尾瀬雑談

木暮理太郎




 尾瀬の記事は既に書き尽されてあるから、この上の剰筆は真に蛇足であるに過ぎないが、敢て二、三の見聞をここに載せることにした。尤も雑談に花を咲かせる程の興味あるものでないことはあらかじめ御承知を願いたい。
 尾瀬沼は『正保図』には「さかひ沼」となっていて、尾瀬とも小瀬とも記してないことは、曾て『山岳』十六年三号に書いた通りである。しかるに寛文六年の序ある『会津風土記』には、

只見川(源出会津小瀬沼、北流過山間数十里、東転至田子倉村、云々。)

とあり、安永三年の序ある『上野国志』には、

沼峠(駒ヶ岳の東にあり、上野越後陸奥の界なり、山上に沼あり尾瀬沼と云、沼の中央国界なり、沼水西北に流る、大滝川と云、川の西は越後東は陸奥なり、但大滝川越後にては不動滝と云。信州界鳥井峠より是まで三十三里十九町。)

となっている。これで見るとかなり早くから「ヲゼ」の称呼が行われていたことが分る。お『正保図』には沼の東南岸に一里※(「土へん+侯」、第4水準2-5-1)づかの記号を存し、そばに「冬より春の内牛馬不通」と書いてある。大江川には「檜枝俣境沢」とありて、これに架せる橋に「橋長二間半」と傍書し、その北の路線の終りに「此境より陸奥檜枝俣迄三里半」及び「信濃境鳥居峠より此所迄舟卅三里拾九町」と二行に書き並べてある。『上野国志』の記事はこの後者を襲用したものであろう。
 尾瀬沼と尾瀬ヶ原に遊んで、すぐ頭に浮ぶのは日光の中禅寺湖と戦場ヶ原である。但し戦場ヶ原は中禅寺湖より百二十四米の高所に在るが、尾瀬ヶ原は沼より二百六十七米も低い所にある。れでも戦場ヶ原より高きこと三米で、沼は中禅寺湖より三百九十四米、湯ノ湖に較べてさえ百八十七米も高い。中禅寺湖畔では秋が未だたけなわでないのに、尾瀬沼では既に冬の領となっている訳が成程と首肯うなずかれる。
 中禅寺湖が男体山の堰止め湖であると同様に、尾瀬沼はひうちヶ岳の噴出物に堰止められて生じたものであろう。独り湖沼ばかりでなく、原もまた同様にして生じたものらしく思われる。そしてこの尾瀬と日光とに於ける二の著名なる湿原の研究が館脇君によって初めて『山岳』誌上に其一端を発表されたことは、私等に取りて大なるさいわいであり、おしえを受くること鮮少ではない。
 中禅寺湖は其面積の大なるによるであろうが、山湖として明るさが過ぎるように感ずるのは、湖岸に針葉樹の少ない事もなりな影響を及ぼすものと考えられる。しかし周囲が相当な森林であって、あらわでないのは嬉しい。金精峠の西に在るすげ沼は、丸沼および大尻沼と共に白根山の堰止湖かと疑われるが、これはまた殆ど針葉樹の純林に周囲を取り巻かれている為に、恐ろしく暗い感じのする山湖である。妙に息苦しいような圧迫をさえ感ずる。其湖畔の道はや富士山麓の本栖湖の南岸を辿る小径と似通っている所があるけれども、あれよりもはるかに深刻である。大尻沼はわるくない。丸沼は北岸の人家が甚しく目障りとなるのは是非ないとして、湯本の人家が湯ノ湖に夫程の俗臭を帯びさせるとも思われないのは、周囲の自然がすぐれて立派である為ではなかろうか。私は秋の湯ノ湖に於て彩色された最も荘重な自然の姿を見た。そして更に湯ノ湖には乏しい変化を加えたものが尾瀬沼の風景であろうと思った。
 尾瀬沼畔の秋を賞する為に私は十月なかばに旅行したが、時既に遅れて、岸辺に林立せる白樺の黄葉が散り残っていた外は、闊葉樹は皆落葉してしまって、残念ながら一点の紅にも接することを得なかった。例年十月一日から五日あたりにかけて最も見頃であるという。それにしても恐らく紅葉する樹木の数は湯ノ湖に劣るであろうと思われる。尤もかんば類の霜葉は其量からも質からも素晴らしいものであることはうたがいを容れない。
 いつぞや鬼怒沼へ行った時、燕巣つばくろす山の北方に在る国境山脈の一峰から片品川の渓谷を瞰下みおろして、火と燃ゆる満目の紅葉に驚喜して以来、秋の尾瀬を訪れたいというのが年来の希望であった。それがかなって十月の尾瀬に遊ぶことを得たが、片品川に沿うて遡る際、注意して四辺を物色しても、紅葉は戸倉沢の附近にやや多いと思っただけで、雨の為に展望のきかなかった所為せいもあろうが、予期の大観に接することを得ないように思われて、心窃こころひそかに物足りなく感じた。尤も闊葉樹の梢は散るに間もあるまいと想われる木の葉が褐色、黄褐色、又は赤褐色に彩られてはいたものの、こんな枯葉同様のもの(科学的にいえば葉緑素を失った葉は枯葉であるというが、尚お其上に水分を失ってカサカサしたものでなければ、私達は普通枯葉とはいわない)では満足出来ない。それで私は夏の間あまり日照りが続いた為に、葉がいたんで色が冴えないのであろうと独りでめて、自ら慰めていたのであった。
 十月中旬には珍らしいといわれるほど夜の間に雪が四、五寸も積って、あくる一日は吹雪に暮れ、それがれると絶好の登山日和となった。私は同行の松本君と燧岳の頂上に登って、四方の展望に耽った。大江山から袴腰はかまごし山、黒岩山あたり鬼怒沼方面にかけて、打ち続く針葉樹林の真黒なのに驚いたが、眼を北に転じて脚下の檜枝岐川や只見川の渓谷を見た時、再び凝然ぎょうぜんとして目をみはらざるを得なかった。あの曾て国境山脈から眺めた片品川渓谷の美観は、今やまさしく脚下の両渓谷に再現しているではないか、殊に狭い只見川の全渓を埋み尽した紅葉には、何等の形容詞を呈していいかを知らない。私はすっかり満足してしまった。
 尾瀬を立ち去る日はまた雨であった。三平峠の下り口に立って霧のめた渓底に見るともなく目をやっていると、一陣の南風が樹梢を払って、木の葉が乱れ飛ぶと共に、霧の幕がすうと取れて、そこに山上から瞰下ろして夢寐にも忘れなかった景色の一部が実現した。片品谷の紅葉。然しく見ればそれは依然としてあの枯葉同様の葉によって作られた美観であった。私はここに於てか始めて燧山上から眺めた紅葉も、これと同様のものであることを悟って、これからは紅葉に対する観賞の態度を改めなければなるまいと感じたのであった。
 ついでに長蔵小屋で聞いた事を紹介すると、岩魚は十月頃から寒さに向う程大きいものが獲れるそうである。其時分になると、産卵の為に沼から細い溝を溯って来るので、途中へ筌を伏せて置けば容易に捕えられるという。成程溝を覗いて見ると少し深い所には、八、九寸から一尺余もある岩魚や姫鱒ひめますが泳いで居る。手網でもあれば造作なくすくえる。姫鱒は五万尾とか沼へ放したそうであるが、これは失敗に終って大部分は下ってしまったという。それでも七、八寸のものはさかんにとれて食膳を賑わす。岩魚の大なるものは六百目を超え、長さ二尺に余るそうであるが、今までにとれた最大のものは一貫六百目のものであったそうな。何にせ十月は岩魚が飽きる程食べられ、兎や山鳥や時としては熊の肉も膳に上り、汁の実にうまい茸類が採れ、小屋の前の畑には蕪菁かぶら、大根、ねぎなどの野菜も能く生育するので、山中とも想われぬ馳走にありつける。
 沼の田螺(マルタニシと称する普通の種類也)も大きいが、どじょうなども八寸以上のものがよく獲れるそうである、沼尻川でいつか捕えたふなは、鮒とはいえない程余りに大きかったので、これこそ主とでもいうきものと如何にも気味わるく、再び河に放してしまったという。鮒といえば六月上旬に沼の氷が溶け去った後に、大小の鮒が死んで浮き上り、汀に打ち寄せられている事がある。其数が幾百幾千という程に多いから驚く。この現象は五、六年に一回位の割合で起り、鮒に限っているそうであるが、其原因は不明であるという。水鳥も絶えず沼に浮んで居るが、去年は十数羽のが来て、其一羽を網で生擒いけどりしたとか。珍らしいのは鶴が下りたことで、以前にもそうしたことがあったそうである。しかしこれは丹頂でなく、大鷺(ももじろ)を見誤ったものかも知れない。一度などは沼山峠の方から馬が来たので、人も居らぬに不思議とよく見れば、それは大きな牝鹿であったとのことである。
(大正一四、五『山岳』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「山岳」
   1925(大正14)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2014年6月12日作成
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