東京に生れて東京にそだち東京で縁づいたFが、はじめて仙台に住むことになつたのは昭和十六年の夏であつた。Fの夫が商工省から仙台の鉱山局に転じて行つたのである。そとに出ることをひどく面倒がる私も、私としては気がるによばれて仙台の家にいく度か泊りに行つた。十六年と十七年の二度の秋、それから十八年の春と、そのたびに十日位づつは泊つてゐたから、つまり三十日間なじみの仙台である。わかい時からまるで旅行の味を知らずに、鎌倉と軽井沢に子供たちの夏休みの七月八月を過すだけで、ある時何かの拍子に東海道は興津ぐらゐまで行つたといふ珍らしい引込み思案の私がはるばる仙台まで出かけて行つたのは、先きが自分の娘の家であるだけでなく、若い時分から歌の方で万葉でも古今でもむやみと読みなれた「みちのく」といふ名にあこがれてゐたからであらう。まことに、「みちの奥」であつた。「冬はさむいのよ」とFが言つたけれど、私はその寒い冬を知らない、ただ好い季節だけの旅びとであつたから。
はじめて行つたのは十月初めの、袷ではまだあついくらゐの名ばかりの秋であつた。その頃は仙台ぐらゐの大きな駅でも、もうタキシーはゐなかつたので、迎へに出てくれたFと私で荷物を下げて電車に乗つた。電車はかなり一ぱいでも、どこか「みちのく」らしくゆとりがあつた。街を通りすぎて「太神宮前」で降りた。その太神宮に向つてFの家の門があつたが、そこからすぐ傾斜になつて古い木の丸太があてがつてある段々を幾まがりも曲がつて下りてゆくと、傾斜面のあちらこちらの平地に四間か五間位の家が立つてゐた。みんな平屋だつたが、それよりもつと下の方にやや大きい二階屋が見えて、そこがFの家である。Mホテルの持ち家で鉱山局が代々の店子であるらしい。その家の側に高い樹が一本、茂るといふほどでなく茂つてゐた。胡桃だとFが教へてくれた。「ずゐぶん高い樹ね! 二階より高い!」と私は感心してながめたが、段々を下りきつて玄関のそで垣のそばを通るとき、仰むいてその樹を見ると、青い実が生つてゐた。信州にもたくさん胡桃があるけれど、私が夏ごとに住みなれた軽井沢の町近くではあまり胡桃の樹にめぐり会はないから、今ここに迎へてくれたこの樹は愉快な影を私の心に映した。玄関に迎へに出たC女のあとから鈴の音がチリチリきこえて小さな仔猫が駈け出して来た。小さな小さな白猫で、生れて二月ぐらゐの奴、私とは初対面の家族の一員である。
家は南に向いて、庭の向うは石垣、石垣の下を一ぽんの道が通つてをり、道にくぎられて大学のひろいグラウンドが見える。そのグラウンドの向うには広瀬川が町の方向に流れ、白い木の橋がかかつてゐて山手の方に行く近みちである。川向うの山には観音様の大きなお堂があつて、夜は夜じう灯が見えた。
この秋はずつと晴天が続いてゐたが、ことによく晴れた日に松島に案内してもらつた。電車が平野や田をはしりぬけて海がみえ始めると、北の国の山野を突きぬけて見る波の色は伊豆や相模の海よりももつと妖しい青さを見せた。松島駅は雑木の崖のすそに立つてゐる小駅で、そこから清潔な感じのする路を下つて行くところは西洋の田舎の気分であつた。(西洋の田舎も都会もまのあたり見たことはないけれど)パークホテルは清らかなアットホームの感じで、たいそう行き届いてゐた。お昼ををはつてから海岸に出て真白な貝がらを敷きつめた路を歩いてゆくと、踏むたびにぴちぴち、ぴちぴち音がした。ここで見る松島ははつきりと青く、どの島にも幾本かの松が立つてゐて、海は写真の海みたいに平らかで、ただ太陽の光だけが実在の島々を見せてくれた。
赤い橋が通じてゐる一ばん近い島に行つてみた。わりあひに広い島で、うねり廻つてゐる道は昔のむかしから踏み慣されてゐて歩きよい。崖には芒がいつぱい茂つて、どこを曲がつてもどこを昇つて行つても、すぐ側が海である。大きな掛茶屋にはお茶がぐらぐら煮えて、パンうで玉子が並べてあり、誰でも誘はれさうに見えた。とある崖ぶちの芒の根もとに男女二人が腰を下して何か話をしてゐた。二人とも青じろい顔をして不断着のままのやうで、女の方は髪も乱れてゐた。仙台あたりから来た人らしく、学生や女学生といふよりずつと年をとつて三十近く見えたが、非常に疲れきつた姿で、すべてどんづまりといふ表情をしてゐた。そこを通りすぎて少し歩いてから「死ぬ相談じやないでせうか?」と私がいふと「だいじよぶでせう」とFが言つた。(どうしても死ぬつもりのやうに心に懸つてゐたので、その後一週間ぐらゐ新聞を充分気をつけて見てゐたが、松島で心中した人の事はどこにも出てゐなかつたから、ほんとうに、だいじよぶだつたらしい)。
橋を渡つて帰つて来てホテルから遠い方の渚を歩き、そこから街道をよこぎつて瑞厳寺に行つた。大門は開かれてゐたが、何か置きわすれられたやうにさびしい感じで、その辺に散り積つた松葉はさびを見せるよりは、荒廃した国土のごみの吹きたまりのやうに見えて、なさけない気持ですぐ戻つて来た。途中おみやげを売る店で松島の絵のついた箸や楊子入をいくつも、それから貝細工のきれいな椿の花の帯止を二つ買つた。一つはCに、もう一つは大森の家に留守居してゐる若い人のために。
もう一度ホテルで休んでお茶をのみケーキをたべて、ほんとに好いホテルだと思つた。帰りの電車を塩釜で下りた。ちやうど夕方で、道路にも橋にも魚のにほひがいつぱいに流れ、いますぐ前に荷上げされた魚が山のやうに投げ出された市場の前を通りすぎると、あまり人には出会はずその辺は魚だけの世界と見えた。
塩釜様へ行く道は左手に川が流れて片側だけの街であつたが、たいそう賑やかであつた。塩釜様のお山の杉の樹々は下の谷からまつすぐに空を被ふやうにそびえてゐたが、坂道はなだらかで昇りはらくだつた。のぼりきつた広場からさらにお宮の石段を上がらうとして振りかへると、遠い海に夕空が紅く反射して、いざり舟がぽつぽつ小さく浮んで、どの舟にもかがり火が見え、歌よみが歌を詠みさうな優にやさしい景色であつたが、見てゐるうちに空がすこしづつ暮れていつた。ちやうどその時お宮の門がしまつた。
仙台行の電車が通つてしまつたあとで私たちは駅にもどつて来たので、時間のあるあひだ明るい灯の町を歩いてみた。東北第一のこの港は景気の好い漁師たちのために賑つて、金物屋、洋品店、古着屋、雑貨店、林檎の店、飲屋、すしや、喫茶店、一品料理、おでんや、何もかも繁昌して気持がよかつた。貧乏人なんてものはこの世に存在しないかと思はれるやうで、見物して歩く自分のともしさなぞは忘れてゐた。ここで私はうれしい掘出しものをした、漁師か農村の人が買ふのらしい十一文の手縫ひの地下足袋であつた。三足あつたのがすぐ売れてたつた一足残つたのだと店で言つてゐた。この雑貨店は古着、洋服、シヤツ、シヤベル、靴、婦人用の日傘まで並んでゐた。その隣りがこの町いちばんの菓子屋なのだが、もう夜だから干菓子しかなかつた。
コンクリの段々を上がつて高いホームに電車を待つてゐると、まぶしく明るい灯の港である。むかし在原の業平が河原の左大臣の家を訪ねると「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに」の歌を詠んだこの左大臣は塩釜の土地の景色を庭に作つてゐた。業平はその庭を見て「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣りする舟はここに寄らなむ」と一首の歌を詠んで家のあるじに敬意を表したといふ話である。その河原の左大臣
この日あるき廻つて少しくたびれたのでその後二三日は遠くへは出ずにゐた。
市内の三越支店と藤崎デパートにはもう東京に見えなくなつた物がまだ沢山並んでゐた。鐘紡の仙台支店は銀座のつながりのやうにモダンで、自慢の食堂はだんだん貧しく苦しくなりつつある国に一つ残された休息所のやうに思はれて、私はたびたび行つて見た。それはランチやコーヒーや洋菓子だけのためではなく、過去につながる豊かな物への悲願でもあつたらうか。一ばん好ましく思つたのは丸善の店。本や雑誌は残りすくなくなつてゐたが、洋品雑貨、石けんでも香水でもおしろいでも、スートケース、銀貨入、かうもり、日傘、何もかも外国のにほひのする物ばかり、いくさの国が一息に粉砕してしまひさうな物ばかりで、それを見るほどに、手に持つて見るほどに、だんだんかなしくなつて来た。旅費の都合がゆるさないから、小さい香水ぐらゐをKにおみやげに買つただけであつた。
少し遠いけれど、ふんぱつして中尊寺に行つて見ませうと言はれて、非常に遠いところにゆくやうな気持で出かけた。汽車はからつぽのやうにすいてゐた。もうこの辺から岩手県といふあたりはひろびろとみちのくぶりの世界を見せてゐた。三時間くらゐ乗つてさびしい平泉の駅に降りた。バスがあるのでじきにお山まで行くことが出来たが、昔の旅びとは途中だけで疲れてしまつたらう。
物古りた杉の路をのぼるのである、かなり急な坂道で私はうしろからFに腰を押し上げてもらつた。のぼりきつてしまふと、杉はすくなくなり、大きなもみぢの葉がひらりひらりと散つて中尊寺の御本堂の前は明るい平地であつた。大きな茶店では絵はがきを売つてゐた。山の入口で案内者を頼んだので私たちは安心して山の中を歩きまはり金堂の前に出た。
金堂は素朴なちひさなお堂で、優雅なものだつた。宝の壺の中にひそむ古い香のにほひを嗅ぐやうに、古い古い事を考へてゐると、もろこしから伝へられて来た黄金文字の経文、三代の勇将たちのお骨を守つてゐる仏の御像、さういふ物のもつと裏の、もつと奥深いところに隠されたみちのく藤原族のたくましい夢と救はれがたい悲願とは千年のちに生れた者の心にまで突きとほる。うろ覚えの歴史を考へてみても、一人の武将義経なぞのためにこの東北王の家がほろびたことはもつたいない無駄な事であつた。しかし、一人の義経なぞのためにと私は思ふけれど、何といつても源の頼義以来のなじみある奥州の土地で、清原藤原の強大な豪族の彼等であつても、天子のお血すぢの伝はる源氏の家を何かしら自分たち以上のものとして尊み仕へる習慣でもあつたらう。その源家の一人の大将義経を保護することは彼等の義理であり、光栄であつたのかもしれない。それに一族の英雄時代は過ぎて凡庸の当主の世になつて、あれほどあつけなく滅びたのであらう。それにしても藤原一族の生命であり、力であつた黄金が彼等の全滅後ただの一枚でも敵に発見されなかつたことはじつに愉快だつた。みんな使ひ果したのか、それとも何処ぞの山か谷の奥に彼等の宝庫が今も眠つてゐるのだらうか。夢と不思議のこもるお堂の前に立つて私はしばらく念じてゐた。「勇士たちよ、いま日本は戦争してくるしんでゐます。勇士たちよ、私たちは苦しんでゐます」と私は祈るともなく祈つてゐた。
すばらしい杉の大木のあひだをぬけて裏山の方へ出ると、向うの黄ろい草山のすそを大きな河が流れて水が白いしぶきを立ててゐた。
栗をうるをばさんに会つて「栗はいかが?」と訊かれたが、私たちは帰りみちが遠いからと断つた。茶店の前をもう一度とほり過ぎて坂を下りかける辺に栗が沢山おちてゐた。あのをばさんもこの辺で拾つたのだらう。その坂道をまがる時、義経の高館の城跡が遠い田の中に見えた。永い年月をすぎては小さいつまらない丘である。その丘の向うの方にも大きな河が流れて、その河と、河の流れを隠す萱山のつながりとを見てゐるとき、荒涼たる自然にもうすつかり満腹したやうに感じた。さようならである。私たちは案内者にもここでお礼をして別れた。
「それではお先きに
たまきはる生命たのしみみちのくの鳴子 の山のもみぢ見むとす
昭和十七年の十月、こんな歌を詠んで私は紅葉見物のつもりで出かけて行つた。たつた一年の月日に世の中はぐんぐん苦しくなつて来たが、それでもまだ私は紅葉を考へる心のゆとりを持つてゐた。仙台の駅は前の年よりもずつと電気が暗いやうだつた。仔猫のおタマさんはかなり育つてさつそうたる若猫になつて、大きなリボンの頸輪をして私を迎へてくれた。
一日やすんでから私たちはお弁当を持つて仙山線に乗つて出かけた。「山寺」の山のもみぢが朝日に美しい色を見せて、何となく
ほかに誰もゐない私たちだけの車のやうな気もちで庄内平野を通り過ぎて行く。山々はずつと遠いから赤くも青くも見えなかつた。天童といふ駅に来た時、濃い桃いろのスウエターを着て金茶いろのズボンをはいた娘さんが一人、ちやうど発車しようとするバスに乗つた、これはどこかの温泉行のバスらしかつた。東京には見られないやうな健康さうな裕福さうな若い娘であつた。ここの天童といふ町の名は日本には珍らしい字で、何か聖母様に関係があるのかとも思つたが、Fに何もきかずにうとうとして新庄まで行つた。
鳥海山の頂上に急に黒雲がかかつたと思ふと、新庄に着いたとき雨が降つてゐた。駅のすぐそばの下駄屋にはいつて小学生の使ひさうな子供の番傘を買つて二人でさして歩く。Fはこの前に新庄の町で買つた牛肉がおいしかつたと言つて、けふも牛肉を買つた。町にはいま兵隊さんたちが泊つてゐるので、いろいろな食料が手に入るらしかつたが、お菓子やまんじうなぞは売りきれてしまつた。
新庄で乗りかへて小牛田の方に出る線に乗つた。この沿線の紅葉はすこし盛りをすぎたと思はれたが、山々は荒く重たく自然の強さを見せて私を旅びとらしいたよりなさにした。むかし安倍の一族が闘つたのはこの辺らしいのですとFが言つたが、けふは少ししぐれて、無人の野と山とに紅葉が散るばかり、「みちのく」は広すぎて東京人をみじめに感じさせた。途中で日がくれて
それから二三日して、こんどは少し遠く、石の巻まで行くことにした。電車の窓から松島の海つづきの青い波をながめて昨年の事を思ひ出した。「手樽」といふ小さい駅を過ぎて、駅の人が「テダル」と呼んでるのを私は
をはり悲しく田道 将軍が眠りいます蛇田よけふは秋の日のなか
石の巻の町に近くなつてくると、その辺の道や畑いちめんに魚が乾してあり、肥料にするのださうで、奇妙なにほひが潮風と一しよに流れて空にまでにほつてゆきさうである。漁師の家はみんな裕福さうで、明るく静かで、庭の石垣の下まで海が来てゐる。せまい庭に樹はなく、大ていの家に白い菊と黄いろい菊がいつぱい咲いてゐた。これはみんな食料だといふ話。電車にはかなりたくさん乗つてゐたのだけれど、駅で下りるとその人たちは二人づれ三人づれ何処ともなく散つて、私たちはたつた二人だけで歩いて行つた。塩釜の町ほどの賑やかさはなく、もつと古代のにほひがするやうに感じた。この町の大通りである賑やかな一本みちを行つて又帰つて来るとき、Fは持つて来た小さいお駅に近い方に戻つて来て
「
みちのくの海辺の家にみだれ咲く黄菊しらぎく
水に立つ石垣ふるく黒ずみて秋日のなかに白きかもめら
海かぜも日もまともなる丘の上に
石の巻
青海の波にひとすぢかげりあり北上川の水流れ入る
仙台の動物園はかなり大きいもので、ずつと以前浅草の花屋敷が持つてゐたのを仙台市で買つたのだといふことである。Fの家の二階から見ると、大学のグラウンドの向うの右手の丘のすそにその大きな白い門が見え、夜は夜じう一つの電燈が光つて、向うの丘の観音様の灯よりも近いだけ大きく光る。その動物園にあまり興味は持たなかつたがCと二人で行つて見た。お役所といひたいやうな広いいかめしいお庭で、門をはいつて一ばん初めのところに猿たちがゐる、複数も複数、たいへんな複数で、とてもおびただしい猿たちがひろい金網の区ぎりの中でのんきににんじんを食べ、蚤の取りつこをしたり、林檎の皮をむいたりしてゐる。「猿が島」と呼ばれてゐたさうである。上野にゐる生きものたちと同じやうにこの庭にも沢山の住み手がゐて、象だけはゐないが、ほかの動物仲間は大ていゐた。虎は二ひき、虎らしく動いてゐた。少し離れた大きな檻にライオンがゐた。広瀬川がざつざつと流れるその音にいちばん近い場所で彼は秋日の中にひるねしてゐた。何もかもつまらなさうな、あきらめてゐるやうな姿でもあつた。熊もゐた。熊もつまらなさうだが、それでも何か
「お猫さんたちや、この広いお庭の中で、あなたたちと熊さんがいちばん好きです」とペルシヤ猫に言つた。
帰らうとしてまた出口の猿のところまで来た。ほんとうに群がりうごく猿の島である。やや疲れたらしく夕日にうづくまつてゐるものが多い。彼等のいしきがどれもどれも赤い。向ふの山のもみぢよりもずつと赤く、もつと現実味の赤である、それをみんながこちらに向けてゐる、いきにも帰りにもにんじんを買つてくれないなんて、ぼんやりなお客だね。そんな奴、臀を向けてやれと一ぴきの猿が言ひ出して猿から猿にさう言つたらしく、猿が島じうの猿がことごとく私たちに臀を向けてゐた。人間はまことにぼんやりの動物であるが、全体のストには気がついてすつかり照れて帰つて来た。
昭和十八年の春、四月の中ごろ私はまた仙台に行つた。黒磯あたりの桜が満開で、東京では見られない濃艶ないろを見せてゐた。神国とかみそぎとか訓練といふような言葉ばかし東京で聞いてゐる身には、むかしの昔から日本に咲いたであらう花々をながめ、遠い北の空にあたらしい雪を頂いた高い山々の姿なぞ見てゐるとき、自分がむかしの世に生きてゐるのか、現代を通り過ぎた明日の世界にふみ入つてゐるのか、ぼんやりした気もちで四方の景色を見て過ぎた。平野の人の住む村ざとには桃やこぶしが紅く白く咲きあふれて、都から出て来たものに殊に季節のにほひを深く感じさせた。
仙台の家では白猫がびつくりするほど大きくなつて、いろいろな芸をするやうになつてゐた。私のにほひを嗅いで、一年間わかれてゐた友達をおもひ出したやうである。
塩釜様のお宮の桜が今ちやうど盛りだといふことだつたが、まづそれより一歩近いところにと言つて、翌日は躑躅が丘に行つてみた。電車を下りてからすこし昇つて行くのである、仙台の何師団かが占領して、広い丘の半分以上は兵隊さんがあちらこちらに立つてゐたが、それにもかかはらず丘のしだれ桜は美しかつた。今までどこかの庭にしだれ桜が稀に一本ぐらゐ咲いてゐるのを見ただけの眼には、この公園全部に咲きみだれてゐる花を見ることは珍らしかつた。青い空としだれ桜と、その花を見る人たちもみんな古風な年寄やおかみさんが多く、非常に地味な清らかな感じがした。「さんざしぐれ」とかいふ歌の調子は知らないが、そんなやうなさびがあると思つた。
丘のうへはしだり桜の花咲きみち東北のみやこ日も清らなる
そこを通りすぎて丘の中ほどにある政岡の寺といふのを見た。大きな辛夷の木が一ぽん立つてゐて、無数の白い花が青ぞらを覆ふやうに咲いてゐた。寺の中からはお線香のにほひがしてお経の声がもれて来る。ここに来てえらい政治家政岡の話を考へ、辛夷の花の下の古い寺を見ると、芝居に出る忠義の見本みたいなつまらない人形ではなく、彼女の本物はもつと美しくお色けもあり、時々は好ましい笑顔も見せたことと思はれる。すばらしい腕をもつてゐた人にちがひない。
北の方の傾斜面から仙台の
強い風が二三日ほど続いて花も散りはじめたといふ噂をきいたので、塩釜へは行かず仙台の市中を歩いてみた。
広瀬川に添つた谷あひからいくつも道を曲つて大学教授たちの住む静かな部落に行つて見た。どこも一ぱいに花が咲いて、中にも二本の大きな桜が庭に咲いてゐる家を見た。その花々がすこし散り始めて、そのあたり人影もなく、午後の日ざかりに家々はしいんと眠つてゐるやうで、聊斎志異の物語に出てくる女の子や老人がそこのどの家かに住んでゐるかと思はれた。先生がたもかういふ静かな明るいところで本を読みながら年をとるのは幸福であらうと私には思はれた。
帰りに坂を下りて近みちをするため大学のグラウンドのそばの橋をわたつた。二三日前から橋の修繕をしてゐるのを私たちの家の方から見てゐたが、今日は工事も片づいたらしく、渡つてゆく人が二人も三人も見えたから、私たちも渡つてみた。するともうすこしといふ所で、ほんの二三間だけまだ板が張つてなかつた。私たちは下駄をぬいで片手にぶらさげ片手で欄干につかまつて橋桁の上をのろのろ歩いた。下をのぞくと広瀬川の浅瀬の水が石に白くぶつかつてざぶざぶ流れ、学校がへりの子供が悪戯をする時のやうな気持だつた。
四月十八日街で買物をして鐘紡でお茶を飲んでから外に出ると、ひろい道路の角に大きな紙が張り出され、敵機がはじめて東京の空に来たといふ報知が出てゐて、その前は一ぱいの人だかりであつた。私はFと顔を見あはせて「もうこれきり仙台に来られさうもないわ」と言つた。その広い四つ辻の向う角に行つて丸善の店にはいると、この一大事の報道を見た人たちであらう、この店にいつぱいはいつてゐた。みんなが当分は、あるひは永久に、触れることのできない外国のにほひに別れを惜しむために集つてゐたのであらうか? 銅の美しい蝋燭立や紳士用の雨傘、うす茶色のパジヤマなぞ、自分におよそ縁の遠い物まで私は手に取つて触つてみたが、買つた物は歯ブラシと浴用石けん、すこし色のあせた毛おりのスリツパ位なもので、本の店と言つてもこの時分となつては外国の本や雑誌は何も見えないやうだつた。
私は二三日様子を見てから、ほんとうに仙台の町にさよならした。