山と村

木暮理太郎




 アーヴィングの『スケッチブック』を初めて読んだとき、リップ・ヴァン・ウィンクルの話の冒頭に、カツキル連山が季節の移りかわりや天候の変るごとに、いや実に一日の中でも刻々に不思議な色やら形やらを変えるので、遠近のおかみさん達から完全な晴雨計と見做されていたということが書いてあるのを見て、すぐに思い出したのは故郷の赤城山のことであった、そして外国にも同じような風習が自然と行われているのを非常に興味深く感じたのであった。
 私の生れ故郷である東上州の新田郡は、利根川の沖積地に属している南部を除けば、その他は東京附近の※(「土へん+盧」、第3水準1-15-68)ローム[#「土へん+母」、U+5776、298-8]と同じ赤土の硬い層から成っている。これはうたがいもなく赤城山から噴出された火山灰が母体を遠ざかりながらも、お全くは縁が切れずに、はるかに離れた麓のあたりを恐らく水流に漂いつつ、次第に変質凝固して、火山に特有な美しい裾野の一部となったものであることを物語っている。その証拠には、一度にも足りない緩い傾斜ではあるが、おもむろに高まっていつしか六峰駢峙した山頂へと連っているので、遠く横から眺めると空中に高鳴りする鏑矢かぶらやのような線を描いている。私の村はこの広大な裾野の東南の端の方に、一は熊野社を一は大鷲社を氏神とする二氏族が、赤城明神を産土うぶすな神と仰いで、安住の居を占めた猫の額程の土地である。
 こうしたかんがえを私に起させた原因を一目に知るには、郡の東南隅に孤立している金山に登るのがよい。此山は『万葉集』に新田山にいたやまと歌われ、妻覓つままぎの歌垣うたがきなども行われたらしい名所であるが、高さは二百三十米ばかり、東側と北部は水成岩、全山の三分の二を占むる主要部は、火成岩の石英斑岩から成る山で、所々に鬼御影のような赤茶けた崩壊面を露出し、谷沿いに少許の闊葉樹が生育するのみで、全山殆ど赤松のみである。

わたしや太田の金山育ち外にきはないまつばかり

という俚謡りようの生じたのは至極尤もであろう。
 頂上には城跡が有り、実城みじょうの名がある。明治になって新田義貞を祀った新田神社が創設され、そばに今上陛下が皇太子殿下であらせられたころ、御登攀遊ばされた記念のお手植の松がある。社前の石壇の下に在る榎の大木は、樹齢四百年を超えているであろう。俗伝には義貞の築いた城であると言われている。けれども此城は義貞に関係なく、新田の一族である岩松家純が文明元年に家臣横瀬国繁に命じて築かしめたもので、世良田長楽寺の豪僧松陰の私記にれば、太田道灌が武州別府へ出陣の節金山へ招待され、滞留両三日の中にただ一度金山の四方を見物して、近頃名城の由褒美したとのことである。
 石段の前を少し西に下った窪地には、井戸もあればまた太郎坊(日の池)次郎坊(月の池)と称する大小二つの池もあって、水に不足することはない。城が廃された頃であろう、或男が太郎坊のこいを盗んで次郎坊の側を通りかかると、其鯉が次郎坊と呼んだ、すると池の面に大きな緋鯉が浮び上り、太郎坊と答えたので、其男は鯉を池に投げ込み、跡をも見ずに逃げ帰ったそうである。其話を聞かされてから、竹藪に埋れて青い色をしている池の傍を通るのは、子供心に薄気味悪く感じた。此頂上に立って西北を望むと、くろほの嶺呂ねろと『万葉集』に歌われた黒檜くろび山以下の六峰から裾野のはてかけて、一眸いちぼうの中に展開するので、成程これはと首肯されることと思う。
 主脈から西南に延びた一支に高さ百五十米の浅間せんげん山がある。西から眺めた形が富士に似ているばかりでなく、平地からは白山岳の一角しか望めないのに、此山頂からは丁度秩父の浅間峠の上に九合目以上の富士の姿が浮び出るので、浅間神社が勧請されている。或年の秋祭に、此山の麓の田を少し早めに刈取って満々と水を湛え、一大湖水となし、沖の方に赤旗を建て赤い幕を張った十数艘の兵船を浮べ、水際から一町許り離れた波間に、緋縅ひおどしの鎧を着た馬上の敦盛、登山口の鳥居の傍に紺糸縅の鎧に紅の母衣ほろをかけ、栗毛の馬に跨り扇を揚げている熊谷、山の五合目の中社の庭に赤糸縅の鎧に白い母衣をかけ、馬には乗らず槍を杖にして立っている平山の三武者を飾り、山の上には松の梢に数十旒の白旗をなびかせ、一の谷の合戦を模した飾物を作ったことがある。高い所から瞰下みおろすと新らしい稲の刈株が目について目障りであったとはいえ、珍しいくわだてだけに評判は高かった。それも十日程過ぎて一夜吹き荒れた赤城おろしの強い時雨に、熊谷も敦盛も敢えない最期を遂げたのであった。
 村の附近には古墳が多い。其一で鶴山と呼ばれているのは、前方後円の大古墳で、正面を東に向け、周囲七町に余る堀をめぐらしていた。今はつかの上まで開墾されて桑畑と成っているが、昔は大きなならの林で狐が棲んでいた。子を育てる五月頃になるとよく鶏を盗まれて忌々いまいましく思った村の若者達は、其穴を掘って狐を退治した時にも石椁せっかくには触れなかった。円冢の高さは三十尺はあろう、其上からは赤城山と秩父の山とが最もよく望まれる。
 赤城群峰は、カツキル連山中で最も高いらしいウェスト・キルよりも三百乃至ないし六百米も高い。標高六十米前後の村から直径六里の距離に仰ぐ群峰の姿は、次第に高まる裾野の上に、根張り大きくどっしりと横たわって、実に雄大である。殊に荒山から少しの弛みもなく左に曳いた長い長い裾野の線の美事さ、くまで人を魅する直線を見たことがない。一里の先から望見される鎮守の神木大杉は、赤城の本社から若木を移し植えたものであると伝えられている。裾野を点綴てんていする黒い森蔭は、こうした神木を中心に不毛を拓いて、幾世かを安住している村落の所在を示すもので、淡紫に棚曳く炊煙の下に、土蔵などの白壁が朝日夕日に映えて見えるのも、外目には心を惹かれる長閑のどかさである。
 村の老人達は、朝早く顔を洗うと東に向って黙祷を捧げ、拍手を打って手拭を肩に、前の畑を一廻りして、赤城山を仰ぎ見るのが例であった、其日の天気をぼくする為である。この習慣は四季を通じて変らなかった。殊に初夏から秋末にかけては、天候が激変し易く、農事は忙しいので、痛切に其必要を感じたらしい。冬は天候も定まり快晴の日が続くので、山に初雪の来る頃までは、濃い青空を背に、いつも劃然と全容を露わして、赤味を帯びた地膚の色が日の出から日の入まで絶えず変化する外には、村人の心に懸る一片の浮雲もない。しかし其間にも山の狼が里に下ったという噂が風の便りに伝えられて、村人を驚かすことはあった。一度噂が立てば、遠く其姿を認めたという人、或は跡をつけられたという人の数は、一人増し二人増して行くが、ついに危害を加えられたという者もなく、野火の消えるように噂も絶えてしまう。
 赤城に雪が降るのは大抵十二月の下旬である。其頃村の行事の一として、若い者は「赤城の餅食い」に行くのであった。山麓三夜沢みよざわに在る赤城神社に詣で、御師おしの家に一泊し、御供米として白米一升及び若干の賽銭を納め、其夜は餅を振舞われ、翌朝御札を授かって帰村するのである。目的は今年の作柄に就て謝恩の奉告をなし、併せて翌年の豊作を祈願するのが主で、今でもまだ行われているらしい。信心深い者は翌日大洞だいどうの奥宮に参詣する。季節が季節だけに吹雪に閉じ込められることがある。さいわいなことには沼の氷切りに働く大夫が大勢登っているので、其小屋に泊めて貰えるし、降雪の範囲も頂上に限られている為であろう、遭難する者は極めて稀であった。
 降雪期に入れば山は殆ど毎日のように雲の綿帽子を冠っている。頂に少しの雲でもたむろしていることは、夏の外は遅くも午後には風の吹く予報である、朝は静穏で雲の輪郭がはっきりしていても、上の方から次第に崩れて、真綿を引き伸したように垂れ下ると、冷たい北西の風が人の肌を刺すように吹きすさむ。上州名物のからっ風である。太陽の傾くに連れて風の力も漸く衰え、垂れた雲は山膚を白く薄化粧したまま、ねぐらを恋うる鳥のように元の頂きに返って、入日の光に暫し金茶色に燃えたかと思う間もなく、鼠色に褪せて夜の闇に包まれる。かくて山の雪は日増しに麓の方へ下って来るが、里では晴れた日が続いている。そして珍らしく穏かな或日の朝、雲の綿帽子をかなぐり捨てた和やかな孱顔さんがんを見せている山を眺めて、村の人達はじきに天気の変ることを知るのである。
 裾野の村に雪の積るのは山から来る場合は甚だ稀である。尤も十一月の末または十二月の初めにも、夕立めいた雲が赤城方面から押寄せて、寒い北風と共にぱらぱらと白いものが舞い落ちることはある。それはあられであって土地の人は風花かざはなと呼んでいる。稀には雪のこともないではない、けれども東の風に送られた雪でなければ積ることは無いと言ってよい。晴れた穏かな日の昼頃から久し振りに春めいた暖い南風が訪れ、空は次第に薄白く曇り始めて、夕方になると風はうすら寒い東風したけに変る。それでいて山に片雲なく空気は飽くまで透明に、南の桔梗ききょう色に染められた秩父連山を除けば、赤城榛名は言うに及ばず、遠い上信界の山まで雪の肌があざやかに冴えて、山が近寄って来たのではないかと訝る程である。山に影が生じない所為せいであろうと思う。こうなれば其晩あたりきまって大雪が降る。猟の好きな人は一日を休んで兎狩などに出褂ける。雪が消えるといつも麦踏みに忙しい。
 五月初旬の八十八夜前後には、季節の変り目を知らせる雷雨が赤城方面に発生して、ひょうなどを降らすことがある。其夜は晴れて気温が急降し、霜柱が立ち、翌朝は大北風が吹く。この霜にやられるのは桑の若芽で、霜に凍て風に揉まれて、二、三日の後には焦げたように黒く縮れ、一週間後でなければ新芽は芽ぶかぬ。憂目を見るのは早く掃き立てられた蚕ばかりではない、止むなくこれを河に棄てねばならぬ人に取りてもさぞつらいことであろう。しかし山の展望には見逃せない日である。近い山は緑に遠い山は白く、大海のはてに砕くる蒼波かと怪しむ許りの連山を超えて、潮のようにさしひく風に吹かれながら、皺という皺、襞という襞を隈なくあらわしている山肌をみつめていると、いつものことながら、これが一の美術品でなくて何であろうという感じがむらむらと起って来る。いつ迄眺めていても飽くことを知らない。
 この頃にこのような風が吹くのは、最早もはや冬がわずかに残る赤城山頂の雪を殿しんがりとして、生れ故郷の遠い北のはてへ退却するに際し、南方からの敵の追蹤を暫し阻止する為に、大返しに返した最後の一戦とも云うきもので、間もなく裾野の村々には燕が訪れて営巣に忙しい姿が見られるであろう。
 冬の間に村から見られる山の中で、姿体の最も美しいのは浅間あさま山である、鼻曲はなまがり連山の上に聳立している富士形は、七百米に近い高度を有し、左右均整の妙は寧ろ富士に優るものがある、外輪山の剣ヶ峰や牙山きっばやまなどは、左下に低く寄り添っているので少しも邪魔とはならぬ。雪面は鉋をかけたように滑かでいささかの凹凸なく、晴空に悠然と煙を吐いているさまは、全く天外に白磁の大香炉を据えたようである。この崇高な山に対して嘲るような「浅間山から鬼が尻を出して、鎌で掻き切るようなおならをした」という意味のかんばしからぬ俚謡が時として村人の口の端に上るのは、爆発の際、怖る可き大噴煙が常に東に流れて、灰を降らし硫気を漂わすことを呪ったものであろう。天明三年の大爆発には、村でも降灰一尺を超えたそうである。
 稲含いなふくみ山の左の肩には、白い雪の山の寸線がきらりと光っていることがある。村人は木曾の御岳だといい、私もそう信じていたが、これは八ヶ岳の赤岳であることを後に知った。形のよく似ている荒船山は、村では破風山の名で通っている。あの奇峭を誇る両神山は、今も其名を知っている村人は一人もないのである。
(昭和九、三『山』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「山」
   1934(昭和9)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「土へん+母」、U+5776    298-8


●図書カード