ばらの花五つ

片山廣子




 むかし私はたいそう暇の多い人間だつた。どうしてそんなに暇があつたのかと考へてみると、しなければならないもろもろの仕事をしなかつたせゐだらうと思はれる。
 さういふなまけものの人間が時たま忙しいことがあると、すぐ草臥れてしまつて、くたびれた時には散歩をした。
 さて、ある時の散歩に私の家からあまり遠くない馬込の丘をのぼつたり降りたりして歩いた。馬込九十九谷とか言つて、丘と谷がいくつも連なり、どの丘もどの谷もみんながそれぞれ違つた光と色を見せて、散歩するにはたのしい道であつた。その日私が歩いてゐたのは、今は小学校が建つてゐるその辺の谷から広い丘にのぼる小みちを少し左にまがつて東南に向いた傾斜面であつた。その辺は殆どみんな畑で、ごくたまに小さい別荘風の小家が見えたが、私がちよつと足をとめたのは、そのひろい斜面を庭にして(もと畑であつた土地ゆゑ、まだ樹は一本もみえなかつたが)ばら園をはじめるらしく、ばらの大きな株がいくつか植ゑられ、小さい株はごしやごしやとその辺いつぱいに見えた。ちやうど六月の初めで、大きな株にはたくさん花が咲いて咲きすぎる位だつた。
 その新ばら園の主人らしい人がその辺を掃除してゐたが、まだ四十ぐらゐの、背の高い清らかな風采の紳士みたいな人で、身なりはばら園のおやぢらしい恰好をしてゐたが、それはまだ借りものらしい姿に見えた。垣根もない路ばたに立つてゐた私はその主人と眼を見合せたので、かるくお辞儀をして、たいそう好いお花でございますねと、素人に対するやうなことを言つた。主人はすこしはにかんだやうに、いや、まだ始めたばかりで、あまり好い花は咲きませんと謙遜した。私は通りすぎようとしてもう一度言つた。そのお花をすこし分けていただけますかしら? どうぞ。いくつ位さし上げませうか? 五つ位、どうぞ、と言つた。主人は腰の鋏をとつて花をきらうとして、すこし躊躇するやうに言つた。これは、お代をいただいて、よろしいでせうか? はあ、けつこうでございます、どうぞ、と私も赤くなつた。のんきらしい顔をしてゐても、その大輪のばらの花を五つ、ただ無心する気はないのであつたが、新しいばら園の主人は代を取るといふことがたいそう骨の折れるむづかしい仕事らしく、それでは、一輪八銭づつ頂きますと言つて、花をきり始めた。さて五十銭銀貨を出すと、おつりをと、彼はポケツトに手を入れたが、いいえ、おつりは、もうけつこうでと私が止めたので、それでは花をもう一つと言つて、彼は咲きかけたつぼみを二つきつて出した。なんと、その可愛いもも色のつぼみが二つで十銭也のおつりであつた。私はその二つのつぼみを貰つたことが嬉しいやうな悲しいやうな気持で歩き出した。

 あとで聞いた噂では、そのばら屋さんは、東海道すぢの或る県のお役人で、知事さんのつぎ位な地位にゐた人であつたが、あるとき世間を騒がした疑獄事件で部下のためにわざはひされて退官し、世間から隠れてこの丘に引越して来たのだといふこと、これは誰もたしかに聞いた話ではなかつた。秋咲きのばらの咲く時分に私はまたその辺の畑みちを歩いてみたが、その日は植木屋らしい若い男が働いてゐて、主人は見えなかつた。それから二年ばかり過ぎて、この人は青天白日の身になつて又もとの世界に花々しく帰つて行き、馬込の畑は別の人の家となつた。その後二十何年か経つて、たぶん、戦争中にその人は亡くなつたやうであつた。

 終戦以来、戦争の恐れだけはなくなつても、せまい入物の中で攪き廻されてゐるやうな私たちは、みんながどん底に堕ちて、但し反対にのし上がつた人もすこしはあるけれど、大ていの人は生活のために何かしら仕事をしなければ、生きてゆかれない状態に押しつけられてしまつた。その中の一人である私も、何か働きたい、何か仕事を持ちたいと願つてゐたが、求めもとめてゐる人には何かしら思ひがけない道が開かれるやうに思ふ。私はたえて久しく忘れてゐた丘の上のばら屋さんをまた思ひ出した。ばらの花をきり、つぼみを一つきり二つきり、小さい利益と小さい損失を積みかさね、積みかさね、自分の新しい仕事を育ててゆかなければと、この頃しみじみ思ふやうになつた。お花やお茶の先生も、洋裁も、玉子を売ることも愉しいだらう。洗濯婦になることも勇ましく気持が好いだらう。何かしら仕事をして、人におんぶしない生活をしてゆきたい。そして何よりも先づ私たちの詠歎を捨てて行かう。しかし考へてみると、この短文が全部一つの詠歎であるかも知れない。もし、さうだとしたら、ごめんなさい。





底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
初出:「美しい暮しの手帖 十一号」暮しの手帖社
   1951(昭和26)年2月
入力:竹内美佐子
校正:富田倫生
2008年10月14日作成
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