思い出す儘に

木暮理太郎




 陸地測量部で輯製二十万分一の地図を発行するようになったのは、『陸地測量部沿革誌』にれば明治十七年からで、これは伊能図を基礎とし、各府県調製の地図を参酌校訂して、全国の地図を作り、一般の便に供するのが目的であったという。私がこの図のあることを知ったのは、明治二十三年に上野で開かれた内国博覧会であったと思う。それが大きく一枚に張り合されて出品してあったのを見て、くも詳細を極めた地図があるものかとすっかり感心し、欲しくて堪らず、漸くこれを手に入れて、以後旅行の度毎たびごとに此図を携帯することを忘れなかった。
 しかるに詳細であると信じていた地図も、平地はかく一歩山に入ると一向いっこう役に立たぬのみか、迂闊うかつに之を信用するとかえってひどい目に遭うので非常に驚いた。針木はりのき峠がそうであった、阿房あぼう峠がそうであった。乗鞍はまだしも、御岳のように登山者の多い山にも登路が記入してない。或は無い方が寧ろ人を誤るおそれがなくてよかったかも知れない。戸台から東駒へ登った際にも、途中で尾根を一つえなければならぬと思っていたのが、尾根を登り詰めるとそこが頂上だったので、嬉しくもありまた狐にでもたぶらかされたような感がないでもなかった。これは実測図でも期し難い地形の正確さを輯製図に求める不合理を平気で敢てした使用者に罪があると言われれば一言もないのである。
 初めて金峰きんぷ山へ登って川端下かわはげへ下る折にも同じ憂目を見たのであった。御室では頂上から北に下ればよいのだと教えられたが、地図を見ると川端下は金峰から北に延びた長い尾根の東に在る。それで頂上の東寄りの岩の原が尽きた辺から、ひく偃松はいまつの中を下り始めたが路らしいものはない。偃松の丈は次第に高く、枝が張り出して動きがとれなくなる。引き返して五丈石の下から北に続く細径ほそみちを辿って見たが、これもいつか心細いものとなって、一つの崩れを横切ると灌木の叢中に見失ってしまった。詮方せんかたなく川端下へ出ることは断念し、三度頂上に戻って、谷伝いに何処へでも下りられる処へ下りようと、左手の谷を目懸けて藪を潜り抜け、急峻ではあるが水のない広々した沢の上部に出た。赤土を帯びている岩の表面は、滑り気味で危険に思ったが少し下ると水が湧き出し、岩が大きくなって歩きよくなった、安心して下って行くと右から同じ位の大きさの沢が合している処で左岸に道の通じていることを発見して、それを辿って行く。道は漸く川を離れて大きな落葉松が純林をなしている原に出た。間もなく十五、六戸の人家があったので、聞いて見るとそれが川端下であったのには全く驚いた。原は即ち戦場ヶ原で、落葉松の多いことははるかに梓山の戦場ヶ原に優っていた。その後十四年を過ぎた明治四十二年の秋に南日なんにち君と再び此原を通った時には、この落葉松林も大方は伐採されて、二、三の大木が諸所に散在しているに過ぎなかったが、それすら今は見られなくなってしまった。此時も金峰の登り口が発見出来ないで、私の下った沢を上ったのであった。
 森林に対して無頓着というよりは、其美しさを解しなかった私は、後年嘆賞して措かない梓山の戦場ヶ原も、ただ落葉松の大木と白樺(しらはりの木と教えられた)とが立ち並んでいる間に、子を連れた五、六頭の馬が放牧されていたことを覚えているに過ぎない。原から望まれる三宝さんぽう山の如きも、立山から乗鞍、御岳、東西の両駒ヶ岳、最後に金峰山と、三十日近くも山旅を続けて、帰りを急ぐ私の心を捉えるには、余りに黒木が茂り過ぎていたらしい。昼も薄暗い十文字峠の陰鬱な黒木立は、さっさと通り抜けて、白妙岩の存在さえも気が附かなかったのは、何たる迂闊さであったろう。最初の印象は最も感銘の深いものであるにかかわらず、此時は金峰山を除いて、秩父の山から何等の印象を受けなかったものと思われる。田舎の家からは、朝な夕なに甲武信こぶし三山を始め、破風はふ雁坂かりさかから雲取に至る長大なる連嶺を眺めて、絶えず心を惹かれていたのに。殊に破風の北側で大荒川の水源と思われるあたりに、いつも扇形に積る雪は子供の頃から妙に惹き付けられていた。山が春霞はるがすみの中にぽうと融け込んで、其雪だけがほのかに白く空に浮び出ている時など、不思議な空想が止度とめどなく湧いて来た。一度はそれを探って見たいと思いながらまだ果されずにいる。
 秩父の山々に真に目覚めて、其後の十年余りを登り続けるようになったのは、明治四十二年の五月に南日君と雲取山に登って、残雪斑々たる連嶺が次第に高まりながら、遠く西方に蛇行している姿を眼の前に眺めた時からである。其年の秋には甲武信岳と三宝山とに登った。続いて雁坂峠から甲武信岳まで縦走し、唐松尾に登り、将監しょうげん峠から雲取山までの縦走を行い、大体の地勢があきらかにされたので、大正二年の五月に中村南日の二君とともに、西は金峰山から東は雲取山に至る大縦走を決行することにした。しかるに途中で意外に時間を要した為に、此行も雁坂以東を放棄して栃本に下るの止むなきに至ったが、両門岩の上から、や開けた平坦らしい河原に、並木のように立ち並んでいる浅緑のいろあざやかな落葉松の木立を、東沢の深い谷間に瞰下みおろして、まだ探らなければならない境地の秘められているのを知って喜んだのであった。
 国師こくし甲武信間の縦走に就ては全く苦心した。日本アルプスの縦走は、邪魔な木立がないので意外に容易であったが、此処ここは鬱蒼たる黒木の森林であり、少しも様子が知れなかったので、内心躊躇したのであるが、思い切って決行して見ると、果して予想した通りの困難であった。倒木が多いのと白檜しらべの若木が密生しているのとで、余程注意して歩いても谷へ追いやられ勝ちである。国師から甲武信へ続く尾根への下り口を探し当てるのに一時間近くを要した。両門岩から東は倒木が次第に多くなり、峰頭はいずれも真白にされた立枯の白檜が縦横に入り乱れて、通過を妨げているので、之を潜り抜け跨ぎえるのが容易でない。水止みずしの頂上は最も甚しかった。それらを避けて横を廻ろうとすると外へ紛れ込むので、いやでも其中を通らなければならない。倒木の少い処は白檜の若木が密生して行手を塞いでいる、霧でも懸れば途方に暮れてしまう。二度目に霧の深い日、倒木を避けて富士見の南の峰を少し左へ廻り気味にからんだ為に、いつしか三角点近くまで辿り着き、ふと霧の絶間から三宝山を真東に望み見て慌てて引返した。水止ではこれも倒木を避けて右に捲いたので、まんまと両門ノ瀑へ下る尾根に引込まれたりした。それが昭和六年の夏に久振りで金峰甲武信間を通って見ると、道は改造され、指導標は立てられ、国師の頂上などは周囲の木がすっかり伐り払われて、居ながらにして四方の眺望が得られる。あの倒れかかった一等三角点の大きな櫓に上ってさえ、甲武信方面への尾根の続き工合がよく見られなかったことを思えば、全く隔世の感にたえない。其処には方向を指示する盤面が置かれてあるから、盲でない限り迷う者はあるまい。殆ど十時間を要した道程が四、五時間に短縮されたのは尤である。
 然し十文字峠から股ノ沢の岩峰を踰えて、三宝山に至る縦走を試みたのは、この山旅のもうけものであった。甲武信の側師がわしの小屋に泊って、雨に降り込められた翌日の午後、降りしきる雨を衝いて、大きな油紙を頭から被り、荒縄を帯にして山から下った三人の異様な姿には、流石さすがに村の人も驚いていた。其夜は白木屋に泊って明日の晴れを心に祈ってはいたものの、降りが強いのでみそうには想えなかった。それが午前四時に眼が覚めると一点の雲もない快晴である。前の川で顔を洗って来ても二人はまだ寝ている。「オイ、山へ行かないのか」と大声で呼んだので、二人とも驚いてはね起きた。直に甲武信から旅を続けることになったが、幾度も通った同じ道を辿るのは面白くないと、代りに選ばれたのがこの尾根であった。尾根はせていて迷う憂はないけれども相当な藪である上に、登降が激しいので、三宝山の頂上まで約五時間を要した。
 尾根には六つか七つの隆起がある、其中の三つは岩峰で、第三のものは最も高く、五万の地図に岩壁の記号と二二九〇の標高が記入してあるものがそれである。筍のように聳立した狭い頂上からは、入川いりかわ谷の全貌を一眸いちぼうの中に収め、秩父連峰は勿論、八ヶ岳から奥上州方面の山々まで望まれるので、十文字峠途上の白妙岩と伯仲する好展望台であるのは嬉しかった。今年この尾根に林道を開鑿かいさくしたとの事であるが、それは恐らく頂上を通過するものではなく、甲武信小屋と十文字小屋とを連絡する中腹の道ではあるまいかと想像する。
 梓山の戦場ヶ原の落葉松が売物となって、間もなく伐られるであろうということを村人から聞かされたのは其頃であった。落葉松が伐られては、戦場ヶ原の美しさもなかば以上を失うであろう。昼も兎の子が遊び戯れ、郭公かっこうむせび、雉子きじや山鳩が鳴き、栗鼠りすは木から木へと跳びはねている夢のような戦場ヶ原の面影は、見るも哀に変り果てることであろう、惜しいものだ、何とかして保存の方法はないものかと皆胸を痛めた。村の人は三千円あれば伐らずに済むという。それで高頭たかとう君を煩わして之を買占めることに相談を決めたのであるが、さて其後の保存方法や村有である土地のことなどを考えると、土地をも併せて買い取らなくては、安全でないということになって、話はそれきりになってしまった。くて落葉松は次第に失われて、白樺のみ残されている。しかし幾年か経てば、芽生えの落葉松も成長して、昔と変らぬ戦場ヶ原の面影が見られるようになるのでもあろうか。すべては気長に時の来るのを待つことである。
 破風山は、甲武信以東に在りて最も高山相を呈している山である。殊に頂上の西南から西北の斜面にかけて、米栂こめつが、黒檜、白檜などが多少の偃松も交って、石楠しゃくなげ岳樺だけかんばなどの闊葉樹と共に、矮い灌木状をなして巨岩の上に密生しているさまは、磊※らいら[#「石+可」、U+7822、321-8]たる嶄巌ざんがんを錯峙させている南側よりも寧ろ私は好きである。斯く豪宕ごうとうなる景観は、金峰山にも見られぬ程である、或は霧の間からのみ眺めた私の贔屓目ひいきめかも知れぬとは思うが。
 この斜面を霧のめた日に始めて下った折には実際困難した。何処を覗いて見ても、同じような斜面が霧の間から隠見するのみで、足の踏み出しようがない。二時間も探し廻った末に漸く倒れ朽ちた国境の標木を見出して、辛くも木賊とくさ山との鞍部に辿り着くことを得たのであった。この標木は一と握りあるかなしの細い木を三尺程に切って、側面に査何号と書し、頭に三寸ばかりの釘を打った杭で、およそ三十間に一本位の割合に建ててあった。切明けの不明な処では、この標木が唯一の頼りであるから、見失わぬように注意しても、余程前に建てたものと覚しく、完全に保存されているものは少ない。中には立木を伐って代用したものもあった、それでよく間違えて釘のないのに失望したこともある。特に破風のような斜面では一本として立っているものはなく、皆風に吹き倒されるか雪に押し伏せられるかして、岩の間に朽ち残ったり、木叢の中にけし飛んだりしている、それを探し出すのが容易でなかった。この下りで偃松の生えていることを発見したのも忘られない喜びであった。
 今年の六月私は十七年振りで東沢に入り、金山沢まで伐採の手が延びているのに驚いたが、谷が荒れて明るくなり、鉄砲がかけられ、河床には木の根や木片がうずたかく漂積しているのを見て、嘆声を洩らさずにはいられなかった。これは或は意想外に美事であった石楠とつつじの花盛りに眩惑されたせいであったかも知れぬ。近く西沢の檜を伐り出す為の立派なトロ道も造られつつある。釜沢も一昨年の十一月下旬の大雪に夥しく木が倒れて、あらたに崖崩れを生じ、両門の瀑壺は三分の二も埋もれ、其上流にあったヒョングリの滝は影も形も見えなくなっていた。これは人の力で如何ともし難いことであるにしても、私の胸に秘められた懐しい秩父の面影に次第に暗い蔭がさして行くのは是非もない。破風の登りなども、木は伐られ岩は掘りかえされて、生々しい路が美しい緑の斜面と余りにも不調和な人工の跡をとどめている。またしても霧に捲かれたのが運が悪かったのか、それとも伐られてしまったのか、楽しみにしていた偃松の姿はついに目に入らなかった。これ程までに路を作らずともあるべきものを。
 しかし心配するのは無用か、やがては自然がすべてを調和する時が来るであろう。
(昭和九、九『山と渓谷』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「山と渓谷」
   1934(昭和9)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年5月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「石+可」、U+7822    321-8


●図書カード