先日読んだ話のなかに
二月の美しい女ブリードは、キリストの養ひの母ブリジツトや、家庭をまもる聖女ブリジツトといふやうなキリスト教のにほひを持つ一人の女性とは違つて、それよりずつと古い時代の、ゲエルかそれよりも以前の民族に信仰されてゐた火と詩の女神ブリードの姿も一しよにされてゐるだらうと言つてゐる。ドルイドの司祭は彼女を片手には黄いろい小さな火焔を持ち、片手には火の赤い花をもつ「朝のむすめ」として礼拝してゐた。その火がなければ、人間の子たちも洞穴に住む野のけものたちと同じやうなものであつたのだらう。今も春が来るたびに「二月の美しい女」は思ひ出される。人の心に、昔の古い偉大な姿は消えても、をさなごキリストを一夜自分の胸に抱いて子守歌をうたつた養ひの母ブリジツトとして、人間の家庭の揺籠を夜も昼も守る女神として、また九十日の冬眠から天地自然が目をさまして春が生れる歓びとともに、二月の初めに生れた彼女を愛するのであらう。
大西洋の灰色の波と寒いさむい雲霧に覆はれてゐたアイルランドの海岸や、海中の島々に初めて春が来るとき、そのとき聖女ブリジツトの来る前兆が見える。それはたんぽぽ、仔羊、海鳥、普通に都鳥とよばれてゐる鳥どもである。昔のむかしの何時からともなく、春がくれば先づ路傍に黄いろい花を咲かせるたんぽぽ、これが聖女ブリジツトの花とされてゐる。二月のブリジツトの季節になると羊飼たちは霧の中におびただしい仔羊どもの鳴き声をきくことがある、それに牝羊の声が交つてゐない時、それは聖女がそこを通られたしるしだと彼等は信じてゐる、聖女はやがてこの地上の丘にも野にも生れ出ようとする無数の仔羊どもを連れて通られるのださうである。西海岸や遠い沖の離れ島に住む漁師たちは「
「旅びとの歓び」といふ別の名を持つてゐる路傍の黄いろい花のたんぽぽを聖女は胸にさす、彼女がその花を明るい空気の中に投げるとき、みどりの世界が現はれる。
北と東の灰色の風を吹きつける沖のさびしい島で生きることは容易ではない、一本の流れ木も一つかみの泥炭も、異つた種類の小魚の入り交つた獲物も、どれもみんな悲しいほど尊い必需品である。その海岸にギルブリード(ブリードの僕)と鳴く海鳥の声をきく時、島びとは生き返へるやうな歓びを感じる。海鳥はするどい高い声でギルブリード ギルブリードとくりかへして鳴く、聖女がそのとき浜を歩いて行かれる。それは荒い海岸や孤島の話である。もつと豊かな農村の家庭でも、女たちはこの「二月の美しい女」黄いろい髪の親切な聖女にお祈りをする。聖女はをさないものの揺籠の上に身を屈める。赤んぼが微笑する時、母親は聖女の顔をまのあたり見るのだといはれる。
今、私は寒さの中にちぢこまつて、もう幾日したら春が立つかと指折りかぞへて二月の初めを待ちながら、遠い西の国にむかし生れた二月のむすめブリードを思ひ出した。二月二日の