「燈火節」あとがき
片山廣子
もう二十何年か前、昭和の初めごろ、私は急に自分の生活に疲れを感じて何もかもいやになつてしまつた。それまで少しは本も読み、文学夫人といふやうな奇妙なよび名もつけられてゐたけれど、そんな事ともすつかり縁をきつて、ぼんやりと庭の草取りなぞして日を暮すやうになつた。文筆の仕事ばかりでなく、外に出ることも面倒になり、やむを得ぬ義理で人を訪ねる時には、それまでのやうに銀座まで行つて長門や菊のやでおみやげを買ふやうなこともなくなつて、大森駅の前にあつたフランス屋といふ洋菓子屋の菓子折を持つて出かけた。何年かのさういふ生活は精神的な脳溢血の病人みたいな容体であつたかと思はれる。
親にしんせつな私のせがれは、草とりは草取り婆さんを頼みなさい。そして毎日少しづつ読書することですね。それから一週間に一度ぐらゐ映画を見たらどうです? と言つてくれた。私はすぐ草取り婆さんを頼むことにして、本は読まず、映画だけ見て歩いた。一人で見るのだからまことにかんたんで、帰りにはコーヒイを飲んだりして帰つて来た。さて又せがれが言つた。だんだん年寄になると映画をみるのもめんどうになるでせう? 時々随筆を書いてみたらどうです? 日記のやうに毎日何かしら書くことはあります、愉しいことでせうと言つた。
随筆なんて、常識のある人か学問のある人が書くのでせう? 私は常識が足りない人間で、まるきり学はなし、日記はきらいだし、ダメですねと断つた。それでは当分、映画専門ですか? とせがれはしぶい顔をしたがしかし、本は時々買つて来てくれた。
軽井沢で私は終戦を迎へた。なじみ深い宿屋の生活であつたから、少しも苦しい思ひはしないで東京に帰つて来ることが出来た。そのとき東京は野つぱらにぽつぽつ小屋が立つてゐて、洗濯ものが白く日光に乾され、かなしい古都のけしきであつた。
もう一度東京生活をするやうになつて、空襲よけにせがれの家の庭に埋めて置いた本なぞがそろそろ届けられて来た。しめつてかびた本もあつたけれど、それを乾したり風をとほしたりしてゐるうち、私はたえて久しい心のふるさとのにほひを嗅ぐやうな感じを持つた。
心も体もひまな私は虫ぼしの本を机に並べて随筆みたいなものを初めて書いてみた。おぼえ書きといふやうな「忘れられたアイルランド文学」といふのを書いた。ペンをもつのを忘れてから二十五六年過ぎてのことである。そのつぎに書いた「仔猫のトラ」といふのはわかい時分に教へて頂いた鈴木大拙博士夫人の思ひ出であつた。これはたつた三枚のもの。そのつぎは詩人イエーツの詩劇「王の玄関」のただあら筋だけ訳した。イエーツが食べものの事ばかり細かく書きならべたのが珍らしく面白かつたのである。そんなやうに日記みたいなものを並べて私は愉快になつてゐた。せがれの言葉を思ひ出したからである。
そのをさない文を書いてゐる私の心は、文よりもつとをさないもので、時々せがれに呼びかけて相談したりすることもあつた。暮しの手帖杜から随筆の本を出しませうと言はれたとき、一度はびつくりして、それからすぐ、どうぞお願ひします、と言つた。何千部の本が売れさうもないといふ事なぞ考へるひまもなく、たつた一冊の本の読者を心に思つてゐたので、この世界に生きてゐない彼が私の本を読むはづはないとよく解つてゐても、別の心は彼が読んでくれるとかたく信じてゐるのらしい。「あとがき」には夢でなく、ほんとうの事を言ふつもりでゐながら、やつぱり私はゆめみたいな事を書いてしまつた。
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