門
                            判
                  片(岡)嘉右衛門
                            判
                  小(倉)小介
              足立主馬太夫との      判
       ―――――――――――――――――――――――――――――
一 男貮人  安喜香我美南郡はかせ頭赤岡村
足田市太   小者共
右市太夫先祖代代安喜香我美南郡はかせ頭役仕来候由、依之、前前は右郡中江切切廻り、法式之ふれ、其外諸事申渡等仕候所、近年ハ廻リ不申ニ付、此節於在在新法之はかせ個間敷者出来、筋目之者共之妨ニ成、其外猥之儀有之ニ付、其制度之支配之者共、役目之申渡旁、此度罷越度候間、宿切手被仰付下候様ニと訴ニ付、則御奉行中相達、願之通被仰付候間、右郡中於村村疑宿可申付者也、
元禄貮己              上野半右衛門
 三月廿三日                     判
(安 喜香我美)南郡中村村庄屋中
       ―――――――――――――――――――――――――――――
(以下二文書散所に関係なき故に略す)
なお土佐の算所太夫のことについては、柳田君の「山荘太夫考」(『郷土研究』三巻二号)に、沼田君の報道によって『貽謀記事』という書から、また『南路志』から、有益な説明が加えられている。読者の一覧を望む。
(追補)前号所載「徳川時代の諸国の産所」の表の中へ左の一項を補う。
丹波氷上郡吉見村大字梶原の支村にもと産所という二十戸高十三石余の一部落があった。この地は陰陽師ばかりの村であったことが『丹波志』に見える(「山荘太夫考」)。
 ただし右の梶原は春日部村大字小多利と接しているので、あるいは前号所載小多利の陰陽師と同一のものであったかもしれぬ。
(『民族と歴史』第四巻第四号〈俗法師考の七〉=一九二〇年一〇月)
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寛元二年奈良坂・清水坂両所非人の訴訟について



 余輩がさきに『古事類苑』から「佐藤氏所蔵文書」というのを引いて、本誌七月号(四巻一号)に鎌倉時代の奈良坂非人のことを書いておいたについて、伊勢の大西源一君からそれに関係ある神宮文庫所蔵の文書を寄せられ、それを前号に掲げておいたことは、すでに読者諸君御承知の通りである。室町時代以後の俗法師すなわちいわゆる唱門師や非人などに関する史料は往々世間に存するところであるが、これをもって平安朝時代の俗法師に接続せしむべき、仲継ぎの史料の学界に紹介せられたものはきわめて乏しい。この際において有益なる史料が、大西君によって新たに学界に紹介せられたのは、ただに余輩一人の幸福のみではない。既掲『古事類苑』引「佐藤氏所蔵文書」の記するところのみでも、多少鎌倉時代における近畿地方の非人の状態を推測せしむるに足るものではあるが、さらに大西君紹介の右の古文書を参照することによって、いっそうその関係を明らかにすることができるのである。これらはいずれ漸をもって本誌上に続載すべき「俗法師考」中において発表することとして、ここにはとりあえず右両文書を一瞥したことによって、当時奈良坂、清水坂両所の非人間に生じた悶着の事情や、当時の非人の状態について得た所感の一斑を叙述して読者の参考に供し、かねて報告者たる大西君に敬意を表したいと思う。
 佐藤氏所蔵寛元二年三月の文書のことは、すでに柳田氏の「夙の者と守宮神との関係」(『郷土研究』二巻九号)中にみえている。同君は「穂井田忠友の保護者であった奈良奉行梶野土佐守の筆録に、奈良坂村唯一の古証文なる寛元二年(西暦一二四四)の文書の断片を載せている」といわれて、さらにこの文書の内容から、夙の徒もかつては立派な毛坊主であったことを立証せられているのである。しからばこの文書は、もとは奈良坂村に伝えていたものであったとみえる。神宮文庫が山田の某書店から買い入れたという同年四月の文書も、はたして大西君の言わるる如く同時代のものたる疑いを容るるべからざるものであってみれば、やはりもとは奈良坂村にあったものが、佐藤氏所蔵三月付の文書よりも先に散逸したものと思われる。
 右の両文書、ともに誤写、読みにくいところもあるが、今彼此を参酌して当時の事情を推測してみると、大要次のような事件があったらしい。
 京都清水坂の非人などのうちに、吉野法師・伊賀法師・越前法師・淡路法師等が、さしたるあやまりなきにかかわらず、長吏法師のために追放せられて、奈良坂宿へ嘆願に及んだ。奈良坂の播磨法師は、かねて清水坂の長吏法師に恩を着せた関係があり、父子の契約をさえ結んだ間柄であった。かつて清水坂の長吏法師が、同宿の阿弥陀法師のために追い出されて若狭の小浜に籠居していた際、その懇願によって播磨法師は、東大寺の寺務(?)二条僧正にとりもって、もとの如く清水坂に還住することのできるように計らったことであったのみならず、前長吏のこの還住のために、阿弥陀法師はいたたまらずして祇園林を遁れ出で、近江の金山宿に引き籠もってそこに城郭を構え、近江の宿々を従えておったのをも、奈良坂勢をもって討ち平らげたということであった。またさきに小浜宿から奈良坂へ、清水坂前長吏還住懇願のために、たびたび使者の役をつとめた摂津法師は、その功労によって太田宿の長吏に補せられたのであった。こういうような関係で奈良坂宿は清水坂へかなり多くの恩を着せているので、今度の事件についても播磨法師は吉野法師らの懇願を容れ、彼らを具して入洛し、清水坂長吏に対して仲裁に及ぼうとしたところが、清水坂長吏は理不尽にもこれをふせ(四巻一号四頁七行目の欠字は、四月付文書によるに「禦」の字であったと察せられる)いだので、ついにはからずも闘争となり、播磨法師は清水坂の小法師原とともに、長吏を殺害に及んだという騒ぎとなった。そこで清水坂から東大寺(?)へその非行を告訴し、それに対して奈良坂非人から提出した陳状がすなわち佐藤氏所蔵寛元二年三月付の文書である。
 これより先清水坂の長吏法師は、東大寺奈良坂宿の末宿たる大和七宿のうちの真土宿を押領せんとしたことがあった。真土宿の長吏は近江法師兄弟で、その時弟の方の法仏法師は、本寺には背きがたしとてこれを拒んだがために、仁治二年七月九日に、妻子共四人、清水坂長吏のために殺害されたことがあった。また清水坂から追われた淡路法師は播磨法師の妹聟である。もとは奈良坂の非人であったらしい。彼は奈良坂宿の末宿なる大和七宿の者どもが、年序久しく積んで相互の関係自然疎遠になり、非人の身として猛悪を好み本寺に対して謀反を構えるようになったので、その不当を正そうとしたがためにかえって他の恨みを買って、仁治元年三月二十一日には彼ら悪徒のために襲撃せられるなど、往々圧迫を受けることがあった。
 大体清水坂は奈良坂に厚恩を受けているにかかわらず、種々非行を逞しゅうし、難題を申しかける。寺家堂塔炎上の際の如きも、これを奈良坂の咎に帰せんとするが如き、もってのほかのことである云々。
 右は奈良坂の言い前である。もちろん原被両造の申し分を併せ見た上でなければ、事件の真相を明らかにすることはできぬ訳ではあるが、ともかく右の記事だけによっても、当時「宿」と呼ばれた非人らの状態の一斑を推測することはできよう。
 ここに清水坂の非人とは、当時清水寺に属しておった俗法師であったらしい。前号「サンカ者名義考」にいわゆる坂の者すなわちこれである、清水寺はもと東大寺末で、後に興福寺末となり、その近所の祇園感神院が延暦寺末であったがために、両者常に相敵視するの間柄であった。かくて南都北嶺の軋轢の結果、この清水坂の俗法師が感神院に属して、東大寺所属の奈良坂法師原との間にも、自然悶着を生ずるの機会が多かったに相違ない。問題の起った仁治寛元よりも三十余年前の建保元年十月に、清水寺の法師らが寺家を延暦寺の末寺に寄付せんとして、これがために延暦寺の使いが清水寺の寺領に入部し、南都の衆徒これを憤って延暦寺焼打ちの企てをなしたこともあった(『吾妻鏡』)。これは清水寺の法師らが延暦寺の誘惑に遇ったのであろう。こんな次第で清水坂・奈良坂両所の法師原の間に、右文書に言うが如き悶着も起り、双方互いに自家の利益を主張したものと解せられる。
 奈良坂宿が大和七宿の長者だという奈良坂法師原の主張は、当時においてはけだし事実であったであろう。これはかの室町時代において、興福寺所属の十座唱門が大和国中数十個所の唱門の座頭であったというのと相比較すべきものであろう。奈良坂宿の非人ははやく奈良坂の春日社をもって宿神と称し、弓削夙人なる仮托人物をもって夙の者の元祖として、これを自家の祖先に付会しておった、徳川時代においても、前号所載香畝生君の「夙の者雪冤運動」所引、谷三山宛岡本黄中の書信にみゆる如く、奈良坂の夙は二条家に対して三百両という運動費を使ってまで、大和の夙の頭村たる資格を主張したのであった。これはけだし安政頃になって始まったことではなく、少くとも鎌倉時代以来の主張を維持すべく、新たに努力を重ねたものにほかならぬ。もっとも寛元頃の彼らの主張は、単に東大寺領の大和の七宿のみをその末宿とするのであって、むろん興福寺その他の所属のものには及んでいなかった。そしてその七宿すらも、当時すでに非人の身として猛悪を好み、謀反を構えるの状態となっていたのである。東大寺末たる清水寺が、延暦寺の誘惑によって本寺から離れ、延暦寺に転属せんとした事件や、その所属せる清水坂の非人らが、東大寺直属の奈良坂宿の徒としばしば悶着を起したというが如きも、やはりこの時代のことであった。後にその清水寺が興福寺一乗院門跡末となったように、いわゆる大和の七宿の中にも興福寺所属となって、十座唱門下の「国中数十個所の唱門」というものの中に加わったかもしれぬ。しかし後には興福寺大乗院直属の五箇所唱門すら、寺家の進退に応じなくなったように、興福寺下の結束が解体してしまった徳川時代において、奈良坂の夙が往時の主張を拡張して、七宿以外の他の夙をも支配しようと試みたのに無理はない。彼らは堂上家に巨額の献資をあえてして、まずその宿神たる奈良坂春日祠造営費を大和全国の夙村に賦課するに至ったのであったと察せられる、そしてこれに反抗して起ったのが、香畝生君のいわゆる「夙の者雪冤運動」で、翌年黄中の「振濯録」もその副産物としてできたのであった。
 清水坂の法師原がいわゆる「坂の者」であることはもちろんであるが、室町時代には坂の者といえば、もっぱら祇園の犬神人の如く解せられている。これは祇園が延暦寺末であって清水坂の非人らもこの方に属し、特に活躍していたためであったかもしれぬ。犬神人は祇園所属でありながら、後までもその住居はやはり五条坂で、いわゆる清水坂の旧地を離れておらぬのである。またこの清水坂の南の方、今の梅林町白糸町あたりは、もと徳川時代に悲田院所属の非人部落であった。これも古えの清水坂非人の名残りを留めているのではなかろうか。
 清水坂の非人は大和・若狭・近江あたりにまで連絡を保っておった。彼らは単に社寺にのみ隷属する神賤寺賤の類でなく、鎌倉時代においてはかなり活動の範囲を広くしておったのである。そして遠く紀伊境の真土宿をまでも、その配下に属せしむべく試みたものであった。彼らはいずれも法師と呼ばれ、しかも家に妻子を蓄えておった。余輩のいわゆる俗法師の徒であることは言うまでもない。すなわちいわゆる声聞師であったのである。彼らの中には阿弥陀法師だの、法仏法師だのというのもあったが、多くは国名を称しておった。寛元の二文書にみえるところ、摂津・伊賀・近江・若狭・越前・播磨・備中・淡路・土佐などがみえている。ほかに吉野法師というのもある。これらはいずれもある資格を有するものらしく、このほかに小法師原・若小法師原などという名称もみえている。この小法師の称は、徳川時代を通じて禁裏のお庭掃除のお役をつとめたエタの小法師と関係のあるものと認められる。またその国名を称えたについては、もとは形を沙門に託して浮浪漂泊した徒輩の集まりで、その生国を名に呼んだのであったであろうが、少くとも鎌倉時代になっては、必ずしもそうではなかった。現に吉野法師の子に土佐法師というのがあるのによっても立証せられる。徳川時代には八瀬童子と呼ばれた八瀬人が多く国名をその名としておった。これとそれといかなる関係があるか、興味ある問題だと思う。
 終わりに臨んで、彼らが非人と称していたことについて一言したい。彼らが自ら非人なることを認めていたことは事実である。したがって彼らが、他から非人をもって目せられているというのもまた事実であろう。しかしながらこの非人の称は、すでに述べた如く(三巻五号五頁)「人非人」の「非人」ではない。もちろん尊敬の義でないまでも、必ずしも後世の「非人」の語に対して世人が解するが如き、はなはだしい侮辱の意味があったとは思われぬ。奈良坂宿配下の大和の七宿の者どもが、「非人の身として猛悪を好み、謀反を構える」とある語を玩味するに、非人は元来猛悪であるべからざるもの、謀反を構うべからざるものとの義が言外に含まれているのを見遁してはならぬ。これについて問題の寛元二年に先だつ三十余年の建暦三年に、栂尾の高僧明恵上人が、その著『摧邪輪』の奥に「非人高弁上」と書いたのと、神宮文庫蔵寛元二年四月の文書に、「奈良坂非人等上」と書いたのとを併せ考えてみるに、両者その軌を一にしたことは明らかであって、つまりは非人とは慈悲忍辱を主とする法師の義と解すべきものであったと思われるのである。
 これを要するに寛元二年の右の二通の文書は、俗法師研究上種々有益なる事実を教えるものである。以上叙したところは、ただこれを一瞥した際に得た所感を秩序もなく述べただけであるが、余輩はさらにこれを他の種々の資料と参照して、将来引続き発表すべき「俗法師考」の上に一段の光彩を加えうるものとして、ここに報告者たる大西君に敬意を表するものである。
(『民族と歴史』第四巻第四号〈俗法師考の八〉=一九二〇年一〇月)





底本:「差別の根源を考える」河出書房新社
   2008(平成20)年9月30日初版発行
初出:「民族と歴史 第三巻第五号」
   1920(大正9)年4月
   「民族と歴史 第三巻第六号」
   1920(大正9)年6月
   「民族と歴史 第三巻第七号」
   1920(大正9)年6月
   「民族と歴史 第四巻第一号」
   1920(大正9)年7月
   「民族と歴史 第四巻第二号」
   1920(大正9)年8月
   「民族と歴史 第四巻第三号」
   1920(大正9)年9月
   「民族と歴史 第四巻第四号」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※編集部の注は省きました。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「土へん+郭」、U+588E    174-2
「糸+寄」    178-9
「有+龍」、U+9F93    213-1


●図書カード