終戦直後わが国にゐた外人たちの中で、兵隊さんたちはみんな一食づつきまつた配給であつたから、その人たちはそれでもよかつたが、家族づれの一家で軽井沢に暮してゐる人たちなぞ私たち以上にともしかつた。彼らは私たちのやうに蓮根や牛蒡は食べられず、たべ馴れた野菜の馬鈴薯とかきやべつ玉葱と、それにきまつた配給のパンを食べ一度一度に缶づめの肉をたべてゐた。私と同じ宿屋の二階に二人の子供があるアメリカ人一家がゐたが、この人たちは運よく総司令部に勤めるやうになつて段々らくになつて来た。それでもパンや肉を余計に食べることは出来ないから、夕飯の時はきまつた量のパンと一品の肉料理、野菜と、そのあとでお粥をたべた。米一合に小さいきやべつならば一つ、大きいのならば半分ぐらゐ、こまかくきざんで米と一しよにぐたぐた煮ると、米ときやべつがすつかり一つにとけ合つてしまふ。うすい塩味にして、それに日本葱を細かく切つて醤油だけで煮つけて福神漬ぐらゐの色あひのもの、まづ葱の佃煮である、これをスープ皿に盛つたお粥の上にのせて食べる。宿屋のお勝手で教へられたとほり作つてみると、温かくて甘くすべこく誠によい舌ざはりであつた。ある時日本葱がなかつたので玉葱でやつてみると、日本葱より水つぽく、甘たるくてこのお粥には全然調和しなかつた。
このごろ食べるものはそれ程くるしくないのできやべつのお粥なぞ久しく忘れてゐたが、これは今食べても中々おいしい。昔イスラエル国では正月の十四日から七日のあひだ
乏しく苦しかつた日の記念日、何といふ名にしようか? それは祝ひ日であらうか、それとも命日みたいなものかしら? 恐らくそのどちらでもなく、まづお正月みたいに、あまりおいしくない料理を愉しくおいしさうに食べてゐればよろしい。その時分に私たちが喜んで食べてゐたものを二つ三つ思ひ出してみよう。
白米の御飯はしばらくお預けにして、きやべつのお粥でも、あるひはメリケン粉とおからと交ぜた蒸パンでもよろしい。馬鈴薯をマツシユにして、野菜の濃いカレー汁をかけ、ゆで玉子一つを細かくきざんで散らばし、福神漬なぞあしらへば立派な主食になる。(福神漬や、らつきようはあの当時入手できなかつたかもしれない)お魚はみがきにしんのてり焼が一ばん結構だと思ふ、味がそれより落ちるけれど烏賊のわた煮(輪ぎりにしたもの)、鰯のみりんぼし、家庭で生乾にしたもの、ほつけのバタやき、ぢか火で焼いた鯨のビフテキ、塩胡椒でにほひを消せばよろしい。(私のやうにぜつたいに鯨がたべられない人はお精進の油揚のつけ焼で代理させる)、このほかその当時手に入つた魚類を思ひ出すこと。
茄子のおさしみ、蒸してうすく櫛形に切つたもの、酢みそよりは生醤油の方がおいしい。薬味は何でも手に入るもの。茄子の季節でなければ、こんにやくのさしみ、よくゆでてさしみのとほりに切る、トマトの時分ならば茄子よりも見た眼に美しい。何もない時には胡瓜、ほそ身のもの、これは田舎みそがよいやうである。
煮物は季節の野菜何でもよろしい。私たちは東京でも田舎でも煮物は何かしら食べられたやうに思ふ。春は牛蒡、新じやが、さやゑんどう、にんじん。夏から秋には蓮根、小さい玉葱、細いんぎん、さといも、冬ならば大根か小かぶの煮物。たんぽぽは春の野草であるけれど、黒ごまあへがおいしい。秋のずいきは白ごま。
お汁は豆腐か野菜、何でもけつこう。海辺の人から浅蜊の乾したのを送つて貰つた時、さつま汁の豚肉代りにしたり、豆腐と煮たこともあつて、浅蜊はこんなにおいしい物かと思つてその一袋をたのしみながら食べた。このほか前に言つた肉なしコロツケ、青い葱をすこし交ぜる。豚肉なしの竹の子そぼろ煮、竹の子かにんじんがあれば、細かくきざんで、豚肉代わりに
さつまいも、じやがいも、南瓜は煮物でなく、主食の代用にされることが多かつた。じやがいもの残りいもで、指の頭ぐらゐの小つぶの物を捨てずに皮ごと油でいためて味噌をすこし入れて炒りつける、「味噌つころがし」と言つて主食の足しになる。これは馬鹿にできないしやれた味で、今なら新じやがのごく小粒のところで残りいものつもりにして食べる。
白菜やきやべつの漬物がたべられるやうになつたのは、昭和二十二年頃からと思ふが、この記念日には少々ばかり白菜のやうな贅沢品を使はせてもらへば、漬物でもスープでも大に助かる。食後の果物はりんご、柿、葡萄、みかんなぞありふれた物を食べること。お菓子はすこし面倒でも手製にする。砂糖なしにすればなほ勇ましいが、まづまづこれだけは少し甘くしたい。あの時分の餡はいも餡、かぼちや餡、うづら豆、グリンピース等であつた。いちばん普通にみんなが食べたのは薯のきんつば、かぼちやの小倉どほし(小豆がはいらない小倉といふのも奇妙であるけれど)これは黄いろくて見る目に美しかつた。グリンピースを餡に入れた蒸饅頭。小豆にうづら豆も交ぜた蒸ようかん等々であつた。ピーナツ、乾柿、梅干砂糖漬、黒砂糖のあめ。こんな物はどこともなく遠くの方からそうつと運ばれた物。さてこんな事ばかり書いてゐるとひどくひもじさうであるけれど、六年も七年もまづい物ばかり食べてゐたあの時分はみんながひもじいとは知らずに、ただ、物ほしかつたのである。その物欲しさのためには、籠をさげ袋をしよひ、みんなが山坂を歩いてゐたのだつた。その不自由だつた日を記念し、今を感謝し、将来への祈りをこめて、一つの記念日をつくりたい。