ヴィルヘルム・ヴント

川合貞一




 筆者は一九〇一年から一九〇三年にかけてライプチヒ大学にまなび、ヴントの講義を聴いた。丁度いまから半世紀前のことである。したがってその記憶も最早ぼやけてしまっている。しかしこの思出を書くについて彼の自伝(Erebtes und Erkanntes 1920)をひもといて見ると、彼の思想その他について、これまで漠然と考えていたことがかなりはっきりしてきたように思う。が、ヴントのように、己が思想の展開に絶えず心掛け、それを修正し、純化するを忘れなかった学者の思想を、正しく把握するということは容易なことでないのはいうまでもない。
 ヴントは一八三二年南独バーデンのネッカラウ村の一牧師の家に生れた。一八五一年から一八五六年までチュービンゲン・ハイデルベルヒおよびベルリン大学で医学をまなんだ。そして一八五六年ハイデルベルヒ大学においてハッセ教授の下で『炎症を起し変性を起した器官における神経の変化』(Die Ver※(ダイエレシス付きA小文字)nderngen der Nerven in entz※(ダイエレシス付きU小文字)ndeten und degenerierten Erganen[#「Erganen」はママ])という論文を提出して学位をとり、ハッセの臨床助手として働いたのであるが、当時クリニークにいる患者の中に、皮膚および筋肉麻痺を病んでいる者のいくらかに感覚の局所指定の障害のあるのを見た。そこで、彼は、ハインリヒ・ヴェーバーの触感覚の解剖的基礎に疑いを起こし、心理学的に解すべきであるとなし『感官的知覚の理論への寄与』(Beitr※(ダイエレシス付きA小文字)ge zur Theoric[#「Theoric」はママ] der Sinneswahrnehmung)を書いて、一八五八年から一八六二年にかけて合理的医学に掲載した。それが刺激となってヴントは心理学の研究にはいることになった。ところが、その当時心理学といえば、ロッチェ、フォルトラーゲ、フォルクマンの著書論文のようなものがその主なるものであったとのことである。とにかく、彼が心理学の実験的作業を始めたのはハイデルベルヒのクリニークにおいてであって、まだ哲学の根本的研究にははいっていなかった。
 ヴントは一八五七年私講師として大学に就職することになり、生理学を担当した。一八六三年には『人間および動物の心の講義』(Vorlesungen ※(ダイエレシス付きU小文字)ber die Menschen und Tiersele[#「Tiersele」はママ])を公にした。この書は、その当時さかんに行われていた進化の思想を、心的生活の発達を感覚や知覚の単純な過程から、さらに一般的な、動物界を包括する研究へおしひろめる計画のもとに書かれたものであるが、動物心理の研究がまだ不十分であり、民族心理学的考察もその当をえないところがあるというので、一八九二年の第二版では書きかえられていくぶん通俗的な実験心理学書となっている。
 一八七四年実験心理学最初の大著『生理学的心理原理』(Grundz※(ダイエレシス付きU小文字)ge der physiologischen Psychologie)二巻が公にされた。それは劃期的な実験的研究の集積であって、彼の業績中もっとも重きをなす。
 彼は民族心理学を別に書くつもりで、民族心理に関する問題を大学の講義に取りあげ、ひさしい準備の後、一九〇〇年『民族心理学』(V※(ダイエレシス付きO小文字)lkerpsychologie)第一巻を公にし、一九一〇年になって最後の第十巻が公にされた。民族心理学の取扱っているのは、言語、芸術、神話および宗教、社会、法律および文化である。そして、それは、言語、神話および慣習なる民族心理学の三区分に関連する民族心理学的考察の中心問題をふくんでいる範囲である。
 ヴントは一八八六年『倫理学』(Ethik)を公にした。初版は一巻であったが、後の版では二巻となり、三巻となり、道徳生活の事実、諸々の道徳的世界観、自己の道徳的世界観をのべている。彼の見解によると、どんな倫理学であっても、その規範をそれみずからの上におくかぎり、どうしても道徳的価値の個人的、したがって主観的にして官能的な評価にまかせるということにならざるをえない。たとえば、個人主義的功利論であれば、各人の功利、すなわち快楽という主観の感情の満足が道徳上の規範となってこなければならぬ。が、それでは道徳的なるものの真の内容を明らかならしめることはできない。したがって、どうしても、道徳法則の発達のよって生ずべき客観的に与えられたものを一つの予想としなければならないとなし、文化の促進を道徳的規範とした倫理学を立てるにいたった。
 倫理学のほかに、一八八九年『哲学体系』(System der philosophie[#「philosophie」はママ])をはじめ、いくたの著書を公にしているが、ヴントの思想はこれまであげてきた諸書の中で大体つくされているといっていい。
 ヴントは一八七四年スウィスのチューリヒ大学にまねかれ、唯物論史の著者として知られていた新カント学派のフリードリヒ・アルバート・ランゲの後任として、正教授として帰納哲学を講ずることになったのであるが、彼は一八七五年夏の学期には論理学一週四時間と一週三時間の民族心理学とをはじめて講ずることになった。ハイデルベルヒでは、大抵一週一時間か二時間の講義をするだけであったので、今度はずいぶん骨が折れそうに思われた。ところがいよいよ講義を始めるというすこし前になって、久しく忘れていた部厚な二冊の講義ノートを発見した。それには二つの講義内容が逐語的に書きあげられていた、とみずから語っている。それをもって見ても、ヴントが論理学および民族心理学に対して、ずっと以前から準備していたことが分かる。彼は一八七五年秋ライプチヒ大学へ転任し、すぐつぎの冬の学期に言語の心理学一週一時間の講義をする時、そのノートを逐語的に書き改めたということであるが、そういうところに刻苦精励倦むことを知らないヴントの性格をうかがうことができる。
 ヴントがチューリヒ大学帰納哲学正教授に就職して最初に論理学と民族心理学の講義を並行的に行ったということは、完成した彼の思想体系の上から考えると、意味あることのように思われもするが、彼の告白しているところによると、実はそうではなかった。というのは、その当時においては、まだ、論理学的研究の結果と民族心理学的研究のそれとの一致点および差異点をたがいに比較し、どこまで、心理学的見地が論理学の上に、また民族心理学の中で考察された複雑な精神機能の上に一定の影響を与えることができるかなどということには気がつかなかった、といっているからである。
 筆者はライプチヒで四学期間ヴントの講義を聴いたが、そのあいだ、心理学一週四時間と哲学史一週二時間の講義があっただけで、それ以外なんの講義もなかった。それは、彼が心理実験場を主宰していたからかも知れぬ。講義は五百人もいれるに足るような大学でもっとも大きな階段教室であった。ヴントは半紙四つ折ぐらいの白紙四、五枚に覚書を書いてきて、すみずみまでもよくとおる力強い声で講義した。筆者の講義を聴いた時は彼はすでに七十才の高令に達していたが、元気旺盛老人らしいところはすこしもなかった。彼は講義中、ときに皮肉をまじえ苦笑することがあった。哲学史の講義の時であるが、哲学史家として聞こえた新カント学派のヴィンデルバンドの哲学史をあげ、その表題に文化との関連においてとあるのを捉えて、「それはただ表題にだけ」といって苦笑された時にはいかにも皮肉に聞こえて聴講者は一齊に足踏みをしたものである。ライプチヒには多数のわが留学生がおり、文科系統の者も常に三、四名はいた。が、ヴントの講義にかかさず出席するのは早稲田からきていた金子馬治君と筆者とくらいであった。どういう折であったか、心理実験場の話がでて、入れてもらおうではないかということになり、ヴントに申出ると、ヴントは、心理実験場の助手を兼ねていたヴイルト私講師を通じて、客員として入れてやろうということで、しばらく心理実験場へも通った。
 すると、ほど経て、ヴントから招待状が舞込んだ。読んでみると、キュルペ教授が出てくるので一夕会をするから出て来いとあった。いってみると、来客は教授を主賓として、ほかはヴントの旧い弟子達と息子を合せて十人ほどのいたって家族的なあつまりであった。食後よもやまの話が出で、ヴントは息子を紹介し、目下古代言語学を勉強しているといっていた。それが後に『ギリシャ倫理学』という大著を書いたマクス・ヴントである。それから、言語の話が出て、ヴントは、仙台の某氏から日本語について通信を受けているといっていたが、その某氏というは、二高教授だったということである。この筆を執るにあたって、その名前を思い出そうとしても思い出すことができぬ。一九一一年に公にした『心理学入門』(Einfiihrung[#「Einfiihrung」はママ] in die psychologie[#「psychologie」はママ])という小冊子の統覚の章で、統覚的思想結合とただの連合との差異を説明するにあたって、前者の例として清少納言の枕草紙の[#「枕草紙の」はママ]巻頭にある「秋は夕暮、夕日はなやかにさして云々」の文章を挙げているが、それなどは某氏の通信からえたものかも知れぬ。
 それから、ヴントが哲学史を久しく講義しつづけたということは、ちよっと[#「ちよっと」はママ]異様に感ぜられよう。もとよりその思想体系の上からみると、発達の思想が重要な契機をなしている関係から哲学史のようなものもつづけて講義するようになったものと考えられもしよう。しかし、それには一つの機縁がある。というのは、ヴントが一八七五年チューリヒからライプチヒへ転任してきた時、哲学史家ハインツェが同じくライプチヒへまねかれてきた。ハインツェは哲学の言語学的歴史的方面を担当し、ヴントはその自然科学的方面を担当するはずであった。ところが、ハインツェは講義科目を厳密に限定するのは面白くないからその選定を自由にしようではないかと提言した。ヴントは喜んでそれに同意し、第三学期から哲学史を講ずることになり、ハインツェも時に心理学を講じた。そういう次第でヴントは哲学史も講義することになったのであるが、講義をつづけているうちにそれに興味をおぼえるようになり、ことに哲学の歴史をもって将来の思想の展開に光をなげるものと信じていたところからであろう。彼は哲学史の講義は、講義の中で一番好きなものとなったといっている。筆者の聴いた古代哲学史の講義のごとき、古代の自然科学や数学と哲学思想のつながりを明らかにした、きわめて興味深いものであった。
 ヴントの思想体系はこれまであげてきた著書でもって完成されているわけであるが、ここにその略図を描くとするとつぎのようになるであろう。
 ヴントは、心理学をもってあらゆる精神科学の基礎科学であるとするのであるから、精神科学はいずれも心理学の上に立たなければならぬ。しかし、その心理学なるものは、ただ、個人的意識に現われる過程だけを取扱うところの個人心理学だけに限ぎられているのではなく、人間の共同生活の上に現われる複雑な精神的過程を考察の対象とする民族心理学をもふくんでいるとする。それで、ヴントの思想体系の上では、個人心理学、すなわち実験心理学の上層建築をなすものは民族心理学であって、心理学はそれでもって完結するものである。
 こういう根本的考え方に立っているので、人はよくヴントをもって、心理学者であって哲学者ではないとなした。それは必ずしも理由のないことではない。というのは、彼が一八八九年に公にした『哲学体系』(System der philosophie[#「philosophie」はママ])を見ても、科学的哲学の問題や分類を説いたり、思惟、認識、悟性概念および超越的概念を論じ、自然哲学や精神哲学を説いているにとどまって形而上学的問題そのものに深く立入っていないからである。
 さて、ヴントは一八九六年に公にし、一九二〇年に第十四版を出した『心理学綱要』(Grundriss der Psychologie)において心的事件の一般的法則として三つの原理をあげている。一、心的成果の原理。この原理は心的結合体なるものは、それを組立てている要素の総和ではなく、新らしい産物であるという、創造的綜合の原理である。二、心的関係の原理。それは合成的産物を組立てている要素相互に内的関係をなしていて、その関係から創造的性質が現われてくる。三、感情生活の多次元性の原理。ヴントは世間に行われている主知主義的心理学の採っている感情の性質を快、不快の二つとする理論に反対して、感情には快不快、緊張弛緩、興奮鎮静の対比した三つの方向があるとなした。この主張には各方面から反対が出てきているが、体験の示すところでは感情の性質はたしかに多い。が、なお検討の要あるのはいうまでもない。以上の原理は、ただ、個人の心的生活に効力を有するだけではなく、全体社会の精神生活においても効力を有するとする。
 ヴントの思想体系では前述のように、心理学があらゆる精神科学の基礎科学であると考えるものであるから、論理学を取扱うにあたっても、それを、経験的現実の彼岸にある、先天的な学問だなどとは考えずして、一段高次な経験の科学と見、他の科学と同じように、文化にしたがって、経験の具象的性質にしばられているものとなし、科学としての西洋の論理学なるものはインドゲルマン文化と一部セミチック文化の創造になるものとなした。
 倫理学であってもそうであって、それが漠然とした勝手な仮定の中に動くというようなものでないというには、生活の客観的精神的財の予想の上に立たなければならぬ。けだし、物質財なるものは、精神財の補助手段であり、その成立の前条件であることができるにとどまっていると。ここに、ヴントのイデアリズムを見ることができる。
 ヴントは、研究へは、アルバート・ランゲによって励まされたといっているが、そうかも知れぬ。とにかく、一八五七年『感官的知覚の理論への寄与』を書いてから、一九一四年『感覚的および超感覚的世界』(Sinnliche und ※(ダイエレシス付きU小文字)bersinnliche Welt)を公にするにいたる五十余年の長年月は、まったく自己の思想体系の展開にささげられた。彼の見解にはいくたの議すべき点があるにしても、心理学および精神科学の発達に寄与したその功績は永く忘れられないであろう。





底本:「心理学講座 第1卷 ※(ローマ数字2、1-13-22) 7 人物評伝」中山書店
   1953(昭和28)年9月30日発行
入力:岩澤秀紀
校正:hitsuji
2019年7月30日作成
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