紙魚こぼれ

木暮理太郎




大田蜀山人しょくさんじんの『半日閑話』の中に「信州浅間岳下奇談」と題して次の記事が出ている。

 九月(文化十二年)頃承りしに、夏頃信州浅間ヶ岳辺にて郷家の百姓井戸を掘りしに、二丈余も深く掘けれども水不出、さん瓦を二三枚掘出しけるゆへ、かゝる深き処に瓦あるべき様なしとて又々掘ければ、屋根を掘当けるゆへ其屋根を崩し見れば、奥居間暗く物の目不知、去れ共洞穴の如く内に人間のやうなる者居る様子ゆへ、松明を以て段々見れば、年の頃五六十の人三人有之、依之此者に一々問ひければ彼者申やうは、夫より幾年か知らざれども、先年浅間焼の節土蔵に住居なし、六人一同に山崩れ出る事不出来、依之四人は種々に横へ穴を明などしけれども、中々不及して遂に没す。私二人は蔵に積置し米三千俵酒三千樽を飲ほし、其上にて天命をまたんと欲せしに、今日各々へ面会すること生涯の大慶なりと云けるゆへ、段々数へ見れば三十三年に当るゆへ、其節の者を呼合ければ、是は久し振り哉、何屋の誰が蘇生しけるとか、直に代官所へ訴へ、上へ上んと言けれども、数年地の内にて暮しける故、直に上へあがらば、風に中り死ん事をいとひ、段々に天を見そろり/\と上らんと言けるゆへ、先穴を大きく致し日の照る如くに致し、食物を当かへ置し由、専らの沙汰なり。
 此二人先年は余程の豪家にてありしとなり、其咄し承りしゆへ御代官を聞合せけれ共不知、私領なとにや又は巷説哉も不知。

 天明の頃浅間山麓にそれ程の分限者があったとも想われないし、生米をかじり酒を飲んで三十三年も地中に生きていたとも考えられないが、また人の一人や二人が呼吸する程の熔岩の隙間がなかったともいえないので、嘘のようでもあり真実のようでもあって甚だ面白い。しかし事実は恐らく人家に掘当てた話などに花が咲き実が生って大袈裟に伝えられたものであろうか。次は『曳尾庵随筆』の一文で寛政十二年頃のことである。

 日光山中の僧の修験に成たる人の話に、先年日光中禅寺の湖船禅定とて、船にて湖の所所拝礼いたし候処、其船くつかへりて乗合の人数不残湖中へ溺死、其死骸一人もみへ不申候由。又或人中禅寺の山へ女人来候ゆへ捕へ吟味いたし候処、越後より山越に欠落いたし候、山路に迷ひ此所へ来り候由申。元来中禅寺は女人禁制の場所といへ共みちなき処を来りし故、無是非彼女の頭に草履をゆひ付、四つはひに這はせ山を追下し候よし、女には銭一貫文与へ追払ひけるとなり。

 中禅寺湖の水は比重の関係か何かで死体が浮かないので有名であるが、水の性質はその頃も今も変りがないと見える。女は越後からどう山越しをして来たか、欠落者のやかましかった当時、随分苦しい山旅を続けたことであったろう。頭に草履をゆい付け、四つ這いに匍わせて山を追下したのは頗る滑稽であるが、これは禁制の山へ上ったのは人間ではないのだという意味からであろう。

 下野屋十右衛門を祗闌といふ、大山参の納太刀を三間半程に拵へ、所の若い者四五十人に揃のゆかたみな/\に着せ、掛念仏にて大通り芝口より高輪へ差かゝり、自分は好のゆかた鮫鞘の大腰差て、ふとん重ねたる駕に乗り左右の戸をひらかせて、先達してほどなく品川の宿入口にさしかゝる比、跡より召捕の御役人方来りて、祗闌を駕より引ずりおろし高手小手に縄を掛、同勢引返されて早速入牢に及ぶ、余り大行成事身分不相応の旨御咎を蒙り、しばらくが間牢内に居るこそ珍らしけれ。

 弘化三丙午春弥生の序ある『十八大通だいつう』の「大山参納太刀」の一項である。大小の会旗を押立て振立てヨイショヨイショと山へ押出す心持と古今の差こそあれ変りはない、祗闌氏生れ時がわるくてお気の毒であった。

 駿州富士山并相州大山参詣の者共御当地より東海道神奈川宿辺迄海上船にて罷越候に付、旅籠屋并商人共助成薄く難儀致候に付、船往来差留之儀品川宿より願出候。右躰御当地より乗船致し神奈川宿辺え着船致候儀は、脇往来も同様之儀、是迄迚も海辺附村々え船往来差図(留か)之儀度々触有之候。御当地河岸々の船持共、右之段相心得不罷在候ては心得違之儀可有之、已来右躰之旅人は品川宿入口八ツ山下船着場限り上陸致し、神奈川宿辺迄乗船為致候儀は堅致間敷候。

 文化二年、江戸町年寄三人の中の喜多村方で申渡した奉行所からのお触で、『撰要永久録』に載っている。富士や大山に参詣する者共は、江戸から神奈川迄船で行くことはまかり成らぬ。それは本道筋を離れた御法度の脇往来にひとしいものだ、左様心得て居らぬと飛んだ災難に遭わぬとも限らぬぞと暗におどしている。海道筋の泣言がお取上げになって、一の乗物を奪われた旅人こそいい面の皮である。これも今の登山客誘致に大童おおわらわとなっている鳴物入りの宣伝にうっかりつり込まれ、出かけて見ていやな目に遇うことがあるのと較べて見るのも一興であろう。
(昭和八、一〇『日本山岳会会報』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「日本山岳会会報」
   1933(昭和8)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年1月16日作成
2019年12月8日修正
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