アラン島

片山廣子




 雨ばかり多い春であつたが、今日は珍らしくよく晴れて空気も寒いくらゐ澄んでゐる。南むきの硝子戸のそとのコンクリに配給のイモを出して乾した。かなり沢山の、五貫目くらゐもあらうか、イモたちの顔も天日に乾されることを喜んでゐるらしくみえた。これだけあれば相当ながく食べられると思ふ満足感が、イモたちが喜んでゐるやうな錯覚とつながつてゐるのかもしれない。
 日にあたりながらそのイモを見てゐて、私は前にどこかでたくさんのイモが積みかさなつてゐる愉しい光景を見たやうに思つて、考へてゐると映画で見たのだつた。もう十五六年も前だらうか日比谷映画劇場で見た「アラン」に出る景であつた。一人の老人がストーヴの火に温まりながらイモを煮てゐたやうだつた(はつきり記憶してゐないが)。せまいそのキッチンの一部に馬鈴薯が山のやうに蓄へてあつたのだけは覚えてゐる。大西洋の離れ島アランでは荒海の中に漁師たちがとる魚類よりほかには、麦とイモだけが唯一の食料であつた。掘つても掘つても岩のかけらばかりの畑にイモの種をまく景もあつたやうだ。ものあはれな麦が寒風に吹かれてゐる景もあつた。少年がひとり、高い崖の上からつり糸を垂れてゐる景。満足な舟着場もなく、白波が高くたかく寄せてくる砂の上から数人の男たちが舟を出す景。怒濤をくぐつて舟を漕ぎ出すとき、舟は小山のやうな浪の中に時々かくれて又現はれる、漕手は恐れげもなく愉しさうに漕いでだんだん遠く出て行く景。すさまじい暴風の中で岩だらけの海べりに集つて来て、昨日から帰つて来ない幾つかの舟を心配してゐる大勢の女や老人子供たち。体がふるへるやうなスリルと、時たまの休息のやうな静かな明るい景。この映画には一つの物語もなく恋愛もなく、ただアラン島のまづしさと、荒い自然と闘ひつづける島びとの勇敢さと、それだけで充分にたのしかつた。私はもう一度あの古い映画を見られるものなら、見たいと思ふ。
 大洋のなかに置き忘れられたやうなアラン島を有名にしたその映画はすばらしかつたが、それよりも前にアラン島を紹介した人を忘れてはすまない。それは「アラン島」の紀行を書いたアイルランドの作家ジヨン・シングである。
 シングがアラン島に行つたのは一八九八年ごろであつたらうか。彼が文学に志して、優美な詩を書いたり古典の翻訳をしたりして勉強してゐたパリの生活を打切つて、あらゆる文明からきり離された島に渡つて、殆ど原始人に近い素朴な島びとの生活の中に詩をもとめたのは、パリで初めて会つたアイルランドの詩人イエーツの誘ひがあつたからである。
 アラン島は三つの島々である。アランモル(北の島)は長さ九哩。イニッシマン(中の島)は直径三哩半ぐらゐで殆ど円形である。イニッシール(南の島)は中の島と同じやうな形でやや小さい。ガルウエイ市から三十哩位へだたつてその島々がある。
 シングはその三つの島々をわたり歩いて島びとの言葉を聞きおぼえた。アイリツシ語を習ひ、ゲエル語を習ひ、島の崖みちを歩いて古いよごれたキッチンに年寄たちとお茶を飲み、島びとが石ころだらけの土に葬られる葬式の会葬者ともなり、少女たちを案内に波のよせかへす洞あなをのぞいてみたり、舟着場に立つて出て行く舟を見送つたりして島の人たちと親しくした。盲目のマアチン老人と青年マイケルはシングと大へん仲よしになつて彼の研究を助けてくれた。
 アランに滞在中も時々彼はパリに行つてゐた。さういふ或る日、彼がガルウエイに上陸して汽車の駅まで荷物を運んでくれる人を探すと、ある男が来て荷物を背負つてくれたが、ひどく酔つぱらつてゐて町までの近みちだと言つて、くずれかけた建物や古い船の破片なぞ散らばつてゐる中をさまよひ歩いて、しまひにはシングの荷物を投げおろしてその上に腰かけてしまつた。「ひどく重い荷物だねえ、かねがはいつてるんだらう?」「とんでもない、本ばかりさ」「やれやれ、これがみんなかねだつたら、今夜ガルウエイで、だんなと二人ですばらしい宴会がやれるんだがなあ」三十分も休んでやうやくのこと、シングは彼に荷物を背負はせて町にたどりついたのである。まだ名もなく、わかいシングは身がるで放浪者のやうでもあつた。
 しかし、彼はついにダブリンに落着き、新しく建てられるアイルランド文芸座のためにイエーツやグレゴリイ夫人と共に劇作することになつた。それは一九〇二年ごろである、初めて書いたのが「海に行く騎手のりて」であつた。これは荒い海と闘ふ漁師たちの生活をアラン島の人々の言葉で書いたもの。それを手はじめに「谷かげ」「聖者の泉」「西の人気者」など矢つぎばやに書いたが、あまり丈夫でなかつた彼はひどく健康をいため、一九〇九年、三十七の年、ダブリンの病院で死んだ。病中書いてゐた「悲しみのデヤドラ」は完成しずにをはつた。婚約の女優メリイ・オネールが始終彼を見舞つてゐたが、或る日シングは彼女に「死ぬのはつまらないことだ」と言つて、あとを何も言はなかつた。この言葉はシングの戯曲の中にも出てくる。それからグレゴリイ夫人の伝説のなかにも、わかき英雄クウフリンが自分の親友と闘ひながら「お互に、勇士の生命は輝かしい、生きてゐよ、死ぬのはつまらないことだ」といふところがある。アイルランドの人たちは、聖者も詩人も勇士も、漁師も百姓もすべて現実派であるらしい。死といふものに彼等はぜつたいに何の夢も持つてゐないやうである。われわれ日本人もいま、死についての夢は振りおとしてゐるけれども。
 イモをながめながら私は「アラン」の映画を思ひ出し、「アラン」からシングに飛び、シングから二十世紀の朝の希望に充ちた世界に飛んで行つた。眼の前のイモは五分前とも三十分前ともすこしも変らず春日に乾されてゐる。





底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:林 幸雄
2009年8月30日作成
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