日本出版協会論

嶋中雄作





「あなたの方の出版協会というのはいつもゴタ/\揉めているようですが、どうしたというんですか?」
 こういって訊ねる人もある。しかしそういう人はどういうものかおおむね素人に限られているようである。素人に解ってもらうのは並大抵のことではないし、内容が複雑すぎるものだから、心苦しいが言葉を濁していつも逃げるよりほかなかった。ところで不思議なことに、多少とも文化とか出版とかに関心を持っていそうな人は、何と思ってか余り問題にしないことである。たまたま話題に上る場合にも、「醜態」の一語に片づけてしまって歯牙にかけようとしないのである。
 およそ世間では、問題の筋が通ってその核心が掴める間は話題にも上り論議もされるが、何が何だか訳が解らなくなると興味の関心からはずれて来るものらしい。民主再建の大切な事業をよそにして権力と利慾の争奪に終始しているような今の出版界の現状では、大抵の者が愛想をつかすのも無理はないと思う。私どもも終戦以来まる三年、随分根気よく我慢して来たつもりだが、とうとう我慢がしきれなくなって飛び出してしまった。飛び出したというより、ハミ出したという方が適当かも知れない。で、この機会に私は、戦時中われわれの受けた体験と戦後三年間の経過を基にして、日本出版協会がいかにあり、また如何にあらねばならないかを検討し、ややもすれば見失おうとするその正体を見極わめて見ようと思う。この国の知識人には見放され、読書人には軽蔑され、しかもわれわれ業界人をまでも置き去りにして、日本出版協会は果たしてどこへゆこうとしているのであろうか。


 出版協会をして、このような抜き差しならぬ状態に追い込んだものは一にわれわれ業者の責任である。これを打開する一人の業界人をも有たなかったことは、もとより業界の恥辱であるが、それよりも一般業界の知的水準が余りに低かったということが最も嘆かわしい災いでなければならぬ。が一面からいえば、この業界の水準を高度に引上げることが協会自体の最も端的な目的であって、いやしくもその水準の低さに乗じてますます混乱させるようなことは何人にも許されるべきではないのである。今後日本の民主化に一番重大な役割を演じなければならないはずの出版界が今日の状態では、まことに心細いきわみといわねばならない。であるから出版協会がさしあたりしなければならない仕事は眼前に山と積まれてあるはずだのに、かれらはいまだに戦時統制時代の夢を追い、その権力から離れまいとして汲々としている。まことによその見る目も憐れな次第である。「その数三千何百……」とかいって、会員数の多きを誇っているが、それは過去の弾圧暴戻がいかに甚だしかったか、という実証を示すようなものであって、多いことそのことが少しも自慢にはならないのである。もし出版協会が真に民主的自覚に基づいて再出発するのであったならば、統制時代の遺物、遺産はすべからく自ら振り捨てて、裸になって出直さなければならなかったのである。
 しかるに現日本出版協会はそのことをなさずして、過去の日本出版文化協会及び日本出版会の罪業の数々、すなわち無恥と軽薄とそうして陰謀と強権によって積み重ねた基盤をそっくりそのまま踏襲し、当時事務局で一つ鍋の飯を分けあって喰った仲間を引き連れて、看板だけを「協会」に書き替えておぞくも居直ったのである。なるほど形式的には法的手続きを経たかも知れないが、実質的にはまさにその通りである。であるから終戦後三年、われわれも余りに冷淡であり過ぎたのは事実であるが、実は根を洗えばわれわれとは血の通わぬ親子なのである。私などにとっては敵の片割れだともいっていいくらいのものなのである。しかし業界再建の途上においてそうも言ってはいられないから、個人的感情は棄てて協力出来るものなら協力してと思ったのであるが、肌合いの違うせいもあろうが、どうもかれらのすることが腑に落ちない。一体かれらは何を望み、何をしようとしているのか、到底私には理解が出来ないのである。ただいたずらに自分たちだけを優越せる地位に置き、業界に対して絶対的、専制的な支配力を揮わんとして、そのためには、いかなる形においてか握った権力を放すまいともがいている……その有様は傍から見ると気の毒なくらいである。こういう有様では、心ある者や気の弱い者は寄り附かないのが当然で、寄り附くものは一種の野心家か、漁夫の利を得ようとする一味徒党か、特殊の利害関係を有する者に限られて来るのはまたやむをえないといわねばならない。
 私ははっきり言いたい。――日本出版協会は戦後一度解体して新たに再建されなければならなかったのだ――と。これを要するに、日本の出版文化行政というものは用紙割当行政であって、その方法は個々の出版物の内容を検討して甲乙丙丁等に頒ち、その等級に応じて紙の割当を決定したものである。これを査定と称して当時の出版文化協会及び出版会の主要事業となっていたのである。ところで個々の雑誌及び書籍の内容判定は事実上査定者の主観的判断によって左右されることを免かれないから、出版行政の実体はこうした査定者群によって握られることになったのである。この点は非常に重大なポイントで、用紙割当行政に限っては査定者個人の主観的判断が行政の中核をなしていたということを忘れてはならないのである。そうしている間に、かれらは絶対的権力によってあらゆるデータを集め、活殺自在の剣を揮うと同時に、貴重なる資料に関する知識を習得したことも事実である。そこで問題は戦時出版統制を担当した人間の集団が、終戦後三年の今日においても、同じような権力を握り、またその権力を持続せんとしていることである。実にかれらを育成した環境そのものがいかに間違ったものであったかは、今では誰でも知っている。それをそのままにしておいて新らしき酒を盛ろうとすることは、私は絶対に無理だと思うのである。
 無理か無理でないか、私は戦後かれらがとった行動の一つ一つについて考えて見たい。最初にかれらのやったことは、いわゆる戦犯問題で同業七社を叩き出し、いわゆる自由出版協会を作らせたことである。こういうことは戦術的に見ても愚かなことで、道義的に観てなおさら許されるべきことではないのである。なるほど講談社、主婦之友社等七社は戦時中確かに行き過ぎはあった。しかしそれをいえば当時の同業者は多少とも誰しも同罪で、大きな口を利ける者は一人もないはずである。殊に日本出版文化協会――日本出版会――はこれら一群の柔順な羊をしてかかる罪過を犯さしめた本家本元であって、その後身たる日本出版協会が弾劾の急先鋒となるなどということは、ちょっと聞いたのでは信じられないほどの滑稽なる矛盾である。出版協会といえども、今ではこの滑稽なる矛盾に気が附いているであろうが、この矛盾を敢えて犯さしめたところのものは何かといえば、協会及び協会職員の中に内在する弱点がそれをさせたのである。心に罪あるものほどその非を蔽おうとして焦るものだからである。看板を書き替えた手前、一刻も早く民主的実践を示さんとして極左的の勢力に取り縋ったのが間違いだったのである。かれらは溺れんとしては藁でも何でも掴む。それが右翼であろうと左翼であろうとお構いなしである。であるから、星移り月変りして、またしても反動の大浪が揺れたとき、いちはやく民主主義の旗を巻いて再びファッショの陣営に馳せ参ずる者はかれらでないと誰が保証出来るだろうか。急激に極端から極端へ行ったものは、また急激に極端から極端に走る。思想とか性格とか気質とかいうものは、そう急に変化するものではないからである。


 悪夢のように呪われた過去の統制時代を今さら振り返って見ることは、誰しも愉快なことではない。が、出版協会の実体を検討するために歴史的展開を試みて見るのもまた無駄ではないと思う。知っているようで案外知らない人も多いし、知っている人でも今では忘れている人も多いことだろうと思うから、順序を追って簡単に想起して見ることにしよう。
(一) 昭和十三年八月、商工省が新聞雑誌用紙について消費統制を開始した。その根拠法となったものは昭和十二年九月十日公布の法律第九十二号「輸出入品等ニ関スル臨時措置ニ関スル件」であった。この消費統制は単に量的統制であったが、新聞雑誌の創刊や特配量の例外的許可等多少質的考量を要する新規割当もあった。そこで、
(二) 昭和十四年八月企画院に「新聞雑誌用紙協議会」が非公式に設置され、そこで新規割当等が協議された。協議会を構成した官庁は商工省、企画院、内務省、内閣情報部であって、後に陸軍省及び海軍省も参画した。申請書の受附及び割当原案作成は主として商工省、部分的には内務省も分担した。
(三) 昭和十五年五月十七日、いわゆる出版新体制が立案された結果、企画院の協議会は発展的に解消して、内閣に「新聞雑誌用紙統制委員会」なるものが設置された。この委員会は商工大臣の諮問に答え、新聞、雑誌、書籍に対する用紙割当権を掌握した。この委員会を構成した諸官庁は企画院、内務省、商工省、情報局を中心に、陸軍省、海軍省、外務省、文部省、拓務省が参加し、その後官庁機構の変遷に伴って、農商務省、軍需省、興亜院、対満事務局、大東亜省、警視庁、運輸通信省等ほとんどあらゆる諸官庁の局長級が委員となって参画した。委員長は情報局総裁であった。
(四) 昭和十五年十二月十九日、日本出版文化協会が設立され、十八年三月二十六日、日本出版文化協会は発展的に解消して日本出版会(統制会)が生まれた。近衛新体制運動が日本全国を席捲するに及んで、漸次量的統制が質的統制に転化した。出版文化協会及び出版会は、事前に雑誌及び書籍の企画の詳細を提出せしめ、あるいは掲載禁止を命じ、あるいは強制掲載を命じた。当時日本には出版文化協会――出版会――という一出版元が存在しただけで、個々の出版会社はその出店に過ぎなかった。
 そして出版文化協会――出版会――は「雑誌用紙統制委員会」の割当原案作成機関として発足したのであるが、十八年末には割当権そのものを実質的に掌握するに至った。
 かくて出版文化協会――出版会――は用紙の割当という生殺与奪の剣を握った。しかるに商工省の政策により、
(五) 昭和二十年三月、個々の紙商は消失して「紙統制株式会社」すなわち「紙統」なるものが設立されるに及んで、各出版社に対しては紙の一手販売、「紙統」に対しては紙の一手買取りの特権を有つに至った。権力濫用時代のかかるモノポリーが、弊害の巣窟とならなかったらむしろ不思議で、巷間伝えられるような聞くに堪えない数々のスキャンダルや、五百万ポンドとかの赤切符の謎や、二百万ポンドに及ぶ保管用紙の行方や、それらのすべては真偽の程は別として、その原因は皆ここに胚胎しているのである。
(六) 昭和二十年十月二十六日、司令部から
A 日本新聞聯盟及び日本出版協会は割当機能を停止すべし
B 日本政府の責任により新聞出版用紙割当をなすべし。そのために新聞出版用紙割当委員会を設置すること
の指令を受けるまで、日本出版協会はその権能を継承して斯界に君臨していたのだから驚く。このことはわれわれ業界人のみならず一般社会の深く銘記しておかなくてはならないところである。
(七) 昭和二十年十二月三十一日を以て情報局官制は廃止され、用紙割当は商工省が担当することになった。しかし書籍・雑誌出版の現状については、従来の関係上かれらがエキスパートであるがゆえにという理由で、日本出版協会は商工省及び用紙割当委員会から割当原案(どの雑誌に紙をいくらやるかという仕事)作成の委嘱を受けて、またしても実質的にその権能を掌握した。いわゆる自由出版協会は当時における日本出版協会の権力濫用によって生まれたものである。

 以上が過去のごく簡単な歴史的展望であるが、ここでちょっと断わっておかねばならぬことは、新聞協会と出版協会とは大体同じ性質のものであるから、新聞協会もまた出版協会と同じような経過を辿って同じような過失を犯しているかのように想像され易いのであるが、事実は全然違っている。日本新聞会(統制会)は戦時中すでに解消して日本新聞公社となり、終戦後日本新聞聯盟となり、現に日本新聞協会として存在しているのであるが、この両者の間には次の如き明確な差異があるのである。
日本新聞聯盟
 一、新聞用紙割当原案を作成せず(情報局新聞課作成)
 二、新聞用紙現物の取扱権を有せず
日本出版協会
 一、出版用紙割当権を掌握す
 二、出版用紙の一手買取、一手販売機関
 以上、ややもすればこの両者は混同して論ずる人もあるが、決して同日に論じてはならないと思うので一言しておく。


 情報局官制が廃止せられて、割当事務の所管は従来からの関係で商工省に移った。日本出版協会の用紙割当権は一応取上げられて「新聞雑誌用紙割当委員会」の手に移ったことは慶賀すべきことであった。この時こそ割当事務の根本的改革を行なう絶好の機会であったように思うのである。筆者も選ばれて委員会の一人に加わっていた。ところが残念な、且は非常に申し訳ないことであったが、当時私は珍らしく大患に罹って、病癒えて出席したときにはすでに任期の半を過ぎて、大綱はすでに決定せられ、僅かに事務的処理が残されているのみであった。事務的処理は私の最も不得手とするところで、三千に余る出版社の、見たことも聞いたこともないような雑誌の是非を決定するようなことは人間業のよくするところではないのである。まして業者の死活を制するが如き重大問題を二日や三日の会議で、噂や評判や、ペラペラとページを繰ったりするくらいのことで無責任に決定してしまうようなことは、良心的であればあるほど心苦しい。殊に最も心苦しいことは、協会事務局が多年の経験と情実とで作成した原案そのものに明らかに不正と過失が伏在することを認めても、悲しいことにはこれを覆えすべきデータを有っていないことと、反対に、出たらめでも何でも資料らしき資料をかれらが持っているということである。いつの場合でも原案を覆えすことは困難なことに違いない。ましてああいう複雑かつ煩瑣な調査にはもっと専門的にぶつかった人間を必要とする。恐らくはどの委員といえども一人として自信を以て決定した人はいないのではないだろうかと私は思うのである。その意味において、よく協会が吹聴する協会の文化委員会についても、私は同様の疑問をもっている。なるほど個人個人としては学識経験ともに優れた学者、識者を網羅しているに違いない。だから形の上においては実に立派な堂々たる委員会が形作られているようだが、実際には果たしてどうであろう。しかもその数百五十に上るというのではなおさら心配である。責任はその数が多ければ多いほど責任を分担することになって無責任になり易いものである。私は統制会時代に各五十名の書籍委員、雑誌委員というのがあって、それがいかに滑稽な有名無実に終ったかをまざまざと見せられている。まさかそれほどでないまでも、委員の数が多いということだけではわれわれは安心できないのである。出版協会は常にこの種のカラクリによって衆愚を釣ろうとする。釣られる衆愚も悪いが、こういう事を平気でやる日本出版協会は果たして出版界の利益や将来を考えているものといえるだろうか。


 話は岐路にはいったが、そういうわけで、私は何等為すところなく委員を辞したのであるが、ただ心中、あの種の方法を踏襲し、しかも協会一味の者が多く委員会を占拠している実情では、可及的にもなんにも理想に近い割当は絶対に出来るものでないという信念だけを得て委員会にさようならをしたのであった。
 たまたまある会合の席上、私はある有力者に「これではとうてい委員会の職責を果たすことはできない、よろしく委員会そのものに下部組織を設けて徹底的に調査をやり直すべき」を進言したのであったが、私の言も不徹底であったためか、それはいれられなかった。しかしながら私ども心ある者の要望が通じてか、あるいはつとにその弊の認められていたせいであったか、その後間もなく(昭和二十一年十一月)時の政府は用紙割当委員会を商工省より内閣に移管し、内閣直属の用紙割当事務局(今の用紙割当事務庁)は設置された。しかしここでもまた禍の根を断つべき好機であったにもかかわらず、そうして直属の事務局員を養成して独立の調査を開始しておきながら、何事ぞ、協会の原案作成を参考意見として認めることとし、割当委員会十名の委員中八名までは日本出版協会からこれを選出し得ることとしたというのである。この委員たちが寄って出版協会作成の原案を審議するのであるから、名義はとにかく、依然として出協の出店の観を呈したのはいうまでもない。
 以上私はこの経過がいかなる理由によってなされたかを詳らかにしないのであるが、出版協会が一度ならず二度までも権力の陰に縋って飽くまで割当権を握っていようとする醜い姿を見のがすことが出来ないのである。私は今後の民主的・自主的団体は原則として権力を以て臨んではならないと思うのである。しかるに協会は看板に民主主義を標榜しながら、見棄てられても見棄てられても権力にしがみつこうとするのは、取りも直さず権力を喪失しては生きて行けない存在だからである。これはかれらの生命がすでに終っていることを証明している。
 またしても、最近(二十三年七月二十日)たまたま実施されることになった「事業者団体法」は実に協会の息の根を止めるような形になって現われて来た。事業者団体法は事業者団体の正しき在り方を教えるものであって、いやしくも強権を以て会員の自由を拘束してはならないのである。これこそは今日及び今日以後の事業者団体のあるべき姿を示したものであるが、その前に立ってもかれらはまだその非を改めようとしないのか、いまだに「原案を作成するのではない、委員会との協定に存する委嘱事項に基づき、割当推薦を作成して援助を与える」のだと言っているのなど、聞き流しにしてもよいようなものの、その心臓の強さに呆れざるをえないのである。しかしそういいながらも、さすがに断末魔の近づいたことを自覚してか、「三千五百の会員と多年の経験及び練達を有する数十名の職員とを有し、さらに百数十名のわが国における最もすぐれた学識者や専門家を文化委員とする民主的な団体として、協会は出版文化に関して他に代替を求め得ぬ存在なのだから、在来の仕事をそのまま継続するのは当然であろう」などと宣伝させている。いかにも「代替を求め得ない存在」――これが、かれの特色でもあれば、また癌でもあるのである。
 私はすべての統制は撤廃されることが望ましいと信じている。が、中でも思想とか言論とかいう精神文化に属するものを、ある限られた少数の人間によって統制しようとすること自体がまさに天を恐れざる仕業である。しかし、資材の絶対量の不足が、一時的にもせよ統制を必要とするならばそれは仕方がないとして、その場合かかる重要な仕事が一官庁の権限に集約されることはもとより本意としない。しかしながら、日本出版協会のごとき過去の札つきによって実質的に統制されることはなおさら本意としないのである。かれらは官僚に対しては出版業者の全体を会員とする自治的・民主的団体であるといい、出版業者に臨むには用紙割当権という伝家の宝刀を抜いて官僚的・封建的・独裁的権力を揮おうというのであるから、それは戦時統制時代よりも一層厄介なものであり、一層極端な弊害を醸すものということができる。
 おもえば日本出版協会が終戦直後その看板を塗り替えた時に掲げた創立の趣旨は、次に挙げる三点であった。
(a) 日本のすべての出版業者を包含すること
(b) 出版用紙割当権を持つこと
(c) 用紙の一手買取り及び一手販売機関であること
 これが昭和二十年十月のことである。かかる戦時非常権力の残滓を餌にして出版業者を操縦し、またかれらを威嚇した。そして短時日ではあったが、不思議とその権力は温存せられていた。今から思えばまるで悪夢のようであるが、事実に違いなかったのである。それというのも現在の出版業者そのものが権力の在るところ必ず利益ありとなして、蟻の甘きに集まるがごとく、その権力の前に屈したからにほかならない。だからこうした不自然な協会を存続させたものは、出版業者全般の責任であって、まことに慨嘆すべきことといわねばならない。
 しかしながら、今や業者もようやくにしてその悪夢から目醒めようとしている。日本出版協会は今やまさに滅せんとして最後の火をかき立てているようなものである。趨くものをしてあるがままに趨かしめよ、かれらは新らしき時代に生きるべき存在ではないのである。
 終りに臨み、私と石井協会長とは三十年来旧知の仲で、爾汝の間柄である。私はかれの事業を援ける気持はあっても、これを妨げる気は毛頭無いのである。しかしながらかれが、右に挙げたような過去の権力的遺物の上に載っかっている以上、私には好意的な手を差し延べることは出来なかった。であるから私は「協会の根本的に出直すべき」ことを再三力説したのであるが、かれの容るるところとならなかったのは遺憾である。私はかれがいつの日にか、木に竹を接ぐことの出来ないゆえんを悟る日のあるべきを信じて心待ちにしていたのであるが、遂に来なかった。そして私は協会を脱会したのである。こんなことならもっと早くに脱会すべきであったと思うくらいである。私は石井会長のためにも惜しむ。かれは統制会時代の役員ではなかったし、濫りに権力の争奪に狂奔するような人ではなかったはずである。かれはむしろ新らしく生まれ変った協会にこそ欠くべからざる人物であったかも知れないのである。が、それもこれも恐らくは誰の罪でもあるまい。軍閥が残しておいた統制の悪夢がさせた業ででもあろうか。
『中央公論』昭和二十三年九月号に発表





底本:「出版人の遺文 中央公論社 嶋中雄作」栗田書店
   1968(昭和43)年6月1日第1刷発行
   1969(昭和44)年2月11日第2刷発行
初出:「中央公論」
   1948(昭和23)年9月号
入力:鈴木厚司
校正:hitsuji
2019年1月29日作成
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