赤石山系の二大山脈即ち
白峰山脈と赤石山脈とは、
其北端に位する鳳凰山塊と共に、日本南アルプスと呼ばれている。
此等の山脈は北アルプスと呼ばれている飛騨山脈よりは、概して高さに於て優っているに
拘らず、登山者の数は
反て甚だ少ないのである。殊に赤石山脈の南半に至っては友人中村君の話によると、其地方に住んで三十年も鉄砲打をしていた唯一の案内者でさえ、尾根の上迄は登ったことがないので、始めて山の頂上に立って四方を見渡した時に、「岳というものは下で見たのとはおっかなく違うもんだ」と驚いた位であるそうだから、
況して登山を目的として
此附近に足を踏み入れた者は、今迄に
僅か十四、五人あるのみである。それなら山が低い為かというと決してそうではない。試に陸地測量部発行の五万分一地形図赤石岳図幅を見ても分る通り、赤石岳から南の方駿信遠三国の界に在る
光岳まで直径にすれば三里半有るか無しの距離の間に、二千五百米
乃至二千八百米以上の山が十座近くも聳えている。中にも
聖岳の如きは三千十一米の高さで、一万尺に達せざること僅に六十四尺である。此山一つだけでも登山の価値は充分にあるのだが、それにも拘らず此山脈に登山者の少ないのは、交通の不便であることが最大の原因であって、北アルプスの多くの山のように、汽車から降りると一日か遅くも二日目には、もう目的の山に達せられるのとは違って、どの方面から登るにしても困難が多い為に流行から取残されたものであろう。山に取っては
夫が反て
勿怪の
幸といわねばならぬ。
私が大井川奥山(大井川最奥の部落である田代の人々は、上流の山々を奥山と総称している)の縦走を試みたのは、大正三年の夏であって、私より二年前の明治四十五年七月に、友人中村清太郎君が最初の縦走を為してから、まだ漸く二人目であったのは、一般登山者の目を附けない山を狙う人の多かった時分としては、寧ろ意外にも思われたのである。
私の計画は大井川の支流
信濃俣を遡って駿信の国境山脈に登り、夫から尾根伝いに北方
小河内岳を
踰えて
三伏峠に至り、釜沢に下って大河原に出るのが目的であったから、田代を出発点とするのが便利であった。田代へは静岡から大日峠を踰えて行くのが最も近道であるが、私は
序に白峰山脈の南の端にある
青薙山に登って、東河内の谷から田代へ下ろうと慾張った為に、
鰍沢から舟で富士川を下り、飯富に上陸して早川の支流
雨畑川に沿い、雨畑村に行き、青薙山の案内者を探したが適当な人が無い、それで止むなく断念して、山伏峠というのを踰えて田代へ来た。
準備の為に田代で一日逗留して、案内者の望月雄吉と人夫の滝波国一の二人に、十日分の食糧を背負せ、奥山に向って出発したのは、七月三十一日の午前六時頃であった。連日の
旱に道芝の露さえおかず、山奥の草木もしおれ
勝であった程好晴が続いていたので、小河内道を取って大井川の左岸を上ることにした。此道の方が朝は日蔭が多いからである。
小無間山の尖峰を絶えず左手に仰いで、脚の下に大井川を眺めながら、九時頃桑ノ木嶋に着いた。再び釣橋を渡って右岸に移ると、左から明神谷が落ち合っている。ハネンゾウリ、ノタハギ段、
下ゾウリなどいう所を過ぎて、間もなく下ノ島に来た。
此処で大井川に別れ、山の鼻を登り気味に廻って、信濃俣の谷に入り込むのである。信州に抜ける間道がこの奥のガッチ河内に沿うて通じている。これは其道であるが大分荒廃して途切れ勝である。河原に下ると雄吉はすぐ岩魚釣りを初めたが、昨日九人も釣り荒した後なので、二、三尾しか釣れなかった。此辺の闊葉樹の森林は実に立派なもので、濃い
翠の色が谷間の空に漂うている。いよいよ山に来たなという感じが強く起る。其日は岩魚釣りの掛けた河原の小屋に泊った。夜中に対岸を獣でも通ったものか、がらがらと岩を踏み崩す音が二、三度聞えた。
翌日は魚釣りがてら悠々と河を遡って、ガッチ河内と中俣との合流点に達したのは、午前八時頃である。此処で一時間
許り遊んで四、五十尾の岩魚を釣った。まだ釣ればいくらでも獲れたのであるが、際限がないから夢中になって釣っている雄吉を促して出発の用意をする。
是からは道を離れ沢を離れて、山の神尾根の登りに懸るのである、少し登るとシシ崩れと称する大きなガレ(山側の崩壊したる所をいう)があるので、猟師は
之をシシ崩れの道と呼んでいる。
この登りが急で
又長い、其日はとうとう登り切れずに、途中で一時間も横に下って水のある処に野営し、八月二日の午前十時二十分に駿信国境のイザルケ岳の頂上に達することを得た。頂上は平で
偃松がなく、敷きならしたような一面の小石である。中央に一段高く石を積み重ね、其の上に標石が建ててあった。高さは二千五百三十四米で、
直ぐ南にある光岳より五十七米低い。
生憎今日は雲が多かったので、期待した眺望は得られなかったが、何しろ久恋の山の頂上に立ったことであるから、喜びの余りに大声を揚げて叫んだ。すると西南に開けた高原状の草地に生えている天狗樺(田代方面の称呼)や偃松の茂みから、忽ち大砲弾でも破裂したように、褐色の一団がドッと飛び出した、熟視すると八、九頭の鹿の群である。天外の楽園にまどかな昼寝の夢を破られた彼等は、不意に
闖入して来た人間の声や姿に、どれ程驚かされたことであったろう。あとから登って来た雄吉は「鉄砲がありゃなあ」と独言をいいながら、残惜しそうに其跡をながめていた。
北に向って偃松の中を下って行くと、間もなく薄暗い黒木の中に取り込められて、幾度か路に迷わされた。やっと国境の大尾根を探り当てて、下り切ると
易老岳までは登り一方である。信州に踰える間道は此山の南を通じている。もうそろそろ野営地を探さなければならない時刻なので、易老岳を北に下った泥田の様な所から、東に窪を下りてガッチ河内の上流大春木沢の畔に野営した。二年前に中村君が泊った跡である。頭の上は烟も抜き切れない程に枝と枝とが組み合った
白檜の密林である。宵に外を覗くと、月の面を掠めてドス黒い雲が頻りに東の方へ飛んで行く、心配な天気になって来た。それでも夜明までは星も見えていたが、朝飯を済して出懸る頃に、谷の空が硝子に息を吹き懸けたように曇り始めたかと思うと、忽ち
濛々とした霧の中に閉じ込められて、間もなく冷たい
雫がパラパラと落ちて来る中に、
目細の淋しく囀る声のみが耳に入るのであった。
大粒の霧を横なぐりに叩き付ける強い西風に吹かれながら、丈の高い偃松を押分けて、大尾根から南にはずれているガッチ河内の岳(地図の
仁田岳)に往復する。三十分とは懸らなかったが寒さに
顫えてしまった。尾根の西側には舟底に似た草原の窪地が続いて、目のさめるような鮮黄色の
信濃金梅や
珍車の花などが咲いている。二、三の隆起を一上一下しながら通り過ぎ、
嶄岩の
兀立した急斜面を登ると、霧の中から岩の尖塔が高く現れた。仁田河内ノ岳(地図の茶臼岳)である。岩塔の下には小さい鉄の剣が幾つも奉納してあった。皆赤錆びた古い物ばかりである。頂上の岩にしがみ付いて霧の
霽間を待っていたが、更に薄れ行く模様もないので、風下の岩蔭に休んでいた案内者人夫を励まして、心あての方向を指して下りに向った。切り明けの跡を失ったので尾根の続きが判らぬ、それを探している
中に案内者とも人夫とも離れ離れになってしまった。ふと好い路に出る、おかしいぞと思いながらも、易きに就きたがるのが人情で、尾根を左に捲くようにして暫くそれを降って行く、余り下りが激しいので田代方面では少しも知らないという頂上に奉納してある剣と思い合せて、これは信州側から此山に登る道であると気付いて引返した時には、全く方向に迷って岳の頂上へも戻れず、空しく霧の中を一時間余りもうろつき廻った。声をかけると二人ともそう遠く離れてはいないらしいので安心する。一ト所、山の斜面の土を平に掻き
均し、其上に草や小枝を敷いた三、四尺の段が幾つかあった。それが段も新しく敷物も青々と新しいものもあれば、段も敷物も共に古いものも交っている。試に数えて見ると二十以上もある。
始は人が作ったものかと思ったが、それにしてはこの高い山上で何の為にしたものか見当がつかない。後で雄吉に聞くと、「ナニ鹿の寝床でさ」という。成程そういわれて見れば最前から小鳥とも獣とも判断されない鳴声が四方から聞えていた。ピュー、ピュー、ピューンと細いが
能く透る、それは鹿の鳴声であったのだ。私達には何処にいるか深い霧で少しも分らないが、向うでは怪しい彷徨者の姿を見付けて、
頻に咎めていたのであろう。
霧の晴れた場合を
慮って、それに少し不気味でもあったので、木に登って待っていると、遠く近く、彼方からも此方からも、ピューンピューンと澄んだ細い声が地の底から湧くように聞えてくる。
兎角している中に一度霧がサッと破れて、右手に国境の大尾根が現れる。誰へともなく大声で「オーイ」と呼ぶと、つい十五、六間先の木の上で案内者が「オー」と答えたので、おかしい位に拍子抜けがしてしまった。
偃松の間を抜けてガラガラに石を敷き詰めたような広い高原ともいう
可き峰頭に出る、後から「旦那、鷲だ鷲だ」と人夫が叫ぶ。振り仰ぐと七、八尺もあろうと思われる大鷲の影が霧の中に黒くにじみ出して、頭上三、四尺の高さまでおろして来たかと思うと、急に翼を反して凄まじい羽音と共に
復た霧の中に消えてしまう。「鷲の畜生、何と思ったずら」と人夫が罵る。昨日イザルケ岳に登る途中、眺望の開けた大岩の上に腰かけて昼食をしたためていると、天空遥に一点の黒影が現れて、矢のようにおとして来るのを案内者に注意されて見ていると、近くなって夫が大鷲であることを知った。私達を兎か小鹿とでも思ったのであろう。今日のは夫にもまして大きなものであった。
高原が尽きて、岩の多い窪地に風を避けながら一休みする。小さい山桜が咲いている、案内者はゴート桜だと教えて呉れた。
稍深い偃松を掻き分けて草地に出ると、十五、六頭の鹿の群が飛び出して、
上河内の谷に向って草の斜面を一散に駆け下りて行った。また偃松の間に潜り込む。行手に一つの窪地があらわれた。
大さは霧の為に不明であるが
可なり広いらしい。草も木も生えていないので私は始め池かと思った。そこに珍らしい光景が展開していた。二十頭あまりの鹿が余念なく戯れているのである。それが霧の去来に連れて影絵のように濃くなったり淡くなったりする。風上に居るので私達の近付いたのを少しも知らずにいる。三人声を揃えて
突喊すると、
愕いた一群は小石を蹴って跳び上りさま、これも上河内の方面に逃げ去った。小馬ほどもある一頭の牡鹿が大きな角を背に伏せるようにして疾駆するさまは、寧ろ凄いといいたい位であった。小石交りの窪地は泥田のようにこね返されて、縦横に蹄の跡が印されている、中には牛の足跡にまがう大きなものもあった。牡鹿のものであろう。鹿はこうした所をこね返すのが好きだそうである。猟師はこんな所をノタと呼んでいる。
ノタの縁に沿うて東から北に廻り一の隆起を踰えて、また美しい草原に天狗樺の散生した窪地を上って行くと、とうとう雨がポツポツ落ちて来た。水の流れていそうな溝を探している中に大降りとなったので、
側にあった
矮い白檜の下に逃げ込んで雨を避けた。降りが強いので頼む木蔭から雨が漏って来る、仕方なしに天幕を枝に
吊して其中に潜り込み、ほんの一時凌ぎの積りであったが、容易に雨が
歇みそうにもないので、天幕を張り直したり火を焚いたり、一しきり野営の準備に忙しかった。此時田代方面に起った雷鳴は、夕方になっても鳴り止まずにいたので、雨も小降りになったかと思うと又強く降り出したりした。附近には鹿の足跡が非常に多く、
勁い西風の枝を鳴らす音に交って、例のピューンピューンという細い声が絶えず聞えていた。
此野営で最も困ったのは水である。近くで得られるあてもないから、大きな油紙を拡げて雨水を溜めたり、其他鍋、飯盒、弁当箱、空缶等、何でも水の溜る物は、用が済むと
交る
交る外に出して雨受けにした。米も研がずに炊いて
糠臭いボロボロ飯で我慢した。それも遊んでいるのだから二食と
極める。これから赤石岳を踰えて三伏峠まで山上の旅を続けるには、逗留中の食料は出来るだけ節約する必要があった。
明くる四日は昼少し前になって雨は止んだが、西風が強く霧が深いので立つ気になれない。此処は偃松の茂った山稜の高みから三十間許り下った東側なので、うまく西風から保護されている、
若し風が南に変ったら一溜りもあるまいと心配になる。
昼すぎ霧が少し薄れたので近所を散歩して見た。或所では
松虫草の群落が露にうなだれて、花からは紫色の玉がこぼれていた。又或所では
夕菅か
日光黄菅らしい樺色の花が草原に咲き乱れて、パッと日がさしたように明るい。珍車の実が露にぬれた長いほうけた毛を風に
梳らしている。梅鉢草、
白山一華、白馬千鳥なども皆花をつけていた。岳ビル(行者ニンニク)はもう軟くもないが汁の実に入れると、虫の巣になった大根の切干よりは遥にうまい。空が大に明るくなって田代方面に雷鳴が起った。人夫は水を探しに右の谷へ下りて行ったが、二時間許りして失望しながら帰って来た。遠雷の響が絶えず空気をどよもしている。雨がまた降り出した、雷鳴も漸く激しくなって、二、三度頭上ですさまじく鳴りはためくと、次第に大井川方面に移って行く。霽れる兆かと喜んだが、これは糠喜びに終って、空は
益々暗くなり、一陣の風と共に大粒の雨がほの白くあたりをたち
罩めてしまった。此雨は終夜止まなかったらしく、夜半に目を覚すと、
勁風の吹きすさぶ中に天幕を打つ雨の音が豆を叩きつけるようであった。
五日の朝となっても西風は依然として烈しく、
咫尺を弁ぜぬ濃霧なので、どうにも方法がないからまた滞在と極める。九時頃雨が止んだが晴れそうな様子はない。小鳥が偃松や白檜の間でチュイーチュイーと鳴いているのが聞える、岳雀であるという。退屈の余り十時半頃、此処から遠くはあるまいと想われる上河内岳へ登る積りで、一人霧を突いて出懸けた。左の少し草原の斜面を登ると、もう天幕の所在は分らなくなる。偃松のすき間を縫って尾根の高みに出た。岩の斜面が上へ上へと霧の中を導いて行く。二、三間
毎に岩を引起して道しるべとしながら進んだ。それが案外手間取って、一時間を費してもまだ上河内岳に達しない。遺憾ではあったが霧が深いので引返すことにした。この時引起した岩の下から長さ五寸余りの箱根山椒魚がにょろにょろと這い出たのには驚いた。全体が淡い肉色を呈している。雨畑から小河内へ踰える日に、雨畑川の上流
捻切沢で驟雨に襲われ、暫く木蔭に雨宿りをしていると、渓水が少しく増して急に水の中がざわつき出した。不審に思ってよく
視るとそれは箱根山椒魚だったのである。何十
疋となくもつれ合っていたから、
蕃殖期であったかも知れない。土地の人の称呼は山カジカ。薬になるので大人も小供も焼いて食うという。普通千米以上の高所に多いそうであるが、二千七百米に近い高さは、恐らく箱根山椒魚の登った最高記録ではあるまいか。これから考えると
農鳥の池や
悪沢の池などを探ったならば、或は更に最高記録の保持者として、ヒノビウス・ニグレセンスなどが発見されるかも知れないと思う。
夕方になると東の方の雲が
俄に切れて、大海の底から浮み上ったように青薙山や富士山の姿が現れた。しかし夫も十分許りで白い幕で閉じられてしまった。食べたくもない晩飯を済して黙りこくっていると、東の谷間からトットッと軽い足音が聞えて、間もなく一頭の牝鹿が天幕のすぐ側を通り過ぎた。七、八間行って振り向いた拍子に私達を見付けて、驚いたように足を停めたまま此方を見ている、可愛い大きな目だ。雄吉が
手捕にしてやると言いながら、そっと天幕の後から脱け出して、草叢を
匍う蛇の如く忍び足で覗い寄りさま、
巧に八、九尺の距離まで近付くと、スワとばかり大手を拡げて猟犬のように跳り懸った瞬間、鹿は一躍して偃松の茂みの中に没してしまったので、空しく虚空を
攫んだ雄吉は、
筋斗打ってドウと倒れた。苦虫を噛み潰した時のようにむずかしい顔をしていた私も、この時ばかりは腹を抱えて笑った。この夜の九時頃から空が明るくなって、十一時頃には片雲も止めぬ快晴となり、
皎々たる満月に照されて、近き上河内岳の巨体は、深沈な大気の中にすき透るような蛍光を放っているかのように想われた。それで六日の朝は午前五時に出発し、五時半には上河内岳の頂上に着いていた。
海抜二千八百三米の
山巓に立ちて、かくまでに冴え渡った展望観を
恣にすることは、登山の最大快事であるというてよい。行手北の方には、象皮色をした聖岳が尨大な全容を曝露して、中腹に懸る二条三条の瀑から落ちる水の動揺までが見分けられる程に近い。其左には大沢丸岳や兎岳が或いは鋭い或は
穏な金字塔を押し立てている。更に其左に銀の短冊でも懸け連ねたように雪を
鏤めた、大海のはての蒼波かと怪まれる山の空線は、遠い北アルプスの連嶺である。西には、木曾駒ヶ岳の山脈が天半に紫紺の
幔幕を張り渡して、峰頭は
流石に鋸歯を刻んでいる。御岳と白山とが其上から紫地に銀糸を縫い込めた裾をゆたかに曳いて、美しい姿を覗かせる。恵那山は独り西南に離れて、つるりと円頂顱を撫でている観がある。南方は仁田河内岳からガッチ河内岳、光岳と続いて、一段遠く
大無間山、黒法師岳の連脈が、寄せては返す幾重の大波のうねりを偲ばせる。
聖岳の右の肩には、ガッシリと根を張った古塔の如き赤石山がのし懸るように聳えて、所々偃松の古苔が赤茶化た石の瓦に蒼黒く蒸している。続いて赤石山脈の帝王悪沢岳(東岳)の尖頂から東に延べた太い線が白峰山脈と錯綜するあたり、白く棚引く横雲の上に鳳凰山塊の地蔵岳や、更に遠く秩父の群山が大地震の震波のような線を描いている。東方の天は俄に低く落ち込んでいるが、其処には桔梗色の富士が威儀
儼然と端座している。斜に照す旭の光は新たなる生命を与えるもののように、山という山の肌にほの温く匂って、老いたる血が蘇ったように見える。夫が自然と私の体にも伝わって、私はいつか幸福其物のようになっている自分を見出したのであった。
上河内岳を下りて少し登ると、尾根がずたずたに崩れて、両方に恐ろしいガレを懸け連ねた所が二ヶ所ある。夫を通り越して偃松の斜面を下った所は白檜の森林で、足ざわりの柔らかい苔の上を歩くのがよい気持である。こんな林の中を一上一下して、午前八時に聖岳の南の
稍平な窪地に着いた。此所は聖沢の上流で聖平の名があり、少し右に行くと盗伐の為に建てたらしい小屋があって、水は其の傍を
滾々と流れている。今朝から食事を取らなかった私達は、此所で朝飯を済すことにした。水に不自由がないので、久振りに顔を洗ったり体を拭いたり、洗濯物までしたのは贅沢な仕業であった。十時頃出発して国境を迂回せずに
真直に登って行く。天狗樺や丈の高い偃松に
困しめられ、二時間を費して漸く聖岳の直下に達することを得た。途中二、三間しか離れていない岩の上に
羚羊がのそりと立っているのを見付けて雄吉が杖で叩き倒そうとしたが、僅に腰のあたりをかすったのみで羚羊はヒュッヒュッと妙な声を立てながら逸走してしまった。直ぐ其後について雄吉は何ということなしに一町近くも追いかけて行ったのは猟師の本能からであろう。
三十分許り休んで
愈々聖岳の斜面を登りに懸った。左は恐ろしい大きなガレであって、岩の裂目から地下水が迸っている。仰ぐと巨象の頭に似た聖岳の頂上から、右に長く尾根を曳いて、夫が如何にも象が鼻を伸しているように見える。勾配の急な山肌は一面に破片岩の堆積であって、偃松も
碌に生えていない。気に伴わない足が
動もすれば滑って、夫と共に幾つかの石が落ちる。危険であるから雁行して登ることにした。夫でも身軽の私は四十分足らずで頂上に着いた。北の眺望が開けて荒川岳、小河内岳、仙丈岳、鋸岳などが目に入る、人夫の来るのを待って昼食をすまし、午後二時半に西北を指して下り始める。赤石沢に面した北側には、血紅色をしたラディオラリヤ板岩の大塊が生々しく横たわっている。此岩が多い為に赤石沢の名があり、其沢からして赤石なる山名が導かれたものであろう。左手は見るも恐ろしいガレが続いて、其処には高山植物が干からびたような岩間に
妍を競うて咲き乱れていた。下り切って兎岳の登りに懸かる頃から、さしもよく晴れていた空にも雲が湧き出して、漸く高い山の頂上を包むようになって来た。赤石沢の上流まで行かなければ、水を得られる
当もないので、雲の中をひたすら前進するより外に仕方がなかった。兎岳の頂上には
雲間草が非常に多く、
湯薬竜胆、岩梨、
黄花石楠なども咲いていた。測量の櫓が西の方の低い一角に立っていたので、それにおびき寄せられて、上村と木沢村との境をなす尾根の踏み跡を北又へ下ろうとした人夫は、私に呼び戻されて近道をしようとした為に深い偃松に手痛く悩まされた。兎岳から北に続く余り高低のない二の隆起を踰え、大沢丸岳の梯子をたてたように急峻な破片岩の斜面を一息に上って、狭い頂上で休んでいると、不意に霧の中から不思議な顔が現れる。鼻と鼻とが擦れ合う程に近い、よく見ると羚羊である。驚いた私よりも更に驚いたらしい羚羊はぐるり踵を返して、元来た方に駈けて行く。下ってまた上り、一小隆起を踰えて、
兀々した嶄岩の上に攀じ上ると、そこが大沢岳の頂上であった。信州側は絶崖が続いているらしいが、覗いて見ても西から吹き寄せる霧の渦巻に遮られて、先までは目がとどかない。右手の谷底から赤石沢の水音が聞えて来る。もう六時を過ぎているので、休みを除いても今朝から十一時間は歩いている。漸く疲れを感じて楽しい野営地を想像している身には、それは眠りを誘う子守謡のように懐しく響いた。
又一峰の上りに懸って足早に辿って行くと、上から羚羊が下りて来た、五、六間の距離で立ち止って私と向い合ったまま暫く躊躇していたが、断念したように身を反して、おりた路を上って行った。私一人は其跡に踉いて進みながら、人夫は此処から赤石沢の水源池である百間洞に直行させて、暗くならない中に野営の用意をさせることにした。更に一峰を踰えて暫く行くと、右手に無数の偃松の枯骨が白くされている斜面に出た。踏むとポキポキ音がする。赤石岳の一角が入日を受けてパッと金茶色に燃え立った。夫も間もなく消えて、夕闇の罩めた谷間に焚火の光が見え出すと、木を伐る音が丁々と聞えて来る。急に火が恋しくなって急いで其方に下って行った。
この野営地は聖平のように絶好の場所ではないが、水も燃料も極めて豊富である。聖岳のシルエットが南に開けた谷の空に大きく立ちはだかって、中腹のあたり二条三条の雪がほの白く暮れ残っていた。もう遅くはあったし、それに霧もあがって宝石を蒔き散したような星空となったので、天幕は張らず草の上に拡げた
儘、三人とも其中に潜り込んで寝た。朝起きて見ると夜露と人いきれで、天幕の外も内も水を打ったように濡れていた。
其翌日私は赤石岳に登って大聖寺平に下り、
西河内岳に登る途中、大雷雨に
遇い、奥西河内を少し下った水のある所で野営し、八日の早天に悪沢岳の頂上に立って、沼津辺を走る汽車や東京湾に浮ぶ汽船を眺め、房総半島から伊豆半島は勿論、遠く知多半島を超えて伊勢の海を望むなど無比の眺望を恣にし、更に小河内岳まで北進を続ける筈であったが、味噌も塩も尽きたので、止むなく井戸沢から小渋の谷に下りて大河原に出た。然し私の目的は大井川奥山の聖岳以南を紹介することを主として此稿を草したのであるから、比較的記文に乏しくない赤石岳以北は略することにしてしまった。他日機会があったら此附近を主題として書いて見たいと思っている。
(大正九、七『新家庭』)