平ヶ岳登攀記

高頭仁兵衛




    平ヶ岳と鶴ヶ岳

 平ヶ岳の記事は従来刊行された地理書には絶無であるから、極めて僭越せんえつでかつは大袈裟おおげさのようではあるが、自分を主としたこの山の記録とでもいうような事と、自分がこの山に興味を持って、数回の失敗を重ねて、ようやく登攀を試みた筋道を一通りべて見ようと思う。
 今から十五、六年前に、自分が小出こいで町へ遊びに行った時に、三魚沼うおぬまは深山地であるが、何という山が一番に高いかと、郡役所の書記をしておられた小島という人に聞くと、先年参謀本部の役人が調査されて、鶴ヶ岳という山が第一だと申されたとはなしてくれた、これが自分が鶴ヶ岳と呼ぶ山が、自分の住居している国に存在しているという事を知った初めであって、んとなく気持よく自分の耳に響いた、地図を見ると輯製二十万分一図の日光にっこう図幅にも、地質調査所の四十万分一予察図にも明記してあるが、いずれも標高を記してない、しかし三魚沼の最高峰とすると、北越ほくえつの山岳中でもかなり高いものとなるから、二、三年の中には是非ぜひに登攀してみようと考えた。
 帰宅すると大急ぎで地質調査所の二十万分一詳図の日光図幅を出して見た、鶴ヶ岳の高さと登山口を物色ぶっしょくする意であった、ところがこの図には鶴ヶ岳の名が載せてない、予察図の鶴ヶ岳の辺とおもわるる所に、平岳 2170 というのが記してある、自分は平岳と鶴ヶ岳というのは、同山異名であって、越後では鶴ヶ岳と呼んでいて、上州方面では平岳と称するのであるまいかと想うて、『越後名寄』、『新編会津風土記』、『日本地誌提要』、『大日本地名辞書』などをあさって見たが、二山の記事は勿論のこと、いずれの山名さえも見出すことが出来なかったが、自分は心中ではこの二山を同山異名と臆断していた。
 その時から鶴ヶ岳は好い名称だと思った、日本で鶴の字を山岳名としてあるのには、九州で有名な鶴見山をはじめ、鶴峠、鶴巻山、鶴根山、鶴飼山、鶴ノ子山、鶴谷山、鶴城山、鶴掛山、鶴木山などがあるが、鶴ヶ岳の名が最も雄大で高潔で響きがよいように思う、平岳は名称としては感心もしないが、頂上が平坦であるから名づけられたらしく想像される、いずれにしても中越の傑物らしい気持がしてならない、自分はその折にはヒラダケと呼ぶのやら、またはタイラダケと称するのやも知らなかった。
 それから俗事に妨げられて二、三年を過ぎた、間もなく山岳会が設立された、自分は二度ほどこの山の登攀を思い立って、その登山口と想わるる北魚沼郡の湯谷ゆのたに村や、南魚沼郡の六日町方面や、上州利根郡の藤原村へ照会して見たが要領を得ない、明治四十一年の五月に、東京から清水峠をえて帰国した時に、藤原村の入口の湯檜曾ゆびそ温泉でいろいろ聞いて見たが、平岳だの鶴ヶ岳だのという山は聞いた事がないというている、その中に魚沼地方の人々が主となって銀山平(後に記す)の開墾かいこん事業を起されて、自分の知己であって隣村である高橋九郎氏が、高橋農場を建設された、農場の主任は白井又八というて自分と主従のような関係のあった者である、高橋氏と白井から銀山平方面の山岳に登るように、面会の時や便の折に毎々勧告される、そこで大平晟氏と銀山平へ見物に行くことになった、自分は平岳に登るのが主眼で、大平氏は燧岳ひうちがたけに登って日光へ抜けらるる計画で、時間の都合で同行もしようと約束して、準備までしたが、出発の四、五日前になって自分は差支が出来て中止することとなった、むを得ぬから大平氏に依頼して、平岳に関係した一切の事を聞き合してもらうことにした、大平氏が帰宅されて御土産話しをされたので、はじめてこの山の大体の見当が付いた、称呼をヒラガタケといって鶴ヶ岳と別物であること、只見川の支流の北又川の支流である中又川を登って、高橋農場から二夜以上の野宿をして往復することが出来て、案内者は大平氏が駒ヶ岳(魚沼)の案内をさした桜井林治という者で、大湯温泉で容易に雇い入るる事が出来て、山の頂上は苗場山なえばさん式に広闊こうかつであるということが分明になった、そうして大平氏は初めは平ヶ岳に趣味を持たなかったが、案内者のはなしを聞いてから登攀して見たくなったと附説された、自分はますますこの山に登りたく思っていたが、その翌年はふとしたことから登山時期を海外に過ごしてしまった、昨大正三年六月には、高橋氏にも依頼したり、白井へも発信して平ヶ岳の案内者を雇い入れてもらう事にしておいた、折しもその辺の五万分一仮製図が刊行されたから、雀躍こおどりせんばかりにして出発した、七月中旬に大湯おおゆ温泉の東栄舘に四、五日滞在して、林治を案内者として駒ヶ岳へ登った、それから林治を連れて銀山平の高橋農場へ着いた、白井が兼ねて依頼しておいた案内者の大久保某は、銀山平の某養蚕所へ雇われて来ているので、自分らが銀山平へ行ったのが四、五日遅れたのと、養蚕が少し平年より早いので、多忙の時期に向って来たので、案内が出来ぬということになった、白井が養蚕所へ談じて養蚕所では承諾してくれたが、大久保某の妻君が臨月なので、妻君の方から不服が出たとやらで、大久保某は案内が出来ぬことになって、折角せっかく白井が尽力してくれたのも画餅がへいとなった、大久保某の言にると、只見川の上流の白沢を登るが便利というので、この登路は林治は知らないのである、大久保某に断られてから白沢の登路を変更して、林治を案内として中又川を登ることに決定した、さていよいよ多年の宿望を果す日が来たかと、早朝に起きて見ると快晴である、急いで結束していざ出発となると、人夫が一人いなくなっている、元来湯谷村は行き詰りの山村であって、大湯と橡尾又とちおまたの二温泉があるから、他所から這入はいる人の過半は遊びに行くので、土地相応の贅沢ぜいたくはすることになる、したがって土着の人には他所から来て少しでも知られている者からは、かかり合いに余徳があるものと考えているものが多い、銀山平開墾事業が起って、白井が高橋農場の主任となってからは、賃金を一定するとか、その他にいろいろ改良を試みたので、表面からは誰れも文句を出すものはないが、裏面では反感不平を抱いているものもある、その復讐ふくしゅういなかそこまでは知らないが、人夫の一人の労働の割合に賃金が不足だというて、前夜白井に叱責しっせきされた男が、今朝になって急に病気になったから帰えるといい出して、林治と今一人の人夫が様々に説諭したが、白井が自分の所へ来ている中に匆々そうそう帰村したことが分った、銀山平の養蚕をしない農家は、蕎麦が半作だといっている、白井も数人の雇人を監督して蕎麦蒔そばまきをしていた、銀山平は夏期に耕作や養蚕に行くか、または開墾事業に従事しているのであるから、農繁期となるとことに余分な人間が一人もいない、信州辺であると金銭問題で人夫を得ることも出来るが、銀山平では先ず絶対に不可能というべきであろう、白井は出来るだけ奔走尽力してくれたが、どうしても人夫がないから自身で出懸けるといい出した、こうなると白井の事情を知っているだけに、そうしてくれということが出来ない、自分は平ヶ岳を断念してただち岩代いわしろ檜枝岐ひのえまたへ行くことに決心した、その年の十月に大林区の役人が平ヶ岳へ調査に来ることになっていた、その時の人夫を今年から予約しておくから、来年(大正四年)は是非来てくれと白井がいうから、自分もその気になって農場の人夫を一人借りて、その日に檜枝岐へ越した、檜枝岐から会津の駒ヶ岳に登って、岩代の山岳に残雪の殆んど存在しないに驚いたが、同時に越後の駒ヶ岳、中ノ岳等に残雪のすこぶる多いのを嬉しく思った、平ヶ岳には残雪が頂上の処に少しく見えていた、それから尾瀬沼へ行って偶然に志村烏嶺氏と落合った、志村氏と燧岳に登って平ヶ岳の雄大なるに見惚みほれた、前述の次第で平ヶ岳を思い込んでから失敗ばかり重ねていたが、今年(大正四年七月十八日)に平ヶ岳の絶巓ぜってんに立って鶴ヶ岳を望見することが出来た、以下その紀行を兼ねた案内記を書くことにする。
附記、平ヶ岳はヒラダケとも呼ぶものあり、けだし山巓さんてん平坦なるより名を得たるものならん、この山は各種の地理書にれたれば、明治の初年には知るものなかりしが如し、それより新式の鉄砲の渡来してより、越後、岩代、上野の猟夫が次第に深山に入り、この山の特殊の山容によりてかく呼びしにあらざるか、この山の地図にあらわれたるものは、明治二十一年刊行農商務省地質調査所の日光図幅なりとす、その一年前に刊行されたる、陸地測量部の輯製二十万分一図日光図幅には、中岳と記されたり、誤記か誤植かとも思わるれども、余が『日本山嶽誌』刊行の時に、群馬県統計書の山岳部を一覧せしに、魚沼の駒ヶ岳を上野の国界の如くに記されたるやに記憶せり、既に測量部または調査所の二十万分一図出でてより十年近くなりたるに、なお訂正せざる県庁の迂闊うかつにもあきるれども、その県庁等より十年前に提出せし材料を輯製したるもの故、駒ヶ岳よりも高くしてかつ南にる中ノ岳を、上野界に認めしやも知るべからず、同図の只見川以西の国界には西より数えて、荒沢岳、白沢岳、中岳、鶴ヶ岳とありて、鶴ヶ岳を北、南魚沼の郡界となし、鶴ヶ岳より北方に走れる山脈中に、中ノ岳、駒ヶ岳の諸山を描きたり、この図と同年に刊行されたる地質調査所の四十万分一予察図もまた鶴ヶ岳を以て郡界を北走せる山脈の起点とせり、以後鶴ヶ岳を境界とせるものすこぶる勢力あり、翌年に刊行されたる調査所の日光図幅には、只見川以西の国界を西より数えて、入岩岳 2008 平岳 2170 とありて、平岳を北、南魚沼郡界の東に記され、郡界普近ふきん(会津図幅も参照せり)には鶴ヶ岳の山名を欠けり、こは殆んど現今の地図にひとしきものにして、入岩岳とは鶴ヶ岳のことなり、鶴ヶ岳の称呼は越後方面の名なるが如く、檜枝岐の者は何岩(昨年の手帳を紛失して失念せり)と呼べり、けだし鶴ヶ岳は古生層と花崗岩地に噴出せる輝石安山岩にして、山勢附近の山岳に異なるを以ての故ならん、昨年刊行されたる測量部の五万分一図出でて、地形はじめて明瞭となり、平ヶ岳(平岳に作る)を八海山図幅に、鶴ヶ岳(影鶴山に作る)を藤原図幅に収めたり、地質調査所の二十万分一詳図は、いまだ全部の完結せざる故にや、地理学者の多くは同所の予察図にり、約三十年前に出版されたる日光図幅の正確なるものにらずして、『大日本地誌』の如きも平ヶ岳を省きて、鶴ヶ岳を載せたり、かくの如く鶴ヶ岳の名はかなりの勢力ありてまた好名称なれば、余は出所も知れざる新名称の影鶴山を避けて、鶴ヶ岳の名を用うるものなり。

    平ヶ岳に登る

 平ヶ岳に関しては前章に於て長々とべたが、まだ嫌焉あきたらぬからこの章の前叙としてもう少し記する、この山は深山中の深山であって普通の道路から見えぬから、容易に瞻望せんぼうすることが出来ないし、それが原因で世人に知られていないのである、また蓮華れんげ群峰や妙高山みょうこうさんや日光白根しらね男体山なんたいさん、赤城山、浅間山、富士山からも見えるには、見えているはずであるが群峰畳嶂の中にあるから、その独特の形状を認められることが出来ない、平ヶ岳の偉大なる山勢を知るには是非ぜひとも燧岳からせねばならない、越後方面の荒沢岳や中ノ岳や兎岳もよいとは想うが、登攀したことがないから断言することは出来ない、順序としてこの山の所在を略説する必要がある、北越と上野の国境をほぼ南々西から北々東に向うて走っている山脈を、清水連嶺と呼んでいる、人によっては三国山脈とも称しているが、三国山は各所に同名があって混同の恐れもあるし、それに三国山や三国峠は往時は著名でもあったろうが、国道が清水峠に移転してからは清水峠を主要なるものと見るべきものと思うし、位置からいうても三国峠の南端にあるに反して清水峠はほぼ中央に位しているし、高さも清水峠の方が二百米突メートル以上も抜いているから、自分は清水連嶺と呼ぶ方へ賛成するのである、この連嶺の主軸の東端をなしているのが平ヶ岳である、即ち新潟県越後国北魚沼郡湯之谷村と群馬県上野国利根郡水上村の境界をなしていて、その山足は西北は剣ヶ倉山から北に延びて、北と南魚沼の郡界をなしている兎岳と丹後山の間の一隆起の山脚まで行っていて、利根川の本流の水源はこの山と丹後山の間から発している、北は三条の山脈をなして、阿賀野川流域の只見川と中岐川と恋岐沢に截られている、その三条の山脈の西のものは中岐川の本流と、支流の二岐沢の間にあって北端が大沢山である、中のものは二岐沢と恋岐沢の間を延びて更に只見川と北又川の出合まで進んでいて、燧岳から壮大に見えるのがこの尾根とその東のものと重なっているので、いずれも蜿蜒えんえんとして四里以上にわたっている、東のものは恋岐沢と只見川と白沢に断たれている、西南は上州の水長沢山をなしている、南は上野、越後の堺をなして白沢山となっている、以上を平ヶ岳の全部と見るべきであろう、越後方面の白沢と即ち中岐川の支流(灰又山の南のもの)と、上野方面の利根川の本流とその支流の水長沢の南の一源とで平ヶ岳全部をめぐっているのである、鶴ヶ岳と白沢山の間に大白沢山と地図に記してあるが、これは平ヶ岳の尾根がきた処であって山というよりは平地と見るべきであろう、平ヶ岳の全部は花崗岩であるから大白沢山も花崗で無論平ヶ岳に属するものであって、その東から鶴ヶ岳に属する火山岩となるらしい。
 東京の上野駅の九時四十分発の夜行の急行列車に乗ると、翌朝の九時半に来迎寺停車場に着する、自分らが二十幾年前に片貝の小学校に通学していた頃には、一尺ばかりの作場道であって人家などなかったのが、今は三間余の県道が通じて五十軒ばかりの人家が出来た、新来迎寺駅(魚沼鉄道)の軽便鉄道に搭じて九時三十四分に発車すると、十時十八分に小千谷おぢや駅に達する、そこから人力車または馬車で約五里を行くと小出こいで町である、小出から爪先上りとなって約三里を行くと、日本第一ラジウム温泉の称ある北魚沼郡湯谷村橡尾又とちおまた温泉に着する、自在舘という家がよいようである、小出から人力車を通ずるが二人引きでないと、時々歩行させられてその効が少ない、温泉は温度が低いが往昔から著名なものである、小出から橡尾又に着く少し前に右に折れて行くと大湯温泉がある、橡尾又まで八町ばかりの距離である、大湯温泉は温度もかなりであるが、設備は橡尾又よりも下等である、東栄舘というのがよい、銀山平へ行く人夫や荷物は、悉皆この東栄舘で世話することになっている、だから高橋農場へ通信するにはこの家にてるのである、橡尾又は温泉宿の外には人家がないから、大湯が湯谷村の奥底の部落である、大湯も橡尾又も名勝も旧跡もないから遊び場所としては、くだらない処である。
 自分は本年の七月十四日に新来迎寺の一番下りに乗って、小千谷から馬車を雇って、小出の須田という旅館で中食した、兼ねて白井から依頼しておいたと見えて、下折立の区長の某が訪問して来て、昨年の十月に大林区の役人に同行した人夫を、明日中に高橋農場まで遣すという意を告げて去った、須田でゆっくりしていたので、夕刻に橡尾又の自在舘へ投宿した、荷物と人夫の都合があるので、自分の従者の渡辺権一を大湯の東栄舘に宿させた、夜になると渡辺が来て、東栄舘の主人が弟を同行してくれと依頼するが如何しようと聞く、承知のむねを回答した、翌朝の六時に仕度が出来て十分に出立した。
 橡尾又温泉から佐梨川の支流の橋を渡ると、一方登りとなって二里十七町で枝折峠の嶺上に達する、その間には初終駒ヶ岳の白皚々はくがいがいたる残雪を有している雄姿を仰いで、すこぶる壮快の感じがする、道は楽ではあるが樹木の影がないから、日中に登るを避けてなるべく早朝に嶺上に達するがよい、温泉から二時間半ばかり費した、ここまでは信濃川の流域であるが、峠から小倉山を経て駒ヶ岳に通じている山脈が分水嶺となって、前面は銀山平即ち阿賀野川の流域となるのである、この峠は大明神峠とも呼ばれている、尾瀬大(中?)納言が讒者ざんしゃのために流罪るざいとなって、此処ここを過ぎられた時に、大明神が現出されてみちに枝折をされたという伝説がある、この峠を右に登ると五時間ばかりで駒ヶ岳の八合目ともいうべき処のアマ池に出る、それから約一時間四十分で駒ヶ岳の絶巓に至ることが出来る。
 ここで簡単に銀山平の説明をしておく、越後の南と北の魚沼郡の境界で、中ノ岳の南に兎岳というのがある、兎岳の尾根が東に延びて灰ノ又山となって、それから北に行って荒沢岳となって、更に東に延びている、この山脈と中ノ岳、駒ヶ岳の山脈の間を流れているのが、只見川の支流の北又川である、枝折峠から北又川に下ると、川の南方は処々に平地があって、自然の桑樹があるから昔しから養蚕期になると、この山間で養蚕をしていたらしい、北又川が只見川と出合うてから、只見川の上流に行くと、川の西方にも平地が処々にある、それが大略五、六里以上も続いている、その平地を総称して銀山平と呼ぶのである、会津藩の頃には只見川の上流で銀鉱を採掘してかなり盛んであったらしい、近年にこの平の開墾事業が起って、各所に人家が出来たが、日本でも有数な越後平野で成長した人から見ると、平どころの話しでなく、てんで人のところでないらしく考えられるので、移民がすくないらしい、甲州の野呂川谷などから見ると非常に美事みごとな処である、会津方面の大平野を知らない山間の貧民を優待して開墾させるに限ると思う、自分は平野地で生活が出来なくなったら、この谷へ引込んで、養蚕で米代を取って、蕎麦や粟の岡物で補うて、小出方面でわらびふきがなくなる頃に、蕨や蕗がこの谷では盛んであるから、それを小出の町へ売出したりする気である、まだ棲めばいくらも収入を見出す事が出来ると思う、呉服屋が来るではなし、菓子屋が来るではないから節倹は思うままに出来る、汽車が通って石炭臭い処に蠢々しゅんしゅんしていないで、こんな処で暢気のんきに生活しようとする哲人が農家に尠ないものと見える、村会議員や郡会議員になって、愚にも付かない理屈を並べている者から見ると、どんなに気がいていて気楽で国益になるか知れない、大気焔はこの位で切り上げて、舞台を平ヶ岳の紀行にぶん廻す、実際この谷あってはじめて平ヶ岳が雄大で、また意味の深いものらしくなるように想われる。
 枝折峠の嶺上を去ると荒沢岳が前面に現われて来る、路は一方下りとなって駒と中ノ岳が右に残雪を光らしている、峠を下り尽くすと銀山平の地となるのである、嶺上から一里五町で北又川に架した橋がある、此処ここ石滝いしだきといって銀山平第一の勝地である、元来滝とは奔湍ほんたんの意であって瀑布の義がない、ここは奔湍であって瀑布があるのでないから、よく下名したものというべきである、それから平坦地となって所々に人家と耕地がある、石滝から二里ばかりで北又川の一大支流の中又川の出合であいとなる、中又川の橋を渡ってなお北又川を左に見て行くと、一里弱でこの川が只見川に逢合する、北又川に別れて右折して只見川に沿うて進むこと、三十町弱で浪拝なみおがみの高橋農場に着する、また銀山平の一勝地であって、尾瀬大納言が通行された時に仏陀の奇蹟きせきのあった所と伝えられている、標高が約七百米突であって、枝折峠の嶺上から約四時間を要する、高橋農場から二、三町行くと只見川の河傍に温泉が湧出している、銀山平の人々は只見川をアガ川と呼ぶのである。
 自分が銀山平へ着いたのは十五日の午後二時であった、白井はこれから岩魚いわなを釣りながら途中まで出迎う意でいたが、馬鹿に早く来たものだと驚いていた、間もなく檜枝岐から人夫が来た、自分はなるたけ同じ道を通ることを避けるのであるから、今度は平ヶ岳を下って只見川の上流から尾瀬沼へ抜ける考えでいた、そこで人夫の経済上からとその路にくわしい者を、檜枝岐から雇うことにしてあったのである、ところが白井が依頼してった意味が疏通しなかったと見えて、檜枝岐から来た人夫は平ヶ岳で案外時日がかかるので、蕎麦蒔きに遅れるからと断って帰った、白井が百方苦慮してくれたが、只見川から尾瀬沼に行く路に詳しい者がない、人夫の中の星定吉が一度通行した事があるというのを頼みにして、十六日の午前七時にいよいよ平ヶ岳に向うて出発した。
 高橋農場から只見川に沿うて二十町ばかり行くと、往昔銀鉱採掘時代の遺跡である所の、墓場や採掘の場所跡などがある、浪拝と墓場の間には恋岐沢が平ヶ岳から来て只見川に注いでいる、平ヶ岳からこの沢に下ることは出来るが、この沢から平ヶ岳に登ることは不可能であると聞いた、また二十町ばかり行くと大津又川が東から只見川に這入はいる、ここから左折して大津又川をさかのぼって行くと、その日に会津の檜枝岐に達することが出来て、昨年に自分がその路を通行したのであった、しかし檜枝岐から郵便物を投函すると、九日以上の日数を費さないと銀山平へ到着しないそうである、なお只見川に沿うて上ると灰瀑布がある、只見川の本流が瀑布をなしていて、午後になって日光が瀑布を射るようになると、瀑布の下の深淵から鱒魚が瀑布に向って飛び上る、それが容易に瀑布の上に登ることが出来ない、無数の鱒魚が滔々とうとうとして物凄ものすごく山谷に響きわたって、さかさに銀河を崩すに似ている飛泉に、碧澗から白刃はくじんなげうつように溌溂はつらつとして躍り狂うのであるから、鱒魚の豊富な年ほどそれだけ一層の壮観であるそうである、鱒魚はかように瀑布と悪戦苦闘を続けてつかれにつかれて、到底瀑布を登ることが出来ぬと断念して、他に上るべき水路を求めている、人間の猿智慧はこんな山間でも悪用されていて、瀑布の下から瀑布の上に向うて迂回した水勢の緩慢かんまんな人工の水路が作られてある、労れた鱒魚はその水路を陸続として登って行く、それを人間が見ていて下の入口をふさいで、上から手網で容易に捕獲するのである、自分がこの瀑布をた折は午前九時であって、鱒魚はることが出来なかったが、瀑布だけでもかなりの壮観であった、鱒魚を捕える漁夫小舎にいた老人が、中食の菜にというので焼いていた鱒魚の一片を自分に贈ってくれた、瀑布から少しく行くとヒルバに達した、これが銀山平の最終の人家である、幾分か時刻は早いのであるがここで中食した、十一時十分にヒルバを出発して山毛欅ぶなの大闊葉樹林の中に通じている、岩魚釣りの通路を辿たどって行くことになる、県の事業として椎茸しいたけを培養している所がある、熊笹を分けたり小渓を登ったりして二時四十分に只見川に降った、ここをキンセイと呼んでいる、ここから只見川を上って三時十五分に白沢の出合に着いた、此処で荷物を減ずるために米の袋を、降雨や増水があっても流失や湿らぬ用意して置いて行った、只見川に別れて白沢を溯る、徒渉としょうというよりは全く川を蹈むのである、約一時間半でその日の露営地と予定していた不動瀑布の上に来た、時計が五時半を指していた、此処は樹木も多いし川にも近いしそれ以上には適当の場所がないから、平ヶ岳登攀には非常な重要な地点である、ここまでは岩魚釣りが来る、不動瀑布は殷々いんいんとして遠雷のような音をたてているが、断崖峭壁しょうへき囲繞いにょうされているのでその本体を見ることが出来ぬ。
 翌十七日の七時に野営地を出発して白沢登りを継続した、白沢は水量がすこぶる多くて、また山側の崩壊がまれで洪水も少ないと見えて、岩石に稜角がなくて水苔が生じていて、粗面質の岩石でも往々に足をすべらして、危険千万であるから歩行に非常の注意を要する、だから一朝豪雨に際会して水量が増した時には、到底この沢を行くことが出来なくなって、他に別路がある訳でもないから、野営地に滞在して、減水を待たなければならない、白沢を溯ることが一時間で平岳沢の出合に達する、ここから川を去って白沢と平岳沢の間に出ている尾根を登るのである、頂上までは飲料水も残雪も平坦地もないから、途中で日が没して雨でも降って来るとすこぶる惨憺さんたんを極めねばならない、八時半に出合の処を出発して闊葉樹林の下に繁茂屈曲している石楠花しゃくなげや、熊笹を蹈み分けて、馬の背のような尾根をた上りに登って行く、登るに随うて大樹が次第に稀疎となって、熊笹がだんだん勢をたくましゅうして来る、案内の人夫連は間断なく熊笹や灌木を切り明けて進む、蹇々けんけんして歩行の困難のことは筆紙にはとても尽し難い、時々木の間から平ヶ岳の雄大な絶頂が右の方に露われる、しばらくで尾根の頂上に出て左の方に燧岳が聳立しょうりつしてはいるが、この辺は熊笹や灌木が密生している極点であって、簾と格子を越して美人を望むの観がある、何分にも熊笹が八、九尺以上もあって群立しているから、三間もへだたると音ばっかりしていて人影を見ることが出来ない、間もなく樹竹の絶えた小平坦に出た、陸地測量部の三角点の礎石があった、ここは観測の折に樹竹を刈り取ったらしい、時刻は午後の三時である、また熊笹や密林の中を潜ったり蹈み分けたりして行くと、七時に熊笹と樹木が全く絶えた芝生となって、これに点綴てんていしている植物や幾多の小池や残雪やが高山性となって、眼界もにわかに開けて※画とうが[#「巾+(穴かんむり/登)」、305-16]的の大観が現出して来た、ここはもう平ヶ岳の一頂であって越後と上野を限っている山稜である、小池の傍に野営した。
 翌十八日の五時に日輪が出た、六時十分に絶頂を指して登りはじめた、平坦な芝生に多くは小池があって、矮小わいしょうな灌木や熊笹の繁茂している所がままあるが、展望を妨げるようなことは少しもない、間もなく偃月形をなしているかなりの大残雪を蹈んで、七時五分に絶巓の三角点址に達した、絶巓は渺々びょうびょうたる曠野こうやであって一帯の芝生に、小池が所々にあって無数の南京小桜なんきんこざくらが池を廻って※娜じょうだ[#「女+島」の「山」に代えて「衣」、306-6]として可憐かれんを極めている、この曠野は三角点附近を最高点としていて、緩慢かんまんな傾斜をなして北方に低下しているが、絶頂に特に隆起した地点がないから、曠野の全部を一望の下に俯瞰ふかんすることが出来ないで遺憾いかんというべきである、三角点址の眺望は非常に宏闊であって、南西に当って近くの鶴ヶ岳が金字形をなしている、その山貌と鳶色の山色より察すると火山岩である、鶴ヶ岳の左には馬鞍状の燧岳がある、鶴ヶ岳の右には尖端が天をいている日光白根がある、赤城と白根の間に男体山が見える、人夫の一人は男体山を富士山だかと三、四回も自分に質問した、浅間山がさかんに噴煙している、頸城くびきの平野を隔てて妙高みょうこう山が屹立きつりつしていて、その上方に日本アルプスの北部が杳々ようようとして最後の背景をなしている、また兎、中、駒、八海、荒沢、大鳥岳の連嶺は数十条の残雪を有していて、蒲原かんばらの平野も日本海も脚下に開展している、快晴の日には佐渡も富土山も認めることが出来るそうである、この山上の大観はが北越の諸山に比較すると、飯豊いいで山の雄渾ゆうこん豪壮に対しては少しく遜色があるが、有名な苗場山とは正に伯仲の間にあるものであろう、そうして苗場山を人工入神の作と見たならば、平ヶ岳は神作の拙なるものではあるまいか、絶頂から北へ向って行くと盃石という岩があると聞いたが、この日は不動瀑布上の野宿所まで戻るのであるのと、白沢を渉るときに足を少しく損じたので、帰途を急ぐ必要上から充分に山上を遊ぶことが出来ないので、八時に絶巓を辞して野宿所へ降った、絶頂の植物は大略チングルマ、大桜草、白山一華はくさんいちげ、南京小桜などで、越後と岩代の駒ヶ岳、燧岳とやや同様の観がある、九時に野宿所を出発して三時十五分に平岳沢と白沢の出合に下った、五時五十分に不動瀑布上の野営地に着いた、もう豪雨が来ても大丈夫だと一同が安心してその夜は熟睡したが、自分は多年の宿望を果したから最も愉快に安眠にふけった。
 十九日は六時十五分に出発して、七時半に只見川の出合に達した、ここで荷物の分配や中食の用意などして、九時十五分に只見川を溯りはじめた、一時間弱で右から沢が落ちている、トクサと呼ぶ沢であって檜枝岐から岩魚釣りが来ているそうである、此処ここから檜枝岐までは五里の間道だと称している、十一時に右からタカイシ沢の這入るのを見た、一時に三十滝という奔湍と瀑布を兼ねたような処に来る、三十滝は通行することが出来ぬから、岩壁を登ってその上流に下るとシラツキ沢が左から這入はいっている、只見川の本流は深緑色をなして緩く流れているが、シラツキ沢は岩石がことごとく真白になっていて、淡碧色の水が勢い強く落ちて来る、水をめて見ると少し渋味がある、この沢は降雨の際には渓水がニゴシ(米を洗いたる水)のようになるそうである、燧岳図幅に記してある深沢というのがこの沢らしい、シラツキ沢を少しく登ると木ノ葉石があるというので、人夫が取りに行って来た、二時半に此処を出発して只見川の断岸を登って、一時間ばかり行って只見川を徒渉して西岸を辿った、しばらく進むと右からマツクラという沢が来ている、マツクラ沢の対岸の岩側が※(「糸+炎」、第3水準1-90-10)たんたん筋のように見えるからよろいグラ(岩の転か)と呼ばれてある、鎧グラの上方を登るのであるが、これからは人夫が詳細な案内を知らない、登ってから水がないと困るから、まだ四時ではあるが此処に野営することにした、人夫が十尾ばかりの岩魚を釣って来て、今夜は岩魚の寝入っているのを捕えて来るというて、しきりに面桶を入れていた網などを利用して、手網のようなものを製作している、自分は岩魚の寝入っているということを生来はじめて聞いたから、可笑おかしくなって吹き出したが彼らは真面目も大真面目でいる、夜になると提燈ちょうちんを下げて自分にも同行して見ぬかとすすめたが、岩魚の寝入っているのも見物したいが夜中に巉岩ざんがんを蹈む勇気もなくて行かなかった、小一時間も過ぎると人夫が帰えって来た、明日の仕度もあるから喰うだけ獲て来たというて、四十尾ほど持って来た、なるほど岩魚も寝入るものと見える。
 二十日は六時五分に出立した、直に只見川を渉って対岸の岩壁をじるのである、この辺の只見川は水量が多くて、自分のようなコンパスの短いものは殆んど股まで達しる、山側をのぼり尽すと高原的の処となるが、闊葉樹林の下に例の熊笹が繁茂していて、展望もなければ歩行も決して楽ではない、山毛欅の大樹に通行者の姓名や時日が記してあるのをしおりとして、熊笹を分けたり蹈んだりして進んで行く、自分は友人の保阪定三郎氏の記名がある樹木をてすこぶる可懐なつかしく感じた、この辺は総て燧岳の裾野である、只見川の本流が懸水をなしている三丈瀑布を瞰下することが出来る、四時半に熊笹が全く絶えて一大曠野に出た、渺々とした茅の中に幾万の黄菅きすげが咲いていて、美観がたとうるに物なしである、間もなく一小廃屋の前に出た、自分は太早計だいそうけいにもここを上州の尾瀬平と思い込んだが、それにしても只見川をえたはずがない、小一時間もうろついてようよう見当が附いた、マツクラから二里ばかり行くと魚釣りの小舎があると聞いていたが、自分も人夫も二里と呼ばれている処を、まさかに朝の六時から十時間もかかって其処そこへ出たとは、最初のうちはどうしても考えられなかった、それから只見川へ出て川を溯って行くと、左の山側に登る路があってそこを登った時には、真暗になって足下も見えなくなって来た、その夜はここに野営して水に遠いので一飯を抜くことにしてむった。
 二十一日は五時二十分に出発した、路は明瞭な細径となって七時に峠を下った、ここで昨日の夜食と兼帯な朝飯をして九時五十分にこの地を離れた、間もなく尾瀬沼へ出て燧岳の登山口を過ぎて十時五十分に長蔵小屋に着いた、昨年の小屋は岩代の地籍にあったが、本年は上野の地籍に山中としては贅沢過ぎるほどな、旅店風の大家を新築している最中であった、自分はそこから日光の湯本へ向ったが平ヶ岳の紀行はこれで結末とする。
 平ヶ岳に登るには初冬の頃がよいと思う、白沢の水量も減じていようし、熊笹や雑木の勢いが夏期のように旺盛ではないし、人夫も比較的に閑暇であるから便利だというのである、余分の日子にっしと防寒具の用意をして初冬に登るべきである。
 人夫は本年四人を連れていっているから、これだけ案内者を養成した訳である、下折立の星甚太郎、この男は二回登攀している訳である、銀山平の星定吉、この男は熊狩をしているから谷や沢の方は詳しい、以上の二人の中の一人がいれば案内は出来る、大湯温泉東栄舘の桜井次郎は弱年であるから保証はしにくい、藪神村の桜井兼吉は遠方だから予定することは出来まい、ついでにいうが人夫の賃金はこんなに多忙の中でも一日七十五銭であった、しかし閑暇の時だというて安いかどうかは談判して見ないから知らない。
 博文舘発刊の『太陽』第一年第一号に利根川の水源探検記が載っている、自分は多分平ヶ岳に登ったのではあるまいかと考えていたが、利根川の水源は丹後山の東から出ているから、平ヶ岳の絶頂からは尾根伝いに行ったならば、三里以上もあるかもしれない、探検記の著者は山名を明記していないから、勿論臆断ではあるが八海山図幅の無名の 1592 か、丹後山の辺へでも登ったものらしい、さすれば陸地測量部と大林区の役人を除いては、自分が最初(土人は省く)の登攀者だと確信している、いわんや写真や記文は下手ながらこれが嚆矢こうしであると考えている。
 これが立山の劍か赤石山ででもあると、非常に天狗になれるかも知らぬが、二千百米突ではそんなに大袈裟にもいわれまい、しかし自分個人としては山数はまだ碌々登って居ぬが、十三の時から三十九の今日までに、自分単独の力で人がまだ行っていない山へ登躋とうせいして、それに自分の記文と写真を載せたということは、生来はじめてであるから法螺ほらでも自慢でもないが、自分は衷心から珍らしいような嬉しいような感じがするのである、自分としては以後にこんなような事のあるべきはずがないから、これが最初の最後であることは申すまでもない、日本アルプス地方では熊笹の繁茂を見ることが出来ないようであるから、稀にはこんな処へも来て見て戴きたいのである。





底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 一〇の三」
   1916(大正5)年5月
初出:「山岳 一〇の三」
   1916(大正5)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の署名は「高頭義明」
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について