一 「暗黒星! 暗黒星!」
遥か天の一方に、怪しき暗黒星が現われたとの信号が、火星世界の天文台から発せられた。
この信号がヒマラヤ山の絶頂にある我中央天文台に達し、中央天文台から全世界に電光信号を
この時の世界は、もはや学術上の発明なども数千年前に極度まで達して、この上に進歩する道が無く、極めて無事太平に、極めて静かに、何事も定滞の状とは為っていた、つまり科学的知識が応用の出来るだけ応用せられ、一歩だも進む余地が無くなってから既に数千年を経たのだ。人間の事務という事務は
二 であるからこの頃の歴史には面白い事が少しも無い。面白いのはもう
新聞紙とても、日々
三 言葉は全世界通して同一である、総ての紳士が緑色の服に金色のボタンを付け、縁を赤く隈取った白い襟飾りを着ける、これより外に正服はない。
最も遠隔した支那国すらも数千年前に列に入り全世界と同様に生活している。
四 まことに人心を動かした事件を尋ねれば、今より三千年前、初めて火星とこの世界と交通の開けた時代に
地球と火星との対面する度にこれを行なった。二回三回と対面したけれど何の功も無かった。
五 もはや火星からは返辞の無いものかと疑われたが、
六 勿論新星の出現は
今度の暗黒星などもそれなんだ、唯この暗黒星がどの様な意味を以っているか、何事の前兆であるかは未だ分からぬ。
七 不意に現われる怪星の中で最も人のよく知っているは彗星であるが、彗星はもはや珍しく無い。記録にのっているのが既に二万五千もあってなお年々に新発見が加わって行く。ただ暗黒星に至っては実に珍しい。天文の歴史に記されたのが二十に足らぬ、しかして最近に現われたのが三百年も前である。
八 勿論暗黒星は太陽系統に属していぬ。天のどの方面にいるかも分からぬ。恐らくは無籍者だろう。色は名の通り暗黒で、短い尾を引いたのも有り全く尾の無いのも有る。
九 何しろ永い間、無事に退屈していた世界だから、この暗黒星の報道が達するや、人心が一時に
十 未だ仲々、この地球へ見えはせぬ。よほど度の強い望遠鏡にも写らぬ程だけれど、それでも人々は持ち合わせの双眼鏡などを取り出してしきりに天を眺めた。
信号を受けて一週間を経ても未だ見えぬので人々は疑い始めた。もしや信号を読み違えたでは無いか、もしや火星世界の望遠鏡が地球のより劣っているでは無いかなどと、しかして殆ど人心が
十一 サアこうなると多くの天文学者はこの新星の軌道を実測するに熱中した。何処を通って何処へ行く星であるか、何しろ進行が遅々としているから、これを測り定めるには一二週間の時日を要する。
十二 軌道測定の結果が分からぬうちに又火星からの信号が、非常な変調を現わした。かの五条の信号光線が今までにかつて例の無い動き方を始めた。その意味は更に分からぬけれど、何しろ火星世界ではこれを一大事変となして、人心が一方ならず騒いでいるものと察せらる。
十三 天文学者は益々熱心に軌道の測量をするけれど、どうしても測量が届かぬ。天文学の開けて以来この様なためしは無い。何度の曲線を描いて運行するか、少し見れば分かるはずだのに一月経っても分からぬ。
その中にヒマラヤ天文台は過日
この暗黒星は軌道を有せず、太陽を指して落下しつつあり。
落下の速力は目下の所、既に一秒時三十キロメートルに達したり。(一時間におおよそ日本の二万五十里)勿論益々速力を加うるなり。
この速力の割合にて二百十箇日(七ヶ月)の後には太陽に到着するはずなり。
落下の速力は目下の所、既に一秒時三十キロメートルに達したり。(一時間におおよそ日本の二万五十里)勿論益々速力を加うるなり。
この速力の割合にて二百十箇日(七ヶ月)の後には太陽に到着するはずなり。
十四 暗黒星が来て太陽と衝突する、その結果はどうなるだろう、誰も知る者は無い。しかるに、
唯一人、あらかじめその結果の容易ならぬを見抜いたのは理学研究所の長を勤める理学博士である。
この時は既にすべての学問が極点まで進歩してこの上に発明の余地が無い事ときまっているのに、なお理学研究所など云うものの有るのは、おかしいでは無いかと怪しむ人もあろう。けれど人の欲には限りが無い。もしやどの様な事で、多少の発明や多少の改良が出来ようかも知れぬとの見込みから、大いな理学研究所を設けてある。まず研究所の大要を記して置こう。十五 理学研究所はある半島の南端に在る。その土地は昔ニーオークとか云って、非常に繁華な都会で有ったそうだ。
十六 この同じ半島の北の部分には、今の世界の大市場が建っている。これは名を「ハットン」市と云うのだ。その道路の美しく
勿論理想的に作ったのだから、何の点から見ても欠点の無い研究所である。第一には、
春夏秋冬、暑寒 の変化が有っては不都合だから、それを防ぐ為に地の底百尺以上の深い所へ掘り込んで作ってある。
しかしてその広さは幾百間四方に及ぶので、まず地底の建築物としてはこれに及ぶものは無い。おおよそ人間の知恵でもって作る事の出来る理学機械は十七 勿論この博士も、他の人々と同じく、怪しい暗黒星が太陽に衝突することを聞いた。聞いて後の博士の挙動はよほど変であった。常ならば人が見て怪しむだろうけれど、誰も只暗黒星の事にのみ心を奪われている際だから気が付かなかった。
十八 まず博士は沢山理学の機械の在る上に、今までかつて持って来た事の無い様な品々を運び入れた。その重なるは麺麭 に作る麦粉、生麦を始め一切 の食物及び植物学上に知られているすべての草木の種などであった。
洪水の時にノアが種々の品物を船に取り入れたのと、ほぼ似通った振舞いである。多少はこの事に気の付いた人が有っても、唯博士が植物の研究を始めるのだろうと思う位で、別に怪しみはしなかった。十九 かかる貯蔵の用意が済むや、さて博士はこの研究所の役員一同を集め、重々しく説き出した。
「私は重大な事柄をここに述べます。これは極めて秘密の事ゆえ、決して他に洩 らさぬと云う条件に服して頂かねば成らぬ。
もしこの条件に不服の方は立ち退いて下さる様に願います。」何事であるかは知らぬが誰一人立ち退かなかった。博士はこれだけでは未だ満足しない。よほど秘密な相談と見える。更に念を押す様に「決して他言をせぬ、決して人に
二十 博士は一同の挙げた手を見て
「諸君、私は、ここにいる吾々より外の人へは決して知らせて成らぬ事柄をお耳に入れます。歴史に
「何故に光を増すか、その原因に就いては一定の説が有りませんけれど、数箇月の後には或いはその光を減じて、我我の目に見えぬ迄に小さくなったり或いは一種の星雲に変じて
二十一 「これに就いて、私の確信を申しますならば、天には天文学者の云う通り無数の暗黒星が飛遊している。この暗黒星が他の星に衝突した場合に右の様な非常な光を発するのです。何故と云えば、暗黒星は冷え固まっているから堅い、光や熱をもっている星は膨張しているから柔らかです。それだから、暗黒星が他の星の皮を突き破り、中に包まれている熱と光とを一時に爆発させるのです。爆発した熱と光とは恐ろしい力を以て発散します。
この度の暗黒星と太陽との事柄もこの理を以て考えて見ねば成りません」
云う中にも博士の顔には、恐れと心配との色が見えている。
二十二 恐れて心配の色を浮かべた理学博士の秘密演説は左の如く続いた。
「ヒマラヤ天文台の報告によると来たる十二月には
その結果は推量するに難くは有りません。
二十三 「地球の表面は
二十四 「こうなると太陽の光に接せぬ北極とか南極とかの地方のみが無事に残るかとも思われますけれども、これとても助かりません。いわば空気総体が火となって燃える様なありさまですから、熱した空気、熱した蒸気が恐ろしい勢いを以て極地を襲います。極地とても
二十五[#「二十五」は底本では「 二十五」] 「この様な天然の巨大なる魔力に向かって、私は全く策の出づる所を知りません。ただ私の学説の全く
諸君は
二十六 以上が博士の演説である。自分等の一族のみこの大天災を逃れようとするのはいささか他に対して
博士は幾度も自ら疑い自ら惑った。この大いなる心配を世間に知らせた方が好くは無いだろうかと、イヤそうでは無い、これを知らせたとて世間の人はどうする事も出来ぬ、
何で無益の苦痛を世間に与える事が出来よう、それにこの学説が果たして当たるか分からぬのだもの。
二十七 しかし博士のかかる用心に
二十八 「左様さ、よくは分からぬけれど、暗黒星と太陽と衝突すれば、急に太陽の熱が高くなる様に思われる。二日か三日の間に熱い頂点に達して、それから幾週日の間は滅法に熱い事であろう。兎も角も、家の屋根の如き、天日を強く受ける所や、その他の燃える恐れの有る物件は、燃えぬ品物を以て
と云う位の返辞をしたが。
二十九 ハットン市に在る大学の、哲学博士はこれに反対の議論を立てた。全体哲学者と理学者とはよく
哲学者の意見にも仲々、人を従わせるだけの力があった。哲学の先生は論理術(ロジック)で以てこの問題を解こうとするのだ。まず少しでもこの問題に関係のある一切の事実、一切の材料を取り集め、これを方程式に作って解釈した。
三十 しかしてその結果として発表したのは左の如しだ。
「過去一万年間の記録に徴するには太陽は全宇宙に於ける最も不変なるものの一つなり。
世界に気象台ありて以来の統計によると太陽が毎一年に、我地球の表面に
三十一 こうなると又、理学博士の
三十二 学者の議論がこの様に続く間に、かの暗黒星はヒマラヤ天文台の大望遠鏡にのみは見えることになったけれど、その他の望遠鏡には少しも写らなかった。
所が、それも初めのうちの事で、追々と、一週又一週を経るに連れ、それ以下の望遠鏡へ写る事となり、
しかしていよいよ暗黒星が太陽に到着する二箇月前に至ると、ヒマラヤ天文台は明細にその時刻をまで報じた。
時刻は十二月十二日の午後である。
三十三 一夜、一夜、その期限に近づくに連れて世界の人々は唯、
地球の引力範囲で落ちた
ついには暗黒星が肉眼で見えることとなった。天気さえ好ければ毎晩見える。
こうなると「途中から横に
三十四 唯その光の小さいことは実に驚く。一夜一夜に多少は太くなるのだろうけれど、
太古の人は星を吉凶禍福の本と信じて
三十五 けれど、今の人はそうは行かぬ。その進行の遅々たるだけ、益々苦痛が大きくなった。昔支那人は、頭の上へ、一滴ずつ、水を垂らす刑を用いたと云うことだ。初めは微々たる一滴だから、何とも感ぜぬけれど、それが長く続くに従い到底耐え得ぬほどの苦痛となるのだ。
遅いだけに苦痛が長い、ついには人々が日々の職業でさえ手に付かぬこととなった。かくては社会総体の人が悉 く破産するにも至る訳だから、依然として職業を大事にせねば成らぬとの警告の文書が沢山発せられた。
三十六 いよいよ十二月の間近になるとかの暗黒星が太陽を指して落ちて行く速力がよほど増してその光も段々に強くなる。
初めのうちは夜だけしか見えなかったのが今は真昼でも見えることに成り、恰 も大空に恐ろしい龍の蟠 っている様にも思われた。
三十七 ここに至ると人心は妙なものだ。太古の人種と同じ様に一種
今の世の人心はただ精力を信ずるのみだ。宇宙一切の極微分子に[#「極微分子に」は底本では「極致分子に」]悉 く活動の気を吹き込みて霊妙の動作をなさしむるその遍在の[#「遍在の」は底本では「偏在の」]精力こそ、目視 るべからずしてしかも慈恩の行き渡れる者なれば何時 の世までも信ずべきなれ、然 るに今やこの精力に無慈悲なる裁判の意味があって、人々の先祖の汚れ、先祖の罪の為に、終末の厳罰を下すのだと云う如く信ずるに至った。
「最後の審判!」「最後の審判!」などと恐れ三十八 それでも十二月の到着するを
よほど勇気の有る人で無ければ、仰いで星を見ることが出来ぬ。自分の目にさえ見えねばその禍 が消えるかの様に人々は目を閉じた。
中に大胆に双眼鏡を天に向ける人には、丁度肉眼で見る月の大きさほどに禍の姿が見えた。
しかし、月の様な穏和な、静粛な容貌は、彼には無い、かの光はただ恐ろしい、いわば猛獣の眼の輝く色なんだ。
三十九 七日―六日―五日―日数が残り少なくなるに連れ、空に輝く眼の光が益々中に大胆に双眼鏡を天に向ける人には、丁度肉眼で見る月の大きさほどに禍の姿が見えた。
しかし、月の様な穏和な、静粛な容貌は、彼には無い、かの光はただ恐ろしい、いわば猛獣の眼の輝く色なんだ。
四十 もう三日―もう二日―こうなると道理を考える心が人間に無くなった。
人には道理を考える心が無くなって、
道に行き交う人々は無言で目と目とを見合わせた。無言でも心の中は分かっている、ただ恐れに満ちているのだ。
四十一 最終の日がついに来た、アア。
今夜――知らず、今夜はどうなるだろう。
朝は風も[#「風も」は底本では「風邪も」]穏やかで、天が極めて静かである。空に懸 かれる太陽は、今にもその身に突き当たる恐るべきものの近寄っている事を知るや知らずや、毎 の如く和 らかに輝いている。その余りに沈着なる態度が、或 いはこの世界の人々に対し、何もそう騒ぐには及ばぬと戒め何事も無い事を告げているかとも思われた。
天を見る勇気の無いまでに朝は風も[#「風も」は底本では「風邪も」]穏やかで、天が極めて静かである。空に
もはや、幾時間の後とは成った、イヤ幾分時と数えらるるに至った。
四十二 いずれの望遠鏡にも、必ず一人は
刻一刻に、悪魔の眼の様なかの暗黒星は明るくなった。輝き方が次第に強く、次第に恐ろしくなった。それだけずつ、太陽に向かって近づくのである。
しかしてついに太陽の一端に接触した時の、人々の心は想像する事さえ出来ぬ、ハットン市全部の人心に、電気の様に戦慄の波が伝わった。
しかしてついに太陽の一端に接触した時の、人々の心は想像する事さえ出来ぬ、ハットン市全部の人心に、電気の様に戦慄の波が伝わった。
四十三 戦慄の後で、少しの間だけれど安心の思いが浮かんだ。かの怪星は忽 ち姿が消えた、誰の目にも見えなくなった。
太陽には未だ何の異状も無い、多分太陽の大熱火の為に、かの暗黒体が、鎔 けて蒸発して消えたであろう、と人々は思った。
けれどこの安心は直 ちに掻 き消された。間も無く太陽の表面に、一つの黒点が現われた。
アア分かった、怪物は未だ太陽へ衝突せぬ単に太陽と地球との間の所へまで落ちて来たのだ。丁度金星や水星が、小さい黒点となって太陽の表面を蝕 しつつ通過する時と同じ事だ。
けれどこの安心は
アア分かった、怪物は未だ太陽へ衝突せぬ単に太陽と地球との間の所へまで落ちて来たのだ。丁度金星や水星が、小さい黒点となって太陽の表面を
四十四 どうかこの儘 に太陽の表面を通過してくれよ、金星や水星が去る様に、暫くにして立ち去ってくれとこれも少しの間だけれど人々が心に祈った。
この間の心持ちは四十五 と思う間に、思うその心の過ちであることが分かった。
一黒点となった怪星がやがて太陽の表に没した。その姿が見え無くなった、これは確かに衝突して、太陽の肉の中へ弾丸の如く突入したのだ。
かく見ると同時に、その突入したと思われる箇所が忽 ち光の中の光とも見ゆる様に明るくなった。詰まり突入したその傷口から、太陽が炎々の焔 を吐くのであろう、その輝きの強い事は、もう見ていることが出来ぬほどだ。勿論太陽を窺 く目鏡 は光線を避ける為に黒く塗ってある、しかしそれですらも眩 しくて見ていることが出来ぬ。いわば肉眼で常の太陽を見る様なものだ、強いて見ていれば目が潰 れるのだ。
これより以後の事柄は、これを見るのに望遠鏡も何も要らぬ。
かく見ると同時に、その突入したと思われる箇所が
これより以後の事柄は、これを見るのに望遠鏡も何も要らぬ。
四十六 望遠鏡は無くとも、黒い硝子板一枚あればもう肉眼によく見えた。
暗黒星に突き破られた太陽の傷口が、恐ろしい衝 を起こして火炎を吐くのだ。
その火炎が刻一刻に、より大きく、より明るく成って行く。
絶え間なく嵩 が増し、幅が広がり、僅 かに半時間の後には、宛 も扇とも慧星の尾とも見らるる形となった。
その火炎が刻一刻に、より大きく、より明るく成って行く。
絶え間なく
四十七 地球の表面は、今まで見た事の無いほど明るくなり、唯ギラギラと眩 しい思いがせられて、砂や小石などがダイヤモンドの如く輝き始めた。
やがて米国の東の海岸に沿うた地方は日が暮れた、その時は早や夜に入っても空気は次第に熱くなり、西海に日の入る頃は、その辺の人々いずれも、日の当たらぬ所を求めて隠れる程であった。
四十八 まず日が没したので休戦の許しを得た様なものだ、この後の太陽の
間もなく天に、争うべからざる恐ろしい凶兆 が現われた。
この時は丁度火星が地球と対面の地位に在ったが、無論、日の暮れて間も無く、この火星は東の天に、しかして更に西の天にはかの「宵の明星」と知られている金星が現われた。
アア金星、アア火星、双方ともに今までに無い光り方だ。
金星の方は電気の如く輝いている。確かに白熱だ。火星の方は石炭の燃える四十九 これは何の為だろう、誰とても知っている。太陽の光が強くなったから、同じ割合にその反射が強くなったのだ、大いなる火事に照らされている景色を、暗い所から望見する様なものである。
こう思うと明日の日が思い
今は米国が夜だから
この同じ光景が、夜の開けると共に米国へも廻って来るのだ。人心は絶望して沈着した。実に憐れである、何にも言わずに
五十 地球の回転に従って、海も陸も東から西へ順々に沸騰して行きつつあるに相違無い。
その中に亜細亜や欧羅巴から凶報の電信が続々と達し始めた。支那でも印度でも、二三分間しか戸外に出ている事が出来ぬ、午後に及んでは一歩も外へ踏み出す事が出来なくなったと云う事だ。
五十一 欧羅巴の方は更にこれよりも
電信局は今までの建物の穴倉へ事務局を移した。
市民は一切 の燃ゆべき物品を悉 く日光の射さぬ所へ隠しつつある。市中の喞筒 は総出となりて屋根に水を注いでいる。午前十一時、かかる注意にも拘 らずチープサイドのある屋根が火を発した。引き続いて市中の各方面に幾箇所か太陽に焼かれる家が出来た。
火事の数は算 え切れぬ、消防の人は空の火熱と身辺の火熱とに攻められ、焦熱の底に奮闘している。
間もなくこの市中にては一人も生存する能 わざるに至るべし。
五十二 数分間の後に、左の電報が達した。市民は
火事の数は
間もなくこの市中にては一人も生存する
知らす、どの様な救いが天降ったであろう。
どうして欧羅巴の人々は、大火熱の中で蘇生の思いをしたであろう。
次の電文を読め。
大空の熱度激変せし為なるべし太西洋の面より捲 き起こりたる疾風、驀地 に欧羅巴を襲い来たり、凄 まじき勢いにて吹き煽 れり。
これと同時に驟雨 、滝の如くに降り諸所の火焔を鎮滅したり。
この後の成り行きは寒心すべきものありと雖 も、兎に角、この風とこの雨と微 りせば、物は火炎の中に灰燼 し、人は焦熱の中に死すべかりしなり。
一時ながら人心は全く蘇生の想いをなせり。
焦熱の中に大風大雨を得たとは、如何にも気持ちの好い事で有ったろう。これと同時に
この後の成り行きは寒心すべきものありと
一時ながら人心は全く蘇生の想いをなせり。
五十三 けれど次に来た電報は、大風大雨が焦熱よりもなお恐るべきを知らせた。天降った「救い」そのものさえも天が人間に降す
新たなる恐怖は更に起これり。大風は募 り募りて暴風となり、台風 となり、開闢 以来、記録に存せざる狂風となれり。家の吹き潰 さるるもの、数を知らず、堅固にして仆 れざる如き家は家根を吹き飛ばされ、一つも無難なるものなし。
大空に旋飆 せる大家根幾何 と云う数を知らず。
雨もまた、天を劈 きて落ち来たるかと怪しまる。
雨が降れりと云うよりも、直 ちに洪水が降れりと云うを適当とす。
屋根の皆無となりたる所にかかる洪水の落下に遭 いて人は身を措 く所を知らず。
五十四 午後の三時に及びて、又左の電報が来た。勿論この三時は欧羅巴の三時である。米国の三時では無い。大空に
雨もまた、天を
雨が降れりと云うよりも、
屋根の皆無となりたる所にかかる洪水の落下に
太陽の大火熱は、密雲を照らし破りて、又も下界を射るに至れり、熱さは前よりも更に強くして、しかも刻一刻に増加す。
電報局ももはや廃絶するの外なし。
五十五 これ限りで便りが絶えた、もう欧羅巴は全滅したかしらと怪しまれたが、夜に入って又電報が達した。電報局ももはや廃絶するの外なし。
再び恵みの暴雨が降り始めて人の焼死し尽くすを免れ得たり。
三たび太陽はその威を逞 しくし始めたけれど、幸いにして西に没したり。
欧羅巴の天地は夜に入れり、これにて一時の休戦を許されたる形なり。
知らず、休戦の尽くる明朝は、如何様 に吾等の上に明け来たるや。
今日一日の物質的損害の額は算するに由無 し、死傷も多大なり、生き残れる人々も明日の事を思いて、生きたる心地無し。
五十六 この様に三たび太陽はその威を
欧羅巴の天地は夜に入れり、これにて一時の休戦を許されたる形なり。
知らず、休戦の尽くる明朝は、
今日一日の物質的損害の額は算するに
ハットン市に在るだけの蒸気
イヤ火事などの起こるはずは恐らくあるまい、市中に現存するだけの織物は取り出してすべての燃焼物質を包み、これに水を含ませた。これならば燃やしたくも燃え
そのうちに夜が明けたが、
人は絶望の勇気を以て天日の焦熱と戦い始めた。
五十七 その有様は菅々しく説くに及ばぬ。電報で見た欧羅巴の有様と大差は無かったと云えばそれは分かる。しかし用意が行き届いていただけに幾分か損害が軽かったかも知れぬ。
欧羅巴と同じ様に疾風、暴風、
五十八 けれど日没の
日の入る時の有り様を見たものは、この後の恐ろしさに、身震いするを禁じ得なかった。
太陽そのものの大きさがもう日頃より幾十倍に膨張している。その下の端が地平線に達してから、上の端が全く地平線に隠れ終るまでに凡 そ一時間かかった。
日の全く入り終わった後で西の空に夕映えの残るは誰も知る所である。日頃は赤く美しく見える。
この夕映えが燃える火の如き凄まじさで全天に広がった。
それが為に日没後の明るさが常の真昼の明るさと似寄 っている。
五十九 この夕映えは何であろう。それが為に日没後の明るさが常の真昼の明るさと
太陽から迸 る宇宙的な光炎なんだ、夜の進むに従って薄らいだとはいえ、時々立ち昇る如く見える、その広がりが幾百幾億万里に及んだか計られない。
既にして真夜中に及ぶと丁度北極や南極の地方で見る極光の様な煌 が時々西の天に発した。
極光は今まで世界の人が天地間壮絶の観物 と思っていたがこの夜の光に比べては、殆ど観 るにも足らぬ。
この夜の光は全く光炎の大発作である。西から発して天の真 ん中 まで達するのだ。
六十 このとき例の理学博士先生、既にして真夜中に及ぶと丁度北極や南極の地方で見る極光の様な
極光は今まで世界の人が天地間壮絶の
この夜の光は全く光炎の大発作である。西から発して天の
かの地底の研究所から鉄の窓を開き、厚い
太陽が外面の皮殻 を衝 き破られたのだから、中に欝積 しているエネルギーの原元子 が爆発して、殆ど光線の速力にも比すべき力を以て飛散するのである。今や太陽統制の全体がこの原元子を浴びせられている。
この
今やこの火星がどの様な合図を我が地球へ送りつつあるか知らぬが、ヒマラヤ山天文台から何の通信も無い。
すべて他の大陸からの通信が絶えてしまった、もう一切の通信機関が絶滅したのだ、米国の人はこれが世界の最終の審判日だと知り、いよいよ末日の来たるを待つのみである。
六十一 更に夜半以後の有り様は又凄絶だ、天に広がる原元子は、濃厚に、濃厚に成り行きて、地上の明るさは、今までの天然には類をも見ぬ異様なる色を呈した。これで見ると、夜の明けて後の事がどの様だろうと、恐れと絶望とが益々深く人心にすべて他の大陸からの通信が絶えてしまった、もう一切の通信機関が絶滅したのだ、米国の人はこれが世界の最終の審判日だと知り、いよいよ末日の来たるを待つのみである。
常ならばまだ真っ暗な刻限であるのに、三時少し過ぎに早や東天へ太陽の前触れが現われた。昨夜西の方から立ち昇った怪光が今度は東の方から現われた。
夜のうちに太陽は亜細亜を過ぎ太平洋を過ぎ
六十二 明るく又明るく東天は開けて日の出少し前に至ると、空の色が、いつもの天日を直接に見るが如く、眩 しくて見ていられぬに至った。
六十三 この様子では、いよいよ日が出たらとても耐えられる事では無いと思われたが、果たしてであった。
出て来た日光は単に光炎の大氾濫 である。もし世の中に火の洪水と云う者が有るならば、これが確かに火の洪水である。
六十四 彼が太西洋岸から[#「太西洋岸から」はママ]、照らして太平洋岸に到るに従い、光線の落ちる所悉く火となった、濡れた織物やポンプの力で、防ぎ得ようと思ったのが愚かである。
石さえも焼けて砕けた。塔や尖閣 などは燃えながらあたかも地震に揺られた如く仆 れ落ちた。
六十五 恐ろしとも凄まじとも形容に詞 の無いこの場合に迫っては、人たる者は唯何ものかの下に潜 り込んで隠れるのみだ。穴倉へも這 い込んだ、洞穴 にも入った、少しでも蓋 や蔽 いのある下へは、皆衝 き入ろうと努めた。老いも、若きも、富めるも、貧しきも、男も、女も、絶望し混雑し、一塊となって、互いに他の身体の下へ滑 り込もうと争った。
こうなっては人は鰻 である。
六十六 商業社会や産業社会で、日頃大達者 と立てられてその名前は家々の守護神の様に人の口に膾炙 している大紳商、大紳士も、様は無い。常はその限り無き富を以て、金力を以て、羨 まれ、敬慕せられ、殆ど世界を支配するほどの威勢の有った身が、自分のお仕被 せに生活する揃 いの法被 の下男達と共々に、倒れた建物の隅や、自分の家の穴倉の中や、自分の銀行の倉庫などへ混多 になって蝟集した。もう貴賤も尊卑もない。
確かに天が人類の数限り無き罪障を焼き亡 ぼすものである。彼等は罪障の消滅から逃れようとするのだ、そうは行かぬ。
六十七 地下の理学研究所の中から、助手の人々と共に、外界を観察していた理学先生は、唯東方から煌々と光る放射が怒り狂う様に
研究所の上の扉が余り熱くなったから、とても見てはいられぬとて、一同と共に最下層の暗室へ降りてしまった。
この後の事は殆ど記すにも忍びぬ。
暴威を逞 しくしていた太陽に忽 ち濃厚な雲が掛かった、この雲は太西洋から捲 き起こったのだ。
六十八 もう大洋の総体が鍋の様に煮え返り沸騰している。この後の事は殆ど記すにも忍びぬ。
暴威を
洋上の空気が益々膨張するから前にも記した如く怒風 を起こし、大鍋から立ち騰 る蒸発気が直 ちに雲となって米国の天に広がったのだ。
六十九 怒風の速力は、人間の想像を絶している。それと共に雲が広がる、それと共に人工に成れる一切の事物を吹き飛ばした。全くこの風の向かう所には人工の隻影 なしだ。
石のうち鎔 けぬ性質を帯びたのは、先刻既に焼け砕けて、灰となり、微塵 と変じた。家々の礎 までも今は残らず粉である。この粉や、微塵が怒風に空中に煽 り揚げられ、直ちに空の水気と合し、泥々の雨となって洪水の如く落ちて来る。
世界は殆ど泥水の底に埋められんとするのである。
世界は殆ど泥水の底に埋められんとするのである。
七十 その上に強い電火が天の全面をば、間断 なくかつ縦横無尽に光り渉 る、これに接する者は直ちに電殺され電壊さるるはずであるが、もう殺される生物が残っていない。
七十一 雲は暗く暗く天を蓋 い、雨は強く強く地上の廃残を敲 いた。
七十二 ここに至っては穴倉や倉庫などに密集した人々も助からぬ。
七十三 洪水となって天から落ちる泥々の雨が、熱湯の如くに沸 っている。これを浴びれば一時に煮殺 される。
七十四 少しの隙間 や割目から、この泥々の熱湯が流れ込んで、地上の廃残の物は勿論穴倉の底の物まで、溢れるほどに浸された、すべての生物が湯傷に焼け爛 れて死に絶えた。無惨 無惨
七十五 物と名の付くものは
ただ理学博士の一族のみは生き残っていた。彼等は地の底に避難の室 を作った為に助かったのだ。尤 もこの研究所の入口に当たる設備は、悉く大熱火の為、大嵐の為、跡方 も無く拭 い去られた。それが為彼等は暗室の最下層に潜んでいた。いわば衝突して真っ二つに折れた汽船の様なものだ。室の戸を、直接に外から波が推す、これと同じく彼等の暗室は、上の部分が無くなった為、かの泥水や熱湯などが直接に鉄の戸を圧迫した。
もしこの戸に触わろうものなら、触ったその手が直 ちに焼けてしまう程であった。その様に熱かった、けれど戸の隙間などから、中へ洩れて入る熱湯は極めて少なかった。
もしこの戸に触わろうものなら、触ったその手が
七十六 この室に蝟集している人々が即 ち全人類の僅 かなる遺族なんだ、この人々の外 に人は無い、けれど彼等は死んだ人の幸福を羨 んだ、この様な地の底に殆んど生き埋め同様となって生きているその苦しさは、何も知らずに永眠した人に比しどれほどの不幸かも分らぬ。
七十七 もしここで、なおこの上に生存して行くかはた死んでしまうかを投票したならば、必ず満場一致で死を議決するところだろう。もう何の希望も無いのだから、成るたけ早く死ぬるのが、最良の祈願なんだ。
七十八 けれど厄介な事には良心という奴がある、この心は太古からの無数の年月を経て漸次 にこの人種の脳髄に発達して来たのだから、ただこの心が自分で自分の生命を軽んずることを許さぬのだ。
七十九 彼等は二年分の食糧を貯蓄してある、それだから空気と酸素さえ続くなら、まだ二年は生きていることが出来る。所で酸素を製造する機械は、その材料と共にこの室内に備えてある。
自分達の位地を考えて見るとこう用意の届いていることが、少しも愉快では無い、却 って苦痛だ。
八十 酸素を絶って窒息して死ぬると云う事は、気が咎 めて出来ず、天性の然 らしむる所に従い、止むを得ず生を続けるだけの手段は尽くす様なものの、生を続ける手段が、苦痛を長引かせる手段となるのだ。
八十一 室 の中には充分の電燈がある、けれど夜にも昼にも、なす仕事が絶無である、電気を消してしまえば常闇 の境となるのだ。
八十二 全く何事もせずにはいられぬから、その中の誰か彼かが、時に室の戸を内から検 べて見た、何も戸を開いてどうしようと云う目的が有るでは無い、徒 に、水の圧力がどう変化したかを見届けようとするのだ。
八十三 少しずつ洩る水が止んで後、久しい間、戸は依然として熱かった。
次第に時が経った、けれど幾日であるか、幾週であるか、幾月であるか、誰も知る者が無い、その中に戸は段々に冷え掛けて来た。
いよいよ外に出でて見る時が近づいた。
いよいよ外に出でて見る時が近づいた。
八十四 戸の熱さが漸 く手を着けられるほどに冷めて後、理学博士の一族は外に出ることを企てた。
多少の困難は有ったけれどついに戸を開くことが出来た。
外の様子はこの様である。
まず室の外に在る通路を見るに、泥々の洪水も全く干 いたものと見える。ただ濃い泥の海となって、深さが膝の辺まで来る、なお熱い事は熱いけれど火傷 するほどの熱湯では無い。強いて踏 み込めば渡ることが出来そうだから勇を鼓 して踏み込むことに成った。この後とても無論困難はあったけれどそれにも挫 けず幾多の時を費やしてとうとう広い空気の所へ出た。
外の様子はこの様である。
まず室の外に在る通路を見るに、泥々の洪水も全く
八十五 全く外に出て見ると、これはどうだ、夜だか昼だか更に分からぬ、天地の明るく輝いている事は、どれほどの日中でもこれには及ばぬ、けれど肝腎 の太陽そのものが空に無い。全く太陽は溶けてしまったものと見える。
八十六 太陽が無くて何故にこう明るいのか、天地一面に輝いて見えるのは何であるのか。
他無し太陽が放散して霧の様な簇団 となり満天に広がったのだ。この霧や水気の霧では無くて光の霧である。
この光霧の中や、光霧の下を、更に流れているのは原元子 の雲である、これが宛 も火の浪 の様に見える。
この光霧の中や、光霧の下を、更に流れているのは
八十七 しかして大気の熱度は、今以て我慢の出来ぬほどに強い。けれど地下の暗室で殆ど蒸せ死ぬる様な熱さを耐えて来た人々に取っては幾分かおだやかである。
八十八 初めてこの人々が外界の空気に接した時の心持ちは夢と現 との境に在る様であった。けれど四辺の景状を一目すればこの心持ちは直ちに消えた。
夢で無い、これが真実なんだ。真実としては殆ど想像に絶するほどの恐ろしさであるけれど、全く世界がこうなったのだから致し方が無い。
八十九 彼等は空しくハットン市の在った方を眺めた。今は町も無い、町の旧跡さえも無い。
彼等は
九十 人間の隻影 も、人工の隻影も残ってはいぬ、イヤ天工の隻影さえも無くなったと云うべき程だ。
九十一 東西南の三方は粘泥 の大河となり、北(即 ちハットン市の在った方)は世界の中央と立てられ繁昌と活動との心軸 となっていた土地だのに、今は一面の平野となり、乾いた粘土や黒い砂や、なお湯気の出る泥などを以て蔽 われ、虫一つおりはせぬ、空気は重く湿って一鳥も啼 かぬ。
九十二 再び地下の室へ帰るのは放たれた囚人が牢に帰る様なものだ、とても出来る事で無い、
一語の消息を伝うべき電線は無い事か、乗って行く鉄道はどうなった、地を掘る鋤 の様なものは無いか、何処かに種を播 く野原は有るまいか。
九十三 彼等は口にこそ出さなかったが、心の中でこの様な事を問うた、たとい大声に叫び問うたとて答える山彦さえ有りはしない。
九十四 初め博士が種物や食物などを地底の室に取り入れた時の心は、万一の場合を予想し、
もしやこの世界に草木や人種が尽きたにしても、自分達で再び万物を繁殖させる積もりであった。
今はこの様な見込みも絶えた。
今はこの様な見込みも絶えた。
九十五 彼等の力が次第に尽きると共に天地は寂寞 として一切の霊魂を葬った。
九十六 博士は悟って独語した、これが最後の言葉である。「進化の行程はすべてこの通りだ、幾百万年、我制統に光を与えこの地上の生命を支えて来た太陽も老廃して九十七 もはや非常手段に
九十八 今はその非常手段で若返った、丁度地球などの未だ生れぬ先と同じ太陽に成ったのだ、追っては再び同じ仕事に取り掛かることも出来るだろう。人種も大革新を得んが為には、死んで生まれ
九十九 この世に再び生命というものが現われ、今よりも更に高等な形に育って行くには言葉に尽くされぬほどの永い永い年代が経たねばならぬ。
百 人間の身にこそ長い年代であれ、一切の因果を
大御力は優絶な忍耐を以て待ち給う、その内には新たな地球と新たな秩序が出来て万物が
完