鹿の印象

木暮理太郎




 大井川奥の田代から入って三伏さんぷく峠まで、十数日にわたる南アルプスの縦走を企てたことがある。大正三年の夏で、その二年前に友の一人が初めてこの山行を試み、雨の為に散々に悩まされた話を聞いていた。それで是非ともその時の案内人夫を伴いく思ったのであるが、生憎あいにく一人も都合がつかなかったので、別人を雇う外はなかった。谷筋には相当明るい猟師であっても、山の上は全く知らないのであるから、初登山も同様で甚だ頼りがない、ただ二年前にかくも友の一行が通過しているということが一の心強さであった。
 現今のように登山路がぼ完成し、至る所に指導標が建てられ、随所に小屋が設けられて、途中で迷う憂もなく、小屋から小屋へと辿って行きさえすれば、楽に目的が果されようという時代になっては、わざわざ人夫を雇って、天幕や食糧を担わせ、野宿の苦を忍んで、幾日かを山上に放浪した昔のような山旅をして見ようという物数寄ものずきな人もなかろうし、山もまたさぞ変ったことであろうと、手近な秩父あたりの有様と較べて想像しながら、昔懐しく思うのである。
 この山旅で最も興深く感じたのは、山上に鹿の群と羚羊かもしかの多いことであった。冬の間は比較的麓の方に下っているのだそうであるが、晩春になると雪解の跡に萌え出づる瑞々しい芳草をうて、上へ上へとのぼり、夏は全く山上を棲処としている。偃松はいまつの途切れた間や、短矮たんわい唐檜とうひ白檜しらべのまばらに散生している窪地や斜面に、や広い草原が展開して、兎菊うさぎぎく信濃金梅しなのきんばい丸葉岳蕗まるばだけぶき、車百合などが黄に紅に乱れ咲き、其中に肌の稍白いこんもり茂った天狗樺(方言)の老木が横に伸びて、草原に涼しい緑の蔭をつくっているような処があれば、其処そこはきまって鹿の群が昼寝をする臥床となっていた。天外の楽園に甘睡を貪っていた一団が、近づく人の気配に夢を破られてドッと跳び出した瞬間、眼の前に巨弾が炸裂したかのように感じて、何事が起ったのかと吃驚びっくりする。見ると褐色の群が花を蹴散らして、驀地まっしぐらに谷の方へ駆け下りて行く。それで漸く鹿だなと安心する。
 鹿の群は少ない時で八、九頭、多い時は二十頭近くもいた。霧の中で判然しなかったが、鳴声から察して更に多かろうと想われることもあった。これを支配する牡鹿は、小群では一頭、大群でも二頭か三頭に過ぎないらしい。大きな角をグッと後に伏せて、牝鹿を周囲に従えながら、草原を驀進する光景は、凄味に欠けていても相当な見ものである。
 猟師の所謂いわゆるノタも鹿の好む場所である。小石交りのじめじめした、草も木も生えないぬかり気味のある山上の平な窪地で、それをこね返して夢中になって遊んでいるものだと猟師が話して聞かせた。草原を食堂兼午睡処とすれば、ノタはさしあたり運動場兼娯楽室とも称すべきものであろうか。この話を聞いてから間もなく、素晴らしいノタを見物する機会が到来した。
 霧の深い日であった。山稜を成す大尾根が北と南からたがいに擦れ違うようにして、其間に抱え込んだ窪地は、四方を偃松に取り捲かれた絶好のノタであった。霧は音もなく其上を流れて、まぼろしに似た奇怪きかいなものの姿が大きく、また小さく、あらわれたり隠れたりしているのが眼を惹く。動いているように想われる。いやたしかに動いている。岩ではない、熊かな、考えてぞっとする。しかし熊は一と処にこう沢山集っているものでは決してない、何だろうと立ち停っている後から、案内の猟師が来て「旦那、本鹿だ、畜生、ノタでふざけていやがるに、鉄砲がありゃなあ」と小声で囁きながら、持って行くと言った鉄砲を荷が多いからと私が止めさしたことを頻りに口惜しがる。ニクという俗称のある羚羊に対して、鹿をホンジカと大井川奥の猟師は呼んでいる。少し霧が薄らぐと成程鹿であることが私にも判然した。しかも十五、六頭の大群である。霧に隠れた奥の方にもまだ五、六頭は居るらしい。牡鹿は三頭であった、其中そのうち一頭は群を抜いて大きく、後で蹄の痕を見たら牛のもの程あった。起っているもの、足を伏せているもの、互に体を摺り寄せているもの、舐め合っているもの、歩き廻っているもの等さまざまであったが、この温和な動物は案内者が「ふざけていやがるに」と言った程、嬉戯きぎしているとは思えなかった。西北のなり強い風は、ざわざわと偃松の海を浪立たせ、風下で小声にとり交わす三人の言葉なぞは、掻き消されて聞える筈もない。鋭敏な嗅覚も風上にいては宝の持ち腐れも同様であろう。偃松の繁みに隠れて、暫くこの平和で長閑のどかなさまをじっと眺めていた私達は、野獣、しかもおとなしい野獣を前にして、恐らく祖先から伝わる残忍性の血潮の衝動からであろう。言い合せたように忽ち荷物を其処にげ出すと、大声に喚きながら、鹿に向って突進した。周章狼狽した彼等は、地を蹴って虚空を躍るように、大井川の谷を指して一散に逃げ出し、間もなく霧の中に姿を没してしまった。少し離れた奥にいて逃げおくれた四、五頭の中には、小石の一つ二つを横腹か尻のあたりに見舞われたのもあったように想う。
 同じ日の午前であった。巨大なる嶄巌の聳立した山の頂上で、行手の方向に迷ってしまった。霧で展望が利かないから尾根の続きが判らない。それで各自に心当りの方面に踏み跡を探し廻った。私は不図ふと灌木状を成して繁っている黒木の間に小路を発見して、暫く之を辿って行くと急に遠山川と思われる方面を指して降りとなり、その降りが余り激しいので、之は信州からの登路であろうと判断し、引返して元の頂上に出ようとする途中でまたもや迷ってしまった。止むなくいい加減に見当をつけて上って行くと一の隆起に達した、木立は疎らで草丈が高い。その斜面には掻き取られた土が平にならされ、広さ三尺もある段が作られている。数えると附近に二十余りもあった。段の上には小枝や草が敷かれ、枯れて色の変ったものもあれば、新鮮な青い色のものもある。私は先の小路と思い合せてわれ知らず声を立てて笑った。何だ人が居るのじゃないか。しかし人家から四日路も離れた二千六百米の山上に鍬を肩にして登って来るものとすれば、この土の段は何の為に作られたものであろうか。私の顔面筋肉はにわかに硬直して、苦虫を噛み潰したように醜くゆがんだに相違なかった。物のに襲われた気持というのは即ちこれであろう。私はあわてて近くの木に攀じ上り、霧のれるのを待つことにした。其の時である。ピューンピューンという何かの声が霧の底からかすかに聞えて来た、冴えた尻上りの細いがよくとおる声だ。耳を澄せば近いようでもあり、遠いようでもあり、鳥か獣かそれすらも分らぬ。私は其声に射竦いすくめられて、三十分余りも樹の枝にしがみ付いていた。するとさっと霧が開けて、右手に目的の尾根が現われる。声を揚げてオーイと呼ぶと、十五、六間離れた樹の上で、矢張やはり霧の晴間を待っていたらしい案内者が笑顔を向けて「オー、旦那そこに居たかね」と答える。一緒になって、さっきの声はありゃ何だとただせば、鹿の声だと無造作である。土の段は。そりゃ奴等の作った寝場所でさあ。これで三十分も私を苦しめた謎の正体も飽気あっけなく解決されてしまった。
 連れて行った若い人夫は、案内の猟師の義弟であったが、骨格逞しく力があって、天幕から防寒具食糧品を合せ、十貫に余る荷を一人で背負って歩いたのには驚嘆した。森林の伐採が始まれば、いつも木伐りの方を働くというだけあって、小屋掛けが好きで手慣れていた。野営地に着く早々、天幕を張れというのを聞き入れず、大鉈おおなたふるって頃合いの木を伐り、四本の柱と四本の横木を用いて骨組を済すと、枝を籠目に編んで四方を囲い、白檜の皮をたくみに剥ぎ取って屋根を葺き、羽目を当て、床を張り、ものの四十分と経たぬ中に一坪余りの小屋が出来上る。三人には勿体ない位の広さだ。そして私の為には、特に米栂こめつがの細い枝先を五寸余りも積み重ねて、其上に天幕を敷き、さあ旦那の座敷が出来たにと、懐手して感心している私を招じ入れる。寝る時は天幕の中にもぐり込む。青葉のいきれでふっくらと暖い、いい気持だ。夜中にふと目が醒める、二十日余りの月がぼうと明るく谷間を照して、例のピューンピューンと鳴く鹿の声が小屋をめぐって遠くまた近く、終夜聞えているらしい。私はうつらうつらと其声に聞き入りながら、いつかまた快い眠りに落ちて、夜の明けたのも知らないのであった。

 其後二十五年の歳月が流れた。大井川の谷はひじり沢あたりまで、見る影もなく伐採し尽されたという。あの鹿の群は一体どうなったろうか。私は霧に苦しめられた三日間を回想する毎に、今もその事が気になって仕方がない。
(昭和一〇、八『文藝春秋』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「文藝春秋」
   1935(昭和10)年8月
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード