昔からお談義を聞かせるのは大抵老人と
極っているようで「またお談義か、うんざりするな」というようなことは、日常見聞する所であります。事実、相手の好むと好まざるとを問わず、聞かせたがるのが老人のお談義でありますから、私の話題を「登山談義」ときめた石原さんは、誠に気の利いた題を選んで
呉れたものと感心したのでありますが、聞く皆さんの方では、さぞうんざりすることであろうとお気の毒に存じます。
正直に白状すると、私は比較的多年山に登って居りますが、友人の
田部君や
其他の多くの人人のように、登山の意義とか、山は如何に自分を影響しつつあるか、或はあったか、というような哲学的見地とでもいいますか、そういう思想上の方面から登山を観察して見ようとしたこともなければ、
況して科学的研究などは、全く自分の柄にないことで、出来ないことには一切手を出さないことにしています。こうした登山ではいくら登山しても、其内容は極めて貧弱であるに相違ありません、ですから登山界に何の貢献する所も無いのは当然で、有らゆる物に徹底しなければ満足し得ない今の世の中には、不思議にも間抜けた存在でありますが、それにも
拘わらず山が好きで、山を謳歌し山を楽しんでいることは、昔も今も変りがない。広い世の中に私のような登山者が
若し有りとすれば、余所ながら同病相憐んでいる次第であります。
しかし私とても如何して山が好きになったのだろうか位のことは、考えて見たことがなくもないので、多分これは曾て日本山岳会の小集会で「誰にでも山が好きになれる素質があるものだ」と尾崎さんが言われたように、素質と環境との
然らしむる所であったように思えます。私の故郷には、一里程離れた処に二、三百米の丘陵地帯があるのみで、一番近い赤城山でも六里離れていますが、村から見られる山は東京には及びませんが
可なり多数で、男体、
皇海、
袈裟丸、
武尊を始め小野子、子持、榛名、浅間、妙義、荒船、
御荷鉾、秩父連山等は言うに及ばず、八ヶ岳の一部や蓼科山も望まれ、
又上信上越界の草津白根、横手、岩菅、白砂等も、五月頃まで白い雪の姿を見せています。富士山は残念ながら見えませんが、一里
許り東の方へ行くと、武甲山の左で三ツドッケの上の辺に頭を出します。
唯東南の一角だけは山を見ない。勿論山の順礼に経験ある村の古老といわれる人でも、
尽く
此等の山を的確に名指し得る訳ではなかったので、後になって私が確めたものもあります。此等の山々が持つ怪奇な語り草と、様々な形態と、朝夕に変化する色彩とは、遠く離れて眺める為か一層深い秘密の権化として、私の小さい好奇心を
唆るに充分でありました。
其頃の農村は今の如く窮迫せず、至って平和で、女達までが重詰などを
拵えて丘陵地――土地では山と呼んでいます、尤も平地の林をも田畑に対して山と称していますが――へ春は
蕨採り、秋は茸狩りに行きました。
之に同伴するのがまた楽しみの一つで、蕨や茸を採ることよりも、山に登るということの方が私には嬉しいのでありました。恐らく其頃から登山が性に合っていたのではないかと考えます。
高い所へ上る興味は子供の時の木上りにも見出されます。恐らくどなたも経験あることと思いますが、これは小さな冒険心と向上心との現れとでも申しましょうか、『日本風景論』にも「楼に上りて下瞰す、猶ほ且つ街上来往の人を藐視するの概あり」と、登山の快味を論ずる冒頭に書いてあります。けれどもこの優越感に浸る点では、二階に上るよりも木に上った方が優っていると思いますが如何でしょう、つまり二階では木に上るほど冒険心と向上心とがぴたりと満足させられないからではありますまいか。私どもは学校の帰りによく木上り競争をしたもので、一度百尺近くもある
櫟の大木に攀じ上ったまではよかったが、下を覗くと木の周りにいる仲間の子供は小さい頭だけとなり、頭から手が出、頭が歩いているように見えたので、変な気持に襲われ、急に恐ろしくなって下りることが出来ず、大人に助けられて下ろして貰ったことがあります、これが山なら遭難という所でしょう。
話が飛んだ横道に逸れましたが、私が初めて登った山は赤城山であります。湯ノ沢へ湯治に行く祖母に連れられたのでたしか六つの時でしたから、恐かった天狗の話や、大洞で山の上の湖水にびっくりしたことや、氷倉からどんどん氷を背負い出していたことなどの外に覚えがないので、これが後年山好きになる助けとなったかは疑問であります。次は十三の年に富士へ登りました。今ならば九つで富士へ登った女の子も有り、十一で小槍の岩登りをやって、気焔を吐いた男の子もあり、少しも珍らしいことではないでしょうが、其当時としては
稍々物好きに近いものでありました。私の村には富士講と御岳講とがあって、私の家は御岳講でしたから、未だ御岳へ初登山も済まさぬ
中に、他講の富士山へ登ることは許されないのですが、丁度同年である村の少年が行くので羨しくて堪らず、余りにせがむので、遂に子供の事だから差支あるまいということになって、先達から同行を許されました。私の村の富士講には妙な風習があって、道中水を飲むことが
行の一となっていました。御岳講の方では水を浴びるのですが富士講では水を飲む。如何してそんな風習が生じたかは、古老の歿してしまった今日、遺憾ながら知る由もありません。先ず最初の日が一杯、次の日が二杯と順次に増して、最後に吉田を立ってお山に懸る日には五杯飲むことになります、それも朝食が済んでいざ出発という際に飲むのだから
可なりこたえる。尤も朝飯は
成る
可く早く済まして、支度は成る可く
緩りするという手はありました。先達は紐の付いた木製の椀を腰に下げていました。今のアルミの水呑はそれから思い付いた物かも知れません、約八
勺は入りますから五杯で四合はある、
夫れを一気に飲むので、
予め水を飲む稽古をして出たものです。初登山では御岳でもそうであるがお鉢廻りは許されない、夫れを強いて先達に頼んで特別に許して貰えたのは子供だから
罪咎がないという訳だったと思います。此時の印象として割によく残っているのは、体に直接影響を受けた石室の
雑沓、飯が
不味いので強飯を食べたこと、甘酒が旨かったことなどで肝心な山の方は極めてぼんやりしています。
唯八月
半の晴天続きであったから、眺望はよく、四囲の山という山は殆ど
一眸の中に収った筈で、其中の一をあれが赤城山だと教えられて成程と思ったことや、殊に生れて初めて海を眺めた喜びも記憶に存しています。又遠望の単純であるに引替えて、実際は甚だ複雑であることに強く心を打たれました。
富士登山に依って得た私自身の結論は極めて簡単で、山登りが
益々好きになったという一言に尽きます。それも唯うんすうんす高い処に登るのが好きになったので、登山の真の面白味が解って来たのは、ずっと後の事であります。若し此頃適当の指導者があって、相応の訓練を受けて居たならば、いっぱしの登山者になれたであろうものをと、つい愚痴もこぼし
度なるのですが、若しも小さな好奇心や冒険心を満足させる手段として、登山が最も適していることを発見したものとすれば、偶然ながらこれは大手柄であったかも知れません。
其後私は学生時代に随分多くの友人を引張り出して山に登りました。自分の趣味を人に押売しようとしたのです。場所は仙台でしたから、西北五里許に在る泉岳という千二百米足らずの山が、土曜から日曜にかけて誹向きの山で、途中で野宿して翌朝頂上に登り、奥羽国境山脈の山々を眺めて下山する。四月頃は可なり長い雪渓の上を滑り下ることも出来、其時は誰も愉快愉快と言わぬ者は無かったが、実際山が好きになって後まで登山を続けていた者は二、三人しかありません。其中の一人は如何したはずみか、すっかり瀑の礼讃者に変ってしまって、一夏
称名、平湯、白水と云うような私が名も
碌に知らなかった瀑を探り、糸魚川街道を松本に抜け、立山、後立山両山脈の高峰を目睫の間に眺めて、夏も残雪の非常に多い山のあることを知り、南ゴリウ、北ゴリウという特異の山名を覚え、帰来寄宿舎で顔を合せると、得意になってそういう山を知って居るかと聞かれて、大に閉口しましたが、登ったのかと聞くと、いや登らなかったというので、それが自慢になるものかと、
僅に一方の血路を開いてホッとした形でした。『日本風景論』が未だ出版されぬ時でしたから、応酬の仕様も無かったのであります。其山がどの山に当るか不明ですが、南ゴリウは或は鹿島槍ではないかと思われます。もっと根掘り葉掘り聞いて置けばよかったと後で気が付きました。尤も詳しく聞いた所で私に少しも其辺の知識がないのだから到底分る筈はありません。この男も肺を病んで先年八丈島で亡くなりました。其外に今残っている東京での最初の山友達としては、海の礼讃者であった田部君で、其後同君が登山界に
齎らした大きな功績は、どなたも御存知の通りであります。
古く山行を
倶にした私の友人が
終に山が好きになれなかったのは、
確に山に登る労力がくだらぬものに思われた為に相違ありますまい。其労力に堪えて山の真味が解る迄に至らぬうちに、途中で挫折してしまったものとしか思われない。吾々でも骨の折れた割に面白くなかったとはよく言うことですが、それが為に其後の登山を止めようとは夢にも思わないのは、既に面白かった幾多の経験も持っているからで、今から三十五、六年前の人はそうでなかった。信仰を離れた単なる趣味の登山であって見れば、時代という大きな背景の力の前には、
折角恵まれた素質はあっても、充分に発育す可く余りに抵抗力が弱かったので、其点から言うと今の人は非常に幸福であると思います。流行というと語弊がありそうですが許して頂くことにして、それが人心に及ぼす大きな影響には今更ながら全く驚嘆せずにはいられません。
そういえば私の小さい村での山巡りの流行――これも少し適切を欠いた言葉かも知れません――が私の登山心を助長するに、少くとも夫れを示唆するに
与って力のあったことは否めないのであります。毎年八月の農閑期になると、富士、御岳、八海山へは必ず二十人
乃至三十人の講中が繰り出し、其外一人のこともあり二、三人或は四、五人のこともあるが遠い処では出羽の三山、大和の
大峰あたり、更に遠くは南部の恐山さえ出懸けた人もあります。近い処では
三峰、
庚申、男体などもありました。勿論信仰の登山であり、山の知識など皆無の人達ですから、山に関しては高いとか低いとか、或は鉄の鎖が何本あるというような、極めて大ざっぱなもので、例えば御岳へ登った人に、附近に高い山はなかったかと聞いても、高い山などは一もない、
唯富士山だけが高く見えたという程度であります。其積りで後に御岳に登った所が、つい鼻の先に木曾駒、乗鞍のような大岳が立ちはだかっているので、唖然としたのでありました。それでも其人達が登山を済ますとお札と土産物を近処に配りながら、
暢気に小半日も話し込んで行く旅の話、殊に怪奇な伝説を取り入れた山の神秘は、私の耳を引立て眼を丸くさせるに充分でしたから、知らず知らずの間に山に対する興味を深めて、登山慾を増長するに至らしめたことは疑ありません。梅干や赤漬の
生薑に砂糖をかけたお
茶請か何かで、四辺かまわぬ高声で主客が話をしている傍で、恐らくポカンと口を開けたまま、一生懸命に聞いている鼻たらし小僧を想像して見て下さい。
この山の巡礼達が地図も無しに、知らぬ土地のお山へ無事に参詣して来られたことは、先達のある場合は別として、知らぬ同志では
嘸困ったことだろうと思われますが、そこはよくしたもので、其道順は一定していて、昼食は何処、泊りは何処と、
度重なって、最後には自然と
御師の
許へ辿り着くようになっていました。又各宿駅の重なる旅籠屋には、一新講、故信講、崇敬講、神風講、関東講などと書いた看板が、地方に
因って講名は違いますが、一軒に少くとも三枚は必ず懸けてある家がありました。此等の講名の大部分は、其名を負う講中が泊る常宿であることを示す為に採用したもので、稍々局部的であった観があります。例えば神風講は伊勢参宮、崇敬講は多分金比羅詣の講社であったかと覚えています。一新講は一新講社とも書き、広く各地に
亙った純然たる宿屋組合で未だ調べた訳ではありませんが、明治十四、五年頃に出来たものではないかと思います、この看板を掛けた宿屋が各駅に少くも一軒は有りました。
一新講の宿屋に泊ると、初旅の人には街道筋の講中の宿屋の名を載せた、三五版十枚許りを横綴にして、表紙には赤丸の中に開の字を白く抜き、其下に一新講社と書いた帳面に、泊った宿屋では其名の下に判を捺し、次に泊る可き駅の旅籠屋へ宛てた案内状(私はそれを送り状と呼んでいました)を添えて渡します。小荷物などと違って、自分の送り状を自分が持って行くのですから、途中で紛失する憂も、間違って配達される心配も絶対に有りません。案内状には、
此御客様御案内申上候に付御入宿相成候はゞ御大切に御取扱之段御願申上候以上
とか、或は
此御客様御さし宿仕候間御着の砌には万事不都合無之様御取扱のほどねがひ候也
というような添書がありました。又行先の宿屋から版にして配ってある刷物を渡すこともあって、それには
私方より宿引差出不申若外宿引のもの旅人体になり私方を悪しく言ひ外宿をしんせつらしく御すゝめ申か又人力ひきも右様に申候共決て御取上なく御投宿冀望候也
という注意書きなどもありました。こうして安全に目的地へ着くことが出来たし、特に独り旅の場合などは、昔よくあったようにお断りを食う気遣もなく、全く重宝なものでした。帳面には駅と駅との間に簡単ではあるが、名所古蹟などの図が入れてあるので、それらを見物するにも役立ちます。
勿論
渺たる小冊子、紙質が悪いから刷りも善かろう筈はなく、細字は消え失せたりして間違の種を蒔く原因となることもありました。私が木曾福島の蔦屋で貰った中仙道を京都へ上る帳面には、木曾駒の図があり、
上松からも寝覚からも登れるように書いてあったので、上松から登る予定を変更して、寝覚の床を見物し、翌日駒へ登ったのでありますが、其図に頂上に池があって玉池と書いてある。さて登って見ると小屋はあったが池は無い。それで農ヶ池を見て、てっきり之が玉池であると思い、駒ヶ岳の紀行を学校の雑誌に載せる時、其の通りに書きました。後に山崎博士の『大日本地誌』を見ると、其文が少し訂正されたのみで、木曾駒の項に引用されているので大いに恐縮したのです。
然るに山の会で此話をして帰京した後、十月になって
偶々別の帳面が出たので調べて見ると、夫には玉岳、ノワカ池と並べて書いてあります。私の見た帳面は玉と池の二字の外は磨滅していた為に、
粗忽にも農ヶ池を玉池と早合点したものであることが判明して、重ね重ね恐縮に堪えない次第ですが、夫にしてもノワカ池のワの字はウの字の点がかすれたものとは如何しても見えないから、ノワカ池が正しく、夫がノウに転訛したものかも知れません。尤も金懸岩と思われるものが金指岩となっているから、今の称呼が正しければ、帳面は誤っていることになります。上述の様な間違を起すことが稀にはあっても、
兎に
角慣れぬ旅をする人に取りては、輯製二十万分の図よりも頼りになるものでありました。
斯様な講は私の村だけに限らず、広く各地に亙りて組織され、各講中の信徒は、登山の経験ある先達に引率されて、団体登山を行った。面白いことには、此先達なるものは、社会的には最も位置の低い人に多かったことで、可なり厳重な不文の約束が習慣的に墨守され、一度団体に加わった以上は、貴賤貧富に拘らず、社会的の地位如何に関係なく、一切平等であって、先達の言葉は命令であり、之に違背することは許されなかったのであります。其仕度といえば、お山の大きなスタンプがべたべた捺してある例の白装束で、無論この大事な装束を洗濯する筈はないから、汗臭芬々として馬車にでも同乗しようものなら、全く辟易せざるを得ない。汽車が通じてからも運悪くこの連中と乗合せて、弱らされた経験のある人が少くないと思います。之を行衣と唱え、先達以外の人は道中だけは平服も許されていたが、山へ懸れば皆この行衣に着替えました。此頃でも未だ時々見懸けます。田舎の講中は左程でもないが、都会の団体は勝手放埒になって、先達に過去の勢力なく、汗臭くない代りに飲む騒ぐで、乗合の者は全く迷惑する。真面目な信仰的登山が衰えて、気散じな遊山気分の旅と変ってしまった以上は止むを得ない事です。尤も昔の登山だとて宗教的ではあったが、お山というものを離れて考えれば、享楽的気分がない訳でもなかったのですが、今は宗教的色彩がずっと淡くなって、享楽的気分の方が
遥に多くなったのであります。
斯うして此等講中の人達は、十数日或は幾十日に亙る長い旅を続けて山を巡礼したので、目星しい山は皆登られていました。唯近年日本アルプスと称せらるる山の一部のみが、其
儘に取残されて明治時代に至ったようなものの、若し徳川時代あたりに昔の開祖のような豪雄不撓の僧侶があって、相続いで新らしい山を開き、熱心に布教宣伝していたならば、恐らく彼等の足跡を印しない山は残っていなかったろうと想像します。吾等に取っては、
勿怪の
幸でありました。
茲に注意す可きことは、此等の登山は殆ど平民に限られていたことで、都の殿上人や歌人などが富士山を見物するのにさえ大騒ぎをしている間に、平民はどんどん諸方の山に登っていたのであります。この平民の団体登山が斯くも
盛に行われたことは、信仰の力に依ることは勿論でありますが、我国の夏山の登山が容易であるということも、民衆的団体登山の早くから行われた最大の原因であると断言して差支ありますまい。
団体登山が行われて、年に幾千幾万という多くの登山者はあったが、一定の通路以外に山が荒らされるということは無かった。例えば途中の用便にも穴を掘り紙を布いて用をたし、跡を綺麗にして、ひたすら山を汚すことを恐れていました。私は曾て白馬岳の頂上に立って、あの美しい草原が縦横に蹈み蹂られた惨めな有様を見て、哀愁の感が起るのを禁じ得なかったのであります。私どもは祖先が開いて
呉れた登山を新しい形式で続け、更に之を子孫に伝えなければならない、それには余り汚れたものを伝えたくないのは人情でありましょう。
斯様な環境の中に育った私の登山ですから、形式方法とも其殻を脱することを得なかったのは当然で、服装といえば和服に脚絆草鞋、
着茣蓙を纏い、油紙を用意し、荷物を振分けの両掛にして、檜笠の代りに蝙蝠傘を携えていました。藤木さんは之を評されて、武者修行そっくりと言われましたが、昔の旅仕度ですから似た所もあります。
流石に短刀や仕込杖などは、講中の例に
傚って携帯しませんが、幸に何等の異変もなく明治の末年まで登山を続けて、初めて都会の文化式登山の人達と接触したので、山に登る人などはあるまいと思っていたのに、意外に多くの山好きがあることを知って驚きました。その人達が日本山岳会の発起人並びに初期の会員の幾人かであります。
此服装で最も困ったのは山で暴風雨に遭った時で、傘などはさせないから茣蓙と一緒に丸めて腰にさし、油紙をしっかりと体に纏い付けて風雨を凌ぐ、これより外に方法がありません。戸台から甲斐駒に登った時一番ひどい目に遭いました。よく遭難しなかったものだと今でも其時の事を思い出します。野宿は大抵頂上と極めて翌早朝に於ける山上の大観を
恣にすることにしていましたが、これは又一方に於て陰鬱な森林の中に寝るよりは、開豁な頂上で寝る方が寒くとも安心して居られた為もあります。食料としては大きな焼き握飯を場合に依っては三日分も背負い歩いたことがありますが、この厄介さ加減は知らぬ人には想像の外であろうと思います。
長々と
雑駁なお談義を続けましたが、私という者を媒介に其当時に於ける登山の有様の幾分でも知って頂いて、何かの折の御参考ともならば望外の幸であります。
(昭和一〇、一一『山』)