頭上の響

北村四海




「君、如何どうだ、近頃は不思議が無いか」
 私の友人は、よく私にこういうて笑うが、私には如何どうしてもそれが冗談として打消うちけされない、矢張やはり何か一種の神秘作用としか思われないのである、如何どういうものか吉兆の方は無い――もっとも私の今日こんにちまでの境遇上からでもあろうが――が奇妙に凶事に関しては、事件の大小を論せず、必ず自分には前報ぜんぽうがある、遅いのは三四日ぜん、早いのは一年も二年も以前にちゃんと解る、如何どうして知れるというと、すなわち自分の頭の真上で何かひびきがあるのだ、それにまた奇妙なのは、事件が大きければ大きいほど、ひびきも大きいといった風で、瑣細ささいな凶事がおこる時などは、まるで何か爪の先でく様な微かな音がする、他人がもしはたればその人にも聞えるそうだ、私はこういう仕事をしているから、もしそういうひびきを聞けば、すぐに家人は勿論もちろん、門弟一同に深く注意を与えて、ぜんもっ種々いろいろ予防をる、幸いそれで何も起らない場合もあるが、多くは何処どこか眼の届かなかったところとか、如何どうしても避けられぬ事、例えば他人ひとから預っておいた彫刻品が、気候のめに欠損きずが出来たとかいう様な、人力じんりょくでは、如何どうにも致方しかたの無い事が起るのである、このはなしをすると、よく友人たち一口ひとくちに「君、それは鼠だろう」とけなしてしまう、成程なるほど鼠のるべきところなら鼠の所業しわざかと合点がてんもするが、鼠のるべからざるところでも、往々おうおうにして聞くのだ、私は他人ひとの家へ談話はなしに行っていて、それを聞いた時もあるので、私は家人に「御宅おたくでは、こんなに昼間鼠が騒ぎますか」と訊ねて「いいえ、そんな事はありません」と云う様なことを聞いた事も度々たびたびある、仮令よし、それが鼠としても、私の身辺をそう始終鼠が附いて廻るというのも、一つの不思議ではなかろうか、かくこの事は、自分が十七八の少年時代から、今日きょうまでもなお経験しているのであるから、如何どうしても自分には偶然の出来事として看過かんかすることは出来ない、これは一つ哲学者の一考をわずらわしたいものである。





底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
   2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
   1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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