奥秩父

木暮理太郎




 秩父という名が大宮を中心とした所謂いわゆる秩父盆地に限られていた時代には、武甲山や三峰みつみね山などが秩父の高山であるように思われていたのも無理ではない。今から約百年前の文政七、八年頃に出来上った『新篇武蔵風土記稿』を見ると、少し高い山ではわずかに三峰山、武甲山、両神山および雲取山などが挙げられているだけである。三峰山は古くからお犬様で名高い神社のある山で、現に三、四百人位は泊れる設備がしてある程であるが、山というよりは山腹というた方が適当である尾根上の平地であって、その奥に妙法、白岩、雲取の三山があるから、それで三峰というのだという説がある。武甲山と両神山はいずれも石灰岩の山であって、それが外部から働く力に侵蝕されて鋸歯の如く筍の如き岩が聳立し、山貌が奇抜である為に人目に付き易く、それで早くから持てはやされたのであろうと思われる。
 しかし三十四番の観音に参詣する巡礼の姿が絶えて、リュックサックを背負った登山者が入り込むようになり、舞台が平原から山地へ、麓から頂上へと移って行くにつれて、秩父という名の表す範囲も自ずと広いものとなってしまった。昔は秩父郡のそれも平野の縁までに限られていたものが、いつしか武甲信の三国にわたる広大な山地をも含むようになって、奥秩父なる新称がこれに与えられた。荒川、千曲川、笛吹川、多摩川等の巨流は、皆この奥秩父を水源地としている。試に武甲信の三州界に兀立ごつりつする甲武信こぶし岳の頂上に立って俯瞰すると、千曲、笛吹、荒川の三川が三本の糸をつまみ上げたように直ぐ脚の下まで上って来ているのを見るであろう。こう舞台が変っては武甲山や両神山などが、僅に口元秩父に於ける高山として存在を認められることになったのも止むを得ない次第である。

 ついでに両神山のことを少し書きたい。この山は大宮盆地に臨む武甲山ほどむきだしではないが、夫でも前には丘陵地が横たわるのみで、直に関東の大平原に面しているから眺望は非常に広い。高さも武甲山よりは三百八十米余も高く、千七百米を超えている。昔日本武尊やまとたけるのみことが東夷征伐の途上この附近をお通りになった時、八日の間、この山が見えていたというので、八日見山と名付けられたという古事は、一方からいえば山の眺望の広闊なることを証拠立てるものである。河原沢村では竜頭山と唱えたようであるが、この名は今日では特に両神山の中の一峰に与えられた称呼となっている。
 今でこそ此山へ信心で登る人など数える程しかあるまいが、維新前までは三峰にも劣らず多くの登山者があり、また道場といい得る程の行場ぎょうばはなくとも、別当はそれぞれ当山派と本山派とに属する修験であったから、山伏や行者も相当に山入りをしたものらしい。その所為せいか登山道も、日向大谷ひなたおおや(明神社別当観蔵院、当山派修験)からの表口の外に、浦島(権現社別当金剛院、本山派修験)から両見りょうげん山に上って、長い尾根を西に伝い、二子山、三笠山などを経て表口に合するもの、白井差しらいさすから登って、三笠山の西で表口と浦島口とに合するもの、及び中津川道などがある。お天理ヶ岳(天治ヶ岳)から東岳に連る尾根や、其南麓を流れる七滝沢なども、行場として修験者などは登降したらしい形跡が見られる。但し表口と白井差道との外は、孰れも荒廃しているので、不明の箇所がすくなくない。しかし仏にちなめる石碑や石像が沿道に多いことは、登山の隆盛であった昔を語るものであろう。殊に表口に於ては一町ごとに石碑が建ててあったようである。
 竜頭山というのは、竜頭大明神が祭ってある為の名であるが、うちに里宮があり、奥ノ院の小祠は東岳と西岳との間の鞍部で、五万の図でいえば、東北麓の尾ノ内沢の源頭に当る尾根に、千五百六十米の小圏で現された小隆起の西側に安置され、尾ノ内沢に沿うて急峻な賽路が通じている。其処そこから東に尾根を伝いて東岳、更に南に転じて女座山、男座山を経て頂上へ達することも、又は西して西岳、行蔵坊をえ、八町峠の路に合することも、共に藪には苦しめられるが困難という程でもない。
 山貌の怪異な所から推して、定めし妙義山などを凌ぐような面白い山であろうと想像されるが、実際登って見ると夫程のことはないので、いささか物足らぬ感が起る。勿論石灰岩の山であるから、危峰怪岩が簇立そうりつしていることは言う迄もないし、又懸崖峭壁も至る所にそばだっている。けれども最も高い東覗ひがしのぞきや狩倉の岩壁でも百米前後であって、其他の天武将、佐佐伏、海老弦などいう岩は、ずっと低い。それでも全山が霧にめられている時、その霧の浮動するに連れて、尖峰や奇岩がすうと半天にあらわれたり隠れたりするのを、近く麓から仰望していると、思わず「高いなあ」と言わずにはいられなくなる。
 赤岩川に向っている南側の斜面は、鉱山が開けた為であろう、木は皆伐り払われて、山が浅くなった感がある。之に反して北側は、岩峰の上まで鬱蒼たる樹林に掩われ、うす暗い谷に臨んで突立っている崖から、長い蔓性の木本が垂れ下って、吹きあげる風に揺れながらもつれ合っているさまをふと見ると、南国の山奥へでも入ったような気がする。頂上附近にはサルオガセをつけたつがや五葉松が多い。けれども石斛せっこく巻柏いわひばは少ないようである、植木取りに乱採された結果であろう。

 奥秩父には二千米を超えている山が三十座以上もある。夫等の山も其間に挟まれた谷も大抵は既に探り尽されて、真に人跡未蹈の地は極めて小部分の外残されていないが、秘密境というような場所は、残念ながら秩父には無いというてよかろう。して武陵桃源とも称すき土地などは、狭い山中にあり得可き筈がない。谷間の奥の僅ばかりの平地に、十二、三戸の人家がさびしく立ち並んでいるのを見ると、いつも気の毒という感じが先に起って、詩趣などはなかなか湧いて来ない。一家の生計を優に支え得べき収穫をもたらす豊饒な耕地を有するか、又は天与の恩恵に浴し得る土地でなければ、美しい山村の面影などは容易に見られるものではない。私ははじめ地図の上で中津川の部落を見出した時、これは恐らく山中の別天地ではあるまいかと想って非常に懐しく感じた。実際を見るに及んで其想像の誤っていたことを知った。※(「石+角」、第3水準1-89-6)こうかくな土地と荒れた住家と生気に乏しい人間とに接して、私が勝手に想像していた美しい山村の幻影は忽ち破られてしまった。此処では馬鈴薯が常食だそうである。
 しかしながら私どもは、恵まれた環境や整った外観を、美しい山村の要素として、必ずしも欠く可からざるものであるとは考えていないから、私の言葉は少しいい過ぎたようである。それよりもあの素朴な態度と敦厚とんこうな人情、不自由に安んじて物に屈托しないゆったりした心がまえ、それらをこそ何と勝手にも私どもは、常に山村の人達に期待し要求している。そしてそれが叶えられ満たされた場合に、初めて美しい或は懐しい山村として、人に語りもし又世に伝えもするのである。しかも私は恵まれない環境に在りながら、私どもの勝手な要求を充たして尚余りある多くの山村を知っている。これはまこと哀しい世相ではあるまいか。私は此等の人達から知らず知らずの間に受けた多くのおしえについて、いつも感謝している。
 興味ある伝説やローマンスの如きも、私が丹念に探さぬ為であろうか、余り耳にしたことがない。尤も多摩川上流の村々には平将門に関する伝説がなり多いけれども、詳しくは伝わっていないのである。ただ三峰のお犬様に就いて聞いた所を記して見よう。
 前にも一寸ちょっと書いたように、三峰といえば名高いもので、恐らく関東では誰知らぬ人もあるまいと思う。今でも田舎へ行くと門の柱や家の入口に三峰講と書いた古い木札が打付けてあるのを見懸るであろう。元は何万という信徒があって、関八州は申すに及ばず、甲州や信州方面からも講中が陸続と参詣して、お山の繁昌は五十八町の登路を人で埋めたこともあったという。それも皆お犬様のお蔭である。お犬様は火防盗難除けの神として、又作物を荒す猪、鹿、狐其他の害獣退治の神として深く崇められていた。それで信徒は一定の扶持料を納めてお犬様を借り受け、家の守護神とする。この分身を請い受けて帰る途中では休憩を許さない。し仮にも泊ったり休んだりすれば、お犬様は其家に止って其家の守り神となってしまうと云われている。尤もこの言い伝えは各講によって違っていたようである。夫であるから遠方の人は中継ぎの人を途中に幾人も配置して、昼夜兼行して帰ったものである。そうしなければ折角せっかくの分身も甲斐なきものとされていた。
 夫なら其お犬さまとは何かと聞かれると実は返答に困る。八幡様の鳩やお稲荷さんの狐は誰も知っているが、三峰のお犬さまは見た人がない。いや無い訳ではない。私は不幸にして一度も現場に出会わなかったけれども、四、五度はたしかに姿を現わしたに相違ないようである。勿論私の知っている限りという条件が付く、それはこうだ。
 伝説にると景行天皇の御宇に日本武尊が東夷を征伐して、甲州から武州へ越えられる際に今の雁坂かりさか峠を踰えて三峰へお出になった。其時道に迷ってお困りになっていると、忽然として二頭の神狼が現れ、先に立って御案内をしたのでつつがなく御登山なされた。そこで尊は山上に伊弉諾いざなぎ伊弉冉いざなみの二神をお祭りになり、この狼を永く神使として附随することを許されたということである。これがお犬さまの始りであるが、同様な伝説は御岳にも武甲山にも又両神山にも伝わっているので本家は何処であるか判然しない。然し両神山は少し不便であり、御岳や武甲山は余りあらわなので、中間の位置を占めている三峰がお犬さまの本家となってしまったのかも知れない。
 此山では「おげ」と称して毎月十九日に一斗五升の小豆飯を炊いて、それをお犬さまに供えるのが例だ。勿論山の中の一定の場所である。丁度大老井伊掃部頭かもんのかみが桜田の雪と消えた万延元年の秋だったということである、上州の片田舎から参詣に出懸けた講中の一人がお犬さまの姿を拝みたいと思って、供飯の式がすむとこっそり後に残り、悪いと知りつつ独り木蔭に隠れて見ていた。其うち生憎あいにく頻りと便を催して来たので、勿体ないとは思いながら止むを得ず紙を布いて用をたしていると、不図ふと二、三間先に闇にも輝く二つの目玉が現れた、続いて耳まで裂けている大きな口から赤い舌の垂れているのが朦朧と認められた。まさしくお犬さまである。驚いた彼は一目散に逃げ帰ったまま二、三日は口もろくにきけなかった。のぞみの叶った嬉しさで胸が一杯になった為かも知れないと語り伝えられている。
 これも同じ頃に信州中野の人がお犬さまを借りて急いで帰る途中、ふと彼のいましめを忘れて茶屋に休んで昼食をつかった。横川まで来るとハッと気が付いて包を明けて見た、果して大事なお姿の札が紛失している。青くなって取って返し、先の茶店の附近まで来ると見慣れぬ小犬が紛失した札をくわえて人家の入口に立っている、そこで思い切って「三峰からお出になりましたか」と聞いて見た。すると小犬は見る見る大きなお犬さまの姿になって「ウオー」と答えたということであるが嘘のような事実であるという。
 先年私が南日なんにち君と三峰へ行った時、神社の裏手の三峰村の老人に聞いたことがある。其老人は若い頃に一度お姿を見たことがあると話した。其話に拠るとお犬さまは、一本の木一本の草があれば、自在に身を隠すことが出来るので、容易に姿は拝めない。然し山に雪が積ると足跡が残る。其跡は犬よりも少し大きく、かつみずかきがあるので足の指の間が切れていないという。或時老人が熊を捕る目的で一丈五尺ばかりの陥穽おとしあなを掘って置いた。すると如何したはずみかその中へお犬さまが墜ちていたので、太い藤蔓で編んだもっこを入れて引き上げようとした。それをぽつりぽつりと噛み切って穴から飛び出そうとする。一丈二、三尺は飛び上るが今一息という所で出られない。今度は太い綱を下して咬み付いた所を手早く曳き上げた、お犬さまの足が地に付いたと思う途端に早くも姿は掻き消すように見えなくなったという。老人は語り終ってから、あらたかな神さまですから御信心なされば屹度きっと御利益がありますと付け加えた。
 奥秩父には誇るに足る可き四つの勝地がある。山では金峰きんぷ山、高原では梓山村の戦場ヶ原、渓谷では笛吹川の上流東沢と西沢、森林では入川いりかわ谷の奥なる真ノ沢と股ノ沢に亙る一帯の大森林がそれである。この四つのものは何処へ出しても恥かしくない。それらに就いては既に幾度か紹介の筆を執ったことであるから、ここには略することにする。
 奥秩父へ旅する程の篤志家であったならば、或は真に秩父の山水を知りたいと思う人であったならば、東沢西沢は別としても、其他の三者は是非とも探られんことを希望する。夫には四日あれば充分である。甲府方面から金峰山に登り、川端下かわはげより梓山に出て、十文字峠を踰え、栃本を経て帰京するか、又は之を逆に行うもよいであろう。くて初めて奥秩父の山水を大観したものと称して差支えないのである。
(大正一一、八『新家庭』夏期臨時増刊)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「新家庭 夏期臨時増刊」
   1922(大正11)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード