二、三の山名について

木暮理太郎




 この一篇は昭和三年六月十日、霧の旅会創立第十周年紀念大会の席上で述べた話の原稿を纏めて、改訂増補したものであるが、もとより未定稿であって、ほんの一寸ちょっとした思い付を述べたに過ぎない、わば夢物語に似たようなものであるから、あらかじめ左様御承知を願って置きたい。尚お南洋系語は主として文学博士坪井九馬三氏の『倭人考』にり、仏蘭西極東学校出版の『チアム仏語辞典』『マレイ英語辞典』『馬日辞典』等を参照した。またアイヌ語はバチェラー氏の『アイヌ語辞典』に拠ったものである。その他に朝鮮総督府編の『朝鮮語辞典』、ルザック出版、東洋宗教叢書中の『印度神話』、ジャンネラー・ド・ベールスキー氏の『アングコル』『太洋洲諸島民族志』等をも参酌した。

 我国の山名に就て考えるならば、先ず(一)形によるもの(槍ヶ岳、乗鞍岳、笠ヶ岳、荒船山、鶏冠山等)、(二)形以外の見かけによるもの(赤岳、黒岳、白崩山、黒髪山、青薙山、毛無山等)、などから、(三)地名に基くもの(武甲山、刈田岳、鹿留山、小野子山、筑波山)、(四)沢の名を冠するもの(赤石岳、荒川岳、ひじり岳、上河内かみこうち岳等其例頗る多い)、(五)雪にちなめるもの(白山、白峰しらね農鳥のうとり岳、じい岳、蝶ヶ岳、地紙じがみ山、三之字山等)、(六)神仏に関係あるもの(御岳、神座かぐら山、神奈備かんなび山、薬師岳、蔵王山、地蔵岳等)、(七)岩石、湖沼、温泉等に縁あるもの(六石山、七石山、湯殿ゆどの山、八海山、沼尻山、苗場山等)、(八)方位によるもの(東岳、西岳、あいノ岳、中ノ岳、前岳等)などに至るまで、幾つかに分類することを得るのであるが、特殊のものが無くもない。例せば西湖の北方に連亙れんこうせる御坂みさか山塊の節刀せっとう岳は、大将軍にも刀にも少しの関係もないセットウ即ち小鳥のホオジロの方言から出た名であるというし、又飛信越三国界の蓮華岳一名三俣岳は、熊を打取った猟師が食糧欠乏の為にそのレンゲ即ち肝臓を喰ったので、レンゲバミノ岳というたのが蓮華岳となったので、仏や蓮の花に縁があるものと思うと大間違である。此等これらの山が其伝えを失えば、様々な誤った説が出ることになる。そんな次第であるから、極めて簡単明瞭なものは別とし、後世から古い山名の起源を正しく解こうとするのは容易なことではなく、必ず幾通りかの解釈が試みらるべきが当然で、しかも此等の解釈が一として真実に触れていない場合もあり得る筈である。
 次に述べるところのものは、こう説いても解釈の一になるのではないかと、私の試みた山名考の中から、や面白いと思われる三、五の例を拾い出したものであるが、国語による解釈は、故意に成るく避けるように努めた。これは初めからの目的であったことを申し添えて置きたい。

富士山


 富士山の名は今では我国に来遊する外国人で知らぬ者もない程に有名になったが、国内に於ても昔から厚く尊崇されていたことは、かの山部宿禰赤人の不尽ふじ山を望める歌、

天地の 分れし時ゆ かむさびて 高く貴き 駿河なる 布士ふじの高嶺を 天の原 ふりけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行き憚り 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は

や、同じく高橋連虫麻呂の詠める歌、

なまよみの 甲斐の国 打ち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は 天雲あまぐもも い行き憚り 飛ぶ鳥も びものぼらず 燃ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつゝ 言ひもかね 名づけも知らに くすしくも 座す神かも 石花海せのうみと 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日本ひのもとの やまとの国の しづめとも 座す神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不尽の高峰は 見れど飽かぬかも

などによっても知ることを得るのである。これらの歌を見ると、単に外部にあらわれた形態の壮厳さを讃えたばかりでなく、自らの富士山に対する尊崇の心、また富士山を尊崇していたの当時の人の心をも歌っていることが察せられる。『本朝文粋』所載の都良香みやこのよしかの「富士山記」に

富士山者、在駿河国、峰如削成、直聳属天、其高不可測、歴覧史籍所記、未有高於此山者也。

といい、又

其聳峰鬱起、見在天際、臨瞰海中、観其霊基所盤連、亙数千里間、行旅之人、経歴数日、乃過其下、去之顧望猶在山下、蓋神仙之所遊萃也。

といえるは、富士山の崇高雄大なることを説いたものであるが、更に

又貞観十七年十一月五日、吏民仍旧致祭、日加午、天甚美晴、仰観山峰、有白衣美女二人、双舞山巓上、去巓一尺余、土人共見、古老伝云、山名富士取郡名也。山有神 名浅間大神。

といえる記事は、即ちこの神山が神仙の遊萃ゆうすいする場所であることを事実が証明していることを示したもので、富士山を尊崇することに於て赤人や虫麻呂の歌とその意は同じである。白衣の美女二人が山巓さんてんを去る尺余の天に双び舞ったということは、これを笠雲などの生じたものと見れば説明されぬことはないなどとさかしらぶることは、古人の心を知らぬものと称してよい。
 富士山はく古代から渇仰の標的となっていたにもかかわらず、其語原に就ては、良香の頃さえも既に山名は郡名から取ったと伝えられていた程であるから、国学の大家といわれた人達が随分頭を悩ましたけれども、結局適切な解釈は見出されずに終ったのである。
 維新後になって、人類学、考古学、言語学などの研究が始められ、それにつれてフジはアイヌ語のフチ又はフジで火を意味している、即ち富士山が火山である為に与えられた名であると説かれるようになって、漸く成程と人を首肯うなずかせる解釈が発見されたのであった。しかるに山県玉堂という人は『山岳』第四年第三号の雑録欄で、

坪井正五郎、志賀重昂、久保天随の博士学士を始め、アイヌ語に精通せりといふバチエラー氏までが、異口同音にフチは火の義であり、富士山は火山である為に其名を得たと唱道するのは甚しき杜撰の説で、迂闊極まるには驚かざるを得ない。フヂは明にアイヌ語ではあるが、それは雪白の髪を被った老婆の意である、例へば火の神はアベ・カムイといふ可きであるが、土人はさうはいはないで之をアベ・フチといふてゐる、つまり火のお婆さんといふことで、多大の愛敬の意を含む言葉である、丁度千古の雪を戴いた八面玲瓏の富士山の姿がアイヌ達の白髪を被ったお婆さんと似てゐるので、此名山を呼ぶにフチを以てするに至つたことは、一点の疑ふ可き余地がない。

と云う説を発表している。此説によると、アイヌ語の火はアベであってフチではない。だからアベ・フチが略されてフチとなったとしても、眼目はアベではなくフチの方であるから、之を高橋虫麻呂がよんだ

不尽の嶺に零り置ける雪は六月の
  十五日もちぬればその夜降りけり

という歌のように、雪を主とした側から見れば面白い説明であって、一説として傾聴する価値はあるように思われる。
 然しながら、火を親しんで「火のお婆さん」と呼ぶことは、日常取扱われる火であるなら格別、荒ぶる火の山に対して、古代の人がそういう感情を抱いていたかどうか頗る疑わしいもので、寧ろ惶み恐みて崇め尊んでいたと考える方が相応ふさわしくはないだろうか。樺太のアイヌは今も火をフチと呼んでいるということであるし、バチェラー氏の『アイヌ語辞典』を見ても Fuchi, Huchi 共に火とし、同意語としてアベ(Abe)、ウンチ(Unchi)、フジ(Fuji)が数えられ、フチ(Huchi)の項を見ると、祖母、老女、女性の先祖及び火という四の訳があり、特にカムイ・フチ(Kamui Huchi)を挙げて「火の女神」と訳してある、これで見ればバチェラー氏は山県氏が想像したようにフチに老婆の義あることを知らぬ訳ではない。其上『アイヌ語辞典』に拠ると、アベは又時としてアピ(Api)と発音されることがあると書いてある。このアピという語はプイ(Pui)、アプイ(Apuy)、エプイ(※(ダイエレシス付きO)pui)、アフィ(Afi)アプェイ(Apuei)などと多少の相違はあるが南洋系の言葉で、現に馬来マレイ語でもアピと唱えている、国語のヒ(火)もこれから生れたものである。して見ると火を意味するアイヌ語は元来フチであって、アピは彼等が南洋系の移住民と接触した時に取り入れた言葉であると見て差支ないであろう。そして家にあって始終フチを取り扱っている者は、概して戸外の仕事に堪えない老女であるから、アピなる語が取り入れられると同時に、フチは自然と夫を取扱う人の方に移って、遂には老婦人、いては女性の先祖をもフチと称するに至ったものらしい。樺太のアイヌは南洋系の移住民と接触しなかった、或は接触しても稀であったから、今も自分達の言葉フチを用いているのであろう。それで私は富士山はやはり火の神を意味するアイヌ語のフチから導かれた名であるという説に左袒さたんするものである。
 栗田寛氏は『常陸国風土記』に、祖神尊ミオヤノカミノミコトが駿河国福慈岳に到るとある福慈岳に註して、

福慈はフクジと字のまゝに読む可し。寛按にフは火にてクジは奇なり、富士の山は火山なる故に云へり、高千穂をば※(「木+患」、第3水準1-86-5)クシビと云ひ、此はフクジと云ふ、共に奇火の義なり。

というている。然しこれは福慈の解釈であって富士の解釈ではないが、頗る原義に近い説である。
 お富士は白を意味する馬来語のプト(正しくはプティー)から出たのであろうと云う説が明治四十年の『報知新聞』に掲載された「外人の東京観」と題する記事中に見えている。プティーがプチとなりフヂとなることは有り得べきことで、さすれば「白い山」となって前述の山県氏の説と似ている解釈であるが、私は雪よりも火山としての活動の方が原始人に一層強い印象を与えるものと認めるが故に、そして又此地方にはアイヌ族が居住していたことを信ずべき理由あるが故に、プティー転訛説よりも直截簡明なカムイ・フチ(富士の神山)説の方をより重く見たい。
 さて富士の語原はこれで判明したが、富士山に祭ってある神を何故に浅間と呼ぶのか、之がまた私には不可解の謎であった。古人も富士と浅間と一体なることを意識していたことは確かであるが、浅間の由来に就ては富士と同様少しも知る所がない。それが図らずも前に引用した「外人の東京観」の中で造作もなく説明されているのである。今其の大意を抄出すると、

日本の高山の名を考へるならば、火山であつたかと思はれる様に「煙」といふ意義のある馬来語のアサッ(Asap)を冠してゐる山の名が多い、浅間山がそれであり阿蘇山がそれである、富士山に祭つてある浅間も又それに相違なく、即ち富士は「アサマの神の坐ます白い山」に外ならない。足柄山のアシはアサで、ガラは馬来語で荒れるといふ意味だから、「煙で荒れる山」であつて、富士の噴火の為に灰や煙で荒されてゐた為であらうし、日光山をフタアラ山と云ふのはプトガラの転訛で、「白い山で荒れる」事を言ひ表はしたものと思はれる、其他浅間温泉や浅虫温泉も亦煙から導かれたものであらう。

というのである。其の全文は『山岳』第二年第三号の雑録欄に転載してあるから就て参照されたい。
 今でこそ日本語は、主として南洋系のモン・クメール語やチアム語の単語を北方派のツングース系の文法で統一したものであるといわれているものの、明治四十年頃に日本語を南洋系の言葉で解釈しようと試みる人などは、皆無でないまでも極めて稀であったに相違ないから、此の新聞の記事は後日南洋系の言語を研究するに至った機運を作る上に一条の導火線となったかも知れないのである。尤も馬来語が直接日本語となったものは、わずかに五指を屈すれば足りると言われている程で、足柄山のアサガラ転訛説さえ未だ容易に首肯し難いものがあるのに、二荒ふたら山までも馬来語で説明しようとしたことは、調子に乗って深入りし過ぎた、わば実際と適合せぬ解釈である。この煙を意味するアサッにしてもまた敢て馬来語のみに限らず、アス(Asu)、アサウ(Asaup, Asauk)、アターウ(Athauk)、アツッ(Atup)というように幾分の相違はあっても、広く南洋諸民族の間に行われているものである、マは馬来語で現に母を意味しているから、アサマは即ち「煙の母」或は「煙の女神」であるかも知れぬが、古い語であるか否かを知らないし、又南洋系の文法ではマ・アサッといわなければならぬように想う。それはもあれ、浅間は、アサッ、アサウなどから導かれたものであることは殆んど疑うの余地がない。
 斯様かようにしてアイヌ語のフチと南洋系のアサマとが相並びて一の山を呼ぶ言葉となったことは、土地が駿河と呼ばれているだけに興味あることと想う。スルガはツルガと同意語で、チアム語のチュルー(※(キャロン付きC、1-10-29)ruh)即ち雑居人の意から出たもので、アイヌ人を指して呼んだ言葉であろうと云う。そしてアイヌよりも優勢であった南洋系の言葉が神の名となり、アイヌ語は単に山の名として残ったものであろう。其のアサマに浅間の二字が当てられ、いつしかセンゲンと音読されて、ここに富士浅間大明神又は大菩薩となったものである。
「●景信山より見たる富士山」のキャプション付きの写真
●景信山より見たる富士山

 そして各地に存在する何々富士と呼ぶ山、例せば薩摩富士(開聞かいもん岳)、讃岐富士(飯ノ山)、近江富士(三上みかみ山)、南部富士(岩手山)、津軽富士(岩木山)、又は蝦夷富士(マクカリヌプリ)などは、それぞれ山の形が似ている為に呼ばれ、アサマ山もしくはセンゲン山は(上信界の浅間山は磐長姫を祭るという)皆浅間神社を勧請した為の名で、所謂いわゆる遥拝所であるから、婦人や老人にも容易たやすく登れる低い山が多い。又富士見峠と云うのは、其名の示す通りに其処そこから富士が望まれるからであるが、若し浅間神社が勧請してあれば浅間峠と呼ばれる。富士見峠には必ず浅間神社のお宮があるとは限らないけれども、センゲン峠には必ずお宮があるのである。
 ついでにいう。浅間神社は元より山霊を崇めたものであるが、木之花開耶姫このはなさくやひめを祭神とするに至った由来に就ては、近い三島神社との関係を外にして、二の仮説を想像することを得る。一は木之花開耶姫が御子達を生みます時の伝えが火と関係のあることで、『古事記』に拠れば

戸無き八尋殿やひろどのを作りて其の殿の内に入り、土を以て塗り塞ぎ、御子達を産みます時に其の殿に火をつけ、其の火の盛に燃ゆる時に生れました御子の名は火照命ホデリノミコト、次に生れましたのが火須勢理命ホスセリノミコト、其の次に生れましたのが、火遠理命ホヲリノミコト、亦の名は彦火火出見命ヒコホホデミノミコトであつた。

と記してあり、『日本書紀』の伝えもぼ同様である。つ秀麗な富士山の姿は自ら女神を想わしむるものであるから、彼此相俟あいまって木之花開耶姫が火の山の女神として祭られるに至った一の原因であったと思われる。他は富士の裾野に山桜が多く、従って神社の境内に移し植えられて、其の花の盛りが自然と木之花開耶姫を聯想れんそうせしめ、祭神と崇められるに至った原因となったものではあるまいか。『続後撰和歌集』に

四月廿日あまりの比駿河富士の社にこもりて侍けるに、桜花さかりにみえければよみ侍ける
法印隆弁
富士のねは開ける花のならひにて
      猶時しらぬ山さくらかな

とあるのは、此間の消息を語っているものであろう。
 近頃になって富士の語原を、同じくアイヌ語ではあるがフチ又はフジではなくして、プシであると説く人もある。プシは破烈する又は噴火するの意があるから、噴火山である富士にふさわしい言葉であるといえる。現に北海道の地名にも用いられているが、オプシナイ、シュムプシ、モプシ、メナシプシと云うように多く川の名に用いられているのみで、山名には見当らぬようである、尤も詳細に調べたならば或は発見するかも知れない。樽前山の北にフップシヌプリという山があるけれども、之は噴火には関係なく、トドマツある山の意である。
 又阿蘇および浅間もアイヌ語で、阿蘇はアソー即ち噴火口の意、浅間はアソーオマイ即ち噴火口ある所の意であるという。九州北部にもアイヌの居た跡はあるが、倭人の方がはるかに多かったので、アイヌ語が熊本地方の火山の名となる程勢力があったとも思われぬが、其の考究は他日に譲り、一説として追補して置くことにする。

御岳(木曾)


 御岳は各地に多い山名の一であるが、普通にはミタケと読み、オンタケと呼ぶのは木曾の御岳位のもので、他にその例を知らない。恐らくこれは天明年中に覚明かくめい行者が黒沢口を改修してから登山が盛になり、オンタケと唱うるようになったものと想われる。神のいます山または鎮座する山という意味でミタケと称することもあれば、岳そのものを神と崇めて御岳と称することもある、木曾の御岳は後者の例であるらしい。いずれにしても本来固有名詞ではないのである。
 御岳の祭神は判然しない。私は未だ見たことはないが、『御岳神社由来記』という本があって、それると祭神は大己貴命おおなむちのみこと少彦名命すくなびこなのみことで、宝亀六年に社殿を黒沢口に造営した。しかるに其後僧空海が登山して本地垂迹すいじゃくを説き、大己貴を座王菩薩、少彦名を薬師如来の垂化現出であると唱え、二仏を山上に安置して御岳山座王大権現と称したとのことである。宝暦七年十二月に松平秀雲の編纂した『吉蘇志略』には黒沢の条に

神祠(御岳権現祠)乃祀御岳也、俗謂之里宮、有本社若宮二祀、古称安気大菩薩、伝云延長三年鎮座。云々。

とあり、これで見ると御岳神祠は山そのものを祀ったものであることは明かであるけれども、安気大菩薩とは如何なる神か仏かまだ判明しない。ただし安気は安喜と書いたものもあるからアンキと読むのであろうか。
 延長三年の鎮座とすれば宝亀六年よりおくるること百五十年である、この二の所伝はどちらが正しいか判断に苦しむとはいうものの、『信濃宝鑑』所載の至徳二年(南朝後亀山天皇の元中二年)及天文二十三年の鰐口の銘には、

木曾黒沢大菩薩若宮殿鰐口也
   至徳二年乙丑六月十三日
大檀那 伊予守家信

信州木曾黒沢菩薩鰐口也
   天文二十三年甲寅六月十五日
大檀那 木曾義在
同  嫡子義康
神主 太四郎久次

いずれも菩薩とあって権現とは書いてない所から推して、『吉蘇志略』の伝えが真に近いように想われる。察するに『由来記』は徳川時代に大和の金峰山きんぷせんに倣って、蔵王権現と改称した時に作ったもので、座王も蔵王と書くべきを故意に座王とし、空海に仮託して古いもののように思わせようとしたのではないかと考える。この御岳山蔵王大権現の称は今も普く行われている。
『由来記』は又、御岳祠に専任の神職がない為に、神への勤めが疎略になることを深く憂いて、木曾伊予守家村が諏訪神社の神職に懇請し、下社の武居大祝重家の二子重晴を黒沢に移住せしめて神職としたと説いているが、『諏訪旧跡志』には

夫信州木曾御岳山禰宜職者、重々由来因之、諏訪下之社武居大祝宮内大輔重家定此之禰宜職処也、則同名以武居宮内少輔重晴禰宜職、為後々末代此一書為証文、依而如件。
徳治二丁未六月十三日(後二条天皇 六百二十一年前)

とあって家村の懇請というよりも、何か特別の関係で重晴が神職となったものらしい。勿論この文書も疑わしい点はあるが、暫くこれに従うことにする。今も黒沢口の神職は武居氏である。
 御岳を祀った宮は黒沢のみであったことは、『吉蘇志略』に

〔御岳〕是信濃一州大山也、西野、末川、黒沢、王滝等諸村皆其麓也、然黒沢独奉祀。云云。

とあるので明かである。然し上島の岩戸権現は御岳の別宮であると伝えられ、黒沢と同じく毎年六月十三日に諸人御岳に登る時、祠宮が前導するのを例としていたというから、王滝からも細径の通じていたことは疑いない。昔は登山も厳重で、百日の精進をなし、六月十二日の夜から十三日にかけて登山したもので、『集古文書』の木曾長政の願文が之を証している。其時姓名を木牌に書いたものが黒沢口の里宮の宝物になっているとは『吉蘇志略』の説く所である。

木曾長政願文 集古文書巻四十七
御岳為精進当郷百日在郷諸願成就皆令満足候事也
為後日一筆如件。
于時永録三年庚申林鐘(六月)十三日
源朝臣木曾   長政 判
御伴之人数
上松彦十郎  旧里熊蔵
千村鶴若   原新次郎
原右京亮
千村幸七      強力 弥三郎
原惣八左衛門尉   白衣 八郎左衛門
旧里主水丞     馬飼 源五郎

永録は永禄で、三年と云えば桶狭間合戦の翌年である。これで見ても御岳登山の古いことは知れよう。けれども御岳登山の盛になったのは、天明五年に尾張国春日井郡の覚明行者が藪原の杣長九郎等十三人の労力奉仕に依りて黒沢口を改修し、寛政四年に武蔵国埼玉郡の普寛ふかん行者が王滝口の山道を修造して、共に中興に推されてから以後の事である。

白山


 白山は越のシラヤマと呼ばれていた。ハクサンと音読されるようになったのは後のことである。それがシラヤマと呼ばれた訳は、誰も知っての通り冬季降雪量多く、従って夏も多量の残雪を有する為である。治部卿通俊の

おしなへて山の白雪積れとも
  しろきは越の白根なりけり

は、此間の消息を歌ったもので、几河内躬恒おおしこうちのみつねが歌に

消えはつる時しなけれは越路なる
  白山の名は雪にそありける

とあるは、白山の名の由来を語るものであろう。斯様かように雪が多いのと同時に火山である此山は、橘南谿たちばななんけい

白山は只一峰にて根張りも大に、殊に雪四時ありて白玉を削れるが如く、見るより目覚る心地す。

と道破した如く、富士山程でなくともどちらかといえば秀麗な山である、太古の住民がこれを女性と見て、白山比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)しらやまひめノ神と崇めたのは無理ならぬことである。シロは米をきしらぐことをいう南洋系の語スラウと関係ある古い国語で、太陽を指すシラシラ又はシナシナなどと同語であるという。この白山比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)菊理姫命くくりひめのみこととなったのは、いつの頃からか判然しない。菊理姫命は伊弉諾尊いざなぎのみことが黄泉の国からおかえりになった時、みそぎのことをおすすめ申した神である、従って伊弉諾伊弉冉いざなみの二神が合せ祀られるに至ったことは自然である。そして菊理姫命はもとより女神にいませば、合祀の神も矢張やはり女神であらせられる伊弉冉尊を重く取り扱ったものではないかと察せられる。
 しかるに加州石川郡『白山縁起』や『元亨釈書』などに、元正天皇の養老元年、越の大徳といわれた泰澄たいちょう和尚が始めて白山の頂上を極め、妙理大菩薩の示教を蒙ったことを説いてから『宇佐託宣集』『白山之記』等及び其他の多くの書に種々の説が述べられているが、要するに菊理姫、伊弉冉尊、伊弉諾尊及大己貴命の四神と、妙理大菩薩、十一面観音、阿弥陀如来、聖観音の四仏とに就て本地垂迹すいじゃくを説いたものに過ぎないであろう。白山の衆徒が後に叡山と結託して暴威を振ったことは、『源平盛衰記』其他に詳かである。

立山


 白山と並んで越の名山である立山は、古くはタチヤマと呼ばれていた。万葉の詩人大伴家持は、聖武天皇の天平十八年七月越中の国守となって赴任し、三年目の天平二十年四月二十七日に

天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しゞにあれども 川はしも さはに逝けども 皇神の 主宰うしはき坐す 新河の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 可多加比河の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや 在り通ひ いや毎年としのはに 外のみも ふり放け見つゝ 万代の 語ひ草と 未だ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね

の歌があり、翌二十八日に大伴池主がこれに和して

朝日さし 背向そがひに見ゆる 神ながら 御名に負はせる 天そそり 高き立山 冬夏と 分くこともなく 白妙に 雪は降り置きて 古ゆ 在り来にければ こゞしかも 巌の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちてゐて 見れども奇し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝去らず 霧立ち渡り 夕されば 雲居棚引き 雲居なす 心もぬに 立つ霧の 思ひ過さず 行く水の 音も清けく 万代に 言ひ続ぎ行かむ 河し絶えずは

と歌っている。
 タチは倭人と同族であるサカイ族の語で、立チ上ルまたは起キ上ルを意味するテツッから出たもので、ヤカタのタチ又はタテであるから、立山は即ち館山にて、うしはく神の坐ますその館である山ということで、うしはく神の居ない山は無いのに、此山が独り其名を負うのは、今の言葉でいえば光栄とする所でなければならぬと同時に、立山の偉大さが自ずと知られる。或は又之を立つという本義通りに解しても、池主の歌った通り「天そゝり高き立山」ということになって、矢張やはり山としての光栄を他に山もなげに占めていることになる。此山は雪の多い点では白山と比儔ひちゅうしているとしても、山勢の雄偉なことは一見して白山と区別することを得るので、原住民が之を男性と見て雄山おやまノ神と崇めたことは、白山を比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神と崇めたのと好個の対照と云うべきであろう。しかしこれは白山と立山との競争の第一歩であった。雄山神社の社前に敷き詰められた丸石は、辻本君にると「立山が白山よりも馬の沓一束だけ低い」という口碑に基づいて、登拝者が一寸ちょっとでも本山を高めたい真心からわざわざ麓から持参したものだそうである。
 祭神にしても白山の菊理姫命に対して、これは手力雄命たちからおのみこと、伊弉冉尊に対して伊弉諾尊という有様で、其外山や峰の名、湖沼の名、老女や其伴の女が化して木となり石となったという伝説までも同じである。白山では泰澄和尚が養老元年、夢に天女の告を得て白山に登り、妙理大菩薩に面謁したと説けば、立山では文武天皇の大宝元年に阿弥陀如来が天皇の夢枕に立って、佐伯有若を越中の国司に任ぜよと告げたと言い、其子の有頼が或日立山に猟して一頭の熊を射、之を追いて山深く入ると弥陀三尊が胸に矢を負いてたたせ給うを見て、随喜渇仰して法躰ほったいとなり、慈興じこうと号して立山を開いたという。これは佐伯氏が祠官となった時に作った縁起であろうかとも思われる。かく白山の方が立山より早く開かれたものと考えるのであるが、ここには略して述べないことにする。

月山、鳥海山、羽黒山


 先ず羽前羽後の古名である出羽に就て一考する必要がある。出羽は古くはイデハと呼ばれたのが、後にデハとなったのである。元明天皇の和銅五年(一二一六年前)始めて出羽国が置かれ、それ迄は出羽郡であった。イデハの名義に就ては『地理志料』に

按、神学類聚抄引風土記 本州上古貢鷲之羽用為箭羽 故名出羽国

とあって、鷲の羽を産出したことが郡名の起りであるとされている。勿論鷲の羽の出たことはたしかであるけれども、それは出羽の地に限った訳ではないから、それが地名になったとは考えられない。『出羽名義考』には出端イデハシの意味であろうとある、これは恐らく正しい推定であろう。
 イデハという地名の地元は何処であったかといえば、それはうたがいもなく式内社伊※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)波神社の所在地である庄内平野であろう。イデハのイデは南洋系語のデハヅレの意であるウチ又はイチの転訛したもので、ハはナニハ(難波)のハと同じく平野を意味するチアム語であると思う。そうすればイチハ即ちデハヅレの平野ということになる。のデハヅレは勿論越後方面からいうデハヅレであって、イチハがイツハとなりイデハとなったのであろう。
 此平野の南部を南北に貫流して酒田附近で最上もがみ川に注いでいる川に赤川というのがある。一名を大梵字川とも称し、梵字が水中に現われる為の名であると説いているが、これは大宝寺を訛って大梵寺というた為の附会に過ぎない。赤川という名に就ても説がある。上流に温泉があって水色が赤いからだともいい、また湯殿山の登拝者が源流で垢離こりを取る為に垢川と称し、転じて赤川となったものともいわれている。実際この平野の川には赤土色をした水の流れているものもあるにはある。されど私のかんがえでは之は阿賀川であって、宇賀又は遠賀の川の意であったのが転じて阿賀となり赤となったもの、即ち倉稲魂うがのみたま神を祭った大社が傍にあった為の名に外ならない。『延喜式』には田川郡に遠賀神社が挙げてあり、その地は鶴岡市の南方に遠賀原や稲荷という地名がある所から推して其附近であったろうと想像していたが、宝暦十二年に完成した進藤和泉の著『出羽風土略記』を調べたところ

一、遠賀神社
小寺信正いふ、遠賀神社鶴岡城南稲荷村有、近頃迄土俗稲荷大明神の社なりといふ、近年改め称す、或日遠賀と稲荷と訓通し近き故転訛有之にやと云々。
予詣て社地を見るに式内の社には不相応の地にして尤も遺憾たり、古社地淀河組の内あり。

とありて、推察に違わぬことを喜んだが、『風土略記』の著者が式内の社には社地が不相応であるのを遺憾とし、古社地を淀河組の内にありとしたのは、私にいわせるとそれこそ遺憾であった。淀河組の社というのは、鶴岡市の西南一里ばかりの井ノ岡村の一小丘遠賀山の字伊波手井に在りて井ノ岡大権現と称し、祭神は豊岡比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神、雅(稚のあやまりか)彦霊神、鳴雷光神、大山祗神、高※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神の五神となっているから、寧ろ※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)おがみ神に縁のある社ともいうく、遠賀はオガミの略されたものかも知れぬ。遠賀神社の祭神は倉稲魂神でなければならぬから、土俗稲荷大明神の社なりと唱えていたということは、古伝を忠実に保存していたもので、この稲荷社が式内の遠賀神社たることを証するものである。この神は元来米と粟の神殊に米の神であったのが後に五穀の神と崇められた。
 又鶴岡の西方海岸に加茂町がある、これは小さな港であるが小舟の碇泊には便利である。今此町には加茂の神の社はないが、昔はしかしあったものと考える。加茂はチアム語のハモで稲圃を意味する。現に馬来マレイ語では陸稲のことをフマというている。加茂の神は即ち稲圃の大神である。加茂は諸国に多い地名である。
 なお又瀬戸内海に面した淡路や伊予などの海岸には、福良或は福浦という地名がある、これはチアム語のパクレン(Pakr※(ダイエレシス付きO小文字)n)の転訛で、地方長官というような意味であるという。東京湾の横須賀附近や木更津附近にもフクラと云う古名があった。庄内平野の北端吹浦川の河口にある吹浦もこれと同じ言葉であろうと思う。
 これだけ調べて置いて、さて如何なる民族が此等の地名を残したかといえば、此地方に多かったアイヌ即ち蝦夷人でなかった事は確である。私は之を日本原始民族の一であるチアム民族であったと考える。これはマラヨ・ポリネシヤ系の民族で、フィリッピン諸島の民族と同系に属するものである。この民族は出雲に植民していたのが、出雲派のツングース系民族に圧迫されて次第に北に移り、遂に加茂に上陸してここに稲圃の神を祭り、庄内平野をイチハと呼び、前途を祝して此平野を神と崇めたのがイチハノ神後の伊※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)波神社である。又穀物の神倉稲魂神を赤川の畔に祀り、更にこの平野の東南にゆったりと聳えている月山を対象として、最も尊崇している農業の神月読尊を祀り、月山と相対して平野の東北に煙を吐いて兀立ごつりつしている鳥海山を対象として、恐らく月読尊の祭事の長であった大物忌おおものいみ神を祀りて、此平野に土着し、後に吹浦其他に地方庁を置く迄に発展したのであろう。尚お吹浦の北に在る大師崎はと御崎と云い、そこの三崎神社は祭神素盞鳴尊すさのおのみことであるといわれているから、海原しろしめす航海の神であったこの神は、同じく新移民に依って奉祀されたものと考える。尤も此当時は未だ水田を作る迄に農業が進歩していたとも思われぬので、耕地は畑に限られ、居住地は山寄りの水害の患なき場所であったろう。そしてチアム民族は狩猟よりも農業に重きを置き、アイヌは殆んど農業を知らぬ民族であるから、両者の間に激しい闘争は起らなかったであろう。
 月山は月読尊を祭った為の名であるが、鳥海山の名は古書に見えず、ただ大物忌神とのみ記されていた。其名がものに見えた初めは蕨岡の社の鰐口の銘で、

奉懸鳥海山和仁口一口
右意趣者萩原守重息災延命
加右故
暦応五年壬午七月廿六日  白

とあり、『風土略記』には

大物忌の神山を土俗北の山といふ。鳥海山以前の号にや。

と記し、又

庄内村々夏月参詣の為に講を結び御北講といふ。

とあるのみである。暦応は北朝の年号で、その五年は後村上天皇の興国三年に当り、四月二十八日に康永と改元されている。それが七月になっても遠国の出羽迄は知れなかったものと見える。もあれ南北朝頃には鳥海山と呼ばれるようになったことは確であるけれども、何故に鳥海と呼ばれたのか、信を措くに足る説を知らない。或は鳥海氏が蕨岡の社に勢力を張るに及びて、霊鳥に仮託して縁起を説き、山を鳥海と唱えしむるに至ったのかも測られないが、今は暫く疑問のままにして他日の調査に待つことにする。
 羽黒山は庄内平野の東を限る丘陵の最高所を占め、其処そこに出羽神社が鎮座している。祭神は倉稲魂神となっているが、之は式内社の伊※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)波神社であるから、前にべたようにイチハノ神を祀ったものと思うのである。然るに後になって赤川の畔の遠賀神社は漸く衰微し、伊※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)波神社に詣ずる人が多くなるに連れて、祭神もいつしか倉稲魂神となり、イチハノ神は忘られ、唯社名に存するのみとなったものではあるまいか。大物忌神社の祭神までが同じく倉稲魂神と変ったのも、一方に於ては平野の開拓が次第に進捗しんちょくしたことの傍証ともなる訳である。いずれにしても月読尊を主神とした民族の後継者の心理としてさもあるべき筈といえる。
 然るに中古修験道の勃興と共に、ここでも早く熊野に擬して、羽黒月山湯殿を三所権現と唱え、羽黒を熊野に比し、之より入るを本道とし、湯殿を吉野に比し、之より入るを逆入りというた。それが頗る盛大に赴いたので羽黒山伏の名は山伏仲間に幅を利かすようになったのである。そして山を羽黒と称するに至った所以ゆえんは、権現の使者は三足の烏であるということから導かれたものであることは疑を容れない。其烏もまた熊野権現の使者にならったものであろう。

磐梯山


 磐梯山は古名を石椅イハハシ山というた、それは石椅の神として崇められていたからで、『文徳実録』の斉衡二年正月の条に

己酉。加陸奥国石椅神従四位下

とあるものがそれである。『延喜式』には

[#「王+耶」、U+7458、223-11]磨郡一座小
磐椅神社

とあり。※[#「王+耶」、U+7458、224-2]磨は今は耶麻と書いている。そのヤマなる郡名の起ったのも畢竟ひっきょうこの山あるが為に外ならない。社は現に猪苗代町の北方に立派に保存され、宝物の鏡の銘に

奉懸岩椅大明神    本地御正体一面
右志趣者為心中祈願成就円満乃至法界平等利益所奉□□如件
永仁三年閏二月十八日         藤原氏女 敬白

と記されている。欠字は「依而」の二字であろうか。永仁は伏見天皇の年号であるから、今より六百三十四年前のものである。
 ハシは元来舟のことで、フネは容器をいう意味であったことは、湯フネ・酒フネまたは馬フネなどの例があり、ひつぎのことをもフネというた、天皇崩御ありて玉体を御霊柩に納めまつることを御舟入と申す言葉がこれを証明している。ハシの舟なることは陸と大船との間を往来する小舟をハシケと称することに依りて知られる。要するにハシは水を渡る道具の名で、動くハシと動かないハシとがある。して見ると石椅の神は猪苗代湖に関係あるらしくも思えるが、石舟石橋にしても解釈のしようがない。しかるにハシは横に平に渡すものであるが、竪に上下に渡すものをもハシといい、前者と区別する為にハシタテと呼ばれたものが後の梯子のことである、すると石椅は石のハシタテの略されたもので、山が突兀とっこつとして聳えているところからの名を得たものと考えられる。或は又ハシは南洋系の言葉では道を意味している、例せば三浦半島の走水はしりみずはハシ水で、水の道即ち渡場の意であるから、石椅は天そそる岩の道の意に解せぬこともない。それが後になって訓の同じき梯が椅に代用され、石が磐となり、バンダイと音読されるようになったのは何時いつの頃か判明せぬが、永仁三年以後であることだけはたしかである。

石鎚山


 石鎚山は一に伊予の高嶺ともいい、磐梯山と同じように古名はイハツチであって、頂上にイハツチの神が祀ってあるからの名である。『日本霊異記』巻下には

伊与国神野郡郷内有山名号石鎚山是即彼山有石槌神之名也其山高※[#「山+卒」、U+5D2A、225-11]而凡夫不登到浄行人耳登到而居住。

とし、また『文徳実録』の嘉祥三年五月の条にも

故老相伝、伊予国神野郡、昔有高僧名灼然、称為聖人、有弟子名上仙、住止山頂、精進練行過於灼然、諸鬼神等皆随頤指

とありて、この上仙が後に神野親王と生れ、帝位に即いて嵯峨天皇となったと、その他の種々の怪事と共に記されている、妄誕ぼうたんもとより信ずるに足らない。けれどもこの灼然は横峰寺を開いた石仙聖人と同人で、石鎚山の開拓者であることは疑いない。『霊異記』にると聖武天皇頃の人であるから、この山の開けたのも古いことが知られる。
 イハツチのツチはツツと同じく南洋系語のチュチ(※(キャロン付きC、1-10-29)u※(キャロン付きC小文字、1-10-44)i)で長老を意味し、転じて首長とか頭目とかいうことに用いられ、イカツチ(雷)カグツチ(火の神)タケミカツチ(武甕槌)シホツチ(船長)ナツチ(地酋)等が其の例である。岩山の魁たるものという意味でイハツチと呼ばれた、それは勿論頂上附近の露岩から導かれたものに相違ないであろう。

筑波山


 筑波山は関東の名山である、恐らく東国の人でその名を知らぬ人はあるまい。殊に雪の富士紫の筑波は江戸の詩人墨客が好んで吟咏の題目としたのみならず、遠く万葉の昔からこの二山は相並んで東国では最も多く歌材とされていた。『万葉集』巻九に高橋虫麿が筑波山に登って作った長歌が三首掲げてある、其中で検税使大伴卿に従って登った時の作は

衣手 常陸の国 二並ふたならぶ 筑波の山を 見まくほり 君来ましぬと 熱けくに 汗かきなげ 木の根取り うそむき登り の上を 君に見すれば 男の神も 許し給ひ 女の神も ちはひ給ひて 時となく 雲ゐ雨ふる 筑波嶺を さやに照して いぶかしき 国のまほらを つばらかに 示したまへば うれしみと 紐の緒ときて 家のごと 解けてぞ遊ぶ うち靡く 春見ましゆは 夏草の 茂くはあれど 今日のたぬしさ

というので、筑波の双峰が早くから男神女神として崇められていたことが分る。各地にある二上山というのも二神山であって、二峰相並んで聳立していることを示す。
 筑波の起源に就ては二、三の異説がある。ツクハはツクマ(佃間)の転で、早くから此地方に移住した高天原民族の一派が蝦夷を駆逐して次第に領域を広め、鬼怒川(今の小貝川)流域にツクマを設けて米作を興した。そのツクマがツクバとなり、地名から終に山名となったのであるというのが一説で、又之またこれをアイヌ語の聳え立つ頭の意であるツクパとする一説もある。実際東側の恋瀬こいせ川の畔から西望すると、筑波の双頭は相重なりて一尖峰をなし、鋭く天を刺しているのでツクパ説の出るのも無理はないと思われる。しかし私はこれはチアム語のツクハで、地名から山名が導かれたものと推するのである。
 一体常陸の国殊に筑波山を中心とする山地には、南洋系民族に関係ある地名や信仰の遺蹟と思われるものが少くない、彼等は何処から入国したものであろうか。東京湾から其まま丸木舟で筑波山を目標として河筋伝いに霞ヶ浦に出たかも知れないし、或は陸路を辿ったかも知れない。更に或は九十九里から犬吠埼を廻り、銚子から霞ヶ浦に入ったものとも考えられる。銚子岬角の東端にある黒生クロバイという村名は、察するに其の前面の海中に羅列する岩礁群の名であり、後になって村名となったものと思うが、このハイ又はハエという語は、山陰道出雲地方等日本海岸に最も多く、九州および瀬戸内海にも分布し、紀州の南海岸にも散見する古い韓語で、主として海中の岩礁を指し、稀に岬角等にも用いられている、之を銚子辺に見ることは珍らしく、それが陸上の地名となったことは一層珍らしいのである。恐らく武甕槌神たけみかづちのかみを奉戴して鹿島香取地方を平定した高天原民族の一派が海上から霞ヶ浦に入る際名附けたものであろう。南洋系民族の移住はそれよりも以前のことであると考えるが、彼等は其特色である大蛇崇拝の跡を至る所に遺したものと見えて、常陸の住民には其風習が深く浸みこんで居た。石岡町の西北なる村上村の竜神山、東西茨城郡界の哺時臥ホジブシ山(今浅房山という)の神話、行方郡玉造新田の夜刀ヤタチ神、新治郡の大神オガミ郷(今の西茨城郡の笠間町、山内、那珂等にわたれる地である。なおオガミに就ては両神山の条に述べてある)、及真壁郡下郷谷字八竜神の竜神社、新治郡中村の竜神社等は、すべて※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)オガミ神崇拝の民族が住まっていたことを示している一方に於て、農業の神である月神即ち月読尊を奉洞した民族のいたことも疑いなく、前者はモン・クメール、後者はチアム民族である。
『常陸国風土記』を見ると、茨城郡の条に

郡西南近有河間謂信筑之川、源出筑波之山、従西流東、経歴郡中高浜之海

という記事がある。今は郡名は新治、川は恋瀬となっている。けれども川の中流右岸に、志筑しづくという村が儼存げんぞんしているので、この川が古の信筑川であることが推定される。この信筑という地名は後世師付山、師付の森などいう名所として歌によまれ、『万葉集』巻九の高橋虫麿の長歌にも

草枕 旅の憂を 慰もる 事もあらむと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花ちる 師付の田井に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白浪立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日に 念ひつみ来し 憂はみぬ

として取入れられて居る。それならなぜさして景勝の地でもないこの里がそれ程名高くなって、後迄も伝わったのであろうかと云えば、それは疑いもなく此附近で最も早く拓けた土地という以外に、月の神を祭った大社が曾て存在していたことに基くものと推定するのである。私は最近二度其処そこを訪うて月読社は残っていないものかと探し廻ったけれども、わずかに中志筑に稲荷社あるを知り得たのみで、遺憾ながら目的は果されなかった。農業の神と五穀の神とは全然無関係ではないにしても何となく物足らない。尤も『風土記』にすら夫に就て何の記載もない所を見れば、其当時に於ても既に社は勿論口碑さえも残されていなかったのかも知れぬ。
 シツクという地名は他に淡路、長門、備中、美濃等の諸国にあるけれども、同意語のツクシ即ち九州が本元であったろうといわれている。チアム語シ(Si)は尊称で、ツク(Tuk)は月をいい、シック即ち月の神である。印度では月は太古から農業の神として厚く尊崇され、同じく熱帯の住民であったチアム民族も之を受け継いで来住したものであろう。く志筑の地に月の大神が鎮座していた為に、此平野を月の神のいます平野の意でツクハ(Tuk-ha)と唱えたのが附近一帯の地名となり、地名からして筑波山なる山名が導かれたものであろう。

両神山


 両神山には八日見山の異名があり、また竜神山或は竜頭山とも呼ばれる。この山は遠望した所では頗る怪奇な山容を呈しているが、登って見ると夫程それほどの岩山とも感じないのは、木がよく繁っている為であろう。絶頂は鋸岳といわれている通り岩の痩尾根で、最高所に二、三の石像とその北の少し低い一坪ばかりの平地に三角標石を存するのみであるが、東寄りに五、六町下ると木造のお宮が二つある。私の案内者であった中津川村の山中房吉は、西南に在るのは小森村、東北に在るのはすすき村で建てたもので、両祠とも各其村の方に向けて建てることになっていると話した。しかるに『新篇武蔵国風土記稿』の薄村の部には、

両神明神社 小社ニテ東向、薄白井指両村ノ鎮守トス。所祭伊弉諾伊弉冉尊云々。例祭四月八日、九月十九日。別当観蔵院麓ノ大谷ニ住ス。当山修験、上州緑野郡安中宿天照寺配下。
両神権現社 明神社ヨリ少シ小サク又新ラシク見ユ、明神社後ロニアリテ南向ナリ。コレ又前ニ同ク両村ノ鎮守ニテ所祭二尊ナリ云々。例祭前ニ同ジ。別当金剛院小名浦嶋ニ住メリ。本山修験、入間郡越生郷山本坊配下ナリ。

とあって房吉の話とは多少相違している。白井指しらいさすは白井差とも書し、元は中津川の枝郷であった。今は薄および小森の二村と合併して両神村の中に入っているが、地勢上旧小森村に属すべきである。それで房吉の話が間違っていないとすれば、いつの間にか少しく旧い習慣を変更して、明神社は薄村、権現社は小森村で建てる様になったものと見える。
 く両社とも諾冉二尊を祭ってある所から推察して、私は「夏の秩父奥山」に両神山の紀行を書いた時に「此山に八日見山、竜頭山等の異名はあるが、畢竟ひっきょう両神山より転訛したものであることが分る」と断定したのは、少くとも同じ『武蔵国風土記稿』の河原沢村の条を参照しなかった早合点の致すところで、慚愧の至りである。次に重要な其記事を転載する。

八日見山 村ノ西南ニアリ、登り五十八町、嶮岨ノ高山ナリ。山上ニ竜神大明神社ヲ勧請ス、村中ノ鎮守ニテ例祭九月初子ノ日。神職高野伊賀、吉田家ノ配下ナリ。此神職ヨリ火盗除ノ守護札ヲ出セリ云々。扨此山ハ当村ト薄村ノ両村ニ跨リ、薄村ニテモ山上ニ両神権現両神明神ノ二社ヲ祭レリ。当村ニテハ八日見山ト唱ヘ、又竜神社ヲ祭レル故ニヤ竜神山トモ唱フ、薄村ニテハ両神山ト唱フ、皆文字異ニシテ唱ヘハ同シ。

『風土記稿』の編者は、祭神に就て単に竜神大明神又は竜神社とのみ記して、其所に抄録してある縁起に竜頭大明神と書いてあることに気が付かなかったか、或は気が付いても意味が分らなかった為か、肝心な頭の一字を脱してしまった。これは重要なことであるが、それに就ては後に述べることにする。房吉の話では絶頂から北に下ると竜頭山というのがあってリユウガミ山と称するとのことであった。それは正しく河原沢村の竜頭大明神を祭ってある地点を称したものに相違あるまい。けれども矢張やはりリヨウカミ又はリヤウカミと唱えるのであろう。
 この竜頭という山名を記載した地図を私は見たことがなかったが、本会の記念大会に陳列された吉田君の出品に係る多くの武蔵図の中に一葉を発見したのは珍らしかった、但し著者及出版の年月日を写し取った紙片を紛失してしまったので、ここに紹介することを得ないが、酒井彪三編輯、明治十年八月出版の『大日本一統輿地分国図』の中なる「武蔵」の図にも、八日見山との関係的位置は、甚しく隔絶しているが、あきらかに山名は記載してある。お竜頭大明神の祠は、山の中腹又は頂上にあるのではなくて、鞍部に安置した木造の小祠であることを後の登山によりて知ることを得た。河原沢から望見した所では、其鞍部の西に在る尖峰が竜頭山に当るらしいが、其時生憎あいにく密雲に閉ざされて確かむることを得なかった。
 これよりこれを観れば、河原沢村では諾冉二尊を祭神とする伝えは毫も無かったことが分る。私の考うる所にして甚しいあやまりがないならば、両神山は竜神山しくは竜頭山であって、諾冉二尊には少しも関係なきのみならず、竜神を祭ったというのが古くつ正しく、山名も八日見山と唱える方が原始の称呼に近いと思われるのである。つまり竜神が両神となり、ここに諾冉二尊が奉祀せられるようになったものであろう。
 竜神と云う山の名は各地にあって、中には仏教渡来後に竜神を祭った為にそう呼ばれるようになったものもあろうが、周囲の地名などから推して、原始から引続いた信仰に基くものが多いことも疑う余地がない。近い所では常陸の国府であった石岡町の西北一里許りの地にある竜神山などは其の著しき例である。然し同じ竜神を祭った山でも、八日見又は夫に近い発音を有するものは、他に少しも聞く所がないのである。
 八日見という山名の起原に就ては、河原沢村の所伝に従えば

八日見山ト申ハ、日本武尊東夷征伐ノ時、東国ノ海陸御巡幸有テ、夷賊追伐ノ御祈トシテ筑波山ニ登ラセタマヒ、遥ニ御覧アツテ、衆山相連ナレル中ニ殊ニ秀タル瞼山戌亥ニ当テ有リ、八日以来、見ヘタリト宣シヨリ、山ノ名ヲ八日見山ト名付ケ給フトナリ。

とあり、薄村では

両神山 伊弉諾伊弉冉尊二神ヲ祭レバコノ名アリ、一ニ八日見山トモ書セリ。土人ノ伝ヘニ往古日本武尊東夷征伐ノ時コノ郡中ニカカリ、此ノ山ヲ見給ヒテ通行セシメタマフコト八日ニ及ベルヨシ、故ニ名ツクト云。

ということであって、所伝に多少の相違はあるが、八日の間見えていた為に八日見山と名付けたという点は両者一致している。これはこの山の名が古くはヤウカミと呼ばれていた証拠である。いや、そのヤウカミという名も原始のままでないことは明かであるが、最も本来の呼び名に近いものであると信ずる。然らばこの名の基く所は何であるかといえば、疑いもなくそれはオガミから導かれたもので、※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)オガミ竜とは即ち※蛇うわばみ[#「虫+(冂<はみ出た横棒二本)」、U+86A6、235-8]を指し、仏経でいう竜王のことである。更に語を換えて言えば八岐ヤマタ※(「虫+也」、第3水準1-91-51)オロチである。
『古事記』の所伝に拠れば、伊弉冉尊は神迦具土をお生みになって、それが為に神避り坐した。是に於て伊弉諾尊は御佩みはかせる十拳剣を抜いて迦具土ノ神の頸を斬り給うた。其時迸り出た血からいろいろの神が成り出ましたが、御刀みはかし手上たがみに集れる血手俣たなまたよりくき出て成りませる神の名を闇※加美クラオカミ[#「一点しんにょう+於」、U+28506、235-13]ノ神というとある。『日本書紀』にも幾通りかの所伝があり、皆多少の相違はあるけれども、※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神が火神の子であることは孰れも一致している。そして雷と大蛇と山の神とは同じものであると信じられていたことは、『日本書紀』の雄略天皇七年秋七月の少子部連螺羸の記事や、『日本霊異記』の得雷之喜子強力子縁の話や、三輪山伝説などが之を証明している、これは注意を要することである。坪井文学博士の所説に従えば、闇は蛇を意味するチアム語のクラン(Klan)より出で、梵語では之をナガラジヤ(Naga-raja)と呼び、訳して竜王という。クメール語ではナクラチ(Nakra※(キャロン付きC小文字、1-10-44))と訛っている。オガミは同じくクメール語のカム(Kham)にポリネシヤ語の持格の前置詞オを副えたものであろうということである、カムは国語の噛ムである。するとクラ、ナガ及オガミの三者は共に※[#「虫+(冂<はみ出た横棒二本)」、U+86A6、236-7]蛇即ち竜神を意味する言葉である。ヲロチは同じく蛇の尊称であるチアム語のアラーチェイ(Ala※(キャロン付きC小文字、1-10-44)ei)がヲロチとなって残ったともいえるし、又国語では、霊妙な感じを起させるものを古代人はチと呼んでいた。血、乳、口などがそれである。蛇も亦チといわれ、水に住んでいるのがミヅチ、山に住んでいるのがヲロチ(ヲは峰なり口は助辞)であるともいえる。
 太古日本原住民族の一に自らと称した部族があって、西は九州から東は関東地方にまで居住していたらしい。中にも九州に住んでいたものは、支那の殖民地であった朝鮮の楽浪あたりと交通したので、『魏志東夷伝』に倭人の記事があり、之が九州の住民に関する文献の最も古いものとされている。坪井博士の説に拠ると、この倭人は現に暹羅シヤムの東部メーコン河の沿岸森林地帯やカムボチャに居住する土人の先祖と同じもので、古のモン国とクメール国即ちカムボチャとの二国民を代表者として、之をモン・クメールと称する。この民族は前印度の内地一円にわたっての原住民であったのが、後に暹羅の先祖となったラオ[#「けものへん+僚のつくり」、U+7360、237-2]民族が雲南より大挙南下したので、それに圧迫されて各地に分散移住したといわれている。そしてメーコン河の両岸に於ける大森林地帯に住んでいる土人は、今も太古の生活を続け、太古時代と殆どいささかも変らぬ土俗や信仰や言語を存している。しかもそれと同様の土俗や信仰を日本の古代人に見出すばかりでなく、言語の如きは現に日用の俗語として生き残っている。夫にもかかわらずモン・クメールの地名と覚しきものの比較的少いのは、大なる勢力を扶植することを得なかった為であろうと解釈されている。
 モン・クメールは※[#「虫+(冂<はみ出た横棒二本)」、U+86A6、237-9]蛇崇拝の民族であって、主神としてナクラチ(竜王)を祠っているが、それは単躯七頭の形で現わされている。印度の神話に従えば、ナガは三頭或は七頭又は十頭を有する。クメール民族は其中の七頭のものを主神と崇めたのである。日本では八頭又は九頭として伝えられている。出雲の簸ノ川上で素盞嗚尊に退治された八岐の※(「虫+也」、第3水準1-91-51)若しくは九頭竜権現がそれである。ギリシャの神話を読むと、ヘラクレスがレルナの沼で一身九頭の水蛇を退治したことが書いてあるが、これはクメールの原始信仰と同じものが西に伝ったのであろう。『古事記』や『日本書紀』の記事によると、八岐の※(「虫+也」、第3水準1-91-51)は胴体が一で頭が八、尾が八あったという。この記事は適切な幾つかの説明が下されているが、場所が出雲地方で、後になってチアム民族や出雲派ツングース民族などの移住地となった関係上、このような神話が生れたので、つまり八岐の※(「虫+也」、第3水準1-91-51)を主神とする民族が素盞嗚尊を主神とする民族に圧服されたことを語るものではあるまいか。
 大蛇退治の神話は出雲以外には無いけれども、竜王即ち※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神を祭った社は各地にある。尤も後世になって竜王信仰の衰えと共に祭神の変ったものもあるであろうから、それらをも合せたならば全国では可成かなりの数に上ることと信ずる。出雲は黒潮の分派に乗って日本海方面に進み入ったモン・クメール最初の居住地であるから、大きな社があったに相違ないが、前述の如く後に渡来した強大な民族が根を張ったので、跡が絶えたものであろう。それでも隣の備後国では恵蘇郡の多加意加美タカオカミ神社、甲奴こうぬ郡の意加美神社が『延喜式』に載っている。尚お瀬戸内海に沿うた吉備の海岸又は海岸から遠からぬ地方に多数存在せる竜王山は、クメール民族の竜王信仰に関するものが少なくないと信ずる。現存の社では大和国吉野郡南芳野村大字丹生に鎮座する丹生川上神社が最大のもので、之についでは山城国愛宕郡貴船村の貴船神社である。丹生川上神社は官幣大社に列し、霊験あらたかなる雨の神として、奈良朝の頃から厚く尊崇されていた。祭神は闇罔象クラミツハノ神ともいわれ、今は※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)クラオガミ神及※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)タカオガミ神の二神と定められている。ミツハのミは雨、ツハは馬来語の神という言葉ツハンと同じもので、この闇※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神、高※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神、闇罔象の三神とも、迦具土ノ神から生れた雨神に外ならぬ。『万葉集』巻二に天武天皇から藤原夫人に賜うた御歌

わが里に大雪ふれり大原のふりにし里に降らまくはのち

といえるに、藤原夫人の和し奉りたる

わが岡の※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神に言ひて降らしめし雪のくだけし其処に散りけむ

という歌などは、※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神が雨神であった証拠と又其信仰の名残とをとどめている。
 九州方面から瀬戸内海を東進して来たモン・クメールは、紀ノ川を遡りて五条町附近の別天地に居を占めたであろうが、後に渡来した川下の住民から次第に圧迫を受けたり、又は生活上にも都合のよい山地を求めたりして、尚も川上深く隠れたのが『書紀』の応神天皇の巻に載せられた

夫国樔者、其為人甚淳朴也、毎取山菓食、亦煮蝦蟆上味、名曰毛瀰

で、其一派が黒滝川即ち丹生川を溯りて丹生に大蛇崇拝の跡を止めたのであろう。『延喜式』には河内国茨田郡意賀美ノ神社、和泉国和泉郡意賀美ノ神社、同国日根郡意賀美ノ神社を載せてあるので、和泉河内の山地には濃厚なる大蛇崇拝の痕を止めていると言える。この外ナガやクラの付いている地名には、竜神に関係あるものが少くないがここには略して、ただクラに就て一言すると、これには坐する又は横たわる意から出たクラ(座及鞍)、虎の義から転じて野獣の総名となったらしいクラ(狩猟をカリクラというのはこの意味である)、及び岩の古い方言であるクラなどがあるが、其中で地名となったものは最後のクラ位のものであろう。このクラは馬来語の Kula(岩)と同じものか、それとも元は韓語らしい岩礁を指すクリから導かれたものか私には判断し兼ねるが、クリはクレ(塊)と同語で、栗の実をクリというのもカタマリである為であろう。私が特に面白く感じたのは、有名な大台ヶ原山の大蛇倉で、これは勿論壮大な岩壁に名付けられたものであるが、私は大蛇でも住みそうな、又は物凄いというような、つまり形容の上から大蛇倉なる名を得たものと考えていたが、実はそうばかりではなく、クラと大蛇と同意語なることが忘られるようになって、大蛇クラなる合成語が生じ、夫れが岩壁のクラに通ずる所から、其まま岩壁に適用されたものと見るのが至当であるらしく思われる。上州の藤原から越後の土樽つちたるや信州の秋山にかけて、瀑のことをセンと云うが、それが或る地方ではタキと結び付けられてセンノタキと云う合成語が瀑名となっているなどは、大蛇クラと似寄った例といえよう。高畑君の所蔵に係る上州神流かんな川上流の『正徳図』にも、大蛇倉沢というのが記載されている。探せば尚お他にも存するであろうが、今の所私はこの二者以外に知る所がない。
 さて瀬戸内海から河内和泉の海岸に舟がかりしたモン・クメール民族は、一派は其処そこに上陸して大和の奥地に入り、他は海岸線に沿うて東に進み、遂に東京湾に達したものとも考えられるし、或は黒潮に乗って九州南端から直接に伊豆七島あたりに漂着したものが更に北進して、東京湾に入ったものとも考えられるけれども、船乗り民族でない彼等は恐らく前者の方であったろうと思う。かく彼等は東京湾の沿岸に久良岐という地名と共に※[#「虫+(冂<はみ出た横棒二本)」、U+86A6、241-7]蛇崇拝の跡を止めたこと、あたかも少しおくれて渡来したらしいチアム民族が都筑という地名に月神崇拝の跡を残したのと同様である。そして今は都筑郡に月読社を見出し難いのと同じ様に、久良岐郡に竜神の社を見出し難いのである。私は『新篇武蔵国風土記稿』を検して、やっと一ヶ所探り当てた。それは六浦荘村大字宿にあるもので

竜神社 除地。同じ辺(○北谷)山ノ中腹ニアリ、小社ナリ。伝ヘ云、社地ノ樹木ニ手ヲ触レバ必ズ神罰アリトテ、里人等恐レテ伐リトルコトヲ得ズト。村持。

となっている。之に関聯して南洋臭く思われるのは、其北隣りの金沢村大字富岡に在る芋明神社で、次の如く記載されている。

芋明神社 小名板橋ニアリ疱瘡神ナリ。疱瘡ヲイモト訓ルヨリ仮借シテ芋明神ト書スルナルベシ。寛永中村内慶珊寺ニ仕ヘシ茂右衛門、寺辺ニテ丈二間許ナル蛇ヲ打殺セリ、寺ノ住僧伝雅之ヲ憐ミテ経文ヲ授ケ門外ニ埋ム。其夜蛇ノ霊童子トナリ伝雅ノ夢ニ入テ告グ、経文ノ功徳ニヨリテ天ニ生ズル事ヲ得タリ、今ヨリ世ニ疱瘡ヲ患フルモノヲ守護スヘシ、此上ノ芳志ニ我為ニー社ヲ造営シテ与ヘヨトミテ夢覚メタリ。明朝枕元ニ蛇ノ脱皮アリシヲ見テ奇異ノ思ヲナシ、即チー社ヲ造立シ疱瘡神ト崇メ、本地仏ヲ楊柳観音トス、云々。
霊芋 社前ノ池中ニアリ。池ハ僅ニ一間四方、中央ノ小嶼ニ柳一株タテリ。其水中ニ生ジ、形状ハ白芋(俗ニ蓮芋トイフ)ニ似タレド四時枯レズ。コレ神号ニヨリテ芋ヲ植シモノニヤ。此芋ヲ折トリナドスルモノアレバ立所ニ祟アリ。疱瘡ヲ病ムモノ、池水ヲ飲シメ祈レバ必恙ナシトイヘリ。

芋明神というので殊更に芋を植えたもののように『風土記稿』の編者は想像しているが、これは勿論芋を崇めた社に相違ない。芋は南洋系民族の常食としているもので、池中に生じて居る所から推すと、今も大洋洲諸島の民族に大切の食糧であるタロ芋であったかも知れない。疱瘡の神と間違えられたのは飛んだ御愛嬌であるが、蛇の脱け殻で撫でると疱瘡が軽く済むというような土俗の信仰が起ったので、蛇を殺して夢枕に立たせる必要を感ずるに至ったのであろう。
 東京湾沿岸から武蔵野の森林地帯を住所としていたモン・クメールは、チアムとは違って農業を主とした民族ではないから、次第に生活に都合のよい山地を目指して奥の方へと進み、荒川に沿うて秩父盆地に入ったらしい。荒川本流の沿岸には未だそれらしい地名を発見せぬが、赤平川の沿岸は下吉田附近を中心として、※[#「虫+(冂<はみ出た横棒二本)」、U+86A6、243-7]蛇の気が濃厚に漂うている。大淵で荒川本流と別れ、赤平川に沿うて進むと久長があり、下吉田には椋神社があり、其南には奈倉があり、更に其の南には長留がある。又薄川と小森川との合流点にある長又は、通常ならば川又と呼ばれる所であろう。薄川の上流には小倉という小名があり、小森川の上流には穴倉という小名もある。此等の中で特に注意すべきは奈倉と長留とで、前者はナクラチ、後者はナガラジヤの略されたものと思われる。尚此附近には変った読みくせを持つ地名が多くあるけれども、私には未だ解釈の道がない。
 下吉田の椋神社は、秩父郡に二座しかない延喜式内の神社の一で、縁起には猿田彦命を祭り、其出現は、日本武尊東夷征伐の時、此国を巡狩して山路に矛をてしに、其矛忽ち光を放ち、又其光飛んで止まった所に至ると老翁が現れて、吾是猿田彦命也、嚮導きょうどうを為さんと欲するが故に此に来ったということになっている。其後俵藤太秀郷が平将門を征伐する時に春日明神を勧請したことが載せてある。この縁起は天孫降臨の際に於ける猿田彦命の出現を真似て後に作られたものであることは疑う余地がない。私は此神社は其名から推して、元は竜神を祭ったものであると信ずる。それがいつしか衰微して由緒も不明になり、あらたに猿田彦命を地主神として春日明神が合祠され、竜神の社は両神山上に昔の面影を止むるに至ったものであろうと考える。
 以上は恐らく冗長に過ぎて読者の厭倦を来した事と思うが、此等の事実によりて、秩父の奥の山地に※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神の祭られた社の存在するのも、決して怪しむに足らぬということが了解された事と信ずる。
 そこでいよいよ話を本題の山名に戻して、ヤウカミの説明に取り懸ることにする。此山が※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神に関係あることは前述の通りであるから、ヤウカミはヤオガミの音便であってヤは数字の八であろう。河原沢村の縁起によれば、

竜頭大明神ハ諸難諸病ヲ悉除シ給ヒ、眷属ニ仰セテ火災盗賊ノ難ヲ除キ、田畑諸作ヲ荒ス猪鹿野狐等ノ悪畜ヲ退散シ、万民ノ患ヲ防タマフト云々。

竜頭と書いてあることは肝要な点で、私はそれを単躯八頭の※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神即ち即ち八岐の※(「虫+也」、第3水準1-91-51)なるが故にヤオガミと唱えたものと推定する。或はヤはヤヲヤのヤと同じく単に頭の数の多いことを意味するものとしても差支ないが、ここでは数の八とするの直截簡明なるに如かない。
 ついでに両神神社の眷属であるお犬に就て一言したい。河原沢村の縁起では、竜頭大明神は眷属に仰せて云々とあるのみで、其眷属の何であるかを示してないが、薄村の両神神社の項には、

サテ此山ノ神ノ眷属ト称シテ盗賊火難除ノタメ、山犬ヲ貸シ出セルコト三峰山ナトノコトクニテ、却テ三峰山ヨリモ古ク貸シ出セルヨリ、此犬ヲ借リルモノ近国及ビ諸郡ノ人々年分引モタヘズ、詣テ来リテ乞ヒ求ルニ銭帛ヲ納メ守護札ヲ受テ帰レリ、両別当ヨリ指出セル守札少ナカラネバ、其ノ益アルコト知ンヌベシ。

とあって、あきらかに山犬となっている。これは『風土記稿』の編者が俗にいうお犬さまに当てた字で、所謂いわゆるオホカミを指したものである。荒船山の麓の信州側で孝子亀松が山犬を殺した事実もあるから、あの附近には棲んでいたものであろうけれども、秩父にも居たかどうか明証がない。尤も今は絶滅してしまったが、内地にも狼の一亜種である朝鮮狼の一層小形になった山犬の居たことはたしかで、その山犬に狼という字があてられている。されど世間に喧伝されていた程多数であったとは思えない。狼のことを書いた記事は遠く奈良朝の昔から、近く明治維新頃に至るまで少なからず存するに拘らず、大抵の場合一頭限りで、稀に二頭のこともあるが群をなしていたことなどは、『北越雪譜』の記事の外にはまだ見当らない。橘南谿の『東遊記』には、見出しからして羽州の鬼という凄い文字を用いて、狼の話を人の好奇心をそそるように書いてあるが、読んで見ると其辺にうようよしている筈の狼が結局噂だけで影も形も見せなかった。それを南谿は大勢で通った為であるとうまく逃げている。親子が山小屋で狼に襲われ、親に喰い付いた狼を子が打殺して親を救い、孝子として表彰された記事なども二、三あるが狼はいつも一頭である。そんな訳で狼の害といっても高の知れたものであったろうに、所謂一犬虚に吠えて万犬実を伝うるという有様で、至極大袈裟に言いふらされていたのであろう。
『日本書紀』の「崇峻紀」には、

飛鳥衣縫造祖樹葉コノハ之家始作法興寺、此地名飛鳥真神原、亦名飛鳥苫田。

という記事があり、「採輯諸国風土記」の大和の部には、

昔明日香地有老狼、土人謂之大口神、故其地名大口真神原

とありて、真神原と呼ばれる所以ゆえんを説明してあるが、「風土記」が撰ばれた頃既に昔というた程であるからなり古い言い伝えである。「欽明紀」のハタ大津父オホツチが二狼の相闘うを止めた記事は、狼に関する最初の文献というべく、其時の大津父の言葉に「汝是貴神カシコキカミにて云々」とあるから、大口真神も狼をさしたものと信じてよいであろう。漢字には豺と狼とあって、豺はヤマイヌ狼はオホカミということになっているが、豺狼とか虎狼とかいえば、今いう獣的という言葉と同様の意味であるから、我国のオホカミ即ちお犬さまとは可なり性質の違っていることに気が附く。俗間では山犬と狼とを普通区別して用いる傾があって、害をする方は山犬の名で呼ばれる。狼は謂わば神話的動物で、形は人工的に造り上げられた猟犬のグレイハウンドに似ているが、著しく霊性を帯びている。斯様かような狼が地上に存在している筈がない。私のかんがえではオホカミはオガミの新しい神格化であると思うのである。神の性質が似、名前が似、形殊に主要なる頭部から頸のあたりが、竜の角と髯と鱗とを除いたものと酷似していることは軽く見逃す訳には参らぬ、足にみずかきがあるという伝えも水、いては※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神に縁のあることを示している。或種の動物が或神の使者であるという思想は、我国では上古に始ったものらしく、『古事記』に、日本武尊が伊吹山に登るとき白猪に逢い、「是の白き猪に化れる者は其神の使者にこそあらめ」とりたもうたとあるのが文献のはじまりである。『書紀』には白猪の代りに大蛇となっている。但し八幡の鳩、山王の猿、鹿島の鹿などは、単に語呂の上から結びつけられたものらしく思われぬこともない。そして使者は唯神意を伝える媒介者たるに止まるを常とする。それが主神と同様に霊験あらたかであることは、お犬さま以外に例がない所から推して、少くとも両神神社のオホカミは、主神オガミが新らしい形を取って、新らしい祭神諾冉二尊の下に眷属となったものであると断ずる次第である。
 大犬さまのお守を出す所は、両神神社及び三峰神社の外に、美濃国不破郡の南宮神社と遠江国周智郡の山住神社とがある。南宮神社は金山彦命を祭神とする国幣大社であるが、古名仲山金山彦神とあるので竜神に関係あること疑ないのみならず、祭神五座の中に闇罔象女神があり今も摂社に闇※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)と高※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)が祭ってある所から推して、元来※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神信仰の社であったかと思われるのである。山住神社は周智郡の山奥に在り、祭神大山祗命となっている。私はこの神社の縁起に就て少しも知る所がないから、お犬さまとの関係を知ることを得ないのは遺憾であるが、天竜川はクメール民族と浅からぬ関係があるので、これは闇※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神と同じく迦具土の血から生まれた大蛇闇山祗を崇めたものであると信ずる。
 説いてここに至れば、読者は既に思い附かれた事と思うが、三峰神社のお犬も其御利益は全く両神神社のものと同様であって、両者の起源の同じき事を示している。従って逆に古い三峰神社の祭神はオガミであったことが推定されるのである。縁起に拠ると三峰神社の起源は明瞭でない。神仏分離史料に拠ると、文亀の頃に月観道満なる人が頽廃した社殿の復興造営を思い立ち、天文二年に竣工した。それで其年の四月に現住の法印竜栄が京都に上って、聖護院の門主に謁し、始めて三峰大権現の号を授かり、夫以来天台宗の修験になったという事実から、三峰は熊野三山に擬したもので、那智山に代ゆるに白岩をもつてし、雲取妙法の二山と共に三峰と称したものであると推定して誤りはない様である。大輪おおわの登山口に架した大輪橋の一名を登竜橋というも因縁なしとせぬ。三峰とは背中合せの丹波山村に飛竜権現社のあることも力強い暗示であると思う。
 尚お序に贄川村の猪狩山に就て一言して置きたい。イカリは今猪狩と書いているけれども、これは南洋系のイカリ即ち魚から来たもので、馬来語では今も魚をイカンというている。三峰の※(「雨かんむり/龍」、第4水準2-91-91)神に供える魚を捕る場所であったから、イカリと呼ばれていたのが、いつの間にか其所にお宮が建てられて、猪狩明神となり、次で附近の山上に鎮座し、山を猪狩山と称するに至った。それで「贄の魚をとる川」という意を表わした新しい言葉の「贄川」というのが代って地名となったのである。『風土記稿』には、

猪狩岳 村ノ乾ニアリ。小名古池ト云ル巽ノ方ナル麓ヨリ崩岩ノ山径ヲ蹈ミ、又ハ盤岩ノ曲径ヲ登ルコト廿五町ヲ経テ頂ニ至レバ、僅ノ平地アリテ猪狩明神ノ小祠ヲ安ス。社頭ニハ栂、松、檜ナト生茂レリ。此山ハ村持ナレトモ松洗院ニ託シテ別当ノコトクセリ、明神ノ眷属トテ犬アリ、此犬ヲ乞ヒ借リ、狐ツキ或ハ猪鹿ノ防ヲナスニ応験アリトテ、比隣ノ村郷祈誓シテ参詣スルモノ多シ。犬ヲ借リルト云ニハ、松洗院ニ就テ賽物ヲ収メ護符ヲ得テ帰ルトゾ。

とありて、両神や三峰と同じ様に霊験ある眷属のお犬を貸したという事は、三峰との関係が深かったことを知るに充分であると思う。
(昭和三、六『霧の旅』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「霧の旅」
   1928(昭和3)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「バチエラー」と「バチェラー」の混在は、底本通りです。
※写真は、底本の親本からとりました。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2014年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「王+耶」、U+7458    223-11、224-2
「山+卒」、U+5D2A    225-11
「虫+(冂<はみ出た横棒二本)」、U+86A6    235-8、236-7、237-9、241-7、243-7
「一点しんにょう+於」、U+28506    235-13
「けものへん+僚のつくり」、U+7360    237-2


●図書カード