燃える電車

片山廣子




 昭和二十六年四月二十四日、午後一時四十分ごろ、京浜線桜木町ゆき電車が桜木町駅ホームに正に入らうとする直前、最前車の屋根から火花を発して忽ちの間に一番目の車は火の海となり、あわてて急停車したが、二番目の車にも火が移つて、最前車は全焼、二番目は半焼し、この二台の車にいつぱい乗つてゐた乗客たちは火の中から脱け出さうとしても、ドアが開かず、百何十人かの男女、子供も赤んぼもみんな車内で焼死してしまつた。死者のほかにも重傷者軽傷者が大勢ゐた。わづか十分間ぐらゐの出来事で、後部の車三台の乗客三百余人は無事であつた。
 この惨事を起した直接の原因はちやうど架線がきれて垂れ下がつてゐるところへ電車がはいつて来て、すぐ屋根に火がついたらしく、その車が「六三型」であつたためにこんな大事になつたのだといふ。「六三型」といふのはどれもみんな六万三千台の番号がついてゐるので、戦争中は電線や器材が粗末のため事故が多かつたのを、昭和二十三年頃から大修理をしてほぼ戦前なみの車になつたと思はれてゐたが、屋根には松や杉なぞの板を張つて人目をごまかしてゐたので、すぐ火が燃えついたのだつた。それに窓はガラスを節約するため三段開きとなつてゐたのを、今もその儘だから急の場合に窓から逃げ出すことはぜつたいに不可能で、おまけに出入口のドアが中からは開かず、それも死者を多くしたのである。
 人間のたよりなさはこの恐ろしい事が起るその瞬間まで誰ひとりそれを予知することは出来ないのだつた。もしもえらい占ひ者がゐて二分か三分前にそれを言ひあてたところで、この場合どうすることも出来ない、もう遅すぎる、その人もけつきよくは一しよに死んでしまふだらう。それでは三十分も前にそれが分つたとして、それを信じてその車を避ける人はごく少数だらう。お互に、私たちみんながみんな畳の上で死ねるものと安心してゐるのは甘すぎる。
 今から二十余年前、昭和のごく初めごろ、私自身も一度その燃える電車に乗つたのだが、でも、私は幸運にも助かつた。その車の乗客たちもすつかりみんなが助かつた。みんなが幸運なのだが、それはうしろの車の乗客の誰かと一人の車掌の働らきに依つたのである。その時分は欧州大戦がをはつて、まだ第二の戦争のにほひもなく、世の中は無事平和、電車にも広い二等車がついてゐて、その料金も安かつた。蒲田大森大井の住人たちは大ていみんながこの二等車に乗つて往来してゐたのである。
 秋のはじめ、たぶん十月ごろ、私は新橋駅のホームで待つてゐるとひどく混んだ電車が来たからもう一台待つことにした。そこへ大森で永いおなじみの或る紳士が来て「あなたも今のにお乗りにならなかつたのですか、ひどく混んでゐましたね」と声をかけた。私たちはホームに立つて紅い西の空に浮ぶ富士を見てゐると、また車が滑りこんで来た。今度はらくに乗れて、今の紳士は長い二等車のずつと前の方に、私は中ほどの席に腰かけた。田町で乗り込んだ中老の紳士がゐたが、私の隣りのまだ空いてる席に腰かけた。品川を発車して間もなく、私は奇妙なにほひを嗅いだ、嗅ぐといふよりは感じた。はてな、何のにほひかと考へてゐると、田町で乗つた紳士は鼻をふんふんさせて、「はてな、きなくさいとお思ひになりませんか?」と私に問ひかけた。その時はもう本当にきなくさくなつた。「ほんとうに、先刻さつきから変でした」と私は急いで立つと彼も立つた、私たち二人の座席のあひだから白い煙がうすく立ち始めた。「あら、もえてゐます」と向う側のわかい令嬢が立つて座席の煙の下をのぞいた。白い煙の中に火が見えたのである。「火事!」といふ声と一しよに乗客が総立ちになつた。火は座席の上をすばやく燃えつたはつて行つた。「車掌! 車掌!」と呼ぶ人「電車を止めろ」とどなる人「危険信号のベルはないか?」「ベルの紐があるだらう」と汽車と同じに考へる人もあつたが、どこにもそんな紐は垂れ下がつてゐず、車掌もこの車にはゐない。前の車に何とか信号しようと騒いで一人のこらず前へ前へと押してゆくと、火はそのあひだに座席のクツシヨンの上を私たちのすぐ側まで進んで来た。みんな押しあひ押し合ひ、中には窓をあける人もあつたが、もう少し待つてといふ人もあり、前の車との通路の窓をあけて何とか前の車にこの火事を知らせれば、運転手にもそれが伝つて停車してもらへるだらうと、そればかりが頼みに、「中の窓を、中の窓をあけろ」と言つても、押したり押されたりして誰ひとり通路の窓を開けて前の車に知らせる人がなかつた。そのうち、すつと電気が消えて私たちの車だけは暗くなつて「馬鹿野郎、前の車に知らせろ」といふ声「押すな、押すな、そんなに御婦人を押すな」と親切に叫ぶ人もあつた。その御婦人は私である。長い広い車であつたから幸に踏み倒されないで、ただめちやくちやに押されたりもまれたりしてゐたが、ああ、これでは私はつぶされて死ぬ、体が焼けないうちに息がつまつて死ねると、一つの喜びを感じた瞬間であつた「皆さま、火は消えました。火は消えました」と車の後部から呼ぶ声がした。みんなが夢中になつて前に進んで後の火を見ないでゐるうちに、後の車からこの火事を見つけて「火事だ、火事だ」と車掌に教へた人があつたのだ。車掌は大急ぎで通路のドアを開けて火の中にとび込んで来て彼の知識によつて一人の手で火を消し止めたのである。まだ座席のクツシヨンだけが燃えてゐる時で幸だつた。
「消えた! 消えた!」と言つて乗客があたりを見廻した時、電車はいつの間にかぴたりと停車してゐた。それは大井町駅のすぐ手前のところで、車掌の信号によつて運転手はすぐ停車した。火が消えるのと同時であつた。「みなさま、ここでお下りになつて下さい。あとから別の車がまゐりますから」と車掌がいふので、みんなが下りた。そこはまだホームにならないただの線路だから私なぞは男の人の肩を借りて線路に下り、少し歩いてから、ホームに押し上げてもらつて無事に大井町の駅に立つことが出来た。生き返つた気持といふのは、ほんとうにその時の気持だつた。
 その時まで私は小さいふろしき包を大事に持つてゐたのが大へん軽いので気がついてみると、銀座の不二屋のいろんな形のパンを買つてみやげに持つてゐたのを、パンはなくなつてふろ敷だけが結びもその儘に手に残つてゐた。生命の代りにパンがあの車の中に落ちてゐるのだらうと思ふと、泣き笑ひみたいな妙な気がした。そこからタキシイで帰つてくると家ではみんな玄関に飛び出して来た。今しがたNさんが電話をかけて下すつて、奥さんは無事にお帰りになつたらうかと心配していらしつたと言ふので(N氏は新橋で話をした大森の紳士である)私はすぐ電話に出てお礼を言つた。「おたがいさまに、よかつたですな。混んでゐた前の電車に乗ればよかつたのに、あの車に乗つて、運が悪ければ、それきりでしたが……」と彼も喜んでゐた。私たちは幸運で無事に助かつたのであつた。その車が「六三型」でなく立派な車体であり、気のきいた後の車の乗客と正しい教育を受けた車掌とによつて大勢の生命は救はれたのである。あの時の車掌は私なぞよりずつとわかい人だつたが、今生きてゐるかしら?





底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:伊藤時也
2010年10月14日作成
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