暗黒星

シモン・ニューコム

黒岩涙香訳




一 驚くべき信号


一 「暗黒星! 暗黒星!」
 遥か天の一方に、怪しき暗黒星が現われたとの信号が、火星世界の天文台から発せられた。
 この信号がヒマラヤ山の絶頂にある我中央天文台に達し、中央天文台から全世界に電光信号をもって伝えた。
 この時の世界は、もはや学術上の発明なども数千年前に極度まで達して、この上に進歩する道が無く、極めて無事太平に、極めて静かに、何事も定滞の状とは為っていた、つまり科学的知識が応用の出来るだけ応用せられ、一歩だも進む余地が無くなってから既に数千年を経たのだ。人間の事務という事務はことごとく機械の作用の如く完全に達せられる。戦争の如きも無くなった。万国公法が極点まで進歩して一切いっさいの条項が完備したから、国と国との間にどの様な問題が在っても総て公法の主義に従って落着する。
二 であるからこの頃の歴史には面白い事が少しも無い。面白いのはもうばくたる太古の霧に包まれ、よく分からぬほど以前の蛮族時代、人と人とが武器を以て戦争し、命の遣り取りをした頃の記事のみだ。
 新聞紙とても、日々発兌はつだはするものの、何にも報道する事が無い。誕生と結婚と死亡との日表の様なもので、それに天気の報道が少しある。話の種にも成らぬ様なつまらぬ埋草うめくさは掲載せぬので、時によると「前号発兌以来、一つも注目するに足る事件無し」とのみ記して、他は皆余白のままに存している新聞が、読者の家の戸口に置かれる事もある。
三 言葉は全世界通して同一である、総ての紳士が緑色の服に金色のボタンを付け、縁を赤く隈取った白い襟飾りを着ける、これより外に正服はない。
 最も遠隔した支那国すらも数千年前に列に入り全世界と同様に生活している。
四 まことに人心を動かした事件を尋ねれば、今より三千年前、初めて火星とこの世界と交通の開けた時代にさかのぼらねばならぬ。これ以来は何事も無いのだ。この交通の開始は実にさかんな手段であった。何しろ火星の人種に見える程の合図を送るには、太陽の様な白熱の強い光を凝集して一哩四方の大光明となさねばならぬ。これだけの大光明を機械で以て使用するまでに幾千年の試験を要した。試験が済んで愈々いよいよ実行したのは西伯里亜しべりあの広野に於いてであった。
 地球と火星との対面する度にこれを行なった。二回三回と対面したけれど何の功も無かった。
五 もはや火星からは返辞の無いものかと疑われたが、たちまち全世界の人は殆ど電気に打たれた如く驚動した。火星の表面から返辞があった。返辞と見る外は無い様に、強い光線が地球に向かって発射した。サアこの信号を解するのがむつかしい。その困難は仲々以て古物学者が太古のモアブ人の石碑文を解読する様な比では無かった。
 ようやく解釈が出来て見ると、分かった。火星の人種は地球の人種よりも天文の知識がよほど優れている。新星の出現などは必ず知らせてくれる、その知らせ方は、本から末に行くに従い次第に薄色となる四種の光線を以てするので、光線の方向が新星出現の方を指すのであった。
六 勿論新星の出現はきょくの昔から二年目又は三年目ごとには有った。近来はヒマラヤ山いただきの天文台で、極めて鋭敏な写真機を以て天を写すのだから、よほど早く分かりはするが、それでも火星人の方が更に早い、いつでも我が地球へ注意してくれる。
 今度の暗黒星などもそれなんだ、唯この暗黒星がどの様な意味を以っているか、何事の前兆であるかは未だ分からぬ。

二 何事の前兆


七 不意に現われる怪星の中で最も人のよく知っているは彗星であるが、彗星はもはや珍しく無い。記録にのっているのが既に二万五千もあってなお年々に新発見が加わって行く。ただ暗黒星に至っては実に珍しい。天文の歴史に記されたのが二十に足らぬ、しかして最近に現われたのが三百年も前である。
八 勿論暗黒星は太陽系統に属していぬ。天のどの方面にいるかも分からぬ。恐らくは無籍者だろう。色は名の通り暗黒で、短い尾を引いたのも有り全く尾の無いのも有る。何方いづかたから来て何方へ行くか少しも見当がつかぬ。しかし火星の人が暗黒星を示すに用いる信号は分かっている。五条の大光線を以て、妙な具合に十字形を見せるので、十字の頭が丁度星の方角に当たるのだ。
九 何しろ永い間、無事に退屈していた世界だから、この暗黒星の報道が達するや、人心が一時に聳動しょうどうした。「その星は何処どこにある?」「どの様な性質だ?」「何事の前兆か?」等問い合わせが続々とヒマラヤ山頂の天文台へ全世界から集まって、係員はみなで電信の中に埋められる様なありさまであった。けれど彼等は未だその星を見出し得ぬ。ただ火星の信号がドラゴン星座の辺りを指しているので、その辺へ現われるだろうと答える外は無かった。

三 人心の動揺


十 未だ仲々、この地球へ見えはせぬ。よほど度の強い望遠鏡にも写らぬ程だけれど、それでも人々は持ち合わせの双眼鏡などを取り出してしきりに天を眺めた。
 信号を受けて一週間を経ても未だ見えぬので人々は疑い始めた。もしや信号を読み違えたでは無いか、もしや火星世界の望遠鏡が地球のより劣っているでは無いかなどと、しかして殆ど人心がやすり掛けた所であった。たちまちヒマラヤ天文台が再報告を発した。愈々いよいよ暗黒星が写真の板面に影を印した。場所は火星の指示した辺りの天である。ドラゴン星座の頭とリラ星の中間をば東南の方へ行く様である。
十一 サアこうなると多くの天文学者はこの新星の軌道を実測するに熱中した。何処を通って何処へ行く星であるか、何しろ進行が遅々としているから、これを測り定めるには一二週間の時日を要する。

四 驚くべき方角


十二 軌道測定の結果が分からぬうちに又火星からの信号が、非常な変調を現わした。かの五条の信号光線が今までにかつて例の無い動き方を始めた。その意味は更に分からぬけれど、何しろ火星世界ではこれを一大事変となして、人心が一方ならず騒いでいるものと察せらる。
 吾人ごじんの世界では、何故に火星がこの暗黒星の為に、かくまで激しい信号を発するか、その理由さえ解せられぬ、ただ気長く分かる時を待つのみだ。
十三 天文学者は益々熱心に軌道の測量をするけれど、どうしても測量が届かぬ。天文学の開けて以来この様なためしは無い。何度の曲線を描いて運行するか、少し見れば分かるはずだのに一月経っても分からぬ。
 その中にヒマラヤ天文台は過日らいの報告よりも更に驚愕すべき報道を発した。左の如くに、
この暗黒星は軌道を有せず、太陽を指して落下しつつあり。
落下の速力は目下の所、既に一秒時三十キロメートルに達したり。(一時間におおよそ日本の二万五十里)勿論益々速力を加うるなり。
この速力の割合にて二百十箇日(七ヶ月)の後には太陽に到着するはずなり。

五 理学博士の先見


十四 暗黒星が来て太陽と衝突する、その結果はどうなるだろう、誰も知る者は無い。しかるに、
唯一人、あらかじめその結果の容易ならぬを見抜いたのは理学研究所の長を勤める理学博士である。
 この時は既にすべての学問が極点まで進歩してこの上に発明の余地が無い事ときまっているのに、なお理学研究所など云うものの有るのは、おかしいでは無いかと怪しむ人もあろう。けれど人の欲には限りが無い。もしやどの様な事で、多少の発明や多少の改良が出来ようかも知れぬとの見込みから、大いな理学研究所を設けてある。まず研究所の大要を記して置こう。

六 理学研究所


十五 理学研究所はある半島の南端に在る。その土地は昔ニーオークとか云って、非常に繁華な都会で有ったそうだ。何時いつ頃の事だか考古学者に聞かねばよく分からぬが、大きな地震が有って、町全体が地底に埋まった。今は只大きな古跡として残っている。何でも市の広さが幾哩にもわたっていた様だ。
十六 この同じ半島の北の部分には、今の世界の大市場が建っている。これは名を「ハットン」市と云うのだ。その道路の美しく甃石しきいしいてあるかたちや、建築物の高大な状などは言語に絶する。市全体は北と西の方へ広く伸び、端から端まで行くのに一日を費やさねばならぬ。高い塔や、公の官衛や、これ以上の建築は出来ぬ、すべて世界の富がここへ集まるので、何事も豊富である。世界中の人が、たとえ用事は無くとも見物の為に集まって来る。何でも生涯に一度はこの市を見ねば成らぬ、理学研究所はこの市隣りに当たるのだ。
 勿論理想的に作ったのだから、何の点から見ても欠点の無い研究所である。第一には、
春夏秋冬、暑寒しょかんの変化が有っては不都合だから、それを防ぐ為に地の底百尺以上の深い所へ掘り込んで作ってある。
 しかしてその広さは幾百間四方に及ぶので、まず地底の建築物としてはこれに及ぶものは無い。おおよそ人間の知恵でもって作る事の出来る理学機械はことごとく備わっている。

七 博士の異様なる挙動


十七 勿論この博士も、他の人々と同じく、怪しい暗黒星が太陽に衝突することを聞いた。聞いて後の博士の挙動はよほど変であった。常ならば人が見て怪しむだろうけれど、誰も只暗黒星の事にのみ心を奪われている際だから気が付かなかった。
十八 まず博士は沢山理学の機械の在る上に、今までかつて持って来た事の無い様な品々を運び入れた。その重なるは麺麭ぱんに作る麦粉、生麦を始め一切いっさいの食物及び植物学上に知られているすべての草木の種などであった。
 洪水の時にノアが種々の品物を船に取り入れたのと、ほぼ似通った振舞いである。多少はこの事に気の付いた人が有っても、唯博士が植物の研究を始めるのだろうと思う位で、別に怪しみはしなかった。

八 秘密の契約


十九 かかる貯蔵の用意が済むや、さて博士はこの研究所の役員一同を集め、重々しく説き出した。
「私は重大な事柄をここに述べます。これは極めて秘密の事ゆえ、決して他にらさぬと云う条件に服して頂かねば成らぬ。
 もしこの条件に不服の方は立ち退いて下さる様に願います。」
 何事であるかは知らぬが誰一人立ち退かなかった。博士はこれだけでは未だ満足しない。よほど秘密な相談と見える。更に念を押す様に「決して他言をせぬ、決して人にらさぬ、と誓う方は右の手を挙げて下さい」と云った。一同は右の手を挙げた。

九 博士の演説


二十 博士は一同の挙げた手を見てようやく安心した様である。しかしてその驚くべき演説を左の如く始めた。
「諸君、私は、ここにいる吾々より外の人へは決して知らせて成らぬ事柄をお耳に入れます。歴史にって諸君の知る通り、昔から時々、天界で新たな星が忽然こつぜんと光り出す事が有ります。しかしこれは今まで無かった星が新たに生まれ出づる訳では無く、以前から有った星が急に光を増すのです。
「何故に光を増すか、その原因に就いては一定の説が有りませんけれど、数箇月の後には或いはその光を減じて、我我の目に見えぬ迄に小さくなったり或いは一種の星雲に変じてしまいます。
二十一 「これに就いて、私の確信を申しますならば、天には天文学者の云う通り無数の暗黒星が飛遊している。この暗黒星が他の星に衝突した場合に右の様な非常な光を発するのです。何故と云えば、暗黒星は冷え固まっているから堅い、光や熱をもっている星は膨張しているから柔らかです。それだから、暗黒星が他の星の皮を突き破り、中に包まれている熱と光とを一時に爆発させるのです。爆発した熱と光とは恐ろしい力を以て発散します。
 この度の暗黒星と太陽との事柄もこの理を以て考えて見ねば成りません」
 云う中にも博士の顔には、恐れと心配との色が見えている。

十 理学者と世人と哲学者


二十二 恐れて心配の色を浮かべた理学博士の秘密演説は左の如く続いた。
「ヒマラヤ天文台の報告によると来たる十二月には愈々いよいよ暗黒星と太陽と衝突する、との事ですが、私は無益に人々を驚かせることを好みません。しかし事実は事実の様に正面から観察して見ねば成らん。もし今申し上げた私の確信が正当とすれば、この衝突の為に、太陽の光と熱とはたちまち幾千倍に増加するのです。
 その結果は推量するに難くは有りません。
二十三 「地球の表面はあたかも、眼鏡の玉で光線を引き集めたその焦点に置かれるのと同じ事でしょう、ただ木で作った品物がことごとく焼けてしまうのみでありませぬ。鉄類はすべてけ、石造の物は皆微塵みじんに砕けます。詰まる所、大いなる熱火の洪水とも云うべきですから、おおよそ地球の上に有る人工のすべての事業及び物件は皆破壊し、人類は勿論一切いっさいの生物が残らず焼き殺されてしまいます。
二十四 「こうなると太陽の光に接せぬ北極とか南極とかの地方のみが無事に残るかとも思われますけれども、これとても助かりません。いわば空気総体が火となって燃える様なありさまですから、熱した空気、熱した蒸気が恐ろしい勢いを以て極地を襲います。極地とてもわざわいを受ける結果は他の地方と大した相違が無いのです。
二十五[#「二十五」は底本では「 二十五」] 「この様な天然の巨大なる魔力に向かって、私は全く策の出づる所を知りません。ただ私の学説の全く誤謬あやまりであることを切望するのみです。それと同時に諸君に望みます。諸君は愈々いよいよと云う危急の場合に至らば、諸君の細君や子供を連れて、この地底に在る理学研究所へ逃げてお出でなさい、ここならばあるいは避難が出来ようかとも思われます。もしも何事も無く済めばそれに越す幸いは無い。しかし我我がこの様な準備をしている事は誰にも知らせては成りません、勿論、一切いっさいの生類、一切の人類がことごとく滅亡した跡に、我我のみ生き残ったとて何の甲斐も有りませんけれど、これもその実地に望んで見ねば、どうとも断言が出来ぬのです。
 諸君は何時いつでもここへ避難に来るだけの準備をお調ととのえなさい。しかし誰にも知らさぬ様になさい」
二十六 以上が博士の演説である。自分等の一族のみこの大天災を逃れようとするのはいささか他に対して邪慳じゃけんな振舞いでは無かろうか。しかし、大昔に、ノアがこの通りの事をして、誰にも責められぬでは無いか、かえって後々までめられ敬われるでは無いか。
 博士は幾度も自ら疑い自ら惑った。この大いなる心配を世間に知らせた方が好くは無いだろうかと、イヤそうでは無い、これを知らせたとて世間の人はどうする事も出来ぬ、いたずらに心配を増すばかりだ。その方がかえって邪慳と云うものだ。医者の道徳でも分かっているでは無いか、到底死を逃れぬ病人に向かって、死ぬることを決して打ち明けぬ、死ぬる迄の絶望の苦痛が、全く無益な惨刑と云うものだ。
何で無益の苦痛を世間に与える事が出来よう、それにこの学説が果たして当たるか分からぬのだもの。
二十七 しかし博士のかかる用心にかかわらず、世界は実に心配した。火星からの信号が益々激しい。確かにこれは一種の警報である、警告である。最初のうちは隔晩に在ったり或いは二晩置きに来たりしたのが、連夜続けて来ることになった。何事か火星人が大いに叫んでいるに違いない。それにしても何の意味だろう。人々はただ怪しんで、随分この理学博士のもとへも問い合わせが有った。大丈夫でしょうか、何か、危険は有りはせぬでしょうか。流石さすがの博士も、曖昧ながら幾らかは答えぬ訳にいかなかった。
二十八 「左様さ、よくは分からぬけれど、暗黒星と太陽と衝突すれば、急に太陽の熱が高くなる様に思われる。二日か三日の間に熱い頂点に達して、それから幾週日の間は滅法に熱い事であろう。兎も角も、家の屋根の如き、天日を強く受ける所や、その他の燃える恐れの有る物件は、燃えぬ品物を以ておおう用意をするがかろう。取り分け衣類や食物の如きものは容易に変敗の恐れがあるから、穴蔵の底深く納めて置く様な用意は無くてはなるまい」
 と云う位の返辞をしたが。
二十九 ハットン市に在る大学の、哲学博士はこれに反対の議論を立てた。全体哲学者と理学者とはよくしのぎ合わんとして争う者だが、何方いづかたが事実の上に勝つのか知らん。
 哲学者の意見にも仲々、人を従わせるだけの力があった。哲学の先生は論理術(ロジック)で以てこの問題を解こうとするのだ。まず少しでもこの問題に関係のある一切の事実、一切の材料を取り集め、これを方程式に作って解釈した。

十一 哲学者の論理


三十 しかしてその結果として発表したのは左の如しだ。
「過去一万年間の記録に徴するには太陽は全宇宙に於ける最も不変なるものの一つなり。
世界に気象台ありて以来の統計によると太陽が毎一年に、我地球の表面に射下いくだす光と熱との分量は、一抹の増減なし。かかる太陽が、原因の如何に関せず、突然に熱度を変ずべしとの想像は何等の実験にも根拠なき空説なり。この故に理学博士の予言に驚ろかされて、恐怖する如きは、不論理的(イルロジカル)なり。理学博士自らすらも、自己の予言に幾分の疑いを存せるに於いて殊にしかりとす。しかは云え、何分にも利害の大なる問題なれば、理学博士の注意に従うの得策たるは勿論なり、出来る限りの用心をなすことは有害に非ず。」
三十一 こうなると又、理学博士のもとへ、続々と問い合わせが来る。もし先生の数理的説明に何等かの間違いは無かろうか、幾百万年、整然たる秩序を保って来た天界が、一時に大変化を受ける如き事は無さそうに思わるるが、などと、書信が夕立ちの如く降った。博士はこれに答え、単に「拙者の学説は、吾人ごじんの見聞の範囲に在る何等の場合にも実験せられたること無し」と云うのみであった。勿論、実験せられた場合の有る筈は無い。
 むしろ博士は、世人が自分の説を疑うのを喜んだ。博士の説には確乎かくこたる論拠ろんきょが有るけれどその論拠を示さなかった。論拠とは前に述べた通り、天に時々新星の輝くのが、すなわち暗黒星と他星と衝突の結果であるとの一事実だ。もしこの事実を示したなら、哲学博士の断案も違ったかも知れぬけれど博士は、別に自分の思惑おもわくが有る為に大事な論拠を隠しているのだ。
三十二 学者の議論がこの様に続く間に、かの暗黒星はヒマラヤ天文台の大望遠鏡にのみは見えることになったけれど、その他の望遠鏡には少しも写らなかった。
 所が、それも初めのうちの事で、追々と、一週又一週を経るに連れ、それ以下の望遠鏡へ写る事となり、ついには、いやしくも天体を観測する人は皆これを認むるに至った。
 しかしていよいよ暗黒星が太陽に到着する二箇月前に至ると、ヒマラヤ天文台は明細にその時刻をまで報じた。
時刻は十二月十二日の午後である。すなわち欧羅巴全州では既に日没の後で、わずかに北の方の一部分を除いた米国総体と太平洋の大部分に見ることが出来る。なお詳しく云えば、丁度ラブラドルで日の暮れた時だ。故に米国の東海岸の中央部では一時間ほど日の残っている時である。
三十三 一夜、一夜、その期限に近づくに連れて世界の人々は唯、そら頼みに自分の安心を求めんとする様に到った。今まで、時々に世界破裂の説が有ったけれど、いつもいつも天文学者の計算違いである事が分かり、世界はこの通り存している。それだから今度の暗黒星とやらも矢張り計算違いでは有るまいか、成るほど太陽のかたわらまで来る事は来るとしても、途中から横にれ、段々に遠くなって、二度と現われぬ事になりはせぬか。これも無理の無い想像である。軌道の有る星ならば、天文学者の計算違いと云う事もあろうが、既に軌道を踏み外した狼藉者、無宿者で、盲滅法に天界から落ちて来るのだから、太陽へ落ち込むに決まっている。
 地球の引力範囲で落ちた林檎りんごはどうしても地球へ落ちるに決まっているでは無いか。暗黒星は既に太陽の引力範囲へ落ちて来ている、太陽の表面より外に、何処へ落ちるものか。

十二 愈々いよいよ十二月に入る


 ついには暗黒星が肉眼で見えることとなった。天気さえ好ければ毎晩見える。
 こうなると「途中から横にれる」との空頼みは消えてしまった。れはせぬ、天文台の報告の通りに行くのだ。
三十四 唯その光の小さいことは実に驚く。一夜一夜に多少は太くなるのだろうけれど、しかとは見えぬ。(暗黒星にても太陽の光を反射して輝くなり、なお月の輝くがごとし)
 太古の人は星を吉凶禍福の本と信じてはなはだしく気にした。けれどもしこの様な星が現われたなら、殆ど気が付かずにいる所だろう。たとえ気が付いても、形の微々たるを見て、何で今まで見えぬ所へ、この様なけちな星が出たかと怪しむに過ぎないであろう。
三十五 けれど、今の人はそうは行かぬ。その進行の遅々たるだけ、益々苦痛が大きくなった。昔支那人は、頭の上へ、一滴ずつ、水を垂らす刑を用いたと云うことだ。初めは微々たる一滴だから、何とも感ぜぬけれど、それが長く続くに従い到底耐え得ぬほどの苦痛となるのだ。
遅いだけに苦痛が長い、ついには人々が日々の職業でさえ手に付かぬこととなった。かくては社会総体の人がことごとく破産するにも至る訳だから、依然として職業を大事にせねば成らぬとの警告の文書が沢山発せられた。
三十六 いよいよ十二月の間近になるとかの暗黒星が太陽を指して落ちて行く速力がよほど増してその光も段々に強くなる。
初めのうちは夜だけしか見えなかったのが今は真昼でも見えることに成り、あたかも大空に恐ろしい龍のわだかまっている様にも思われた。
三十七 ここに至ると人心は妙なものだ。太古の人種と同じ様に一種畏怖いふの意味を持った宗教心が起こって来た。かかる宗教心は最早もはや数知れぬ長い時代の間、全く人心に忘れられていたのだ。
今の世の人心はただ精力を信ずるのみだ。宇宙一切の極微分子に[#「極微分子に」は底本では「極致分子に」]ことごとく活動の気を吹き込みて霊妙の動作をなさしむるその遍在の[#「遍在の」は底本では「偏在の」]精力こそ、目視めみるべからずしてしかも慈恩の行き渡れる者なれば何時いつの世までも信ずべきなれ、しかるに今やこの精力に無慈悲なる裁判の意味があって、人々の先祖の汚れ、先祖の罪の為に、終末の厳罰を下すのだと云う如く信ずるに至った。
「最後の審判!」「最後の審判!」などと恐れおののき、急に神の御名を叫ぶも多かった。
三十八 それでも十二月の到着するをせき止め得ぬ。もう後十二日、イヤ十一日―十日―と日が数えられるに至った。その時に世界の運命が決するのだ。こうなると、
よほど勇気の有る人で無ければ、仰いで星を見ることが出来ぬ。自分の目にさえ見えねばそのわざわいが消えるかの様に人々は目を閉じた。
中に大胆に双眼鏡を天に向ける人には、丁度肉眼で見る月の大きさほどに禍の姿が見えた。
しかし、月の様な穏和な、静粛な容貌は、彼には無い、かの光はただ恐ろしい、いわば猛獣の眼の輝く色なんだ。
三十九 七日―六日―五日―日数が残り少なくなるに連れ、空に輝く眼の光が益々すごくなって来る。復讐に渇している怪物の眼なんだ。人は目を閉じて見まいとしても、又眠っても、その光が想像に浮かんで来る。確かに地獄の底から、人をりに出た悪魔の眼である。人はその光に駆り立てられ、逃げ廻っている様なものだ。
 吾人ごじんの先祖は猛獣毒蛇に追い廻されて安眠も出来ぬ時代が有っただろう。吾人はその時代にかえったと同じ事だ。
四十 もう三日―もう二日―こうなると道理を考える心が人間に無くなった。

十三 衝突のその日


 人には道理を考える心が無くなって、あたかも酔漢の如くに市中を狂奔きょうほんする者が沢山あった。警察の官吏とてもこれを制止しようとは勉めなかった。
 道に行き交う人々は無言で目と目とを見合わせた。無言でも心の中は分かっている、ただ恐れに満ちているのだ。
四十一 最終の日がついに来た、アア。
今夜――知らず、今夜はどうなるだろう。
朝は風も[#「風も」は底本では「風邪も」]穏やかで、天が極めて静かである。空にかれる太陽は、今にもその身に突き当たる恐るべきものの近寄っている事を知るや知らずや、つねの如くやわらかに輝いている。その余りに沈着なる態度が、あるいはこの世界の人々に対し、何もそう騒ぐには及ばぬと戒め何事も無い事を告げているかとも思われた。
 天を見る勇気の無いまでに沮喪そそうしていた人々も、いささか気力を回復して又望遠鏡を取り出すことになった。しかし何事も無く、静かに又静かに太陽は運行し、昼をも過ぎて、西に西にと傾き始めた。
 もはや、幾時間の後とは成った、イヤ幾分時と数えらるるに至った。
四十二 いずれの望遠鏡にも、必ず一人はすがり付く勇者がある。いよいよ衝突の時はどの様になるだろうと、その人々は皆ひとみらした。
刻一刻に、悪魔の眼の様なかの暗黒星は明るくなった。輝き方が次第に強く、次第に恐ろしくなった。それだけずつ、太陽に向かって近づくのである。
しかしてついに太陽の一端に接触した時の、人々の心は想像する事さえ出来ぬ、ハットン市全部の人心に、電気の様に戦慄の波が伝わった。
四十三 戦慄の後で、少しの間だけれど安心の思いが浮かんだ。かの怪星はたちまち姿が消えた、誰の目にも見えなくなった。
太陽には未だ何の異状も無い、多分太陽の大熱火の為に、かの暗黒体が、けて蒸発して消えたであろう、と人々は思った。
けれどこの安心はただちにき消された。間も無く太陽の表面に、一つの黒点が現われた。
アア分かった、怪物は未だ太陽へ衝突せぬ単に太陽と地球との間の所へまで落ちて来たのだ。丁度金星や水星が、小さい黒点となって太陽の表面をしょくしつつ通過する時と同じ事だ。
四十四 どうかこのままに太陽の表面を通過してくれよ、金星や水星が去る様に、暫くにして立ち去ってくれとこれも少しの間だけれど人々が心に祈った。
 この間の心持ちはたとえ様が無い。アア幾千年来、天文学者の計算は一度も誤った事が無いのに、この場合のみはあやまったのだ、過ったらしい、過っていれば好い。
四十五 と思う間に、思うその心の過ちであることが分かった。
一黒点となった怪星がやがて太陽の表に没した。その姿が見え無くなった、これは確かに衝突して、太陽の肉の中へ弾丸の如く突入したのだ。
かく見ると同時に、その突入したと思われる箇所がたちまち光の中の光とも見ゆる様に明るくなった。詰まり突入したその傷口から、太陽が炎々のほのおを吐くのであろう、その輝きの強い事は、もう見ていることが出来ぬほどだ。勿論太陽をのぞ目鏡めがねは光線を避ける為に黒く塗ってある、しかしそれですらもまぶしくて見ていることが出来ぬ。いわば肉眼で常の太陽を見る様なものだ、強いて見ていれば目がつぶれるのだ。
これより以後の事柄は、これを見るのに望遠鏡も何も要らぬ。

十四 その日の夜


四十六 望遠鏡は無くとも、黒い硝子板一枚あればもう肉眼によく見えた。
暗黒星に突き破られた太陽の傷口が、恐ろしい※(「火+欣」、第3水準1-87-48)きんしょうを起こして火炎を吐くのだ。
その火炎が刻一刻に、より大きく、より明るく成って行く。
絶え間なくかさが増し、幅が広がり、わずかに半時間の後には、あたかも扇とも慧星の尾とも見らるる形となった。
四十七 地球の表面は、今まで見た事の無いほど明るくなり、唯ギラギラとまぶしい思いがせられて、砂や小石などがダイヤモンドの如く輝き始めた。
 やがて米国の東の海岸に沿うた地方は日が暮れた、その時は早や火焔かえんの大きさが、半時間前よりは二倍になり、その明るさは先ず四倍とも云うべき様になっていた。
 夜に入っても空気は次第に熱くなり、西海に日の入る頃は、その辺の人々いずれも、日の当たらぬ所を求めて隠れる程であった。
四十八 まず日が没したので休戦の許しを得た様なものだ、この後の太陽の光景ありさまは見る事が出来ぬけれど、
間もなく天に、争うべからざる恐ろしい凶兆きざしが現われた。
 この時は丁度火星が地球と対面の地位に在ったが、無論、日の暮れて間も無く、この火星は東の天に、しかして更に西の天にはかの「宵の明星」と知られている金星が現われた。
アア金星、アア火星、双方ともに今までに無い光り方だ。
 金星の方は電気の如く輝いている。確かに白熱だ。火星の方は石炭の燃える火団ひのたまの如しだ、全く燃えている様だ。
四十九 これは何の為だろう、誰とても知っている。太陽の光が強くなったから、同じ割合にその反射が強くなったのだ、大いなる火事に照らされている景色を、暗い所から望見する様なものである。
 こう思うと明日の日が思いられて、人々の心には益々恐ろしさが湧くばかりだ。
 今は米国が夜だから亜細亜アジア欧羅巴ヨーロッパは日中に在るはずだが、どの様なかたちだろう、時々刻々増す大火熱に――アアこう思うと、思うだけで戦慄する。
 この同じ光景が、夜の開けると共に米国へも廻って来るのだ。人心は絶望して沈着した。実に憐れである、何にも言わずにわざわいを待っているのだ、待つ外に道が無いのだ。
五十 地球の回転に従って、海も陸も東から西へ順々に沸騰して行きつつあるに相違無い。
その中に亜細亜や欧羅巴から凶報の電信が続々と達し始めた。支那でも印度でも、二三分間しか戸外に出ている事が出来ぬ、午後に及んでは一歩も外へ踏み出す事が出来なくなったと云う事だ。
五十一 欧羅巴の方は更にこれよりもはなはだしい、倫敦ロンドンから時間を追って電報が来る、その伝える所によると、
電信局は今までの建物の穴倉へ事務局を移した。
市民は一切いっさいの燃ゆべき物品をことごとく日光の射さぬ所へ隠しつつある。市中の喞筒ぽんぷは総出となりて屋根に水を注いでいる。午前十一時、かかる注意にもかかわらずチープサイドのある屋根が火を発した。引き続いて市中の各方面に幾箇所か太陽に焼かれる家が出来た。
火事の数はかぞえ切れぬ、消防の人は空の火熱と身辺の火熱とに攻められ、焦熱の底に奮闘している。
間もなくこの市中にては一人も生存するあたわざるに至るべし。
五十二 数分間の後に、左の電報が達した。
忽然こつぜんと意外な救いを得て一同蘇生の想いをなせり。
知らす、どの様な救いが天降ったであろう。

十五 欧米両大陸の実況


 忽然こつぜんとして天降った不意の救いは何であろう。
 どうして欧羅巴の人々は、大火熱の中で蘇生の思いをしたであろう。
 次の電文を読め。
大空の熱度激変せし為なるべし太西洋の面よりき起こりたる疾風、驀地まっしぐらに欧羅巴を襲い来たり、すさまじき勢いにて吹きあおれり。
これと同時に驟雨しゅうう、滝の如くに降り諸所の火焔を鎮滅したり。
この後の成り行きは寒心すべきものありといえども、兎に角、この風とこの雨となかりせば、物は火炎の中に灰燼かいじんし、人は焦熱の中に死すべかりしなり。
一時ながら人心は全く蘇生の想いをなせり。
 焦熱の中に大風大雨を得たとは、如何にも気持ちの好い事で有ったろう。
五十三 けれど次に来た電報は、大風大雨が焦熱よりもなお恐るべきを知らせた。天降った「救い」そのものさえも天が人間に降す呵責かしゃくの道具であった。
新たなる恐怖は更に起これり。大風はつのり募りて暴風となり、台風たいふうとなり、開闢かいびゃく以来、記録に存せざる狂風となれり。家の吹きつぶさるるもの、数を知らず、堅固にしてたおれざる如き家は家根を吹き飛ばされ、一つも無難なるものなし。
大空に旋飆せんびょうせる大家根幾何いくばくと云う数を知らず。
雨もまた、天をつんざきて落ち来たるかと怪しまる。
雨が降れりと云うよりも、ただちに洪水が降れりと云うを適当とす。
屋根の皆無となりたる所にかかる洪水の落下にいて人は身をく所を知らず。
五十四 午後の三時に及びて、又左の電報が来た。勿論この三時は欧羅巴の三時である。米国の三時では無い。
太陽の大火熱は、密雲を照らし破りて、又も下界を射るに至れり、熱さは前よりも更に強くして、しかも刻一刻に増加す。
電報局ももはや廃絶するの外なし。
五十五 これ限りで便りが絶えた、もう欧羅巴は全滅したかしらと怪しまれたが、夜に入って又電報が達した。
再び恵みの暴雨が降り始めて人の焼死し尽くすを免れ得たり。
三たび太陽はその威をたくましくし始めたけれど、幸いにして西に没したり。
欧羅巴の天地は夜に入れり、これにて一時の休戦を許されたる形なり。
知らず、休戦の尽くる明朝は、如何様いかように吾等の上に明け来たるや。
今日一日の物質的損害の額は算するに由無よしなし、死傷も多大なり、生き残れる人々も明日の事を思いて、生きたる心地無し。
五十六 この様に頻々ひんぴんの電報に警戒せられた為、米国の方では、夜の明けぬうちに余程用心した。出来るだけ頑強な防禦ぼうぎょ策を、考えもし、実行もした。
 ハットン市に在るだけの蒸気喞筒ぽんぷは悉く引き出されて、同市中に配布された。これならば全市が一時に火事となるともただちに鎮滅する事が出来ようと思われた。
 イヤ火事などの起こるはずは恐らくあるまい、市中に現存するだけの織物は取り出してすべての燃焼物質を包み、これに水を含ませた。これならば燃やしたくも燃えようが無い。しかしこの上にもなお何とか工夫は無かろうかと、人々は、言わず語らず胸を痛めた。
 そのうちに夜が明けたが、
 人は絶望の勇気を以て天日の焦熱と戦い始めた。
五十七 その有様は菅々しく説くに及ばぬ。電報で見た欧羅巴の有様と大差は無かったと云えばそれは分かる。しかし用意が行き届いていただけに幾分か損害が軽かったかも知れぬ。
 欧羅巴と同じ様に疾風、暴風、颶風ぐふう、狂風が吹き、同じ様に驟雨しゅううが降り、洪水が降り、同じ様に、一時は蘇生の想いをなし更に同じ様に、前に倍する焦熱に苦しめられてヤッと「日の入り」と云う休戦に助けられた。
五十八 けれど日没の凄惨せいさんな光景を見た者は、明日の日があろうとは思えなかった。ただ絶望するのみであった。

十六 夜の光景


 日の入る時の有り様を見たものは、この後の恐ろしさに、身震いするを禁じ得なかった。
太陽そのものの大きさがもう日頃より幾十倍に膨張している。その下の端が地平線に達してから、上の端が全く地平線に隠れ終るまでにおよそ一時間かかった。
 日の全く入り終わった後で西の空に夕映えの残るは誰も知る所である。日頃は赤く美しく見える。
この夕映えが燃える火の如き凄まじさで全天に広がった。
それが為に日没後の明るさが常の真昼の明るさと似寄によっている。
五十九 この夕映えは何であろう。
太陽からほとばしる宇宙的な光炎なんだ、夜の進むに従って薄らいだとはいえ、時々立ち昇る如く見える、その広がりが幾百幾億万里に及んだか計られない。
既にして真夜中に及ぶと丁度北極や南極の地方で見る極光の様なきらめきが時々西の天に発した。
極光は今まで世界の人が天地間壮絶の観物みものと思っていたがこの夜の光に比べては、殆どるにも足らぬ。
この夜の光は全く光炎の大発作である。西から発して天のなかまで達するのだ。
六十 このとき例の理学博士先生、
 かの地底の研究所から鉄の窓を開き、厚い硝子ガラス越しにこのかたちを観測していたが、かかる異様な現象のよって起こる訳を合点がてんした。
太陽が外面の皮殻ひかくき破られたのだから、中に欝積うっせきしているエネルギーの原元子イオンスが爆発して、殆ど光線の速力にも比すべき力を以て飛散するのである。今や太陽統制の全体がこの原元子を浴びせられている。
 この煌々こうこうたる天に、火星の輝き方は昨夜よりも一入ひとしおを加えた。
今やこの火星がどの様な合図を我が地球へ送りつつあるか知らぬが、ヒマラヤ山天文台から何の通信も無い。
すべて他の大陸からの通信が絶えてしまった、もう一切の通信機関が絶滅したのだ、米国の人はこれが世界の最終の審判日だと知り、いよいよ末日の来たるを待つのみである。
六十一 更に夜半以後の有り様は又凄絶だ、天に広がる原元子は、濃厚に、濃厚に成り行きて、地上の明るさは、今までの天然には類をも見ぬ異様なる色を呈した。これで見ると、夜の明けて後の事がどの様だろうと、恐れと絶望とが益々深く人心にみ込むは是非も無い。
あるいはこの夜の中に太陽の勢いが幾分か衰微するかも知れぬなどと、強いて自ら慰める人も有ったけれど、午前三時に及んでは、その空頼みと云う事が分かり、希望の微光も消えてしまった。
常ならばまだ真っ暗な刻限であるのに、三時少し過ぎに早や東天へ太陽の前触れが現われた。昨夜西の方から立ち昇った怪光が今度は東の方から現われた。
夜のうちに太陽は亜細亜を過ぎ太平洋を過ぎ歩一歩ほいっぽに力を減ずること無くしてかえってたけく激しくなった。すさまじい原元子の飛散にも察せられる、従来はもっと有り難い大燈光であったのが、今は世を破壊する大機関とはなった。
六十二 明るく又明るく東天は開けて日の出少し前に至ると、空の色が、いつもの天日を直接に見るが如く、まぶしくて見ていられぬに至った。
六十三 この様子では、いよいよ日が出たらとても耐えられる事では無いと思われたが、果たしてであった。
出て来た日光は単に光炎の大氾濫はんらんである。もし世の中に火の洪水と云う者が有るならば、これが確かに火の洪水である。
六十四 彼が太西洋岸から[#「太西洋岸から」はママ]、照らして太平洋岸に到るに従い、光線の落ちる所悉く火となった、濡れた織物やポンプの力で、防ぎ得ようと思ったのが愚かである。
石さえも焼けて砕けた。塔や尖閣せんかくなどは燃えながらあたかも地震に揺られた如くたおれ落ちた。

十七 人類総て死滅す


六十五 恐ろしとも凄まじとも形容にことばの無いこの場合に迫っては、人たる者は唯何ものかの下にくぐり込んで隠れるのみだ。穴倉へもい込んだ、洞穴どうけつにも入った、少しでもふたおおいのある下へは、皆き入ろうと努めた。老いも、若きも、富めるも、貧しきも、男も、女も、絶望し混雑し、一塊となって、互いに他の身体の下へすべり込もうと争った。
こうなっては人はうなぎである。
六十六 商業社会や産業社会で、日頃大達者おおだっしゃと立てられてその名前は家々の守護神の様に人の口に膾炙かいしゃしている大紳商、大紳士も、様は無い。常はその限り無き富を以て、金力を以て、うらやまれ、敬慕せられ、殆ど世界を支配するほどの威勢の有った身が、自分のお仕せに生活するそろいの法被はっぴの下男達と共々に、倒れた建物の隅や、自分の家の穴倉の中や、自分の銀行の倉庫などへ混多こんたになって蝟集した。もう貴賤も尊卑もない。
確かに天が人類の数限り無き罪障を焼きほろぼすものである。彼等は罪障の消滅から逃れようとするのだ、そうは行かぬ。
六十七 地下の理学研究所の中から、助手の人々と共に、外界を観察していた理学先生は、唯東方から煌々と光る放射が怒り狂う様にき来る様を見得たのみだ、そのうちに、
研究所の上の扉が余り熱くなったから、とても見てはいられぬとて、一同と共に最下層の暗室へ降りてしまった。
この後の事は殆ど記すにも忍びぬ。
暴威をたくましくしていた太陽にたちまち濃厚な雲が掛かった、この雲は太西洋からき起こったのだ。
六十八 もう大洋の総体が鍋の様に煮え返り沸騰している。
洋上の空気が益々膨張するから前にも記した如く怒風どふうを起こし、大鍋から立ちのぼる蒸発気がただちに雲となって米国の天に広がったのだ。
六十九 怒風の速力は、人間の想像を絶している。それと共に雲が広がる、それと共に人工に成れる一切の事物を吹き飛ばした。全くこの風の向かう所には人工の隻影せきえいなしだ。
石のうちけぬ性質を帯びたのは、先刻既に焼け砕けて、灰となり、微塵みじんと変じた。家々のいしずえまでも今は残らず粉である。この粉や、微塵が怒風に空中にあおり揚げられ、直ちに空の水気と合し、泥々の雨となって洪水の如く落ちて来る。
世界は殆ど泥水の底に埋められんとするのである。
七十 その上に強い電火が天の全面をば、間断かんだんなくかつ縦横無尽に光りわたる、これに接する者は直ちに電殺され電壊さるるはずであるが、もう殺される生物が残っていない。
七十一 雲は暗く暗く天をおおい、雨は強く強く地上の廃残をたたいた。
七十二 ここに至っては穴倉や倉庫などに密集した人々も助からぬ。
七十三 洪水となって天から落ちる泥々の雨が、熱湯の如くににえたっている。これを浴びれば一時に煮殺しゃさつされる。
七十四 少しの隙間すきまや割目から、この泥々の熱湯が流れ込んで、地上の廃残の物は勿論穴倉の底の物まで、溢れるほどに浸された、すべての生物が湯傷に焼けただれて死に絶えた。無惨  無惨

十八 地の底に生き残った人


七十五 物と名の付くものはことごとく破滅し、生きとし生ける者悉く打ち殺された後に
ただ理学博士の一族のみは生き残っていた。彼等は地の底に避難のへやを作った為に助かったのだ。もっともこの研究所の入口に当たる設備は、悉く大熱火の為、大嵐の為、跡方あとかたも無くぬぐい去られた。それが為彼等は暗室の最下層に潜んでいた。いわば衝突して真っ二つに折れた汽船の様なものだ。室の戸を、直接に外から波が推す、これと同じく彼等の暗室は、上の部分が無くなった為、かの泥水や熱湯などが直接に鉄の戸を圧迫した。
もしこの戸に触わろうものなら、触ったその手がただちに焼けてしまう程であった。その様に熱かった、けれど戸の隙間などから、中へ洩れて入る熱湯は極めて少なかった。
七十六 この室に蝟集している人々がすなわち全人類のわずかなる遺族なんだ、この人々のほかに人は無い、けれど彼等は死んだ人の幸福をうらやんだ、この様な地の底に殆んど生き埋め同様となって生きているその苦しさは、何も知らずに永眠した人に比しどれほどの不幸かも分らぬ。
七十七 もしここで、なおこの上に生存して行くかはた死んでしまうかを投票したならば、必ず満場一致で死を議決するところだろう。もう何の希望も無いのだから、成るたけ早く死ぬるのが、最良の祈願なんだ。
七十八 けれど厄介な事には良心という奴がある、この心は太古からの無数の年月を経て漸次ぜんじにこの人種の脳髄に発達して来たのだから、ただこの心が自分で自分の生命を軽んずることを許さぬのだ。
七十九 彼等は二年分の食糧を貯蓄してある、それだから空気と酸素さえ続くなら、まだ二年は生きていることが出来る。所で酸素を製造する機械は、その材料と共にこの室内に備えてある。
自分達の位地を考えて見るとこう用意の届いていることが、少しも愉快では無い、かえって苦痛だ。
八十 酸素を絶って窒息して死ぬると云う事は、気がとがめて出来ず、天性のしからしむる所に従い、止むを得ず生を続けるだけの手段は尽くす様なものの、生を続ける手段が、苦痛を長引かせる手段となるのだ。
八十一 へやの中には充分の電燈がある、けれど夜にも昼にも、なす仕事が絶無である、電気を消してしまえば常闇じょうあんの境となるのだ。
八十二 全く何事もせずにはいられぬから、その中の誰か彼かが、時に室の戸を内からしらべて見た、何も戸を開いてどうしようと云う目的が有るでは無い、いたずらに、水の圧力がどう変化したかを見届けようとするのだ。
八十三 少しずつ洩る水が止んで後、久しい間、戸は依然として熱かった。
次第に時が経った、けれど幾日であるか、幾週であるか、幾月であるか、誰も知る者が無い、その中に戸は段々に冷え掛けて来た。
いよいよ外に出でて見る時が近づいた。

十九 再び見たるこの世


八十四 戸の熱さがようやく手を着けられるほどに冷めて後、理学博士の一族は外に出ることを企てた。
多少の困難は有ったけれどついに戸を開くことが出来た。
外の様子はこの様である。
まず室の外に在る通路を見るに、泥々の洪水も全くいたものと見える。ただ濃い泥の海となって、深さが膝の辺まで来る、なお熱い事は熱いけれど火傷やけどするほどの熱湯では無い。強いてみ込めば渡ることが出来そうだから勇をして踏み込むことに成った。この後とても無論困難はあったけれどそれにもくじけず幾多の時を費やしてとうとう広い空気の所へ出た。
八十五 全く外に出て見ると、これはどうだ、夜だか昼だか更に分からぬ、天地の明るく輝いている事は、どれほどの日中でもこれには及ばぬ、けれど肝腎かんじんの太陽そのものが空に無い。全く太陽は溶けてしまったものと見える。
八十六 太陽が無くて何故にこう明るいのか、天地一面に輝いて見えるのは何であるのか。
他無し太陽が放散して霧の様な簇団ぞくだんとなり満天に広がったのだ。この霧や水気の霧では無くて光の霧である。
この光霧の中や、光霧の下を、更に流れているのは原元子イオンスの雲である、これがあたかも火のなみの様に見える。
八十七 しかして大気の熱度は、今以て我慢の出来ぬほどに強い。けれど地下の暗室で殆ど蒸せ死ぬる様な熱さを耐えて来た人々に取っては幾分かおだやかである。
八十八 初めてこの人々が外界の空気に接した時の心持ちは夢とうつつとの境に在る様であった。けれど四辺の景状を一目すればこの心持ちは直ちに消えた。
夢で無い、これが真実なんだ。真実としては殆ど想像に絶するほどの恐ろしさであるけれど、全く世界がこうなったのだから致し方が無い。

二十 一切の終末、博士の断案


八十九 彼等は空しくハットン市の在った方を眺めた。今は町も無い、町の旧跡さえも無い。
 彼等はいたずらに、誰か助けてくれる人は無いかと望んだ。誰も無い、てんで、生のある一物いつもつだも目をさえぎらぬ。
九十 人間の隻影せきえいも、人工の隻影も残ってはいぬ、イヤ天工の隻影さえも無くなったと云うべき程だ。
九十一 東西南の三方は粘泥ねんでいの大河となり、北(すなわちハットン市の在った方)は世界の中央と立てられ繁昌と活動との心軸しんじくとなっていた土地だのに、今は一面の平野となり、乾いた粘土や黒い砂や、なお湯気の出る泥などを以ておおわれ、虫一つおりはせぬ、空気は重く湿って一鳥もかぬ。
九十二 再び地下の室へ帰るのは放たれた囚人が牢に帰る様なものだ、とても出来る事で無い、何処どこかに見覚えのある事物は残っていまいか、何処かに人間の痕跡は無いだろうか、それを捜すにはなお遠く進んでみねばならぬ。
一語の消息を伝うべき電線は無い事か、乗って行く鉄道はどうなった、地を掘るすきの様なものは無いか、何処かに種をく野原は有るまいか。
九十三 彼等は口にこそ出さなかったが、心の中でこの様な事を問うた、たとい大声に叫び問うたとて答える山彦さえ有りはしない。
九十四 初め博士が種物や食物などを地底の室に取り入れた時の心は、万一の場合を予想し、
もしやこの世界に草木や人種が尽きたにしても、自分達で再び万物を繁殖させる積もりであった。
今はこの様な見込みも絶えた。
九十五 彼等の力が次第に尽きると共に天地は寂寞せきばくとして一切の霊魂を葬った。
九十六 博士は悟って独語した、これが最後の言葉である。「進化の行程はすべてこの通りだ、幾百万年、我制統に光を与えこの地上の生命を支えて来た太陽も老廃して枯死こしする場合とはなった。
九十七 もはや非常手段にる外はその精力を回復する道が無い。
九十八 今はその非常手段で若返った、丁度地球などの未だ生れぬ先と同じ太陽に成ったのだ、追っては再び同じ仕事に取り掛かることも出来るだろう。人種も大革新を得んが為には、死んで生まれかえらねば成らぬ。一個人も同じ事だ。
九十九 この世に再び生命というものが現われ、今よりも更に高等な形に育って行くには言葉に尽くされぬほどの永い永い年代が経たねばならぬ。
百 人間の身にこそ長い年代であれ、一切の因果をべ給う大御おおみ力に取りては数日の様なものだ。
 大御力は優絶な忍耐を以て待ち給う、その内には新たな地球と新たな秩序が出来て万物が化育かいくせられる。丁度吾々の生命が、前代の生命にまさる様に、次代の生命は又吾々の生命より遠く優ることであろう」






底本:「闇×幻想13=黎明 幻想・怪奇名作選」ペンギンカンパニー
   1993(平成5)年7月20日第1刷
初出:「萬朝報」
   1904(明治37)年5月6日〜5月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:宮城高志
2010年5月26日作成
2011年1月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード