地質学者の説に
拠ると、今日普通に日本北アルプスの名で広く世に知られている飛騨山脈は、
凡南十度西より東十度北即ち南南西から東北東に向って並走して居る数条の連脈から成っているということである。さもあらばあれ高い山のみを渇仰の標的として、峰から峰へと縦走する
気儘な山岳の巡礼は、勝手に
是等の山脈を二にも三にも胴切にして、低い山はそれが主脈であっても、草鞋の先に突懸った石ころのように惜気もなく投げ棄て、高い尾根と尾根とを都合の好いように接ぎ合せたり結び付けたりして、出来るだけ高いそして出来るだけ長い山脈にしようとする。私がここに立山山脈といい後立山山脈というのも、少しは
斯うした勝手な真似がしてあることを断って置きたい。
槍ヶ岳の西の肩から北西に曳いた
西鎌尾根が、
其名の如く薄っぺらな山稜の上に、目まぐるしい程多くの岩の瘤を突起させているのに反して、同じ尾根続きでありながら、
双六岳や其北の蓮華岳一名三俣岳は、幅の広いそして丸味を帯びた穏かな山容と変っている。ぐるり周囲を取り巻いた壮年期の山岳の中に在りて、
此二山を中心とせる附近の地貌は、のんびりした気持で頂上を歩いている登山者に、或は山がまだ幼年期にさえ達していないのではあるまいかとの感を抱かせるのも面白い。飛騨山脈の主脈はこの蓮華岳から
釵の股のように二つに岐れて、東と西とに対峙した高大な
連嶂が相並行して南北の方向に長く続いている、西に在るのが立山山脈で、東に在るのが後立山山脈である。
立山山脈は、其脈中に古来からの名山であり、
且槍ヶ岳以北に在りては三千米を超えている
唯一座である立山を有する為に名付けたもので、立山が此山脈の最高峰であり、三千米以上の高距を有することは疑いを容れない(立山の三角点は標高二千九百九十二米であるが、
雄山は
夫よりも十四、五米高く、
大汝は更に五米程高い)。唯惜しいことには、山脈の北半が南半に比して甚しく振わないのは残念である。黒部五郎岳(中俣岳)・薬師岳・立山・劒岳を有する南半が最高三千余米、最低二千百二十米、平均二千六百米以上の高度を維持しているに
拘らず、北半は殆ど三千米の劒岳から急転直下して二千三百八十七米の
白兀となり、直径一里に足らざる距離の間で六百米余も低くなっている。白兀の北の
毛勝山は二千四百米を抜いてはいるが、其北の駒ヶ岳になると毛勝山より更に四百米も低い。そして駒ヶ岳の余脈は千八百五十五米の
僧ヶ岳から千二百七十四米の烏帽子山となり、内山村から西に折れてここに平凡な一帯の丘陵と化し、日本海岸の三日市町附近に終っている。
若しこれが後立山山脈のように日本海の間近に迫っても、
尚お千米以上の高度を失わないならば、其壮観は今日に倍するものがあろう、甚だ遺憾である。
立山山脈に較べると後立山山脈は、高さに於て
略ぼ釣合の取れた長大な山脈を成している。試に鷲羽ヶ岳から白馬岳に至る間に就て見ると、最高点は黒岳であって、三角点の海抜は二千九百七十八米であるが、
絶巓の高さは目測では二千九百九十米の上であろうと思われる。最低の鞍部は針ノ木峠と北南に相対する不動堀沢岳(近時の大町の案内や人夫は
之を
七倉岳と呼んでいるようであるが、もと七倉岳は、この山の北少し東に在る山で、北葛岳・乗鞍岳等の別名があった)の西にあるくびれ目で、二千百八十米であるから、立山山脈の南半とは、最高に於て少しく劣り、最低に於て少しく優っているが、二千六百米以上の平均高度を有する事は
互に同じである。白馬岳以北に於ても鉢ヶ岳・雪倉岳などは優に二千六百米を超えているし、其北の朝日岳でも尚お毛勝山より四米程高い。そして余脈日本海に臨むに至って、千二、三百尺の高さから急に海中に没している。険悪を
以て聞えた親不知子不知は、此山脈の末端が懸崖を成して海に突出している鼻づらをこするようにして、波打際を通らなければならなかったのである。
此の山脈を後立山山脈と名付けたのは、鹿島槍ヶ岳の一名を後立山と呼ぶ為ばかりではない、立山連峰の偉観は
独此山脈中に比す
可きものなきのみならず、南北日本アルプスを通じて稀に見る所であるから、立山を主とした越中方面の称呼に従っても、敢て偏見という可きではない、
又この名を用いた方が二条の並行した大山脈を表現する上に於ても、白馬山脈と呼ぶよりは適切かと思われる。
この二大山脈を構成する岩石は、既刊の地質図に拠ると主として古生代の水成岩を貫いて迸発した花崗岩類である。更に之を大別すると、立山山脈は角閃花崗岩から成って居り、後立山山脈は黒雲母花崗岩から成っている。この両者の縫合線は、黒部川の支流東沢に沿い、南は
樅沢岳附近に至り、北は
御山谷の屈曲点附近を過ぎているとのことである。其年代は中生代以前に角閃花崗岩が先ず迸発し、次に黒雲母花崗岩が噴出したものであろうという。そうとすれば両山脈の関係的位置を示すに用いた後の字は、同時にまた山脈生成の時をも示すことになる訳である。
中生代以後になって、角閃小紋岩(石英斑岩と同質であるが、それよりも
稍深所で凝固したるもの。若し地表に湧出すれば流紋岩となるという)が岩脈状をなして花崗岩の間に迸入した。薬師岳の如きは流紋岩に類似せる角閃小紋岩から成っている。又立山附近から北方の山骨は、片麻質花崗岩より片麻岩に推移しているという。
斯く立山後立山の両山脈は同じ花崗岩類であっても、時を異にして迸発したものの集合体である。加うるに火山脈がまた山脈の走向と殆ど一致して之を縦貫している。そして是等及び其後に於て幾度か繰り返されたであろう地変の為に、大小の断層が生じ、それが互に交錯しているであろうから、黒部の本流は勿論其支流も、流路の一部或は全部を其断層線上に仰いでいる場合がないとも限るまいし、此両山脈の山に熟み割れた
柘榴のような壊裂的な峰頭や、山稜が凹字形に
抉れて、越中の人夫が「窓」とうまい名を付けた通過困難な悪場が
少くないのも
亦その為であるかも知れないと思う。
最後に此の両山脈に於ける積雪に就て考えて置く必要がある。冬期日本海を渡って押寄せる西北の恒常風は、
尽く其水蒸気をさらい来って、真先に撞き当るのが立山山脈であるから、
此処に多量の降雪(
孰れの山脈に於ても風上よりも風下に当る山稜の側面が余計に積る)を見るのは言う迄もないが、劒岳の正東に聳えている鹿島槍ヶ岳以北の後立山山脈は、之と比較す可き立山山脈の北半よりも、平均して三百米も傑出しているし、白馬岳の如きは五百米も高いので、多雪地帯ともいう可き後立山山脈の北半に在りても、最も雪量が多い。これが夏になって駆け出しの登山者を驚喜せしむる白馬尻の大雪渓ある
所以である。之に
次では黒岳(水晶山)が二千九百二十六米もある薬師の大岳を西北の障屏としてはいるが、
流石に一頭地を抜いているだけに、其東面に在る三個のカールには多量の残雪が眩い光を放っている。鹿島槍ヶ岳以南の
爺岳・針ノ木岳・蓮華岳・野口五郎岳
若くは鷲羽ヶ岳などは、平均高度を突破した秀峰であるに拘らず、積雪の量は毛勝連峰よりも少いのである。薬師岳の四個のカールも亦多量の雪を貯蔵することに於て、黒岳を凌駕しているが、東の側面が短くて急である為に、劒沢のような大雪渓の発達は見られない。独り立山連峰のみは日本アルプスに於ける万年雪の一大宝庫たる名を
擅にす可き
有ゆる条件を
具えて、
崢
たる峰巒を飾るに、白雪燦然たる四個の大カールと、刃のこぼれた絶大な
薙刀を懸け連ねたような大雪渓とを以てし、其間に盛夏八月尚延長一里に近い劒沢の雪渓を擁して、後立山山脈を
羚羊のように縦走する登山者に讃嘆の眼を
瞠らしむるのである。
立山後立山の両山脈が斯く東西に対峙していることは、日本北アルプスに取りて何たる
幸であろう。木曾駒ヶ岳山脈は、大部分花崗岩から成り、高さに於ても長さに於ても、はた又山の姿に於ても、此両山脈の孰れにもさして劣る者ではないが、之を中央アルプスと唱うることは快く認容しても、何か満たされないような物足りなさと軽い失望とを感ずることを免れないのは、近くに之と対比す可き大山脈を欠いている為であろう。
此二大山脈の始まる所に
潺湲たる産声をあげて、其懐に養われつつ
倶に北に走ること三十里、その尽くる所に雪を噴く奔湍と雷のような瀬の音とを収めて、日本海に注ぐものは即ち幽峭並ぶものなき黒部の峡流である。
飛騨山脈の水系の中で、黒部川は最も単純であり、
又最も完全した縦谷である。けれども黒部川の誇る
可き特色は、寧ろ
其典型的な峡流をなしている点であって、三十里の流程も下流数里の間を除けば、両岸とも殆ど断崖と絶壁との連続であるというてよい。本邦に河は多いがかくも見事に発達した峡流は恐らく類がないであろう。
黒部川の水源は、後立山山脈の赤岳から北方に分岐した黒岳山脈と、蓮華岳から越中沢岳(又は栂山)に至る迄の立山山脈との間に発源する
祖父谷・
祖母谷・五郎沢・薬師沢・
岩苔谷等を合せたものである。其
中本流は嘉門次の
所謂祖父谷であって、鷲羽ヶ岳北方の小鷲と呼ぶ一尖峰と、雲ノ平(奥ノ平又は池ノ平等の別名がある)高原の東端に聳ゆる
祖父岳とを連ねている山稜の南側に発源している。祖父岳が雲ノ平の熔岩台地を流し出さなかった以前には、或は黒部五郎岳の大カールから発する五郎沢の方が本流であったかとも想われる。鷲羽ヶ岳が黒部川の水源であることは、古い地誌にも記されているが、其位置を飛信越の三国界に在るものとして書いたり図したりしてあるのは、その方が正しいのか否か、資料が得られないので判断の下しようがない。
唯蓮華岳なる名は信州の猟師や山案内人の称呼であって、極めて新しいものである。
黒部川が山の斜面を離れて、谷らしい形をなし始めるのは、この蓮華岳の北方であり、峡流らしくなるのは、薬師沢と合流してからである。更に
立石で岩苔谷が入ってからは、全くの峡流となって、ここに
奥廊下(
上廊下)の絶壁が始まるのであるが、何処をどのように流れているのか、山の上からでは到底望まれない。唯一度
数河乗越附近を通る人にとろりとした青黒い色の流れをちらと覗かせて、再び
中廊下の崖下に隠れたまま、東沢の合流点近くなるまでは、
容易く人の寄り付くことを許さない。
越中沢岳から東に派出した尾根の突端に在る
木挽山は、奥廊下の大勢を窺うには好都合の位置を占めている。それとても眼界は決して広くはない、唯
僅に数河乗越から流下する谷の出合附近と、其上流二十町
許りの間に限られている。其の狭い範囲内で河身の見える所は一、二個所に止まっている事実に徴して、如何に崖が高く谷の深いかが想像されようと思う。
其処から
瞰下すと花崗岩の白茶化た岩壁が、河に突き出したり或は
抉れ込んだりして、水は白泡を立てながら其下を奔流しているのが見える。両岸に岩のごろごろしている所や、河中に大石の横たわっている所もある。ここで河が木挽山の南の裾に突き当って、一曲して東に流れ、赤牛岳との間に中廊下の峡流を成しているのであるが、木挽山の上からは余り急角度なので目に入らない。
夫より
反て下流の
平ノ小屋附近から下の方がよく望まれて、河原に堆積せる花崗岩のごろた石も雪の積もれるかと怪まれ、其中を川が黒い一条の帯を曳いたように流れているのが見える。
中廊下の終る所は東沢の合流点である。
是処まで来ると水量は驚くほど増して、途中どんな大きな沢が加わったのかと不思議に思われるが、これは薬師岳の万年雪から滴る水の集りが注いだ為であろう。其降雪量の多いことは、八月でも
尚お黒部の谷底に堆積している残雪から推量される。この合流点から
平に至る迄は、全峡流中での最も
穏な地形を成している所で、河幅も余程広くなっている。従って
徒渉するにも危険の
惧が少ない。そこを狙って古くから信州と越中との交通路が開かれた、これがスバリ越即ち針ノ木峠を
踰えて黒部川を横断し、ザラ峠を経て立山温泉に至る路である。黒部の峡谷に
斯くまで打開けた場処があろうとは
何人にも全く想像も及ばない所で、意外の感に打たれぬ者はあるまい。平水の時ならば
平から川の左岸に沿うて東沢に至る迄、水際を通ることは敢て困難ではない、それでも二箇所は崖の上を迂廻し、深さ股に達する急瀬を二度は徒渉するものと覚悟しなければならぬ。
黒部峡谷が一段と凄味を帯びて来るのは
御前谷から下である。
平から御前谷までの間では、河幅はまだ狭くなる
所か、或場所では河原が開けて、水は二筋三筋に分れ、土手のように盛り上った砂丘の間に、こんもり繁った闊葉樹が点々と散在している所さえある、これは赤沢岳の上からも観察される、が、深さは著しく増して余程減水した折でなければ徒渉は思いも寄らぬ。それが御前谷の合流するあたりから下になると両岸に高い峭壁が現われ、黒部
別山に撞き当るに至って
俄に険悪の度を加え、崖は高く
流は急に、河床には巨岩錯峙し、水石相激して谷の中はまるで大風が吹きすさぶような水音で鳴りどよんでいる。後立山山脈を旅行する人が、どうかすると静かな野営の夢を破られて、夜半暴風雨の襲来かと驚くのはこの音である。所謂下廊下は
此附近を指していうたもので、廊下という言葉は両岸に削立せる岩壁が長く続き、
恰も家の廊下に似ている所から来たものであって、信州人の称呼である。越中では壁とはいうが廊下とはいわないようである。
下廊下の名称は此附近に限られていたとはいえ、実際は決してそんな短いものではない、ずっと下流の桃原に架けられた釣橋(黒部橋)のあたり迄続いている。唯
鐘釣温泉附近からは段丘が発達して、道は其上を通じている為に、脚下にそんな断崖があろうとは思われないが、山裾が破れて石の綿をぼろぼろに露出した所や、段丘の発達する余地のない所では、川が間近く押寄せて目が眩むような岩壁の縁を辿っていることが分る。桃原から下流は河中に起伏する大磐石も見られなくなり、河原が開けて
寄洲なども出来、最後に愛本の峡口を突破して平原に出ると、河は扇形に開いて幾多の支流を分派する。これが古書に
謂う所の黒部四十八箇瀬で、今も入川・平曾川其他に昔の名残を存している。想うに泊から三日市に
亙って、立山後立山両山脈の間に抱かれたこの扇状の平原は、黒部川が全峡谷の山々から撈取した無量の土砂を遺棄した為に生じたものであろう。
下廊下の岩壁は水際から十米
乃至数十米の高さであるのが普通であるが、中には其以上の高い峭壁も甚だ多い。右岸では
平ノ小屋の少し下から既にそれが始まって、次第に高さを増し、赤沢岳の支脈が鼻づらをぐいと川に突き出しているあたりでは、百米にも余る赭色の岩壁が殆ど垂直に屹立しているのが望まれる。黒部別山附近は五万分一の地図を見る人に最も興味を起させる地点であって、又遠望した所に
拠っても、樹木
尠く岩石が赤裸々に露出しているから、幾百米の断崖が水に臨んで峭立しているであろうと想わしめる。実際此附近は黒部峡谷の核心とも称す可く、従って険悪を極めた場所で、大ヘツリなどいう名があるのを見ても、岩壁の壮大を想像するに難くない。ヘツリは這いずりの意である。
就中大タテガビンの名ある岩壁(音沢村の猟師佐々木助七の称呼)は黒部別山の東南端に在って、殆ど五、六百米の高さを有している。また
奥鐘山の峭壁は真に垂直に近いもので、魔神が天斧を揮ってザクリと截ち剖った其片割れは、何処へけし飛んでしまったか判らないが、他は二、三百米から六、七百米もある花崗岩の大懸崖となって
儼然と残っている。大雨の際には其壁面に数条の大瀑布が出現して一時の奇観を呈する。中廊下には黒ビンカ或は段々ベツリなど呼ばれる岩壁があり、奥廊下にも薬師岳の下に幾つかの岩壁はあるが、
孰れも規模が
稍小さいので、下廊下のような険怪と
豪宕とを欠いている。そうかというて不用意に入り込めば大困難に遭遇するはいう迄もないことである。
河幅は六、七間から三、四十間、広い所は一町以上もある代りに、狭い所は三、四間しかない。中にも猿飛附近は最も峡勢の窄迫した所で、二間半多くて三間とはあるまい。両岸とも下へ行く程
円く抉れて、岩面は磨いたように光沢を帯びている、それへ
幾尋の深さあるか知れない
瀞の水色が反射して凄い藍色の影が映っている。あたりは木立が深い。私が想像した黒部の谷は、想ったより
明い谷であったが、
此処は想ったよりも暗い所であった。
黒部峡谷が斯くまで豪宕を極めた形式を
具えていることは、要するに
之を構成する岩石が花崗岩類である為と称してよいであろう。そして仙人谷から餓鬼谷に至る間の両岸又は河の中に湧出している温泉や蒸気の噴出は、岩の筋目に沈澱物を堆積して、さしも堅緻な花崗岩を赤錆となした上に、大崩壊を起さしめている所から察すると、断層線か、各種の迸発岩の接合線か又は地皮の弱所を流れて、侵蝕作用を逞くしていた河は、火山の噴出と共に最も多く其影響を受けて、
箍の弛んだ桶のように壊裂し易い状態にあった中流の部分から、先ず恐る可き破壊作用を開始して、終に今日見るような深い峡谷を造るに至った導火線となったものではあるまいか。
黒部川の支流は俗に八百八谷と称されているが、これは唯数の多いことを示す為の数字に過ぎない。主要なものは
黒薙川・小黒部谷・祖母谷・劒沢・棒小屋沢
及東沢の六である。中でも黒薙川が最も大きく、他の五は大抵似たような者である。勿論長さや流域の広さからいえば、
大に相違しているが、割合に水量の多い点に於て皆一致している。水源を涵養する大森林に乏しい此等の川は、孰れも其源頭に横たわる多量の万年雪を水源としていることは面白い事実である。即ち黒薙川と祖母谷とは後立山山脈の中で最も雪多き白馬連峰を水源とし、小黒部谷は毛勝・釜谷及猫又の三峰から池の平に至る連脈の雪を不断の水源と仰いでいる。劒岳や別山にあの大雪渓が無かったならば、劒沢は如何に貧弱なものであったろう、黒岳のカールの雪が尽きないのは、東沢の水の尽きない
所以である。唯後立山山脈の鹿島槍と爺岳との間から発源する棒小屋沢は、劒沢と伯仲する或は其以上の大きな沢であるが、八月頃は渓間の雪が殆ど溶け去ってしまうので、劒沢とは比較にならぬ程水量が少ない。
此等の六大支流の中で楽に河を遡れるのは東沢だけである。小黒部谷も鉱山の廃止と共に其道が荒れてしまった今日となっては、追々困難を増す許りであろう。祖母谷や黒薙川に限らず、他の多くの支流も大抵絶壁と淵と瀑布との連続であるから、それを上下するのは困難でもあり危険でもあるが、適当なる時季に於て熟練した案内者を同伴すれば、通過不可能ではない。唯劒沢だけは北股の流が合した所から六、七町の下流である約千六百米の地点から、直径にすれば二十町足らずの距離である本流との合流点までに六百米以上の落差がある、これは奥秩父の
金峰山に、南口の御室から登るのと大体似たようなもので、あの峻急な登りを考えたならば、劒沢の下流が如何に険悪であり、大きな瀑があるであろうことは想像するに難くないと思う。
赤石山系にしても奥秩父にしても、
又は木曾地方や日光の奥などにしても、今迄経験した範囲内に於ては、自然林の面影が保存されている所であると、闊葉樹帯と針葉樹帯が或高さを界として、
互に推移しているのである。麓から山腹にかけて闊葉樹の大森林があり、次に闊葉針葉の混淆林が続き、
其上に
樺などの闊葉樹を散生した針葉樹の深林が黒々と繁っている。そこに森林の美しさが在ると思った。
畢竟山岳地に於ける森林の美観は、少くとも外見上からは、闊葉針葉の樹帯が整然として
紊れざることを必要とする。所がこの林相を見慣れた目で黒部峡谷の森林を眺めると、少しく趣を異にしていることに気が付くのである。
黒部の森林は概して闊葉樹が多く、針葉樹に乏しい。いや乏しいのではない、木が皆矮小なのである。従ってあの谷も尾根も真黒に埋めた針葉樹の大森林というものがない、ない訳ではないが思いの外少ないので、今は大分伐採の手が入ったと聞く大井川の上流などとは比較にならないのである。針葉喬木林の大帯が山腹を纏うていないことは、
幽邃と森厳の気に欠けているように思われて、どうも物足らぬ感を起させる。勿論針葉の純林が全く無い訳ではない。
百貫山・東谷山・牛首山・黒部別山・針ノ木谷・東沢などには、
唐檜や
白檜或は落葉松の純林が真黒に繁っているのが見られる。其外峡谷の所々に点在する部分的のものを
算えたならば、其数は決して少くないのであるが、全峡谷の七、八分通りを占めている闊葉樹林とは元より較べ物にならない。
唯だ視界の開けた高い所に登って、濃緑の青葉の海に珊瑚礁の如く断続した黒い針葉樹林を連ねて、試に想像の一帯を描いて見ると、それがまがりなりにも
此峡谷の針葉樹帯を表わしているように思われる。つまり今日の黒部峡谷の針葉林は、曾て存在した或は存在する筈であった針葉喬木帯の断裂した一部に相当するものではあるまいか。此推測が
誤でないとして、其原因は何であるかというような問題は、容易に解釈さる
可きものではないが、傾斜の急峻なること、積雪の多量なること、岩壁の峭抜せること等は、恐らく見逃すことの出来ない重要なるものであろうと思う。
針葉樹の主なるものは唐檜白檜であるが、
栂・
姫小松・ネズコ(黒檜)等の大木も少くない。落葉松は東沢や針ノ木谷に
可なりの面積ある純林を成している。ネズコは俗に黒部杉と称する程あって、中流の区域に広く散生している。牛首山や東谷山の尾根が黒部川に臨む崖多き斜面には殊に多い。太い幹から枝や葉が枝垂れ気味に垂れ下って、離れて見ると葉は卵白色に光っている、それが懸崖の上に亭立している風情は真に美しい。
闊葉樹林は全峡の大部分を占めているが、
孰かといえば発育盛りの若木が多く、
橡・
楢の類・
山榛・桂・樺・シデ・
椈・
槭などは一抱以上もあるものがないでもないが、大木は割合に少ない方であろう。椈は千米から千二、三百米の地点、例せば奥平とか苅安峠の椈坂というような傾斜の緩い腐殖土に富んだ所では、立派な純林を成しているのを見た。槭は種類に富んでいるか如何かは知らないが、木は非常に多い所から推して、峡谷の秋の色はさぞや見事なものであろうと思う。
温泉は峡谷の諸所に湧き出している。黒薙・二見・鐘釣・新鐘釣・祖母谷・餓鬼谷・アゾ原・仙人谷・東谷などが其主なるものである。これらの中で旅舎の設備があるのは黒薙と鐘釣
及新鐘釣の三だけである、それも冬は留守居が住んでいるに止まり、鐘釣の如きは雪の為に曾て二階家を押潰されてから、毎年十一月には家を畳んで里に下り、四月下旬に上って来て家を組み建てることにしている。二見温泉は黒薙の少し先で、同じく黒薙川の岸にあったものであるが、今は延長五千六百間の木樋を
以て温泉を内山村に導き、愛本温泉の名で開業している。祖母谷温泉にも元は浴舎があったが、或年洪水に押倒されてから其
儘になってしまった。
鐘釣温泉の湯舟は自然の岩洞である。湯は黒部川の左岸の岩壁の奥から
滾々と湧き出している。それを天井の
円く
抉れた二坪足らずの岩の浴槽に導いて、人は岩を枕に或は岩に
凭れて透明な湯につかっている。もう幾十年かの間幾千の人に使いふるされて、岩が都合よくすり減されている。全く自然の儘だ。赤裸の人と温泉とがうまく融合している。暗い地下の深所から湧き出した温泉は、人の肌を心地よく温め
滑にすべって、役目を果したように徐ろに浴槽外へ溢れて行く。それを見ていると浴する人のない温泉は誠に気の毒なものであることを痛切に感ずる。この浴槽は大水が出ると埋まることがある。其時は待ち兼ねた浴客が集って、水が引くや否や中の土砂を
浚い出すのである。浴槽の前の小屋ほどもある大きな根無し岩も、洪水の度に位置が変ることがあるという。
然し温泉はいつも同じ場所から湧いている。
祖母谷温泉は祖母谷の河床から湯玉を飛ばして湧き出している。熱いので河の水をうめなければ入れない。浴舎のあった頃は相当に繁昌したものであるが、今では登山者が附近に野営した折に入浴する位のものであろう。餓鬼谷も同様であるが、更に奥深い処にあるから行く人は殆どない。アゾ原は仙人谷と
折尾谷との中間に位する黒部川の左岸をいうので、長い歩廊のように連続した岩の間から、
盛に温泉が湧き蒸気が噴出している、其様は立山の地獄谷とよく似ていると思った。
仙人の湯は三、四十年前には可なりの小屋があって、わざわざ入浴に来る者もあったということである。岩塊と細砂とで築き上げた浴槽が二つあって、処々から小流れになって落ちて来る湯を受け入れ、孰も硫黄の華が澱んで薄黄色にへばり付いている。温度は少しぬるいが、湯舟の中に行儀よく体を伸して仰むけに浸っていると、温度のぬくもりが自然と全身の毛穴の一つ一つから沁みて来る感がある。長い湯から上って体を拭くと、分解した白雲母の細片が皮膚からキラキラと銀光を放つ。あたりの岩の狭間からは白烟が
濛々と噴き上げ、其間から
奥不帰岳や白馬岳の連峰が隠見する。湯のある所は海抜千七百米に近い。
黒部峡谷に道らしい道が通ずるようになったのは、明治三十七年以後のことである。けれども古くからぽつぽつ峡中に入り込む人があったらしく、黒薙温泉の発見は元和二年といい或は寛永十年といい、
又は正保二年といい、
孰が真であるかは判じ兼ねるが、
此時既に黒薙川附近まで探られたものであることは
疑を容れない。下って文化文政の頃から天保年間にかけて、江戸や富山などに於ける再三の大火から、黒部森林の盗伐が盛に行われたらしく、遂に前田家の山廻り役に依って森林巡視が開始された。尤も山廻り役が置かれたのは、寛文以前からで、其頃から既に山廻りが実行されていたようである。勿論それは主として国境山脈即ち後立山山脈を縦走したものであって、黒部川に沿うて遡ったことがあるか否かは疑問である。天保以後になると、上流では
平から東沢に出で、
之を遡って国境山脈に至る通路や、下流では音沢から鐘釣附近に達する路が拓けたものか、之を記入した絵図を見たことがある。鐘釣温泉の発見されたのは寛政年間で、文政二、三年の頃には浴場を開いたとのことであるから、
何人か
此処まで来た者があるに相違ない。
唯其人が猟師であったか盗伐に入り込んだ者であったか、或は山廻り役の一行であったかが知れないのである。
然るに明治三十五年に大阪大林区署は黒部林道の
開鑿に着手して、同三十七年に竣工した。当時内山村から桃原の釣橋(黒部橋)に至る一里の間は、幅が九尺で車を通じ、桃原から鐘釣迄四里の間は幅六尺、鐘釣から祖母谷林道の終点まで約半里の間は幅三尺であったということである。此林道を開いたのは黒部峡谷から木材を伐り出す為であったが、収支償わないので事業を中止し、爾来既成の林道も修繕を加えないので、今は大に荒廃して其の面影を失ってしまったけれども、山道としては上等の部に属するものと称してよい。
この林道のお蔭で祖母谷より下流は、沿岸の通行が楽になったが、それより上流は
欅平で林道も尽きているので、盗伐者又は猟師などの外は絶えて通る人もなかった。近年水力電気熱の勃興に連れて、二、三の会社は早くも黒部川の探検調査に着手した。古河合名会社では劒沢の合流点附近に達する為に大正八年の夏、餓鬼の田圃から目的地まで切明を作って水量の測定に従事した。此道は極めて迂回路で
且つ千五、六百米の高所を通るものであった。同会社の測量隊は
其年限り引上げてしまったそうであるから、此切明とても間もなく荒廃して通行覚束ないものとなるであろう。
尚お大正九年の夏には東洋アルミナム株式会社で、欅平から奥仙人沢まで河に沿うて歩道を作り、翌十年には更に奥仙人沢から
平の小屋に至る道を造る計画があるとの噂を聞いた。果してそれが実行されるや否やは覚束ない限りであるが、唯鐘釣温泉以下の林道のみは、或は車を通ずる大道となるやも測られないと思う。
然し困難と危険とに
反て興味を感ずる登山者に取りては、道の有無などはどうでもよいのだ。
夫で大正七、八年の頃から此峡谷に入り込む登山者が続出した。そして一度此峡谷に足を踏み入れた人は、其困難と危険とを説かないものはない。かく黒部遡行が容易でないのは、両岸の峭壁が高いので崖上を通行せんとすれば断崖に支えられ、汀を辿らんとすれば水深く且奔湍激流をなして、
徒渉も架橋も或場所を除くの外行い難いことが大なる原因をなしているのである。
今其遡行の大略を記して見ると、欅平で祖母谷林道と分れ、黒部本流の左岸に沿うて
蜆谷に至り、蜆坂の険を上ると対岸に奥鐘釣山の大絶壁が見える。濳戸の急坂を下りて河原に出た所は仕合谷である。それから山の鼻を
踰えて折尾谷に出で、更に急坂を上下して餓鬼谷の出合に達する。ここで河を渡って右岸に移れば暫く河を渡る要がない。
若し其
儘左岸を遡るとすれば、アゾ原を経て仙人谷に至り、此附近で是非とも右岸に渡らなければならぬ。東谷の瀑の下を横断し、急崖を
搦んで棒小屋沢の出合迄は、甚しき高廻りをせずとも済むのであるが、これから
内蔵助谷の合流点に至る迄の間は、下廊下の核心であるから、殆ど命懸けのへつりや高廻りを幾回となく繰返さなければならぬことであろうと思う。内蔵釛谷の合流点に達することを得れば、
最早危険区域を脱出したので、尚お多少の困難はあっても、
平の小屋までは左岸を辿って面白い旅が出来る。
平から東沢までは全峡中遡行最も容易な場所である。合流点を過ぎて右岸を三、四町行くと川が彎曲している。そこから二、三度崖へつりや徒渉を繰り返して、黒ビンカ下部の岩崖を高廻りし、間もなく口元ノタル沢につくと、中廊下第一の悪場である段々ベツリが現れる。下廊下の険怪を見た眼には気に懸る程でもない。左岸の崖上を高廻りし、徒渉一、二回の後、廊下沢を過ぎれば中廊下は終ったので、これからは奥廊下即ち上廊下の峭壁と淵とが連続しているのである。越中沢岳と木挽山とを連ねている山稜からは、両岸に峙つ赤黒い岩壁と其間を貫流する河身とが相当の距離に
亙って下瞰される。此間は危険の
惧はないが、何回となく困難な徒渉と崖へつり、又は高廻りを行わなければならない。岩苔谷附近からは、さしもの黒部川も普通の谷河の上流とさして撰ぶ所はなくなってしまうのである。この遡行は十日
乃至二週間を要す可く、登山の経験は勿論、崖へつりや徒渉等に極めて熟練した案内者人夫を同伴し、減水期を選び、安定せる天候を
卜して決行すべく、然らざれば成功は望み難いのみならず、困難と危険とに遭遇するものと覚悟しなければならぬ。
黒部峡谷が此の如く
豪宕であり、此の如く険怪であるのは、
畢竟周囲の地勢が然らしむるものであって、両岸の大堤防としては、最高三千米最低二千一百米、平均して二千六百米の高度を有する立山後立山の両山脈を西と東とに控え、そして並行したこの二の大山脈は、頂上と頂上との距離が直径二里乃至四里を超えていない上に、河床から千米
若くは千五百米の高さに聳えている。其上にこの両山脈は大部分花崗岩から成り、更に新火山岩が迸発している所へ、激烈なる水蝕作用が行われて
終に今日見るが如き峡谷を作ったものであろう。
(大正八、一一『東京朝日』)