白峰の麓

大下藤次郎




      一

 小島烏水こじまうすい氏は甲斐かい白峰しらねを世に紹介した率先者である。私は雑誌『山岳』によって烏水氏の白峰に関する記述を見、その山の空と相咬む波状の輪廓、朝日をうけてはくれないに、夕日に映えてはオレンジに、かつ暮刻々その色を変えてゆく純潔なる高峰の雪を想うて、いつかはその峰に近づいて、その威厳ある形、その麗美なる色彩を、わが画幀に捉うべく、絶えず機会をうかがっていた。
 私が白峰連嶺を初めて見たのは、四十一年の秋、甲州山中湖に遊んだおりで、宿雨のようやくれたあした、湖を巡りて東の岸に立った時、地平線上、低く西北に連なる雪の山を見た。白峰! と思ったが、まだ疑いはある。ポケットから地図を出す、磁石を出す、そして初めて白峰! と叫んだ。今自分の立っているところからはよく見えぬ。私は岸を東へ東へと走った、やがて道は尽きた、崖と水とは相接して足がかりは僅かに数寸、私は辛うじてそこをも通った。岩を伝わった。樹根にすがった。こうして往けるだけ往った。そしてささやかなる平地に三脚を据えて、山中の湖に浮べる如きなつかしき白峰の一部を写したことがあった。
 翌年の三月某日、これも雨後の朝、鎌倉にゆく途中、六郷鉄橋の辺から、再び玲瓏たる姿に接した。描きたい、描きたいという念は、いっそう深くなった。
 白峰を写すには何処がよかろう、十重二十重とえはたえ山は深い。富士のように何処どこからも見えるというわけにはゆかぬ。地図を調べ人にもきいた。近く見るには西山峠、遠く見るには笹子峠、この二つが一番よいようである。私は五月某日、ついに笹子に向った。
 初鹿野はじかので汽車を下りて、駅前のあわれな宿屋に二晩泊ったが、折あしく雨が続くのでそこを去った。そしてその夕、甲府を経て右左口うばぐちにゆく途中で、乱雲の間から北岳の一角を見て胸の透くのを覚えた。
 翌日は右左口峠を登りつつ、雲の間から連峰の一部をちらちら見た。峠の上では急いでスケッチもした。女阪峠を上る時も片鱗はいく度も見たが、全形を眺むることは出来なかった。
 精進しょうじを過ぎ本栖もとす発足って駿甲の境なる割石峠の辺から白峰が見える。霞たつ暖い日で、山は空と溶け合うて、ややともすればその輪廓を見失うほど、はるかに、そしてかすかなものであった。

      二

 甲州西山は、白峰の前岳で、早川の東、富士川の西に介在せる、五、六千尺の一帯の山脈である。この峠に立ったなら、白峰は指呼しこの間に見えよう、信州徳本とくごう峠から穂高山を見るように、目睫もくしょうの間にその鮮かな姿に接することが出来ないまでも、日野春ひのはるから駒ヶ岳に対するほどの眺めはあろう。早川渓谷の秋もうるわしかろう。湯島の温泉も愉快であろう。西山へ、西山へ、画板に紙をる時も、新しく絵具を求むる時も、夜ごとの夢も、まだ見ぬ西山の景色や白峰の雪におもいをせていた。
 東京を発足ったのは十一月一日、少し霧のある朝で、西の空には月が懸っていた。中野あたりの麦畑が霞んで、松二、三本、それを透して富士がボーっと夢のよう、何というやさしい景色だろうと、かず眺めつつ過ぎた。小仏こぼとけ、与瀬、猿橋、大月と、このあたりの紅葉はまだ少し早いが、いつもはつまらぬところでも捨てがたい趣きを見せていた。
 長いトンネルを出ると初鹿野、ここから塩山えんざんまでの間に白峰は見えるはずだ。席を左に移して窓際に身をピッタリ。
 果然、雪の白峰連嶺は、飽くまであおい空に、クッキリとその全身を露わしている。水の垂れそうな秋の空、凍ったような純白の雪、この崇高な山の威霊にうたれて、私は思わず戦慄せんりつした。たもとにスケッチブックのあることを忘れた。もう西山までゆかなくともよいと思った。
 雪の山はトンネルのために、幾度となく隠れ、また現われた。その度ごとに、私は曇ったガラスをいて、瞬時でも見逃がすまいとひとみらした。三度五度、ついには全くその姿を失うて、車は大なるカーブを画き、南の方無格恰ぶかっこうな富士の頂を見た時、夢からめたような思いがした。そしてこの時ほど富士山を醜く見たことはない。
 十二時半に甲府に着いて、すぐ鉄道馬車の客となった。今にもこわれそうな馬車だ。馬は車にれず、動かじとたたずむかと思うと、またにわかに走り出す。車の右は西山一帯の丘陵で、その高低参差しんしたる間から、時々白い山が見える。南湖の手前で少しく川に沿うて堤の上をゆく。咲き残りの月見草がわびしげに風に動いている。柳はびた色をしてこれも風になびいている。ちょっと景色のよいところだと思うた。
 青柳という町を過ぎる。近きにお祭があるというので、軒提灯のきぢょうちんを吊してうるわしく飾っていた。
 形面白おもしろき柳の巨木の、水に臨んで、幾株か並んでいる広い河原、そこにけたる手摺てすりなき長い橋を渡ると鰍沢かじかざわの町だ。私は右側の粉奈屋という旅店に投じた。丁度三時半。
 二階から富士が見える。やはり形が悪い。富士の美しいのは裾野がひらいているからだ。裾を隠して頂だけでは、尖端鋭き金峰山などの方が遥かに美しい。富士は頭を隠してもよい、裾野は隠れてはいけない。
 宿の背後はすぐ山で、社やら寺やら、高地に建物が見え、樹が繁っている。紅葉の色もよい、山上の見晴しもよかろう。
 番頭に明日西山行の人夫を頼む。女中のお竹さん、西山の景勝を説くこと極めて詳、ただし湯島近所から雪の山が見えるとはいわないので、少しく心許こころもとなく思う。
 隣家の素人義太夫しろうとぎだゆうをききながら夢に入る。

      三

 翌朝五時半には、私どもは粉奈屋をった。空は薄く曇っているが、月があるので明るい。新しい草鞋わらじに、少しく湿った土を踏んでゆく心持はよい。細い流れに沿うてゆく、鼠色の柳が水をのぞいている、道は少しずつの上りで沢を渡り田のあぜを通る、朝仕事にゆく馬を曳いた男にも逢う、稲を刈りにゆく赤い帯をした女にも逢う、空は漸く明るくなって時々日の目をもらす。
 往手にあたって黒い大きな門が見える。刈ったばかりの稲束が、五つ六つ柱によせかけてある、人夫は「これが小室の妙法寺で、本堂は一、二年前に焼けました、立派なお堂だったが惜しいことをした」という。門へ入る、両側に人家がある、宿屋もある、犬がしきりに吠える。
 山門を潜ったが、奥にはゆかず、道を左に取って山田の畦をゆく。家の形も面白く、森や林の姿もよい、四、五日の材料はあろうと思った。
 道は漸く急になる。右に左にうねりつつ登る。上には松に吹く風の音、下にはカサコソと落葉を踏む音、それのみで天地は極めて静である。空は次第に晴れて来て、ジリジリと背を照らす日は暑い。汗で身体は濡れる。外套がいとうを取って人夫に持たせる。上衣をいで自分で持つ。峠の曲り角では必ず休む。
 かなり高く登った。振向ふりむいて見ると、富士はいつの間にか姿を出している。甲府盆地で見た時とは違って雄大の感がある。麓の方一条の白い河原は、富士川で、淡く煙りの立つあたりは鰍沢だと人夫は指す。
 道の傍に小さな池がある、七面の池という、枯蘆が茂った中に濁った水が少し見える。このあたりは落葉松からまつの林で、葉は僅かに色づいて、ハラハラと地に落ちる。暗い緑の苔と、そして細かき落葉で地は見えない、その上を歩むと、軽くはじかれるようでしっとりした感じが爪先から腹にまでも伝わって来るようだ。
 池を離れてからは、短い雑木や芒の山で、日をさえぎるものがなく、暑さは前にも増してはげしい。人夫の間違で、草刈道を三、四丁迷い込んで跡へ戻った時は、少々忌々いまいましかった。ところどころもみの大木がある。富士はいよいよ高くいよいよ大きく見える。
 鰍沢から歩むこと三時間半、道程三里にしてデッチョーの茶屋というに着いた。峠の頂上で、出頂とか絶頂とか書くのであろう。茶屋は少し山蔭の平地にって、ただ一軒のきたない小屋にすぎない、家の前には、近所の山から採って来た雑木ぞうきが盆栽的に並んでいる。真暗な家の中には、夫婦に小供二、三人住んでいる。この子たちはどうして学校へゆくのだろうと気になる。暗い中に曲物まげものが沢山ある。あわあめを造って土産に売るのだそうな。握飯を一つ片づけ、渋茶をすすって暫くここに休む。

      四

 茶屋から先は下り一方ではあるが、久しく歩行あるかぬためか、足の運びが鈍い、爪先が痛む、コムラが痛む、膝節がいたむ、ももがいたむ、ついには腰までも痛む、今からこんなことではと気を鼓しつつ進む。
 道は山の裾に沿うて、たえず左に暗い谷を見ながらゆく。おおかぶさるように枝を延している紅葉の色のうるわしさは、比ぶるにものがない。前には常盤木ときわぎの繁れる源氏山がそびえている。後の方は今来た道を、遠く富士が頂きを見せている。源氏山の中腹を過ぎると、早川に沿うた連嶺が眼前に展開され、はるかに水の音がきこえる。細い白樺もチラホラ見える。草山の出鼻を曲ると、やや曇った西の空に、蝙蝠傘こうもりがさひろげたような雪の山が現われた。
 待ちこがれた雪の山、私の足は地から生えたように動かなくなった。前には華やかな色の樺の若木が五、六本、後には暖い鼠色をした早川連嶺が、二重三重と輪廓を画く、その上から顔を出している雪の峰、白峰! 白峰!
 人夫はその名を知らなかった。地図も見たがあまりに南へ寄っているので北岳ではない。農鳥のうとりでもない、大井川をえて赤石あかいしが見えるのかとも思った。後に聞いたら赤石山系の悪沢わるさわ岳であった。
 私どものゆく道は新道で、旧道七曲峠の方からは白峰もかなりよく見えるという。それを楽しみに歩を運んだ。急坂を下ると河原に出る。橋を渡ってまた水を遥かの下に見て、曲り曲りて北を指してゆく。
 渓の水音が遥かにきこえる。対岸に幾棟かのわら屋根が見える。そこは上湯島だという。長い釣橋が一直線に見える。みつまたや山桐や桑や、人の植えた木が道に沿うてチラホラ見える。焼畑には哀れな粟や豆が作られてある、村人が三三五五それらの穀物を刈っている。豆がらを焼く煙が紫に立ち昇って、鼠色の空にうすれてゆく。
「もう一里ほどです」と人夫はいう。道は細く、山からすべり落ちた角のある石の片けが、土を見せない。急な下り道では、足は石車に乗って、心ならずも数間を走らねばならぬ。人夫の背負うていた私の写生箱は、いつか細引のいましめを逃れて、カラカラと左のたにへ落ちた。ハッと思って下をのぞくと、幸いに十数間の下で樹の根にさえぎられて止まっている。崖は傾斜が急で下りられない。大迂回をして漸く拾い上げたが、一時はわがこと終れりと悲観したのであった。
 川に近く下って、右に曲ると、上り坂だ。湯川の水の音は耳を聾するようである。見上げると三階建の大きな家がある、右の崖の上にも新しい家が見える。前なるは古湯で後なるは新湯、私は新湯の玄関に荷物を下させた。

      五

 紺の裾短かな着物を着た若い女中が出て来た。黒光りの長い縁側を通って、初めに見た新しい二階の一室に入る、天井の低い、壁のない、畳の凸凹な、極めて粗末な部屋だが、新しいので我慢も出来よう。主人はやって来て「小島サンもこの室に御泊でした、この夏山岳会の大勢の御方の時は、ここと隣りの部屋とにおられました」と語る。親しい友の、幾夜さかを過した座敷かと思うと何となく懐かしい。
 着いた時に、パッと明るく障子に射していた午後二時の日の光は、三十分もたたぬうちに前の山に隠れてしまった。いまはまだ一日に一時間位い、この谷に日は照らすが、冬になると全く日の目を見ないそうだ。さぞ寒かろうと思う。
 浴衣を貸してくれる、珍しくも裾はかかとまである、人並より背の高い私は、貸浴衣のたけは膝までにきまったものと、今まで思っていたのだ。
 浴槽は入口の近くにあって、五、六坪もあろう、中を二つに仕切ってあって、湯は中央のあたりに、竹樋から滔々とうとうと落ちている。玉を溶かしたように美しいが、少し微温ぬるいので、いつまでもつかっていなくてはならない。流し場もなければ桶一つない、あたりに水もない殺風景なものだ。湯は温微でも風邪にはかからぬと宿の人は保証する、風邪のときも湯に入ると治りますという、近在から来ている二、三の湯治客は、幾度も幾度も湯に入り、いつまでもいつまでも湯の中にいるのである。
 長火鉢、これはこの火鉢が出来て以来、中の灰は掃除したことがあるまい。きっとないと請合うけあえる位いのきたなさだが、火も炭も惜気もなく沢山持って来られるのは、肌寒き秋の旅には嬉しいものの一つである。宿から出してくれた凍りがけの茶受には手は出ない。持参の「ココア」を一杯飲んで、湯上りの身体を横たえた時はよい心持だった。
 縁に立って西の方を見ると、間近く山がせまって来て、下の方遥かに早川の水が僅かに見える。湯川に架れる釣橋も見える。紅葉はまだ少し早く、崖の下草のみ秋の色を誇っている。裏の窓を明けると、目の下に古湯の建物が見え、その背後に湯川が滝のように落下している。南の方からも水は来て、すぐ窓の下を轟々ごうごうと音たてて流れている。たには狭い、信州上高地のように、湯に漬りながら雪の山を見るという贅沢ぜいたくは出来ない、明日は七曲峠の上で白峰を見たいものだと思う。
 ここから上湯島へ三十丁、下湯島へ一里、奈良田へは一里半もあるという、郵便は近頃毎日配達されるが、甲府から四日目でなくては着かぬそうだ。

      六

 その夜は快く眠った。明くれば天長節、満空一点の雲もない好天気だ。裏の滝壺で顔を洗う、握飯を腰にして平林道の峠を上る、幾十折、雑木を抜けると焼畑がある。また林に入る。暑さに苦しみながら十四、五丁も上ると、北の方に忽然こつぜん雪の山が現われた。白河内しろこうち岳という白峰連山の一部であるそうだが、この時はやはり名を知らない。高く上れば多く見えるわけだ。あしは痛いが勉強して上る。初め三角形に白かった山は、肌が見えて来る。赭色をした地辷じすべりも露われてくる。もう少しもう少しと上るうちに、南の方にもまた一つ白い峰が顔を出す。これは昨日見た悪沢わるさわ岳だ。更に上り上って、終に一里あまりも来て、大きな山毛欅ぶなを前景に、三、四時間ばかり一生懸命に写生をした。
 日は南へ廻って、雪の蔭は淡くコバルト色になる。前岳は濃いオルトラマリンに変る。近くには半ば葉のちた巨木の枝が参差しんしとして「サルオガセ」が頼りなげにかかっている。朝から人にも逢わぬ。獣も見ぬ、鳥さえもかぬ、山中の白日は深夜よりもなお静かである。
 写生が終った時は、日もよほど傾いた。元の道を下ること十余丁、山と前景の色の面白いところで、一枚のスケッチをして宿に帰った。まだ四時前なのに、もうランプがいていた。

      七

 四日は曇っていた。今にも降りそうなので躊躇ちゅうちょしたが、十時頃出て見た。まず下の早川の岸へゆく、二、三丁のところだけれど、石道の急坂で、途中に水溜りもあるので、下駄げたではゆけない。脚絆きゃはんもつけ草鞋も穿いて武装しなければならない。坂を下ると人の住まぬ古家がある。たけ高き草が茂っている、家の前には釣橋がある、針金を編んで、真中に幅広からぬ板が一枚置かれてある。夏の頃、湯の客が毎晩来ては動かして遊んだとかいうので、足をかけるとグラグラと揺れて、僅か四、五間の板を蹈むにもよい心持はしない。
 渡り終って、左の崖の崩れをいて下ると小さな河原がある。上流から木を流す時、浅瀬に乗り岩にかれたおりに、水の中心に押やるため、幾人かの山人が木と共に下って来る。その人たちの歩む道が、砂の上岩の角に印を止めている。粘板岩というのであろう。薄くがれる黒い大きな岩を越えると、水際で、澄みわたった水は矢よりも早く流れてゆく、あたりには青い石も赤い石もある。霧のかかった上流の山、紅に染まった両岸の林、うるわしい秋の絵が一枚出来そうである。
 私は、刻んで動く水を好まない。この川の上流は野呂川とよばれて、水は油のように、山影を浮べたまま静かに静かに流れているという、私はそういうところを画きたいが、この空模様で二里三里の奥へゆく勇気もなく、終にここの河原に写生箱を開くことにした。
 空は漸く暗くなって、水の色が鉛のように光る。霧のれた山はおりおり頂を見せる。足下に流るる水を筆洗ひっせんに汲んで鼠色の雲を画き浅緑の岩を画く。傅彩ふさい画面の半ばにも至らぬころ、ポツリポツリと雨は落ちて来て、手にせるパレットの紅を散らし紫を溶かす、傘をかざしてやや暫くは辛抱したが、いつむとも思えぬ空合に、詮方なく宿に帰った。
 この夜、大雨の中を、宿のおかみさんは青柳から帰って来た。このあたりでは、六、七歳位いまでの子供を「ボコ」という、その「ボコ」を二人連れて、七里の山道を、天長節のお祭見物に青柳へ泊りがけで往っていたのだという。女中のお吉さんは、雨のふりしきる中を、一里あまり峠上の飴の茶屋まで出迎にゆき、「ボコ」を負うて帰って来たが辛かったとこぼす。お吉さんはさっぱりとした気性の、よく働く娘で、平林のものだという。おかみさんのお伴に往ったお春という女中も帰って来た。「お祭は面白かったかね」と問うたら「往きにも帰りにも、また青柳でも『ボコ』を背負い詰めで、何の面白いどころかからだが砕けそうだ」とこれも少からず不平をいっていた。

      八

 晩秋は雨の少い季節だのに、五日になってもまだ降っている。うす暗い座敷で写生を突ついたり書物を見たりして暮らす。ラスキンの伝記も見た。トルストイの「ホワット・イズ・アート」も読んだ。昼前に若い一人の男が来て、兎を一羽買ってくれという。副食物の単調に閉口しているおりだから早速三十銭で求める。いろいろ近所の山の話をして男は帰った。
 昼には兎を煮てきてくれた。おかみさんは鍋を火鉢にかけながら、兎の価が高いというてうるさいほど口小言をいう、こちらはそんなことはかまわない。塩引鱒しおびきますや筋の多い牛の「やまと煮」よりは、この方が結構である。
 退屈紛れに幾度も湯に入る。浴槽の天井には一坪ほどの窓があって、明放しだから、湯の中に雨が降り込む、入口も明け放しで、渓の紅葉の濡色ぬれいろが美しい。湯に全身を浸している時は馬鹿に心持はよいが、出ると寒くってゾーっとする、も少し熱かったらと残念に思われる。
 雨の日や夜分は、便所の通いもいささか厄介やっかいである。母屋を離れて細い崖の上を二十間もゆくので、それもあまり綺麗ではない。時としては下駄のないこともある。あっても濡れていて無気味なこともある、夜は往々ただ一つの燈火が消えていて、谷へ落ちはしまいかとおそるおそる足を運ばなければならない。

      九

 六日にはようやく晴れた。結束して奈良田の方へ往った。白雲の去来はげしく、少しく寒い朝であった。
 早川渓谷の秋は、いまは真盛りで、いたるところの草木の色はうるわしい。細い細い道を辿ってゆくと、時として杉の林の小暗おぐらきところに出る、時としてまぶしいような紅葉の明るいところに出る、宿から半道も来た頃、崖崩れのために道は絶えた。
 見ると四、五十間の広さに、大石小石のナダレをなしている。幾百丈の上より幾十丈の渓底まで、八十度位い、殆ど直立同様の傾きで、あたかも滝のように、そして僅かの振動にも、石はカラカラと落ちて下りゆくほど勢いは加わり、初めの一つは忽ち十となり百となり千となりて、個々の発する恐しき叫びと共に、絶えず渓を埋めようとしている。五間おきには、小屋くらいある大きな岩が、今にも転がろうと、ただ一突の指先を待っているかのような姿勢で渓をのぞいている。何という恐しい光景であろう。
 下草のこすれているところを、少し斜めに歩を移すと、向うの崖に通ずる一条の道がたえだえに見られる。崩れたところを、僅かの足がかりを求めて踏固めたのであろう。湯島から奈良田へゆく人、奈良田から湯島へ来る人は、この道を急いで通るのであろう。もし道の半ばにして、あの上の大きな石の一つが動いたなら、そのままこの早川渓の鬼とならねばならぬ。
 君子は危うきに近よらずという。私はここから引返そうと思った。虎穴に入らずんば虎児を得ずという。私は前へ進もうと思った。そして奈良田にゆけば雪の山が見えよう。雪の山を見たいという私の欲望は、終にこの危うき道を、三斗の冷汗を流しながらも通過さしたのである。
 幸いに事なく過ぎて私はかえりみた、そして帰途再びこの冒険を敢てしなければならぬと思うて、慄然りつぜんとして恐れたのである。ゆくこと四、五丁、山角を廻ると、太く大なる山毛欅の木がある。その暗き枝を透かして、向うに見える明るき山の色のうるわしさは、この世のものではない。しばら佇立ちょりつしたが、とても短い時間で写せそうもないので割愛して進んだ。
 沢近く下ってまた上ると、ボツボツ藁屋根が見える、中には石をせた板屋根もある。白壁も見える、麦の畑桑の畑も見える、早川谷最奥の部落奈良田であろう。
 村に入ると、四、五人の子供が出て来た。いずれも目を大にして私を見上げ見下している。「異人だ異人だ」というのもある、「アンだろう」というのもある。無遠慮な一人はズカズカと傍へよって来て「オマイは誰だ」という、「この辺から白峰は見えるか」と問うと、「タケー見に来たのか、『メガネー』持ってるか、オマイの持っているのは何するンか」という「これは腰掛だ」と三脚を示したら、「コシイ掛けて、遠眼鏡でタケー岳見るのか」と肝心の山の見える見えないには答えもせでゾロゾロとあとについて来た。

      十

 二、三十戸の村を出ると、右に芦倉の峠がある。峠へ上って一里あまりもゆかなければ山は見えぬという。それよりもこの川上を左の渓へ入れば、白河内の山が見える。そのほうがよかろうと人に教えられて、早川に沿いて進む。四、五丁にして釣橋があるが、今は損じているので渡れない。河原へ下り危うき板橋を過ぎて対岸に移る。
 農夫が山奥の焼畑へ通うための、一筋の道を暫くゆくと、西岸の山が急に折曲って、日を背にしたため、深い深い紫色に見える、その前を往手にあたって、数株の落葉松からまつの若木が、真に燃え立つような、強い明るいオレンジ色をして矗々ちくちくと立っている。ハッと思って魅せられたように無意識に、私の手は写生箱にかかった。
 狭い道の一方は崖一方は山、三脚を据えるところがない。人通りもあるまいと、道の真中に腰を下した。落葉松の新緑の美しいことは、かつて軽井沢のほとりで見て知っている。秋の色としては、富士の裾野に、または今度の旅でも鰍沢の近くで、その淋しげな黄葉をゆかしいと思った。しかし私が、今眼前に見るような、こんな鮮かな色があろうとは思い及ばなかった。植物として私の最も好む山百合、豌豆えんどうの花、白樺、石楠花しゃくなげのほかに、私は落葉松という一つの喬木きょうぼくを、この時より加えることにした。
 一時間ほど筆を走らせて更に上流へと歩を進めた。五、六丁にして道は左の沢に入る。ここで早川の本流と別れて、この沢に沿うてなお深く入り込む、岸が尽きて危うき梯子はしごけたところもある。渓の上にただ一本の木を橋に渡したところもある。かかる山懐やまふところにも焼畑はあって、憐れげな豆やあわが作られている。そのまた奥には下駄を造る小屋もある。山人の生活は労多きものである。
 往けども往けども白河内の山は見えない。あの高きところへ上ればと、汗ぬぐいつつ辿たどりつけば、更に木立深き前山が、押冠さるように近々と横たわっている。道も漸く覚束おぼつかなく、終には草ばかりになってしまう、帰りの時間も気遣きづかわれる、足も痛み出した、山の見えぬのは残念だが終に引返すことにした。二十丁も戻って初めの沢近く来た時、ふと前面を見ると、例の落葉松の深林が背後から午後の日をうけてパッと輝いている。根元の方にも日の光は漏れて、幹は黒々と、葉は淡きバアントシーナを塗ったように、琥珀こはく色に透明して、極めてうるわしい。画きたい画きたいと、一度は三脚のひもを解いたが、帰り道の崖崩れを思うと、何となく急き立てられるようで、終に筆を採らずにしまった。
 危うい崖道も、来た時よりはらくに過ぎて、湯川近くに二日前の写生を続けた。二日前は曇った日で、今日は晴れている。調子はちがうが、日が傾いて谷は暗く、水色も同じに見えるので少し無理だが仕上げることにした。
 この日はかなり長い道を歩いた、膝の関節が痛い。

      十一

 下湯島の猟師に、大村晃平、中村宗平というのがある。烏水氏らの案内をして、幾度となく白峰の奥へ往った人たちだ。晃平は中風ちゅうぶう病で寝ている。宗平は山仕事が忙しい。宗平の弟に宗忠というのはこの夏山岳会の人たちの赤石縦走を試みた時、人夫として同行したという。その男は職業は大工でいま新潟の仕事に来ている。いろいろ山の話をきくと、下湯島の対岸を上ること一里半ほどで、六万平というところからは、井川の山々(白峰連嶺)、またその先の赤石の方までもよく見えるという。朝早く出れば夕方には帰れようというので、七日の朝、私は宗平を連れてそこにゆくことにした。
 晴れた日であった。写生箱画板など、いささかな荷物を宗平の背に托して、早川に沿うて下流へと歩を運んだ。道もせに咲き残っている紅の竹石花、純白の野菊、うす紫の松虫草などとりどりにうるわしい。上湯島の少し手前から河原に下りる、山崩れの跡が幾カ所かあった。道は平ではない。早川の水がかれて淵を成すところ、激して飛瀑ひばくを成すところ、いずれもよき画題である。長い釣橋を右に見てそれを渡らずに七、八丁もゆくと、黒い黒い杉の森が見える農家の屋根、桑の畑、水車、小流、そこが下湯島の村で、石垣に沿える小道を通って、私どもは宗忠の家に立よった。
 下湯島の村は、数年前全戸殆ど火の禍をうけたため、家は皆新しい。上湯島には萱葺かやぶきの屋根多きにここは板屋に石を載せて置く。家は小さいが木は多いから、さすがに柱は太い。村というても平地は殆どないが、ややゆるやかな傾斜地に麦が作ってある。畑の中には大きな石がゴロゴロしている。家の廻りにはくわ天秤棒てんびんぼう、下駄など、山で荒削りにされたまま軒下に積まれてある。
 宗忠は身仕度をして来た、なにか獲物えものもあろうというので一ちょうの銃も持っている。
 早川を渡ると、すぐ急傾斜の小さな坂で、その上は畑が作られて、麦の緑は浅い。石道をゆき、草の中をゆき、いよいよ雑木茂れる山にかかる。道は落葉に埋められ、今朝おりた霜の白きもあり、けてれたのもある。とかくすべり勝ちで足の運びは鈍い。
 山の傾斜がいかにも急であるために、道は右に左に細かくうてつけられてある。小さな沢を渡って十四、五丁ゆくと、樹は漸く太く、針葉樹も変っている。人の踏むこと少きためと、寒さの早いために、落葉は道を埋めて、二、三尺も積もっている。カサカサといたずらに音のみ高くて、泳ぐような足つきでは一歩を運ぶにも困難である。あまつさえ、二日以来足の痛みは、今朝宿を出た時から常ではないので、この急峻な山道では一方ひとかたならぬ苦痛を覚えた。途中の用意にもと、宿から持って来た「サイダー」を一口二口飲みながら上る。「サイダー」は甘味があり粘りがあって極めて不味ふみだ、かかる時は冷き清水に越すものはない、自然は山人に「サイダー」にもまさる清水を、惜気もなく与えているのである。漸くにして樹木のまばらなところへ来た。沢を隔てて遥かの木立に、カラカラと石の崩れ落ちる音がする。宗忠は木の切株に上って見つめている。羚羊かもしかか猿だろうという。カラカラという音は四辺の寂寥を破って高くきこえる。羚羊の姿が見えるという、を連れているという、しかしここからはあまりに遠くて、弾丸は届くまいと残念そうである。沢川の根というところは少しく平になっている、数年前会社で木をり出した時に、六尺幅ほどの林道を作ったその跡だという。道は今はなはだしく崩れて、人も通れぬが、この辺にはそれらしい様子は見える。
 西山連峰の上を、富士が高く現われている。北には地蔵薬師等の山々が、重なり合うて、前岳の大崩れは、残雪のように白く輝く、やや西へ寄って白河内の山が鮮かに姿を出している。ここで昼食をすませ、スケッチを試み、暫時休息した。
 目的地の六万平はなお半里の西で、これから往ったのではただちょっと見て来るだけで、絵など描いていては、温泉へ帰るのは夜になると宗忠は心配気にいう。足下あしもとの悪い道を夜になって帰るのは好ましくない。この辺に小屋があらば今夜は泊って、明朝早く六万平へ往こうと決心した。幸い半道ほど下に宗平の家の小屋があるというので、疲脚を鞭うって下山した。
 落葉の道は、上りよりも下りはいっそう歩み悪い、ともすれば辷りそうで、胸をとどろかしたことも幾度かある、来た道を右に折れてトンボの小屋へ着いたのは三時頃であったろう。

      十二

 トンボの小屋は、下湯島村から一里の、切立ったような山の半腹にあるので、根深き岩のすそを切込み、僅かに半坪ほど食い込ましてあとの半坪は虚空こくうに突出してある。極めて小さな、そして極めて危険なものだ。僅か一坪の平地すらないこの辺の地勢から考えても、その勾配の急なことが知れよう。
 ここは村から一番奥の焼畑で、あまりに離れているので、畑仕事の最中の俄雨にわかあめに逃げ込むため、また日の短い時分、泊りがけに農事をするためにこしらえた粗末な建物にすぎない。焼畑というのは、秋に雑木林を伐り倒し、春に火をかけて焼く。そして燃残りの太い幹で、一間置きまたは二間置き位いにさくを造って土留として、六、七十度の傾斜地を、五十度なり四十度なりに僅かずつ平にして、蕎麦そば、粟、ひえ、豆の類を作るので、麦などはとても出来ぬ。もしこの焼木の柵を離れたなら、足溜りがなくて、直立していることは出来ない。山なき国の人は畑は平なものと思っていよう。私もかつてはそう思った一人であった。この辺の人々は、畠は坂になっているものと思っていよう。田もない池もない、早川や湯川や、滝のように流るる姿を見ては、水も恐らく平のものとは考えていないかも知れない。
 焼畑は、その焼灰が肥料となって、三、四年は作物も出来る。それから後はそのまま捨ておいて、十七、八年目に更に同じことを繰返すのだという。
 宗忠は、暮れぬ間に湯島へ往って、今夜の食料を持って来るという。湯島へゆくなら何か駄菓子でも買って来よといえば、そんなものは村にはないという。砂糖でもよいといえば、正月か祭の時ででもなければ誰の家でも持たぬという、なるたけ早く帰りますと言捨いいすてて、猿の如く麓を目がけて走り去った。
 秋の西山一帯は、午後三時の日光をうけてギラギラとまぶしいように輝いている、常磐木の緑もあろう、黒き岩もあろう、黄なる粟畑もあろうが、それらは烈しき夕陽に、ただ赤々と一色の感じに見える。その明るい中を、トンボの小屋はちょうど山蔭にあるので、クッキリと暗く、あたかも切り抜いてはりつけたように、その面白き輪廓を画いている。私は兎の係蹄けいていの仕掛けてあるほとり、大きな石の上に三脚を立てて、片足は折敷いて、危うき姿勢に釣合つりあいをとりながら、ここの写生を試みた。

      十三

 輝き渡っていた西山も、しだいに影がえて、肌寒くなって来たので写生をやめ、細い道を伝わって小屋に来た、小屋には宗忠の父なる人がいて、火を燃して私を待っていた。遥かの谷底から一樽の水も汲んで来てくれた。
 小屋は屋根を板でいて、その上に木を横たえてある。周囲は薄や粟からで囲ってある。中は入口近くに三尺四方ほどの囲炉裡いろりがあって、古莚ふるむしろを敷いたところはかぎの一畳半ほどもない。奥の方には岩を穿うがって棚を作り、鍋やら茶碗やら、小さな手ランプなどの道具が少しばかり置かれてある。部屋の隅にはあぶらに汚れた蒲団ふとんが置いてある。老人はややみにくからぬ茣蓙ござを一枚敷いてくれた。私は草鞋を解いて初めて快よく足を伸した。
 日のくれぐれに一袋の米と味噌みそを背負って宗忠は帰って来た。ここは狭いから老人は下の小屋へ泊るというて、何やら入った袋をさげて下りてゆく。宗忠は鍋の中で米をぐ、火にかける、飯が出来たらそれを深い水桶にあけて、その跡へは味噌をとき、皮もむかぬ馬鈴薯ばれいしょを入れて味噌汁をつくる。私の好奇心は、宗忠の為事しごとに少からぬ興味を覚えた。
 戸外に足音がする、明けて見ると、闇の中を宗忠の兄の宗平が帰って来た。六万平近く山仕事をしていたが、夕方に出た雲が気になるので帰って来たのだという。雲とは何、せっかく山中に泊って雨では困るが、これも詮方せんかたがない。
 三人で食事にかかる、手ランプには少し油があったので、それをともす。写生箱は膳の代りとなり、筆ははしになる。二つのふちけた茶碗、一つには飯が盛られ、一つには汁がつがれた。宗平兄弟は「メンパ」とよぶ弁当箱を出して、汁を上から掛けては箸を運ぶ。
 土もついているらしいいもの汁も、空腹すきはらには珍味である。山盛三杯の飯を平げて、湯も飲まずに食事を終った。彼らの手にせる「メンパ」というのは、美濃方面で出来る漆で塗った小判形の弁当箱で、二合五しゃく入りと三合入りとある。山へ出る時は、二つもしくは三つを持ってゆくという。彼らの常食は、一日七、八合、仕事に出た時は一升が普通だときいては、如何に粟や稗の飯でも、よく食べられたものだと感心する。

      十四

 山小屋の秋の一夜。私はツルゲネフの『猟人日記』を思いうかべつつ、再びうことの難かるべきこの詩的の一夜を、楽しく過さん手段を考えた。
 窓近くに鹿が鳴いたら嬉しかろう。係蹄で捕れた兎の肉を、串にさして榾火ほたびで焼きながら、物語をしたら楽しかろうと思った。囲炉裡いろりの火は快よく燃える。銘々めいめい長く双脚を伸して、山の話村の話、さては都の話に時の移るをも知らない。
 宗平は真鍮しんちゅう煙管キセルたばこをつめつつ語る、さして興味ある物語でもないが、こうした時こうした場所では、それもおもむきふかくきかれたのであった。
 猟の話から始まる。
 昔は、羚羊も、鹿も、猪も、熊も、猿も、狼も、里近くまで来た、その数も多かったが、近頃は殆ど姿も見せぬという。猿は山畠に豆をとりに来るが、その数も少くなったという。数年前、信濃の猟師が、この山で大熊を捕えたが、格闘のとき頬の肉を喰い取られた。熊は百金に代えられたものの、頬の治療に八十五円を費やし、結局三、四ヶ月遊んだだけの損であったという。
 湯島村の経済に話は移る。
 貧しい村で、農産物は少しばかりの麦、粟、稗、豆のたぐいと、僅かの野菜にすぎぬが、それでも村で食うだけはある。いずれも山畠で、男の児は十二、三になれば、夏は一日一度は山畠に出る。砂糖もなく、菓子もなく、果物もない、この土地の子供は気の毒なものだ。夏の野に木苺きいちごをもとめ、秋の山に木通あけび葡萄ぶどうつるをたずねて、淡い淡い甘味に満足しているのである。
 家々の生活は簡単なもので、醤油しょうゆなければ、麦の味噌はすべてのものの調味をつかさどっている。鰹節かつおぶしなどは、世にあることも知るまい、梅干すらない。
 早川はあっても魚は少い。このように村は貧しいが、また天恵もないではない。湯島の温泉から年々いくらかの税金も取れる、早川から冬は砂金が採れる。交通が不便のお蔭に物入りもなく、貧しいながらも困っているものは一人もないという。この兄弟も、銘々懐中時計を持っている。宗忠の家にも大きなボンボン時計があった。
 このように、碌なものは食わないが、それでも皆丈夫で、医者は一人もいないが病人もない。奈良田でも湯島でも、徴兵検査に不合格は殆どないと誇っている。
 牛を知らぬ、馬を知らぬ、人力車、馬車、自動車、汽車、電車、そんなものは見たことがない、車というのは水車のことで、小舟さえないから、汽船も軍艦も画で想像するばかり、もちろん白峰の頂上へでもゆかなければ海も見えない。東京を西にへだたること僅かに三十里、今もなお昔のままの里はあるのだ。

      十五

 話に実が入って夜は十一時になった。便所はときくと、この小屋のたにに向った方に板がある。その上からという。「ろうマッチ」をてらして辛うじて板の上へ出たが、絶壁にも比すべきところに、突き出された二本の丸太、その上に無造作に置かれた一枚の薄板、尾瀬沼のそれにも増した奇抜な便所に、私は二の足を踏まざるを得なかった。空はと見上げれば星一つない。雲の往来も分らぬ、真の闇でそよとの風も吹かぬ夜を、早川の渓音がかすかに、遠く淙々そうそうと耳に入る。
 たきぎは太きものがおびただしく加えられた、狭きところを押合うように銘々横になる。宗平と宗忠は、私に遠慮して、入口近く一団となって寝ている。枕は「メンパ」であろう。宗忠の持ってきた怪しげな縞毛布が、二人に一枚かけられてある。私は、彼らが手にとって見て、ゾッキ毛糸だと驚いたあつ羅紗らしゃの外套を着たまま、有合せの蒲団を恐る恐るかけた。枕は写生箱の上に、新しい草鞋、頭が痛いので手袋を載せた、箱が辷って工合がわるい。
 いずれも足は囲炉裡の中へ、縮めながらも踏込んだままだ。榾火が消えかかると、誰か起きては薪を加える、パチパチと音して、暫くは白い煙がたつ、パッと燃え上る、驚いて足を引っ込めるが、またいつか灰の中に入って、足袋の先をがすのであった。
 小屋にはとこはない、土の上にむしろを敷いたばかりだが、その土は渓の方へ低くなっている。囲炉裡に足を入れていては、勢い頭は低い方に向く、頭の足より低いのは、一体心地ここちのよいものではない。身体は崖の方にズリ下る、ズッてズッてそのまま早川渓へち込むような気がして、夢はいく度となく破れる。何やら虫がいて、襟から手元から、そこらあたりがむずがゆい。右を下にした、左を下にした、仰向あおむいても見た、時々はわれ知らず足を伸ばして、薪木を蹴り火花を散し、驚いて飛起きたこともあった。
 宗平兄弟も、いびきの声はするがよくは眠らぬらしい、絶えず起きては火を消すまいとする。おかげで少しも寒さを覚えなかった。サラサラと板屋をうつ雨の音がする。はげしくは降らぬが急にみそうにもない。井川の山々は、何故私に逢うのを嫌うのだろうと情なくもなる。

      十六

 無造作に押よせた入口の草の戸、その隙間すきまから薄明りがさして、いつか夜は明けたらしい。起きて屋外へ出たが、一面の霧で何も見えない。西山東山、そんな遠くは言わずもがな、足許あしもとの水桶さえも定かではない。恐しい深い霧だ、天地はただ明るい鼠色に塗られてしまった。
 顔を洗うことは出来ない、僅かに茶碗に一杯の水で口をすすいで小屋に入る。宗忠は飯を炊き始める。水桶に移すと、今度は宗平が飯を炊く、見ると湯の沸いた中へ、一升ばかりの粟を入れる。村では少しの麦を加えるそうだが、山上では粟ばかりだという。どんな味かと聞たら、温いうちはよいが、冷えたらとても東京の人には食べられまいという。
 今朝は汁もない、辛い味噌漬二切で食事をすます。
 暫く焚火を囲みながら、天気の模様を見る。
 霧は晴れそうにもない。沢のほとり、林のあたりで、何やら冴えた声で鳥がく。うっとりとよい心持になる。歌舞伎座も八百膳も用はない。このまま一生ここにいても悪くはないと思う。が、そうもならない、この霧は昼過ぎにでもならねば晴れまいという。残念だが六万平を思い捨てて湯の宿へ帰ることにした。
 霧の中を下へ下へと急ぐ、急に明るくなって、遠くの山が一角を現わすかと見ると、忽ち暗くなって、すぐ前の林をかくす、歩一歩、早川渓の水声が高くなって、吾らはいつか宗平の家の前に立った。
 俄に雨が降り出したので、洋傘を借りて、霧繁き草道を、温泉へ帰ったのは十時頃であった。
 昨夜帰らないので、宿では迎いを出そうとしたそうだ、しかし宗忠もついているから、たぶん湯島へ泊ったことと、終に見合せたといっていた。
 生温くとも湯に入った心持はわるくはない。

      十七

 九日には曇っていたが、降りそうにもないので、前日見ておいた湯島河原の小流を写そうと思って、九時頃から出かけた。上湯島に渡る釣橋の手前で、河原を少し跡へ戻ると若杉の森があって、その下に細い流れが見える。流れにおおい冠さっている秋草の色がうるわしい。ここでほしいまま画を描きはじめて四、五時間を送った。
 十日には出発の予定であったが、朝起きて見れば、すさまじき大雨で終に見合わせた、昨夜は満天に星が輝いていたのに、秋の空は頼みがたいものだと思う。
 清かりし湯川の水も濁り、早川は褐色に変って、水嵩みずかさも常に幾倍して凄い勢いであった。
 湯島温泉の長所は、気候の温和なため、秋の紅葉が長く見られること、宿の気の置けぬことなどで、短所は、ちょっと出るにも武装をせねばならぬ不便、郵便のおそきこと、物価の安からぬことなどである。夜に入って大風吹きすさみ、こずえを鳴らし枝を振う、紅葉黄葉、恐らくあとかたもなく早川の流に乱れて、遠く遠く南の方に去り、一夜にしてこの渓を冬に化せしめしことならんと思いつつ夢に入る。

      十八

 十一日は、霧の間に所々鮮かなコバルトの空も見えた。宿を出たのは八時半、峠の上までというので、宿の若い人に荷物をたのむ。来路を避けて七曲峠を、池の茶屋へ出で、鰍沢に向うのである。
 天長節に上った峠、それと同じ道で、通例曲折の烈しきところを、よく九十九折つづらおりなどと形容するが、ここは実に二百余を数えた。あいにくの霧は南の空を掩うて、雪の峰は少しも見えない。
 一里ほどでつがの林となる、ジメジメと土は濡れて心持がわるい。折々白い霧は麓から巻き上げてきて、幹と幹との間を数丁の隔たりに見せる。峠を越して少し下り道のところで若者に別れ、これからは独りでかなり重い道具をかついでゆく。何処どこも霧で、数間先もよく見えぬ、心細いこと夥しい。
 雨後奇寒のために出来た現象であろう。道端の木々の枝は、たまと連なる雨水が、皆凍って、水晶で飾ったように、極めてうるわしい。木の葉には、霧は露となり、露は凍って、氷掛けの菓子のようになって、枝にしがみついている。時ならぬ人の気配に驚いてか、山鳥が近くの草叢くさむらから飛出す。ハタハタと彼方に音するのは、鳩であろう。山毛欅ぶなの大木にから藤蔓ふじづる、それをあなたこなたと跳び走っているのは栗鼠りすである。
 熊笹を分けて一筋道をゆくと、往手に新しい家が見える、飴の茶屋というのはこれであろう。戸は閉されてだれも人はおらぬ。青柳へ下って帰らぬので、冬は大かた里にいるという。
 茶屋の前から道は三筋に分れる。池の茶屋へゆくもの、デッチョーの茶屋へ向うもの、他の一つは奈良田へゆくのである。私は左を取って池の茶屋へ向った。
 空模様はだんだんよくなり、折々はパッと日が照らす。山腹の岨道そわみちを何処までもゆく、少しずつの下りで足の運びは早い。
 湯島から三里も来たころ、枝振えだぶりよき栂の枯木を見つけて写生する。すぐ近くの笹の中では、藪鶯が一羽二羽、ここに絵筆走らす旅人ありとも知らで、ささきの声がせわしない。
 池の茶屋に着いたのは一時半であった。

      十九

 山陰の窪地に水が溜っている、不規則な楕円形の、広さは一反歩もあろう、雑木林に囲まれて水の色は青い。湯島のお吉さんは凄い池ですといったが、枯木林の中にあったのでは、一向凄くも怖しくもない。茶屋に荷物を預けて、ジクジクした水際の枯草を踏み、対岸に廻って写生箱を開いた。
 破れかかった家は、水に臨んでその暗い影を映している、水の中には浮草の葉が漂うている。日は山蔭にかくれて、池の面をわたる風は冷い。半ば水に浸されている足の爪先は、針を刺すように、寒さが全身に伝わる。思わず身慄みぶるいするとき、早や池の水は岸近くから凍り始めて、家の影はいつか消え失せ、一面磨硝子すりガラスのようになる。同時にパレットの上の水が凍って絵具が溶けない。筆の先が固くなる。詮方なしに写生をやめた。
 池の茶屋というのは、この冷い水のほとりに建てられたるただ一軒のあばら家である。入口の腰障子を開けて入ると、すぐ大きな囲炉裡がある。囲炉裡の中には電信柱ほどもある太い薪木がくすぶっている。上に吊された漆黒な鉄瓶には、水の一斗も入るであろう。突当りは棚で、茶碗やら徳利やら乱雑にならんでいる、左の方は真暗で分らないが、恐らく家族の寝間であろう、ここでも飴を売るかして、小さな曲物が片隅に積んである。
 おかみさんはたらいに湯をあけてくれた、凍りきった足にはまたとなく快よい。通されたのは池に面した座敷で、かたばかりの床の間もあれば、座敷ともいえようが、ただ五、六枚の畳が置いてあるというだけで、障子もなければふすまもない。天井もない。のみならず、数十羽の鶏のねぐらは、この部屋の一部を占領して高く吊られてある。
 五、六枚畳んで重ねられた蒲団の上には、角材をそのまま切って、短冊形の汚れた小蒲団をくくりつけた枕が置かれてある。その後の柱には、この家不相応な、大きな新しい時計が、午後三時を指している。床の間には、恐れ多くも、両陛下の御肖像を並べて、その下に三十七年宣戦の詔勅が刷られてある。そして床の落し掛けから、ホヤの欠けた、すすけたランプが憐れっぽく下っている。
 主人夫婦に子供二人、その姉娘は六ツばかりになろう。この「ボコ」はその名を「よしえ」とよばれて、一方ならぬお茶ッピーだ。小さな火鉢に、榾火ほたびの燃き落しを運んで来る。「官員サンに何か出さねーとわるいぞよ――、小寒いに――、火でもくれないとわるいぞよ」という。洋服を着けた人は誰でも官員サンである。

      二十

 よしえのいう通り、この小寒いのに、少しばかりの消炭ではやりきれない。灰が起つので帽子を冠ったまま囲炉裡の傍へゆく。退屈紛れに、このお茶ッピーでもと思って、スケッチブックを出す。おかみさんはこれを見て「よしえ早く隠れろ!」と、けたたましい声で叫ぶ、「そんな見ぐさい風して写されては叶わんぞ。池の茶屋の『ボコ』はこんなだと、東京へ持って帰って話されたら困るに、早や着物を着かえさすに、こっちへ来う」という、「あの黄八丈の着物かや」とよしえは大喜びだ、大変なことになってしまった。明日だ明日だと、私は大急ぎにスケッチブックをたもとしまった。
 亭主は小さな「ボコ」を抱いて、囲炉裡で飯をかしぐ。おかみさんは汁を造るべく里芋を洗う。そして皮つきのまま鍋の中に投げ込む。塩引鱒が焼かれたが、私はそんなものに用はない、宿の人たちとともに、焚火の傍で夕食をすました。
 亭主は突然口を切って、「平林から先年東京へ出た人があるが、東京も広いそうだから御存知あるまい」という。「有名な人か」と聞いたら、「村で失敗して、夜逃げのようにして往ったのだ」という。人口二百万という数は、この人たちには見当がつくまい。東京を鰍沢の少し大きい位いに思っているのかもしれぬ。
 おかみさんは、「れは何の願いもない、たった一度でいいに、東京を見て死にたい」という。おしゃべりの「ボコ」はすぐ口を出す。「俺ら東京へゆくぞよ、東京へ往って、年イ拾うてデカくなるンぞ、俺ら年イ拾うてデカくなると、カッカはバンバになるぞ」という。
 話はそれからそれへと移る。平林の村は殆ど日蓮宗であること、自分たちは冬になると平林へ帰ること、池の傍だけに寒さの強いということ、この池から氷が採れる、厚く張る時は二尺を超える、一尺の氷の下に置いた新聞も読めるほど透明であるということ、これから先は、毎日この家に日はあたらぬ、雪もかなり深いということ、先年東京から祭文さいもん語りが来て、佐倉宗吾の話をした時、降り積む雪は二尺あまりというたので、気早の若者は、馬鹿を吐け、山の中じゃああるまいしと、大いに怒ってなぐりつけたという。「東京でも所によると二尺位い積った年もあった」というたら、亭主は「へへー、それじゃ祭文語りは可愛想かわいそうでした」と大笑いをした。
 おかみさんは、商売物の水飴をはしに巻いてはしきりにすすめる。「よしえボコ」は絶えず口を動かしていたが、終にゆかの上から入口の土間に小用して、サッサと寝床へ入ってしまった。
「寒いおめはさせません」と、おかみさんは、小ざっぱりした蒲団を出して、幾枚も重ね、幾枚もかけてくれた。寝衣はないから、外套を脱いだばかり、着のみ着のままで横になる。雨戸もない窓の障子の、透間から吹き込む風はかなり冷い。

      二十一

 早川の山小屋よりも寝心地が悪い。柱時計の音は、十を数え十一を数え、十二を数えた。山中の夜は静かで、針を刻むセコンドは殊更に冴えて耳元に響く。やがて一時が鳴る。すぐ上のねぐらでは一番鶏がく。ウトウトしながらも、二時三時と一つも聞き洩さずに一夜を過した。
 窓が白む。ランプが消される。囲炉裡からは白い煙が立つ。一同が起きた。昨夜と同じく、榾火ほたびにあたりながら朝食をすます。「よしえ」は母親を急き立てて、黄八丈を出せという。昨日のことを忘れないのだ。母親も忙しい中を、剃刀かみそり出して「よしえ」の顔をる、髪を結ぶ、紅いリボンをかける。木綿の黄八丈はいつの間にか着せられて、友禅モスリンの帯が結ばれた。座蒲団を敷いてチョコンと座って「サー官員サン写してもらうぞえ」とあごを突出し、両手を膝の上に重ねた。
 絶体絶命、モデルの押売、今更いやともいえない。スケッチブックを出して簡単な鉛筆写生、赤いのや青いのやを塗りつける。どうしたはずみか顔がよく似たので、当人よりは両親のほうが大喜びだ。手帳から引き裂いてやる。寒い朝で、池の氷は二寸も厚さがある。戸外は真白な霜だ。前の山に上ると富士がよく見える。雪は朝日をうけて薄くれないに、前岳はポーと靄がめて、一様に深い深い色をしている。急いで写生する。
 写生が終って、ふと西の方を向くと、木立の間から雪の山がチラと見える。思いがけない、もっと高いところをと見廻わすと、茶屋の後に大きな草山がある、気もそぞろに駈け上る。元より道はない。枯草を分け熊笹の中を押してゆく、足元からにわかに二つの兎が飛び出す。そんなものには目もくれず上へ上へと進む。汗はタクタク流れる。熊笹は尽きて雑木の林になる。つたからむ、いばらとげは袖を引く、草の実は外套からズボンから、地の見えぬまで粘りつく。
 辛うじてかなりの高所へ出た。栂の根元の草の中に三脚を据える。前に見えるのは悪沢と赤石で、右に近いのは御馴染おなじみの白河内らしい。他は近所にある小山にさえぎられて、残念ながら目に入らない。二時間ほどにして山を下った。
「官員サンの黄八丈は、草の実が一ペエだ、俺らハタいてくれるぞよ」とよしえは丈よりも高いほうきを持って来た。囲炉裡の側で昼食をたべる。昨夜と同じ里芋汁だ。昨夜も今朝も、薄暗らがりのなんとも思わなかったが、昼間見ると、茶碗の底に泥が沈んでいた。

      二十二

 池の茶屋を出たのは一時過ぎであったろう。これからは平凡な下り道ではあるが、荷が重いので休み休みゆく、道には野菊、蔓竜胆つるりんどうなど、あまた咲き乱れてうるわしい。彼方是方に落葉松の林を見る。奈良田のそれに比して色劣れど、筆らまほしく思わるるところも少からずあった。池の茶屋より二里あまりにして、四時頃平林の蛭子えびす屋という宿に着いた。
「農事に忙しい時嫁は風邪で寝ています。一向お構い申されませぬ」とクドクドいいながら、六十ばかりの婆さんが洗足の水をとってくれる。通されたのは奥の十畳、昔は立派な宿屋らしく造作も悪くはない。
 座敷の正面には富士が見える。よく晴れた夕で、緑色の空に浮出した白雪は紅色に染められた。刻一刻、見る間に色はせて、うす紫に変るころには、空もいつか藍色を増して暗く、中天に輝やく二、三の星は、明日も晴れぞと、互いにまばたきして知らせあっている。
 膳を運び、飯櫃めしびつを運んで来た婆さんは、「どうぞよろしく」とそのまま引き下がった。見ればこれも旧式の、ひらもあれば壺もある、さすがに汁には泥も沈んでいない。快よく夕飯を終りて、この夜は早くより寝床に入った。湯島では一日に二度ずつも入浴した罰で、今晩も風呂はなかった。

      二十三

 十三日はうす曇りであった、富士はおぼろげに見える。
 平林の村は、西と北とに山を負うて、東がひらけている。村の入口から出口までダラダラの坂で、道に沿うて川があるため、橋の工合、石垣のさま、その上の家の格恰かっこう、樋、水車なんどが面白い。下から上を見ると、丘の上に寺があったり、麦畑が続いたり、ところどころ流れが白く滝になって見えたりする。上から下を臨むと、村の尽くるところに田が在る、畑がある、富士川の河原の向うには三坂女坂などの峠が連なって、その上に富士が見える。大きな景色もあるが、小さな画題は無数である。
 鎮守の鷲尾神社にゆく、二百階も石段を登ると本社がある。甲州一と里人の自慢している大杉が幾株か天を突いて、鳥一つ啼かぬ神々こうごうしき幽邃ゆうすいの境地である。
 社前に富士を写す。すぐ前の紅葉せる雑木林がむずかしい。去って村の水車の傍で、白壁の土蔵を写す。
 夕方宿へ帰る。農家の忙しい時で、家には誰もおらぬ、草鞋を脱ぎ座敷へ戻っても、火も茶も持って来ない。御客の帰ったのも知らぬからで、暢気のんきなものである。
 翌朝は天気、居ながらにして見る富士はうるわしい。ばあさんは朝のお茶受にとて、花見砂糖を一鉢持って来た。

      二十四

 十四日の八時半平林を発足して、山際を川に沿うて下ると、一里ほどで舂米という村に出た。人家二、三十、道路山水としては格別面白くはないが、川沿の柳の色がいかにもよいので、三脚を据えた。
 川には殆ど水がない。その岸にある四、五本の柳は、明るいオレンジの色をして並んでいる。背景は甲州盆地の平原で、低い山がうす霞んで、ほんのりと紅味を帯びた空は山にも木にもよく調和していた。何処を見ても物の色はい。暗く影の深い鎮守の森、白く日に光る渓川の水、それをいろどるものは秋の色である。高くもあらぬ西山の頂きは、もはや冬で、秋はこの麓の一画に占められている、道もせの草にもその色はある。
 青柳の町を、遥かに左に見て、堤の上をゆく。槻の並木の色はくらぶるものもないうるわしさである。堤の尽くるところに橋がある、鰍沢の入口で、ここにまた柳を写生した。
 粉奈屋へ帰ったのは午後の二時。
 富士川通船の出るあたりに往って見たが、絵になるような場所はない。
 十五日は曇っていた。七時半に馬車へ乗り、甲府へ向う。白峰はチラチラ頭を出す、乗合の人は、甲府の近所から越中の立山が見えるという。
 甲府を十一時発の汽車で東に向う。雲が深くなったので白峰は見えない。沿道の紅葉は少し盛りを過ぎたのか、色が悪い。
 汽車の窓から外の景色を見ると、どんなところでもよくまとまって見える。窓一つ一つが立派な絵になる。すると、甲府から東京まで、何万枚の絵でも出来そうなものだが、さて汽車から下りて見ると、絵にするところは存外少い、なぜであろうか。
 車窓から見て、どこでも面白く感ずるのには、種々な原因がある。一つ一つ絵に見えるのには条件がある。仕切りのあるということ、速く走ること、遠くを見ることで、汽車が停まっていてはあまりよく見えない。仕切りのあるのは、見取枠から見たように、図の散漫を防ぐ。速かに走るために、いつも主要ものばかり目に入って、細かいうるさい物は、見る間もなく過ぎ去ってしまう。距離が遠いために、深夜、即ち奥行が充分で、自己の位置が高いために、広い場所が見え、それが車の速力で、よく纏まって見えるからであろう。こんなことを考えているうち、いつか汽車は新宿に着いた。
(明治四十二年十一月)





底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「みずゑ」
   1910(明治43)年5月
初出:「みずゑ」
   1910(明治43)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の署名は「汀鴎」
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について