徒歩

片山廣子




 銭形平次の時代には乗物といつてもバスも電車もなく、さうむやみとお駕籠にも乗れなかつたらうから、八五郎が聞きこみをすれば、向う柳原の伯母さんの家からすぐ飛び出して神田の平次の家まで駈けてゆく。そらつと言つて平次は両国だらうが浅草だらうが吉原だらうが行つてみなければならない。歩く方に精力を使つてくたびれてしまふだらうと思はれるけれど、その時分はそれでけつこう用が足りてゐたらしい。平次が江戸で犯人の足どりを考へてゐるあひだに、八五郎は三浦三崎まで出かけて、三日三晩やすまずに容疑者の故郷を悉しく調べて帰つてくる。現代人ならば東京に帰る前につぶれてしまふところだけれど、八五郎は足に豆を拵へたぐらゐで平気でゐる。何もみんな習慣の力であらう。
 銭形平次まで遡つて考へないでも、私たち明治の人間の子供時代には、大人も子供もずゐぶんよく歩いてゐた。人力車が安かつたといひながら、それはやはりぜいたくであつた。私の少女時代、土曜日のやすみに寄宿舎から二人乗りの人力に友達と二人で乗つて銀座の関口や三枝さえぐさへ毛糸だのリボンだの買ひに行き、帰つてくると二人でその車代を払つて、歩いて行けるところだともつと何か買へたのね、なんてさもしい勘定をしてゐた。麻布から銀座まで往復の車代はいくらだつたか覚えてゐないが、とにかく今のハイヤー位の割合で相当なものであつたのだらう。
 学校を出てから私は佐々木信綱先生の神田小川町のお宅まで、歌のおけいこや源氏物語のお講義を伺ふため一週一度づつ通つた。ずつと以前中国公使館があつたその坂の下で、永田町二丁目の私の家からは神田小川町までかなり遠かつた。朝九時ごろ人力でゆき、帰りは十二時ごろ向うを出てぶらぶら歩いて帰ると、ちやうど一時間ぐらゐになつた。小川町から神田橋へ出て、和田倉門をよこに見て虎の門へ出る、やうやく溜池の通りまで来ると、右のほそい道へまがつて山王の山すそのあの辺の道が永田町二丁目だつた。
 帰るとお昼をたべてお茶を飲んで夕方まで何もしないで草臥れをなほす工夫をしてゐた。それに、その時分の年ごろは遠路を歩いて脚のふとくなることも苦痛の一つだつた。父が勤めをやめて家に引込んでゐた時なので、われわれの家の娘が歌の稽古のために車の送り迎へなぞはぜいたくであると言つてゐたから、片道だけ車にのるのは母の親切によつたので、そんな風にして先生のお宅に通ふといふことはよほど歌が好きだつたためで、つまり文学少女なのだつた。
 また或る日は小川町から神保町を通り賑やかな店々を見て――その中でも半襟屋をのぞくことは愉しかつた。本屋はのぞかなかつたやうである――それから九段坂をのぼり、お堀ばたを歩いて半蔵門や麹町通りを横眼に見ながらだらだら坂に来てから右に折れて、麹町隼町に出る、そのつぎが永田町の高台だつたと思ふ、こんな事を考へてゐると車屋さんか運転手みたいだけれど、じつによくも歩いた、一時間と二十分ぐらゐの道であつた。(この中に神田の店々をのぞく時間もはいつてゐる。)むろん晴天の日ばかりであつたが、雨の時お休みしたのかどうか、はつきり覚えてゐない。
 さてそんなに遠路を歩いて、下駄はどんな物を履いてゐたか、履物のことは少しも思ひ出せない。どうせふだんの物だから立派な品ではなかつたらうけれど、表がついてゐたかどうかも忘れてしまつた。履物はいつも母が自分のや私たち姉妹のを一しよに赤坂の平野屋で買つて来たやうだつた。その時分は草履は流行でなかつたから、とにかく、どんな下駄にしても、下駄にはちがひない。
 その二三年後のこと、先生のお弟子の中ではだいぶふる顔になつてゐた私はお花見がてら春の野遊びの会といふのに誘つて頂いた。先生御夫妻と、そのほか六七人、川田順さんがいちばん年少者で十八ぐらゐであつたと思ふ。どこの駅からどんな風に乗つたか、たぶん立川で降りたと思ふ、山吹の咲いた田舎道を曲がりまがり歩いて多摩川べりに下りてゆき、筏の上や川原の石ころの上でお弁当をたべた、そのあと何処をどんな風に歩いたものか、小金井のお花見をしたのはその同じ日であつたか、それとも翌年の春であつたか記憶が混乱してはつきりしないが、最後に中央線牛込駅で降りたのは夜になつてからで、みんなで九段の上まで歩いて富士見軒で夕食をした。私だけは永田町までの夜みちを一人歩かせるのはいけないとあつて人力を呼んで下すつたが、あとの人たちはみんな九段坂を下りて歩いて帰つた。川田さんだけは牛込の方に。そんなやうに朝から夜まで歩き廻つても別に足の腫れた人もなかつたやうで、習慣や気分のせゐであつたらう。
 近年になつて、戦争中電車のうごかない時、東京の主婦たちは一日に何里かの道をあるいて焼けた親類や友人の見舞をすることもあつた、これは気だけで歩いたのだ、しばらく軽井沢に暮してゐた私は駅から旧道の宿屋までの一本道をたびたび往復した。いつも重い荷物を持つてゐたが、夜の軽井沢の道はそれほど遠いとも思はなかつた。わかい人を連れにしてゐたせゐで、散歩してゐるやうな気持でもあつたらしい。
 ある忙しい家庭の奥さんが話したことだが、足が動いてゐる時には悪い智慧なぞは少しもうごかない、のんびりと自然の中の生物の一つとして動いて行く。人間は坐つてゐる時や寝てゐる時いろいろな考へごとをするので、長く寝てゐる人は賢こい悟りをひらいたり、或る時は意地のわるい遺言状を書いたりするのだと言つてゐた。ほんとにさうなのだらうと思つて聞いた。





底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:林 幸雄
2009年8月17日作成
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