四十年前の袋田の瀑

木暮理太郎




 勿来関なこそのせき趾をたずね、鵜子岬に遊び、日和山に登って、漁船に賑う平潟の港内や、暮れ行く太平洋の怒濤を飽かず眺めた後、湾に臨んだ宿屋の楼上に一夜を明かして、翌日仙台からはるばると辿って来た海岸を離れ、小雨そぼふる中を棚倉道に沿うて歩き出した。袋田の瀑を探りたかったからである。
 この瀑に就ては『日本名勝地誌』でその壮観は華厳の瀑に優るものがあるとのことを知っていたので、最初は海岸伝いに水戸迄出る積りであったのが、年来の目的であった勿来関趾の見物を済すと、少し海岸の単調に飽きて山の中が恋しくなり、地図を拡げて袋田の瀑が此処ここから略略ほぼ一日の行程であることを知ると、急に予定を変更して、其方に足を向けたのであった。四十年も前の若い盛りであったから、日に十五里の道を歩くことは、さして苦にならなかった。しかし地図というのが例の輯製二十万という平地はかく、少し山地に入ると全く役に立たぬものであった為に、絶えず岐路に迷って、花園神社へやや廻り道はしたものの、袋田へ着いたのは二日目の夕方であった。
 およそ旅といえば、あてなしの旅と称しても究極の目的はあるものだ。ましてこれは瀑見物が目的であったから、途中の景色などはどうでもよかったし、また若い頃とて注意して観察するには自然鑑賞の素養に欠けていた所為せいもあろう。記憶に残っているのはつまらぬことばかりだ。だらだら続きの小山には行けども行けども見渡す限り※(「木+解」、第3水準1-86-22)かしわの若木が黄褐色の大きな葉を風にそよがせていた。幾度か峠を上るごとに振り返ると大津小名浜の弓なりの長汀が白く波立って霧の間から望まれた。花園神社は流石さすがに名高いだけにこんな山の中の社殿としては立派なものだと思った。下君田という山村の一軒しかない宿屋では、晩飯の菜に身かきにしんの煮付けと、醤油で炒りつけたいなごとを山盛りにした皿がお膳の上に頑張っていた。生憎あいにく鶏卵がないという。運よく初茸はつたけを実にした味噌汁があったので助かった。
 夜中にふと目が覚めると階下で七、八人で喧嘩をしている声が聞える、気になるので梯子段の下り口から覗くと、いきり立った荒くれ男が今にも殴り合いを始めそうである、驚いてまた床の中に潜り込み、如何なることかと心配していたが、昼の疲れで何時いつかぐっすり寝てしまったのはさいわいであった。後で聞くとここは毎晩のように賭博の開かれる宿であるという。一泊十銭は平潟あたりの十七銭に較べては安いものであったとはいえ、決して安心して泊れる家ではなかった。今はこのあたりまで炭坑が開かれたので、最早もはや昔の面影は残っていまい。平潟に限らず、浜街道の宿では泊りは総て十七銭で、比目魚ひらめまぐろの刺身に玉子焼が普通であった。それに昼食が五銭乃至ないし七銭、草鞋が一銭、合計一日二十五銭で足りる、懐に十円あれば、たまには贅沢をして三十銭の上等で泊っても優に一ヶ月の旅行が楽しめるのであった。
 里川の谷に出ると明るく感じた。太田から棚倉に至る茨城街道が低く連なる山脈の麓に沿うて南北に通じている。秋の末ながら五百米前後の山では紅葉はわずかに盛りを過ぎた程度で、頂を霧に包まれた急峻な山側には、二日続きの雨に水量を増した幾条もの瀑が紅葉の間に白く懸っているのが目を慰めた。殊に小中の西に聳ゆる鍋倉山は、妙義山に似た岩山で、すぐれた眺めであった。
 小生瀬に着いて瀑のことを聞くと、すぐそこだという。しかし道は同じ名の川を左岸に沿うてゆくのであるが、瀑の懸っている絶壁は下れないので、月居つきおれ峠を迂回しなければならない。峠の頂上にあるやや長いトンネルを抜けると、目の前が急に明るく開けて、久慈川の谷が脚下にられた。この二日間、物惜しみする年寄のように眺望を遮っていた執拗な霧も、この峠から以西には其勢力を及ぼさない。空は高い雲に掩われているが、近い八溝やみぞ山から遠い那須高原の山々に至る迄、裾さばきゆたかに、少し茜色のさした西の空に頭をもたげているのが望まれた。これは全く思い懸けないことであった。谷間の空気は立ちむる薄靄うすもやみどりが濃い。白くうねり走る久慈の流れ、沿岸に点在する村々の黒木立、山地を彩る闊葉樹の樹林などが皆一様にぼかされて、波立たぬ深い水底の植物叢に似ている。其間を横ぎって飛ぶ渡鳥の群は、さながら大小の魚群にもたとえられよう。峠続きの南に一きわ高い持方村の男体山は、頂はまるく東面はなだらかに、西側は急崖を連ねて、紅葉の色が一しお冴え、一団の紅霞がたむろしているようで、少なからず登高慾をそそられた。
 暮近いのでいつまでも眺望に耽っていることは時間が許さなかった。急いで峠を下った所は袋田の村であったが、深い谷間を想像していた私はオヤと思った、谷はここに開けて水田がある、稲を刈り取った跡には、胸黒むなぐろらしい十五、六羽の鳥があちこちで餌をあさっている、田の中には新築して未だ完成しない家があった、少しも農家らしくない。この田の間を野川のような姿で滝川が流れている、これが華厳瀑を凌ぐといわれている大瀑から十町とは隔たらぬ流れであろうかと訝らぬ人はあるまい。ただわずかに川の上流を望むとき、立ち昇る数条の炊煙を半腹のあたりになびかせた二百米に余る素晴らしい絶壁が眉を圧して屹立しているのを眺めて、ヤッと不安が静まる。そうだ、川の流れはどうあろうと瀑には関係のないことだ、行って見よう。
 教えられた通り川の左岸を遡った。五、六町も田の畔を進むと両岸が急に迫って、狭い谷間に圧縮された力強い瀑の音が一度に爆発したように痛い程耳に響いて来る。もう道というものは殆どない、河の中の大石を跳び伝いて行く、雨で水量が増しているからと注意されてはいたが、実に物凄い流れだった。川が少し左に曲っている突端まで来ると、右から落下している瀑の姿が現れた。ここからは斜に望むので全容が見られない。瀑と向い合っている対岸には恰好の段がある、少し危険ではあったが、岩から岩を伝いて漸く其処そこに攀じ登った、瀑の真正面である。下から仰いでは二段かと思われたが、ここで見ると三段で、上段よりも中段、中段よりも下段と次第に高さを増すと共に末広がりに落ちている。二段目は中央に巨岩がわだかまっていて、そこは一きわ激しく水が盛り上っていた。減水の際はこの岩が露出して瀑は左右に二岐するそうである。余りに距離が近過ぎるのと幅が広いのとで其壮観に圧倒されて、暫くは高さの感じを意識しなかった。目測ほどあてにならぬものはないが、恐らく二十丈は下るまい。ともかく日光の華厳瀑や尾瀬の三条瀑とは趣を異にして、たがいに伯仲すき名瀑たるを失わない。崖からのり出している幾本かの紅葉は、吹き上げるしぶきにしとど濡れていた。これでもう少し離れた位置に適当の観瀑台があれば、更に一層の風情を添えるであろうと惜しまれた。
 やや時を移すほどにあたりは次第に薄暗くなって来た、足もとが暗くなっては帰路が危い。急いで引返すと村にはもう灯がともっていた。宿屋はと尋ねても大子だいごまで行かなければならないという。困っていると温泉で泊めるかも知れないと一人の若者が親切に其家へ案内してれた。最前見た田の中の新築の家がそれであった。大子あたりから遊びに来る人をあてに始めた料理家だそうであるが、頼んで泊めて貰った、まだ開業前で、いの一番のお客様だと女中が話した。木口は上等ではないが畳も調度も新しいので、下君田の宿とは比較にならない。
 特に気に入ったのは風呂であった。田の中に湧き出している温泉をそのまま大きな湯槽に湛え、中央に在る直径五寸ほどの湧き口に鉄の格子がはめてある。無色透明な温泉は、盛り上るいきおい滾々こんこんと湧き出し、深さ三尺に余る二坪の湯槽に溢れて、四方からざあとこぼれている、何という気持よさであろう。其中に長々と手足を伸ばして浸りながら、暗い地の底から長い道中を終えて地表におどり出た新鮮でエネルギッシュな湯に皮膚を撫でられていると、快い感触にうっとりと気も遠くなる、これでこそ温泉なのだ。この頃流行のタイル張りの浴室も結構ではあるが、有り余ると想われる豊富な温泉を、沸し湯ででもあるようにケチ臭く溜めた小さい湯槽はどうしたことか、これは温泉の使命を知らぬ者のさかしらわざという可きで、真に温泉を楽しもうとする人には気の毒千万であり、また温泉に取ってもさぞ不満なことであろうと同情したくなる。但し目的は温泉に非ずというならば、これ路傍の人、また何をかいわんや。
 温泉は自然のままで浴するのが本来の使命にかなっている。鐘釣かねつり温泉の岩洞や西山温泉の岩の浴槽はいい、稍やこれに近いものに法師温泉がある。苗場山下の赤湯は、河原と海渚との相違はあるが、別府の海地獄と同じように地を掘ってそこに湛えて湯に浸る最も原始的な方法によっている。高い山の湯では白馬温泉または仙人の湯などが挙げられる。其他余り名を知られていない斯様かような温泉は各地に多いので、自然を愛する人々の間に喜ばれているが、それも交通不便な間だけで、少し便利になると、にわかに都会の陋習ろうしゅうにのみ感染して、如何したら儲かるかということしか考えていないらしいのは感心し難い。贅沢で有名な温泉場はさて措き、設備の完全すら期し難い山の奥の温泉などで、高う見積ってもせいぜい二円位が適当であると思われる宿料に、三円以上も払わせられる。そういう苦い経験を幾度か嘗めさせられた。この弊風は将来ますます助長されるであろうと思うとうんざりする。何がそう宿料を高くさせるかといえば、大抵はお膳のまわりに後から後からとならべられる無用の皿数、オムレツ、カツレツ、ビフテキ等々、見るからに食慾を唆るべく余りに偉大なる代物である。季節にふさわしい新鮮な土地の産物をあっさり料理したものの方が都会人に喜ばれることを知らぬ筈はないのに。これも世相とあれば、旅行などはせぬことか。
 袋田の泊り賃も其時は二十銭であったが、今頃はさぞ変っていることであろう。そら恐ろしさに二度と行く気は起らない。再び瀑の壮観に接したい希望は胸に抱きながら。
(昭和一一、一二『旅』)





底本:「山の憶い出 下」平凡社ライブラリー、平凡社
   1999(平成11)年7月15日初版第1刷
底本の親本:「山の憶ひ出 下巻」龍星閣
   1941(昭和16)年8月20日再刷
初出:「旅」
   1936(昭和11)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:栗原晶子
校正:雪森
2015年12月12日作成
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