渓三題

木暮理太郎




 いつぞや秩父の長瀞ながとろ見物に行って来た人が「どうもいい景色ですな、あんな所は山の中にもそう沢山はありますまい」というて、その話をして呉れたことがある。私は黙ってそれを聞きながらも、始めてあれを見る都の人には無理もないことだと思った。しかし長瀞は秩父赤壁などと大袈裟に宣伝されてはいるものの、河の両岸が極めて古い地質時代の岩石から成っていることが少し珍しいだけで、取り立てていう程の景色ではない。紀州の瀞八町、信州の天竜峡、近頃有名になった長州の長門峡などは言うに及ばず、小さな所で甲州御岳みたけの昇仙峡にすら劣っている。つまり長瀞程度の山水ならば、日本国中至る所に存在しているのである。し山水の景致ということを主として番付でも作るとしたならば、恐らく長瀞などは夫に載る資格はあるまいと思う。
 今迄世に知られて居る名高い渓谷の多くは、火成岩または火山岩から成り立っている。瀞八町は中世紀の水成岩が浸蝕作用を受けて作った美事な峡谷の標本であるが、火山岩の谷は暫く措き、其他の長門峡でも天竜峡でも、又は石狩川上流の大箱小箱にしても、皆火成岩類の谷である。これは火成岩の岩質にるものであろう。中にも豪壮とか偉麗とかいうような文字は、花崗岩の山水に最もふさわしい形容詞であるといえる。そして私の知っている範囲では、日本の如何なる峡谷を持って来ても、遂に黒部峡谷に及ぶものはない。長さ二十里に余るこの大峡谷は、実に豪宕ごうとうと偉麗とを合せ有し、加うるに他に容易に見ることを得ない幽峭ゆうしょうと険怪とに満ちている。この規模を小さくしたものに双六すごろく谷があり、更に一層小さくしたものに都近い所では、笛吹川の上流東沢西沢がある。私は今其一斑を読者に紹介するに先立って、美しい渓谷を作る要素に就て少しく述べて見たい。美しいといっても単に優美という狭い意味ではなく、素晴らしいとか物凄いとかいう意味をも含んでいるものと思って戴きたい。

 渓谷を美しくする要素として、第一に挙げたいのは水の色である。水が濁っていると淵も瀬も区別がつかなくなる為に、著しく浅いという感じが起る。ながれが急であると猶更なおさら其感が深い。勿論水嵩が増せば奔放のいきおいは倍加するに相違ないけれども、水の運動の見える所は表面だけにとどまるので、わば臆病者の長刀と同様、真の恐ろしさに欠けている。但し大洪水のような特別の場合は例外としなければならぬ。水が澄んでいればいる程、渦巻く淵の色はあくまで紺碧に冴えて、その中では蛇体の如く蜿曲した力強い水の幾うねりが無数の気泡を含みながら、白い尾を曳いて絡み合いもつれ合い、ぐらぐらと湧き上ったり沈み返ったりしているのが見える。それが淵から溢れて急な河床を矢のように奔下する際、水底にわだかまる巨岩に激して、其上を滑るように躍り超えると、高くもたげた波頭が白く砕けて、雪を噴く瀬の音が谷一ぱいに鳴りどよめく。この紺碧の淵と雪白の瀬とは水の清い谷川でなければ見られない。
 次には美しい渓流の母である森林を挙げたい。雨が降るとすぐ川水が濁るのは、森林に乏しく崖崩れが多い為で、従って大洪水の原因となることが稀でない。深い森林の懐に育まれた谷川は、如何なる大雨が降り続いても決して濁らぬ。森林は洪水の害を緩和し、流水を澄徹ならしめ、空気を清浄ならしめる。深い森林と澄める水と清い空気とは、山容水態を美ならしむる所以ゆえんであって、若し森林がなかったならば、如何に谷が入り込んでいようとも、幽邃ゆうすいの趣はついに見ることを得ないであろう。花も咲かず鳥も歌わぬ赤裸の渓間では恐らく仙人といえども一日も暮されまい。
 森林にも闊葉樹林と針葉樹林とがある。闊葉樹林は概して明るく快活であるが、針葉樹林は暗く陰鬱である。谷川の趣もまたこの周囲を取り巻く森林に依って、明るくなったり暗くなったりする。それが人の心をも同様に支配するから面白い。しかし闊葉樹林でも谷が狭く、両岸から生い茂った大木の枝と枝とが空も見えぬまでに蔽いかぶさった所では、いつも斯様かような場所にのみたむろしている暗く冷い空気が不安に満ちた人の心に犇々ひしひしと迫って来る。奥羽殊に羽越の国境に蟠崛する飯豊いいで、朝日の連峰に取り巻かれている谷や、奥上州から信越の国境にわたる山脈中に抱かれている谷などは、大部分これであって、密生した灌木と根曲り竹とを下生とした原始の森林は、通過することが非常に困難であるし、狭い上に岩壁の高い谷は、遡行は不可能であるから、山が低いにもかかわらず、谷の奥を見上げる人をして、思わず「深いなア」と嘆声を発せしめる。北アルプスは言う迄もなく、大井川にもこれ程の深い森林はそう多くはない。この意味からして私は、木の葉が落ちて山肌の露れた晩秋初冬の頃よりも、新緑の候が谷を見るに最も好い季節であると信ずる。

 試みに新緑の谷間を遡って見玉みたまえ。最奥の部落を離れて間もなく水際に大きな葉を拡げた大木の梢に、白い花のむらがり咲くのを見るであろう。それは一かかえも二抱もあるとちほうの木だ。近くには何かの木に絡み付いた藤が、紫の花を房のように垂れ、上越の山地であると、谷卯木たにうつぎの紅花が水に映っている。山鳩や郭公かっこう物静ものしずかな鳴声がおちこちに聞えるのもこのあたりである。傾斜の緩い河沿いの段丘を辿って行くと、落葉松の若芽が浅緑に萌え、青葉を背景とした白樺の白い幹は益々ますます白い。春蝉はるぜみらしいものが鳴き出した、河鹿かじかの声に似ているが更に細くかすかで、とおるようにほがらかだ、森の精が歌っているのではなかろうか。いつか燕万年青つばめおもとの白い花が路傍に咲いている林に出る。深いぶなの純林である。林の奥では蝦夷春蝉が雨の降りそそぐように鳴いている。初夏の強烈な日光も青葉若葉の蔭に吸い込まれて、地面まではとどかない。陰湿な気がうら淋しくあたりをめている。米栂こめつがなどの針葉樹が混って来ると、岩ウチワの薄桃色の上品な花が見られるようになる。曙躑躅あけぼのつつじ石楠しゃくなげ色鮮いろあざやかな紅花があやに咲き乱れているのもこのあたりである。谷の空では時鳥ほととぎすが頻りに鳴く。河が少し開けてかわらに下り立つと、水の流れた跡が箒で掃いたように残っている砂地には、鹿や羚羊かもしかの足跡が無数に印せられている。行手を見上げると、黒木立の間から岩崖の露出した幾重の山裾がのし懸るように重り合って稀に入り込む人を威嚇せずには置かないであろう。谷が著しく険悪の相を呈して来るのは、多くの場合闊葉樹林を離れて針葉樹林に移るあたりから始まる。しかし私は其探検の筆を他日に譲って、今は此処ここから引返すことにする。

 最後に両岸の地形は、見免みのがすことの出来ない要素である。清澄な水と深い森林とがあれば、谷川の趣はそなわるとはいうものの、活躍する水の姿態は終に見られず、従って変化に乏しいうらみがあり、豪宕の偉容に接することを得ないであろう。若し両岸に岩石を露し、それが時としては聳抜して、懸崖となり絶壁となり、谷の屈曲につれて、屏風を拡げるように展開したならば、渓谷の相貌は見違える程立派になる。そして岩が大峡谷の構成に最も適した花崗岩であり、絶壁の高さが増し長さが加わり、崖上に樹林を纏い、※(「靜のへん+定」、第4水準2-91-94)らんてんの水が一道の迅流となって、百仭の谷底を駛走しそうするに至って、始めて壮絶凄絶の極に達する。黒部川は即ちこの代表的に発達した峡谷の標本である。

 近年登山が盛んになって、山に登る人は幾万を数うる程であるが、谷に入り込む者は極めて少ないので、目ぼしい山は殆ど登り尽されてしまったけれども、多くの谷は全く処女の谷として残されている。東北の山地には殊にそれが多い。其中で黒部峡谷は、早くから登山者の注目する所となっただけに、非常な危険と困難とにも拘らず、熱心なる渓谷の憧憬者に依りて、其大部分は探ることを得たのである。
 五、六年前、私は初めて黒部川を仙人谷まで遡った記事を書いたことがある、あれを読まれた諸君は既に承知されていることと思うが、この峡谷で最も目をおどろかすものは、何よりも其岩壁の途方もなく素晴らしいことである。黒部別山べっさんの大タテガビンや奥鐘おくかね山の絶壁のように、他に類例を認められないようなものは別としても、五、六十米から百米前後の高さに屹立しているものは、珍らしくないのである。この大小の岩の屏風は、屈曲が甚しく、岸から岸へと溢れる水は岩をこづきながら、怒鳴り立て、喚きちらし、思うさま荒れ狂っているが、或所では声をひそめてすういと流れている。それでいて実は目がくらむほど流れは速いのである。
 鐘釣かねつり温泉から黒部川を遡ろうとする人は温泉附近で百貫ひゃっかん山や名剣めいけん山の岩崖をのけ反るようにして眺め、猿飛のあたりでえぐり削られた岩磐に水と岩との凄じい闘争の跡を俯瞰し、少なからず心を驚かすであろうが、奥鐘山の削壁を仰いで、其単調な偉大さに今更のように呆れない人は無いであろう。

 黒部峡谷の険怪と豪宕とは、上は内蔵之助くらのすけ谷から下は仙人谷に至る約二里の間に極度に発揮されている。立山に登ったことのある人は、其東北に当り、別山から派出された黒木の茂った山が、南北の方向に長い頂上を展開して、黒部川に突き出しているのを見るであろう。これは黒部別山と呼ばれている。即ち北は劒沢と南は内蔵之助谷との間へはみ出すように割り込んだ、岩骨の逞ましい山で、黒部川に面した東の山側は、奥鐘山に劣らぬ高い絶壁をなして居る。黒部川はこの黒部別山の赭黒あかぐろい岩壁に撞き当ると、これを突破することが出来ないので、東北の方向に転ずるが、其処そこには後立山山脈の派出した峻直な尾根が行手を遮っているので、仕方なく其鼻づらを蹴破って、再び北に向い、黒部別山の裾をこづきながら、岩崖の底深く一条の活路を開いている。黒檜、白檜しらべ唐檜とうひなどの針葉樹が岩の斜面にしっかりと根を下ろして、薄暗い蔭をかざしている木の間伝いに、どこからともなく大嵐の吹きすさぶに似た音が響いて来る。仙人谷や内蔵之助谷の落口に近い崖上に立って俯瞰すると、とろりとした油のような水が青白い表面を見せて、悠々と澄し込んで流れている。無数の岩魚が木の葉を散したように泳いでいるのが見透せる程透明であるが、深淵の底は蒼黒く沈んで深さが測られない。不思議な魔力を湛えながら沈黙している水の姿ほど凄いものはあるまい。
 若夫崖から下り立って青澄んだ黒部本流の水を目のあたりに見る時、表面は悠々と澄し込んでいる流の動揺の激しいのにおどろく。あの急湍を弾かれるように泳ぎ上る岩魚が何か餌を見付けてすいと浮き上りさま夫をついばむのは、目にも止まらぬ速さで行われるが、それでいて四、五間は押流される、そしてもとの群れに帰ろうとして水に抵抗して溯るときの魚の努力は、ぴたりとひれをつけて棒のように突張った体の動作から窺われる。私は水を眺めてぼんやり立っている間に、これだけのことを印象されたが、かすかに心の戦慄を禁じ得なかった。
 名高い黒部川のしもの廊下の中でも、黒部別山附近は其中心になっている。岩壁は高く、流は深淵と激流との連続であり、左右から落ち込む谷は、皆吊懸つりかけ谷で、落口には大きな瀑がある、全部之を探るのは容易なことではない。私はまたいつか前途によこたわる幾多の困難や危険を予想しながら不安と希望とを抱いて、夜の明けるのを待ち遠しく思った、あの忘れ難き野営の幾夜を、再びこの峡谷に繰返した後でなければ、其秘密の境地を読者諸君に紹介することが出来ないのを遺憾とする。

 双六谷は尻高橋の近くにある「盤の石」から名付けられたものであるといわれている。この石は小さな花崗岩の一片であるが、古くから土地の人に恐れられていた。それに触ると祟りがあるというので、今でも柵の中に囲まれている。二人の鬼がこの石を盤として双六をやっていた、そのうちに夜が明けたので、慌てて骰子さいころだけは川へ投げ込んだが、盤の石は重いので其場に棄てられたまま未だに残っている、賽が淵は即ちさいころの投げられた所であるという。
 双六谷が峡流らしくなるのは、最奥にある金木戸の部落を後にして、笠ヶ岳を西から北へ大廻りに廻るあたりからである。桑崎山の東にあたる辺には、大滝や深淀などという徒渉としょうに困難な場所があって、谷の中を遡ることは相当に骨が折れる。殊に北俣川の合流点は黒部の祖母ばば谷に似て恐ろしく谷が深い。けれども黒部川が林道のお蔭で祖母谷までは楽々と歩けると同様に、右岸に通ずる林道を辿れば、黒部五郎岳から西南に延びた支脈の突端、池尾山の南に位する広河原迄は、金木戸から半日で行かれる。双六谷の真の水の美と岩壁の痛奇とは、これから上流にあって、背が黒い斑の大牛が主であるという黒淵や、青淵、長瀞などの深潭が見られるそうであるが、私の足跡は残念ながら広河原以上に及んでいない。しかしながら私の見た所では、双六谷は黒部のような壮大な岩壁よりも、寧ろ水と森林との美しさに於て優っているのではないかと想われた。
 双六谷に就き、如何にも幽怪な魔所の聯想れんそうを喚び起させるのは、橘南谿たちばななんけいの『東遊記』の中にある「四五六谷」の一文である。しかし事実は、船津の者が二人で此谷の奥を窮めようとして、川沿いに数日尋ね入ったところ、或場所でふと互の顔が異形の化物に見えたので、驚いて逃げ帰ったという話を、伝聞のままに書いたものに過ぎないのである。

 笛吹川の上流東沢西沢は岩壁の壮大なことは或は双六谷を凌ぐものがある。東沢の一部では、鶏冠とさか山の懸崖が水際から殆ど千尺の高さに屹立している。瀑の多いことも亦この谷の特色で、殊に西沢の五つ淵と呼ばれているものは、全体では百米を超えているであろうと思われる花崗岩を、五、六丈の瀑が五段となって奔下し、一つ一つの瀑には直径七、八間位のまるく抉れた摺鉢状の瀑壺があって、土地の人は之を釜と唱えている。釜の水は瀑に打たれて水烟を揚げ、縁から溢れ落ちんとして落ちず、二、三回ぐるぐると渦を巻いているが、終に滑るように縁を乗り超えて、地響をうって、下の大釜に躍り込むのである。下から見上げても上から覗き込んでも、深い森林と水烟に遮られて、全部を一目に見渡すことは出来ない。ただ岩壁に反響する水音ばかりだ。
 東沢には法螺の貝の奇峡がある。ここでは花崗岩の一枚岩が七、八町の間、雨樋のように深く抉られて、幅は二間ともあるまい。水は其中を奔馳ほんちして、最後に洞穴の中へ吸われるように消えてしまうのが上から覗かれる。下へ廻って見るとそこに大きな淵が現われ、其上には岩の円天井が蓋のように掩いかぶさり、一方だけが欠けて下流に面している。奥からは※(「革+堂」、第3水準1-93-80)とうとうの響と共に白い水沫の飛ぶのがちらちらと目に入る。天井には孔があって、それからさし込む光線に瀞の水色が反映して、洞の中は水も空気も物凄い濃藍色に輝いている、驚く可き自然の技巧!
 この法螺の貝から上流になると、両岸の岩壁はかえって高くなる程であるが、何等の危険も困難もなく、或は滝を賞し或は淵を眺め、行く行く壮麗な景色に眼をたのしませながら、河の中を右に左に徒渉して、薬研やげんのような谷底を甲武信こぶし岳の直下まで遡り得るのは、この種類の峡谷としては、恐らく東沢にのみ見られる特色であろう。
(大正一三、八『中学生』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「中学生」
   1924(大正13)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年9月1日作成
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