弟を葬る

徳富蘇峰




 皆様、兄が弟を葬ると云ふ事は極めて不自然な事であります。又た其葬る場所に於て、兄が弟に就てお話をすると云ふ事も、恐らくは不自然の事であらうと思ひます。併し私が茲に一言申しますことは、単に御座なり義理一片の弔辞ではないのであります。茲に立ちまして、弟の遺骸の前に立ちまして、併せて皆様の前に立ちまして、一言申しますることは、是は弟の志であらうと思ひます。
 弟は死する時に、私の手を執りまして、後の事はよろしく頼むと申しました。其のよろしく頼むといふことの中には、少なくとも今日此の場合に私が一言をすると云ふ事も、加はつて居たであらうと信ずるのであります。
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 弟の文学上に於ける位地は、天下の公論がありまして、私が茲に彼れ是れ申す必要は無いと思ひます。併しながら其の得たる所の位地は、私共の父が与へたのでもなく、兄たる私が与へたものでもなく、是は弟の独自一己の力を以て開拓したる所の位地であります。さうして是までにやり上げたと云ふことは、私の父も、私も、全く意想外の事であつたのであります。この一事だけは私は皆様に告白し、併せて私の亡き父の申す分迄告白して置きたいと思ふのであります。
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 弟の著作は先程略歴に述べてある通りであります。其外にもまだ沢山あります。例へば『コブデン』、『ブライト』、『グラツドストーン』、『ゴルトン将軍』などと云ふ様な本もあります。其他色々の飜訳もあります。併しながら弟の人物、弟の性格と云ふ様なことは、弟の作りました、若しくは書きました所の多くの文字を透して御覧になつたのみでは十分でないと思ふのであります。此の場合に於て私は其辺の事も一言申上げて置く必要を感じます。
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 世上では兄弟不和などと云ふ様な話がありましたが、それはさうではないのでございます。全くそれは間違つて居る事なのです。不和と云ふ事は両方からの時に初めて云ふ事であります。弟は私に対し感心しないこともありましたらうし、不平もありましたらうし、或は近づき、或は遠ざかつた事もあるのでありますが、斯く申しまする私は私が人心付いてから今日に至るまで、弟に対する感じと云ふものは毛頭変りませぬ。其の力量、其の手腕、其の文才、其の貢献と云ふ様な事に就きましては、時と共に評価が変つて参りますけれども、弟に対する友愛の情と云ふ点に対しましては、私は神の前に誓つて申しまするが、不和などと云ふ事は絶対に無かつたのであります。私は種々の事を沢山書きましたけれども、是まで私の書いた著作の中に、弟の悪口などと云ふ様な事は、一言半句も書いた覚へは無いのであります。若しあつたと云ふ事であれば、あなた方の中から証拠を御突き付け下さつても差支ないのであります。斯の如き訳でありまして、私及び私の両親は、弟に対して常に親及び兄たるだけの事を考へて居たのであります。
 併しながら唯だ不幸にして我々は弟を見るの明を欠いて居たのである。弟が是だけの者にならうと云ふ事を予期して居なかつたのである。で吾々は弟に向つては、寧ろ不明であつたと云ふ事を云ひ得るであらうと思ひます。
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 凡そ世の中の事は、遠い所の人は長所のみを見ます。近い所の人は欠点のみを見るのである。それに吾々兄弟は不幸にして性格がさう一致して居ない。固より弟が違つたと思ふ程に、違つて居たかどうかは問題でありますが、兎に角違つて居る。兄は先づ、私自身の事を申すも如何でありまするが、譬へて見れば河内木綿の様なものである。弟は羽二重の様なものである。同じ布地でも河内木綿と羽二重とはどうしても違ふのである。で、有体に申しますと、弟は直情径行の人間である。然し決して横著者ではなかつた。我儘者であつた。然し極めて正直、親切、父母には孝行、兄とか姉とかには極めて友愛であつたのである。父母には孝行、兄には友愛、それが何故に時としては父母にも遠ざかり、兄にも遠ざかつたかと云へば、それは弟が悪いと云ふばかりではありませぬ。諺に兄弟喧嘩は兄からと云ふことがあります。私共は喧嘩はしない。併しながら少なくとも弟の方からは時として親及び兄に背いた。是は兄が何か弟に対して仕向け方が十分を欠いたと云ふことを、私が自から反省するより外に途は無いと思ひます。
 私は長い間どう云ふ訳であらうと云ふ事を反省したのでありますが、不肖にして十分にそれを覚悟し得なかつた。併しながら今日になつて考へて見ますれば、多少其の理由も分つたかの如く感ずるのであります。
 と申しまするのは、弟は父母の晩年の子であります。弟は私と五歳違つて居たのである。それで私の両親は弟を子と思ふより寧ろ孫と思つた。私は弟を弟と思ふより寧ろ伯父が甥、親が子と云ふ様な考へを持つて居つた。五歳位の違ひでさう云ふ事をと云ふ様にお疑ひになるかも知れませぬけれども、私は極めて若い時から、同輩から、小爺いと云ふあだ名を受けた。小爺とは小さい爺さんと云ふ事であります。非常に小まつちやくれた男であると思ひます。それで五歳の差でありますけれども、自分では十五歳位の差に思つた。まるで弟をば掌の上に載せて見る位に考へて居る。自分の弟であるが対等とか、若しくは後から付いて来るとか云ふ感じは有たなかつた。又は親達は、孫の様なつもりで、うまい物を食はせるとか、若しくは頭を撫でてやると云ふ様なことはしたけれども、一生懸命に教育などゝ云ふ様な事をするだけの必要は感じなかつた。
 それで弟の方から申しますると、愛に餓ゑたのではない。愛には食傷して居る。併しながら敬に渇して居る。尊敬と云ふ事に渇して居る。それで始終弟が癇癪を起す時には、己れを侮辱したとか、失敬をしたとか、馬鹿にしたとか云ふ様な事を申して居つた様でありますが、何故にあゝ云ふかと考へて見ますと、今日になつて見ればさう云ふ訳であることが漸く分つて来ました。
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 それに又た当人と、吾々と云ふ中には父母も加へての話でありますが、異つたことは、大分異つて居る。私は当人の子供の時からの模様をよく知つて居りますが、非常な内気者で、はにかみやで、人の前では碌々物も云へない位の風であつた。弟の小学校時代には、余りに其の学科が出来過ぎて、傍輩に気の毒であるとて、故らに知らぬ振りをして点数を減じた程でありました。それから大変に感情が激烈である。それから其の時々の事を其時の気分気分でやつて行くと云ふ様な事がある。それから最も小さい事によく気が付いて、それから何事にも余り辛抱と云ふことは出来なかつたと云ふよりも、寧ろそれは嫌ひである。それで弟の極く幼少な時分には、帳面二つ、善人帳と、悪人帳と云ふものを拵へて、大概の自分の好きな人は善人帳、嫌ひな人は悪人帳と云ふものに書いて置いた。恐らくは此の善人帳悪人帳の気分は、彼の死に至るまで残つて居ただらう。彼の著作の中には、自ら善人帳に掲げられた者と、悪人帳に掲げられた者とあつて、悪人帳に掲げられた者は洵に不仕合せな者であつたかも知りませぬ。
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 それから自分の嫌ひな友達が来ると、自分ではそれを追ひやることは出来ずに、よく母に告げて、あの人は嫌ひだから、早く追つ払つて呉れと、云ふ様な事を頼んだ。学校に行く時に、弁当がうまくないと、食はずに帰ると云ふばかりでなくして、大概弁当箱ぐるみ川の中に棄てるとか、道に棄てると云ふ様なこともありまして、母は随分弁当箱を沢山取かへ引かへ購つたのである。それから物が欲しいと云ふ事になれば、別に父母に相談すると云ふこともなく、店から、ずん/\取つて来ると云ふ様な訳でありました。私の父は非常に几帳面な性格の者でありました。それでさう云ふ事を見ますると、是は困つた子供だと云ふ事でありまして、私もどつちかと云へば、そう云ふ風の事は余り好きの方ではない。それで其時から、父母はとても此子は一本立ちは出来ぬと云ふ事を云つて居りましたからして、私が、それでは私が此子の世話は引受けます、御安心下さい、私が必ず此子は引つ張つて行きますからどうぞ御安心下さいと、斯う云ふ訳で私は自ら両親に代つて弟の保護者……後援者位ではない保護者と云ふ様なつもりになつて了つた。それがずつと後まで残つて居たので、多分弟から絶交せらるゝ様になつた。それが一つの理由ではないかと、私は近頃になつて漸く考へ付いたのであります。もう考へ付いた時には絶交された後であつて、何とも仕方がない。下司の智慧はあとからと云ふ様な訳であります。
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 さう云ふ訳でありまして、弟は天才でありましたが、同時に弱虫、泣虫、怒虫、偏屈虫でありまして一寸手が当りませんでした。明治十一年私が十六、弟が十一。十六の兄が十一の弟を伴れて京都の同志社に出かけたのである。さうしてどし/\私が教育をした。丁度下士官が新兵を教育する様な訳であつて、下士官の方では当り前と思ふけれども、新兵の方では虐待と解したかも知れない。河内木綿で羽二重を非常に揉んだものだから、羽二重の方が少し痛たかつたかも知れない。さう云ふ様な事が始まりなのである。此話を長くすれば彼の伝となり、私と彼との交渉の伝になりますから、それは略しますが、要するに決して吾々共は、弟を憎いと云ふやうなことはない。弟はどう云ふことをしても、兄には土をぶつゝけても、石をぶつゝけても、憎いなどとは思はない。唯さう云ふ事をさせずにうまく行く事が出来なかつたと云ふ事を、自ら恥ぢて居たのであつて、何時かはさう云ふ事がうまく行くだらうと思つたのである。で、さう云ふ様に弟がなつたのも決して弟の責ではない。実は、弟が此の如く偉くなると云ふ様なことには気付かずして、其の弱点とか欠点とか云ふ事のみをよくこつちが見て、それを矯め直さうと云ふことのみに、余り骨を折り過ぎた我等の、不見識の罰であらうと諦めました。
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 兎に角履歴にもありました様に、新島先生の懐から逃れて、熊本に帰りました弟を、私が明治二十二年に引つ張つて、そして「国民之友」「国民新聞」で種々やらせて見ますと、実に私も其時には驚いた。何時の間に斯う英書をよく読み習つて、兄よりも能く読める様になつたか、又た文章を書かせて見ると中々能く書くのである。それで是は洵によい者を得たと思つて、私は是ならば己れの秘書位は勤まると思つた。これが又た恐らく、一つの間違ひであつたかも知れない。さう云ふ訳で私は段々弟と交渉をやつて来たのである。弟は実に鋭敏な頭を有つて居りまして、一を聞けば十を知ると云ふ様な事も出来たのである。
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 先程履歴に「黒潮社」を作つて独立したとありましたが、其の『黒潮』と云ふ小説は、実は兄が弟に種を授けたのである。私が自分が書けたらば書きたいと思つて居たことを、どうも自分は小説などを作る筆は有たない。又た小説を作ることは自分としては欲しない。それでどうか、あれ程の筆を有つて居るのであるから、弟に書かして見たい。是も恰もヴイクトル・ユーゴーが『九十三』と申しまする小説で仏蘭西革命を書いた如く、維新から明治時代の潮流を書いて見たいと云ふことで弟と相談して、乃ち此の青山会館の立つて居ります此の所に私が居りました時に、何時も夕方から庭に縁台を出して、私が色々と、斯う云ふ風の事もある、さう云ふ風の事もあると云つて弟に話した。それが即ち『黒潮』である。若し巧く行つたならば兄弟で非常な大著述が明治年間に出来たかも知れませぬが、『黒潮』が出来つゝある間に、弟から絶交状を突き付けられたのである。大概の事には驚かない私も、其の書付を当人が持つて来て、之を読んで呉れと云はれたのには、聊か一驚を喫した。それから私がそれを読んで申しまするには、お前さん己れと絶交すると云ふ事も、したければ致し方がないけれども、此の書付を今ま天下に公にするだけは、勘弁して呉れる訳には行くまいか。己れも松方内閣の没落以来非常な悪評を受けて、世の中で己れの事を褒める者は一人もない。どの新聞を見ても、己れの事を悪く書く者ばかりである。自分も常に人の事を沢山書いて居るから、人から悪く云はれた所で、自分にも応へることはないけれども、何と云つても肉親のお前さんから、斯う云ふものを突き付けられては己れもどん底から再び頭を擡げつゝある矢先に、此の手紙を天下に公けにされては、あの徳富蘇峰なる者は、与論から見限られたのみならず、肉親の弟から迄見限られたと云はれるだらう。さうなつては己れは立つ瀬がない。それも辛抱するが、年を取りつゝある両親の手前どうも己れは忍びない。お前が何と考へて呉れてもそれは仕方が無いが、世間に公にする事だけは勘弁して呉れないかと申しましたけれども、そこが弟の本色だ。小崎さんの所謂る己れの欲する所は結果を顧みないで、出したのである。成程それは大変な名文であつて、今日でも人はそれを暗誦して居る位の事であります。
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 私は実に困つたものと思ひましたけれども、それ等の事に就ても別に弟を恨むことも無かつた。怒ることも無かつた。何故ならば私は弟は恨んだり怒つたりする人間とは考へて居ない。もう少し善人であると思つて居たからであります。処が日露戦争後焼打ちの後ひよつこり青山の家に訪ねて来て、兄さん、どうも今迄は私が不心得だつた。是れから一緒にやらう。仲直りしようと云ふことである。洵に有難い、お前さんがさうして呉れゝば実に俺はもう何よりの事である。で、それから弟が外国に行くと云ふ事になりまして、私は神戸迄弟を送つて、それから私は支那に参りまして、支那から帰つて参りますと、横浜には既に弟がトルストイの訪問から帰つて迎へて居る。それが丁度明治三十八年から三十九年の頃のことである。
 其後当分の間はまことに円滑に行つて居つたのである。弟は固より私に調子を合はせる様なことはないけれども、私は下手であるが、弟の音楽に全く合奏は出来ぬでも、せめて邪魔にならぬ位の程度に弟と交際つて行つたのである。が、私は弟の書いたものは余り読まない。何故なれば、余り読む時に於いては、是は間違ひであるなどと云ふ様な感じを自分が起すのは、弟に対して済まぬことゝ思ふから、私は読まなかつた。併し乍ら私は恐らく弟孝行であつたらうと思ふのである。弟の為めには私は何事でもすると云ふ決心は持つて居たのである。
 さう云ふ訳でありまして、互に相容れて居たのでありますが、大正二年の秋、京城で弟に会ひました時分には、私は迎へるとか案内するとか、他の人には其の十分の一も勤まらぬだけの極端なる奉公をしたのであるが、弟は大変な不機嫌で、停車場から碌に挨拶もせずに帰つて行つたのである。何が悪かつたか、其処は自分にも分らずに済んだのである。それ以来又た弟から見限られた。併し何時かは又た弟がやつて来るだらう。今日は来るか、明日は来るかと待つて居た。其待つて居たのが十五年。十五年経つて病気したと云ふことを聞きましては、私も気が気でなくて、何とかしたいと思うて、姉共を頼んで色々会ふ道を講じて見た。又た自分も千歳村に行つて見たり、及ぶだけのことをしたが、門前払ひをされた時には、曾て自分の嫌ひな小さな友達を、自分で追つ払ふことが出来なくて、母に漸く追つ払つて貰つた弟が、兄を門前払ひにするなどと云ふことは、弟も偉くなつたと云ふ様に考へることも出来たが、実は私は其の時は悲しかつた。併しさう云ふことは誰に向つて申すことも出来ず、唯だ弟の心が何時か和らいで来ると云ふことを信じて居たのである。それから先のことはもう新聞にも出て居る様でありますから、私は申しませぬ。今申した通りのことで決して私は弟を悪く云ふのではありませぬ。
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 私は自分及び自分の両親を弁護するのではない。併しながら一体の事情は今申した通りであつて、決して不和とか、疎隔とか、仲違ひと云ふ様な言葉は用ひて頂きたくない。私は未だ曾て弟と仲違ひした事はない。不和であつた事はない。余儀なく追つ払はれたから行かぬのであつて、自分の方から行かなかつたのではない。何時も弟を思つて居たのである。恐らく弟も心の中にはさう思つて居たのであらうと思ふ。実に弟は私共の様な情の……私も薄情とは自分で思はない。併しながら弟は私共の様な情の荒い人間ではない。私共の情と云ふものは如何にも荒つぽく、唯だ素麺の様に出て行く。弟のは実に緻密で、小さくて、毛細管の中にある様なものである。それで弟が親孝行などをやる時などに至ては、非常に孝行をする。両親も、もう健次郎の孝行には実に困る。あゝ孝行をされてはやり切れぬ、もう少し親不孝をして呉れないだらうかと斯う言つた。何故なれば撫でても満足しなければ擦る。手を引いても満足しなければおんぶする。斯う云ふ訳である。もう両親に対しても至れり尽せりで、余り尽し過ぎるのである。
 私が病気した時にでも、弟程に良い看護をして呉れる人はない。痒い処に手の届くと申しまするが、実にそれ以上である。さうして、何処迄もやる。私共が溺れる人を見た時には、飛込で助かるだらうと見れば上著をぬいで飛込む。弟は助からうが、助かるまいが、人が溺れて居ると見ますれば自分がどてらを著て居らうが、何を著て居らうが直ぐに其の儘で飛び込んで行くと云ふ訳であつて、さう云ふ処はとても私共の及ぶ処でない。さう云ふ様な良い処は沢山持つて居たのである。併しながら私共の流儀は物事を秩序立つてやつて行く。弟は気分でやつて行くと云ふ事であつて、所謂る道が違つて居る。弟はまるで兄は理の人、自分は情の人だと言ひますが、神様はさう人間をはつきり分けて作ると私は思はない。矢張り兄弟には多少の共通点があるべきだと思ふ。情の人とか理の人とかは、弟が勝手に分析したのである。弟にも理性はあつたと思ひますが、私も人並の人情は持つて居ると信じて居る。併しながらやり口が多少違つて居る。但だその元に還つて見れば、私が弟を自分が保護者として見て居つて、斯うしたら宜からう、さうしたら宜からうと云ふ様な事で、指図した様な位置に始終立つて居た事が、彼の癪に障つた一つの大きな理由ではなかつたかと思ふ。夫も或は間違ひの一つであるかも知れませぬが、此間伊香保で会見の時、其処まで話す暇がなかつたのは残念でありました。それで私は何も此際申す事はございませぬ。唯だ私が洵に感心するのは、実に弟の臨終の良いことでありまして、私も偉いお方の臨終には沢山立ち会うて居る。併し乍ら弟の死には実に感心した。所謂る大なる禅僧、若しくは禅僧ではなくても高僧方の往生される時でも、あれ以上の往生は出来得るや否やと云ふ事を私は疑うたのである。
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 さうして弟の逝つた翌くる日、即ち九月十九日、秋雨蕭条の中、伊香保から弟の遺骸を未亡人其他一同と送つて来た途中、雨は漸く武蔵野に掛る時に霽れまして、上州を出て熊谷辺に掛ります時には霽れまして、さうしてまるで朝日の如く綺麗な太陽が西に輝きまして、東の方にも、何と云ふ美しい虹でありませうか、大きな虹が半輪を作つて映じました。実に天地が弟の死んだ事を其のまゝ自然を以て写して呉れたのではないかと思ふ程、私は感激しました。
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 私は尚ほ此上申す必要はない。唯だ私が存在した事も、弟の存在には決して無意義でもなかつた。初めには指導者と思ひ、中頃は他山の石と思ひ、さうして終には弟も万一の場合には兄が生きて居るからして、己れの心事は兄が克く諒として居るであらうと云ふ事を、心の奥底には信じて居たであらうと思ふのである。
 私も今更弟に向つて何も申す言葉はありませぬ。弟が今日の此地位即ち皆様方の御会葬下さる様な地位を作つたのは、勿論私の力ではなく、父の力でもなく、母の力でもなく、全く弟の力で開拓したものであつて、私共も一家族として弟の余光を担ふと云ふ事は、弟に向つて感謝せねばならず、又た皆様方に向つて弟の著述、又た弟の為した事が、聊かでも国家の為め人道に利益があつたと云ふ事をお考へ下さると云ふ事であれば、弟の為めにも本望と思つて止まないのでございます。
 茲に一言弔辞を述べて置きます。
(昭和二年九月廿三日、青山会館にて 講演)
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昭和二年九月念七、一校過、速記の儘、修補を加へず。
蘇峰老人





底本:「弟 徳冨蘆花」中央公論社
   1997(平成9)年10月7日初版発行
底本の親本:「徳富蘇峰 成簣堂閑記」書物展望社
   1933(昭和8)年12月10日
入力:川山隆
校正:Juki
2015年2月17日作成
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