豚肉 桃 りんご

片山廣子




 軽井沢の家でY夫人から教へて頂いた豚肉のおそうざい料理はさぞおいしいだらうと思ひながら、まだ一度も試食したことがない。(その夏は中国と日本とのあひだが険しい雲ゆきになつた年であつた、しかし私たちはまだ軽井沢に避暑に行くだけの心の余裕をもつてゐた。)それはY家の御主人がドイツに留学してをられた時に宿の主婦が自慢に時々こしらへたおそうざい料理だつたさうである。豚肉を三斤位のかたまりに切つて肉のまはりを塩と胡椒でまぶし深い鍋に入れて、葱を三寸ぐらゐの長さに切り肉のまはりに真直ぐに立てて鍋いつぱいにつめ込むのである。水も湯も少しも入れずに葱と肉から出る汁で蒸煮のやうに三時間ぐらゐも煮ると、とろけるやうにやはらかい香ばしい料理ができるといふお話であつた。
 その夏その料理を教へていただいて帰京してからの私たち東京人の生活はだんだん乏しくなつて、やがて一斤の肉さへ容易に手に入れがたくなり、葱なぞは四五本も買へれば運がよいと思ふやうになつた。その貧乏生活が十年以上も続いて漸くこのごろはどんな食料でも手に入るやうになつて来たけれど、しかし店々にどんな好い物が出揃つても、大きな買物をすることは今度は私のふところ勘定がゆるさなくなつて、私の家の大きな鍋に三斤の肉の塊りとそれを包む葱を煮ることはまだまだ出来ずにゐる。
 軽井沢の家では夏じうよいお菓子を備へて置くことも出来なかつたから、お客さんの時は果物のかんづめをあけることもあつたが、大ていの時は桃をうすく切つて砂糖をかけて少し時間をおいてからそれをお茶菓子にした。水蜜よりも天津桃てんしんももの紅い色が皿と匙にきれいに映つて見えた。半分づつに大きく切つて甘く煮ることもあつたが、天津のなまのものに砂糖と牛乳がかかるとその方が味が柔らかく食べられる。天津てんしんは値段も味も水蜜よりは落ちる物とされてゐたが、ふしぎに夏のおやつにはこの方がずつと充実してゐた。戦後になつてからは天津てんしんはどこにも見えなくなつたが、惜しいやうに思ふ。T老夫人やH老夫人はそれをとてもおいしがつて食べて下さつた。この夫人方はお若い時からの社交夫人で内外の食通であつたけれど、こんなやうな不断のお八ツはごぞんじなかつたやうに、砂糖でころす時間なぞ悉しく訊かれた。そんなことの後で私はふいと奇妙な感じを持つた。桃をこまかく切つて砂糖をかけて置くことは私の父が好物で、麻布の家のうら畑に一ぽんの桃があつたのが熟すとすぐ採つて小さくきざんで砂糖をかけて私たちみんなで食べた。それは古くからの日本桃で実も小さく、水蜜の熟さないもののやうに青白い色をして、しんに近いところが天津のやうに紅い色だつた。その時分はそんな桃でも、さうして味をつけ加へれば非常においしく、父が外国でさういふ風にして食べなれて来たものと思ひこんで、母に何もそんなことは訊かなかつた。しかし、ひよつとしたら、これは外国風のたべ物でなく、父と母の郷里の埼玉風のたべ方だつたのかもしれない。私の母や婆やなぞは迷信のやうに砂糖の効力を信じて、どんな酸つぱい物でも生水でも砂糖でころせば決してお腹にさわることがないと言つてゐた。おぼんの季節に下町の人たちが訪ねて来ると、まづ第一に深井戸の水を汲んで砂糖水にしてお客にコツプ一杯御馳走した。明治の或る年、コレラが流行した夏でも砂糖水なら大丈夫ですと言つて、どこまでも砂糖の殺菌力を信じてゐたやうである。それゆゑ砂糖でころすといふ言葉もあるひは田舎なまりかもしれない。ころすといふ字を辞書で見ると、「死なせる 命を断つ 圧しつけて小さくする ぐ 減らす 抑へつけ十分に活動させない 質物を流す」等である。しかし魚を酢でころすといふやうな事はよく聞いてゐるから、あるひは民間にゆるされた言葉であつて、あながち田舎に限つたことでないのかも知れない。これは桃に砂糖をかける話からその歴史に疑ひを持つた私ひとりの内しよ話。
 さて麻布の家の桃の連想から麻布谷町のある仕立屋さんの庭の林檎を思ひ出す。その麻布谷町といふところは今の箪笥町の近辺である、今でもその名の町はあるのだらうが、片側に氷川台の高い崖地があり、向うは霊南坂から市兵衛町につづく高台で、そのあひだに谷の如く横たはるきたないまづしい町で、その時分には溜池の方から六本木に出る今の大道路は影もなかつた。谷町といふ名の現はすやうにそこは陰気な感じの裏町で、自分たちの住む高台の町とは遠い世界のやうに子供心にも思つてゐたが、その町に私の家の仕立物をたのむ母と娘の仕立屋さんがゐた。その辺としては広い家で、古びた格子戸をあけると玄関の二畳があり茶の間の六畳が続いて、その奥に八畳、それから黒びかりする縁側、そのそとはかなり広い庭。三十坪か四十坪ぐらゐの庭にはいろいろな小さい木々が、桃や躑躅やかなめ、椿、藤、それから下草のやうなものがめちやに沢山しげつて、まん中に小さいお池があつた。それは水たまりといふよりはずつと立派なほんとうのお池で、緋鯉か金魚がゐたやうに覚えてゐる。そのお池の向うの、この庭のいちばん端のところに林檎の樹が二本あつて、大切に棚が出来てゐたやうである。古くからの日本りんごであつたから実が小さくて今の紅玉なぞの五分の一にも足りない大きさであつたが、仕立屋のお母さんは大事に大事にして、私なぞ子供のお客が行くとそれを取つて来て、皮をむいて小さく切つて小楊子をつけて出してくれた。この人たちは士族の家の後家と娘で非常にお行儀がよく、その林檎もきれいな青つぽい皿につけておぼんに載せて出したやうだつた。林檎のすつぱいこと、すつぱいこと、泣きたいやうなその味も、さてこの林檎がどんなに珍らしい物であるかをお母さんがうちの婆やさんに幾たびも話してきかせるから、子供ごころに大へん尊いものと思つていただいた。ほかの駄菓子やおせんべいも御馳走になつたのだけれど、ほかの物は何も覚えてゐない、ただ酸つぱい林檎は今でもその仕立屋の家を思ひ出させる。その後家さんと娘は近所の女の子たちに裁縫を教へ仕立物も引受けてほそぼそと静かに暮してゐたのであらうが、満ち足りた、賑やかな、愉しさうなあの態度は今のこの国の内職組に見せたいやうである。あの頃の士族、徳川様の御直参といふ人たちは何か後に反射する過去の光をひきずつてゐたやうで、悲しく優美な背景は現代の斜陽族の比ではなかつた。洗ひ張りした黒つぽい縞のはんてんと縞の前掛、浅黄や紫の小ぎれを縫ひ合せたたすき、そんなつつましさと落着は今日でも思ひ出される。質素に愉しく生きるすべをよく知つてゐた彼等である。
 仕立屋さんの背後の丘、つまり氷川台の方はすばらしく名家ぞろひの丘で、N男爵の一万坪以上もある別邸、A海軍中将の明るい洋風の屋敷、その隣りもS子爵の別邸、たつた三軒の家で何万坪かの面積をしめてゐた。そこを通り越すと右へ谷町の方に下りる坂、左へ折れると屋敷町で勝伯爵や九條公爵の家々があつたが、今そんなとこまで私は行くのではない。A海軍中将の家のことである。A中将は軍人ながら大変な金持で下町の神田日本橋辺にも沢山の土地を持つてゐるといふ噂であつた、もう疾くに隠居して西洋の軍人みたいにのびのび暮してゐるのだつたが、屋敷の一部を割いて立派な西洋館で外人向きの大きな貸家を二軒ほど持つてゐて、内外の名士に貸してゐたらしいが、私が思ひ出すのは、或る時イギリスの詩人サア・エドウィン・アーノルドが日本に来てその家にしばらくゐたことである。詩人は令嬢を連れてゐた。
 その時分(仕立屋にお使に行つた頃よりずつと後のことである)私のゐた女学校はカナダ人が建てたものだから、当時イギリス第一といわれてゐた詩人に講演を頼んだ。私たち子供は何も分らず、ただ有名な詩人と聞いてどんなにスマートな人だらうと内々期待して講堂に出てみると、もう好いかげんなをぢさん顔の人で(五十代であつたらうと思ふ)背があまり高くはなく、顔はどことなくロシヤ人のやうな厚みがあつた。講演なんぞしたところで十七八をかしらの女学生に分りつこないのだから、詩人は自作の詩を読んだ。私たちにわかるのは一節一節のをはりに「ハナガサイタ、ハナガサイタ」といふ日本の言葉だけであつた。猫に小判といつたやうに、もつたいないけれど何も分らなかつたが、それでも、今でもその「ハナガサイタ」を覚えてゐるのはふしぎである。やはり、詩人の好い言葉であつたのだらう。
 詩人はずつと前に夫人を亡くして独身であつた。詩人の大家さんであるA家の令嬢に恋を感じて日本むすめの彼女を讃美する詩を書いたといふ評判だつたが、どんな詩であるか私たち子供はむろん知らなかつた。詩人がプロポーズしたといふ噂もほんのり聞いたけれど、A令嬢は現代の娘たちとはまるで違つてじつに落ちつき払つた美人であつたから、だれもその噂の真偽を伺ふことはしなかつた。彼女はその時分私と同じ学校の三つぐらゐ上の級であつたが、間もなくそこを止めて上野の音楽学校にかはつた。琴もピヤノもうまかつたが琴の方では作曲もした、後日結婚してから助教授になつて研究を続けてゐたが、夫が実業家としてだんだん多忙な生活をするやうになつて彼女も純粋な家庭人となつたやうに聞いてゐる。さて私のおもひでは軽井沢の豚料理や桃の砂糖漬から飛んで麻布の仕立屋にゆき、仕立屋のうしろの高台まで行つてくたびれたやうである。このつひでに山王様まで行くことにする。
 詩人が来た頃よりずつと以前、まだ私が仕立屋のじまんの林檎をたべたり、氷川様の樹かげの茶店で涼みながら駄菓子のすだれやうかんを食べたりしてゐる時代、時たまはそこからずつと遠征して(妹や弟の婆やとお守りさんの同勢五人で)山王様へ遊びに行つたこともある。氷川様より遠方だし、どことなく封建制のきうくつな世界が子供心にも感じられて、私はあまり賛成ではなくても、毎日の氷川様の避暑に倦きて大人たちに誘ひ出されて行くのだつた。今の溜池のあの辺がずつとお池になつてゐて、(その泥水の池にはたぶん蓮が首を出してゐたやうに思ふのだが、はつきりしない)お舟で向うの岸まで渡して貰つた。それもたのしい冒険の一つで、それから麹町の方に向いた表門ではなく、赤坂に向いた裏門からのぼつて行つた。古びた丸木の段々の山みちを幾曲りもまがつてのぼると、上に茶店があつて遠目鏡をみせてくれた。その目鏡で私たちは向うの世界の赤坂や麻布の家々の屋根とその上の青い空も、白い夏雲も覗くことが出来た。それからお宮におさいせんを上げお辞儀をして、静かなつまらない神様だと思つた。お山じう遊んで歩いても氷川様よりは平地がすくないから落着かない感じだつた。星が岡茶寮のあの家がない時分、あそこはただ樹木だけの籔であつたのか、それとも宮司さんの住居があつたのか、何も覚えてゐない。いくつもの茶店のうちの一軒でお茶を飲みおだんごを食べる、婆やさんがおてうもくと呼んでゐる大きい銅貨を二つ三つ出してお菓子をいくつも買ひ、十銭位のお茶代を置いた。それは相当に使ひぶりの好いお客であつたのかもしれない。
 帰りには歩きやすい広い段々を下りて表門の麹町の方の小路から帰つて来て泥水のお池のところまでくる。渡し賃を払つてお舟に乗ると船頭さんは棹をううんと突つぱりお舟が出る。ひろい池の向うの岸には大勢の客が舟の着くのを待つてゐて、そして泥水のそこいらじうに蓮の葉があつたやうに覚えてゐる。岸についてから、弟と妹は大人の背中があるけれど私だけはいやいやながら歩いて、今の黒田家の前あたりを通り、箪笥町から谷町をまがつて鹿島かじまといふ大きな酒屋の前から右へだらだら坂を上がり、麻布三河台のかどの私の家までたどるのである。ずゐぶんよく歩いたものだとをさないものの小さい足を今あはれに思ひやる。とほい過去はすべて美しく愉しく思ひ出されるといふけれど、私はその暑い日のどうにもならない暑さと倦怠、草臥れて泣きたいやうな不愉快な気分、それを愉しさよりはずつとはつきり思ひ出す、子供の世界は、すくなくとも私には、決して愉快なものではない。ただ一つ、未知の世界に踏み入る一歩二歩に好奇心がむづむづ動いて、それだけが愉しかつた。





底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:富田倫生
2008年10月14日作成
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