枯尾花

関根黙庵




北千住きたせんじゅうに今も有るんとか云う小間物屋の以前もと営業しょうばいは寄席であったが、亭主が或る娼妓しょうぎ精神うつつをぬかし、子まである本妻を虐待ぎゃくたいして死に至らしめた、その怨念が残ったのか、それからと云うものはこの家にあやしい事が度々たびたびあっておどろかされた芸人も却々なかなか多いとの事であるが、ある素人連しろうとれんの女芝居を興行した際、座頭ざがしらぼうが急に腹痛をおこし、雪隠せっちんへはいっているとも知らず、席亭せきていの主人が便所へ出掛けて行く、中の役者が戸をあけて出る機会とたん、その女の顔を見るが否や、席亭せきていの主人は叫喚きゃっと云って後ろへ転倒ひっくらかえてめえまだ迷っているか堪忍してくれとおがみたおされ。女俳優おんなやくしゃはあべこべに吃驚びっくりして、しゃくおこしたなどは滑稽だ。

京都きょうとの某壮士或る事件を頼まれ、神戸こうべへ赴き三日ばかりで、帰るつもりのところが十日もかかり、その上に示談金が取れず、たくわえの旅費はつかいきり、帰りの汽車賃にも差支さしつかえ、拠無よんどころなく夕方から徒歩で大坂おおさかまで出掛でかける途中、西にしみやあまさきあいだで非常に草臥くたびれ、辻堂つじどう椽側えんがわに腰をかけて休息していると、脇の細道の方から戛々かつかつと音をさせて何か来る者がある、月が有るからすかして見るとおどろいた、白糸縅しらいとおどしよろい鍬形打くわがたうちたるかぶといただき、大太刀をび手に十文字のやりげ容貌堂々威風凜々いふうりんりんたる武者である、某はあまり意外なものに出会い呆然ぼうぜんとして見詰みつめているうち、の武者は悠々ゆうゆうとして西の宮の方へいってしまったが、何がめに深夜こんな形相ぎょうそうをして、往来をするのか人間だろうか妖怪だろうか、思えば思うほど、不審が晴れぬと語りしは、今から七八年あとの事である。

浅草あさくさの或る寺の住持じゅうじまだ坊主にならぬ壮年の頃あやまつ事あって生家を追われ、下総しもうさ東金とうかねに親類が有るので、当分厄介になる心算つもり出立しゅったつした途中、船橋ふなばしと云う所である妓楼ぎろうあがり、相方あいかたを定めて熟睡せしが、深夜と思う時分不斗ふと目をさまして見ると、一人であるべき筈の相方あいかた娼妓しょうぎ両人ふたりになり、しかも左右にわかれてく眠っているのだ、有るき事とも思われず吃驚びっくりしたが、この人若いに似合にあわ沈着おちついたちゆえ気をしずめて、見詰めおりしが眼元めもと口元くちもと勿論もちろん、頭のくしから衣類までが同様ひとつゆえ、始めて怪物かいぶつなりと思い、叫喚あっと云って立上たちあが胖響ものおとに、女も眼をさまして起上おきあがると見る間に、一人は消えて一人は残り、何におどろいておきたのかときかれ、実は斯々これこれ伍什いちぶしじゅうを語るに、女不審いぶかしげにこのほども或る客と同衾どうきんせしに、同じ様な事あり畢竟ひっきょう何故なにゆえとも分明わからねど世間に知れれば当楼このうち暖簾のれんきずつくべし、この事は当場このばぎり他言は御無用に願うと、依嘱たのま畏々おそるおそるあかしたる事ありと、僕に話したが昔時むかし武辺者ぶへんしゃに、似通った逸事いつじの有る事を、何やらの随筆本で見たような気もする。

◎これはちと古いが、旧幕府の頃南茅場町みなみかやばちょう辺の或る者、乳呑子ちのみごおいて女房になくなられ、その日稼ぎの貧棒人びんぼうにんとて、里子に手当てあても出来ず、乳がたりぬのでなきせがむ子を、もらちちして養いおりしが、始終子供にばかかかっていれば生活が出来ないから、拠無よんどころなくこのかしつけ、ないたらこれを与えてくれと、おもゆこしらえて隣家の女房に頼み、心ならずもあきないをしまい夕方帰かえって留守中の容子ようすを聞くと、いつつくように泣児なくこが、一日一回もなかぬといわれ、不審ながらもよろこんで、それからもその通りにして毎日、あきないに出向でむくなにとても、留守中一回もないた事が無く、しかも肥太こえふとりて丈夫に育つ事、あまりに不思議と、我も思えば人も思い、段々だんだん噂が高くなり、ついには母の亡霊きたりて、乳をのますのだと云うこと、大評判となり家主より、町奉行所へうったえ出たる事ありと、或る老人の話しなるが、それかあらぬかかく、食物を与えざるもなくこと無く、加之しかのみならず子供が肥太こえふとりて、無事に成長せしは、珍と云うべし。

伊賀いが上野うえのは旧藤堂とうどう侯の領分だが藩政の頃犯状はんじょうあきらかならず、去迚さりとて放還ほうかんも為し難き、俗に行悩ゆきなやみの咎人とがにんある時は、本城ほんじょう伊勢いせ安濃津あのつ差送さしおくるとごうし、途中において護送者が男は陰嚢いんのう女はちちうって即死せしめ、死骸を路傍の穴へ蹴込けこみて、落着らくちゃくせしむる事あり、ある時亭主殺しの疑いある女にて、繋獄けいごく三年に及ぶも証拠あがらずさればとて追放にもなし難く、例の通りこの刑をおこないしが、その婦人の霊、護送者の家へ尋ね行き、今日こんにちは御主人にお手数てかずかけたり、御帰宅あらば宜敷よろしく云置いいおき、たちまち影を見失いぬ、妻不思議に思いいるところへ、主人あるじ帰りきたりしかば、こうこうと物語りしに、主人あるじ色を変じて容貌風体ふうていなどをただし、それこそ今日きょう手にかけたる女なり、役目とは云いながら、罪作りの所為わざなり、以来は為すまじき事よと、後悔してち百姓となり、無事に一生を送りしと、僕上野に遊んだ際、この穴を見たがおしいかな、土地の名を聞洩ききもらした、何でもき上に寺のある、往来の左方ひだりだと記憶している。

◎先代の坂東秀調ばんどうしゅうちょう壮年の時分、伊勢いせへ興行に赴き、同所八幡やはたの娼家山半楼やまはんろう内芸者うちげいしゃ八重吉やえきちと関係を結び、折々おりおり遊びに行きしが、ある夜鰻をあつらえ八重吉と一酌中いっしゃくちゅう、彼がの客席へ招かれたあと、突然年若き病人らしい、婦人が来て、わたし当楼こちら娼妓しょうぎで、トヤについて食が進まず、鰻をたべたいが買う力が無いと、涙を流して話すのを、秀調哀れに思いその鰻を与えしに、彼はペロリとたべて厚く礼を言い、出ていっあと間も無く八重吉が戻って、その話を聞きまたしても畜生がと、大層たいそう立腹せしに驚き秀調その訳を訊ねしに、こは当楼の後ろの大薮に数年すねんすんでいる狸の所為しわざにて、毎度この高味うまいものをしてやらるると聞き、始めてばかされたと気がついて、はては大笑いをしたが、化物ばけものと直接応対したのは、自分ばかりであろうと、誇乎ほこりかに語りしも可笑おかし。

◎維新少し前の事だ、重罪犯の夫婦が伝馬町でんまちょうの牢内へはいった事がある、もとより男牢と女牢とは別々であるが、ある夜女牢の方に眠りいたる女房の元へ夢の如く、亭主が姿を現わし、自個おれ近々ちかぢか年が明くから、草鞋わらじを算段してくれと云う、女房不審に思ううち、夢がきえてしまった、大方夫婦の情で案じているから、こんな夢を見るのだろうと思いおりしに、翌晩から同じ刻限に三晩続け、ことに最後の夜の如きは、愚痴ッぽい事をいっ消失きえた、あまり不思議だから女房は翌日、牢番に次第を物語った、すると死刑になる囚人には、折々ある事だ願ってみろといわれ、右の趣を石出帯刀いしでたてわきまで申し出で、聞済ききずみになりて草鞋わらじを下げ渡されたが、その翌日亭主は斬罪に行なわれ、女房は重追放で落着らくちゃくしたそうだ、最も牢内には却々なかなか化種ばけだねは、豊富であると、牢の役人からきいた事を思い出した。

大阪おおさか俳優中村福円なかむらふくえん以前もと住居すまいは、鰻谷うなぎだにひがしちょうであったが、弟子の琴之助ことのすけが肺病にかかり余程の重態なれど、頼母たのもしい親族も無く難義なんぎすると聞き自宅へ引取ひきとりやりしが、福円の妻女は至って優しい慈悲深きたちゆえ親も及ばぬほど看病に心をつくし、桃山ももやまの病院にまでいれて、世話をしてやった、するとある夜琴之助が帰りきたり、全治なおりましたからお礼に来ましたと、いったがその時は別にあやしいとも思わず、それは結構だ早く二階へ上っておいわれ当人が二階へ上って行く後姿うしろすがたを認めた頃、ドンドンと門を叩く者がある、下女をおこしてきかせるとこれは病院の使つかいで、当家こちらのお弟子さんが危篤ゆえしらせるといわれ、妻女はさてはそれゆえ姿をあらわしたかと一層いっそう不便ふびんに思い、その使つかいともに病院へ車をとばしたがう間にあわず、彼は死んで横倒よこたわっていたのである、妻女は愈々いよいよ哀れに思い死骸を引取ひきとり、厚く埋葬をてやったが、丁度ちょうど三七日の逮夜たいやに何かこしらえて、近所へ配ろうとその用意をしているところへ、東洋鮨とうようずしから鮨の折詰おりづめを沢山持来もちきたりしに不審晴れず、奈何いかなる事情わけ訊問たずねしに、昨夜廿一二にじゅういちにのこうこう云う当家こなたのお弟子が見えて、翌日あす仏事があるから十五軒前折詰おりづめにして、もって来てくれとあつらえられましたと話され、家内中顔を見合せて驚き、それは幽霊がいったのだろうともいわれず、右の鮨を残らず引受ひきうけ、近所へ配って回向えこうをしてやったそうだが、配る家が一軒も過不足なく、その数通りであったと云うは一寸ちょっと変っている怪談であろう。

紀州高野山きしゅうこうやさんの道中で、椎出しいでから神谷かみやの中間に、餓鬼坂がきざかと云うがある、霊山を前に迎えて風光明媚ふうこうめいびところに、こんな忌々いまいましい名の坂のあるのは、誰でも変に感じられるが四五年以前ある僧が此処ここで腹をへらし前へも出られず、後へも戻れず、たちすくみになって、非常によわっていると、参詣の老人がそれを認めて、必然きっと餓鬼がきたのだ何か食うとぐ治ると云って、もっている饅頭まんじゅうれた、僧はよろこんで一ツくったが、奈何いかにも不思議、気分が平常に復してサッサッと歩いて無事に登山が出来たと話した事があった、此処ここは妙なところで馬でも何でも腹が減ると、たちすくみになると云い伝え、毎日何百ぴきとも知れず、荷を付けて上り下りをする馬士まごまで、まさかの用心に握り飯を携帯もたぬ者は無いとの事だ、かんがえてみると何だか怪しく思われぬでも無い。

京都きょうとの画工某のいえは、清水きよみずから高台寺こうだいじく間だが、この家の召仕めしつかいぼく不埒ふらちを働き、主人の妻と幼児とを絞殺こうさつし、火を放ってその家をやいた事があるそうだ、ところで犯人も到底とうていしれずにはいまいと考え、ほとぼりのさめた頃京都市を脱出ぬけだして、大津おおつまで来た時何か変な事があったが、それをこらえて土山宿つちやまじゅくまでようや落延おちのび、同所の大野家おおのやと云う旅宿屋やどやへ泊ると、下女が三人前の膳を持出もちだし、二人分をやや上座かみくらえ、残りの膳をその男の前へなおした、男も不思議に思い、一人の客に三人前の膳を出すのは如何どういう訳だと聞くと、下女はいぶかしげに三人のお客様ゆえ、三膳出しましたといって、かえってこの男をあやしんだ、ここおいてこの男は主人の妻子が付纏つきまとって、こんな不思議を見せるのだと思い、とて※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれぬと観念した、自訴じそせんととっえす途上捕縛ほばくされて、重刑に処せられた、これは当時この犯人捜索を担当して尽力した京都警察本部の某刑事の話しである。

◎先年伊勢いせへ赴き、二週間ばかり滞在した事があった、ある夜友人に招かれて、贄崎にえさき寿楼ことぶきろうで一酌を催し、是非ぜひ泊れといったが、少し都合があって、同所を辞したのは午前一時頃である、楼婢ろうひを介して車をたのんだが、深更しんこう仮托かまけて応じてくれ無い、止むを得ず雨をついて、寂莫じゃくばくたる長堤をようやく城内までこぎつけ、藤堂采女とうどううねめ玉置小平太たまおきこへいたなど云う、藩政時分の家老屋敷の並んでいる、里俗鰡堀りぼくりゅうぼり差懸さしかかると俄然がぜん紫電一閃しでんいっせんたちまち足元があかるなった、おどろいて見ると丸太ほどの火柱が、光りを放って空中へ上る事、幾百メートルとも、測量の出来ぬくらいである、やがてそれがハラハラと四方に飛散するさまは、あたかも線香花火のきえるようであった、雨はしのつかねてなぐる如きドシャ降り、刻限は午前二時だ、僕ならずとも誰でもあまり感心かんしんはしまい。翌日旅館の主人に当夜の恐怖談をすると、彼は微笑してあざけるかの如き口吻こうふんで、由来伊勢には天火が多い、阿漕あこぎうらの入口に柳山やなぎやまと云う所がある、此処ここに石の五重の塔があって、このあたりから火の玉が発し、通行人を驚かす事は度々たびたびある、君が鰡堀りゅうぼり出会であったのも大体だいたい同種の物だろう、と云いおわって、他を語りごうも不思議らしくなかったのが、僕には妙に不思議に感じられた。

木挽町こびきちょう五丁目辺の或る待合まちあいへ、二三年以前新橋しんばし芸妓げいぎ某が、本町ほんちょう辺の客をくわえ込んで、泊った事が有った、何でも明方だそうだが、客が眼を覚して枕をもたげると、坐敷のすみに何か居るようだ、ハテなと思い眼をすえて熟視よくみると、三十くらいで細面ほそおもてやせた年増が、赤児に乳房をふくませ、悄然しょうぜんとして、乳をのませていたのである、この客平常つね威張屋いばりやだが余程臆病だと見え、叫喚あっと云ってふるえ出し、のんだ酒も一時にさめて、うこんなうちには片時も居られないと、ふすまひらき倉皇そうこう表へ飛出とびだしてしまい芸妓げいぎも客の叫喚さけびに驚いて目をさまし、幽霊ときいたので青くなり、これまた慌てて帰ったとの事だが、この噂がぱったって、客人の足が絶え営業の継続が出来ず、遂々とうとうこのいえ営業しょうばいやめて、何処どこへか転宅てんたくしてしまったそうだ、それに付き或る者の話を聞くに、この家は以前もと土蔵をこわした跡へたてたのだが、土蔵のあった頃当時の住居人すまいにんそれ女房にょうぼが、良人おっとに非常なる逆待ぎゃくたいを受け、嬰児こどもを抱いたまま棟木むなぎに首をつって、非命の最期を遂げた、その恨みが残ったと見えて、それから変事が続きてすまいきれず、売物に出したのをある者がかいうけ、その土蔵を取払とりはらって家を建直たてなおしたのだが、いまだに時々不思議な事があるので、何代かわっても長く住む者が無いとの事である。

山城やましろ相楽郡木津さがらぐんきづ辺の或る寺に某と云う納所なっしょがあった、身分柄を思わぬ殺生好せっしょうずきで、師の坊のいましめを物ともせず、いつも大雨の後には寺の裏手の小溝へ出掛け、待網を掛けて雑魚ざこを捕りひそかに寺へ持帰もちかえって賞玩しょうがんするのだ、この事檀家だんかの告発にり師の坊も捨置すておきがたく、十分に訓誡くんかいして放逐ほうちくしようと思っていると、当人の方でもあらかじめそのあたりの消息を知り、放逐ほうちくされると覚悟をすれば、何もおそれる事は無いと度胸をめ、ある夜師の坊の寝息を考え、本堂のえんの下に隠してある、例の待網を取出とりだしての小溝へ掛けたが、今夜は如何どうした訳か、雑魚ざこぴきかからない、万一や網でも損じてはいぬかと、調べてみたがそうでも無い、只管ひたすら不思議に思って水面みなも見詰みつめていると、何やら大きな魚がドサリと網へ引掛ひっかかった、そのひびき却々なかなか尋常でなかった、坊主はしめたりと思い引上ひきあげようとすると、こは如何いかにその魚らしいものが一躍して岡へ飛上とびあがり、坊主の前をスルスルと歩いて通りぬけ、待網のうしろの方から水音高く、再び飛入とびいってついに逃げてしまった、大きさは約四尺もあろう、真黒で頭の大きい何とも分らぬ怪物かいぶつだ、流石さすがの悪僧も目前にこんなあやしみを見て深く身の非を知りその夜住職をおこしてこの事を懺悔ざんげし、その後はうって変って品行を謹しみ、今は大坂おおさかの某寺の院主とっているとの事だ。





底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
   2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂
   1911(明治44)年12月
初出:「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂
   1911(明治44)年12月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月26日作成
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