那須、尾瀬、赤城、志賀高原

木暮理太郎




那須岳


 那須火山群は、広漠たる那須ヶ原の北端に在って、南北に長い連嶺をなし、所謂いわゆる那須の五岳を含む山塊を総称したものである。五岳とは南の黒尾谷くろおや岳から順に北へ南月山みなみがっさん、茶臼岳、朝日岳及び北肩は下野、磐城、岩代の三国界に跨る三本槍岳を指したもので、主峰は千九百十七米の茶臼岳である。普通那須岳と言えばこの茶臼岳を意味している。この山は南月山と朝日岳との間に開口した大火口内に噴出し、那須火山群中で最後に生成したものだけに、今も名の如くまるく膨れた山体の各所から烟を揚げ、就中なかんずく北及び西北の肩に在る幾多の硫気孔は、水蒸気と共に多量の亜硫酸瓦斯ガスを噴出するので、石を畳んで烟を伏せ、硫黄を凝固せしめ、これを掻き落して採集したものを郭公湯の北に在る精煉所に送って精製している。その状一種の奇観と称すきも、また悽愴の気が身に迫るを覚える。そのあたりを無間の谷というのは、同名の地獄を聯想れんそうしての名ででもあろうか。
 茶臼岳にはまた高湯山の別名がある。これは山の西面から熱湯が滾々こんこんと湧き出している為であるらしい、高湯山大権現と記した石碑もある。茶臼岳の北は峰の茶屋一名荷置場の鞍部から剣ヶ峰の隆起を越えて、朝日岳に連るが、この間は岩が脆く崩れ易いがらがらした尾根で、登降に困難を感ずる。しかし朝日岳の西北に在る熊見曾根くまみそねの尖峰からは路はずっと楽になる。熊見曾根を北に下ったや広い鞍部は、大倉場おおくらっぱ又の名は清水平で、偃松はいまつに囲まれた湿地に水を湛えている、田代池という。ここから三本槍の三角点へは登り五十分を要する。
 茶臼岳の南には、南月山に連る山稜との間に牛ノ首と呼ぶ鞍部がある。元は湯本から高雄湯に出で、ここに上り着いたものであるが、今は此道を取るものは稀で、多くは湯本から硫黄運搬の木橇道に出で、弁天湯の南を経て精煉所に至り、剣ヶ峰の南に在る荷置場に達する道を辿るようになった。荷置場から南に向って茶臼岳の頂上まで四十分あれば足りる。牛ノ首からじかに茶臼岳に上るのは、岩が危険なので、安全を期する為には西側をからみ、荷置場に出て頂上に向う方がよい。
 茶臼岳に登ると更に三本槍岳へも行きくなるかも知れない。これには往復六時間を要するものと思わなければならぬ。湯本から荷置場迄登り四時間下り三時間と見て、合計十三時間の行程であるが、これは余裕のある見積りであるから、天候さえよければ困難ではあるまい。尤も前日に大丸おおまるか弁天湯又は郭公湯あたりに一泊すれば申分もうしぶんはない。お熊見曾根から隠居倉いんきょぐらを経て西側の三斗小屋さんどごや温泉に下る道もあって、二時間あれば充分である。
 那須も赤城山と同様に、針葉樹林に欠けている。だ南月山の南面に辛うじて其存在が認められるに過ぎない。赤城とは高度わずかに百米の差であるが、赤城には偃松がなく、那須にはかなり多い。これは緯度が高い為であろうと思う。
 那須は塩原と共に関東北部の温泉郷である。唯だその異なるところは、塩原温泉は渓流に沿い、那須温泉は山腹に在ることである。

尾瀬


 尾瀬は日光と共に山中の水郷である。大小幾多の池沼と湿原とが到る処に展開して、これ程水郷と呼ぶに適した場所は他に少ないであろう。寧ろ水が多過ぎる位である。それがまた一方に於ては特異の高原と称すき地形を成しているから面白い。水郷であり高原であると同時に、更にこれめぐって針葉樹に闊葉樹を混じた大森林が発達し、背景として秀麗なひうち岳と雄偉な至仏岳とを有するに至っては、山地水生の珍しい植物の宝庫であることを別にしても、景勝地としての尾瀬が如何に優れたものであるかを想像するに充分であろう。
 尾瀬は自ら二の区域に分れている、一は尾瀬沼を中心とし、燧岳を主峰とした沼の平とも称す可きもので、一は尾瀬ヶ原を中心とし、至仏岳を主峰とした湿原である。勿論湿原の中にも沼があり、沼の畔にも湿原はある。しかし地勢上から見てこの区別は明瞭である。
 尾瀬沼は海抜千六百六十五米、日光の中禅寺湖よりも四百米近く高いがおおきさは約五分の一で、深さは三十分の一に過ぎない六米弱である。外にも小沼、治右衛門池などの小池があり、沿岸にはいずれも小湿原が発達している。殊に尾瀬沼の北岸にはそれが多い。中にも大江川に沿うたものが最も広く、次第に隆起して、エゾ松、唐檜とうひなどの侵入した焼山峠の南に続く高原に移り行くのである。此等これらの湿地には晩春雪解の跡に無数の水芭蕉の花が葉に先んじて、簇々そうそうと白苞を抽き出し、殆ど地を掩うの奇観を呈する。
 針葉樹の大深林が見られるのも、主として沼の北岸で、大白檜おおしらびそ、黒檜、米栂こめつが、姫小松、唐松などが、或は混生し、或は純林をなして鬱蒼と繁茂している。その間に目を惹く闊葉樹の白い樹幹は、草紙樺そうしかんばと白樺とである。沼の南岸の汀線に沿うては、白樺の若木が多く、十月初旬には黄葉が美しい。
 燧岳は尾瀬に君臨する女王であると共に、また尾瀬の生みの母でもある。この山の噴出がなかったならば、尾瀬沼も尾瀬ヶ原も出現することなく、この勝地も恐らく名もない谷間の窪地たるに過ぎなかったであろう。それだけに此山は尾瀬の風景に点睛てんせいの妙を極めている。されば此山を背景に入れさえすれば、忽ち其処そこに一つの纏った尾瀬の景色が生れるのに不思議はないのである。頂上は二峰に分岐し、東は俎倉まないたぐら、西は柴安倉しばやすぐらと呼ばれ、三角点は俎倉に在って高距二千三百四十六米であるが、最高峰の柴安倉は二千三百六十米を超えているであろう。沼の西北ナデックボから登路が通じている。登り三時間で充分である。
 頂上の展望は広闊無比で尾瀬の全景を脚下に俯瞰し、奥上州の諸山、日光、会津駒の連峰は言うに及ばず、遠く飯豊いいで、妙高、北アルプスをも一眸いちぼううちに収め得られる。そして只見川渓谷のぶな水楢みずならの明るい闊葉樹林に比べて、日光から会津の山という山が真黒に茂った暗い針葉樹林に掩われているのに一驚を喫しない者はあるまい。秋季紅葉の際には特に其対照が著しい。
 尾瀬ヶ原は又尾瀬平とも称し、東西に長く南北に狭く、上中下の田代に分れている。田代は湿原に対する俚称である。尾瀬沼を水源とする沼尻ぬしり川と上中の田代の水を集めたヨッピ川とは相会して、会津分である下田代の西境を北に流れ、三十丈に余る三条瀑の大瀑布を懸けている、即ち只見川の上流である。
 尾瀬ヶ原の基床を成すものは水蘚みずごけで、厚さ数十尺に及ぶという。従って浮島なども形成されている。踏むとじめじめして水は膝までも達し、今にも陥没するかと思わしめる所などもある。原のほぼ中央を縫うて一条の細径が東西に通じている、之を辿れば遺憾なく原の景観に接することが出来る。
 原を取り巻く森林は、尾瀬沼の場合とは反対に、主として草紙樺、白樺、小米柳こごめやなぎ、十勝柳、水楢等の闊葉樹である。柳類の大木を背景とし、前景に白樺を配し、満地ことごと日光黄菅にっこうきすげと野花菖蒲との花に掩われた画よりも美しい色彩は、至仏山下の上田代に於て見られる。又原を流れる川の両側には、木立が並木のように生い続きて、曲折蛇行する水路の所在を示している。
 至仏山は尾瀬ヶ原を中にして、燧岳と東西に相対峙している。高さは燧岳よりも百三十米余り低く、二千二百二十八米であるが、上州国内の最高峰である。高山植物の豊富と種類の多い点に於て、はるかに燧岳を凌駕している。殊に巨岩の上にわだかまる偃松と深山偃栢心みやまはいびゃくしんとの間に交って、可憐なる高根薔薇たかねばらの紅花が点綴てんていしている頂上の光景は、忘れ難い印象となって残るであろう。山の鼻の小屋から三時間の登りである。一言にして尽せば燧岳は女性的であり、至仏山は男性的である。彼を姉とすればこれは弟である。
 尾瀬に入るには沼田からするのが便利である。上野駅を午後十一時過の列車で出発し、翌早暁沼田から乗合ならば鎌田迄、貸切ならば古中こなか迄自動車が通ずるので、其日のうちに三平峠をえて長蔵小屋に達するのは容易である。小屋というてもこれは二階建ての山中としては立派な宿屋である。かくて登山や遊覧に三日を費すものとすれば、往復五日を要するであろう。これは最小限の旅程であるから詳しく観察しようとすれば、一週間以上を要することは言う迄もない。帰途に日崎又は至仏を踰えて藤原に出るか、或は鬼怒沼林道を辿って日光に出ることも困難ではないが、初心の人は案内者を伴わないと安全とはいえない。日数も一日乃至ないし二日の延長を余儀なくされるであろう。

赤城山


 上毛三山の名で早くから知られているこの山は、三山の中では最も雄大な山であるが、最高峰の黒檜くろび山でも高さは千八百二十八米で、いずれかといえば高山の部には入れ兼ねるのである。しかし関東大平野の北端に聳立し、四方に向って長い裾を曳いているので、割合に高く見える。南から眺めた姿が最もよい。最高峰の黒檜山から駒ヶ岳、長七郎山、地蔵岳、荒山、鍋割山と順次に西に低下するが、最低の鍋割山でもお千三百三十米を超えている。此等これらの六峰が次第に高まる裾野の上に根張り大きくどっしりと横たわって如何にもすわりが好い。殊に荒山から少しの弛みもなく左に曳いた線の美事さ。惜しいかな東の方は前山に遮られて、充分に裾野の発達する余地がないので、やや優美の趣に欠けているのは是非もない。
 頂上には大小二の火口湖がある、大は大沼おおの、小は小沼このと呼ばれている。大沼は周囲一里半、小沼はわずかに八、九町であるに過ぎない。昔は小沼の附近は大木が昼も薄暗いまでに茂って、蒼黒い湖面は物凄い光を放ち、大蛇の伝説などもからまって、近寄るのも無気味な位であったが、今は打ち開けた明るい池の感じである。その水は深い峡谷を南に流れて粕川となり、滝沢にて直下十六丈といわれる不動瀑となって落下している。国定忠治がかくれていた紫藤洞というのはこの附近であるという。沼の西に血ノ池というのがあるが、小さな水溜りに過ぎないものである。私は曾てこの辺で塩をもとむる放牧の馬群に包囲され、木の上に登って四、五時間も塩をやる人の来るのを待っていたことがあった。
 大沼の東南隅には、こんもり茂った林の中に赤城神社の奥宮があり、近くに猪谷旅館がある。去年あたりから経営者の名が替ったそうであるが、勿論宿泊には差支あるまい。このあたりを俗に大洞だいどうと称している。前面の小島は小鳥ヶ島である。月明つきあかりの夜に湖上に舟を浮べて、幽寂を楽しむのも一興であろう。沼尻川の火口瀬が現在の如く深く排水口を侵蝕しなかった頃は、沼の面積は一層大きく、汀線は鳥居峠の下迄も達していたことと想われる。従って侵蝕が進むに連れて、遠い将来には大沼の水が涸渇し、単なる窪地と化するの日が来るのではあるまいか。沼尻には青木旅館がある。
 大沼の三方に鼎足ていそくの勢を成して聳立しているのが、外輪山の一である黒檜山、中央火口丘の地蔵岳及び溶岩流の凝結した鈴ヶ岳である。黒檜山最も高く、地蔵岳これに次ぎ、鈴ヶ岳は最も低いが、岩塊錯立して奇峭を呈しているのは此山である。しかし黒檜山と地蔵岳とに登れば、一日二日の旅では充分である。大洞から共に二時間を要しない。地蔵岳は殊に楽である。頂上はどれも草山であるから眺望は開けている。
 赤城には針葉の樹林が無い。然し闊葉樹は乏しくないので、新緑紅葉の観るに足るものがある。それには大沼湖畔が最も勝れている。近頃スキーがさかんになったので、冬の登山者が増加し、地蔵岳の東腹には大シャンツェが作られた。此山の特産ではないけれども、赤城躑躅つつじの俗称あるアカヤシオは、元は古木が多く、花時には頗る美観を呈したものであるが、みだりに伐採した結果今は岩崖などの到り易からぬ所に残存するのみで、昔の面影は失われてしまった。梅鉢草や虫取菫むしとりすみれの多いことも此山の特色であろう。
 登路は八方から通じている。恐らく此山程登路の多い山は他に例があるまい。それがややもすれば互に錯綜しているので、兎角とかく迷い易い。前橋から箕輪を経て登るものが最もよく、箕輪よりも奥の一杯清水までバスが通じている。其処そこから新坂をえ、一時間余りで大洞に達する。西の敷島駅から深山を経て登る路は、途中に迷路が少なくないので、山慣れない人には勧めかねる。登り五時間を要するであろう。東の水沼駅からの路は、前橋道に次ぐ分りよい楽なもので、徒歩でも四時間あれば鳥居峠を踰えて大洞に達すく、し利平茶屋までバスが利用出来れば、三時間で充分である。だ夏の赤城は雷雨の発生することが多いので、雷の嫌いな人はあらかじめ注意を要する。

志賀高原


 志賀高原なる名称が世に現れたのは、つい最近のことである。勿論これはスキーがさかんになったお蔭で、比較的積雪量の多いことと雪質の良好なることが、多くのスキーヤーを惹き付けるに至ったものだろう。標高からいえば高原たる資格に欠けてはいないが、さて何処が高原の本体であるかと考えて見ると、一向いっこうに捉え所がないのに驚く。坊平附近は余りに狭い。琵琶池のあたりはや広いが起伏があり過ぎる。角間かくま川に沿うた熊の湯の上下には、多少の平地や緩斜地も見られるが、私には如何しても高原の感じが起らない。止むなくんばこの地域の中央に位置している志賀山の西北の斜面と、草津峠の北方の斜面とであるが、これをしも高原といえるならば、高原至る所に存しているような気がする。私はついに匙を投ぐるの止むなきに至った。それにも拘らず棄てるには惜しく、何処か高原のような気がすることを禁じ得ないのは不思議である。劉伶りゅうれいという支那の昔の大酒飲は、鶏肋けいろくという旨い言葉を発明したが、志賀高原は畢竟ひっきょう高原の鶏肋なるものであろうか。
 しかしながら冬になって、満地雪に掩われたならば情況は一変して、この鶏肋は上等の笹身となるであろうことは察するに難くない。だ夏季に汗と藪と牛蝨うしじらみに苦しみながら、この高原に遊ぶことは余り人に勧められない。尤も熊の湯や発哺ほっぽ温泉に浸りながら、高原の風致を味わい得るものと思う人は格別である。

妙高山


 信越線の列車に乗って、上野駅を午後十一時過に出発すれば、短い夏の夜は牟礼柏原の間で明け初める。涼しいひぐらしの声に聞き入りながら、眼を窓外に放つと、左手に間近い飯縄いいづなの原の瑞々しい緑が引汐時の干潟のように刻々に展開し、すぐに北に並んだ黒姫山の蒼翠は、晴れた空の色と共に目も醒むるばかり鮮かである。と間もなくその後から雪をかついだ一座の雄偉な山の姿が目前に迫って来る。肩の張ったいかめしい山だ。下りに向った汽車は其麓を目懸けて驀地まっしぐらに進んで行く、言う迄もなくこの山が妙高山なのである。
 妙高山は火打、焼山、雨飾等の諸山を引括ひっくるめた妙高火山群に属する一峰で、標高二千四百四十六米、山群の最高峰火打山より十六米低いが、盟主たる資格を充分に備えた標式的の二重火山である。外輪山は東北に神奈かんな山、北に大倉山、西に三田原山、南に赤倉山、東に前山があり、ぼ馬蹄形を成して相連り、内壁は懸崖杜絶して、時に数百米に及ぶ所さえある。だ東側の一部が欠けているので、大田切川の上流が東に向ってここを奔下し、川に沿うて燕、関の二温泉が在る。この外輪山の西南部に偏して噴出した中央火口丘が即ち妙高山で、外輪山の総称であるくるわ岳に対してしん岳とも呼ばれ、頂上は嶄岩ざんがん突兀とっこつとして頗る奇観を呈している。日本石、胎内石、鞍石等は、其等に名付けられた二、三の例である。
 廓岳には火口原と称すきものなく、舟底のような峡谷を存するのみで、急湍は瀑布となり、諸所に温泉が湧出し、地獄谷の称があるが、裾野は東乃至ないし東北に向って最もよく発達し、妙高、赤倉、池の平、関、燕等の温泉を其懐に抱き、山容の雄偉に加うるに高原の景致をもってし、夏は避暑客を誘い、更に邦内有数の深雪地として、冬季は絶好のスキー地となるに至った。
 登路は池の平、赤倉、燕等の各温泉を出発点とするに従って異なるが、いずれも心岳から前山に連る尾根上の小平地天狗平に於て相会し、それより心岳の登りとなり、笈摺おいずり貝摺かいずりなどいう峻坂を鉄鎖に依りて攀じ上り山頂に至るのである。天狗平までどの道も五時間前後の行程であるが、燕温泉から北地獄に沿うものがや近い。天狗平から頂上迄は一時間半乃至二時間を要する。停車場から各温泉場まではバスがある。
 頂上の展望は、北に日本海の浩波に浮ぶ佐渡ヶ島を眺め、東南に野尻湖を俯瞰し、はるかに浅間、八ヶ岳、富士の諸山に揖し、遠く北アルプスの残雪を望み、近く戸隠、黒姫、飯縄の諸峰は、俯して其もとどりを捉う可く、真に雄大を極めている。
(昭和一〇、七『改造』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「改造」
   1935(昭和10)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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